日本にやって来て活躍した外国人 その三十九  アーネスト・サトウ

ロンドン生まれのアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)は、ルーテル派(Lutheran)の宗教心篤い家柄で育ちます。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College, London)で学び、在日本英国公使館の一等書記官であったローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)が著わした「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたといわれます。1861年にイギリス外務省の領事部門へ通訳生として入省します。

Ernest M. Satow

1862年9月、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任します。初代駐日総領事で同公使であったラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)の下で働きます。当時、横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ブラウン(Samuel Brown)や、医師の高岡要らから日本語を学びます。成仏寺は外国人宣教師の宿舎で、ヘボン(James C. Hepburn)も住んでいました。公使館の医師であったウィリアム・ウィリス(William Willis)らと親交を結びます。ウィリスは後に日本に赤十字精神をもたらし、鹿児島大学医学部の前身である医学校兼病院の創設に尽力します。

サトウが初めて日本語通訳としての仕事をしたのは、1867年の5月10日をもって攘夷を行うという将軍徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容の手紙を翻訳したことといわれます。1863年8月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が起こります。サトウもウィリスとともにアーガス号(Argus)に通訳として乗船します。薩摩藩船・青鷹丸が拿捕されます。その船に、後に大阪経済界の重鎮となる五代友厚や日本の電気通信の父と呼ばれる寺島宗則が乗船していて捕虜となります。

下関戦争では四国艦隊総司令官付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による下関にあった前田村砲台の破壊に同行します。長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手に通訳を務めるという経歴を有します。サトウの日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると25年間となります。アーネスト・サトウは「お雇い外国人」ではありませんでしたが、通訳として外国との折衝にあたります。イギリスは江戸幕府を応援していましたので、サトウの役割も大きかったと思われます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十八 ヴェンセスラウ・デ・モラエス

ポルトガル人(Portugue)の外交官、海軍軍人、文筆家だったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa de Moraes)の日本での活躍です。日本では余り知られていない文筆家ですが、意外と彼の著作はポルトガルでは関心を呼んだようです。1854年、モラエスはポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれます。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官となります。ポルトガル領だったマカオの港務局副司令を経て1889年に来日します。

Wenceslau Jose de Sousa de Moraes

1899年に日本に初めて神戸にポルトガル領事館が開設されると同副領事として赴任し、後に総領事となり1913年まで勤めます。モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネと出会い、ともに暮らすようになります。しかし1912年にヨネが死没すると、総領事の職を辞任してヨネの故郷である徳島市に移住します。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのですが、彼女にも先立たれてしまいます。

『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されています。すべてポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかったようです。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになります。

「緑、緑、緑一色!…」。モラエスは徳島の最初の印象を作品「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に書いています。ですがモラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかったようです。身長180cm以上で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたようです。ドイツのスパイと疑われたり「西洋乞食」と蔑まれたりすることもあったといわれます。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルトガル北部の港湾都市ポルト市(Porto)の著名な商業新聞に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介します。それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行されます。ポルトガルにて、東洋の国、日本への関心を高めて話題となったといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十七 アーネスト・フェノロサ

高校の美術の時間では、岡倉天心と並んでアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)のことを学びます。彼はマサチューセッツ州(Massachusette)のセイラム(Salem)生まれ、地元の高校を卒業後、ハーバード大学(Harvard University)で哲学、政治経済を学びます。美術が専門ではなかったのですが、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はあったことが伺われます。

Museum of Fine Arts Boston

フェノロサは、動物学者エドワード・モース(Edward Morse)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じます。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力します。1888年天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感し、日本初の芸術教育機関、東京美術学校、現在の東京芸術大学を設立し初代校長となります。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義します。

Ernest F. Fenollosa

当時の日本では、神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした廃仏毀釈が起こります。それに対して、西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介したのがフェノロサです。明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きいといえます。

岡倉天心

1890年に、ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届きます。折りしも日本政府との契約が満期終了となり同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力します。1896年に、2度目の来日で東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に天台寺門宗の総本山三井寺・法明院を訪ねます。フェノロサは法明院の茶室で寝起きしたといわれます。法明院にはフェノロサの墓があります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十六 魯迅 その2

魯迅には、人間嫌いという側面があったといわれます。嫌悪は他者ばかりでなく、自己を含む面です。同胞の人々を卑俗性ゆえに避けたというのですが、魯迅自身をも嫌悪することにはね返ったのではないかという説です。魯迅が仙台での授業の合間に見た記録映像がありました。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーンで物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見るのです。魯迅は「ああ、何も考えられない!」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向するのです。魯迅は医学の道をやめて東京へ向かいます。

魯迅

東京にいた中国人留学生には、立憲君主制を唱える改良派、異民族征服の王朝であった清朝打倒を説く革命派、無政府主義の者など、さまざまなグループがありました。魯迅はどうも革命派に位置していたようです。

辛亥革命の頃の北京

1909年に魯迅は帰国し、浙江省の師範学同堂の教員となります。1911年に辛亥革命がおこり、各地で民衆が蜂起し清王朝の支配が終わります。列強の中国大陸への進出により、中国各地で抗日運動も広がっていきます。魯迅は、作家として翻訳家として、文学革命運動を担って祖国の青年に精神を教える立場に変わります。不朽の名作「阿Q正伝」は、ルンペンで愚民の典型である架空の一庶民、阿Qを主人公とした短編小説です。

阿Qは反封建的で半植民地的な中国社会の産んだ人間の一タイプとして描かれます。権威には無抵抗で弱者をいじめる滑稽な人物で、人間のもつ奴隷根性の化身で、そして万人に通じその意味で普遍性を備えた人間としても描かれます。革命に同調し謀反に荷担したとして阿Qは捕らえられ処刑されるのです。「阿Q正伝」は民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した作品として知られています。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十五 魯迅 その1

このブログのタイトル「日本にやって来て活躍した外国人」にそうかどうか心配ではありますが、中国の偉大な作家、魯迅を取り上げます。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家で、その作品は日本や中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されています。

仙台医学専門学校時代の魯迅

魯迅が生まれたときは、大清国の崩壊していった時代です。清国は古来から対朝鮮関係で占めていた特権的地位を失い、西欧列強や日本に領土を割譲し、賠償金を支払います。これは中国の識者に与えた衝撃は大きく、自国の体制を内部から考え直す視点に立つようになります。魯迅の父は将来息子の一人は西洋へ、一人は日本へやって学問をさせようとします。科挙しか眼中になかった当時の識者の間に変革の気運が起きるのです。

1902年に魯迅は、鉱路学堂という学校の同期生とともに官費留学生として日本に留学します。最初、東京の弘文学院という清国留学生に日本語と普通教育を授けるために設けられた学校に入ります。この学校は、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が中国人留学生の速成教育のために設けた学校です。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けます。

藤野厳九郎教授

1904年9月、魯迅は国費留学生として仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部に入学します。無試験で授業料は免除されました。医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由だったようです。特に解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を丁寧に指導したようです。医学を専攻しながら、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれていきます。ニーチェ(Friedrich W. Nietzsche)、ダーウィン(Charles R. Darwin) のみならず、ゴーゴリ(Nikolai Gogol)、チェーホフ(Anton Chekhov)などロシアの小説を読み、後の生涯に大きな影響を与えていきます。

仙台医学専門学校

仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、魯迅の短編小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目でした。他方で魯迅のノート添削に丁寧に対応していました。魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいませんでした。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十四  エドモンド・モレル

鎖国時代が終わり、明治政府は積極的にアメリカやヨーロッパ諸国に働きかけて専門家を日本に招き、「近代化」を図っていきます。イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度を学んでいきます。エドモンド・モレル(Edmund Morel)のことを紹介します。

Edmund Morel

モレルはキングス・カレッジ・スクール(Kings College School)およびキングス・カレッジ・ロンドン(Kings College London)において学びます。オーストラリアのメルボルン(Melbourne)において土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのウェリントン(Wellington)地方の自治体の主任技師として働くという経歴を有します。

モレルは1866年1月から北ボルネオ(Borneo)において、石炭輸送用の鉄道建設に当たります。その後夫人を連れて横浜港に到着します。1870年4月のことです。日本でイギリス公使を18年にわたり務めていたハリー・パークス(Sir Harry Parkes)の推薦によりモレルは、明治政府から建築師長(技術主任)に任命されます。そして鉄道建設を指導をすることになります。

民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に、人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出します。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めます。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行います。こうして外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになります。後にそうした活躍から「日本の鉄道の恩人」と賛えられていきます。

肺を患っていたモレルは、1871年に休職してインドへの転地療養を願い出ます。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え出国を許可します。日本の鉄道の開業を目前にして1871年11月、横浜において満30歳で没します。モレルの遺志は、副主任のジョン・ダイアック(John Diack)らに受け継がれます。ダイアックは新橋 – 横浜間の鉄道敷設の測量を指導し、1872年に鉄道は開業します。ダイアックは後の東海道本線である京都 – 大阪 – 神戸間の測量や敷設工事も指導します。我が国の鉄道技術の発展は、イギリス人技術者の働きによるところ大であったのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十三  ヘンリー・ダイアー

グラスゴー大学 (University of Glasgow)は、スコットランド(Scotland)のグラスゴー市(Glasgow)に本部を置くイギリスの大学です。1451年に設置されました。500年以上の歴史を有する英語圏最古の大学の一つです。1840年に英国で最初に設置された工学部があり、産業革命で大きな役割を果たした人材を送りだした大学です。

University of Glasgow

中世からカトリック教会の聖職者を輩出し、近世では、蒸気機関の発明や電力単位のワット(W)で知られるジェームズ・ワット(James Watt)、経済学の祖であり国富論を著したアダム・スミス(Adam Smith)、物理学者のウィリアム・トムソン(William Thomson)など歴史上の重要人物も多く輩出している大学です。ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)またグラスゴー大学の出身です。大学の工学部にあたるアンダーソンズ・カレッジ(Anderson College)を卒業します。

Henry Dyer

ダイアーは日本の産業発展に貢献すべく創設された工部省工学寮工学校(東京大学工学部の前身)に招かれエンジニア教育に従事します。教鞭を執ったダイアーの方針は、専門分野の学力をつけること、実践力を磨くこと、専門職に直接役立たないような教養も学ぶことでありました。工部大学校は1873年に開校し、基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制とし、土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7学科が設けられます。後に造船学と紡績学の2科が追加されたが、9名の教授陣はすべてイギリス人で占められていました。

Adam Smith

グラスゴー大学には世界各国からエリート層が留学して来るようになり、母国で政治家や科学者となって国家に貢献した卒業生も多い。日本からの留学生も帰国後に名声を得たものが多く、著名人としては化学者でタカジアスターゼとアドレナリン(adrenaline)という分泌物からの薬を発明した高峰譲吉、日本のウイスキーの父とよばれた竹鶴政孝などがいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十二  グイド・フルベッキ

グイド・フルベッキ(Guido H. Verbeck)は、オランダ出身でアメリカに移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣された法学者・神学者・宣教師であります。

1855年にニューヨーク市(New York)にある長老派のオーバン神学校(Auburn Seminary)に入学します。神学生の時に、サミュエル・ブラウン(Samuel R. Brown)の牧会するサンド・ビーチ教会(Sand Beach Church)で奉仕し、これをきっかけにブラウンと共に日本に宣教することになります。1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズ(Duane B. Simmons)と一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれます。長老教会で按手礼を受け改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命されます

致遠館でのフルベッキと教え子達

1859年11月にフルベッキは長崎に上陸します。キリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができません。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたようです。1862年には、自宅でバイブルクラスを開き、1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けます。

明治学院大学記念館

さらに佐賀藩が長崎に英学を学ぶための藩校としてつくった致遠館でフルベッキは大隈重信や副島種臣など多くの指導者を育成します。その後は明治政府に登用され、太政官顧問になります。退官後、1878年には日本基督ユニオン教会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書の詩篇などの翻訳に携わります。1883年4月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演もします。1886年の明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めます。1888年には明治学院理事長に就任します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十一 バーナード・ベッテルハイム

ベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)は英国国教会より日本に派遣されたキリスト教宣教師兼医師です。沖縄群島にやってきた最初のプロテスタント宣教師でもあります。英国国教会が組織した宣教団体は、「Loochoo Naval Mission」といいます。LoochooとはRyukyu(琉球)を表しています。ベッテルハイムは派遣のリーダーとして1843年から1861年の間、琉球にて活動します。

ベッテルハイムの生い立ちなどに触れます。彼はスロヴァキア(Slovak)首都ブラチスラヴァ(Bratislava)にユダヤ系の子として生まれます。9歳の時にはすでにドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いていたといわれます。ユダヤ教の聖職者ラビ(rabbi)となるべく教育を受けますが、12歳で学校をやめ、ハンガリー国内で学んだ後、最後にイタリアのヴェネト州(Vèneto)のパドヴァ(Padova)で医学を学ます。その後はエジプトとトルコへ渡り、1840年にトルコのスミルナ(Smyrna)でキリスト教に改宗します。そして、イギリスへ渡り英国国教会の牧師から洗礼を受けイギリス国籍を取得します。

1846年4月に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在します。同行していたのは中国人の通訳です。ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に暖かく接した琉球人への感謝からだとされています。しかし、彼の琉球王国での宣教活動は困難だったようです。これは琉球を支配していた薩摩藩と江戸幕府のキリシタン禁教政策のためです。

琉球側はベッテルハイムへ退去を要請しますが、布教活動は黙認され比較的自由に行動することができます。その間、医療活動も行います。ハンセン氏病患者にも接したという記録があります。宣教では、一人の洗礼者も育てることができなかったようです

1854年6月にマシュー・ペリーが来琉した時、ベッテルハイムは琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働きます。そのとき琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、アメリカ人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、アメリカ人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。ベッテルハイムはそのまま艦隊とともにアメリカに渡ります。アメリカではシカゴやニューヨークにおいて長老派牧師として活躍し、南北戦争(Civil War)では北軍の軍医として活躍するという波乱の生涯をおくります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十 ハンナ・リデル

近代日本の夜明けの時代、英国人の聖公会女性宣教師がやってきます。その一人に、英国聖公会の宣教団体の1 つである英国聖公会宣教会(Church Missionary Society: CMS) のハンナ・リデル (Hannah Riddell)がいます。前回紹介したコンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Legh)も同じ教会に所属していました。

Hannah Riddell(右側)

そしてもう一人はリデルの姪で CMS の宣教師として来日したエダ・ライト(Ada Hannah Wright、1870-1950)です。ハンナ・リデルは、熊本の本妙寺で物乞いするハンセン病患者の悲惨な状況を見て、自らの全財産を処分し、回春病院を建てることになります。

彼女の業績は、ハンセン病患者の悲惨さに対して人々の関心を集めたことです。そして政財界の人々を動かします。当時の日本は、性や結婚には厳しい倫理観によって、分離政策をとっていました。彼女は数回草津を訪れ、1913 年回春病院の米原馨児という司祭を派遣し、光塩会を設立します。これは後の草津聖バルナバ教会です。また 1927年には、軽症のハンセン病患者で聖公会信徒の青木恵哉を沖縄に派遣します。彼は伊江島を拠点とし、洞窟や山に隠れている患者を発見し、食べ物や衣服を与え共に礼拝しました。

Ada Hannah Wright

こうした日本聖公会の努力によって、今帰仁村の近くにある屋我地島を基にして1938年に国頭愛楽園、現国立療養所沖縄愛楽園が誕生したのです。「母さま」と呼ばれ敬愛されたリデルは、1932年に76 歳で永眠します。

沖縄愛楽園

姪のエダ・ライトがリデルに代わって病院を継ぎます。開戦時にはライトはスパイ活動の疑いをかけられ、特高の取調を受けたりします。1941 年に46 年存続した回春病院は閉鎖され、患者は国立療養所(恵楓園)に移されました。その後ライトは国外追放となりますが、1948 年再来日し80歳の1950 年に永眠します。