ウィスコンシンで会った人々 その29 Intermission その一 沖縄独立論の序章

筆者にとって琉球での7年間の生活は誠に稔り多いものだったと述懐している。アメリカの施政権、本土復帰の両方を経験しいろいろなことを考える機会となった。本土にいては決して考えられないような独立と復帰の意義を教えられたからである。

琉球の歴史だが、その独立は三度潰えた経緯がある。第一は1879年に沖縄県令として前肥前鹿島藩主が兵隊を連れて赴任したいわゆる琉球処分の始まり、第二は1945年の琉球列島米国軍政府、後の民政府による統治の開始、そして第三は1972年の本土復帰である。

琉球は1429年以来、明と清の冊封使を受け入れながらも、独立を保っていた。だが清の影響が衰退し明治政府の樹立とともに日本の治世下に入る。そして1945年の民政府による統治が始まる。

1952年に琉球政府が創設される。だが、長である行政主席は民政府によって任命された。沖縄の独立が高まったのは、1966年、第五代琉球列島高等弁務官アンガー(Ferdinand Unger)の赴任式のとき、日本キリスト教団牧師であった平良修師が沖縄の本土復帰を趣旨とした祈りを捧げたのがきっかけとされる。「アンガー氏をして最後の弁務官とさせしめたまえ」という祈りは人々に衝撃を与えたといわれる。1968年に民政府は行政主席を公選とすることを発表した。それによって当選したのが後に初代の沖縄県知事となる屋良朝苗である。

1966年前後は、ヴェトナム戦争が最も激しさを増す時期である。琉球からB52をはじめとする戦闘部隊や兵站部隊が送られた。その間アメリカ軍の兵士による婦女暴行事件が起こり、琉球全体に本と復帰の運動が広まった。1970年12月のコザ暴動はその典型である。アメリカ兵士の交通事故を発端として起こった軍の車両や施設に対する焼き討ちである。しかし、本土復帰と沖縄の独立は相反する精神の葛藤となることがやがて鮮明となっていく。

Taira  平良修牧師Shinkosen 明への進貢船

ウィスコンシンで会った人々 その21 集団的自衛権行使の事例

集団的自衛権の行使と称して大国はどのように振る舞ったのかを次の五つの事例を振り返りその特徴を考える。紹介するのは、いずれも1950年代から1970年代の内戦である。

1. ハンガリー動乱
1956年10月にハンガリー(Hungary)で発生した大規模反政府デモに対し、ソ連が「ハンガリー政府の要請に基づき、ワルシャワ条約(Warsaw Pact)に従って」デモを鎮圧した事件だ。ワルシャワ条約機構はソ連を中心とする東ヨーロッパ諸国が結成した軍事機構である。北大西洋条約機構 (NATO)に対抗する。ワルシャワ条約は1955年につくられ集団的自衛権に基づく加盟国間の相互軍事援助を主な目的としている。だがハンガリーの内政に関与したとして、ソ連は国際的な非難を受けた。

2. チェコスロバキア動乱
1968年8月に、チェコスロバキア(Czechoslovakia)で起こった自由化運動の影響拡大を恐れたソ連および東欧諸国によるワルシャワ条約機構軍が改革運動を鎮圧した事例である。この変革運動は「プラハの春」とも呼ばれ女子体操の花と呼ばれたベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska)、人間機関車と呼ばれたエミール・ザトペック(Emil Ztopek)らによる改革への支持・期待の表明、「二千語宣言」に署名し運動は盛り上がる。鎮圧されたが民主化を取り戻したのは1989年である。

3. ヴェトナム戦争(Vietnam War)
南ヴェトナム解放民族戦線(ベトコン)がヴェトナム共和国政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月が戦争の始まりといわれる。南北に分裂したヴェトナムで発生した戦争である。米ソの代理戦争ともいわれる。合衆国議会は国連憲章、及び東南アジア集団防衛条約(SEATO)に基づく義務に従い派兵することを承認した。SEATOの主要構成国である大韓民国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドも南ヴェトナムに派兵した。他方、ソビエト連邦や中華人民共和国は北ヴェトナムに対して軍事物資支援を行い多数の軍事顧問団を派遣した。

4. コントラ戦争
1981年、米国のレーガン政権(Regan)がニカラグア(Nicaragua)の反政府勢力であり親米反政府民兵組織であるコントラ(Nicaraguan Contras)を支援したことである。ニカラグア政府によるエルサルバドル(El Salvado)、ホンジュラス(Honduras)、コスタリカ(Costa Rica)への武力攻撃に対する集団的自衛権を行使した事案である。ニカラグアの民主化はそれ以降長い年月を要する。

5. アフガニスタン紛争
2001年の9・11テロを受けてタリバン(Taliban)政権下のアフガニスタン(Afganistan)に対する米軍の攻撃とそれに伴うNATO加盟のヨーロッパ諸国のとった軍事行動である。

9・11のテロ攻撃などについては集団的自衛権は発動できないという法学者もいる。事実、アフガニスタン紛争は国連決議を必要としない集団的自衛権の発動という論理をアメリカなどは採用している。

以上の動乱や紛争は、内戦状態の国に対する大国の干渉が特徴である。集団的自衛権の行使はいかようにも理由づけられるという危険性を示す事例といえよう。2003年3月に始まったイラク戦争は米国とイギリスなどが「イラクの自由作戦」として始まる。日本は航空自衛隊を派遣し、後方支援と称して兵員の輸送にあたった。名古屋高等裁判所は2008年4月に「自衛隊イラク派兵差止訴訟」において憲法違反であるとする判決を出す。

20070410-18  Emil Ztopek
o0290043011721085892   Vera Caslavska