北方領土を考える その九 単冠湾と山本五十六

通常ならばとても「ひとかっぷわん」とは読めない地名が単冠湾です。択捉島の太平洋に面しています。湾口の幅は約10kmといわれ、天然の良港といわれます。ヒトカップとはアイヌ語で「山葡萄の樹皮」を意味します。hat(山葡萄)とkap(樹皮)の合成地名です。

1941年11月23日に大日本帝国海軍第一航空艦隊という機動部隊が密かにこの湾に集結し、同26日に真珠湾攻撃のため部隊がハワイへ向け出港した場所として知られています。当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六らが練りに練った戦術が真珠湾攻撃という先制攻撃です。

山本五十六のことです。1918年から、当時から世界的に流布していたナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)を購読していたというのですから並の軍人ではありません。1919年4月に35歳の若さでアメリカ駐在を命じられ、ハーヴァード大学(Harvard University)に留学します。アメリカ滞在中は各地を見聞し、多くの油田、大規模な自動車産業や飛行機産業など、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受けたといわれます。アメリカの国力を知ることとなった留学経験がアメリカとの戦争に反対するきっかけとなります。

1929年11月には海軍少将に昇進し、ロンドン軍縮会議(Conference of the Limitation of Armament, London)に次席随員として参加し、軍縮案に強硬に反対するような気骨ある軍人だったようです。軍縮案の採択によってアメリカと日本の軍備力や国力の差が開くことを予見していたはずです。

帝国海軍の劣勢とアメリカ海軍の優秀さを知っていた山本は、もしアメリカ戦うとしたら、空襲による先制攻撃をし、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出るほか勝ち目はないと考えていたといわれます。戦争が長引けば圧倒的な国力の違いで日本は負けると見通していたのです。こうした正確な判断によって、山本の慧眼さはやがて各国から賞賛されることになります。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊(Baltic Fleet) を迎え敵前回頭と丁字戦法を考えた秋山真之参謀らの活躍も思い出されます。

北方領土を考える その二 国後島と択捉島とアイヌ語

プーチン大統領と安倍総理との山口と東京における鳴り物入りの会談が終了。ロシアは「人たらしの術」によって北方領土はにべもなく、双方は四島については「特別制度による検討」、「共同経済活動」とやらで合意したそうです。経済協力先行を主張するロシアの手練手管に翻弄されたようです。

日露首脳会談

北方諸島の名称のことです。アイヌ語で「草の島」を意味するのが「国後」。アイヌの人々は「キナシリ」と呼んでいました。アイヌ語で「岬のあるところ」を意味するのが「択捉」。アイヌの人々は「エトゥ・ヲロ・プ」と呼んでいました。

択捉島の中心は紗那、しゃな、という部落でした。アイヌ人は「流れ下る川」を意味する「サンナイ」と呼んでいたとされます。戦前生まれの人なら択捉島を知らなくて単冠湾を知っているでしょう。そうです。真珠湾攻撃前に極秘裏に帝国海軍の連合艦隊が集結した場所です。アイヌ語で「ヒトカップ」と呼ばれました。ヒトカップとは「山葡萄の樹皮」を意味したようです。

国後島に住んでいたアイヌ人が「チャチャ」、または「チャチャヌプリ」と呼んでいた山があります。チャチャには「爺々」という当て字がついています。「チャチャヌプリ」とはアイヌ語ではお爺さんの山という意味だそうです。

樺太ですが、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味する「ヤンケモシリ」と呼ばれ、 北海道アイヌ語では「カラプト」と呼ばれたようです。江戸末期、松前藩の記録には「唐渡之嶋」とあるようです。

私が樺太で生まれた町は真岡(まおか)の由来です。真岡はアイヌ語で「マオカ」。その意味は「静かな場所」、もう一つは「マ・オカ」で川口が入江になっている海岸という意味だそうです。今はホルムスクと呼ばれています。最も大きな町は豊原でした。豊原の旧名は「オロコトイ」です。アイヌはウイルタ族をオロッコと呼んでいました。オロッコ・トイ(オロッコ族・原)からきた地名とあります。

先住民族のアイヌ、オロッコ(Orok)、ギリアーク (Gilyak)は北方諸島の地名と切っても切り離すことができません。