アメリカ合衆国とニックネームの由来 その55 Wisconsin Birds

ウィスコンシンで生活して感じることの一つが野鳥や動物を当たり前のように見かけることです。野鳥の特徴といえば、色が赤だったり青だったり、巣を近くで見かけることです。

ウィスコンシンの州鳥アメリカン・ロビン(American robin)は日本ではコマドリといわれています。雄は色彩に富んでいます。頭と羽を除き、お腹は赤く実に姿勢が良いのです。雌は少々地味な色です。餌ですが芝をつっついて虫やミミズを引っ張りだすのが観察されます。庭のどこでも見かけられるので「backyard bird」ともいわれるほどです。

ロビンは、厳しい冬に終わりを告げる二月末から三月にかけて戻ってきます。人々の待ち焦がれていた春がロビンで運ばれてくるかのようです。それでロビンは「春を告げる鳥」、「春の使者」(spring heralder)といわれるほど愛されています。鳴き声も綺麗なのです。ロビンは北米大陸に広く生息しています。大陸の南部と北部を行き来する渡り鳥で、夏はカナダにも飛来していきます。

アメリカン・ロビンに似た鳥にフィンチ(finch)がいます。こちらは色とりどりで華やかな姿をしています。カーディナル(cardinal)もトサカがぴんと立って体全体が赤く誠に綺麗な鳥です。紅冠鳥とも呼ばれています。ウィスコンシンでもなじみ深い鳥ですが、私は日本ではこの三羽をまだ見たことがありません。ウィスコンシンが州鳥を決めるとき、1926年から1927年にかけて小学生が投票で決めたという記録が残っています。 子供に州鳥を決めさせるという発想がいいですね。

「ジェイジェイ」と鳴くのがブルージェイ(blue jay)です。日本語ではアオカケスと呼ばれています。カナダはオンタリオ州を代表する鳥とされ、トロントに本拠を占めるメジャーリーグの球団名がブルージェイ「Blue Jays」です。ウィスコンシン州の中央部にアダムス郡(Adams County)があります。そこにピーテンウエル湖(Petenwell Lake)の側を走ると電柱のてっぺんにカサゴ(Osprey)の巣を見かけます。

秋になると、頭上をカナダ雁(Canada goose)の群れが見事な編隊を組み、それも猛スピードで南下していくのを見かけます。「ツーン、ツーン、、」と鳴きながら次々と群れが通るのです。高度200メートルから500メートルを保ち、V字型を形成して飛翔します。春先には北に向かう素晴らしい光景が見られます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Wisconsin Sausage

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Wisconsin Sausage

ウィスコンシンのグルメ(Gourmet)の続きです。アメリカの手軽な食事といえば「ハンバーガ(hamburger)」や「ホットドッグ(hot dog)」です。ハンバーガはドイツ第二の都市Hamburgから由来します。こうした食べものは、一般に「ジャンクフーズ(junk food)」(ひどいくらいまずい食べ物)と呼ばれています。でも意外や意外とハンバーガやソーセージ(sausage)は美味しいのです。特に、挽肉だけのハンバーガは涎がでるほどです。ソーセージでは太い「ブラッッ(brats)」が有名です。スパイスのきいたもの、スモークのものなど実に美味しいです。日本で売っているハンバーガは、余計なものが交じっていて肉の感触が伝わりません。

所変われば品が変わるで、あちらこちらを旅するといろいろな料理に出会います。ニューヨークといえはBBQをいただかないといけません。串焼きの別名はシシカバブ(Shish Kebab),中近東地方の肉料理の総称、ケバブ(Kebab)ですが、とても知られています。ギリシャ料理で羊肉を鉄の棒の周りに固め、それを焼きながら肉をそいで食べる「ギロス(Gyros)」も美味いです。ステーキといえばカンザス(Kansas)です。アメリカ各地に1800〜1900年代に各地から移民してきた人々が定着したところがミズリ(Missouri)であり、ネブラスカ(Nebraska)であり、カンザスです。こうした州の大平原に牛が放牧されているさまは壮観です。

アメリカ土着の人は、「ネイティブ・アメリカン(Native american」とか「アメリカン・インディアン」と呼ばれています。彼らも固有の料理を大事にしています。一度、ウィスコンシン大学のアパートで隣同士だったインディアンの方より黒い米を貰ったことがあります。料理の仕方をきくと、3日ほど水でうるかすのだそうです。混ぜご飯を作って美味しくいただきました。その方が退去して、次ぎにやってきたのは韓国人でした。この家族より韓国料理をいただきました。二階に住んでいた方はニュージーランド人。夫人はハープを弾いていました。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その53 Wisconsin Gourmet

ウィスコンシン州の大抵の街は小さな田舎町です。人々は衣食住の伝統を引き継いでいます。母国の独立記念日を今でも祝っています。たとでば、ノールウェイの子孫が住む街があります。マディソンの南一時間のところにあるストートン(Stoughton)がそうです。住民は5月の第二日曜日は独立を祝います。町全体がお祭りで、スカンジナヴィア(Scandinavian)料理がふるまわれるのです。ジャガイモを中心とした料理でスモアガスボード(smorgssbord)といいます。テーブルに料理を数多く並べて相伴する形式で、スモークサーモンや鰯、オリーブ油がたっぷり入ったニシンの漬け物も美味です。

ウィスコンシンの最大の町はミルウオーキー(Milwaukee)。その街中や郊外にもポーランドやイタリア人が住み着きました。ソーセージは大きくて種類が多く、スパイスも効いていてそれはそれはご馳走です。一本食べるとお腹がかなりふくれます。パンもパスタ同様。種類とスパイスが違います。ドイツ系の地ビールも種類が多く安いのがいいです。

ここ50年くらいに東南アジアからの移民も増えています。カンボジア、ベトナム、タイ料理など、どこにいってもこうした食べ物を賞味できます。白人はこうしたエスニックな料理を箸を器用に使って食べ歩いています。安くて美味しいせいか、レストランは家族連れなどでいつも満員。多様性を感じさせてくれます。

アメリカで食事をすると、ヨーロッパやアジアを旅行している気分になります。「アメリカの料理はまずい」というのは大変な間違い。通り一辺の旅ではこうした勘違いや誤解をして、その国の印象を決めがちです。誠に気の毒で哀れなことです。このような旅をしてはいけないのです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Communities in Wisconsin

ウィスコンシンには、今でも沢山のヨーロッパ系や中東系のコミュニティがあります。北欧や東欧に似た風土なので、初代の移民はこの地を選び定住したのは容易に理解できます。酪農や小麦、トウモロコシ、馬鈴薯の耕作に適しています。今もウィスコンシンは一歩郊外へ出ると、牛から発散される「田舎の香水」がぷんぷん臭います。

移民がつけたと思われる地名や町名はこの州には沢山あります。大きく分類しますと西ヨーロッパ系、東ヨーロッパ系、地中海系、中東系などです。中には「Eureka」という地名もあります。ギリシャ語で「見つけたぞ!」という感嘆詞です。移民した人々が叫んでつけたのだろうと察します。

まずは国名や首都をもじった地名があります。地名などが沢山できてきて少々辟易するかも知れませんがご勘弁を。国名ではBelgium、Denmark、Holland、Jordan、Lebanon、Norway、Peru、Poland、Sweden、Swissなどがそうです。北欧全体を指すScandinaviaもあります。次ぎに首都がついた地名です。アルファベット順にBerlin、Brussels、Lisbon、London、Moscow、Ottawa、Rome、Wausauなどです。

地名の由来は各国の言葉から容易に理解できます。フランス系のはDe Pere、Eau Claire、Fond du Lac、Lac La Belle、La Crosse、La Follette、Marquette、 Monroe、Prairie de Chien、Prairie du Sac などです。イタリア系ではGenoa、Monticello、Naples、Seneca、Veronaなどです。次ぎにドイツやオーストリア系では、Germantown、Hamburg、New Berlin、New Glarus、New Munster、Rhine、Rhinelander、Sheboygan、Vienna、Wittenbergなど多士済々です。

イギリス系は沢山ありすぎて網羅できないほどです。New Holstein、New London、 Walesなどが代表でしょうか。アイルランド系では、 McAllister、McFarland、McNaughtonなどMcから始まる地名でわかります。その他のヨーロッパ系としてはHollandale、New Amsterdam、Pulaski、West Swedenです。ノールウエイ系ではBergenもあります。

中東系では聖書的な地名として、Jericho、Juda、Old Lebanon、 Zionといったところです。スペイン系としてEl Paso という地名もあります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その53 マッカーシズムとローゼンバーグ事

本題からは少しはずれますが、 マッカーシズムの影響がアメリカの苦悩を物語る話題です。ソ連が1949年に原爆実験に成功します。翌年、アメリカで第二次大戦中に原爆開発であるマンハッタン計画(Manhattan Project)に関係していたドイツ出身でイギリス人の核物理学者、クラウス・ヒュークス(Klaus Fuchs)がソ連のスパイとして逮捕されます。同年、電気技術者であったジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)とその妻エセル・ローゼンバーグ(Ethel Rosenberg)も原子力機密をソ連への漏洩に協力したかどで逮捕されます。これがローゼンバーグ事件(Rosenberg Case)です。

夫妻は戦時中はニューメキシコ(New Mexico)のロスアラモス(Los Alamos)の研究所で勤務していました。エセルの弟、グリーングラス(David Greenglass)や化学者であったゴールド(Harry Gold)を通じて、夫妻は機密を入手したといわれます。グリーングラスとゴールドは裁判中にローゼンバーグ夫妻に機密を渡したと証言するのです。

しかし、ローゼンバーグ夫妻は一貫して犯行を否認するも1951年4月に死刑判決を受けます。その間、この事件は政治的なでっち上げとする助命運動が国際的に広がります。夫妻が獄中から幼い2人の息子に送った書簡集は大きな反響を巻き起こします。このニュースは連日新聞で報道されますが、1954年6月に処刑されます。裁判から処刑にいたる過程にマッカーシズムという共産主義者摘発運動が深く影響していた事件です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その52 Wisconsin and McCarthyism

ウィスコンシンは時に意外な人物を輩出するところでもあります。1950年から1954年にかけて、アメリカで反共主義を標榜する政敵攻撃が起こります。国務省内(State Department )で205名の職員が共産主義のスパイ網を組織したとか、陸軍にも共産主義者のシンパが存在するなど、具体的な証拠を欠く中傷や個人攻撃が行われるのです。この中心となったのがウィスコンシン州選出の共和党員ジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)です。この共産主義者摘発運動は「マッカーシズム」(McCarthyism)と呼ばれます。

当時、ソ連の原爆開発や中国の共産党政権の誕生など、冷戦初期の国際政治の動向に不満や不安がアメリカに起こります。ヒス事件(Hiss Case)やローゼンバーグ事件(Rosenberg Case)などのスパイ事件の相次ぐ摘発に苛立つアメリカ国民の心理に、反共思想は強く訴えたのだろうと察します。

1952年にマッカーシは上院議員に再選されます。1953年には共和党のアイゼンハワー(Dwight Eisenhower)が大統領となり、反共主義を掲げるリチャード・ニクソン(Richard Nixon)を副大統領に指名します。マッカーシズムとは「赤狩り」と呼ばれ共産主義者やそのシンパを攻撃の対象としていきます。赤狩りは広がり、一時は大統領に匹敵すると評される権勢を振るいます。

ですが1954年、マッカーシの主張の虚偽性や野蛮な中傷の手法が衆目にさらされ、非難を受けながら政治的な影響力は急速に衰えていきマッカーシズムは終焉します。冷戦下の国際的な緊張の高まり、朝鮮動乱(Korean War)の勃発、反ラディカリズム(Anti-radicalism)や反共の伝統、さらにはアメリカ社会の統合過程に常に付随する孤立や排外主義の傾向が、マッカーシズムを生んだといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その51 Wisconsin Idea

アルファベット順に各州を回って、ようやくウィスコンシン州(The State of Wisconsin)に辿り着きました。ウィスコンシン名の由来ですが、 アルゴンキン族(Algonquian)が「川の集まるところ」と呼んでいたことによります。1673年にこの地を調べたフランスの探検家、マーケット(Jacques Marquette)が「Ouisconsin」という呼び名に直したとあります。州都はマディソン(Madison)。四つの湖をまわりにして州議事堂や大学がどっしりと構えています。人口がたったの20万あまりのまさに大学街です。今私の長女、次女そして彼らの家族が住んでいます。

ウィスコンシン州の発展には2人の人物を紹介する必要があります。1人は、チャールズ・ヴァン・ハイス、(Charles Van Hise)、もう1人はロバート・ラフォレ(Robert La Follette)です。ヴァン・ハイスはエヴァンスビル(Evansville)というウィスコンシンの片田舎の農家に生まれます。神学校で学びウィスコンシン大学マディソン校で機械工学で学士と修士号を得て、その後生物学の博士号を取得し校内で研究と教育にあたります。大学理事会(Board of Regents)を経て1903年から1918年まで総長を歴任します。

ヴァン・ハイスの言葉に「I shall never be content until the beneficent influence of the university reaches every family of the state.」があります。大学の研究と教育の恩恵が1人ひとりの家族に及ばなければならない、という意味です。公教育を州民に普及するために、社会人教育や公共奉仕の分野に最も早くから取り組み、今日のアメリカの公立大学の原型をかたちづくった大学として知られています。大学拡張(University extension)プログラムの一環として公共放送である「Wisconsin Public Radio」、大学医学部の創設、市民講座の開設などに尽力します。こうした大学の方向性や使命の考え方が後年、「ウィスコンシン理念」(Wisconsin Idea)と呼ばれる哲学です。

もう一人の人物です。ロバート・ラフォレはヴァン・ハイスとは大学の同期でありました。彼は政治を志します。州知事となり、その後連邦議会の上院議員となります。州知事時代には、数々の進歩的改革を実行し、最初の労働災害補償制度、直接立法と市自治憲章、開かれた政府、開かれた予備選挙のしくみ、最低賃金制度、上院議員の直接選挙、女性参政権などを州内で実現していきます。1924年には進歩党からアメリカ合衆国大統領選挙に出馬することになります。

ラフォレに代わって共和党上院議員となったのは、ジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)です。やがてマッカーシイズム(McCarthyism)と呼ばれる反共目的の政敵攻撃が始まります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その50 The Mountain State

ジョン・デンバー(John Denver)の代表曲の一つである「カントリ・ロード(Take Me Home, Country Roads)」の歌詞には繰り返しウェストヴァジニア州(The State of West Virginia)が登場します。同州の代名詞的な楽曲ともなっています。歌詞といい曲想といい、しびれそうな心持ちになる歌です。

ウェストヴァジニア州は日本人にはあまり馴染みの少ない州です。合衆国でも地味な州ではあります。州都および最大都市はチャールストン(Charleston)です。ウェストヴァジニア州の歴史は、その山がちな地形、広大な川の渓谷、豊富な自然資源というの産物の影響を大きく受けてきました。

アパラチア山脈(Appalachian Mountains)内部に位置している合衆国内で唯一の州であり、すべての地域が山岳内にあることから、「山脈の州」(The Mountain State)と愛称が付けられています。

アパラチア山脈の全域で、「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩が採掘されてきました。弾薬用になります。アパラチア炭田(Appalachian coal mine)からの石炭も重要なウェストヴァジニア州の経済を支えています。石油や天然ガス、その他森林資源にも恵まれているのですが、人々の所得や失業率などの指標からすると、経済的に最も脆弱な州の一つといわれています。

ウェストバージニア州で最も知られている場所は、有名なアパラチアン・トレイル(Appalachian National Scenic Trail)の途中のポトマック川(Potomac River)とシェナンドー川(Shenandoah River)が合流する美しい渓谷にあるハーパーズフェリー(Harpers Ferry)です。ここは、南北戦争における激戦地の一つとなり、ハーパーズ・フェリーの戦い(Battle of Harpers Ferry)として知られています。この戦いは南軍の勝利に終わります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その49 Washington D.C.

首都「ワシントンD.C.」とは正式には「Washington District of Columbia」。どの州からも独立した連邦直轄地の特別区です。世界でも数少ない計画都市で政府機関、各国大使館、記念碑的建造物、ナショナルギャラリーなどの美術館や博物館、全国的組織をもつ各種の専門機関や協会の本部があります。同時に長い間、連邦直轄地として住民の意向が行政に反映されなく、首都を代表する華麗な地区の背後に貧困と荒廃に瀕する地区もあります。

首都建設の歴史です。ワシントン大統領(George Washington)はフランス系の陸軍士官で技師であったピエール・ランファン(Pierre L Enfant)に設計を依頼します。ランファンはバロック(baroque)式造園法の影響を受けていたようです。設計案にはバロックの壮麗さが反映しています。1793年9月に連邦議事堂の礎石が据えられ、さらに大統領官邸(White House)などが続きます。

1800年10月にはフィラデルフィア(Philadelphia)から首都が移ってきます。初期のワシントンD.C.は荒野でありました。そこに首都を設置したので、当初はさまざまな困難が問題があったといわれます。当時ワシントンD.C.を訪れた人々からは「途方もなく間隔が広い街」(City of Magnificant Distances)とか「荒野の都市」、「みじめな小屋の都市」などと揶揄されたようです。蒸気機関車や電信が出現するまでは、遠くて不便であったという理由で首都の移転運動も起こったほどです。

ランファンの設計で中心となったのは連邦議事堂、モール(Mall)、大統領官邸、それを取り巻く建物群です。この二つの建物から放射状の大通りは議事堂を基点とする格子状の街路網と組み合わされています。東西方向に走る街路にはアルファベット文字が、南北方向の街路にはアラビア数字が、大通りには各州の名がそれぞれつけられています。公園も多く最大のものはロッククリーク公園(Rcck Creek ParK)で動物園もあります。

この特別区の住民には低所得者、障害者、高齢者がかなり含まれ、政府の援助を必要としています。その反面、多くの政府職員やサービス業者は郊外からメトロをつかって通勤しています。

有名な高等教育機関ですが、イエズス会系のジョージタウン大学(Georgetown University)、バプテスト系のジョージワシントン大学(George Washington University)、メソジスト系のアメリカン大学(American University)、アメリカ・カトリック大学(Catholic University of America )、黒人のためのハワード大学( Howard University)、聴覚障害のギャロデット大学(Gallaudet University)などがあります。

研究や科学調査の中心は、国立公文書館(National Archives and Records Administration, NARA)や議会図書館(Library of Congress)があります。議会図書館世界一の蔵書を誇ります。その他、スミソニアン協会(Smithsonian Institution)は自然科学や法律関連図書でこれまた世界最大の規模をもっています。英国の化学者スミソン(James Smithson)の遺贈した基金によって1846年に設立されました。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その48 The Evergreen State

ワシントン(The State of Washington)の州都はオリンピア(Olympia)。最大の都市はシアトル(Seattle)です。ワシントン州は、モミ(Douglas fir)、松(ponderosa)とか白松、トウヒ(spruce)、ヒマラヤ杉(cedar)など豊かな木材資源に恵まれています。ニックネームの「 The Evergreen State」は州議会で公式に承認されている名前ではありませんが、州の特色を的確に表しています。

日本から多くの移民が渡ったのがワシントン州です。1869年に旧会津藩の武士らがサンフランシスコ(San Francisco) に渡ったのをきっかけに西海岸への移住が始まったと記されています。シアトル(Seattle)、タコマ(Tacoma)両市への移民は1890年代から増え続け、1895年にはタコマ領事館が誕生します。広島、山口、熊本、鹿児島など各県からの移民たちは製材所や鉄道、農場,漁業、森林業など、過酷な労働に従事します。

当時は、人種差別が根深く広まっていた頃です。「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)という小説が1995年に作られます。作家はデヴィッド・グターソン(David Guterson)。その内容ですが1954年の冬、日系アメリカ人漁師のカズオは同僚を殺害した第一級殺人容疑で罪に問われます。地元新聞記者は、カズオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。彼自身は、幼馴染でカズオの妻であるハツエとの過去の恋愛関係に対する感傷を抱いています。さらに日系アメリカ人への厳しい偏見と第二次大戦という時代背景によって、新聞記者は得た証拠をどのように扱うべきかを苦しみます。「Snow Falling on Cedars」は1995年のフォークナ(William Faulkner)賞受賞作品です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その47 Old Dominion

ヴァジニア州(Commonwealth of Virginia)の歴史です。16世紀にスペインのイエズス会(Society of Jesus)などヨーロッパ人遠征隊の幾つかが、チェサピーク湾(Chesapeake Bay)を探検していたといわれます。1583年、イングランド女王エリザベス1世が、スペイン領フロリダより北の地域に植民地を建設する権利をウォルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)に与えます。1584年、ラレイは北アメリカの大西洋岸に遠征隊を派遣します「ヴァジニア」という名前は、生涯独身であったエリザベス1世の「ヴァージン・クイーン」(Virgin Queen)から由来します。

1608年,イギリス人が最初に建設した街がジェームスタウン(Jamestown),ウィリアムスバーグ
(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)などです。1699年にウィリアムズバーグ(Williamsburg)が植民地の首都となり、少しさかのぼり1693年には、ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が設立されます。

ヴァージニア州はイギリスから最初に独立した13州のうちの一つです。1861年4月17日、ヴァジニア州はアメリカ合衆国からの脱退を票決します。4月24日にはアメリカ南部連合国(Confederate States of America)に加盟し、リッチモンド(Richmond)がその首都に選ばれます。

アパラチア山脈(Appalachian Mountains)の一部の山々にあるのがシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)。ワシントンDCから最も近いところにある国立公園で多くの観光客で賑わいます。DCから南に車で一時間のところにあるマウント・ヴァーノン(Mount Vernon)はジョージ・ワシントン(George Washington)のプランテーション(Plantation)や邸宅で知られています。建物や墓地は国定歴史建造物に登録されています。開拓時代から独立革命にかけての史跡が多いのが特徴といえます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その46 The Green Mountain State

ヴァモント州(State of Vermont)は、ニューイングランド(New England)に属し、フランス人が最初に入植した所といわれます。ヴァモント州のニックネーム「Green Mountain」は、フランス語の「Verd Mont」からきています。「Verd 」は緑、「Mont」は「Montagne」の接頭語で山という意味です。先住民はモホーク族(Mohawk)、アベナキ族(Abenaki)でありました。1756年から1763年にわたるフランスとイギリス連合との「七年戦争(Seven Years’ War)」でイギリスの植民地となります。イギリスの植民地化の成功は、「New England」とか「New Hampshire」、「 New York」といった地名に表れています。

全米でもワイオミング州(Wyoming)に続いて人口が稀少なことで知られています。 州都はモンテピリエ(Montpelier)で人口はたったの7,900人余りとなっています。

独立戦争時代のことです。1775年、イギリスが守っていたタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga) を独立軍のイーサン・アレン(Ethan Alle)に率いられたグリーン・マウンテン・ボーイズ(Green Mountain Boys)など民兵隊が奪います。この砦で捕獲した大量の大砲と火薬は、手詰まりとなっていたボストン包囲戦を打開するきっかけになったといわれています。

全米一のメイプルシロップ(maple syrup)やメイプルシュガー(maple sugar)の産地となっています。酪農やリンゴの栽培が盛んです。林産も豊かで製紙や家具製造の原料を提供しています。花崗岩、大理石、スレートの産地としても知られています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その45 The Beehive State

ユタ州(The State of Utah)の歴史といえば、1847年にブリガム・ヤング(Brigham Young)に率いられたモルモン(Mormonism)教徒が迫害から逃れ、入植したことで知られています。モルモン教会は、末日聖徒イエス・キリスト教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)といわれます。ユタの北西部は世界最大級の塩砂漠で、これは「Great Salt Lake Desert」と呼ばれています。州都はソールトレーク(Salt Lake)となっています。現在州民の70%がモルモン教徒です。

ヤングらのモルモン教徒は、乾燥した盆地に潅漑農業を興します。そして1849年にはその地をデゼレット州(State of Deseret)と命名します。「Deseret」とはモルモン教徒の言葉で「勤勉な蜜蜂」という意味だそうです。ニックネームにある「 Beehive」とは蜜蜂の巣という意味の単語です。

ヤングはモルモン教会の大管長などをつとめたのですが、最も著名なのが多重婚推進とか黒人教会員の聖職叙任の禁止とった議論を醸したことです。しかし、1890年に一夫多妻制度が廃止され、1896年にユタは連邦政府に加入します。

ユタの産業としては、石油、金、ウランなどが主となっています。世界最大の銅の露天掘り鉱山であるビンガム・キャニオン(Bingham Canyon Mine)もあります。

観光地としても知られています。西部劇のロケ地となった「 Monument Valley」があります。ここでジョン・フォード(John Ford)は「駅馬車 (Stagecoach)」や「捜索者(The Searchers)」を撮影しています。一帯は古くからのナバホ族(Navajo)居住地域で、今もナバホ族の聖地となっています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その44 The Lone Star State

8月の終わりにハリケーン、ハーヴィ(Harvey)が南部テキサス州(State of Texas)に上陸し、最大都市であるヒューストン(Huston)は未曾有の水害に見舞われました。日本の国土の1.8倍、アラスカ州(Alaska)に次ぐ広さがあるのがテキサス州です。リオ・グランデ川 (Rio Grande) は州の北西から南東に流れメキシコ湾(Gulf of Mexico)に注ぎます。豊かな穀倉地帯を形成しています。Rioとはスペイン語で川を意味です。「Texas」はカド族(Caddo)の言葉である「 tejas」に由来し、「友」とか「仲間」を表します。

17世紀末、スペイン人がカド族、アパッチ族(Apache)、チョクト族(Choctaw)、トンカワ族(Tonkawa) などのテキサスの土地に進出し、18世紀にはサンアントニオ(San Antonio)などにスペインの布教砦や城塞がつくられます。その後合衆国によるルイジアナ購入による領土の拡大により、メキシコとの戦争が起こります。アラモ砦(The Alamo)などの戦闘の後に、1836年にテキサスは連邦に編入されます。こうした独立への強い気性を指して「テキサス魂(Texas In My Soul)」というフレーズもできます。

テキサス州のニックネームは「The Lone Star State」という少々変わった名称です。「テキサス魂」とか「アラモ砦の州」という名ではありません。テキサス共和国時代から使用されている白い星を一つあしらった州旗に由来しているとあります。州都はオースティン(Austin)、ヒューストン、サンアントニオ(San Antonio)が続きます。

経済は綿花、牧畜、石油が中心です。西部は鉄道の発達で牧畜業が急速に盛んになります。1901年、ビーモント( Beaumont)付近のスピンドルドック(Spindletop)という油田が発見され、全米一の産油地となっています。油田はメキシコ湾外沿いに多く、石油精製、石油化学を中心に多種の工業も盛んです。1956年に制作された映画「ジャイアンツ」(Giants)は牧畜と石油産出を巡るテキサスの発達や人種問題を扱った名画です。主演者にはロック・ハドソン(Rock Hudson) 、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor) 、ジェームズ・ディーン(James Dean)がいました。日本でも知られた懐かしい俳優です

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その43 The Volunteer State

私がテネシー州(State of Tennessee)を知ったのは、1950年代のラジオや新聞でですテネシー川(Tennessee River)流域の総合開発という公共事業と「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz)という歌がきっかけなんです

1929年からの世界恐慌(World Economic Crisis)のときに、失業者のための雇用を出す必要性があったので、ルーズベルト大統領(Frankline Roosebelt)が、世界恐慌の対策として実施したニューディール政策(New Deal)を打ち出します。その一環として、テネシー川が毎年春に洪水を起こしていたのを制御する必要性があったこと、さらにテネシー川の輸送容量を改善する必要性などによって、1933年にテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority:TVA)が設立されることになります。その結果、32個の多目的ダムなどの建設により雇用が拡大し、テネシー州は国内でも最大の電力供給州となります。

1948年にリリースされたのが「テネシーワルツ」です。1950年にパティ・ペイジ(Patti Page) が歌うと爆発的な人気を博します。日本にはジャズ系歌手である江利チエミが歌います。恋人とテネシーワルツを踊るという歌です。覚えている人もおられるでしょうか。

テネシー州には「志願兵の州」(The Volunteer State)というニックネームがついています。これは植民地戦争でインディアン諸部族やイギリスとの米英戦争のとき、特に1815年のニューオーリンズ(New Orleans)の戦いで、テネシー州の志願兵が傑出した働きをしたことでつけられたいわれます。最初2,800名の志願兵を募集したところ30,000名が集まったといわれます。

他にも「Mother of Southwestern Statesmen」という呼び名があります。テネシーから三名の大統領を送り出しているからです。第7代大統領のアンドルー・ジャクソン(Andrew Jackson)、第11代のジェイムス・ポーク(James Polk)、そして第17代のアンドルー・ジョンソン(Andrew Johnson)です。テネシー州の州都はナッシュビル(Nashville)、最大の都市はメンフィス(Memphis)です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その42 The Palmetto State

サウス・カロライナ州(The State of South Carolina)南部の大西洋に面している温暖湿潤な気候の州です。州都及び人口最大の都市はコロンビア(Columbia)です。ニックネームは「ノコギリヤシの州」(The Palmetto State)です。

サウス・カロライナはイギリスから最初に独立した13州の中で、しかも最初に独立を宣言した植民地です。その植民地はイングランド国王チャールズ2世(Charles II)から、その父チャールズ1世の栄誉を称えて命名されます。なおチャールズ(Charles)のラテン語名はカロルス(Carolus)となっています。カロライナの名称の原型です。

大西洋に面した海岸平野(Coastal Plain)とローカントリー(Low Country)と呼ばれる海岸台地は古い歴史があり、イギリス人が建設したチャールストン (Charleston) があります。いまなお18〜19世紀の建物が連なっています。この街は「聖なる市」(The Holy City)としても知られています。低層の都市景観を形作る有名な教会があり、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市の一つだったという事実にもよっています。

多くのユグノー(Huguenot)と呼ばれたフランスにおける改革派教会(カルヴァン主義ーCalvinism)がチャールストンにやってきます。フランス絶対王政の崩壊に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて、やがて亡命先となったサウス・カロライナの開発を著しく進めたといわれます。ユダヤ人にユダヤ教の布教を制限無しに認めた最初期の植民地都市がチャールストンともいわれます。

1860年12月20日、アブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)が次期大統領になることが明らかになると、サウス・カロライナ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した最初の州になります。そして1861年4月南軍がチャールストン港にあった合衆国軍のサムター砦(Fort Sumter)に対する砲撃を開始し南北戦争が激化していきます

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その41 The Mount Rushmore State

サウス・ダコタ州(State of South Dakota)の州都はピエール(Pierre)。最大の都市は、スーフォールズ(Sioux Falls)です。「ダコタ(Dakota)」という名前はインディアン部族のダコタ族(スー族;Sioux))の言葉「ダコタ(仲間)」に由来します。サウス・ダコタ州のニックネームはいくつかあります。「The Mount Rushmore State」、「Great Sioux Nation」、「The Coyote State」、「The Sunshine State」というフレーズです。

州の中央部にミズリー川(Missouri River)が流れ、南西部にはブラックヒルズ(Black Hills)と呼ばれる低木の松に覆われた山脈があり、スー族の聖地となっています。ここには4人の大統領の顔のモニュメントで有名なラシュモア山国立記念公園(Mount Rushmore National Park)があります。ジョージ・ワシントン(George Washington)、 トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)、 セオドル・ルーズベルト(Theodore Roosevelt) 、 アブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)の巨大な彫刻です。

1868年の第二次ララミー砦条約(Treaty of Fort Laramie)によって、サウス・ダコタ州西半分がグレートスー居留地(Great Sioux)としてスー族に認めらたという事実があったにも拘わらず、1874年にカスター(George Custer)将軍の連隊がこの山地に派遣されます。そして金を発見し、ゴールドラッシュが始まります。1876年にスー族はブラックヒルズ内の土地や鉱業権を渡すことを拒み、坑夫や開拓者が地域に入るのを止めたために戦いが起きます。これが「 Great Sioux War」です。

ブラックヒルズにあるホームステーク鉱山(Homestake Mine)を中心とする金の採掘は全米一となっています。ステップ気候で夏冬の差が大きいので「太陽の輝く州」とも呼ばれます。「コヨーテの州」というフレーズからは、かつて人跡稀であった西部の州という印象を与えているのがサウス・ダコタ州です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その40 The Ocean State

ロードアイランド州(State of Rhode Island)は、独立13州の一つです。全米の州で地理的に最も小さい州です。滋賀県や奈良県と同程度の面積で人口はたったの105万人。ちなみに滋賀県は140万人です。州都はプロビデンス (Providence)。「プロビデンス」とは「神の摂理」とか「神のみ業」を意味します。

当時この地域は二つの部族が住んでいた。西側にはナラガンセット族(Narragansett)、東側にはワンパノアグ族(Wampanoag)がいました。最初にこの地にやってきたのはクェーカー教徒(Quakers)です。その中にロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)がいました。 クェーカー教徒の組織は、「Religious Society of Friends」といいます。キリスト教徒の一派です。Wikipediaによると、ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地を追い出された神学者だったといわれます。信仰と政治の寛容さを求め、他の者達と共に自由な領主植民地としてナラガンセット湾(Narragansett Bay)に「プロビデンス・プランテーション」(Providence Plantation)という集落を建設します。この湾は、ロードアイランド海峡の北側に面した湾及び入り江です。

ウィリアムズはオランダから逃れてきたユダヤ人にも救いの手を差し伸べたとあります。こうした伝統は、オランダにユダヤ人が多く住み着いていたことがわかります。時代が経て、第一次、第二次大戦中も多くの「アシュケナジム」(Ashkenazim)と呼ばれたドイツ系ユダヤ人がオランダにいたことが知られています。

農産物はジャガイモ、トウモロコシ、鶏など家畜の飼育も盛んな州です。ニックネーム「Ocean State」とあるだけに海産物は日本と同じように豊富です。沿岸や沖合漁業も盛んです。ボストンの隣に位置しニューヨークも近く、アメリカ・メガポリスの一部で都市化が進んでいます。農海産物の大消費地に恵まれている州です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その39 The Keystone State

ペンシルヴァニア州(Commonwealth of Pennsylvania)の歴史です。1643年、最初にペンシルヴァニアに入植したのはスェーデン人ですが、1656年にはオランダ、1664年にはイギリスへと支配が移ります。イギリスのチャールズ二世(Charles II)がクェーカー教徒(Quaker)の代表、ウイリアム・ペン(William Penn)にこの土地を与えたとあります。「Sylvania」とはラテン語で「森の土地」とあります。そのようなわけで「Pennsylvaniaは」「ペンの森」となります。

ウイリアム・ペンは敬虔なクェーカー教徒でした。植民以前は信仰の自由を訴え、イギリス国教会(Church of England)に異を唱えたために、一時ロンドン塔(Tower of London)に収監されたこともあります。イギリス国教会はイギリス聖公会(Anglican Churchi0とも呼ばれます。イングランドの統治者が教会の首長であるという政治的な意図にペンは我慢がならなかったのではないでしょうか。ペンは、植民地時代はインディアンとの友好関係を大事にした人物です。

イギリスからの独立後、1790年から1800年の間、連邦政府の首都となったのがフィラデルフィア( Philadelphia)です。現在も州で最大の都市です。現在の州都はハリスバーグ(Harrisburg)となっています。ペンシルヴァニアは全米屈指の製鉄業地帯です。ピッツバーグ(Pittsburgh)やベスレヘム(Bethlehem)が中心で、製鉄を支えるアパラチア(Appalachian)炭田があります。その他、粘土、石材、石油、天然ガス、亜鉛などの鉱産物でも知られています。

ところで「Pennsylvania Dutch」という言葉があります。信仰の自由を求めてペンシルヴァニアに移住したドイツ系移民とその子孫、あるいはその言語を指す言葉です。オランダの意味ではありません。宗教的にはモラビヤ派(Moravian)、メノー派(Mennonite)、特にアーミッシュ(Amish)に属する者が多く、移住後も伝統的な宗教、言語、風俗や習慣、教育を維持したので注目されました。アーミッシュの集落が多いことで知られる州です。

最後に、ペンシルヴァニア州のニックネーム「Keystone State」の由来です。13の植民地の真ん中に位置し、その後合衆国の経済や社会、政治の発展に大きな役割を果たします。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その38 The Beaver State

北海道大学時代に札幌の姉妹都市が、オレゴン州(State of Oregon)のポートランドであることを知ったのがこの州との出会です。オレゴン州といえばオレゴン街道(Oregon Trail)も知られています。州都はセーレム(Salem) 。最大の都市はポートランド(Portland)です。

太平洋岸にそったPacific Coast Rangesとカスケード山脈(Cascade Range)の間の平野に人口の9割が住み、そこに広がるウィラメットバレー(Willamette Valley)は農業が盛んです。フランスのボルドー(Bordeaux)地方とほぼ同じように葡萄の栽培に適した平野となっています。

1840年代に「オレゴン街道」を通って多くの植民がオレゴンに入植します。オレゴン街道はミズリー州(Missouri)のインデペンデンス(Independence)から大平原(Great Plains)、ロッキー山脈(Rocky Mountains)を越える路で全長3,200キロの行程です。移住には4か月から6か月かかったといわれます。途中にはララミー砦(Fort Laramie)やサウスパス(South Pass)といった重要な通過点がありました。 幌馬車隊の組み方、野営の方法、食料や飼料の補給、インディアンとの遭遇と対応などの経験がその後の移住を助けたといわれます。

Wikipediaによると、豊かな森林はレッドウッド(red wood)、トウヒ(spruce)、ダグラスモニ(douglas fir)などで覆われています。こうした資源により、製材、パルプ、合板、家具製造などが産業の中心です。ニックネームが示唆するように森林資源とビーバー(beaver)は切り離せないようです。19世紀初頭、ビーバーの毛皮帽子がたいそう流行したことがこのニックネームにつながったとあります。オレゴン内の河川には多くのビーバーが今も生息しています。