心に残る一冊 その11 Intermission「碁と沖縄とウィスコンシン」 

私は樺太生まれ。1945年の終戦直前北海道の美幌に引き揚げてきました。国鉄にいた父の異動で道内を転々としました。道立旭川西高校から北海道大学へ、そして1965年に卒業し、その後埼玉で生活しながら立教大学で学び、しばらくして沖縄で幼児教育を始めるために1971年にパスポートと予防注射を受けて琉球政府統治の沖縄に行きました。本土復帰の前年のことです。琉球政府文教局の人が沖縄の幼児教育の振興のためにと、設置基準をゆるめて幼稚園を認可してくれました。

沖縄は昔から囲碁が盛んです。江戸の中期、琉球が朝貢のとき同行していた親雲上浜比嘉(ペーチンハマヒガ)が三田にあった島津藩邸にて四世本因坊道策と四子局でうったという記録があるくらいです。1970年代、沖縄の囲碁界には下地玄忠五段という地元紙沖縄タイムスの囲碁欄を40年余りも執筆していたという伝説的な棋士がおられました。現在日本棋院に所属する下地玄昭七段はそのご子息です。沖縄からは時本壱九段、その弟子に新垣武九段、新垣朱武九段、知念かおり四段がいます。残念ながら私は仕事にかまけて、囲碁を楽しむ余裕がありませんでした。これが私と囲碁のつながりでの第一の悔やまれるできごとです。

時代を経て1977年に那覇東ロータリークラブから推薦を受け国際ロータリークラブから奨学資金を頂戴しました。家族を連れてアメリカは中西部にあるウィスコンシン大学へ行くことになりました。大学構内に湖を背景とした堂々たる学生会館(Memorial Union)があります。劇場、宿泊施設、会議場、宴会場、三つのレストラン、アイスクリーム・スタンド、談話室などが完備されています。その一角で中国人か韓国人と見受けられる留学生グループが碁をうっていました。対局したいという気持ちが疼いたのはもちろんです。ですが私は研究とアルバイトで家族を支える不如意な暮らしをする留学生でしたので、この人々に加わることはできませんでした。これが第二の悔やまれることです。

幸い1983年に学位を貰い、それから横須賀にある文科省関連の研究所で10年、その後兵庫県にある小さな教育大学で10年働くことができました。ですがこの二つの職場でも囲碁をする機会はほとんどありませんでした。これが第三の悔やまれることです。「人間万事、塞翁が馬」のように運不運はつきものです

思えば棋力を伸ばす大事な時期を逃したのが、30代から40代にかけての沖縄とウィスコンシンでの生活です。今、毎日数時間は碁の本と碁盤の上を徘徊しているのですが、かつて語学やさまざまな知識をパタンとしてスイスイ獲得できたときのような興奮は体験できません。棋力も学力も小さいときからの絶え間ない学びがないと伸びないのです。「発達や進歩には時がある」ということでしょう。