心に残る一冊 その67 「かあちゃん」

山本周五郎の作品には、市井の人びとのささやかな営み、ひたむきな女性の健気さ、道を究めようとする者の真剣さなど、人生を懸命に生きる人間の姿が描かれています。「かあちゃん」は1955年に「オール読物」に発表された読み切りの佳作です。


時代は天保の末期。大飢饉、百姓一揆、不景気など暗い事件が続きます。天保の改革の効なく、江戸庶民の生活は困窮を極めています。主人公は5人の子を持つ43歳の未亡人、お勝です。お勝と長女は裁縫の内職、長男は大工、次男は左官、三男は魚河岸づとめ、六歳の末っ子までも拾い集めた金物を屑屋に売って稼いでいます。そのくせ、近所付き合いのわずかな寄附も出ししぶるので、長屋の人たちからは「業突く張り」とひんしゅくを買っています。業突く張りとは、「欲張りで強情なこと」という意味です。

「いまにこのまわりの一帯の長屋を買い占めるつもりじゃねえのか」という悪口を居酒屋で耳にした若者が、その晩、お勝の家に忍びこみますが、初めての泥棒体験なので、すぐにお勝に足下をみられます。

「ひとこと聞くけれど、まだ若いのにどうしてこんなことをするんだい」

「食えねえからよ」「仕事をしようったって仕事もねえ、親きょうだいも親類も、頼りにする者もありゃあしねえ、食うことができねえからやるんだ」

「なんて世の中だろう、ほんとになんていう世の中だろうね」「お上には学問もできるし頭のいい偉い人がたくさんいるんだろうに、去年の御改革から、こっち、大商人のほかはどこもかしこも不景気になるばかりで、このままいったら貧乏人はみんな餓死をするよりしようがないようなありさまじゃないか」

そういってお勝は太息をつきます。
「そんなことを聞きたかねえ、出せといったら早く金を出したらどうだ」

凄んでみせる若者を前にして、お勝は「一家でせっせと貯めている理由を聞かせるから、それでも強奪するというのなら好きにしなあ、、」と言って業突く張りの事情を明かすのです。

その話を聞いた若者は黙って出ていこうとしますが、お勝は職も寝る所もない若者を引き留めます。親戚の者だといって同居させることにします。5人の子どもは母親の説明を疑わず、若者を迎えるのです。長男が若者に働き口を探してきます。家族の一員となった若者は思わず「かあちゃん」と呼んで働きに出掛けていくのです