キリスト教音楽の旅 その15 グレゴリオ聖歌とビザンツ聖歌

キリスト教伝統の聖歌の2回目です。東方の雄をビザンティン聖歌(Byzantine Chant)とすれば,西方教会を代表するものがグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)です。グレゴリオ聖歌は正式にはローマ典礼聖歌と称されます。第64代ローマ教皇グレゴリウス1世 (Gregorius I)が集大成したといわれます。これには異論があるようですが,770年ごろからグレゴリオ聖歌とよぶ習慣となります。古代ユダヤの詩篇唱や賛歌が母体になり、大部分はラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とします。全音階的な教会旋法にもとづいて歌われる単旋律の聖歌です。リズムや拍子を有する西洋音楽の源泉となった音楽といわれます。

他方、ビザンチン帝国における音楽はビザンツ聖歌を指します。単旋律で主に全音階で自由なリズムである点などはグレゴリオ聖歌と多くの共通点を有しています。違いといえば、直接聖書からとった歌詞でないことや、ミサに比べて聖務日課のほうが入念につくられていることが特徴とされます。最も初期の聖歌は4~5世紀頃に起こったトロパリオン(troparion)というもので,「詩篇」(Psalm)の各節の朗読の間に歌われます。6世紀頃から,短い導入部と繰返しを持つ同じ構造の節で成り立つコンタキオン(kontakion)が盛んになります。さらに7世紀頃からはカノン(canon)という楽曲が生まれます。カノンは9部分から成る非常に長い詩で、それぞれ数行から成るトロパリオンから成り立ちます。ビザンチン教会ではギリシア語が用いられたといわれます。ユダヤ(Judea)やシリア(Syria)の東方典礼の中の聖歌に基づいて生まれた音楽です。

誠実な十字架 グレゴリオ聖歌

キリエ エレイソン ビザンツ聖歌



キリスト教音楽の旅 その14 ビザンツ聖歌

ロシア正教の音楽のことです。330年にコンスタンティノープル(Constantinople)がローマ帝国東方領の行政首都となります。現在のイスタンブールです。ビザンチン帝国(Byzantine)ともいわれます。この地で広まったのが東方教会です。1453年に滅ぶまで、東地中海のギリシア語圏を中心に発展した帝国です。東方教会の音楽、あるいはビザンティン音楽の中心は聖歌です。広義にはビザンティンの典礼に添う教会の伝統が込められています。特にギリシアとギリシア系の教会の伝統を継承して発展します。ドイツ語読みでのビザンツ(Byzanz)音楽ともいわれます。

ビザンツ聖歌(Byzantine Chant)は、古典時代およびヘブライ(Hebrew)音楽が組み合わされ、その芸術の産物によって成立し、徐々に発展していったといわれます。初期ビザンツ聖歌は会衆の歌であり、口伝承であったために記譜されなかったようです。実際にどのように歌われていたかはYoutubeでの歌唱を聴くと少しは伝わります。

9世紀頃になると「ネウマ音楽記譜」(neumatic notation)が現れます。聖書朗唱の節回しをエクフォネシス(ekphonesis)といい、棒読みではなくほんの少し音高や読み方を変える歌い方です。キリスト教が国教になるとエルサレム(Jerusalem)やコンスタンティノープルには大聖堂が建てられます。前回引用したハギア・ソフィア(Aagia Sophia)がその代表です。巨大なドームでの礼拝にふさわしい厳粛な儀式が執り行われ、新しい聖歌が次々と作られていきます。

正教会の礼拝は歌によって始まり、歌によって終わるといっても過言ではありません。説教以外に読誦はありません。祈祷書のテキストはさまざまな段階の音楽に乗せて歌われます。歌には祈りの共同体性を強め、教えを記憶に留める効果があります。歌では伴奏となる器楽は一切使われません。ユダヤ教礼拝堂シナゴーグ(synagogue)で器楽が用いられなかったことによるといわれます。「みことば」による礼拝が重視されてきたからです。

ビザンティン・チャント
ロシア正教チャント
ロシア正教賛美歌14
ロシア正教賛美歌アレルヤ
ユダヤ教の礼拝


キリスト教音楽の旅 その13 東京復活大聖堂とロシア正教会

先日、淡路島からきた友人と都内を散策しました。丁度日よりも良く20,000歩ほど歩きました。最後に回ったのが神田のニコライ堂です。正式名は、日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan)「東京復活大聖堂」(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)とあります。この教会はロシア正教会と思っておりましたが、調べてみると間違っておりました。

現在のロシア、ウクライナ(Ukraine)、白ロシアの祖先である東アラブ族が統一国家をつくったのは9世紀後半といわれます。980年頃、ウラジミール1世(大公)(Vladimir)がギリシャ正教を国教と定めます。ウラジミール1世はビザンチン皇帝(Byzantine)の妹を妻として自らもギリシャ正教に改宗します。この時からロシア正教の公式な歴史が始まるといわれます。一般大衆は農耕と結びついた自らの宗教である太陽神を中心とした多神教を信じ、ロシア正教と原始宗教との抗争が続きます。結局はキリスト教のロシア化という形で原始宗教の諸行事がキリスト教の中に取り入れられていきます。

正教会が広まった地域がビザンチン(Byzantine)です。ビザンチン帝国、別名東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノポリス(Constantinople)の旧名、ビュザンチオン(Βυzanνtiοv)を語源とするといわれます。コンスタンチノポリスは今のイスタンブール(Istanbul)です。ビザンチンは東ローマ帝国及びその文物を指す名称です。

正教会は一つの国に一つの教会組織を置くことが原則とされます。ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会といった具合です。ことなる教義を信奉するのではなく、同じ信仰を有しています。神田のニコライ堂はロシア正教会の司祭ニコライ(Nicholas)によって正教の教えがもたらされ、日本ハリストス正教会の設立となります。

キリスト教音楽の旅 その12 オルガニスト 秋元道雄氏

私が最初にオルガン演奏を聴いたのは1965年です。札幌ユースセンター教会というルター派の教会でのことです。北海道で最初のオルガンです。演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授でした。

秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer)教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。真篠教授にはオルガン奏法、楽典、オルガン教科書などの著作があります。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。1955年にロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann)を受賞します。

その後、パリのノートルダム寺院(Cathedrale Notre-Dame)での演奏会を含め数多くの演奏会活動を行います。プラハの春(The Prague Spring)国際オルガンコンクールなど多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。東京芸術大学教授をしながら日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストもつとめました。2010年1月に生涯を終えられました。

キリスト教音楽の旅 その11 オルガンの音楽

オルガンのことを話題にしますといろいろなことが思い出されます。オルガンを組み立てる行程を間近で見学できたこと、その組み立てを担当した日本で最初のビルダー辻宏氏のこと、そのオルガンの柿落で演奏を聴いたこと、そのときバッハのトッカータとフーガ ニ短調(Toccata e Fuga BWV 565)を始めて間近で聴いたこと、、、

オルガンの音楽には三つの種類があるといわれます。今回はそれを取り上げます。最初はオルガン・コラール(Organ Chorale)です。これはコラール旋律を基にしたオルガン曲の総称です。単に会衆のコラール歌唱を支えるための四声部編曲は除き、ポリフォニ(Polyphony)に作ったものというのが原則です。ポリフォニもすでに何度も説明しておりますが、多声部音楽のことで、各声部が独立した旋律とリズムを持ち、それらが調和している音楽のことです。フーガ(Fuga)はその代表といえましょう。

第2のオルガン曲はオルガン・ヒム(Organ Hymns)です。グレゴリオ聖歌の旋律を基にするオルガン曲のことです。典礼中の歌唱をオルガンの奏楽で代行するものです。マニフィカート(Magnificat)、ミサの式文の大部分がオルガンで奏されます。グレゴリオ聖歌をモテット(Motet)の作曲技法で編曲したものも指します。モテットとは、聖句を歌詞とする中世の無伴奏多声合唱曲のことです。プロテスタント教会の礼拝で歌われる讃美歌もそうです。ルター派の教会はオルガンと讃美歌なしではあり得ないことです。

第3のオルガン曲はオルガン・ミサ曲(Organ Mass)です。ミサ通常式文の各段に対応する多声的オルガン曲です。通常のミサ曲が式文の歌唱を中心とするのに対し、オルガン・ミサはオルガンによる独奏曲です。会衆が式文を唱えるのと並行して奏せられることもあります。グレゴリオ聖歌などを基にしたフーガ、モテット形式の曲が多いのも特徴です。

キリスト教音楽の旅 その10 オルガンの歴史 その4 足の技法

オルガンには足で操作するいくつかの装置が備わっています。足で鍵盤(ペダルボード)を押すのです。そこで足の技法が要求されことになります。重要なのは足鍵盤をひく足さばきです。オルガンでは足は単なる手の補助ではありません。手と同等の運動性が奏者に要求されるのです。

足鍵盤もまた、単旋律だけでなく対位法的に書かれた二重声部を奏する場合もあるのです。今はつま先とかかとを同時に用いて奏する四声部の曲もあります。対位法とはこのブログのどこかで何回か取り上げましたが、「同時に響く幾つかの旋律を、ある規則体系にしたがって組み合わせる方法」というものです。西洋音楽の根幹をなす作曲技法です。

足鍵盤

足の動きに対して坐り方も大事だといわれます。初心者はしばしばベンチに深く坐りがちのようです。そうではなく、ベンチのあまり後方ではなく、かかと足鍵盤に接する位置に坐ります。ペダルを見ずに正確に演奏するには相当の練習が要求されます。例えば、足を嬰ニ(D)と嬰ヘ(F)の間におき、黒鍵の側面に軽く触れながら隣あわせのホ(E)、ヘ、ト(G)の白鍵に正確に到着できることです。オルガン演奏には脚の長さも有利に働くかもしれません。

キリスト教音楽の旅 その9 オルガンの歴史 その3 演奏の仕方

演奏者は鍵盤の前に坐り、手と足で音色を決定するストップ(stop)と呼ばれる音栓と音高を決める鍵盤によって、風箱にある二十の弁を開閉して任意の音を得ます。鍵盤上の音域は4オクターブか5オクターブが主です。作曲者はそのオクターブで曲を作りますが、ときに11オクターブに達する曲を作ることもあります。

音色は、ストップをいくつか組み合わせてつくられます。ストップレバーは鍵盤の左右に数個から数十個も配置されているので、奏者が、演奏中に組み合わせを変えるのは大変です。そのため、以前はストップの操作のために助手が付いていました。両足を使うのは、低く太い音を出す大きな木管や金管から発音させるときです。そのために靴も特別です。奏者は木製の長いベンチに坐ります。木製なので腰を左右に移動するのが容易になります。

今日、音楽ホールや大聖堂などに設置されるオルガンは、鍵盤を弾きながら弁を自在にコントロールしている感覚がします。タンギング(tonguing)のような感じなのです。tongueとは舌のことです。リコーダーでは吹き口に舌を当てて一音一音区切るように音を出す奏法があります。空気の流れを一時的に中断し、各音の出始めを明確にするのです。オルガンのタンギングは指先で行っているといえます。

オルガンの管理ですが、パイプの内部に入ったほこりで音がよく響かなくなります。空気と接する振動面が音を放出するのを溜まったほこりが妨げるからです。そのため掃除は10年に1回位で行われます。パイプを分解して修理するオーバーホールもあります。ビルダー(builder)という職人がやる仕事です。オルガンは温度や湿度にも敏感です。礼拝前や演奏前は通常は空調を入れておきます。

オルガンのような機能を持つ楽器は他にありません。強いていえば管弦楽くらいものです。管弦楽はそれぞれの個性をもつ一つひとつの楽器、それを一人ひとりの演奏者が奏するアンサンブルといえます。オルガンは一人の演奏者による総合楽器とでもいえます。オルガニストは奏者でありながら、音楽全体を統括する指揮者でもあるのです。

キリスト教音楽の旅 その8 オルガンの歴史 その2 その種類

15世紀頃からローマカトリック教会では、オルガンミサ曲、オルガンヒム(organ hymns)が作られていました。こうした楽曲は本来声で歌われるグレゴリオ聖歌を定旋律として用いられ、オルガンによって歌唱が交互に奏せられるようになりました。これが今日の礼拝の形式となっています。

バロック時代には使徒書(Apostle)と福音書(Gospel)との間でトッカータ(toccata)が演奏されました。トッカータはオルガンによる即興的な楽曲で、技巧的な表現が特徴の音楽です。英国国教会でも礼拝の前後に奏楽され、会衆の歌のための前奏曲(hymn prelude)が即興で演奏されます。プロテスタント教会も礼拝ではこうした奏楽形式を採用しています。

オルガンは鍵盤楽器のなかでは最も歴史が古いものです。その大きさもひざの上にのるポルタティーフ(portative)と呼ばれる左手でフイゴからパイプに空気を送り、右手は鍵盤でメロディを奏でるもの、やや大きいポジティフ(positive)という据え置き型のもの、そして礼拝堂に組み込まれる巨大なものまであります。大オルガンの場合、その複雑な構造は楽器の中では他に類をみないものとなっています。

オルガンの構造は、ふいご、あるいは送風機で起こる風、それを空気タンクで調節して一定の風圧にして送風管に送るのです。直接音を出すのは管(パイプ)です。一管で一つの音のみを発音し、音階や音程を変えることができません。それだけにオルガンは多数の管を必要とします。管は音の高さにょって並べられ、単一の音色をもつ一列だけでも楽器として成り立ちます。例えば、スズと鉛の合金で作られる金管や木管だけのものもあります。金管は二つの金属の含有量によって音色が変わるといわるほど微妙な楽器なのです。通常は金管と木管の組み合わせによって、音色や音量を得るのです。それにより多様きわまりない変化が可能となるのです。まさに楽器の王様といえるえしょう。

キリスト教音楽の旅 その7 オルガンの歴史 その1

教会で用いられる器楽の代表はなんといってもオルガンということになります。歌や合唱を支えたり、単独でも演奏されるのがオルガンです。ルター派の教会では、オルガン奏者が歌詞の意味を汲んで、各節ごとに伴奏の和声を変えることがしばしばあります。典礼におけるオルガンと奏者の役割は誠に大きいといえます。

バロック時代(baroque)ではオルガンではなく、ハープシコード (harpsichord)や弦楽合奏がみられました。現代ではピアノやギター、ドラムなども使われます。その変遷は各教派によって異なります。

ルター派教会立バルパライソ大学の礼拝堂

多くの教派のうち、オルガン音楽に重きを置いたのはルター派です。特にバロック時代ではコラール旋律を定旋律として用いたオルガンコラールが多数作曲されます。コラール前奏曲はコラール歌唱に結びつき、まさに礼拝音楽といえるものです。コラール・フーガ(coral fuga)、コラール・ファンタジア(coral fantasia)は礼拝の前後や中盤で奏せられます。こうした音楽は会衆の信仰的な情動を呼び覚ます役割もあるといえそうです。

キリスト教音楽の旅 その6 キリスト教的芸術音楽

基督教徒にとって礼拝はとても重要で、そこでは個人の信仰心が深められ、魂の成長が促される機会ともなります。教会音楽はそのためにも役割を果たします。同時に芸術的な音楽も個人の慰めや憩いの役割をもっています。キリスト教芸術もそのために作られています。

キリスト教的芸術音楽は3つに大別されると云われます。第1は例とは無関係の音楽です。たとえばオラトリオ(oratorio)をはじめ、聖句,その他、道徳的な歌詞をもつ大小の楽曲です。第2は受難曲(passion)、教会カンタータ(cantata)、モテット(motet)などの楽曲です。本来ならば典礼音楽に準じるものです。第3は本来の典礼音楽の流用ともいえるものです。たとえば大型のミサ曲(mass)、レクイエム(requiem)、聖書日課の詩篇(psalm)などの全曲、あるいは一部です。その他にも讃美歌、コラール(coral)などもそれにあたります。バッハやモーツアルトなどの大家が多くの作品をかいています。

キリスト教音楽の旅 その5 典礼的教会と音楽

典礼的教会(Liturgy church)は、礼拝の普遍性を重んじます。カトリック(Catholic)とは「あまねく」という意味ですから。従って礼拝は公式行事の中心となります。教会は、個々人の信仰を包みつつ、個人の信仰をいわば「止揚」するという考え方に立ます。祈祷、賛美の言葉は思いつきで行ってはならないのです。それらは式文や成文として礼拝式に包含されるのです。

ローマ式典礼には、長い間ラテン語(Latin)が用いられました。ラテン語は西洋文明の古典の根幹にありました。学問の世界でもそうです。従ってラテン語が礼拝で使われていたのは、教会の普遍性を示していたといえます。ローマ教会のミサ(mass)、東方教会の聖体礼儀(divine liturgy)、ルター派の聖餐式(sacrament)、英国国教会の早祷(Matins)、晩祷(Vesper)などの儀式の音楽は式文によって進められます。そこで使われるのは云うまでもなく典礼音楽のことです。

詩篇(Psalm)、賛歌(Praise)、聖体降福式(Benediction)における聖歌、英国国教会のアンセム(anthem)やルター派のカンタータ(cantata)等は聖歌隊の分担となります。こうした音楽も会衆に理解し、歌えるような曲が用いられるのが普通です。

キリスト教音楽の旅 その4 自由教会と音楽

札幌独立基督教会と内村鑑三(二列目中央)

英国国教会とルター派教会以外のプロテスタント教会は、通常自由教会と呼ばれ、礼拝の形式化を嫌った発生的な理由により、教会暦や礼拝での式文の使用は緩やかです。特に、宗教改革後はカトリックの典礼主義への反発により、礼拝儀式や年間の宗教行事を自由化したり単純化していきます。礼拝で聖書のどの箇所を朗読するかは牧師に任され、それにそった説教や講解が重視されます。

音楽としては会衆による讃美歌歌唱が重視されます。しかし、歌唱は二義的であり礼拝の不可欠な要素ではありません。オルガンは会衆の歌唱を支援するものですが、オルガンを用いない教派もあります。自由教会の会堂に大規模なオルガンを設置されることは珍しいことです。会堂が比較的小さいこともあって、今は電子オルガンが広くゆき渡っています。従って聖歌隊も副次的な存在です。

自由教会の礼拝では信徒が証をすることも珍しくありません。信徒同士が質問をしたりコメントをすることもあります。牧師はそうした対話を奨励し補足したりします。牧師はファシリテータ(facilitator)といういわば対話の促進者となります。

現在の札幌独立基督教会

キリスト教音楽の旅 その3 プロテスタント教会

プロテスタント教会(protestant church)は、1400年代のルター(Martin Luther)やカルヴァン(Jean Calvin)以来の教会であり、さほど歴史は古くはありません。信徒数はカトリックの半分以下ですが、音楽としては多大な影響と比重を占めています。日本のプロテスタント教会の大勢はカルヴァンの改革派(Reformed church)で、ルター派の福音教会は割合としては少数です。

福音教会もカトリック教会と類似した典礼や礼拝様式を持っています。英国国教会はアングリカン・チャーチ(Anglican Church)とか聖公会といわれ、教義上はプロテスタント,儀礼や礼拝はカトリックという独自の立場をとっています。世界中に38の管区と約4,500万の信徒を有しています。日本聖公会が発足したのは1887年です。

カトリック教会は、聖書以外にも教会の伝統、教皇の権威を重視します。聖職者の祭司的特権も認めています。プロテスタントの各派はいずれも聖書を信仰の基礎に据え、教会の儀式によらず個人の信仰によって救われるという考え方に立ちます。聖職者と信徒との間に根本的な区別は認めません。その考え方を「万人祭司」(universal priesthood)といいます。

教会音楽の形態を分類するとき、典礼的教会と自由教会というように分類すると分かりやすくなります。典礼的教会とは礼拝に一定の式文を用い、その式文は教会歴によって一年間の式音楽が定められています。ローマカトリック、ギリシャ正教、英国国教会、ルター派の教会は、典礼的教会で各日曜主日の礼拝式や結婚式、葬儀に至るまで、その時朗読する聖書箇所、祈り、聖歌や讃美歌などは決められています。式文は簡素化されることもありますが、礼拝を盛大に行うときは式文に添い、音楽は礼拝そのものと不可分となっています。聖歌隊の発達はそうした伝統によっているのです。

キリスト教音楽の旅 その2 カトリックとプロテスタント

キリスト教音楽を別な角度から分類するとすれば、カトリック教会(Catholic)系、東方教会(Eastern Christianity)系の音楽とプロテスタント教会(Protestant)系音楽ということになります。東方教会の別の呼び名は正教会(Orthodox Church)、あるいはギリシャ正教会(Greek Orthodox Church)ともいわれます。

カトリック教会は、必ずしもその名称や理念が示すように普遍的とか全人類的というものではありません。例えば、1962年から1965年に開かれた第2バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum))は、公会議史上初めて世界5大陸から参加者が集まり、ようやく普遍公会議というにふさわしいものになったといわれるくらいです。この公会議の大きなテーマは、カトリック教会の教義における現代化とか改革といわれます。

プロテスタント教会は宗教改革やルター派、英国国教会、カルヴァン主義諸派(長老派、改革派、会衆派)、メソジスト派、パブテスト派、自由教会各派(フレンド派、キリストの教会、ホーリネス派、救世軍、ピューリタン派)などがあります。モルモン教会は新興の教会です。以上の教会の英語名は次のようになります。少々退屈な説明となりますが、ご勘弁を。
 ルター派(Lutheran)
 英国国教会(Church of England)
 カルヴァン主義諸派(Calvinism)
 長老派(Presbyterian)
 改革派(Reformed)
 会衆派(Congregational)
 メソジスト派(Methodist)
 パブテスト派(Baptist)
 自由教会各派(Free Church)
 フレンド派(Friend)
 キリストの教会(Church of Christ)
 ホーリネス派(Holiness Church)
 救世軍(Salvation Army)
 ピューリタン派(Puritan)
 独立教会(Independent)
 モルモン教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)

ともあれ、カトリック教会は、東方諸教会やプロテスタント教会との合同礼拝や一致(Ecumenism)といったことを促進しています。キリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動が「Ecumenism」ということです。カトリック教会は、世界的にみて教会音楽の世界でも中心的な役割を果たしているといえましょう。

キリスト教音楽の旅 その1 典礼音楽と大衆的宗教音楽

私はキリスト教と音楽について専門家ではありませんが、少しはかじっているので、個人的な経験や知識をもとに筆を進めることにします。できるだけ時代考証をしながら正確を期してまいります。

キリスト教音楽は大きく二つに分類することができそうです。一つは典礼とか礼拝のための音楽、もう一つは大衆的宗教音楽、たとえばラフダ(lauda)と呼ばれる神をたたえる歌やオラトリオ(oratorio)などの大規模な楽曲です。大衆的宗教音楽というのは、筆者の造語です。

典礼は礼拝とか祭礼とも呼ばれ、体系化されたものです。キリスト教会においては、教派や教団によって制定されています。典礼の形式はそれぞれに異なり、奏でられる音楽もさまざまです。こうした典礼音楽は公の礼拝や祈祷でのみ用いられる狭義の音楽です。他方、大衆的宗教音楽というのは、一般に演奏会向けのキリスト教音楽というか、芸術音楽のことです。大衆的宗教音楽の主題は、聖書の記述を拠りどころにしているのが普通です。クリスマス・オラトリオ(Chrismas Oratorio)とかレクイエム(Requiem)などが有名です。

心に残る名曲 その二百八 日本の名曲 多田武彦 「富士山」

日本の音楽界ではあまり知られてはいませんが、合唱界では多田武彦に「この曲あり」としてしばしば歌われる曲があります。それが「富士山」であり「柳河風俗詩」です。作曲家としては少々異色です。京都大学法学部を卒業し、京都大学男声合唱団の指揮者として活躍します。作曲家清水脩に作曲上の指導を受けます。

多田武彦

草野心平の詩による「富士山」は1956年の作、北原白秋の詩による「柳河風俗詩」は1954年の作で男声合唱の定番となっています。いずれも初演は京都大学男声合唱団によって紹介されます。多田は「詩に寄り添うように」を作曲のモットーにして、合唱曲を500曲あまりを作っています。その作風は抒情性が高く、決して派手ではありませんが、和声を駆使しての日本の近代詩に寄り添うような旋律がつきます。曲の大多数は草野心平や北原白秋の他に、三好達治、伊藤整、中原中也、堀口大學などの近代詩を取り上げています。

多田武彦は、「アンサンブル上達のための練習方法」という冊子を出しています。「アンサンブル」(ensemble)とは、フランス語です。「一緒に」とか「全体」などを意味する単語です。音楽の世界では合奏、重奏、合唱、重唱などを指します。多田は云います。「他のメンバーの良い響きに聴きながらパート練習をやっていくと、やがてパート内に豊かな響きが充満する」と。そのことによって他のパートとの整合性も高まってくるというのです。

心に残る名曲 その二百四五 日本の名曲 小山作之助 「夏は来ぬ」

1864年といいますと文久3年です。越後国頸城郡潟町村、現在の上越市大潟区潟町に小山作之助は生まれます。 16歳で小学校を卒業した後、夜は漢学塾に通い、1884年に文部省の音楽取調掛に入学します。音楽取調掛はのちに東京音楽学校に改組されます。小山は首席で卒業後、東京師範学校や東京盲唖学校の教師ととなります。

小山作之助

やがて1892年に東京音楽学校の助教授、1897年には教授となります。教え子にはのちに作曲家となる瀧廉太郎がいます。47歳の時には文部省唱歌の編纂委員として作曲活動に入ります。小山の作曲は唱歌、童謡、軍歌、校歌など非常に多岐に亘ります。「夏は来ぬ」は小山の最も知られる曲と言えるでしょう。2007年に日本の歌百選に選ばれます。作詞は歌人で国文学者の佐佐木信綱です。

 卯の花の 匂う垣根に
  時鳥 早も来鳴きて
   忍音 もらす 夏は来ぬ

心に残る名曲 その二百七 日本の名曲 中田喜直 「雪の降る街を」

現在の東京都渋谷区は、かつて東京府豊多摩郡と呼ばれていました。中田喜直はそこの出身です。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男でした。やがて「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」、「夏の思い出」などを作曲し、今日も小中学校の音楽の時間で歌い継がれています。数々の童謡、楽曲を作曲した日本における20世紀を代表する作曲家の一人といえましょう。

まず、「夏の思い出」のことです。作詞は江間章子で、彼女は幼少の頃、岩手山の近くの八幡平市に住んでいたようです。そこは水芭蕉の咲く地域でした。昭和19年頃、たまたま尾瀬を訪れて一面に咲き乱れる水芭蕉を見ます。昭和22年にNHKから依頼されとき、思い浮かんだのが尾瀬の情景で、その印象を綴ったのが「夏の思い出」といわれます。NHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」で全国に行き渡り、おかげで尾瀬は有名になったというエピソードもあります。

次ぎに「雪の降る街を」のことです。1952年に発表され大ヒットします。この曲を作詞したのは後に劇作家として活躍する内村直也です。「雪の降る街を」はNHKの「みんなのうた」の1回目に登場し、歌は立川澄人が歌います。高英男の歌唱によりレコードも制作されるとさらに人気が高まります。高英男の甘く高雅な歌い方は聞く者をしびれさせていきます。後に中田は女声合唱、混声合唱に編曲していきます。

歌の出だしは、 「雪の降る街を想い出だけが通りすぎてゆく」、「雪の降る街を足音だけが追いかけてゆく」、「雪の降る街を息吹とともにこみあげてくる」
そして、「温かき幸せのほほえみ」、「緑なす春の日のそよ風」、「新しき光降る鐘の音」と締めくくるのです。雪の暖かさが伝わるような歌詞と旋律です。

心に残る名曲 その二百五 日本の名曲 大中 恩 「サッちゃん」

父親は『椰子の実』の作曲者である大中寅二です。父が教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことが、大中の音楽への関心を向けます。ただ、教会の聖歌隊にいた女性に憧れたというエピソードも残しています。1942年に東京音楽学校の作曲科入学します。しかし、1943年10月の学徒出陣で海軍に召集されますが、その直前に作った北原白秋作詞の混声合唱曲「わたりどり」は戦場に向かう備えで書いたといわれます。

復員後、1945年に音楽学校卒業し歌曲集、佐藤春夫作詞「五つの抒情歌」、「しぐれに寄する抒情」、三木露風作詞の「ふるみち」を作ります。その後は子どものための音楽作りをライフワークとします。時代を超えて歌い継がれている曲に佐藤義美作詞の「犬のおまわりさん」、阪田寛夫の作詞の「サッちゃん 」、「おなかのへるうた」があります。阪田と大中は従兄弟でした。大中の作風は、歌詩に基づく優しいメロディとリズム、美しい語感をたたえた和声が特徴といわれます。

わたりどり」 北原白秋 作詞
  あの影は渡り鳥、
   あの耀きは雪、
    遠ければ遠いほど空は青うて、
   高ければ高いほど脈立つ山よ、
    ああ、乗鞍嶽、
     あの影は渡り鳥。

うたのおばさん 松田トシ

心に残る名曲 その二百四 清水 脩 「月光とピエロ」

日本の合唱界に大きな足跡を残したのが清水脩です。1911年に大阪で生まれます。父親は四天王寺で雅楽楽人だったようです。中学の頃から簡単な合唱曲を書いていたという記録があります。

大阪外国語大学に入り、そこでグリークラブの指導者となります。フランス語に精通し、フランス音楽の研究、特にドビュシー(Claude Debussy) の文献を調べます。1937年に東京音楽学校に入学し橋本国彦らに作曲法を学びます。

1939年の第八回音楽コンクールで「花に寄せた舞踏組曲」が第一位となります。戦後は全日本合唱連盟で合唱の指導にあたります。1950年に「インド旋律による4楽章」が芸術賞となり、1954年の最初のオペラ「修善寺物語」が同じく芸術賞を受賞します。

合唱曲は男声合唱が多く堀口大学作詞の組曲「月光とピエロ」、「山に祈る」等があります。著作や訳書も多い作曲家です。