心に残る名曲  その百十八 Steinway & Sons

「Steinway & Sons」はドイツ系アメリカのピアノの製作会社です。高品質のピアノの生産で世界の80%のシェアを誇っています。創業者は、Heinrich Englehard Steinwegです。Steinwegは1835年に妻Julianeへ結婚記念として四角いピアノを製作します。1836年にドイツ中央部にあるゼーセン(Seesen)という街の自宅台所で始めてグランドピアノを製作します。そのことで、このピアノは後に「kitchen piano」と呼ばれました。ギルド(Guild)制度が厳しく、自分の工場を持つことが難しかったので自宅で製作したということです。

ギルドとは徒弟制度と称されます。中世のドイツでは厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人や徒弟を指導するのです。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていました。工場でしか物を作ることができなかったのです。

三月革命と呼ばれた1848年のドイツ革命は、政治や経済の不安定化をもたらし、ギルドに属さない者の仕事が困難となります。ドイツでの製作や販売が困難になることを予想し、1850年に妻と8人の息子とともにニューヨークにやってきます。1864年にSteinwegは名前を英語風に「Steinway」と変えます。ドイツ語で「weg」は道という意味です。

ニューヨークのマンハッタン(Manhattan)に最初の工場を立ち上げます。それ以来、製造したピアノは高い品質で評判を呼びクイーンズ(Queens)に工場を移します。大多数の従業員はドイツからの移民だったといわれます。Steinwayは高価格のピアノと低価格のピアノを製造しています。後者のピアノのブランドは「Boston」と「Essex」と呼ばれています。現在は、ニューヨークの他にドイツのハンブルグ(Hamburg)にも工場を持っています。ニューヨークからのピアノは主に国内向け、ハンブルグからのピアノは海外に輸出されています。
Steinway & Sonsは創業以来、Steinway一族で経営してきました。しかし、1972年に経営上の問題からCBSに経営権を譲ります。

心に残る名曲  その百十七 モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」

ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)は、「ロシア五人組」といわれた作曲家の一人です。6歳から母にピアノを習い、7歳でリストの作品を弾くほど上達したようです。ペテルスブルグ(St. Petersburg)の近衛連隊に入り、軍医で作曲家であったボロディン(Alexander Borodin)と会います。同時にバラキレフ(Mily Balakirev)、キュイ(Cesarius Cui)らの音楽家と会い作曲への意欲に駆り立てられます。

1853年のクリミア戦争(Crimean War)で連合国に敗北後、ロシアの内政は不安定となります。1861年、農奴解放令によってムソルグスキーも経済的な打撃を受け、運輸省に下級官吏として就職します。長続きせず解雇された後、ある音楽好きの貴族に庇護されます。その頃作ったのがオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov)です。ロシア国家の公称であったロシア・ツァーリ国の皇帝です。

 ムソルグスキーは、ロシア国民楽派の作曲家と言われています。ロシアの民謡の伝統に忠実で、史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いたからです。初期の交響詩の代表的傑作といわれる管弦楽曲「禿山の一夜」も書きます。

「展覧会の絵」(Pictures at an exhibition)は1874年に作曲されます。友人の画家ハルトマン(Viktor Hartmann)の遺作展で見た10枚の絵画の印象をもとに作られます。ロシア、フランス、イタリア、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれています。「展覧会の絵」の第2、3、5、7曲の前に前奏や間奏にあたる「プロムナード」が添えられています。それは絵と絵との間を歩く情景を表しているといわれています。楽曲は「小人」、「古城」、「卵の殻をつけたひなどりのバレエ」、「鶏の足の上に建っている小屋」、などという構成になっています。

心に残る名曲  その百十六 モーリス・ラヴェル 「ボレロ」

モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel )は、バスク(Euskara)地方の生まれのフランス人作曲家です。好楽家の父の理解で7歳からピアノを学びます。14歳でパリ音楽院(Conservatoire national suprrieur de musique)のピアノ予備科に入学します。1897年にはフォーレ(Gabriel Faure)に師事して作曲法や対位法を学びます。やがて「水の戯れ」というピアノ曲を作ります。この作品からラヴェルは、同じくフランスの大作曲家ドビッシー(Calude Debussy)が作曲した「牧神の午後の前奏曲」からの影響を強く受けていたことがわかります。ピアノ曲として画期的な手法を盛り込んでいたのです。

「水の戯れ」を聴くと上品で典雅、都会的ながら控えめ、どことなく憂愁さが感じられる楽節の組み立てを感じます。そしてリズムも水の流れのように規則的です。1928年にはバレエ曲を作ります。これが代表曲となる「ボレロ(Bolero)」です。「ボレロ」とはスペインの民族舞踏のことです。セビリアのとある酒場で一人の踊り手が舞台で足を鳴らしています。やがて興が乗ってきて、客達も次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出すのです。バレエ音楽でそれを基にした同名の管弦楽組曲「ダフニスとクロエ」(Daphnis et Chloe)も作曲しています。

「ボレロ」には三つの特徴があります。第一は、同一リズムが保持されることです。第二は最初から終わりまで一つのだんだんと強くなるクレッシェンド(crescendo)のみであることです。第三は旋律は二つのパタンのみであることです。

以上のような特徴からの印象では、単調な曲のように感じます。しかし、非常に豊かな色彩溢れる音楽なのです。しかも異なった楽器構成でメロディが奏でられます。小太鼓の音で始まり、オーボエ、クラリネット、フルート、サキソフォーンが同じ旋律を順々に演奏していきます。ヴァイオリンはピッチカートの演奏で終始します。演奏形態としては珍しいことです。

心に残る名曲  その百十五 ヘンデル 「Lascia Chio Pianga」

このアリアのオリジナルの旋律は、ヘンデル(Georg Friedrich Handel)の1705年のオペラ「アルミーラ」(Almira)の第3幕にサラバンド(Sarabanda)として使用されたのが最初です。ヘンデル19歳のときに書かれた最初のオペラといわれます。サラバンドとは三拍子の荘重な舞曲です。

 1711年にヘンデルはこの旋律の再使用します。それがオペラ「リナルド」(Rinaldo)第2幕に登場する有名なアリア(Aria)「私を泣かせてください」 (Lascia ch’io pianga)です。劇中で、エルサレムのイスラム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナ(Almirena)が、敵軍の王に求愛されるのですが、愛する十字軍の将軍リナルドへの貞節を守るため「苛酷な運命に涙を流しましょう」と歌うアリアです。恋人を想って自分の悲運を嘆くシーンで歌われます。「抱かせてください、自由の憧れを」と歌っています。アリアとは、オーケストラの伴奏で独唱する叙情的な歌、詠唱のことです。

「リナルド」は11世紀のエルサレム(Jerusalem)を舞台にした叙事詩「解放されたエルサレム」に基づいています。このオペラは大成功をおさめます。

 

心に残る名曲  その百十四 サミュエル・バーバー  「弦楽のためのアダージョ」

アメリカの作曲家にサミュエル・バーバー(Samuel Barber)がいます。1910年3月、ペンシルバニア州(Commonwealth of Pennsylvania)ウェスト・チェスター(West Chester)で生まれます。地元の作曲家だった叔父や歌手だった叔母に激励され,7才から作曲したといわれます。14才で創設後間もないカーティス音楽院(Curtis Institute of Music)へ進み,ピアノ,歌唱法、作曲法を学びます。同院の創設者メアリー・ボック(Mary Bok)から認められ,支援を得て1934年にヨーロッパに渡ります。ロマン派音楽に触れ,ウィーンで指揮法と歌唱法を学びます。

 1935年から1937年にはアメリカ芸術科学アカデミー(American Academy of Arts and Sciences)で学び,1939年から1942年までカーティス音楽院でも教鞭を執ります。自作のヴァイオリン・ソナタ(1928)と「スクール・フォー・スキャンダル」(School for Scandal)(1931)がベアルン(Bearns)賞を受賞したのを受け,バリトン歌手として活動しながら,本格的な作曲活動に入ります。

やがて「交響曲」が,ザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)で史上初めての米国人作品として初演され,1938年には「管弦楽のためのエッセイ」(Essay No. 2 for Orchestra)と「弦楽のためのアダージョ」(Adagio for Strings)が、20世紀前半を代表する指揮者トスカニーニ(Arturo Toscanini)からも認められて,国際的な評価を受けます。

 

心に残る名曲 その百十三 レスピーギ 「ローマの松」

長男家族と始めてローマ(Rome)に行ったときです。車で郊外にでると林立する木がそこここに目だちました。長男が松の木だと云いました。そのとき、「ああ、これか、、」と思い当たりました。レスピーギ(Ottorino Respighi)の「ローマの松」のことです。

 イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者がオットリーノ・レスピーギです。ボローニャ(Bologna)出身で、小さい頃から、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受けます。1913年からはローマに出て教育者としても活動したようです。ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動しますが、やがて作曲に転向します。サンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio di Musica Santa Cecilia)の作曲科教授に任命され、1923年には同学院の院長に就任して作曲活動を続けます。

近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩「ローマの噴水(Fontane di Roma)」、「ローマの松(Pini di Roma)」、「ローマの祭り( Feste Romane)」が広く知られています。

 

心に残る名曲  その百十二  リムスキーコルサコフ 「シェーラザード」

リムスキーコルサコフ (Nikolai Rimsky-Korsakov)は、ロシアの作曲家です。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残しています。五人組とは、ミリイ・バラキレフ(Mily Balakirev)、ツェーザリ・キュイ(Cesarius Cui)、モデスト・ムソルグスキー(Modest Mussorgsky) 、アレクサンドル・ボロディン(Alexander Borodin)、そしてリムスキー=コルサコフといった音楽家のことです。

 リムスキーコルサコフは軍人貴族の家庭に生まれます。小さい時より楽才を顕しますが、12歳でサンクトペテルブルク(St Petersburg)の海軍兵学校に入学し、ロシア海軍の艦隊による海外遠征も体験したと記録されています。

ロシアの民謡や文学を題材としながら、華やで簡潔な作風が特徴と言われます。海軍士官としての経験から海の描写を得意としたことでも有名です。交響組曲「シェヘラザード」(Scheherazade)の第1楽章「海とシンドバッドの船」部分では荒れ狂う海と航海の場面が音で描かれています。管弦楽法の大家として知られ、管弦楽の実践理論に関する著作も残すほどの音楽家です。

「シェーラザード」(Scheherazade)とは「千夜一夜物語」、別名「アラビアンナイト」(Arabian Nights)に登場する語り手となる女性の名です。ササン朝(Sassanid)ペルシャのシャフリヤール王(Shahryar)の王妃であり、毎夜、命がけで王に物語を語るという展開となっています。 ササン朝ペルシア(Persia)の文化は、メソポタミア(Mesopotamia)文化、ヘレニズム(Hellenism)文化を吸収したパルティア(Parthian)の文化を継承します。そして古代西アジア文化を形成していきます。さらにイスラーム文化 (Islamic culture)や東、西ヨーロッパ、中国にも大きな影響を与えたといわれます。

心に残る名曲 その百十一 アントニオ・ヴィヴァルディ 「四季」

1723年に作曲されたバロック(Baroque)音楽の傑作と云われます。アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi)のこの「四季」(Four Seasons) は、彼の最も有名な曲です。バロックとは、もともと過剰な装飾を持つ建築を批判する用語だったようですが、やがて彫刻や絵画と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とする音楽と呼ばれるようになります。

 ヴィヴァルディの生い立ちです。父は水の都、ヴェネツィア(Venezia)において理髪業兼音楽家で、後に聖マルコ大聖堂(St. Mark Cathedral)のヴァイオリン奏者となります。ヴィヴァルディもまたこうした恵まれた環境で育ちます。15歳のとき、聖職の道に入り21歳で副助祭、25歳で司祭に任じられます。1703年、ヴェネツィアの女子慈善院ピエタ(Ospedale della Pieta)に勤め、ヴァイオリン、作曲、合奏を教えます。女子生徒たちで組織する合唱団とオーケストラは日曜・祭日には必ず演奏会を開き、その優れた演奏の評判は外国にも知られるほどだったといわれます。

ヴェネツィアの風景画家マルコ・リッチ(Marco Ricci)に感化されたようです。リッチはヴェネツィア風景画法の創始者とももいわれています。「四季」はその影響を受けています。音で絵画を作るのです。ヴェニス育ちのヴィヴァルディからは、イタリアのさんさんとした光陽を思い浮かべるかもしれません。かならずしもそうではありません。「冬」の場合は銀色のようなピッチカート(pizzicato)がヴァイオリンで凍りそうな雨が奏でられます。「夏」の最終章では嵐と雷鳴が響き渡るという塩梅です。

ヴィヴァルディの曲は音色の美しさ、リズムの躍動性、劇的な要素の巧みな構成で知られます。ヴェネツィア音楽の特徴は、ローマの様式が荘重であったのに対し、旋律的で色彩的であり、ヴェネツィア人の気質とされる陽気さが加わります。ヴィヴァルディの作品にはそれが横溢しています。

ヴィヴァルディの曲のテーマは、主要三和音か主音の連続するものが多いのですが、新鮮なリズムが聴衆に印象づけます。彼の影響を最も受けたのがバッハ(J. S. Bach)といわれます。バッハはヴィヴァルディの作品を手本として10曲ほどを編曲しています。そこから新しい協奏曲の形式を学んだといわれます。

心に残る名曲  その百十 トマス・ルイス・デ・ビクトリア 「アヴェマリア」

トマス・ルイス・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria)は1548年の生まれ。黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人です。パレストリーナやラッソらと並ぶルネッサンス宗教音楽の大家の一人です。

 少年時代にマドリッド郊外にあるアビラ(Avila)大聖堂の聖歌隊に入ります。フェリペ二世(Felipe II)の奨学金を得てローマに行きイエズス会(Society of Jesus)の会士となります。神学、音楽、ラテン語などを学び、その間パレストリーナの知遇を得たといわれます。イエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、1575年に司祭として叙階されます。

1586年にスペインに帰国し、マドリッド(Madrid)のデスカルサス・レアレス女子修道会(Monasterio de las Descalzas Reales)の一員となります。ビクトリアは終生、この修道会にとどまり、司祭・作曲家・歌手・合唱指揮者・オルガニストなどの役割を務めます。

ビクトリアは後期ルネサンス においては最もすぐれた宗教音楽の作曲家といわれます。数多くの評者がビクトリア作品に、「神秘的な烈しさと直接に感情に訴えかけてくるものがある」と云っています。これらの特徴は、ビクトリアの偉大な同時代のイタリア人作曲家、パレストリーナの作品には見当たらないようです。

様式的にみるとビクトリア作品は、多くの同時代の作曲家と同様の凝った対位法は遠ざけて、単純な旋律とホモフォニックな楽想を好んでいるようですが、それでもなお多種多彩なリズムの変化や、驚くほどの明暗の対比を表現しています。旋律の構成や不協和音の使い方はパレストリーナよりもずっと自由のような印象を受けます。

ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが「死者のためのミサ曲」です。この作品は、皇太后マリアの葬礼のために作曲されたとあります。1編の世俗曲を手懸けなかったほど、独自の作風を備えた楽曲は特筆されます。

心に残る名曲  その百九 グレゴリオ・アレグリ 「ミゼレーレ」

アレグリ(Gregorio Allegri)は1582年生まれのイタリアの司祭、歌手、そして作曲家です。聖歌隊の一員として音楽を学びます。やがて誓願をたててアドリア海に面するフェルモ大聖堂(Duomo di Fermo)より聖職禄にあずかります。誓願とは、神に清貧、貞潔、従順の三つの誓いをたて聖職に就くことです。フェルモにおいて数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲します。やがてヴァティカン(Vatican)のシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊にコントラルト(contralto)歌手の地位を得て1629年から没するまでその地位に就きました。コントラルトとはテノールよりも高い音域のことです。

 彼の作品には、5声のための教会コンチェルト、6声のためのモテット集、声のシンフォニア、その他ミサ曲や預言者エレミア(Jeremiah)の哀歌、さらに没後発表された沢山のモテットがあります。教会コンチェルトとは、オルガン伴奏などの楽器伴奏による宗教的声楽曲のことです。モテットは、イタリア初期バロック音楽の影響のもとで通奏低音を伴い、少人数での歌唱で歌われます。

アレグリは弦楽合奏のための作品を作曲した初期の作曲家の一人といわれます。また弦楽四重奏曲の初期における重要な作曲者とも考えられています。システィーナ礼拝堂聖歌隊のために書いた声楽作品は、パレストリーナ様式を受け継いではいますが、単純な様式とはいえ一切の装飾が排除されています。

群を抜いて有名なのが「ミゼレーレ(Miserere mei Deus)」です。アレグリの傑作といわれます。「神よ我を憐れみたまえ」という旧約聖書の詩篇第51篇(Psalm)から採られています。「ミゼレーレ」では、合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のために作曲されています。合唱団の片方が聖歌の「ミゼレーレ」の原曲を歌うと、離れたところに位置するもう一つの隊員が、それに合わせて装飾音型で聖句の「講解」を歌います。