世界を旅する その二十二 アイルランド その10 スウィフトと合理主義

「世界を旅する–アイルランド」は今回でお終いです。話題が尽きました(; ;) おさらいですが、アイルランド人はアイリッシュ(The Irish)と呼ばれます。アイリッシュであったスウィフトは、散文風刺作家であっただけでなく、教会の聖職者、一流のジャーナリストでもありました。1710年頃、イギリスは二大政党であったトーリー党(Tory)とホイッグ党(Whig)が政権争いをしていました。前者は現在の保守党の前身、後者は後の自由党です。両党とも有力貴族出身の議員を中心とする派閥の連合体でありました。

スウィフトはホイッグ党の支持者でした。トーリー党は伝統的に王権神授説(The Doctrine of Divine Right of Kings)を信奉してきました。スウィフトそれを否定し、究極の主権は国民にあると主張し、それはイギリスの政体においては国王、貴族、庶民の協力によって行使され、三者の間で権力のバランスが図られることが専制を防ぐ保証となると考えたのです。

スウィフトは1720年頃からアイルランドの政治や社会問題についてのパンフレットを数多く書きます。アイルランドの後進性を知っていたスウィフトは、それをイングランド人の責任に帰しながらも、アイルランド自身がその運命を改善する方途を考えるように注意を喚起していきます。そうした問題意識をとらえたのがガリヴァー旅行記です。

ガリヴァー旅行記の原題は「レミュエル・ガリヴァーの筆になる遠い世界の国々の探訪記」といいます。1725年に脱稿したとき、友人への手紙の中で「世間を楽しませるよりはむしろ、腹立たせるためにこれを書いた」と云っています。立腹させる対象はイングランド人だったようです。

スウィフトの思想は、17世紀後半のイギリスの合理主義(rationalism)にありました。日本大百科全書(ニッポニカ)によりますと、合理主義とは「非合理的、偶然的なものを排し、理性的、論理的、必然的なものを尊重する立場」とあります。感覚的経験によってではなく、理性的な思考によって導かれたもののみを確実な認識であるとします。強い道徳的な傾向や常識の尊重ではなく、人間行為の評価の基準と遵守すべき規範とはなにかという考えをスウィフトに与えます。ガリヴァー旅行記には、そうしたスウィフトの思いが風刺にいきいきと表現されています。

世界を旅する その二十一 アイルランド その9 ガリヴァー旅行記 その3 ”この国には乞食はいない”

第三の冒険をする場所は、ラピュータ(Laputa)という空中を浮遊する国です。ガリヴァーは、ラピュータの学問は途方もなく壮大で大仰なもので、それも実用的ではないことを知ります。例えば収穫高が100倍になるという触れ込みのラピュータ式農法は全く失敗に終わり、土地が荒廃する結果となったということを知るのです。

ガリヴァーは、ラピュータ国の陛下にイギリスの歴史を語って聴かせます。陛下は驚かれ、イギリスとは陰謀と反逆、殺人と虐殺、革命と排斥ばかりの国であると思ってしまうのです。陛下は、その理由として人間の欲望と憎しみ、不実、暗黒、狂気、嫉妬、野望といった最悪の罪によって生み出されものではないかと考えていきます。ガリヴァーの話を聴いていた陛下は、「お前はかなり腐りきった国からやって来たようだ!!」と叫ぶのです。

最後の冒険は、フウイヌム国(Houyhnhnm)です。この国は、理性のある馬が支配する国です。馬は悪徳、支配欲や物欲、憎悪や嫉妬などの非道徳的な感情も持ちません。フウイヌムには、人間によく似た卑しく忌み嫌われる動物がいます。それはヤフー(Yahoo)と呼ばれていました。それでも陛下は、フウイヌムには権力や政治、戦争というものはないこと、「うそ」という概念が理解できない国であるとガリヴァーにいいます。年をとったり病気になった場合、施設で面倒をみてもらえる、そういうわけで、この国には乞食はいないとも説明するのです。

世界を旅する その二十 アイルランド その8 ガリヴァー旅行記 その2 不死人間

ガリヴァーが漂着した最初の場所が、約15センチくらいの小人が住むリリパット(Lilliput)という国です。ガリヴァーはやがて縄を解かれ、徐々に彼らの言葉を覚えます。しばらくすると、リリパット国と隣のブレフスキュ国(Blefuscu)が戦争状態であることを知ります。それも些細な理由です。『卵の殻は大きい方の端から割るか、小さい方から割るか』という論争なのです。戦争というのはちっぽけな理由で始まり、多くの犠牲者を出すものだとガリヴァーは云うのです。

リリパット国では詐欺は盗みより罪が重く、恩知らずな行為には極刑もあるのです。人々は73か月ほど国の法律を守ったことが証明されれば報奨金が与えられ、さらに順法卿(Sir)という称号が与えられるというのです。イギリスの叙勲制度における栄誉称号を風刺するのがこのくだりです。

次に上陸したのはブロブディンナグ国(Brobdingnag)という一つ目の大きい巨人の国です。ガリヴァーはたびたびその国の指導者と学問や歴史について話をします。そこは不死の人々が存在する国です。ガリヴァーは、不死と聞いて死に怯えることもなくなる、なんと素晴らしいのだと思うのです。自分が不死だったらこうもしたい、ああもしたいと目を輝かせて語るのですが、その国の住人は、それを冷ややかな目でみるのです。

実際に不死の人と出会ったガリヴァーが、彼らから遠回しに言われたのは「金をくれ」ということでした。というのは、90歳になれば、ただ生きているだけの状態になり、周囲からは厄介者としかみられなくなっているからでした。この不死人間の悲惨な境遇を見たガリヴァーは、死が救済なのではないかと思うようになります。それでガリヴァーは永遠の生への興味を失ってしまいます。

世界を旅する その十九 アイルランド その7 ガリヴァー旅行記 その1 遭難

ルミュエル・ガリヴァー(Lemuel Gulliver)という主人公の16年7か月にわたる航海を描いた奇想天外な冒険小説です。実はこの小説は1700年代のイギリス人の社会や慣習に批判的な視点からの風刺文学でもあることは前稿で述べました。当時、イギリスの統治下でアイルランドは極度の貧困にあえいでいたという事情を知っておく必要があります。

この物語は、おいおい展開していきますが、第3話には、ガリヴァーはラグナグ(Luggnagg)という港を出航して日本の東端の港、ザモスキ(Xamoschi)に上陸し、江戸で「日本の皇帝」に拝謁を許されるという場面があります。オランダ人に課せられる踏み絵の儀式を免除してほしいと申し出る、といった挿話もあります。日本の地名としてザモスキという地は「東端の港」という記述から横須賀の「観音崎(Kannonsaki)」ではないかという説もあります。ガリヴァー・ファンタジーは風刺とは別な世界ですが、作家スウィフトの空想力を楽しむことができます。

さて、本題のガリヴァー旅行記ですが、4つの渡航記からなります。ガリヴァーは船医となって旅に出ます。しかし、猛烈な嵐に見舞われ船は難破してしまうのです。目が覚め周りを見回すと、岸辺で小人に手足や体中を縛られているのです。ここからガリヴァーの不思議な国々での冒険が始まります。

世界を旅する その十九 アイルランド その8 スウィフトとアングロ・アイリッシュ文学

アイルランドが英語による文学、つまりアングロ・アイリッシュ文学(Anglo Irish literature)のすぐれた作品を生み出したのは、イギリスの統治が進み英語が十分に日用語化した17世紀後半といわれます。18世紀以降に現われたアイルランド人による英語で書かれた文学作品は、皮肉にもイギリスに対する痛烈な批判や社会風刺でありました。

ブリタニカ百科事典によりますと、19世紀初頭のアングロ・アイリッシュ文学は、民族主義と自由主義、そして革命がこの時代の空気であり、一方ロマン主義の影響も現われ初めていたといわれます。長い間、イギリスの統治という忍従に耐えてきたアイルランドは自らの足で立ち上がり、特異な生き様を文学作品において語り初めたのです。

Jonathan Swift

ケルト民族の伝統を継いだ文学者で、アイルランド古典文学再生の先駆をなしたのが、ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)といわれます。スウィフトはアイルランドで生まれダブリン大学で教育をうけます。そして不朽の名作「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を世に送ります。

この冒険小説は、我が国でも童話として広く紹介されるほど、面白いストーリーと展開です。しかし、全体を読んでみますと単なる空想的な冒険談でないことがよく分かります。スウィフトが選んだテーマはイギリス政府の過酷なアイルランド政策による屈辱であり、それを痛烈に非難し、イギリス社会にどっぷりと根ざした精神性や伝統を冒険談にくるんで風刺しようとしたことなのです。

世界を旅する その十八 アイルランド その7 独立戦争とアイリッシュ

アイルランドは、1650年代にクロムウェル(Oliver Cromwell)による過酷な植民地支配を受けます。クロムウェルはイングランドの政治家であり軍人でありました。彼はイングランド共和国(Commonwealth of England)初代の護国卿(Lord Protector)となります。その後、プロテスタントによるカトリック教徒であるアイルランド人への迫害が長く続きます。さらに1845年から4年間にわたって起こったジャガイモの疫病による食糧不足でアイルランド人が大勢亡くなります。

アメリカに移住したアイリッシュの歴史は東海岸のボストンにみられます。1700年代の初頭、植民地支配が続くボストンあたりでイギリスからの抵抗運動が起こります。植民地時代のアイリッシュのイギリスからの独立運動はボストン市内の各所にある旧所名跡に残っています。例えばボストン茶会事件(Boston Tea Party)です。当時、植民地であったNew Englandの中心、ボストンは紅茶や綿花の本国へ送る港でした。抑圧されていたアイリッシュは独立のために立ち上がったのが、バンカーヒルの戦い(Bankerhill) 、レキシントン・コンコードの戦い(Lexington & Concord)などです。やがて独立をなしえたのは1789年です。

司馬遼太郎は「愛蘭土紀行」において、アイルランドだけでなくアイルランドと関係のある国、関連する歴史を掘りおこし、アイルランドの人々に流れる精神にスポットをあてます。独自の史観や文化観によって、その地の歴史や地理や人物を克明に描写するのが特徴です。「街道をゆく」という名前から、司馬遼太郎は人や物が交流する「街道」や「海路」にこだわり、日本や世界の歴史を展望しているといえましょう。

世界を旅する その十七 アイルランド その6 ケルト人とガリア人

ヨーロッパの先住民族は、ケルト人(Celtic)と呼ばれていました。Celticは、「ケルト人の」とか「ケルト語の」を意味する形容詞です。名詞としてはケルト語を意味します。別名ケルティックとも呼ばれます。ローマ帝国のローマ人はケルト人をガリア人(Na Gaeil)と呼んでいたといわれます。昔、フランスやベルギー、スイス、オランダおよびとドイツの一部はガリア(Gallia)地域といわれ、そこに住む諸部族はガリア語あるいはゴール語(Gaule)を使っていました。

ブリタニカ百科事典によりますと、ケルト人はローマ人からは野蛮人と見下され、ローマ帝国の支配を受ることによって独自性を失い、さらにゲルマン人(German)に圧迫されたためアイルランドやスコットランド、ウェールズなどの一部に移住を余儀なくされたとあります。その間のケルト人の歴史や生活、宗教、神話などは後日取り上げていきます。

Celticがいたころのヨーロッパ

ケルト人はもともと精悍な騎馬民族として行動してきました。中央アジアの草原から馬と車輪付きの馬車を持ってヨーロッパに渡来した民族です。彼らは木で作った車輪の寿命を延ばすために、動物の皮や木のタイヤの代わりに鉄のタイヤを取りつける方法を発明します。4輪の馬車を考案したのもケルト人です。しかも前輪によって舵取りができるようにしたといわれます。戦車や馬車が武器とが使われていきます。

世界を旅する その十六 アイルランド その5 「アイリッシュ・ディアスポラ」

「アイリッシュ・ディアスポラ」 (Irish diaspora) は、アイルランド島外に移住したアイルランド人をさす言葉です。「ディアスポラ」の語源ですが「散らされた民」といって、イスラエルを離れて異邦の地で暮らす離散したユダヤ人を指すギリシア語です。典拠はイザヤ書(Isaiah)。その49章6から9節などに記述があります。『 わたしは捕えられた人に「出よ」と言い、暗きにおる者に「あらわれよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。』Isaiah49:9

1845年から起こった国難にジャガイモ飢饉(Potato Famine)があります。この食糧事情などの悪化によってアイルランド人口の少なくとも20%が餓死および病死したといわれます。ジャガイモ飢饉によって、人口の10%から20%が世界各国に移住します。移住先としてはアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドです。現在の合衆国では、アイリッシュは約3,600万人、総人口の12%を占めるといわれます。今でいえば難民といえるでしょう。

現代の「ディアスポラ」の一例は、モン族(The Hmong)でしょう。軍事政権初期にミャンマー国内が内乱状態に陥いると、独自の王国を復古させようとする運動は弾圧され、タイ北部に逃れた数多くのモン族が難民がタイ側へ脱出します。その後アメリカのミネソタ州やウィスコンシン州に難民として受け入れられています。

モン族

世界を旅する その十五 アイルランド その4 街道をゆく「アイリッシュの気質」

アイルランドはイギリスを含む周辺諸国からの侵略や差別などの苦難に耐え抜いてきた歴史があります。17世紀にイギリス本土での清教徒革命(Puritan Revolution)で実権を握ったオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)が行なったアイルランド侵攻もそうです。プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」が前回登場したIRA成立の背景にあります。

Oliver Cromwell

そうした逆境の影響からか非常に辛抱強く負けん気も強く、大胆で誇り高い民族という見方もできそうです。アイリッシュには努力家の人も多い傾向があるといわれます。民族意識や民族性は、歴史により育まれた産物であるともいえそうです。

司馬の「愛蘭土紀行」では「アイルランド人の気質」について次のようなことが書かれています。アイルランド人としての典型的性格は、映画化しやすいというのです。例として、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)が演じている映画「ダーティ・ハリー」(Dirty Harry)という刑事ものをあげています。非常に頑固な性格で、正義感や責任感も強く、情に深い一面があり、自分を曲げない芯の強さがあるというのです。ダーティ・ハリーの名はHarry O’Callahanといってアイルランドの名前です。チームワークを嫌い、悪をはなはだしく憎み、独力で悪に挑戦し、時に法さえ超えてしまう行動です。

アイリッシュをステレオタイプ化した性格でとらえるのは、はなはだ危険ではありますが、一般には組織感覚が少なく、統治されることを忌み嫌うもといわれます。「ダーティ・ハリー」は、その典型のようなところがあります。「演劇化しやすいのがアイリッシュだ」というのも、あながちうがった見方ではなような気がします。

世界を旅する その十四 アイルランド その3 街道をゆく「愛蘭土紀行」

司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズは、日本国内はもとよりアイルランド・アメリカ・中国・オランダ・韓国・モンゴル・台湾など旅の紀行集です。その30巻が「愛蘭土紀行」です。「愛蘭土」という漢字を誰がどのような理由で付けたかはわかりません。司馬は、国々の特徴や民族や文化などについて幅広い知識で記録しています。「雑学」に長けていると揶揄する評論家もいますが、そうした評論家が果たして「街道をゆく」のような紀行文を書けるかとなると疑問です。それほど司馬は知的な好奇心が強く、かつ博識だったといえましょう。

アイルランドの首都はダブリン(Dublin)。アイルランドの歴史の中で重要な役割を果たしてきたところです。スコットランドの対岸に面しています。ジェイムズ・ジョイスは小説「ユリシーズ」においてダブリンの街を克明に記述しているため、ジョイスは「たとえダブリンが滅んでも、ユリシーズがあれば再現できる」と語ったという逸話があります。

司馬遼太郎

もともともアイルランドはイギリス領でした。1916年4月24日といえば、キリスト教でいう復活祭(Easter) の時期です。「イースター蜂起」と呼ばれる7日間に渡る武装蜂起をきっかけに独立運動が起こります。これがアイルランド独立戦争(Irish War of Independence)のきっかけで、1919年から1921年まで続きます。このイースター蜂起で主要な役割を担ったのがカトリック系武装組織であるアイルランド共和軍(Irish Republican Army) 、略称IRAです。「愛蘭土紀行」にはアイリッシュの気質に触れている箇所があります。アイリッシュの典型的性格、チームワークを嫌い、組織感覚がなく独力で戦うという記述もあります。こうした描写はなぜか読者を惹き付けるものです。そういわけでアイリッシュの気質は次号で触れます。

世界を旅する その十三 アイルランド その2 親父とジェイムズ・ジョイス

父親は96歳で八王子は高尾の地で他界しました。趣味の中でことの他、読書が好きで書斎に閉じこもってはお気に入りの小説を読んでいました。疲れたときはクラッシック音楽を聴くのがおきまりの日課でした。なぜか親父はアイルランド人、アイリッシュ(Irish)である作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の「ユリシーズ」(Ulysses)を読んでいたようです。私と会う度に、「ユリシーズは難しい小説だ」といっていたのを記憶しています。不肖の私はまだこの小説を読んでおりません。

ジョイスの他にアイルランドの文芸復興を促したといわれ、日本の能の影響を受けた詩人に劇作家のウィリアム・イェーツ(William Yeats)がいます。同じくアイルランド出身の劇作家、小説家、詩人にサミュエル・ベケット(Samuel Beckett)もいます。ベケットはフランスのレジスタンスグループに加入。ナチスに対する抵抗運動をしたという経歴を有します。1923年にイェーツはノーベル文学賞を、ベケットは1969年に同じく文学賞を受賞します。童話でも知られる強烈な風刺作品「ガリヴァー旅行記(Gulliver’s Travel)」を書いたジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)もアイリッシュです。

日本で知られるアイルランド出身の小説家でジャーナリストといえばラフガディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)でしょう。父はアイルランド出身でプロテスタント・アングロ=アイリッシュ(Angro-Irish)です。両親とともに首都ダブリン(Dublin)で幼少時代を同地で過ごします。あちらこちらを遍歴し、さまざまな職業に就きますが、1890年に来日し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺したことで知られています。1896年に日本に帰化し奥方の姓で「小泉八雲」と名乗ります。

Lafcadio Hearn

アイリッシュがなぜ不朽の傑作を世界中に残したのか、それが知りたくなります。

世界を旅する その十二 アイルランド その1 St. Patric Day

今年はアイルランド(Ireland)に行きそびれました。長男の家族4人、そして嫁さんの両親が7月上旬にアイルランドの西海岸方面で避暑を楽しんだようです。彼らの結婚50周年記念の旅でした。嫁の母親、Dianeはアイルランド系で、この旅はいわばセンチメンタル-ジャーニー(sentimental journey)というわけです。言い忘れるところでしたが、私はまだアイルランドを旅したことがありません。

家族等が滞在したのは、アイルランドの西海岸にあるゴールウェイ(Golway)という街です。名前の由来は、ガリヴ (Gallibh)という外国人という意味のアイルランド語であるといわれ、今は「外国人の町と呼ばれているようです。アイルランド語は、ゲール語(Gaelic)とも呼ばれ、アイルランドにおける第一公用語となっています。

私とアイルランドのちっとしたつながりです。ルーテル教会の礼拝にいったときです。親しくしていた夫人からキスをされました。たまたま私は緑の服装をしていました。「今日はセント・パトリック・デイ(St. Patric Day)だというのです。」 私はそんな風習を知りませんでしたが、心地良い気分になりました。そういえば、周りの信者さんは緑色の物を身につけていました。アイルランドにキリスト教を広めた聖人、聖パトリックの命日、3月17日がSt. Patric Dayとなったとあります。アイルランド共和国の祝祭日となっています。

世界を旅する その十一 ポーランドと日本の移民の歴史

19世紀中葉にかけては、アメリカ合衆国への移住者が最も多い時期です。英語以外の言語を母国語とする人々のうち、ドイツ系、イタリア系の人々に次いで多いのがポーランド移民です。1960年代には637万人がポーランド系と推定され、そのうち75万人がポーランド生まれといわれます。

こうした移民の特徴は、ポーランドにおける政治や経済の不安定、農業形態や経済構造の変化にともなう農村部を中心とする余剰労働力の増加という事情が指摘されています。ポーランドからの海外への移動は「出稼ぎ」ではなく「定住」という移民形態でありました。それゆえ家族を同伴した移動が主流でありました。

我が国における移民の歴史にも触れることにします。最初の移民は、1868年で、当時スペイン領であったグアム島(Guam)へ農業移民42人が渡ります。これは「出稼ぎ」でありました。ハワイへ(Hawaiʻi)の移民も1868年に始まります。横浜在住のアメリカ商人で元駐日ハワイ総領事のバンリード(Eugene Van Reed)が斡旋した「出稼ぎ移民」で150人の日本人労働者をハワイのサトウキビのプランテーションへ送りだします。

1885年には、ハワイ王国(Kingdom of Hawaiʻi)との間で 結ばれた「移民条約」によってハワイへの移民が公式に許可され、946人の日本人が移民します。さらに沖縄からは、1899年に26人がハワイのサトウキビ農場へ「出稼ぎ移民」として渡ります。

少しさかのぼり、1880年代よりカリフォルニア(California)に日本人移民が渡り、 1900年代に急増します。1905年には 約11,000人がハワイへ、1920年に 6,000人がアメリカへ移住します。日米開戦当時、アメリカ本土には日系1〜3世含めて約128,000人が住み、そのほとんどがカリフォルニア州を中心にオレゴン(Oregon)、ワシントン(Washington)といった太平洋岸の州に住んでいました。

世界を旅する その十 ポーランド人の移民

私がウィスコンシン(Wisconsin)の州都マディソンに住んでいたとき、ポーランドの地名や市町村名が地図に沢山あることに気がつきました。その代表はPoland, ワルシャワ(Wausau)、ワーケシャ(Wauksha), ワーパカ(Waupaca)、ワーノキ(Waunakee)、ワートマ(Wautoma)、ポーテジ(Portage)といった町です。

1900年代のStevens Point

1857年に最初のポーランド人がウィスコンシン州の東部から中西部にかけて移植してきます。南北戦争が始まる以前です。ウィスコンシンで最初のポーランド人コミュニティが形成されたところがポーテジとかスティーブンスポイント(Stevens Point)です。その定住地、コロニーは「Polonia」と呼ばれます。

ウィスコンシン州にやってきたポーランド人は、ポーランドの西部地方である「Kaszuby」付近からやってきたといわれます。「Kaszuby」はバルト海(Baltic Sea)に面するグダンスク(Gdansk)のあたりです。ウィスコンシンを選んだのは、気候や土地が母国と似通っていたことが主たる理由です。ポーテジ郡のあたりには、ドイツやアイルランドの移民もすでにいて、農地に適した肥沃な土地はすでに耕されていたようです。ポーランド人は、氷河が残した岩や石が混ざる土地を選ばざるをえませんでした。農地の開墾は、岩や石を取り除く作業から始まります。やがて、教会堂や学校をつくっていくのです。

世界を旅する その九 ポーランドと日本 魂の救済

上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき挨拶の中で、2人のカトリックの聖職者と日本との関わりを語っています。その人とは、ポーランド人のコルベ神父(Maksymilian Maria Kolbe)とゼノ修道士(Zenon Zebrowski)です。この2人が日本でどのように活動したかを紹介します。

1930年にフランシスコ修道会(Franciscan Missionaries)のコルベ神父がゼノ修道士らと長崎に到着します。コルベ神父は哲学博士号を有する学者でもありました。早速長崎教区に対して『無原罪の聖母の騎士』という布教誌の出版を願い出ます。教区はそれを認め、コルベ神父は教区の神学校で哲学を教えることになります。翌月の5月には、長崎の大浦で日本語版の布教誌を出版し、長崎の本河内に「聖母の騎士修道院」を設立します。現在は「聖コルベ記念館」となっています。1936年にポーランドに帰国したコルベ神父は、ユダヤ人をかくまった罪でナチスに逮捕さrれ、アウシュビッツ(Auschwitz)で餓死刑を受け、47歳で死去します。この惨い出来事はいろいろな本やサイトで紹介されています。

ゼノ修道士

もう1人のポーランド人の聖職者、ゼノ修道士のことです。本名の綴りは前述した「Zenon Zebrowski)」ですからゼブロフスキーと読んだ方が正確です。ですが日本では「ゼノ神父」として慕われていたといわれます。1945年8月9日に長崎で被爆する体験をします。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、特に浅草のバタヤ街など全国各地で支援活動を行うのです。「バタヤ」とは鉄や銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収する日雇い労働者のことです。当時廃品回収や仕切りをする「蟻の会」という労働者の生活協同体があり、そこで人々を支援します。魂の救済活動です。それ故「蟻の街の神父」と呼ばれたようです。

世界を旅する その八 ポーランドと日本 日本文化研究

2002年7月に、現在の上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき、ポーランド大統領夫妻主催の晩餐会でなされた挨拶は、ポーランドと日本の関係を示す貴重なものです。その中で、ワルシャワ大学東洋学部日本語学科の教授をしていたコタンスキ(Wieslaw Kotanski)教授のことに触れています。コタンスキ教授は日本語や日本文化研究者で「古事記」の研究を始め,雨月物語、雪国、日本文学集などをポーランド語で紹介しています。1957年以来何度も来日し、日本における宗教発展の概要についての著作もあります。

上皇上皇后両陛下は、同じく挨拶の中でアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)を中心として両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフ(Krakow)に設立された「日本美術技術センター」のことにも触れています。1987年にワイダは稲盛財団による京都賞の思想・芸術部門で受賞します。「人間の尊厳と自由精神の高揚を力強く訴えてきた」というのが受賞の理由です。ワイダは賞金を全額寄附し「京都クラクフ財団」をつくります。そしてクラクフで日本美術技術センター設立のために動きます。日本ではそれに呼応して、放送作家であり映画プロデューサで岩波ホール総支配人の高野悦子が5億円の寄付活動を始めます。日本政府もその企画を支援し、1994年に日本美術技術センターが完成します。

ワイダ夫妻や高野悦子氏ら

センターにはヤシェンスキ(Felix Yaschenski )というポーランドの美術品コレクターが集めた15,000点に及ぶ日本美術のコレクション(Felix Yaschenski Collection)が展示されて、両国の文化交流の一つの中心としてその役割を果たしているといわれます。ポーランドを訪ねたときは、是非立ち寄ってみたいところです。

世界を旅する その七 ポーランドと日本 「灰とダイヤモンド」

この映画は、アンジェイ・ワイダが1958年に制作した作品です。ポーランドは地政学的に近隣諸国から翻弄された歴史があります。123年にわたる分割占領から独立を回復したのが1918年。しかし、第二次大戦によって再び大国の支配に蹂りんされます。戦後は、ソ連の手先である統一労働者党が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となります。そして1989年に大統領制が復活し、自由な選挙により新しい国家、ポーランド共和国ができます。

「灰とダイヤモンド」はポーランドが社会主義政府支配のもとで作られた映画です。言論が統制されていた時代です。ワイダをはじめ文化人らは、厳しい検閲などに注意を払いながら作家活動を続けたことが容易に伺えます。

「灰とダイヤモンド」は1945年5月数日のポーランドが舞台です。ポーランドのロンドン亡命政府派は、ソ連の手先である労働者党県委員会書記のシュチューカ(Szczuka)の暗殺を指示します。亡命政府派のゲリラであるマチェク(Maciek)がそれを引き受けます。誤って別人を暗殺し、人民軍によって射殺されます。この映画でワイダは、青年マチェクのポーランド独立への心意気や苦悩を下敷きにしたようです。

世界を旅する その六 ポーランドと日本 アンジェイ・ワイダ

先日 秋篠宮ご夫妻がポーランドを親善訪問されたというニュースがありました。両国は国交樹立100周年を迎えたとのことです。私は両国がそんなに長くから国交があったことを始めて知りました。1919年が国交樹立の年となります。1919年といえばソビエトが社会主義共和国が樹立し、朝鮮半島では三・一独立運動が起こり、 ガンディが非暴力・不服従運動を開始し、ヴェルサイユ条約が締結され、日本はロシア革命への干渉としてシベリアに出兵し、中国山東省のドイツ利権を日本が取得するなど、内外の情勢が緊迫する時代です。

Andrzej Wajda

今回はポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)のことです。私はこの監督がメガホンをとった二つの作品を観ています。一つは1956年制作の「地下水道(Kanal)」、もう一つは1958年制作の「灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)」という映画です。ワイダは戦時中、対独レジスタンス運動に加わった経歴があるといわれます。この二つの作品は、そうした経験とは切り離せないようなポーランド人の苦悩とともに不屈の精神を描いています。

「地下水道」の舞台は、1944年のワルシャワです。ポーランド国内軍は占領していたドイツ軍に武装蜂起を起こすのです。しかし、銃火器で有利な攻撃で追い詰められ、ワルシャワの地下水道から市の中心部に出て活動を続けようとします。夜になって隊員は地下水道に潜っていきますが、やがて皆は離ればなれになり、ある者は暗闇と悪臭に耐え切れず、マンホールから外に出るのです。それをドイツ軍に発見され射殺されるのです。

世界を旅する その五 ポーランドと日本 分割から連帯へ

1500年代、ポーランドはヨーロッパで最も大きく強大な国家でした。1772年から1918年まで、ロシア、プロイセン(Prussia)、オーストリアといった絶対主義体制の国々が台頭します。ロシアはロマノフ家(Romanov)、プロイセンはホーエンツォレルン家(Hohenzollern)、オーストリアはハプスブルク家(Habsburg)が統治した国です。ポーランドはこの三国によって分割・併合され、ポーランドという国家が消滅するという歴史もあります。

こうした困難な時代にあってもポーランドの文化や芸術は豊かだったといわれます。思想的にもパルスキ(Kazimierz Pulaski)やコシスコ(Tadeusz Kosciuszko)といった愛国指導者が現れます。この二人の思想はやがてアメリカの建国やフランス革命にも受け継がれていきます。1791年にポーランド憲法が制定されます。この憲法はヨーロッパで最も古いものといわれます。こうした思想家の思想が国民に広く理解されるとともに、1918年に国家が再興されます。

ポーランドは二つの大戦で翻弄されます。第二次大戦は特にポーランド人民に過酷な試練を与えます。その代表はユダヤ系ポーランド人に対するホロコスト(Holocaust)で、これに並ぶ悲劇的な歴史はないと思われます。数百万人の非ユダヤ系ポーランド人も犠牲となります。ナチスの支配が終焉するとポーランドは共産圏の衛星国としてソビエトの支配下におかれます。

こうして半世紀にわたる共産主義体制での統治が続く中で、労働者やカトリック教会は、共産主義支配の経済の失敗を叫けんでいきます。1970年代後半、レフ・ワレサ(Lech Walesa)らが率いる独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が全国に広がります。そして1989年にポーランドは共産主義体制から民主主義体制へとなります。

世界を旅する その四 ポーランドと日本 「戦場のピアニスト」

忘れられない映画に「戦場のピアニスト」という戦時中のポーランドの首都ワルシャワ(Warsaw)を舞台とした作品があります。監督は多くの人道的な映画を作ったポランスキ(Roman Polanski)です。ワルシャワの放送局でピアニストをしていたユダヤ系ポーランド人、シュピルマン(Władysław Szpilman)が映画の主人公です。

ドイツによる空爆の後に、ワルシャワは占領されシュピルマンと家族はユダヤ人居住区であるゲットー(ghetto)に移住させられます。やがて家族は大勢のユダヤ人とともに強制収容所行きの汽車に乗せられのですが、シュピルマンは知人の計らいで脱出します。その後友人等の助けによって工場で働くのですが、そこも追われ廃墟と化した街を転々と身を隠すのです。ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising)という抵抗運動が起こるのですが、鎮圧されてしまうのを目の当たりにします。

半壊したような建物に潜みながら、そこにあるピアノの前に坐り、音をたてないように鍵盤を弾き始める動作をするのです。建物の中で見つけた缶詰をあけようとするところに、ドイツ将校ホーゼンフェルト大尉(Wilm Hosenfeld)に見つかります。名前や職業を訊かれ、ピアニストだったと答えます。ホーゼンフェルトはシュピルマンになにか曲を弾くように命じます。彼はショパンのバラード第1番ト短調(Ballad I G Minor)を静かに弾き始めるのです。

それからホーゼンフェルトは寒さに震えるシュピルマンに自分のマントを与えたり、食糧を届けるようになります。ソ連軍が侵攻してワルシャワは解放され、よれよれの姿でシュピルマンも廃墟からでてきます。ホーゼンフェルトと兵士らは捕虜となり、周りを通りかかるポーランド人からののしられるのです。