アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その9 ロジャー・ウィリアムズとロードアイランド

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東海岸(East Coast)とはアメリカの大西洋岸のことです。マサチューセッツ湾植民地の権威主義的な傾向にもかかわらず、そこでは恐らく他の植民地では見られないようなコミュニティの精神が醸成していきました。マサチューセッツ州の住民が清教徒の道徳の真の原則から逸脱していることを隣人に知らしめたように、その精神が、隣人のニーズに添ったものであるように訴えていきました。マサチューセッツ州での生活は、それまでの正統派主義に反対する人々にとっては困難でしたが、社会でゆき渡ってきたコンセンサスの中で生活する人々の賛同や共同体の感覚が次第に浸透していきます。

Rhode Island

 同時に多くのニューイングランド人はマサチューセッツの支配層によって押しつけられる正統派主義の中で生きることを拒否し、コネチカット(Connecticut)とロードアイランド(Rhode Island) が彼らの不満のはけ口として開拓されていきます。 1633年にマサチューセッツ湾に到着したトーマス・フッカー牧師(Rev. Thomas Hooker)は、すぐに教会員の入国に関する植民地の制限政策と植民地の指導者の寡頭的権力が望ましくないと考えます。マサチューセッツの宗教的および政治的施策に対する嫌悪感と新しい土地を開拓したいという願望に動機付けられて、フッカーと彼の仲間は1635年にコネチカット渓谷 (Connecticut Valley)に移動し始めます。そうして1636年までに、ハートフォード(Hartford)、ウィンザー(Windsor)、とウェザーズフォード(Wethersford)の街が造られていきます。 1638年にニューヘブン(New Haven)に別の植民地が設立され、1662年にコネチカットとロードアイランドが1つの憲章の下で合併していきます。

 ロードアイランドの創設に密接に関わったロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)は、植民地で確立されていた正統派主義に服従しないため、マサチューセッツから追放されます。アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)という女性の聖職者もそうでした。ウィリアムズやハッチンソンの見解は、いくつかの重要な点でマサチューセッツの支配層の見解と相対立していました。信仰を告白し、それにより教会の会員になる資格があるという厳格な教義は、最終的に誰もが教会の会員となるということを認めませんでした。

 ウィリアムズはやがて教会がその会衆の純粋さを保証できないことを認識することになり、彼は純粋さを基準とした会員の認定をやめ、代わりにコミュニティのほぼすべての人教会の会員資格を認めるようにしました。さらに、ウィリアムズは明らかにイギリス国教会からの分離・独立の立場をとり、ピューリタン教会はイングランド国教会内にとどまっている限り、純粋さを達成することはできないと説教します。最も重要なことは、ウィリアムズやハッチンソンは、マサチューセッツの指導者が先住民族から土地を購入せずに、土地を占領することに公然と異議を唱えたことです。

 しかし、ウィリアムズらの主張は受け容れられず、彼は1636年に自ら信じる摂理(Providence)のためにマサチューセッツ湾から撤退することを余儀なくされます。1639年、マサチューセッツの正統派主義の反対者であるウィリアム・コディントン(William Coddington)は、ニューポート (Newport.)に会衆を定住させます。4年後、牧師のサミュエル・ゴートン(Samuel Gorton)も、支配的な寡頭制に異議を唱えたためにマサチューセッツ湾から追放され、シャウーメット(Shawomet)、後にワーウィック(Warwick)と改名される地帯に移住します。1644年、これら3つのコミュニティは、ポーツマスの4番目のコミュニティとして1つの憲章の下で合流し、ナラガンセット湾(Narragansett Bay)のプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)と呼ばれる入植地を形成していきます。

 ニューハンプシャー(New Hampshire)とメイン (Maine)の初期の入植者もマサチューセッツ湾の政府によって支配されていました。ニューハンプシャーは1692年にマサチューセッツから完全に分離されますが、1741年になって初めて独自の王立知事が任命されました。メイン州は1820年までマサチューセッツ州の管轄下に入ります。ロードアイランド州はアメリカでもっとも小さい州で鳥取県より少し小さく、その愛称「リトルローディ」(Little Rhody)は、「良いものの包みは小さい」という諺を表しています。

注釈:ロードアイランド州は静かな海岸線や田園地方でも知られ、州都プロビデンスにはアメリカ名門8大学の総称アイヴィーリーグ(Ivy League)の一つであるブラウン大学(Brown University)があります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その8 ジョン・ウィンスロップと分離主義の台頭 

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マサチューセッツ湾植民地のクエーカー(Quaker)教徒は、清教徒と同じように主に宗教的拘束から解放されたいとしてアメリカへ航海しました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー指導者の一人です。クエーカーは、清教徒と異なりイギリス国教会から分離することを望んでいました。彼らはその矜持を示すことによって、教会を改革することを望んでいました。それにもかかわらず、マサチューセッツ湾植民地の指導者たちが何度も直面している問題の1つは、イギリス国教会の汚職疑惑であり、自分たちは国教会から独立したいという独立や分離主義の思想を支持する傾向にありました。

 このような正統的な清教徒の教義からの逸脱を示唆する思想が広まるにつれて、分離の考えを支持する人々はすぐに改宗を求められるか、コロニーから追放されました。マサチューセッツ湾企業の指導者たちは、彼らの植民地が新世界における寛容の前哨基地になることを決して意図していませんでした。むしろ、彼らは植民地を「荒野のシオン」(Zion in the wilderness)という純粋さと正統性のモデルとしようと考え、すべての背教者(backsliders)が即座に改宗されるべきだと主張していました。

 植民地の市民による行政は、こうした権威主義的な精神によって統治していきました。マサチューセッツ湾の初代総督であるジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)らは、総督の義務は、彼らの構成員の直接の代表として行動するのではなく、どのような措置が最善の利益になるかを独自に決定することであると信じていました。1629年の当初の憲章は、植民地のすべての権力を会社の少数の株主のみで構成される一般裁判所(general court)に与えました。ヨーロッパからの人々がマサチューセッツに入植すると、入植者は多くの権利が剥奪されることを知りこの規定に抗議し、参政権(franchise) を拡大してすべての信徒を含むように主張します。これらの「自由人」は、知事と評議会のために、年に一度、一般裁判所で投票する権利を与えられました。

 1629年の憲章は技術的には植民地に影響を与えるすべての問題を決定する権限を一般裁判所に与えましたが、支配階級であるエリートの会員は当初、入植者の数が多いという理由で、一般裁判所の自由人が立法過程に参加することを拒否しました。数によって裁判所の決定を非効率的にするからだと考えたのです。

 1634年、一般裁判所は新しい代表者の選出方法を採択します。これによりそれぞれの植民地の自由な人々から代表者が選出されますが。こうして立法に責任を持つ人々が、一般裁判所の2人または3人の代表者と代理人を選ぶことができるようになります。より小さくより権威のある小グループとより大きな代理人のグループの間には常に緊張が生まれました。1644年、この継続的な緊張を反映し、2つのグループは公式に一般裁判所の別々の部屋で討議し、互いに拒否権を持つようになりました。

イギリス国王チャールズ1世から植民地建設の特許を得た新たな移民が清教徒です。清教徒であることが「自由民」の資格だったのですが、清教徒による統治の厳格な正統性が皆に賛成されていたわけではありません。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その7 清教徒とプリマス・プランテーション 

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当時、入植者の間には憲章というものはありませんでした。マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)という入植地にプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)が造られます。その創設者らは、ヴァジニア州の創設者と同様に、入植地に資金を提供して利益を追求する支援者からの民間投資に依存していました。プリマスの集落の中核は、オランダのライデン(Leiden)にあるイギリスの入植者が住んでいた飛び地からやってきました。これらのイギリス国教会からの分離を主張する人々は、真の教会は牧師の指導の下での自発的な社会であり、教会の教義の解釈は、個人の考えにあると信じていました。マサチューセッツ湾の入植者とは異なり、こうした清教徒(Puritans)はイギリス国教会を内部から改革するのではなく、国教会から独立することを選択していきます。

Mayflower II

 清教徒はプリマスでは常に少数派でしたが、それでも、入植の最初の40年間は入植地を統治していました。 1620年にメイフラワー号二世号 (Mayflower II)を下船する前に、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)が率いる清教徒の一行は、乗船したすべての成人男性に、ブラッドフォードらによって起草された誓約に服従することの署名を要求しました。このメイフラワーコンパクト(Mayflower Compact)と呼ばれる誓約は、後にアメリカの民主主義を推進する重要な文書として評価されますが、誓約は双方向的な取り決めではなく、清教徒は服従を約束しますが、彼らに希望を約束するものではありませんでした。やがてほぼすべての男性住民が州議会の議員と知事に投票することを認められますが、入植地は、少なくとも最初の40年間、少数の男性による統治化にありました。 1660年以降、プリマスの人々は教徒と市民の両方の立場で、徐々に意識を高め、1691年までにプリマス植民地がマサチューセッツ湾(Massachusetts Bay) に併合されたとき、プリマスの入植者は粛々と規律正しく振る舞いました。

 プリマスに入植の最初の年1620年に、清教徒であった入植者のほぼ半数が病気で亡くなりました。しかし、それ以来、イギリスの投資家からの支援が減少したにもかかわらず、入植者の健康と経済的地位は改善していきます。清教徒たちはすぐに周囲のほとんどの先住民族とで講和し、入植地を襲撃から守る費用と時間から解放され、強力で安定した経済基盤の構築に時間を費やすことができました。彼らの主要な経済活動である農業、漁業、貿易はどれも彼らに贅沢な生活を約束するものではありませんでしたが、マサチューセッツの清教徒はわずか5年後に自給自足していきます。

「注釈」 プリマス・プランテーションは、ボストンの中心街から、南東方向に約56kmのプリマスに位置します。現在は、野外歴史博物館となっています。1620年にプリマスに入植したピルグリムの人々の当時の生活や文化を再現し紹介しています。スタッフは厳しい訓練を受けて、当時の衣装を身にまとい、当時のように畑を耕し、当時の言語を話すなど歴史的考証によって徹底して入植時代を再現しています。ボストンを旅行するときは、必ずこの歴史的遺産を見学することをお勧めします。


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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その6 メリーランドの入植地 

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ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)で              す。彼は1632年に王室から土地の供与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の供与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。

 カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary‘s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、整備されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず不安定な生活状態でした。

 コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマカトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモア(Baltimore)は、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。ボルチモアは土地政策に執着していましたが、おおむね善良で公正な管理者でした。

しかし、ウィリアム三世(William III)とメアリー二世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。

メリーランドという地名の由来は、イングランド王チャールズ二世(Charles II)の母親ヘンリエッタ・マリア(Henrietta Maria of France)にちなんでいます。現在のメリーランド州都はアナポリス(Annapolis)、最大都市はボルティモアです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その5 ヴァジニアにおける植民地化政策

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ジェイムズタウン(Jamestown)における企業連合に属するヴァジニア会社の経営者は、もともと富裕な貿易商人や武器商人であり、さらなる新しい投資先を探すのに熱心でした。1607年の設立認可によるヴァジニア・コロニー(Virginia Colony) における最初に2年間は、経営が困難な状態でした。それというのは入植者の協力が得られにくかったことと、慢性的な資本の投資や供給不足が原因といわれます。

1607年の設立認可は、ヴァジニア会社の投資者を増やしていきます。取締役の努力によって短期的な投資が増えることになります。しかし、大抵の入植者は、その土地の先住民族が自分たちの生活を保障してくれるものと期待しました。先住民族はそれを頑なに拒否したために、会社経営はなんらの利益を生むことなく投資家も衰退していきます。

 イギリス国王は1612年に新たな認可状を発布し、ヴァジニア会社が投資を促すための宝くじの発行を認めます。破産しかかった会社を救うためです。同年、ジョン・ロルフ(John Rolfe)は始めて高い品質の穀物栽培にとりかかり、それがタバコの生産につながっていきます。トマス・デール卿(Sir Thomas Dale)がやってきて、1611年にヴァジニアの初代の総督となります。ヴァジニアは次第に統制がとれて、地域が安定していきます。当然、高い代償を払ってのことでした。

 デール卿は「権威、道徳、規律」(Laws Divine, Morale, and Martial)という法を定め、入植者の生活に規律を求めます。ヴァジニアの住民は子どもも女性も軍の階級が与えられ、それにそった義務を果たさなければならないというものです。こうした規律に反した者には重い罰則が科せられました。首やかかとを縛られること、むち打ち、そして犯罪人を乗せる船での労役でした。入植者はこうした法律に逆らうことは会社への中傷とみなされ、そうした行為は死刑を宣告されるようなものでした。

 デール卿の布告は、ヴァジニアにおける植民地政策に規律をもたらしますが、新しい入植者を増やすことには役立ちませんでした。ヴァジニアに自費でやってくる入植者を惹き付けるために、会社は20ヘクタールの入植地を与えるとします。自費で来られない者には7年後には20ヘクタールの土地を与えることとします。同時に、ヴァジニアの新しい総督となったジョージ・ヤードリー卿(Sir George Yeardley)は、1619年に代表者を選ぶ選挙を施行すると発表し、その議会組織は、ほとんどヴァジニア会社の取締役会に似たようなものでしたが、後にその組織は権限を拡張し、植民地の自治のための原動力になっていきます。


アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その4 イギリスの植民地化政策

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イギリスもスペインやポルトガルの植民地の成功に続こうと新大陸における植民地化を試みます。1497年にイギリスは、ジョン・キャボット(John Cabot)がノヴァ・スコシア(Nova Scotia)へ航海したことを理由に、アメリカ大陸の机上の国有化を宣言するのです。しかし、それを裏付けるような方策や野望はありませんでした。イギリスは新大陸における国土の拡大ではなく、商業や貿易上の展開に関心がありました。1554年にマスコビー社(Muscovy Company)を設立すると、イギリスの航海者、マーチン・フロビシャー(Martin Frobisher)は1576年から三度にわたり北アメリカ大陸の北方を通って極東への航路(Northwest Passage) の発見を試みます。

 1577年にはc(Sir Francis Drake)は、世界一周の航海に出ます。そして南アメリカの西海岸をまわります。一年後イギリス帝国の愛国者であったハンフリー・ギルバート卿(Sir Humphrey Gilbert)はアメリカ大陸の植民地化を目指して活躍します。ギルバートの努力は、限られた成功に終わり1583年には5隻の船と260名の乗組員ともに北大西洋で遭難します。ギルバートの航海の失敗に続き、新しい航海者が現れます。ウオルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)は南アメリカ航路ではなく北アメリカ航路を開拓し新大陸にやってきます。

 ラレイは今のヴァジニア(Virginia) 沿岸を植民地化する基礎を築き、ロアノーク島(Roanoke Island) を最初の移住地とします。しかし、このコロニー(植民集落)は1587年に原因不明で廃棄されてしまいます。おそらくは疫病のせいだろうと察します。しかし、アメリカ大陸を植民地化しようとする試みは続きます。ロアノーク島でのコロニーに続き、1607年にはジェイムズタウン(Jamestown)にコロニーをつくるやいなや、イギリスの扇動家らは、アメリカ大陸が開拓によって容易に富の増大をもたらすと国民に宣伝していきます。イギリスの地理学者であるリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)さえ、スペインの植民地政策は限定されており、イギリスのアメリカ大陸での植民地は短期間のうちに商業的な反映をもたらすはずだと主張します。

 イギリスは他にも植民地化を進めようとする理由がありました。それはアメリカ大陸から東アジアへのルートが開けるのではないかという予測でした。イギリスの帝国主義者等は新大陸においてスペインの拡大を阻止する必要があると考えます。アメリカを植民地とするのは適当であると考え、イギリス人は宗教的な迫害から人々を解放しようと考えていきます。

 イギリスの中産階級や下層階級の人々は、新大陸は無償、あるいは低価格で土地を獲得し、商業活動を容易に行えるとも考えていきます。宗教からの解放や自由な商業活動という開拓への動機は、確かに歴史学者の関心を集めるのですが、植民地化政策が始まるとともに、なぜかこうした動機は高まることはありませんでした。

  大英帝国の発展は、大航海時代を背景にしてカリブ海地域と北アメリカ植民地がその主体をなし,18世紀のフランスとの植民地争奪戦に勝ってカナダ,インドのベンガル地方(Bengal)へと進出します。一時地球上の土地のほぼ6分の1を自治領や植民地化するというもの凄い勢いでした。


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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その3 ポルトガルやフランスの植民地化政策

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アメリカ大陸におけるイギリスの植民地化政策は、ヨーロッパ人による開拓の序章に過ぎません。1418年にポルトガル人 (Portuguese) が、北アフリカのモロッコ(Morocco)西方、大西洋上にあるポルトサント島 (Porto Santo) へ航海し、それが開拓政策の始まりといわれます。1487年にはポルトガル人は、アフリカの西海岸沿いに位置するモーリタニア(Mauritania)のアルギン(Arguin)、シエラレオ(Sierra Leone)、エルミナ(El Mina)などに交易の拠点をおきます。

1497年にはヴァスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰(Cape of Good Hope)を通り、アフリカの東海岸に到達します。その後、ポルトガルはインドにおける商業圏を築くことになります。1500年には、ペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral )は、ブラジル(Brazil) を経由してインド洋に達します。ポルトガル人はこうして新大陸へも進出していきます。

Vasco da Gama
Jacques Cartier
Pedro Alvares Cabral

 航海や探検におけるポルトガル人の活躍に続いて、コロンブスのアメリカ大陸への航海後、スペイン人も急速に航海を始めていきます。カリブ海(Caribbean Sea)をはじめ、新スペイン(New Spain)やペルー(Peru)などを征服し、ヨーロッパ諸国の新大陸への関心や羨望を大いに高めます。

フランスは、ヨーロッパにおける戦いでは自国の領土を保全していきますが、スペインやポルトガルのように海外への進出は遅れをとっていました。16世紀初頭になると、フランスの船乗りはニューファンドランド(Newfoundland)に拠点をつくります。1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)は、セントローレンス湾(Gulf of St. Lawrence)の探検に乗り出します。1543年までに、フランスは新大陸での植民地化を断念していきます。16世紀の後半になると、フランスはフロリダ(Florida)やブラジルに植民地をつくろうと試みます。しかし、いずれも失敗に終わり16世紀はスペインとポルトガルの二カ国が新大陸における植民地づくりで覇権を握っていきます。

フランスの新大陸における植民地化の足跡は、各地に残るフランス語の町や村の名前で分かります。例えば、ウィスコンシン州(Wisconsin)だけをみてもPortage, Racine, Prairie du Chien, Prairie du Sac, Radisson, Marquette, Nicoletなど沢山の町にフランス語名が付けられています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その2 先住民族の生活様式と文化

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先住民族の生活様式は各地域における食糧資源によって決定されます。各地域の物質文化も食料、その他の資源に応じて違いがありました。魚や海の哺乳類は、大陸の沿岸に住む人々の食料となり、どん栗などはカリフォルニア先住民族の定番の食料となりました。アメリカバイソン(bison)やバッファロー(buffalo)等、平原に住む動物はそこに定住する先住民族の食料となりました。狩猟や釣りは中西部や東部の先住民族の暮らしの支えとなり、南西部の先住民族は、主としてトウモロコシを食料とし魚や動物は代用食となりました。こうした食料の調達により、釣りや狩猟、植え付けと果実の採取によって、食料獲得の技術を促していきます。

tepees

食糧や資源はそれぞれの地域の資源という文化に依存します。先住民族は人力や犬ぞり、筏、小舟、カヌーなどで物を運びました。16世紀初頭にスペイン人がもたらした馬は、先住民族もすぐに取り入れ、大平原におけるバッファローの捕獲に活躍します。先住民族の諸文化は家の形によっても識別されます。たとえば、エスキモー(Eskimos)はドーム型の氷の家(igloos) 、大平原やプレーリー(prairie)の先住民族は土や毛皮で造った小屋やテント(tepees)、一部の南西部の先住民族ープエブロ(Pueblo) は平屋根の多層式の家屋(Adobe)、更には衣類、工芸、武器、さらに種族の経済的、社会的、宗教的な習慣も各部族によって異なっていきます。

 先住民族は、通常アメリカ・インディアン(America Indians)とかネイティブ・アメリカン(Native Americans)と呼ばれます。本稿では先住民族とか先住民と表記します。衣食住の形態は、先住民族独特のものがあり民族学や民俗学の興味ある話題となります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その1 先住民族とクリストファー・コロンブス

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アメリカ大陸(北米大陸)はクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)の航海以前に何度かにわたって発見されていたようです。コロンブスが上陸した時、彼は「新大陸 (New World)を発見した」と思ったかもしれません。上陸した島は後に命名されたサン・サルバドル島(San Salvador Island)です。ここには先住民のインディオ(Indio)でアラワク族系(Arawak)に属するルカヤン族(Lucayan)が住んでいました。

 やがて北米大陸にはアジア系のモンゴロイド(Mongoloid)がアジア大陸からベーリング海峡(Bering Strait)を通って移住してきます。ヨーロッパ人が最初に到達する以前にこうした先住民族は一般にインディアン(Indians)と呼ばれ、大陸の様々な地に定住していました。コロンブス以前からアメリカ大陸に先住民族が定住していたことは動かぬ事実ですから、世界史の上で始めてこの大陸を発見した人物はコロンブスでないことは言うまでもありません。 先住民族らから、「アメリカ大陸の発見はヨーロッパ中心主義に基づいた的外れの見方である」と批判されてきたのも理解できます。

 コロンブスがやって来る前には、現在のアメリカ大陸に1,500万人の先住民族がいたといわれます。先住民族がアメリカの歴史において、どのような役割や影響を及ぼしたかは興味ある話題です。先住民族は多様な部族から成り、その文化や生活においてさまざまな違いがあります。新大陸にやってきたヨーロッパ人がもたらした文明は、やがて先住民族の暮らしや文化によって影響を受けていきます。彼らの食事や香料、物作り、作物作り、戦いの技法、言語、民謡、など民族の独特な文化の注入が、ヨーロッパからの征服者にいろいろな影響を与えていきます。長く続いた白人による西部開拓は、先住民族の激しい抵抗を誘発し、後に合衆国における最も悲劇的な歴史を記すことになります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

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この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

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綜合的な教育支援の広場

感謝祭と勤労感謝の日

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 1977年11月26日、高速道路(インターステイト−94)は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってウィスコンシン州のマディソンからミルウオーキにお住まいのルロイ・ハスという元宣教師宅に着きました。感謝祭の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

 ハス牧師は、戦前は中国の内陸で、戦後は日本での伝道に20年あまり従事していました。ですから日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ英語の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス牧師の言葉に聞き入りました。それから夕餉が始まりました。

 エプロンをつけたハス牧師自らが七面鳥の丸焼きにナイフをいれて、細かく切り分けます。この役割はご主人が受け持つのが伝統だそうです。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは味が鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィングという乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソースです。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれもミセス・ハス手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

 家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆家族で感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス牧師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから47年が経ちます。ハスご夫妻は既に召されています。

 11月23日が近づきました。勤労感謝の日です。 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」として1948年に制定されました。勤労感謝の日の前身は、古くから日本にある新嘗祭(にいなめさい)という祭りです。これは新米の収穫を神に感謝するための祭りで、おもに皇族が行ってきました。時代を経て、11月23日は神への感謝から労働をするすべての人への感謝の日へとなりました。

 万国に共通することは、実りと収穫という恵みに感謝する行事があることです。収穫へ感謝を示すとは、見えざる手に対して畏敬の念を表すことです。それがどのような神であれ仏であれ、感謝するという行為がなにかの形で現れます。

 なぜ感謝するのかです。それは私たちがなにかに、誰かに支えられていることに気づくからです。仏教では「知恩」という言葉があります。恩を受けていることを知るということです。そこから「布施」という与えることを意味する行為が生まれるといわれます。恩に報いることです。

 「どんなことにも感謝しなさい」という聖句があります。「ありがとう」はわたしたちの生活の土台になるものです。私は、家内にそれを素直に言葉に表わすことができません(..;)。「Thank you」は「Think of you」からきているともいわれます。「あなたのことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるというのです。勤労感謝の日は、大切な人々に心からの「ありがとう」を伝える日です。家族や友人、近所の人たち、働く人たちが私たちを支えてくれることに感謝をする日でもあります。

Turkey
Thanksgiving −The Legend of John Carver

木枯らしの季節 その2 ライデンからプリマスへ

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感謝祭の由来

 北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

 バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。


メイフラワー号

 ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープコッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

プリマス開拓地はボストンから車まで一時間のところにあります。ボストンに行かれたときは、是非ともこの自然博物館を訪れることを強くお勧めします。プリマスはPlimothとかPlymouthと綴られます。その違いの理由は分かりません。


木枯らしの季節 その1 山口誓子の詩

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 一段と寒くなってきました。「海に出て木枯らし帰るところなし」 という句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のISと同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

 誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。この句の舞台は、樺太南部の港町、大泊です。明治34年に京都で生まれた誓子は、明治45年に樺太日日新聞社の社長であった祖父の住む樺太へと渡ります。そして、大正6年に大泊中学から京都府立一中に転校するまでの約5年間を樺太で暮らしています。

探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

 私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。誓子が療養中に詠ったのがこの句は、敗戦間近で反戦文学などの流行に警戒していた官憲の検閲にひっかからなかったようです。

国政選挙の予測 その九 戦略とキャンペーン

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日本の国政選挙とアメリカの大統領選挙キャンペーンには、いろいろな違いがあります。その一つは、資金の集め方です。現在日本では、政治家個人への献金は原則として禁止されており、政治家に献金する場合は、一政治家が一つだけ指定できる資金管理団体や候補者の後援会などを通じて献金することになります。日本国籍を持つ個人のみ献金が可能で、一政治団体に対して年間150万円迄の政治献金が認められています。これが選挙資金の中心となります。こうして党に寄せられる政治献金などをもとにして、党より公認されると候補者へ選挙資金が配られます。

 アメリカでは、組合などは政党や政治家へ直接献金することが禁止されているため、PAC(Political Action Committee)という政治資金管理団体を設立して資金を調達し、それを通じて政治献金を行なっています。特定の候補者に属して選挙活動を行うPACへの献金は、一人当たり年間5000ドルに制限されています。献金すると税制上も優遇されるため、主に富裕層からの政治献金の受け皿となっています。マイクロソフト共同創業者ビル・ゲイツが今回の大統領選で、民主党候補のハリス副大統領の支持に回り、5000万ドル(約75億円)を民主党のPACに寄付したといわれます。

 アメリカ大統領選挙戦をみますと、集まった献金を使ってテレビCMやSNSなどで他の候補を中傷する「ネガティブキャンペーン(negative campaign)」に用いるなど、特定の政党や候補者への批判や支援につながっている場合が多いようです。例えば、相手を誹謗するような、堕落した(corrupted Joe)、眠りこける(Sleepy Joe)、不正な(crooked Hilary)、変人(weirdo)、精神異常(mental collapse)、精神病質(psychopat)といった言葉遣いです。ネガティブキャンペーンは日本の選挙でもしばしばなされていますが、個人の人格などへの批判や攻撃は少ないです。

Harris vs Trump

デジタル・メディア・コンテンツの台頭
 今日の選挙戦の一つの特徴は、これまで以上にデジタル・メディア・コンテンツが台頭してきたことです。ある調査によれば、テレビの生放送を見る時間は減っています。録画番組を視聴する時は、CMを飛ばすのが常です。全国向けのテレビにおける候補者討論会の生放送でも、視聴しなかった者は若年層に顕著だったようです。投票しそうな有権者の1/3がテレビ生放送は見ないとか、映像を見る際にも45%人々が見ているのは、テレビ生放送以外の内容ともいわれます。少し古い統計ですが、2012年のバラック・オバマ(Barack Obama)とミット・ロムニー(Mitt Romney)による大統領選挙におけるテレビ選挙広告は30億ドル市場といわれ、依然として大手マスメディが広告の最大の出資先となりました。ただどれだけの有権者が選挙広告を見ているかは調査しなければなりませんが、、、

ポジショニング
 トランプは2017年1月の大統領の就任演説において、「何も行動をしない政治家とワシントンDCから権力を奪い、忘れ去られた国民にその権力を取り戻す」と宣言しました。この言葉には彼の選挙戦略が凝縮されています。
I will take power away from inaction politicians and Washington DC and give it back to the forgotten people.

 トランプは自らを「成功した起業家で、過去に政治・行政における一切のキャリアを持たない、史上初の米国大統領候補」という立場を鮮明にしました。あらゆる共和党内候補や民主党候補のビル・クリントン(Bill Clinton)から自らを差別化したといわれます。他の候補者を「不誠実(dishonest)で堕落した(corrupted)候補」として攻撃する一方で、自分自身をその対極にある、「正直(honest)で成果を創出する(entrepreneurial)変革者(change agent)」と自認したのです。こうしたポジショニングは、過去の大統領選挙にはない新たな戦略で、選挙の主導権争いに勝利したといわれます。奇抜な発言や政策、駆使したメディアなどがトランプの勝因だったというわけです。

 候補者は通常、支持基盤を広げるにあたって投票頻度の低い有権者と投票先が揺れる有権者(Swing Voter)の両方をターゲットに据えます。その中で、もともとZ世代を中心とする若者は民主支持が多いとみられてきましたが、トランプ陣営も若い男性に支持を広げ、2024年10月25日現在では予断を許さない情勢だといわれます。トランプ陣営はこのところ投票頻度の低いZ世代に重きを置いているようです。最近は時給20ドルで若者を雇い在宅訪問などによって、ヒスパニックなど白人以外の有権者へも働きかけているといわれます。しらみつぶしのドブ板の選挙戦ともいえそうです。

メディアの活用とポピュリズム
 資金が豊富なハリス陣営はトランプ陣営と対照的に、より幅広い有権者層で票を獲得しようとしているといわれます。選挙イベントや登録推進活動を通じて、トランプを支持していない女性や黒人などの層を取り込む戦略を取っているといわれます。両候補が活用するメディアでも違いが見られています。トランプは、もともと若年層の支持率が低いこともあり、その改善策としてソーシャルメディアに注力しています。他方、ハリスは反トランプ派の支持を広く集めようとして、ソーシャルメディアよりも情報の伝達範囲が広いマスメディアを重要視しています。ワシントン・ポスト(Washington Post)やニューヨーク・タイムズ(Newyork Times)などの全国紙、その他ABC、CNN、NBC、CBSなどのケーブルテレビといった、いわゆる既存の大手マスメディア(mainstream media)を積極的に活用しています。

 今、アメリカでは大きな懸念がメディアに登場しています。それは「フェイクニュース」(fake new)という現象です。フェイクニュースとは「偽り」だけを意味しているのではありません。自身にとって不都合で納得のいかない、情報に対して、「デマ」というレッテルを貼る意図的な政治的な PR 情報のことです。自分に対して厳しい立場のメディアをたたく常套句がフェイクニュースです。もっと懸念することは、フェイクニュースを信じ拡散しやすいのは、自分で情報を検証したり、情報を疑ったりする資質のない人々が大勢いることです。

 我が国では、フェイクニュースはあまり話題とはなりませんが、ポピュリズム(populism)という「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」になびきやすい層が大勢いるのです。先の東京都知事選挙で、SNSに乗ってポピュリズムに影響を受けた多くの人々の投票行動が話題となりました。各党の戦略とキャンペーンは複雑になり、有権者の選択肢も増えた反面、決断することも難しくなっています。それだけにさまざまな教育的な機会による判断力などの資質の養成が大事な時代となっています。
(投稿日時 2024年10月27日)

国政選挙の予測 その八 投票率

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「若者の投票率はなぜ低下したのか」という津田塾大学での研究を引用してみます。若年層と高齢層の投票率の差は、日本では1970年代は10%程度であったものが、1990年代には20~30%程度、2010 年代は30~40%程度に拡大しています。若者が投票に行かなくては、ますます政治に若者の意見が反映されなくなってしまうのは確かです。なぜ若年層の投票意欲が低いかです。それには「政治的有効性感覚(Political Efficacy)」の観点が欠かせないといわれます。政治的有効性感覚とは、若者は「自分の一票に影響力がない」と感じることです。ここが高齢の有権者の意見と異なるところです。

 有権者は、自分の地域の政治的・経済的状況が変化しつつある時は、政治的有効性感覚の有無にかかわらず、投票という行動に移ると考えられています。このことは特に高齢者にいえることのようです。帰属意識の高い若者が多い地域では、若者の政治的有効性感覚が高く、多くの若者が投票に行くともいわれています。

 公益財団法人「明るい選挙推進協会」の調査によれば、「自分には政府のすることに対して、それを左右する力はないか」という質問に、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えたZ世代の割合は約7割に上っているとあります。これは一種の「政治的無力感」といえます。Z世代とは、1990年代半ばから2000年代に生まれた世代」を指します。同じ調査では、国会議員・地方議員・首長について、Z世代は「全く信頼できない」と「あまり信頼できない」と回答した割合は7割近くに達しています。

投票意欲

 アメリカの著名な政治学者であるリップハルト(Arend Lijphart)は、選挙における低投票率は問題視しなければならないと主張しています。その理由の第一は低投票率を「不均衡な投票率の結果だ」と指摘するのです。不均衡な投票率によって政治的影響力の差異を生み出していると主張します。金持ちや高学歴層などの「恵まれた人たち」はさまざまな形で政治に関与し、政治的な影響力を行使しがちです。それに対して、「恵まれない人々」は政治的な影響力をそれほど行使しない傾向があり、その結果として投票という政治参加には「階級バイアス」がかかっているというのです。

 Z世代も高齢者も含め、すべての有権者が政治に対する関心を保ち主権者としての意識を有するためには、政治に対する一定の知識も必要と考えます。こうした必要性は、若者に対する学校教育にとどまらなく、有権者となった人々に対しても、継続的な主権者教育への機会を提供し、政治に対する知見をさらに深めることを目指すべきでしょう。
(投稿日時 2024年10月26日)

国政選挙の予測 その七 地域の人口動態

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 各地の過疎地域は、山間部や離島などを中心に日本全国に広がっています。全国の市町村の約半数が過疎の問題を抱えており、日本面積で言えば、国土全体の6割弱の割合となっています。人口の減少とともに、税収が減少し行政サービスの廃止や有料化が起こります。人口が減少し過疎化が進むと、必要な人口規模を確保できなくなり、金融機関や病院、飲食店、小売店などのサービスが縮小や撤退につながる可能性が起こっています。

廃校

 それにもまして、気掛かりなことは、コミュニティが希薄化することです。人が少なくなると消費需要が減少し、地元の商店や飲食店も廃業に追い込まれる場合も見られます。商店街がなくなれば、買い物の利便性が低下するだけでなく、住民同士の交流の場も失われてしまいます。

 さらに、地方から流出した人口が都市部へと集中することで、都市部の「過密化」が進みます。都市部は、地方からの労働人口が増え、政党の岩盤層と呼ばれる者の票と若年層を中心とする浮動票とに分かれると思われます。高齢者は概して、保守政党の大事な基盤ですが、若年層はどのような将来設計を立てれるかによってどの政党を選ぶか、あるいは政治に無関心になり投票率が下がることが予想されます。

寂しい商店街

 若年層が都会にやってくると、まずは仕事探しで苦労します。多くの場合、非正規雇用者として仕事に従事しがちです。働く機会がないため非正規労働に就いているのです。賃金が低く、社会保障や福利厚生面で不利な立場にあるため、生活安定や将来への不安が高まります。家を待つとか結婚するなどの夢は大分先のこととなります。企業にとってみれば、非正規雇用者を雇う場合、安い賃金で雇用できますが、人材育成が進まない、業務が限られる、そして従業員が定着しないという課題に直面します。

 デフレといった一種の社会不安が続くならば、有権者の投票行動へも影響します。ましてや裏金事件や裏公認料の配布などによる政治不信が高まるときは、人口動態の如何に関わらず選挙結果に影響すると予想されます。
(投稿日時 2024年10月26日)

国政選挙の予測 その六 経済や景気動向

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内閣府のサイトによりますと、今や日本経済は、緩やかなデフレの状態にあると報道されています。そのデフレの要因は、(1)安い輸入品の増大などの供給面の構造要因、(2)景気の弱さからくる需要要因、(3)銀行の金融仲介機能低下による金融要因、の3つがあげられるというのです。私なりに以上の3つの要因は次のように解釈してみます。

第一の「安い輸入品の増大などの供給面の構造要因」とは、安い輸入品の増大によって、国内の原料を使った製品の製造価格が上がり、そのため価格も高くなり売れないということです。ブランド品とかは高くても売れますが、一般の消費者にとっては高値の花ということになります。

第二の「景気の弱さからくる需要要因」とは、実質賃金の上昇が緩やかなために、消費者はモノやサービスを買え控えに走り、需要が供給よりも低くなる状態のことです。需要が高まらないと生産という供給も滞り、企業は製造を抑制するなどして受益が下がるのです。

物価上昇率

第三の「銀行の金融仲介機能低下による金融要因」とは、預金などの資金を借り手や企業に貸し出すことで、資金の流れを仲介する役割です。こうした金融仲介機能を発揮することで、お金を経済の血液として循環させ、地域や経済を活性化することができるのです。しかし、モノを供給する企業の内部留保が増え、銀行の企業への融資などの金融仲介機能が振るわないために、経済の好循環が滞るのです。銀行には、質の高い金融商品とかサービスを提供するといった積極的な金融仲介業務が期待されているようです。

AIによりますと、日本経済の景気回復は、2024年度後半から2025年度にかけて緩やかに進むと予想されています。実質GDP成長率は2024年度は+0.6%、2024年度は+1.1%、そして消費者物価上昇率(生鮮食品を除く総合)は2024年度は+1.9%、2025年度は+1.4%と予想されています。物価値上げの伸びが落ち着くことで、実質賃金がプラスに転じ、個人消費は緩やかに増加すると予想されています。

新聞などは、AIの予測のように持続的に下落するデフレの状況から潮目が変わってきたとも報道されています。賃金は物価の伸びに追いつかず物価が上がっていても、賃金が上がっていれば大きな問題とはなりません。ですが日本全体で見れば、賃金の上昇率は物価の伸び率を下回っています。物価上昇を考慮に入れた賃金のデータは「実質賃金」と呼ばれています。日経新聞によりますと、2024年4月の実質賃金は前年同月と比べて0.6%減っています。減少は22カ月連続です。このような状況にあっても、消費税増税とか社会保険料の値上げという声が与党や一部の野党から何故でるのかが理解できません。

実質賃金と名目賃金

現在、与党内では2025年度の基礎的財政収支、いわゆるプライマリーバランス(PB)の黒字化目標が大きな焦点の一つとなっています。つまり、2025年度PB黒字化目標を堅持し、財政規律を維持する財政規律派と、2025年度PB黒字化目標を見直すことで、財政出動の余地を広げることを主張する積極財政派との対立が続いています。この対立を国民はどのように受け止めるかが選挙結果に表れると思われます。
(投稿日時 2024年10月25日)

国政選挙の予測 その五 メディアの多様化

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 最近のいろいろな報道は放送や新聞メディアの他に、SNSといったインターネット上で人々がつながり、コミュニケーションや情報共有を行うためのプラットフォームが頻繁に使われています。インターネットの活用は今後ますます広がり、やがてインターネットでの電子投票も進むかもしれません。投票形式が多様化すると、投票率もアップすることが期待されています。しかし、電子投票に躊躇するのは、高齢者などの支持が強い与党とか一部の野党です。電子投票は家や職場から投票できるのですから、本来ならば投票所が遠い田舎に住む人々にとっては便利なはずです。ですが、これにより投票率が高まると、それを歓迎しない党があるので、未だこの方法は実現していないのです。新しいことをやりたがらないのが今の行政です。それでもインターネットの利用は今後もますます浸透するので、時代の趨勢に逆らうことは困難になるでしょう。

ポスター掲示板

 今年の都知事選挙で大いに支持を伸ばした候補者がいました。SNSを大いに駆使してそれまで浮動票といわれた若者などに支持されたといわれます。実際は、今回の国政選挙でもYoutube上での政見放送やPRが盛んに行われています。こうした手法は、今のNHKで実施されている各党の政見放送よりははるかに、視聴者が高いと思われます。紙などのチラシを配布するという方法はやがて廃れていくでしょう。候補者のポスターを貼る掲示板もやがては姿を消すはずです。ポスターでは候補者の政策が全くつたわらないのです。時代遅れな手段といえましょう。改正公職選挙法では、「政治活動、例えば新聞紙又は雑誌による広告、テレビ、ラジオ等による政治活動は、選挙運動期間中、誰でも自由に行うことができる」に加えて、「インターネット上でのすべてのメディアで政治活動を行うことができる」となりました。

選挙七つ道具

 「インターネット等を利用する方法」とは、「放送を除く電気通信の送信により、文書図画をその受信をする者が使用する通信端末機器の映像面に表示させる方法」です。改正公職選挙法第142条の3第1項にウェブサイト等を利用する方法も規定されています。具体的には、インターネットのほか、社内LANや赤外線通信などであっても、「インターネット等を利用する方法」に含まれるとされました。

 インターネット上では、各地の街頭演説の様子が映し出されています。全国の街頭演説の様子がわかるのですから実に便利な時代になりました。候補者がどんな考えで政策を訴えているのかが机上のパソコンやスマホ画面でわかるのです。このようなテクノロジーは、高齢者や僻地に住む人々に大きな恵みとなるはずです。

 選挙運動用の自動車からの候補者の連呼行為は実にうるさく、迷惑な行為です。政策などは全く語られず、ただただ候補者名を連呼するだけです。選挙事務所の看板類では、「ちょうちん1個及び立札・看板の類を通じて3個」といった笑いがでるようなことが規定されています。こうしたアナログの規制は、時代遅れです。候補者のノボリやポスターにはQRコードなどが印刷されると、その人の訴えたい政策が有権者に伝わるはずです。しかし、こうのような提案を与党などは採用しようとしません。公職選挙法を変えるのを躊躇しているのです。それには理由があります。投票率が高くなると困るからなのです。
(投稿日時 2024年10月24日)

国政選挙の予測 その四 選挙制度とゲリマンダー

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2016年6月19日以降の国政選挙から、選挙年齢が「満18歳以上」に引き下げられました。現在の日本では、満18歳以上の有権者は全人口の80%以上を占めています。かつては選挙権はごく一部の限られた人たちだけが持てる権利でした。1890年までは、投票資格は 「満25歳以上の、直接国税を15円以上納める男子」に限られていました。その数は、全国の人口のたった1%だったといわれます。

 1994年3月4日に公職選挙法が改正され、衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制が導入されました。それで思い出すのは、「ゲリマンダー」(Gerrymander)という巧妙というか狡猾ともいえる区割りの戦術です。選挙において特定の政党や候補者に有利なように選挙区を区割りするやり方です。本来的に、その選挙区割りが地理的レイアウトとして変わった形をしています。一選挙区から一人しか当選しない小選挙区制を採用している場合、特定の政党に投票する傾向の強い地区を分割します。別の政党に投票する傾向が強い選挙区にその分割した地区を吸収させることによって、特定の投票を無効化することができるのがゲリマンダーです。つまり、選挙区割りを変えることで一方の側に有利な選挙結果を生み出すのです。

ゲリマンダーという用語の由来についてです。Wikipediaによりますと、1812年頃マサチューセッツ州(Massachusetts)のエルブリッジ・ゲリー(Elbridge Gerry)という知事が、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、幾つかの選挙区が不自然な形となります。そのうちの一つがサラマンダー(salamanderートカゲ)のような異様な形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせた造語「ゲリマンダー」が生まれたといわれます。こうした区割りのことをゲリマンダリング(Gerrymandering)とも呼ばれます。

Gerry-Mander

 小選挙区制はこのゲリマンダーの考えを元に作られています。「日本にある全47都道府県ごとに人口比で割り当てられた定数289人の議員数の人を選挙で選ぶ」という方法です。しかし、小選挙区では一人しか当選しないので、多くの票が死票となります。それを防ぐために比例代表制も併設されています。比例代表は「全11のブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京都・北陸信越・東海・近畿・中国・四国・九州)に分かれた選挙区で、定数の176人を選挙で選ぶ」という方法です。

 小選挙区制のメリットとしては、以下の3点が挙げられます。「安定した政権をつくれる」、 「有権者との距離が近くなる」、 「 選挙費用の負担が小さい」。ところが小選挙区制は、支持者の多い、大きな政党にとって有利な選挙になります。そのため政権与党が頻繁に入れ替わることがなく、政局が安定する傾向にあります。また小選挙区制では選挙の活動エリアが狭くなるため、候補者と有権者1人ひとりとの距離が近くなり、向き合える時間が増えます。その結果、地元の意向をくみ取った政策を実現することができるようになります。さらに、候補者にとっては、選挙費用を安く抑えることができるというメリットもあります。小選挙区制の選挙では、選挙運動による候補者へのアピールは、選挙区内だけで済みます。したがって、活動範囲が限定的になり、選挙費用の負担も小さくなるというわけです。

 小選挙区制のデメリットは、「死票が多くなる」、「一票の格差が生じる」、「地元への利益誘導」といったことです。死票とは、選挙で落選した候補者へ投票された票のことです。得票数が2位以降の候補者に投票された多くの票は無駄になり、少数意見が反映されにくくなります。また、選挙区の人口が異なるために、有権者の持つ一票の価値が平等ではなくなってしまう「一票の格差」も深刻な問題です。小選挙区制の区割りは、各都道府県の人口に応じて決められています。

 しかしそれでも、人口の多い都市部と人口の少ない地方では、一票の価値に差が生じてしまいます。さらに、小選挙区制の選挙区エリアは小さいため、地元の有権者の支持を一定数集めることができると、当選の確率が大きく上がります。このような仕組みを利用し、地元の自治体や企業に利益誘導を行うことで、選挙区における支持基盤を固めようとする候補者が出てくることが懸念されるのです。ついでですが、アメリカの上院議員の選挙では、各州は定員が2人と定められているため、ゲリマンダーは生じません。

 衆議院では、一つの選挙区から原則3~5人を選出する中選挙区制を長らく採用してきたため、元来の意味でのゲリマンダーはほとんど発生しませんでした。その理由は、第一に人口変動が生じても各選挙区の定数を増減させることによって概ね対応でき、区割りを変更する必要性が小さかったこと、第二に各選挙区の規模が大きく、概ね市区町村などの境界に従って設定されていたため、恣意的な区割りを行う余地がもともと少なかったことからです。1980年までは「地方区」ならびに全国一円の「全国区」として固定されていました。この選挙制度の運用上はゲリマンダーの危険性は存在しませんでした。ついでですが、1983年以降は「小選挙区」と「比例区」となりました。

 地方議会では、市区町村は原則として単一選挙区とし、都道府県では原則として市・郡を基本単位として区分された選挙区です。政令指定都市は行政区を基本単位として区分されています。従って、衆議院と同様に、ゲリマンダーはほとんど発生しないといえます。
(投稿日時 2024年10月23日)

国政選挙の予測 その三 知名度や認知度

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 先日ある選挙区での街頭演説会に出会いました。この候補は、いわゆる「裏金議員」の一人でした。聴衆は多く、歩道橋にも人が溢れるほどです。演説場所は開始前から物々しい雰囲気で、荷物チェックに多数の警察官やSPが目を光らせる厳戒態勢です。この候補は衆議院議員として長く務めますが、2024年5月の政治倫理審査会へ出席しなかったことから、世間からは説明責任を果たしていないと指摘されていました。それでも地元では非常に知名度が高いといわれる人です。

 候補者の演説を聴いていると、地元に自分がどれほど貢献してきたかを高らかにうたい、一住民として気恥ずかしくなるほどです。どうして候補者というのは、自分を過剰にPRするのでしょうか。選挙は、自分の信念や公約を有権者に訴えるものであるはずです。政治改革、経済や外交の課題についての考え方を聴衆は期待しているのです。しかし、演説は終始いかに地元で汗を流してきたかを叫ぶだけです。

街頭演説

 長らく国政を務めると知名度は絶大なはずです。なにも大袈裟は街頭演説は必要ないはずですが、どうも裏金議員の烙印を押され、おまけに公認を得られないというのですから、ご本人は必死に活動するほかないのでしょう。周りの応援演説者は地元の議員や首長で、演説内容はこれまた候補者がいかに地域に貢献したか、という話題で満載です。なにか、田舎の蛸壺のような選挙でさっぱり心に響きません。拍手をするのは、街頭演説車の前に陣取る者だけ。あとは白けたような表情の人々です。国政選挙ですから、政治とカネ、外交と安全保障、経済、少子高齢化、一極集中と過疎化、所得、物価、社会保障など、国が劣化しつつある問題などについての大所高所からの演説を期待したいのです。

 知名度とは、人、企業、ブランド、商品などの「名前」が知られている度合いのことで、 アンケートで「名前を聞いたことがある」「名前は知っている」と回答する人が多ければ多いほど、知名度が高いといわれます。しかし、一般的な知名度は大抵、マスコミらによる宣伝活動やCMなどによって操作される煽動型情報であることも多いのです。知名度より認知度が大事だといわれます。有権者や消費者が人、商品、サービスの内容や価値を理解できている度合いのことです。多額の裏金議員であるとか、ある特定の宗教団体との癒着があったという報道により、知名度は広がっても認知度や支持率とは一致しないのも確かです。投票率が知名度を反映するというのも確かです。選挙では特に重視されるのが、俗に「地盤、看板、カバン」の三バンです。このうちの看板が知名度のことを指します。

Growth of Popularity

 人気は知名度や認知度と違い、世間からの受けのことを指します。多くの人に好まれことを意味します。しかし、人気とは流行であり、その時代の嗜好をも意味します。人気が高いからといって人望があるとは限りません。「人気が一挙にガタ落ち」というのは知名度が高いといわれる裏金議員にも当てはまりそうです。

 投票日が近くなると、新聞などで当落の予想が行われますが、例えば誰が当選するかについて人気投票があるとします。この場合、公職選挙法では、選挙に関する人気投票の公表を禁止しています。ただ、調査員が面接調査をし、その結果を公表するのは、人気投票には当たらないと解釈されています。選挙期間中に、個々の選挙区の情勢記事を報じることによって、有権者の投票行動が影響を受けることは確かです。その報道により、投票に出かけるか、出かけないかは有権者に委ねられることです。
(2024年10月22日)