北海道とスコットランド その16  なぜスコットランド人が日本へ来たのか その3

イギリスの日本への関わりの続きである。日英同盟の締結は日本が世界の舞台に登場するきっかけとなった事件であった。それに先だつ激動の足跡を調べてみる。

1862年にはイギリス書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)が来日する。彼の日本滞在は通詞としての1862年から1883年と駐日公使としての1895年から1900年に及ぶ。外交官としてその活躍は明治政府からも一目置かれたといわれる。

1862年に薩摩藩士によりイギリス人が殺害される横浜鶴見での生麦事件が起きる。イギリス公使代理のエドワード・ニール(Edward Neale)は、幕府との賠償や処罰などの交渉にあたる。1863年には井上聞多、伊藤俊輔、後の井上馨、伊藤博文など長州藩士5名が藩命としてイギリスへ留学する。サトウはグラバーらと共にそうした橋渡しもする。1863年には薩英戦争が起きる。この戦争の終結により英国が薩摩藩に接近することになる。

続いて1864年に下関戦争が勃発する。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠する。そして1868年の明治維新である。その年、明治新政府軍と旧幕府軍とで戊辰戦争が起きる。いわば日本の内戦である。そのとき、イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は戊辰戦争で中立を装いながら、実質的に明治新政府を支援する。パークスは幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務める。

その間、1872年には岩倉使節団によるアメリカやイギリス訪問がある。この一行はイギリスには4か月滞在したという。この使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして後年津田塾大学を作った津田梅子らも加わる。

日本はさらにイギリスとの関係の強化につとめる。そこには両国には共通の懸念、ロシアの拡張主義政策があった。この懸念が両国を結びつけていく。1902年に日英同盟ができる。1904年には日露戦争が勃発する。このとき戦費の調達のためにイギリスの銀行などが日本国債を購入するなど、日本はイギリスから支援を受けることとなった。1911年には日英通商航海条約の改正がなされ、条約上の不平等が解消される。さらに1914年には日英同盟に基づき、日本も第一次大戦に参加し、巡洋艦を地中海に派遣する。その年、ドイツの租借地であった清の青島をイギリス軍とともに占領する。

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    Ernest Satow          津田梅子

北海道とスコットランド その11  スコットランド人の活躍は続く その4 エドモンド・モレル

エドモンド・モレル(Edmund Morel)1876年にお雇い外国人として来日。主として官設鉄道工場の監督(Locomotive Superintendent)などを歴任して、1897年まで在勤したスコットランド人である。スコットランド人は伝統的に職を求めて海外に渡った。中世では傭兵として大陸に渡り現地化した。18、19世紀の移民運動の中で学識と技術を有して海外に進出する。モレルもその一人であった。

明治の初頭、イギリスの駐日公使であったハリー・パークス(Harry Parkes)の推薦によって日本にやってきた。そして工部省に雇われる。その働きを評価され技師長である建築師長に任命される。さらに工部卿であった伊藤博文に近代産業と人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出している。また大蔵卿であった大隈重信とは協議のうえで、日本の鉄道の線路幅を今の狭軌に定めている。

1872年に日本最初の鉄道は新橋と桜木町の間に造られた。枕木はもともと鉄製にする予定であったが、森林資源の豊富な日本の木材を使うことにしたのもモレルである。さすがに線路と機関車はイギリスから輸入した。このように国内の天然資源を活用することによって、産業の育成に貢献することになったといわれる。鉄道関係の技術者の養成にも熱心だったという。

モレルは来日前から結核で苦しんでいたといわれる。最初の鉄道開通記念行事の後、間もなく彼は横浜で亡くなる。中区山手にある外国人墓地内はモレルの墓所となっている。桜木町駅近くにはモレルを記念した「モレルの碑」が「鉄道発祥記念碑」とともに設置されている。新橋日比谷口に蒸気機関車が展示されているのもモレルを記念するからである。「日本の鉄道の恩人」と賛えられている。

こうしたスコットランドの技術者から薫陶を受けた弟子らがやがてスコットランドに留学し、世界最新の技術を誇った機械、造船、鉄道、電信、土木などの科学技術を習得し、その後の日本の近代化に貢献していく。

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