忘れ得ぬ人 その八 合唱のきっかけ:近藤艶子先生

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ずぶの素人音楽愛好家の一人が私です。いろいろのジャンルの音楽を楽しんでいます。日本の最北端、稚内高校時代に部活の響声クラブで歌い、その後北海道大学男声合唱団で’4年間歌いました。そのこともあり、ウィスコンシン大学に留学していたとき、マディソンにあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church) の聖歌隊で歌うことにもなりました。

 こうした合唱を始めるきっかけをつくったくださった先生が稚内中学の音楽教師であった近藤艶子先生です。なぜ私を合唱団に入るように声をかけてくださったのかは、さっぱりわかりません。しかし、そのときから、なにも分からず歌を歌い始めることになりました。楽譜の読み方や発声の仕方を学び、男声と女声の混声合唱を始めました。旭川市でのNHK主催の全国唱歌ラジオコンクール、現在の全国学校音楽コンクールの中学校の部にも出場したことがあります。当時、稚内から旭川までは汽車で4時間かかりました。コンクールでは課題曲と自由曲を歌い審査されます。コンクールを控えて何度も練習を重ねたものです。近藤先生はピアノの伴奏をされました。コンクールの成績は全く覚えておりません。多分入賞圏外だったろうと察します。

リコーダ

 大会翌日、部員の一人と旭川市内で映画を見ました。題名は「八十日間世界一周」(Around the World in Eighty Days)といって、後期ビクトリア朝の一貴族が賭けをして、世界を80日間で一周しようと試みる波瀾万丈の物語です。コンクールのことは定かに覚えていないのに、この映画を見たことを覚えているとはなんと近藤先生には失礼なこととお許し願いたいです。私は大の映画きちがいでもあるのです。(差別用語をご容赦ください。)稚内にいたとき、父親と「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)という有名な作品を見に行ったのも覚えています。タイとビルマ国境にあった捕虜収容所が舞台です。日本人大佐と英国大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳や名誉、そして戦争の惨さを表現した見事な作品です。

 近藤先生からは、音楽鑑賞の時間にさまざまな西洋音楽を聴かせてもらいました。音楽室には歴代の有名な作曲家の写真が時代別に飾られていました。一番左端にはヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が、右端にはルートビッヒ・ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が並んでいたものです。この音楽鑑賞をとおして賛美歌やバロック音楽等に接する機会ともなりました。マディソンでにはリコーダの工房があり、そこでローズウッド(rosewood) のアルトリコーダを購入しました。バロック音楽にリコーダは欠かせない楽器です。

 今思えば小さい時から西洋や日本の音楽を聴かせてもらうことは、必ず大人になってからも音楽に対する興味や関心を高める契機となるということです。稚内中学校は創立78年を迎えます。校舎は新築され、私が学んだところに建っています。現在生徒数は95名です。今も音楽教育が受け継がれていることを信じつつ、近藤艶子先生から指導を受けたことを思い出します。先生は、引退後は旭川の郊外にお住まいになり、そこでピアノ教室を開いて後進の指導にあたられていたとお聞きしていました。恐らく鬼籍に入られたこととお察しします。忘れ得ぬお人はいつも記憶に鮮明に残っています。

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忘れ得ぬ人 その七 洗礼を授けてくれたディーン・シュスラー牧師

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 2001年8月17日に私の恩師のお一人であるディーン・シュスラー(Rev. Deane Schuessler)牧師のジューリ・シュスラー夫人(Julie Schuessler)から夫が心臓発作で亡くなったという知らせを頂ました。享年85歳でした。前日は、次男、孫らとでミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)の野球試合を一緒に観戦したとのことでした。長い闘病生活がなかったのがせめてもの幸いだったとジューリさんは書いておられました。

 1965年、私は札幌ユースセンター教会でシュスラー師より洗礼を受けました。ご一緒したのは、現小樽オリーブ教会の牧師らでした。先生より「センターで働きませんか」と誘われて、就職が内定していた商社を断りセンターで青少年活動を任されました。1967年に結婚したときも司式をしてくださり、翌年長男が生まれて洗礼を施してくださいました。

 時は経て、私は1971年に那覇ルーテル教会に派遣され幼児教育を受け持ちました。丁度、ミズリー派ルーテル教会内で神学論争があった頃です。そして1976年に日本ルーテル教団がミズリー派教会(Missouri Synod)からの自給を宣言します。シュスラー師は既に帰国されていましたが、日本各地でなお宣教師をされていた方々が、自給への経緯について心配されていたのを記憶しています。

 私は1978年に国際ロータリークラブからの奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学しました。その頃、シュスラー師は隣のミネソタ州のルーテル教会から招聘されておりました。一家5人でシュスラー家を訪ねました。「ミネソタ州の州鳥はなにか知っていますか?」と訊かれ思案していると「モスキートです」と片眼でウインクされました。なるほど、外で立ち話をしていると蚊の大群が襲ってきます。ミネソタ州は氷河が残した10,000以上の湖が点在しています。シュスラー師はその後、神学博士号を取得され、いろいろな著作も刊行されました。

 シュスラー師のご昇天にあたり、私は霊的な指導を受けた方々を想い出します。北海道の余市沖で溺れた高校生を助けようとして亡くなられた宣教師師、ジョージア州で車を譲ってくださった宣教師、沖縄幼稚園の園長であった宣教師、そして最初の感謝祭の晩餐に招待してくださった宣教師、前稿で就職のお世話をしてくださったジェームズ・ウィズィ宣教師などです。特にウィスコンシン大学に入るとき、マディソン市内で牧会されていたトマス・ゴーイング師からは、教授を紹介してもらい、そのまま博士課程修了まで指導を受けることができました。シュスラー師の息子のジョエル・シュスラー氏がミネアポリスのコンコーディ大学(Concordia College)で教鞭をとっていました。この大学の教師教育やインターネット活用のカリキュラムなどを見聞できたのも幸いでした。

 振り返りますと、宣教師の方々にお世話になった者で私の右に出る者はいないだろうと思います。長年日本における宣教に邁進されたお一人おひとりの先生方の訃報に接すると、「すべてに時がある」という聖句が心に浮かびます。

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忘れ得ぬ人 その六 福音派の人:ジョン・シルバーネーゲル氏

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ウイスコシンでの生活でお世話になった方のお一人にジョン・シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻がいます。この方は熱心な福音派のクリスチャンで、マウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の礼拝でお会いしたのがきっかけです。マディソンに着いてから知人にアパートを紹介して貰いました。アパートには家具がありません。最初の礼拝に出席したあと、牧師さんから「なにか不自由している物はありませんか?」と尋ねられました。そこでベッドや毛布、台所用品などが不足していると伝えました。数日後、牧師さん自らがピックアップトラックを運転して家財道具を運んでくれました。会員から集めたものだというのです。

Mt. Olive Lutheran Church

 教会員と会話するといろいろな話題に及びます。かつて横須賀の研究所で障がい児教育の研究をしていたことを話すと、退役した会員がいて「自分もヨコスカに住んだことがある」というのです。別の会員は「タチカワやザマにいた」というのです。共通した話題になると教会員との距離はぐんと縮まるものです。このルーテル教会には私たちのほかに日本人はおりません。そんなわけでなにかと心配してくれるのです。聖歌隊に入り毎週木曜日の練習に参加しました。隊員は初見で新しい賛美歌を歌えるのです。小さい時から日曜学校などで歌っていたのです。

 そのうち、シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻から「家にあそびにいらっしゃい」というお誘いを受けました。シルバーネーゲル氏も陸軍の将校退役軍人でマディソンの郊外で酪農を経営していました。酪農業はもっぱらご長男らがとりしきっておりました。ご自宅の畑の一画を使いなさいとの申し出で、私はジャガイモ作りを始めました。酪農を営んでいたので、種の植え付け前に堆肥を十分施すことができました。ウィスコンシンは「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と呼ばれるほど酪農が盛んなところです。戦後、北海道の美幌で父親はジャガイモやトウモロコシを育てていたので、それを思い出しました。秋になるとジャガイモが沢山とれました。

 シルバーネーゲル家がある夏に、「旅行に出かけるので、留守番をして欲しい」と頼まれました。邸宅のように広い家です。大きな冷凍庫と冷蔵庫があり買い物は全く必要ありません。子牛半分の肉が整然と並んでいるのです。トウモロコシや肉はもちろん、トマトなどをビン詰してずらりと棚にならべて保存しているのに驚いたものです。地階はビリヤードがあり、おもちゃが一杯揃っていて子ども三人は愉快そうに遊んでいました。

 シルバーネーゲル家の三女ジャネット(Janet)は私の長女と同じ年です。彼女は後にウィスコンシン大学で教授となります。今は、老人ホームで100歳にならんとしている母親を定期的に訪ねているそうです。私の二人の娘が彼女の家を訪ねて交友を暖めたようです。ジャネットとはZOOMで会話しています。

 ウィスコンシン州は大昔、氷河に覆われそれが次第次第に溶けていきました。氷河が溶けながら地面を削っていくと、モレーン(moraine) という石や岩を残していきます。地表はそのためになだらかな丘陵となります。ウィスコンシン州の大地には石や岩が多く、大平原での農業とは違って、大麦やトウモロコシを作れないのです。そのために牛を放牧し乳製品を作る酪農が盛んになります。気候が似たスカンディナビア(Scandinavia) 諸国やドイツ、ポーランドからの移民が住みつくところとなります。伝統的な福音派のキリスト教も持ち込まれ盛んになるのです。福音派とは自由主義神学に対抗して近現代に勃興した、聖書信仰を軸とする神学的・社会的に保守派のムーブメントのことです。保守的な信仰者ともいわれるのが福音派の人々です。

ウィスコンシン州議事堂

 ウイリアム・ハーバーグ(William Herberg)というジャーナリストが一般のアメリカ人を次のように形容します。『アメリカン・ウェイ」(American Way)とは人道主義的で、前向きで、楽観的である。アメリカ人は、世界で最も寛大で慈善的な人々で、進歩、自己啓発、そして熱狂的に教育を信じている。しかし何よりも、アメリカ人は理想主義的だ。』 少々、ステレオタイプな表現に聞こえますが、、、シルバーネーゲル家の人々は、ハーバーグのいう「American Way」を地でいくような存在です。霊的生活の中心としての聖書の教えを守り、伝統を重んじる良きアメリカ人の典型ともいえる方々です。当然ですが政治的には共和党を支持しています。ジョン・シルバーネーゲル氏は享年90歳でした。

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忘れ得ぬ人 その五 日本スタンフォード協会とジェームズ・ウィズィ師

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私にとって、戦後日本各地のルーテル教会で牧会されていた宣教師の先生方には格別な思い出があります。多くの宣教師がなぜ海外で活動されたのかは、いろいろな動機や使命感があったのだろうと察します。今も日本には、ノルウェイ、フィンランド、スエーデンなどスカンディナビア諸国からの宣教師が活躍されています。宣教の場所として、戦前は中国大陸が選ばれ宣教活動をしていました。大陸での戦線が拡大するにつれて活動が困難になり、日本を新しい宣教の地として選ぶのです。宣教の母体となったのは、アメリカはセントルイス(St. Louis) にあるミズーリ・シノッド(Missouri Synod)という福音系のルーテル教会です。やがて日本ルーテル教団が設立され、各地で宣教活動が開始されます。私はこうした宣教師に出会い札幌のルーテル教会で洗礼を受けました。

Rev. James Wiese

 日本ルーテル教団の宣教師のお一人がジェームズ・ウィズィ師(Rev. James Wiese)です。この方との出会いを紹介することにします。ウィズィ師は1936年10月に、インディアナ州の農村で生まれます。13歳でコンコーディア・フォートウェイン校(Concordia Fort Wayne)の牧師養成プログラムに入学します。セントルイスのコンコーディア神学校(Concordia Seminary) で神学修士号を取得します。その後、スタンフォード大学(Stanford University) で学校経営と日本研究の修士号も取得した方です。

 神学校卒業後、奥様のリタ(Rita)さんとで日本にやってきます。それから34年間、家族とともに日本で教会の様々な役職を歴任し、セントポール国際ルーテル教会(St; Paul International Lutheran Church)の牧師、日本ルーテル教団立の聖望学園(Holy Hope Schools)のチャプレン(chaplain)兼校長となります。聖望学園はウィズィ師の尽力でセントルイスにあるミズーリ・シノッド教会の婦人会の寄付によって設立された中等教育学校です。後にアメリカンスクール(American School in Japan)の開発部長などを歴任されます。その他、大阪国際学校の初代校長兼理事長、横田米軍基地牧師を務めるという経歴の持ち主です。彼はまた、在日商工会議所、東京国際交流会館、そしてロータリークラブ(Rotary Club) にも積極的に参加します。さらに日本スタンフォード協会(Japan Stanford Association)の会員でもありました。

Concordia Seminary

 ウィズィ師に私はどのような恩があるかを申し上げます。それはウィズィ師が日本スタンフォード協会の会合で横須賀にある国立特殊教育総合研究所の部長に会います。この部長もかつてスタンフォード大学で留学した経験があります。私はウィズィ師に日本のどこかの研究所や大学で仕事をしたいということを伝えておりました。彼はこの部長に私を紹介したのです。しばらくしてこの部長から連絡があり、彼にウィスコンシン大学の学位の写しや成績を手渡しました。そして面接のあとにこの研究所に就職できました。日本スタンフォード協会を通して、ウィズィ師にお世話になったことで、この同窓会の会員は絆が非常に強く、会員同士の信頼が高いということを後で知らされました。蛇足にはなりますが、東京を中心とする我がウィスコンシン大学の同窓会は、極めて凝集力が弱いことを感じます。

 私は10年あまりこの研究所で働き、その後兵庫教育大学に移りました。2012年に院生を連れてカンザスのオマハ(Omaha)の学校視察に行きました。もちろんウィズィ師を頼っての訪問です。オマハ市内の学校訪問で同行してくれたのは師の長男夫妻でした。そのとき、ウィズィ師のご両親や親戚にお会いしたことをお伝えしました。それはジョージアでの語学研修が終わり、ウィスコンシンに向かう途中、私と家族はインディアナ州のレイノルズ(Reynolds)という小さな街に住むウィズィ師のご両親宅に泊まらせていただきました。ウィズィ家は、広大な農地でトウモロコシ栽培を経営していました。地平線まで広がるようなトウモロコシ畑でした。ウィズィ師は帰国後、カンザス州(Kansas) オタワ(City of Ottawa)のフェイス・ルーテル教会(Faith Lutheran Church)、その後テキサス州のオデッサ(Odessa)にあるリディーマー・ルーテル教会(Redeemer Lutheran Church)から招聘を受けて奉仕します。

 2012年にRitaさんよりメールを頂戴し脳腫瘍で入院されていることを知りました。脳腫瘍は手術のしようのない病といわれます。そして天に召されたとの便りを貰いました。享年76歳でした。

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忘れ得ぬ人 その四 ウィスコンシン大学の恩師:ルロイ・アザリンド教授

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ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson) に颯爽と乗っていた先生の紹介です。お名前はルロイ・アザリンド(Dr. LeRoy Aserlind)といいます。私のウィスコンシン大学(University of Wisconsin) での指導教授であった方です。

 1978年にロータリー財団(Rotary Foundation)が指定するジョージア州(Georgia)での3カ月の英語研修を終わってウィスコンシンへ車で向かいました。『U-Haul』という小さなトレーラーにわずかの家財道具を乗せて出発しました。初めての大陸での長旅でした。『Haul』とは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語が『U-Haul』といわれます。ウィスコンシン州の州都マディソン(Madison) に着きました。ウィスコンシン大学の威厳のある構内に入ったとき、「果たしてここで学位をとれるだろうか、、」という不安がこみ上げてきました。かつて、新潟などで宣教されていたルーテル教会の牧師さんがマディソンで牧会をされていました。この先生には事前にウィスコンシン大学で学ぶことを知らせてありました。この方のお名前はトマス・ゴーイング(Rev. Thomas Going)といいます。ゴーイング牧師は、1958年から2000年の長きにわたり新潟市、加茂市、三条市、そして東京で宣教されます。

Bascom Hall

 ゴーイング牧師は、ウィスコンシン大学教育学部(School of Education) の行動障害学科の一人、アザリンド教授に私を指導してくれるよう依頼してくださっていました。アザリンド教授は1963年にウィスコンシン大学マディソン校で博士号を取得し、その後、リハビリテーション心理学・特別支援教育学科となった行動障害学科の助教授に任命されました。 1968年に准教授、1972年に教授に昇進し、1971年から5年間学科長を務めました。1965年から1970年にかけて、アザリンド教授は米国教育省のプロジェクトを指揮し、発達障害のある生徒の教師を養成する最初のプログラムの一つを提供しました。

 先生は1980年代初頭には、「特別な子ども」と題した特殊教育入門コースの指導を開始し、全国の多くの大学でそのようなコースに採用された教科書の共著者となりました。先生の入門講座は、特別支援教育を専攻する学部生だけでなく他の学生にも好評で、学内で最も受講者数の多い講義の一つとなりました。学生からは、この講座が障害に関する認識と理解に大きく影響したという感想がしばしば寄せられました。

Memorial Union

 アザリンド教授の授業を受けたときです。最初の中間試験がありました。試験問題は多肢選択と記述という問題の組み合わせでした。この結果は惨憺たるもので、先生の部屋のドアに結果の一覧が張り出されていました。私はアメリカの大学での試験問題の対策に慣れていなかったのです。これが私の奮起を促す契機となりました。大学院とはいえ講義は徹底的な詰め込み教育であることを知りました。授業が終わると、すぐさま図書館などで筆記した単語を文章化し暗記することにしました。日本の大学では多肢選択問題で試験することはありません。大抵の場合、短文により記述試験問題が主流です。この日本とアメリカの大学の試験方法の違いを知った機会でした。

 先生の授業は、スライドやビデオを使ったものでした。視覚的に受講生に講義内容の理解を促すという手法は私のその後の兵庫教育大学での授業で大いに役立ちました。当時登場した「PowerPoint」というアプリを使いスライドで授業をしたことが院生に広がりました。彼らの修士論文のプレゼンではこのスライドでの説明です。その時、ある教授はこうしたプレゼンの仕方に反論していたことが懐かしいです。ビデオやスライドを使うことで「百聞は一見にしかず」という言葉を皆が体感することになります。

 アザリンド教授には家族ぐるみでスキーに連れて行ってもらったことも思い出です。ハーレー・ダビッドソンでモンタナへ何度も旅行し、退官後はそこに永住しました。2006年1月9日、モンタナ州(Montana)のリビングストン(Livingstone)のご自宅で、55年間連れ添った奥様マーガレット(Margaret)さんらご家族に見守られながらお亡くなりなりました。

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忘れ得ぬ人 その三 囲碁の達人:吉澤 實氏

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我が国の伝統文化である囲碁は、今や高齢化などによりその愛好者の人口がじわじわ減少しています。八王子囲碁連盟(八碁連)も例外ではありません。そんな中にあって、私は2019年から2021年に八碁連の会長を務めました。その経緯を申し上げますと、2018年に私は新米の理事として会長を補佐する副会長に推薦されました。八碁連は伝統的に副会長が会長になっていました。会長は長らく八碁連の会員であること、高段者であるなどが慣行となっていました。私はいわば八碁連では無名の三段でしたので、その条件にあてはまらなかったのです。にも関わらず会長であった恩方同好会の吉澤實八段は、何故か私を副会長に指名したのです。その理由は今もって分かりません。

 2018年は、八碁連の結成30周年にあたっていました。吉澤会長は設立30周年記念誌を作成しようと提案し、それが総会で承認されました。彼は最初の理事会で私を編集責任者に指名しました。私は過去にいくつかの本を出版してきたので、もとより記念誌の編集にも自信がありました。記念誌を作るにあたり、私は八碁連の未来を志向する構成にする、会員や求道者を読み手とする、八碁連の活動にスポットを当てる、視覚に訴える内容にする、という方針を立てました。それにそっていろいろな人々に原稿を依頼しました。対談の内容も加えました。予算をカバーすることも考えて広告を掲載することにしました。

 やがて依頼原稿が集まり、印刷会社に持参すると記念誌は100ページを超えることがわかりました。印刷会社は折角の記念誌なので表紙をカラー化する提案をしてきました。これでは発行予算を大幅に超過するので、会計理事は原稿数を減らすように提案してきました。私は執筆者には頼み込んで依頼した手前、もし原稿を減らすようなことが理事会で決まれば、理事を辞任するつもりでした。ですが吉澤会長のとりなしで、集まった原稿はすべて掲載することになりました。印刷費がオーバーしたので、当初の発行部数の1,000部から600部にはなりました。幸い広告収入もあり、記念誌一冊の単価が454円となりました。ちなみに20周年記念誌は白黒印刷でページ数は半分、一冊単価が396円でした。

 記念誌の作成とともに、インターネットの活用を提案し八碁連のWebサイトを立ち上げました。そのために「hachigoren.com」というドメイン名を取得しました。Webサイトでは、八碁連の様々な紹介や歴史、八碁連だよりの掲載、各種大会の案内、大会参加申し込みのフォーム、過去のさまざまな資料のアーカイブを保存することとしました。理事の間の連絡を円滑にするために、グループメールを作り理事の間での情報の漏れがないように工夫しました。吉澤会長はそれまで電子メールを使ったことがなかったのですが、婿さんの指導で使い方を習得され、理事の間の情報交換は頻繁になりました。電子メールの利用により、八碁連だよりの原稿の点検も理事の間で行われるようになりました。吉澤会長らは、それまで会長の任期は一年という規約を改正しようと尽力され、総会にて会長を含む理事の任期を三年とすることになりました。

 2019年に会長に就任した私は、吉澤氏には相談役を引き受けていただきました。そしていくつかの試みに挑戦しました。女性の囲碁人口を増やすために、女性囲碁大会を始めることができました。しかし、2020年の1月15日に国内で初めての新型コロナウイルス感染者(COVID-19)が特定され、その流行によって国内は危機的状況を迎えることになりました。八碁連も各種の大会や集会は中止に追い込まれ、会員はネット上での対局などを余儀なくされました。ですが、インターネット上で、ZOOMというアプリを使い「オンライン囲碁セミナー」という研修を毎月開くこともできました。講師には会長を退いた吉澤氏らに依頼して研修を続けることができました。このようにコロナ禍を逆手にとって研修活動ができたのは、インターネットの活用と吉澤氏ら講師陣の活躍によるものでした。

 2022年8月24日に吉澤實氏よりメールを頂戴しました。東京医科大学八王子医療センターに入院との知らせでした。そして吉澤氏と交誼を結ぶ会員とでお見舞いの小冊子をお届けしました。私は若輩ながら次のような言葉を小冊子に添えました。

 私は、いく度となく吉澤實氏に相談し助言を頂戴し、激励を受けて行動してきました。氏の虎の威を借りたことも度々でした。ですが吉澤實氏は2022年11月にご逝去されました。享年84歳であられました。

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忘れ得ぬ人 その二 国際ロータリークラブ:国吉 昇氏

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いつかこのブログで「ドルと沖縄と留学」という拙稿を掲載しました。私が始めて沖縄に赴いたのは1970年。本土復帰の2年前です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を設置する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要。1ドルが360円のときでした。当時、幼稚園設置のために琉球政府のお役人とで何度も打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれて、認可にこぎ着けることができました。沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たします。このときは1ドルが300円となりました。

 開園後、園児を募集すると障がいのある2人の幼児が保護者に連れられてやってきました。この2人を担当するのが私の仕事ともなりました。彼らと接しながら、もっと障がい児教育を学ぶ必要を感じていきました。ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の分野で奨学金を出していることを知りました。沖縄には那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会いました。

 国吉氏は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦で九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして40年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員です。国吉氏は私をロータリーインターナショナル(Rotary International)の奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。当時の為替レートでいえば、200万円です。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブ(Officer’s Women Club)からも1,700ドルの奨学金が提供されました。そして1978年に家族を連れてアメリカに向かいました。

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ・ミヨン(filet mignon) の部厚いステーキが5〜6ドルくらいで、1,500円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに3,000円、4,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍、3倍に上がりました。沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。沖縄は完全に本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、国家権力がいかに強大かを思い知らされることになりました。

 ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。通常買い物で100ドル札を出す人はいません。皆小切手を使います。彼女は100ドル札を見たことがなかったのです。その時の円相場は1ドル200円前後で、授業料の支払いなどでわずかの円預金では大変な生活でした。学業がてら私も家内も懸命にアルバイトをしました。このような留学経験は、通貨の価値とか為替相場ということを知る機会となりました。

 時を経て、1982年12月にウィスコンシン大学から学位を貰い、帰国してから横須賀にあった文科省の研究所、兵庫県にある小さな大学で教育と研究に従事することになりました。その間、国吉氏と手紙のやりとりをしながら、1995年に長男とともに沖縄に出かけ、国吉氏と再会できました。2020年の12月に再度那覇を訪れ、那覇東ローターリークラブの例会でお礼を述べ、その後老人ホームに入っておられた国吉氏とお内儀にお会いしました。国吉氏の記憶は大分衰えているようでした。2024年の7月に国吉ご夫妻のご長男からお二人がお亡くなりになったという手紙を頂戴しました。アメリカに留学し学位を得て障がい児教育に従事することができたのは、ひとえに国吉昇氏のご尽力で奨学金を頂戴したお陰でありました。生涯、忘れ得ぬお一人です。

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忘れ得ぬ人 その一 北海道大学の恩師:松沢弘陽教授

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松沢弘陽

これから暫く、これまでお世話になった方、ご迷惑をおかけした方、ご教授を賜った方、親しくお付き合いをしてくださった方などを取り上げます。こうした人々を思い起こしますと、すでに鬼籍に入られた方々のお顔が脳裏を横切ります。私は現在82歳ですから、ご存命の方はほとんどおりません。ですが、お一人おひとりが私と家族のために親身になってお付き合いをしてくださったことを想うと、本当に幸せな時間を持てたと述懐する今日この頃です。

 私が北海道大学に入学したのは1961年4月です。卒業した道立旭川西高校から16名の合格者が北大にやってきます。60年安保の大学闘争が一段落した年です。大学正門には学生団体のけばけばしい立看がずらりと並んでいました。大学に入ると全員教養部というリベラルアーツの部門で、学問の基礎を学びます。私にとって目新し学びは哲学とドイツ語でした。他の教科は高校の復習のようなものでしたが、英語の読解を担当した川村という教授が、「君たちは大学生なのだから英英辞典を使いなさい」と言ったのを今も鮮明に覚えています。

北海道大学古川講堂

 一年半の教養部を終えて法学部に移行しました。政治学を学ぼうと指導教官として松沢弘陽教授にお願いしました。当時、私は松沢先生が、東京大学教授の政治学者、丸山真男氏の一番弟子であったことを知りませんでした。丸山教授は、西欧思想と東洋古典に精通し、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした学者です。そして〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学や政治思想史の分野での飛躍的な発展に大きく貢献されます。

 松沢先生は、1960年に北海道大学法学部助教授、1965年に同大学教授。1984年に同大学法学部長・大学院法学研究科長を歴任されます。専門分野は、日本における近代日本政治思想史ですが、近代政治思想史全般にも精通された学者です。特に内村鑑三や福澤諭吉の研究が有名で、思想史上の師である丸山教授の業績も広く紹介します。特に1995年に「丸山眞男集」や「内村鑑三全集」全40巻の編集に携わり、いずれも岩波書店から刊行します。その蔵書類を日本女子大学に寄贈する仲立ちをも果たします。また思想の科学研究会の鶴見俊輔らの共同研究「転向」にも参加し、後年は日本政治史も研究対象としていきます。北海道大学を退官された後、放送大学客員教授をはじめ、小樽商科大学、北海道教育大学、札幌大学法学部、北星女子短期大学、東京都立大学法学部、名古屋大学法学部などの非常勤講師を務められます。

北海道大学構内

 私の書棚には丸山真男氏の著作「現在政治の思想と行動」があります。この著作は1956年に未来社から発行され、私が保管するのは1962年刊の第22刷ものです。表紙は大分古びて時代ものになったような装幀ですが、各論文は、講演調、書簡体、対話体と、ヴァラエティにとんだ歯切れのよい文体で綴られています。それに加えて大変読みやすく読者の理解を助けてくれます。「戦後日本社会科学の精神的起点の一つ」といわれる著作で、松沢先生はこの名著の論文の配列、小見出し、追記、補注の作成に携わります。

 松沢先生は、福澤諭吉や内村鑑三に私淑され、1967年に岩波書店から「」福澤諭吉の思想的格闘-生と死を超えて」という著作を刊行されます。私はルーテル教会の札幌ユースセンター教会で結婚式を挙げます。その式に松沢先生は参列してくださいました。

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トランプ政権が名門大学を攻撃する理由

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現在、トランプ政権の中東情勢をめぐる外国人留学生のビザ制限などに対して,名門大学は法廷闘争を展開しています。この闘争は、大学側に有利な展開も予想されています。ハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT) は2020年に、トランプ政権の外国人留学生のビザ制限に対し連邦地裁に提訴し、一時的な勝利を収めました。司法はこれまで、政権の移民制限策に対して慎重な姿勢を示してきたため、法廷では大学側の理が通る可能性が高いと見られていました。ただし、政権がさらに法改正や規則の変更で圧力を強めると、再び法的な応酬が繰り返されることになるかもしれません。

Massachusetts Institute of Technology

 トランプ政権のもう一つの狙いは、リベラル勢力への牽制です。ハーヴァード大学は「リベラルの牙城」とされており、トランプ政権にとっては政治的な敵対的な対象でもあります。政権側の真意は、ハーヴァード大学だけでなく、全米の高等教育機関に対する締めつけを強めることで、「エリート主義」への反発を強調し、保守・中間層など政権支持層へのアピール 対中国政策の強化を狙っている可能性があります。

 「エリート主義」への反発ですが、2022年時点で、25歳以上のアメリカの成人のうち、約37.7%が学士号を取得しています。この数字には学士号のみならず、修士・博士号の取得者も含んでいます。そのうち大学院修了者は約14.2%に達するといわれます。ちなみに日本では、大学または大学院を卒業した人の割合は 約25.5%といわれています。 トランプの支持者は、人口の3/4を占める高卒の市民です。「エリート主義」に対するアンチの人々ということです。

 トランプ政権のもう一つの狙いは、主に中国人留学生の排除があるようです。アメリカの大学には、数十万人規模の留学生が在籍しており、その多くが理工系分野で最先端の研究を担っています。特に中国やインドなどからの優秀な学生は、アメリカの研究・産業競争力の源でもあります。同時に、海外からの留学生の増加で肝心のアメリカ人の若者が入学を阻まれているという事情もあります。そうした不満もアメリカ国民の中にはあるのです。

 2023年6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考において人種を考慮する「積極的格差是正措置」(affirmative action)を違憲としました。この判決により、大学の入試や公的機関の採用で、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系、先住民などが不利にならないように考慮されることがなくなり、いわゆる白人アメリカ人の入学や雇用が促進されそうです。これはトランプ政権が望んでいることです。

 留学生の受け入れを制限すれば:優秀な頭脳が欧州やカナダなど他国に流出し、アメリカの研究開発力やイノベーションの低下につながるという懸念もあります。また、留学生の学費は大学の重要な収入源であり、大学の財政難といった中長期的な悪影響も懸念されています。今後の展望ですが、選挙と政権交代がカギといわれます。政権と大学の対立の今後を左右する最大の要因は、大統領選の行方です。仮にトランプ氏が続けば、大学や移民への締めつけが強まる可能性が高いです。

 結論として、今後も短期的には政権と大学との法廷闘争が続くと思われます。大学側は議会や世論と他大学の支持を集めて巻き返しを図るでしょう。トランプ政権側は政治的パフォーマンスとして移民対策や留学生などへの締め付けという「強硬姿勢」を貫くことによって、岩盤といわれる層の支持を受けていくだろうと考えられます。トランプ政権とハーヴァード大学などとの対立は、単なる大学の問題にとどまらず、アメリカの移民政策、教育政策、そして国際関係のあり方をめぐる根本的な対立を象徴しているといえそうです。

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トランプ政策と名門大学の抵抗と服従 

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アメリカ東部にある名門私立大学でアイビー・リーグ(Ivy League)の一つ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) は2023年12月9日、エリザベス・マギル(Mary Elizabeth Magill学長とスコット・ボク(Scott Bok)理事長の辞任を発表しました。マギル氏は大学内で強まる反ユダヤ主義への対応を巡り、批判されていました。連邦政府は、全国の大学への数十億ドル規模の資金の流れを停止すると脅迫しており、多くの大学は司法省から保健福祉省に至るまで、様々な機関からの調査に直面している。しかし、トランプ政権の大学に対する懲罰的なアプローチは、アイビー・リーグの大学で最も深刻に表れています。昨春、ガザ紛争に反対するキャンパスでの抗議運動の中心地となった同大学は、反ユダヤ主義的行為を容認し無法状態を蔓延させたという非難と学術的・政治的言論を抑圧したという非難に、数ヶ月にわたって対峙してきました。

 トランプ政権が非難のターゲットとしているのは、こうしたアイビー・リーグの大学です。名門ハーヴァード大学(Harvard University)との対立も続いています。政権はハーヴァード大学に対して外国人留学生の受け入れ資格停止を通告し、反発した大学側との法廷闘争に突入しています。背景には「リベラルの牙城」と呼ばれるハーヴァード大学を狙い撃ちすることで他の大学にも「改革」を迫り、さらには中国共産党など外国の影響力を排除する意図が潜むようです。ハーヴァード大学の歴史で最初の黒人学長だったクローディン・ゲイ学長(Claudine Gay)は2024年1月2日に辞任します。その後、就任したアラン・ガーバー学長(A)lan M. Garber)はトランプ政権の政策に訴訟を起こし毅然として立ち向かっています。すなわち、トランプ政権が大学に対し課してきた一連の制裁措置、すなわち連邦研究費の凍結、留学生プログラムの停止、税制優遇の剥奪検討などに対し、訴訟を起こしています。

コロンビア大学エンブレム

 マンハッタン(Manhattan)北部にある同じくアイビー・リーグ大学の一つ、コロンビア大学(Columbia University)は、今年、学生デモで混乱に陥り、結束バンドや暴動鎮圧用の盾を持った警察官が、親パレスチナ派の抗議活動参加者が占拠していた建物に突入する場面もありました。同様の抗議活動は全国の大学キャンパスに広がり、その多くが警察との激しい衝突や数千人の逮捕に至りました。この発表の数日前には、大学当局が、ユダヤ人の生活と反ユダヤ主義に関するキャンパス内での議論中に3人の学部長が中傷的なテキストメッセージを交換したとして辞任したと発表したばかりでした。

 コロンビア大学のミヌーシュ・シャフィク学長(Minouche Shafik)は2024年8月に、イスラエルとハマスとの戦争(Israel-Hamas war)をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応をめぐり、短期間で波乱に満ちた在任期間を終えて辞任しました。ニューヨークの名門大学である同大学の学長は、この間、イスラエルとハマスとの戦争をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応について厳しい批判にさらされてきました。

 次いで暫定学長に就任したカトリーナ・アームストロング(Katrina Armstrong)も、2025年3月までに学内対策に応じた結果、トランプ政権による資金凍結などの圧力からの批判を引き受け、2025年3月28日に辞任発表します。同日に、学長代行としてクレア・シップマン(Claire Shipman) が指名されました。彼女は“学問の自由と開かれた探究を守る”姿勢を表明していますが、下院教育委員会などによる調査も受けてきました。シップマン学長代行も自分の発言でユダヤ人協会から批判され、大学の人事は混迷しています。

University of Virginia

 さらに、ヴァジニア大学(University of Virginia)のジャームズ・ライアン学長(James Ryan)が2025年6月28日に辞表を表明します。ライアンが退任を急いだ決断は、ヴァジニア大学に対する連邦政府の監視が強化されている時期に行われました。ライアンは退任の手紙の中で、「自分が学長職に留任していた場合、大学は多額の資金を失うリスクがあったことを認めます。自分の地位に留まり、連邦政府の資金削減のリスクを冒すことは、空想的なだけでなく、職を失う何百人もの従業員、資金を失う研究者、そして奨学金を失ったりビザを差し押さえられたりする何百人もの学生にとって、利己的で自己中心的に見えるだろう」と述べて辞任するのが最上であるという判断をしたのです。

 コロンビア大を含む、アメリカ東部の八つの有名私立大で構成されるアイビー・リーグのうち、学長が辞任したのは昨年10月以来、ペンシルベニア大学とハーヴァード大学で3例目です。いずれも、中東情勢をめぐる抗議デモの対応で追及を受けています。

インクルーシブ教育への疑問

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統合(インテグレーション)と「完全な包括(インクルーシブ)」には違いがあります。インテグレーションでは、障害のある子どもは、同世代の障害のない仲間たちと隣同士で学習します。合衆国では、1975年に制定された全障害児教育法(PL94-142)の下で特別な支援教育を受ける権利を認められる子どもは、1週間のうち3分の2以上を通常学級で学習することができます。子どもたちは、終日通常学級にいなければならないというわけではなく、作業療法、理学療法、言語療法などの支援を受けるために「取り出し」(pull-out)の対象になることもあります。1990年に全障害児教育法は個別障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act : IDEA)へと名称が変更されます。

 他方、完全な包括の下では、個別障害者教育法の対象となる子どもたちは、文字通り1日中、通常学級に在籍することになります。必要な応対は「入り込み」(pull-in) を通じて行われます。つまり、専門家が教室にやってきてそこで支援を行うのです。完全な包括ではありませんが、障害のあるほとんどの子どもたちにとって妥当な取り組みであると考えられている節があります。中には自閉症、知能障害、難聴の子ども、複合障害児などの子どもたちの中には、こうした環境では適切な教育を提供できないかもしれません。

連邦政府の教育省のエンブレム

 通常学級に在籍することは、人権の尊重であるという考えが根強くあります。高等学校まで学校は障害のあるすべての子どもたちに完全な包括を提供できるように再構築するべきであると考えるのです。連邦政府の教育省によれば、個別障害者教育法の実施に関する最新の調査では、該当する子どもの約半数がほとんどの時間を通常学級で過ごしているといわれます。ただし、障害種別に見ると、その割合は非常にばらつきがあり、言語障害の子どもの90%以上が包括的な教室に在籍しています。しかしその一方で、通常学級に通う自閉症の子どもたちは、わずか29%に留まっています。つまり、教育的対応は、子どもがどこに在籍するべきかではなく、それぞれの子どもに固有な必要性によってなされるべきであるという考え方があるからです。

 インクルーシブ教育に反対する人々もいます。特別支援学校・学級を「分離教育」と捉え、障害のない子どもと同じ教室で受けさせることが正しいとする立場への反対です。障害ない子と障がいのある子を同じ教室で教えることが正しいと考える人々を批判するのです。何でもかんでも両方を一緒に教育する、という考えには反対するのです。「多様な個性の子どもが同じ場で学び、子どもは主体的に授業に参加するのが正しい」という考えを「ポリティカル・コレクトネス的」 (politically correct)として批判するのです。次稿では、「ポリティカル・コレクトネス」という話題を取り上げます。

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インクルーシブ教育と私の経験

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今でこそインクルージョン(inclusion)やインクルーシブ教育という用語は珍しくありません。もとはといえばメインストリーミング(mainstreaming)とかインテグレーション(integration)という用語と同義に近いものです。我が国では統合教育と呼ばれました。かつて私は那覇で設立した「丘の上幼稚園」で障がいのある幼児を受け容れたことがありました。そのことで沖縄が本土復帰して2年後の1974年、当時の文部省から幼児の統合教育の実践で研究指定を受けたのです。インクルージョンの「さきがけ」だったのではないかと密かに自負しています。

 ウィスコンシン大学での研究を終えてから、国立特殊教育総合研究所に就職してからも欧米のインクルージョン実践の経緯は、逐次調べては論文にまとめていきました。アメリカの個別障害者教育法もインクルージョンを全面に押し出していました。ですが、我が国の普通学校と特殊教育諸学校の分離体制は堅固であり、インクルージョンは大分先になるように考えておりました。その間、欧米の先進的な取り組みを現地で調査したり、合衆国が発表する年次報告書などを紹介することによって、分離教育に風穴を開けることができるのではないかと考えていきました。文部省の特殊教育課長補佐と一緒にアメリカのナッシュビル(Nashville)やカナダのトロント(Toronto)などの学校を訪問しては、インクルージョンの実践を調査したものです。

No Child Left Behind Act signed.

 もう一つは、裁判事例によって保護者や親の会を味方につけることでした。1986年頃だった記憶しますが、北海道は留萌市の中学校において、新設の固定学級(特殊学級)への配属を拒否した保護者と生徒が市教を相手に訴訟を起こした事例があります。原告の保護者は、娘を通常学級で学ばせたいという要求でした。留萌市教育委員会は、「原告の主張する親の選択権は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に認められる権利というべきであって、心身障害児をどの学級に入級させるかという教育措置については、親にこれを選択する権利はなく、当該校長の権限に属する事項である」と反論したのです。

 この裁判の経過は北海道新聞の記者から聞いておりました。記者からの電話を受けながら裁判の進行は気を揉む展開となりました。そして判決は原告の敗訴。その記者より判決内容についてコメントを求められました。そこで「生徒と保護者の意思を無視する固定学級での学びを強いるのは、時代錯誤、時代遅れの判決である」と記者に伝えました。

 その私のコメントが、文部省の役人と筑波大学のM教授のものと一緒に翌日の北海道新聞に掲載されました。もとより文部省の立場は、判決は妥当なものであるというものです。M先生のコメントは中庸な内容だったと記憶しています。それを読んだ北海道教育庁の役人が、文部省の特殊教育課に知らせたらしいのです。そして文部省から研究所にそのことで問い合わせがあったようです。翌日私は研究所の上司から呼び出されて聴取を受け、その経緯を説明させられました。「時代に逆行する判決である」と伝えたと答えました。文部省直轄機関の一研究員が「お上」に逆らったのです。その聴取では、今後は報道機関からの問い合わせには事務を通すようにという軽躁なものでした。お咎めも始末書もありませんでしたが、しばらくは蟄居を余儀なくされました。時はインクルージョンの情報がじわじわ浸透し、研究所もこの趨勢に抗うことが困難であると判断していたようです。

 2013年3月に川越市が脳性麻痺の子どもを特別支援学級で受け容れると発表しました。その顛末というのは、埼玉県教育委員会が、保護者の要求に対して、「特別支援学級では医療行為ができない、もし受け容れるとすれば保護者の同伴を要求する」というものでした。しかし、保護者は、共働きでなければ生活が成り立たないと主張します。川越市教育委員会は、すでに就学が2年も遅れている実情に鑑みて、2人の看護師をつけその子どもを受け容れるということになりました。一体、特別支援教育とはなんなのか、という問題提起をする事案でありました。

 どうも私には権威に対するアレルギーのようなものがあります。苦労して勉強してきたこと、ヤワな鍛えられ方をしてこなかったという自負と自信も強く、前例とか組織の体質には疑問を抱くのでどうしても上司とは軋轢を生みがちになるのです。保護者と子どもの側に立つのが教育の基本ですから、どのような強圧的な指導が入っても終局的にはそれを論破していくことができる自負がありました。行政というのは慣例や慣行に対して内からも外からも疑問を差し挟むことが困難な体質があります。留萌の裁判事案がそうでした。多くの学校管理者などにある「つつがなくお勤めを果たす」という内向きの姿勢が、時代の趨勢に応じて変化することを難しくしているのです。

 保護者が就学が遅れたことを理由に都道府県教育委員会を訴えるとすれば、恐らく被告は敗訴するはずです。これがもしアメリカで起こった事案とすれば教育委員会は100%、間違いなく敗訴します。それほど保護者や子ども権利は法律で保護されているのです。

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インクルーシブ教育とは

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近年日本でもよく耳にする「インクルーシブ教育」(Inclusive Education)とは一体なんでしょうか? インクルーシブ(inclusive) とは日本語で「包括的な」や「包み込む」と訳され、日本ではインクルーシブ教育は、「障がいの有無に関わらずすべての生徒が受け入れられる教育環境」という意味で用いられています。以前は「統合教育」「メインスツリーミング」という用語が使われていました。分離教育の対となる用語です。障がいのある生徒が、障がいのない生徒と同じ教室で学ぶことで得られる利点はたくさんあります。例えば次のようなものです。

 さらに、インクルーシブ教育は障がいのない生徒にも同様のメリットがあることが明らかになっています。また、私たちが理解しておかなければならないことは、インクルーシブ教育は単なる教育方法のことではなく、ある信条に支えられた「思想」とか「文化」のことを指しているのです。

 実は、インクルーシブ教育には各国共通の定義というものが存在しません。アメリカでは「最も制約の少ない環境 (Least Restrictive Environment、以下LRE)」と表現されます。他方1980年代以降インクルーシブ教育が発展したイタリアでは「すべての生徒が歓迎される環境」と定義されています。どのような定義にも、「生徒たちは彼らの障がいや特性に関わらず、学年に応じた教育が受けられるべき」であり、「教育関係者のバイアスによってそれらが阻まれるべきではない」という信条が込められています。

 アメリカの特別支援教育は、この「インクルーシブ教育の文化」がベースとなっています。このベースにより、障がいのある生徒たちは可能な限り、障がいのない生徒たちと一緒に過ごすことができるように考えられています。学校はもちろん、大学でもそうです。先日のアメリカの海軍大学の卒業式で車椅子の学生が、満場の拍手を受けて証書を貰っていました。また、日本においても、生徒や保護者に限らず学校教育に関わるすべての人々が上記の信条を共有していくことが、「インクルーシブ教育への転換」に必要な条件なのです。

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学生ビザ(F-1)取得の新規受け付けを一時停止

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アメリカの政治専門サイト「ポリティコ」(Politics, Policy, Political News: POLITICO) は5月27日、トランプ政権が各国の大使館などに対して、合衆国内の大学への留学を希望する人たちの学生ビザ(visa) 取得に向けた新規受け付けを一時停止するよう指示したと報じました。この対象となるのは、一般的な学生向けの「F-1ビザ」と語学研修などの「Jビザ」と伝えています。「面接予約の停止は追って案内があるまで続く」と発表しています。ただし、すでに受け付けた面接予約はそのまま進めてよいとしています。

 合衆国の大学は8~9月にかけて新年度が始まります。留学希望者は今の時期からビザ申請を本格化させるのです。CNNテレビは「タイミングは偶然ではない。収入を留学生に頼る多くの大学に打撃を与えるためだ」との専門家の意見が伝えられています。トランプ政権は、反ユダヤ主義的な投稿を行ったり、親パレスチナの抗議活動に参加したりした学生のビザを取り消すなど、締め付けを強めています。ルビオ(Marco A. Rubio)国務長官も「ビザは固有の権利ではなく、与えられた特典だ」と述べ、審査を厳格化する考えを表明しています。5月20日の上院公聴会では、彼は現政権発足後に300件以上の学生ビザなどを取り消したと明らかにしています。

F-1 Visa

CNNニュースによりますと、トランプ大統領は5月28日にハーヴァード大学(Harvard University) は受け入れる留学生の数に上限を設け、割合を15%程度にすべきとの考えを示しました。ホワイトハウスで記者団に「ハーヴァード大学などに進学したいアメリカの学生の中には、外国人留学生がいるために入れない者がいる」などと述べ、「留学生の受け入れ上限を設け、31%ではなく15%程度にすべき」と主張しています。ハーヴァード大学によると、2024年度の全学生に占める留学生の割合は27.2%と発表しています。

 全米の大学にいる海外留学生は110万人で、そのうち中国人留学生は27万7,000人で25%を占めます。インド人留学生の次いで2番目にあたります。トランプは、28日にハーヴァード大学の中国人留学生の受け入れ資格認定を取り消すと発表しました。トランプ政権とハーヴァード大学はこのところ対立を深めています。留学生の行動についての全記録の提出や多様性に関する監査の許可などの要求を同大学がほぼ拒否したことから、政権は報復的な措置を取っています。

 こうしたトランプ政権とハーヴァード大学などとの対立を受けてか、京都大学は5月27日、トランプ政権によるハーバード大学の留学生受け入れの停止措置を受け、同大学で学べない留学生が出る事態になった場合、学生らを受け入れる方針を明らかにしました。東京大学もハーヴァード大学で学べない留学生が出るような場合、一時的に受け入れる方向で検討していることが分かりました。「ハーヴァード大学の学生に限らず、他の大学の学生でも、国籍などに関わらず、困難な状況にある若者に学びを継続できるように貢献していきたい」とコメントしています。文部科学省がこの日、各大学に出した留学生の受け入れの検討を求める依頼を受け、「アメリカの大学に在籍する留学生を受け入れるために、具体的な検討を始めている」としています。日本学生支援機構にアメリカ留学中の学生らを対象にした相談窓口を設けることも明らかにしました。若手の研究者の受け入れについても準備を始めています。

 大阪大学も5月28日、トランプ米政権によるハーヴァード大学の留学生受け入れの停止措置などを受け、アメリカ国内での学業や研究が困難になった留学生や研究者を、一時的に受け入れる方針を発表しました。渡航に必要な手続きの支援や学費の免除など、具体的な支援策を検討しているのだそうです。同大学院医学系研究科は独自に6億~10億円の財源を確保し、国籍を問わず最大約100人の研究者を受け入れる体制を整える方針と発表しています。同医学系研究科長は「世界中から優秀な研究者が集まるアメリカでいま大変なことが起きている。素晴らしい研究が継続できないことは人類全体の損失と言える。支援は未来の学術的・国際的発展のため大切なこと。安心して最先端研究に取り組める環境を提供します。」などのコメントを発表しました。関西大学も同日、合衆国内の大学に在籍する留学生や研究者を出身国に関係なく受け入れる方針を明らかにしています。

  果たして京都大学、東京大学、大阪大学などの留学生受け入れ用意は、首尾良く展開するかは見守る必要がありそうです。

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教育省を停止または廃止できるか

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 以前、この欄で「大統領令と連邦教育省の閉鎖」という話題を取り上げました。このようにトランプ政権やその他の保守派政治家が「アメリカ連邦教育省(Department of Education)の廃止」を謳っていますが、結論からいえば大統領が単独で教育省を廃止することはできません。これは、連邦議会(Congress) の承認が必須だからです。連邦教育省は、1979年に制定された連邦法(Department of Education Organization Act)に基づいて設立されました。この法律を変更または撤廃しない限り、教育省を廃止することはできません。教育省の設立は法律に基づくものであることです。教育省を廃止するには、以下のようなプロセスが必要です。

 下院か上院の議員が教育省廃止の法案を提出をします。もし上下両院で可決されるとします。それを大統領が署名すれば廃止が決まります。しかし、議会が廃止の法案を否決するとします。それに対して大統領が拒否権を発動することも考えられます。その場合、議会が再可決することによって大統領の拒否権を覆すことができます。このことによって教育省は存続することになります。このように、教育省の廃止は立法プロセスを経なければならず、議会の多数派の支持がなければ実現は不可能です。ただし、大統領は連邦政府の予算案に影響力を持っており、教育省の予算を大幅に削ることで、機能を弱体化させるという戦略は理論的には可能です。しかしこれも、最終的には議会が予算案を承認しなければならず、やはり議会の支持が不可欠です。

 過去にも教育省の廃止が議論されたことはあります。レーガン政権と第一トランプ政権のときです。ですが実際に廃止されたことは一度もなく、政治的にも現実的ではないと広く考えられています。教育は州の権限が強い分野ではありますが、連邦政府が教育支援や規制、例えば特別支援教育、タイトルIX(Title IX)、学生ローンなどに果たす役割も多く、完全廃止は非常に困難です。

 特別支援教育の分野でに有名な立法は「障がい者教育法 (Individuals with Disabilities Education Act: DEA)」です。通称、「Public Law 94-142」といわれています。障がいのある生徒一人ひとりのニーズを満たすために特別にデザインされた教育で、無償で提供されています。次にタイトルIXとは、1972年に制定されたアメリカの連邦法で、連邦政府から財政援助を受ける教育機関における性別に基づく差別を禁止するものです。具体的には、教育プログラムや活動への参加を性別を理由に排除したり、その恩恵を拒否されたり、差別を受けたりすることを禁じています。

 連邦政府が提供する学生ローンは「Direct Loan」と呼ばれています。大学などの高等教育の学費を賄うために学生自身や保護者が借り入れるローンです。奨学金と異なり将来返済義務があります。2023年9月に新型コロナのパンデミック(pandemic)の影響を受けた学生たちを救済するため3年前にトランプ政権が始め、バイデン政権が継続してきた連邦学生ローンの返済猶予(repayment deferment)が終了しました。これにより3年間学生ローンの元金と利息の返済を猶予されてきた学生たちの返済が再開されたが、返済が出来ない学生が続出し大きなニュースとなっています。

 結論としては、トランプ大統領が教育省を廃止すると宣言しても、実現には連邦議会の承認が必要です。大統領単独では法的に廃止できません。

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Memorial Day

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アメリカの最も大事な記念日であり祝日の一つが「Memorial Day」です。戦没将兵追悼記念日といわれています。今年のMemorial Dayは、5月の最終月曜日の26日でした。アメリカのために命を捧げた軍人・軍属を追悼する日です。20世紀では戦没将兵は、第二次大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アフガン戦争で命を落としました。この日はアメリカ全土で国旗が半旗に掲げられ、軍人墓地や公園では追悼式典やセレモニーが行われました。各地ではパレードが開催され、退役軍人(veterans)やその家族が中心となって、国のために尽くした人々への感謝と敬意を表します。最も盛大なパレードはニューヨーク市のブルックリン(Brooklyn)で、毎年開催されます。1867年以来続き、これをアメリカ最古のパレードといわれています。

無名戦没者の碑

 2000年に連邦議会は国民追悼の法(National Moment of Remembrance Act)を可決し、午後3時に立ち止まって追悼するよう人々に呼びかけました。Memorial Dayの日には、国旗が掲揚され、正午まで厳粛に半旗に下げられます。その後、その日の残りの時間は全譜面に掲げられます。国立メモリアルデー・コンサートNational Memorial Day Concert は、合衆国議会議事堂(Capitol)の西芝生で開催されます。これは必見ものです。是非クリックして楽しんでください。

 街の通り沿いにや家には星条旗が掲げられ、商業施設の広告にも「Memorial Day Sale」の文字が見えます。報道では、退役軍人のインタビューや追悼関連の特集が組まれます。「Remember and Honor(戦没将兵を忘れず敬意を表しよう)」というメッセージが多く見られます。このようにアメリカでは、戦没者の追悼が社会的に“見える形”で行われます。日本とは違い、軍服を着た人が日常に溶け込んでいます。さらに退役軍人が地域のヒーローのように扱われます。学校でも子どもたちは、国旗の意味や国家への忠誠心を学んでいます。小学生から国歌を教えられます。

メモリアルデー・コンサート

 我が国には「終戦記念日」があります。静かに追悼を行う日という印象が強いです。全国的に大きく盛り上がることはありません。その理由は敗戦という歴史のためと思われ、Memorial Dayとは違った響きや内容がとなっています。沖縄には「慰霊の日」があります。沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされるためです。「慰霊の日」と「Memorial Day」の違いは、国家に尽くした個人への敬意を表す日ではなく、主に沖縄の庶民や軍属の戦没者に特化した祈りの日であることです。

 Memorial Dayは他方で、アメリカでは夏の始まりを告げる祝日でもあります。家族親戚が集まってバーベキューを楽しむ「家族で過ごす週末」としての意味合いも強いです。この「国のために戦った人への敬意」と「家族や日常の自由を大切にすること」が同居しています。「祈り」と「自由を楽しむ」ことが矛盾ではなく、「自由には代償がある」という歴史的な意識が根付いているのかもしれません。

 アメリカの社会学者のロバート・ベラ(Robert Bellah)は、合衆国には、いかなる宗教宗派や見解にも属さない世俗的な「市民宗教」(civil religion) があり、それがMemorial Dayを特別な行事として取り入れていると解釈します。その源は南北戦争で、それを契機に、死や犠牲、そして再生という新たなテーマが市民宗教に加わったというのです。Memorial Dayはこれらのテーマを儀式的に表現し、人の生と死の動機が国家目標の達成と一致するようにしたのがMemorial Dayのようです。

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トランプのハーヴァード大学への締め付けと影響

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今アメリカの大学は夏休み。そこに降ってわいたようなニュースです。数カ月後に授業が始まるまで、入学が許可された海外からの新入生や留学生は、トランプ政権によって「留学生受け入れ資格を取り消されるかもしれない」という事態です。特に、ハーヴァード大学はその騒ぎの渦中にあります。ハーヴァード大学に在籍する留学生は約6,800人。在学中の留学生は転校しなければ、アメリカでの滞在資格を失うかもしれないようです。それに対してハーヴァード大学は5月22日に国土安全保障省(Department of Homeland Security)が出したビザの剥奪?という措置が合衆国憲法修正第1条および適正手続きの権利などを侵害しているとして、マサチューセッツ州の連邦地方裁判所(連邦地裁)に訴状を提出しました。

ハーヴァード大学

 今回のトランプ政権の外国人留学生に対する発表は、2020年に「オンライン授業のみの大学に在籍する留学生は、ビザの維持ができず、アメリカから出国しなければならない」というトランプ政権の方針に関連しています。これはCOVID-19によるパンデミック下での対応でしたが、ハーヴァード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)が提訴し、連邦地裁が一時差し止めの判断を下したという経緯があります。

 日本からの留学生約100人を含め、留学生が約6,800人もいるハーヴァード大学にとって彼らの授業料は、重要な資金源となっているはずです。どの大学も留学生を積極的に受け入れる理由は、多額の授業料収入と優秀な学生を集めたいからです。トランプ政権はその収入源を絶とうとしています。税制上の優遇措置を中止するとも発表しています。それにもまして、ハーヴァード大学をはじめとする大学が「留学生受け入れ資格を取り消される」という事態が起きた場合、頭脳流出(brain drain)が起こる可能性は非常に高いといえます。このような頭脳の流出は、他の英語圏のエリート大学には優位性を与えることになります。

ハーヴァード大学図書館

 少し遡って4月14日にトランプ政権は、ハーヴァード大学に対して、多様性重視のプログラム(Diversity, Equity & Inclusion:DEI)の廃止を迫っています。これは、ハーヴァード大学やコロンビア大学の多様性を重視した学生選抜、反ユダヤ主義の活動に関与した学生への処分を求め「学生・交流訪問者プログラム」(Student and Exchange Visitor Program)の認定の取り消しを伝えるのです。すでに130以上の大学で1,000人以上の留学生のビザが取り消しにあっているという報道もあります。

 ハーヴァード大学の研究に対する政権の圧力は酷いものがあります。ハーヴァード大学に対して、トランプは22億ドル(3,200億円)の助成金を凍結し、マサチューセッツ州の医療研究向けの助成金10億ドル(1,400億円)の差し止めも検討しています。科学誌ネーチャー(Nataure)によりますと、研究プロジェクトが停止されれば、研究者の約1,600人の75%が海外への移動を考えているとあります。さらにアメリカ航空宇宙局(NASA)に対して研究予算の半減を提示しています。海洋大気庁 (National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)の職員を20%削減する計画も発表されています。そうした事情を背景としてか、ヨーロッパ連合(EU)の委員長を務めているウルズラ・フォンデアライエン(Ursula von der Leyen)は、5億ユーロ(8億1,000万円)という科学者を招聘するパッケージを発表しています。アメリカの有名大学などで働く研究者を招こうという意図です。

ハーヴァード大学の収入
ハーヴァード大学医学部

 アメリカの大学には、世界中から優秀な学生が集まっています。ハーヴァード大学のような大学では、博士課程や研究職に進む留学生も多く、科学技術・医学・経済などの分野で将来有望な人材が多数含まれています。アメリア人のノーベル受賞者の4割は外国移民です。滞在資格が剥奪されれば、彼らは母国か他国、例えばカナダ、イギリス、ドイツなどへ移るでしょう。頭脳流出によるアメリカの研究・技術革新への影響は甚大です。多くのイノベーションやスタートアップは、留学生を含む研究者やエンジニアによって支えられているのです。

 特にSTEM分野(科学・技術・工学・数学)では大学院留学生の存在は欠かせません。彼らがアメリカを去れば、研究開発力の低下や経済競争力の喪失につながります。トランプはこのような現状について一体なにを考えているのかと疑いたくなります、ハーヴァード大学には日本人研究者はおよそ150人が働いています。私の息子もかつてここでポスドクとして3年間働いていました。彼らも日本の硬直した運営組織である大学や研究機関ではなく、海外の研究機関を選ぶと考えられます。 多くの中国人家庭でさえ、子弟をイギリスや香港を進学先として検討し始めているようです。ただ中国の最も裕福な家庭は、他よりもアメリカの大学教育が依然として超富裕層への一定の引力や影響力を持っているといわれています。

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ドイツ語の旅 その8 「恋人」や「愛」

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北海道大学男声合唱団は好んで「恋人」や「愛」を取り上げた曲を歌いました。「恋人」や「愛」に関する曲はドイツロマン主義音楽に共通したモチーフのようです。特に18世紀後半から19世紀初頭にかけて確立し、ロマン派時代に興隆を迎えたといわれます。こうした曲の歌詞はドイツ語を学ぶ者には格好の材料となります。ドイツ語特有の品詞の変化が見られるからです。名詞には男性、女性、中性の3種があり、定冠詞もそれに対応して変化します。動詞も現在不定詞、過去原形、過去分詞という三つの基本形があります。ここで紹介する「Warum bist du so ferne? 」(どうしてあなたは、遠くにいるの?)という曲は、ドイツ語文法の基本となる好例です。それについて紹介します。

ドイツロマン主義の文豪

 曲の歌詞はもちろん詩ですから、短縮形や倒置法が使われています。「O mein Lieb! 」がその例です。「Sterne」は星で女性名詞です。「Mond」は月で男性名詞、「Mondenschein」は月の光で、こちらも男性名詞です。3格なので、「dem Mondenscheine」と表記されています。「lieb 」はもともとliebは愛しいとか大好きなという意味です。名詞化されて使われて「愛しい人」という意味で使われています。名詞化された形容詞は頭文字を大文字化します。比較級は lieber, 最上級は am liebstenとなります。

「süße」は甘いとか甘美な、という形容詞です。英語と同様にドイツ語の形容詞は述語になる場合と名詞の前に置かれて付加語となります。形容詞は不定冠詞と同じように変化します。男性名詞の単数の変化をみます。「Knabe」は子どもとか童という単語ですが、guter Knabe, gutes Knaben, gutem Knaben, guten Knabenという具合です。女性名詞の単数「Frauは妻という意味ですが、その変化は、gute Frau, guter Frau, guter Frau, gute Frau となります。「warum」とは何故、という疑問詞です。

Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの」という曲の歌詞です。

Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの
O mein Lieb!  私の愛しい人よ
Es leuchten mild die Sterne あなたは星のように輝いて
O mein Lieb!  わたしの愛しい人よ
Der Mond will schon sich neigen  月はすでに傾いて
In seinem stillen Reigen.  静かに回っている
Gute Nacht, mein süßes Lieb, おやすみ、甘美な愛しい人よ
O mein Lieb! 私の愛しい人よ

Es rauschen sanft die Wogen 波は柔らかく寄せてくる
O mein Lieb!  私の愛しい人よ
Gleich ihnen fortgezogen,  波は遠ざかっていく 
Bist du Lieb!  あなたは愛そのもの
Ich wandle stumm im Haine  私は木立のなかを静かに歩む
Und klag’s dem Mondenscheine.  そして月の光は訴えている
Gute Nacht, mein süßes Lieb!  おやすみ、甘美な愛しい人よ
O mein Lieb!  私の愛しい人よ

 このような詩は、ロマン主義の疾風怒濤(Sturm und Drang)期の作品としては、少々こそばゆい感じがしないでもありません。畏れ多いですがドイツ語の復習材料としては良いとしましょう。

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ドイツ語の旅 その7 冠詞の変化

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これから暫くドイツ語の文法をおさらいしていきます。品詞といえば名詞が代表でしょう。名詞に付随して性、数、格を表すのが冠詞です。他の品詞を名詞化する働きもあります。定冠詞、der は元来指示代名詞から生まれ、不定冠詞 ein は数詞から転化したものです。定冠詞は種属全体を表す普遍的用法で、不定冠詞は個々の事物を指示する個別的用法があります。以下その例です。 

普遍的用法:Der Mesch is sterblich. 人間は死ぬ存在である。 
    Ein Mensch lebt night ewig. 人間は永遠には生きない。
個別的用法:Dort liegt ein Buch. そこに本がある。
      Wem gehort das Haus? その家は誰のものか。

 定冠詞は次のように変化します。格はそれぞれ1格、2格、3格、4格があります。
  1格 der Vater  父は die Mutter 母は das Buch 本は
  2格 des Vaters 父  der Mutter 母の des Buch 本の
  3格 dem Vater 父に  der Mutter 母に dem Buch 本に
  4格 den Vater 父を  die Mutter 母を das Buch 本を

 冠詞の変化は、英語にはありません。英語にはthe, a,といった定冠詞と不定冠詞がありますが、、、ドイツ語の冠詞は格によって複雑に変化します。これがドイツ語の一つの特徴といえそうです。

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ドイツ語の旅 その6 反ユダヤ主義とナチズム

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ナチズム(Nationalsozialismus)やファシズム(Faschismus) の先駆はドイツの伝統的な右派・保守思想の影響を強く受け、国家主義・民族主義的な政権によって社会を全面的に統制しようとする思想・運動とされています。結束主義(ファシズム)や全体主義の一種で、特徴としては反共産主義、反マルクス主義、反民主主義、反自由主義、反個人主義、反議会主義、反資本主義、反ユダヤ主義(Anti-Semitism)ということです。その意味でナチズムは政治闘争用語です。こうした民族主義的な風潮はドイツ帝国時代から支配層と一般市民層の間に広く浸透していたようです。

Immanuel Kant

 イマヌエル・カントの思想には、啓蒙主義の影響が色濃く反映されていますが、カントはユダヤ教を「啓蒙の妨げ」と見なし、ユダヤ人の社会的な立場について否定的な意見を述べていたことが明らかになっています。特に、彼はユダヤ教を「商業的な宗教」として批判し、普遍的な道徳の発展に寄与しないと考えていたようです。このようにユダヤ教の宗教的な側面や社会的な影響について批判的な見解を持っていたと指摘されています。さらに「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがエホバ(Jehovah)に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視し、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」とユダヤ教の選民思想についても批判しています。選民であるという感覚は、しばしば特定のイデオロギー運動と関連しています。

 反ユダヤ主義的な思想を持っていたとされる哲学者には、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger) がいます。彼は1933年にナチス党に入党し、ナチス政権下で活動し、その思想が反ユダヤ主義的な側面を持つと批判されています。「ドイツ大学の自己主張」と題したフライブルク大学(Albert-Ludwigs-Universität Freiburg)の学長就任演説では、ナチスの理念を支持しナチスを賛美する演説を行い大学の改革も試みています。

Martin Heidegger

 「ドイツ国民に告ぐ(Reden an die deutsche Nation)」という有名な講演をしたのがヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)です。この講演では、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツの解放戦争を準備する力となったといわれます。彼の国家哲学には、ドイツ民族の独自性を強調する側面があり、後のナショナリズムの発展に影響を与えたとされています。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」とも講演しています。この思想は後のドイツのナショナリズムに大きな影響を与えたとされます。政治学者の今野元は、著書「ドイツ・ナショナリズム:「普遍」対「固有」の二千年史」で 「ドイツ・ナショナリズムとは、ドイツへの帰属意識を前提に、ドイツ的なものの維持・発展を望む思想」と指摘しています。

 もう一人のドイツの哲学者にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいます。彼の哲学も後のドイツ観念論に大きな影響を与えましす。ヘーゲルは国家を「理念の実現」と捉え、歴史を通じて国家が発展していくという思想を展開しました。一部の解釈では、これがナチズムの全体主義的な国家観に利用されたといわれます。ある解釈ではユダヤ人に対する否定的な見解が含まれていると指摘されています。

 終わりにカール・シュミット(Carl Schmitt) という20世紀の法哲学や政治哲学のことです。1933年からナチスに協力し、ナチスの反ユダヤ的な法学理論を支えナチス政権下で活動します。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判(Nuremberg Military Tribunals)で尋問を受けますが不起訴となります。

 ナチズムを生んだのはドイツ観念論が直接影響したかどうかですが、一定の思想的土壌を提供した可能性があるようです。ヘーゲルの「国家の絶対性」という思想が、民族中心主義や権威主義を正当化する道具として解釈されたともいえます。ドイツ民族の精神的優越性を強調し、後の民族主義に影響を与えたのは否めません。西欧中心主義的気風が強いドイツでは、西欧、なかんずくドイツのものが「普遍」妥当性を持つのは当たり前だと考えられてきたふしがあります。

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