木枯らしの季節 その十 和蘭陀と日本

ブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopaedia) を参考にしながら、オランダ (和蘭陀) と日本のつながりを考えます。

1600年3月16日。オランダの商船リーフデ号 (Liefde)が九州は豊後国、臼杵のあたりに漂着します。これが日本とオランダの最初の接触です。リーフデ号はロッテルダム (Rotterdam)にあった世界最初の株式会社といわれる東インド会社 (East India Company) の船で、極東を目指す航海の五隻の船団の一隻でした。一行は太平洋上で暴風雨に遭遇し、うちリーフデ号だけがかろうじて日本に着いたのです。

s1293-05-g07 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 thmb-001当時大坂にいた徳川家康はリーフデ号の乗組員を保護し、日本滞在を許します。その間、造船術、航海術、天文学、数学などを教授してもらいます。1609年にはオランダの使節が駿府で家康と謁見し、通航と貿易を許可する朱印状を得ます。そして1613年には平戸に商館を設置します。それまでは宗教、文学、制度、法律などのソフトを中国や朝鮮から習得してきたわけですが、江戸時代になるとオランダから様々な科学技術などハードを学び応用していくことになります。

徳川幕府は1633年から1639年にかけて五回にわたり鎖国令を発し、切支丹弾圧を行います。ところがプロテスタント国であったオランダは弾圧を免れ、長崎は出島に商館を移します。ヨーロッパ諸国でオランダは唯一、通航や貿易を許されるのです。鎖国がその後の日本の発展に与えたネガティブな影響は計り知れないほどですが、一本の糸のようなオランダとの接触は、オランダ語を通しての蘭方医学やオランダ語研究に進展していきます。そして解剖図表といわれる「Tabulae Anatomicae」を「解体新書」として翻訳します。

レンブラント (Rembrandt  van Rijn)の「テュルプ博士の解剖学講義」 (The Anatomy Lesson of Dr. Nicolaes Tulp) は1632年に描かれたといわれます。この絵を見ますと、杉田玄白や前野良沢、中川順庵らが講義に加わっていたらどんなに興奮しただろうかと想像します。

オランダの東インド会社のことです。この会社は最盛期に150隻の商船、40隻の軍艦、そして10,000余りの兵員を擁していたといわれます。それが東方貿易を支えていました。軍艦はもちろん商船を守る任務です。商船には大砲を積み、兵員も乗り組んでいたといわれます。