心に残る一冊 その33 「沈黙」と遠藤周作

狐狸庵先生と称された遠藤周作の作品です。必ずしも正統とはいい難いキリスト教思想の持ち主といわれていました。同時に日本のキリスト教界を代表する文学者ともいわれています。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しました。キリスト教の神学者の間でしばしば賛否両論含めた論評の対象になりました。私は素人なのでその根拠はわかりません。言えることはそれだけインパクトのある作品を書いたということでしょう。

「沈黙」のことです。舞台は江戸時代のキリスト教が厳しく禁止されていたころです。そうした中で潜入したロドリゴ神父は、多くの信徒が迫害され殉教していくの目の当たりにします。「神はなぜ応答しないのか、この不可解な沈黙のなかで神を信じる行為とはなにか」。これが「沈黙」のテーマです。

ロドリゴは、長崎奉行所によって捕らえられ、踏み絵を強いられて棄教を迫られます。「このような状況を前に、神はなぜ沈黙されているのか」という大きな疑問を抱き続けます。そしてさらに恐ろしい懐疑がわき上がってきます。「もしかしたら神は存在しないのではないか。」

その間次々と信徒は殉教していきます。殉教という神を信じる行為も神の存在を証明する行為だろうが、それなら殉教という行為が怖くてできない「弱い臆病者」の自分を神は見捨てるのか、自分には救いはないのか、自分は神の存在を信じることができないのか、という問いにロドリゴは苦悩するのです。

踏み絵のキリストが「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声が聞こえてきます。踏みつけた踏み絵を前にして信仰を棄てた自分がそこに立っています。しかし遠藤は、ロドリゴに対して「あなたはイエスの愛を捉え直すことになったのだ。神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのであり、その神の苦しみを感じたあなたという人がいる」というのです。殉教者の叫びに苦悶したロドリゴ自体が神の存在を語っているというのが「沈黙」の中心テーマです。

心に残る一冊 その32 「深い川」と遠藤周作

日本人の大半は汎神論者であるといわれます。仏教も神道も儒教もキリスト教もすべて受け入れる寛容さがあります。別な視点からすれば「節操のなさ」とか「いい加減さ」があります。特定の宗教に深くは帰依せず、にもかかわらず全てを受け入れるのです。日常は「仏」や「神」や「愛」など深くは考えずに暮らしています。それを美徳とするのです。他方、キリスト教やイスラム教は唯一神であり、他の宗教と友誼の関係を持っても教理においては妥協しないという特徴があります。

遠藤周作のことです。かれはカトリック教徒といわれます。ですが彼の作品を手にすると登場する主人公には、誰もを「そうだ、そうだ」と納得させるような「仏」や「神」や「愛」についての説明があるような気がします。この「深い川」という作品も、ガンジス川の持つすべてを包み込む母のような偉大さをみる遠藤の感性を表しています。この作品は1993年に書き下ろされたものです。「深い川」とは黒人霊歌で出てくるヨルダン川(River Jordan)ではなくガンジス川(Ganges)です。この川とはキリスト教と仏教の考え方を隔てるものと考えられているようです。

主人公磯辺はごく普通の父権的な家庭人であり夫でありました。しかし妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言って亡くなるのです。そこであるインドツアーに参加することにします。ボランティアで妻の死ぬ間際まで介護したのが美津子です。彼女はかつてキリスト教系の大学を卒業しています。学生時代には複数の男性の心を弄びます。その中に神父を志す男子学生の大津がいました。

美津子もまた、旧友との同窓会で大津がガンジス川の近くにある修道院にいるという噂を聞き、大津の持つ自分にない何かを知りにインドツアーに参加します。ガンジス川の水は全てのものを浄化するため、この世の苦しみから解き放たれ、解脱できると考えられています。遺体を燃やして灰にし、ガンジス川に流すことは、ヒンドゥー教徒(Hindu)にとって最大の願いといわれています。大津は、インド中から集まってくる貧しいために葬ってもらえなかった人たちの死体を運び、火葬してガンジスに流す仕事をしています。やがてある日、懐かしい美津子と出会うのです。

心に残る一冊 その31 「秘太刀馬の骨」

藤沢周平の作品をいろいろと読んでいますが、この稿のあとは11月15日までしばらくお休みをいただきます。

  藤沢の小説にでてくる舞台の多くは、山形の海坂藩という架空の外様藩です。小さな藩のゆえに跡継ぎを巡る藩内のお家騒動に焦点があてられます。いろいろな策略や陰謀が巡らされるのですが、それに巻き込まれる若い剣士が登場します。我が身の保身に躍起する派閥に翻弄されつつ信念に基づき折り合いをつけて生きていきます。今の日本の政党のように党内の主導権争いを反映するかのようです。

藤沢の作品には、あまり激しい申し合いや立ち回りは描かれません。ですが「秘太刀馬の骨」という時代小説は、剣の秘業を誰が継ぐのか、どのような秘太刀なのかは読者の興味をそそります。それを求めて剣士は修行するのです。それがこの「秘太刀馬の骨」です。「秘太刀馬の骨」の業とは「相手の懐にもぐりこみ、相手の剣の下をかいくぐりつつ、首の骨を両断し絶命させる剣」といわれます。

家老の小出帯刀より、浅沼半十郎と石橋銀次郎はある任をうけます。それは六年前に家老の望月を暗殺した秘太刀「馬の骨」を探すことでした。帯刀の甥である石橋銀次朗と共に、「馬の骨」を伝承された可能性のある剣士を探し回るのです。そして不伝流矢野道場の道場主と高弟5人に死を賭して立会いを挑むのです。

心に残る一冊 その30 「三屋清左衛門残日録」 早春の光

「三屋清左衛門残日録」の続きです。前髪のころからの友人、大塚平八郎が中風で倒れたのを見舞って清左衛門は家に帰ります。平八と清左と呼び合っていた仲です。
「大塚様のご病気はいかがでしたか」と嫁の里江に問われます。
「思ったより元気だった」 そう答えたとき清左衛門はどういうわけか夥しい疲労感に包まれます。平八郎の状態は暗いのですが、それを嫁に説明するのをためらうのです。

  後日、小料理屋で旧友同士の佐伯熊太と平八を話題にして、次のような会話をします。
清左衛門 「医者はたゆまず修練を積めば、中風の跡も目だたぬほどに歩けるようになろうと申したそうだ。病気そのものは軽いのだ」
熊太 「で、歩いているのか?」
清左衛門 「いやまだだ。床には起き上がっている」
熊太 「そこがあの男のふんぎりの悪いところだで」
熊太 「事にあたってはきわめて慎重、といえば聞こえはいいが、要するに臆病なのだ」
熊太 「万事おっかなびっくり、勇猛心が足らん。わしなら歩けといわれたら、あの辺りの塀につかまっても歩く」
清左衛門 「貴公のようにはいかんさ。ひとにはそれぞれの流儀がある」

老いの現実が清左衛門を疲労感で包みます。再び平八の家へ足を向けるときです。道の遠くに動く人影があるのに気づき立ち止まります。こちらに背を向けて杖をつきながらゆっくり歩いているのは平八です。平八の身体はいまにも転びそうに傾いています。

その動きを眺めて路地に引き返したとき、自分の胸が波打っているのを清左衛門は気づきます。胸が波打つのは平八の歩き始めた姿に鞭打たれた気がしたからです。

心に残る一冊 その28 「獄医立花登手控え」「風雪の檻」

小伝馬町牢は、人生につまずいた者の吹き溜まりです。狡賢い者や正直者もいます。その中に捨蔵という容態が悪い病人がいます。軽い盗みで捕まりもう半年以上も牢に入っています。普通、盗みの程度なら裁きのあとは決まって叩きの刑ぐらいで解き放たれます。しかし、家族や親戚が不明という無宿者の捨蔵は、再犯の可能性が高いという理由で長く勾留されるのです。

余命幾ばくもない捨蔵を「溜」に移した方がよいと獄医立花登は提案します。溜とは養生牢のことで小伝馬牢よりもこぎれいで風通しがよく、住み心地が少しよい所です。囚人も昼夜、煮炊きもできる所です。

捨蔵に登が痛み止めの薬をやると、捨蔵は「ちょっとおねげえがある」というのです。娘と孫を捜して欲しいというのです。
「ずいぶん前に別れて、いまでは行方がわからない、それにいまさら親でございと名乗れる仲ではない。さんざん迷惑をかけてきた。」
「助からない命なら死ぬ前に一度は顔をみてえ。」

登は捨蔵の頼みにほだされて、捨蔵のいう娘と孫を探しだし、その言葉を伝えようとします。

捨蔵がいう娘の名は「おちか」。彼女はかつて種物屋に押し込んで一家三人を殺した犯人を偶然目撃しています。そのため逃走した二人の賊から追われて小さな娘と江戸中を転々としています。散々苦労した結果、登はおちかを探すのですが、その犯人の人相を登が聞き出すと、その男は捨蔵とそっくりなのです。登の調べによって二人の賊の一人が捨蔵だと判明し、もう一人の賊も捕縛するのです。捨蔵に対するじくじたる思いの登ですが、おちかや娘の安堵した表情に充実感も溢れます。

心に残る一冊 その27 「獄医立花登手控え」「春秋の檻」

「獄医立花登手控え」というサブタイトルのつく「春秋の檻」、「風雪の檻」、「愛憎の檻」という藤沢周平の作品を読んでいます。羽後亀田藩の下士に生まれた獄医立花登が難事に挑む時代小説です。羽後とは出羽の別名。亀田藩とは、秋田県南部に位置する日本海に面した由利本荘市にあった藩です。

登は国許の医学校で医学を修め、さらに江戸に赴いて医学を精進すべく、叔父の小牧玄庵の所に居候します。玄庵も浅草で開業する町医者です。酒が好きで酒代を確保するために小伝馬町にある牢屋敷で医者も努めています。医学を志す登は玄庵の腕に失望しながらも、書物を読み玄庵の代診をしながら研鑽していきます。

医師を志しながら、獄舎でつながれる人々の様々な事情と向き合います。起倒流という柔術で危険な人間をやり込めるのです。島送りの流人船を待つ囚人から、ある女に渡るべき十両をやくざから取り戻し、渡して欲しいと依頼されます。渡した十両を取り返そうとするやくざの匕首を躱し当身を打ち込んで倒します。

居候の登の世話をする叔母は、登に酒飲みの叔父の愚痴をいったり、素行の芳しくない娘のことで相談をかけたりして、時に登を身のうちの者のような言い方でもたれてきたりします。日頃はいろいろな用事を言いつける口うるさく杓子定規な女性です。

「登さんも江戸に慣れて、そろそろこの家に住むのがいやになりましたか」というように平気で嫌みを言ったりします。

小伝馬町の牢獄には三人の医師がいて、漢方でいう本道である内科医が二人、外科医が一人となっています。登は内科医という設定となっています。人間として医師として成長を遂げていくさまが描かれています。

叔父の代診で牢屋敷に通うなかで、登は牢獄につながれる人々が、なぜ罪を着せられたか、罪を犯したのかを問うのです。彼らの苦悩に共感しながら、残された人生を懸命に生きようとする姿に寄り添おうとします。

心に残る一冊 その26 Intermission  広辞苑改訂と岩波書店

「広辞苑」の出版元は岩波書店です。岩波書店の本にはいろいろとお世話になりました。大学の教科書に始まり、関連の専門書、そして新書や文庫といった按配です。岩波新書の刊行は1938年というのですから凄いの一語に尽きます。「方法序説」や「広島ノート」、その他「風土」といった本が手許にあります。北海道大学時代は、少々気取って「世界」や「思想」を読んだものです。1960年代ではこうした雑誌を読まないと時代に遅れるという雰囲気がありました。岩波のものであればどれも信頼がおける、という思い込みやこだわりが私にはあります。

創業者の岩波茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身といわれます。「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田舎暮らしを好んだとあります。岩波の刊行物にあるエンブレムにはミレーの種を蒔く人が描かれています。ミレーを引用したのはそんなところにあったのかもしれません。

岩波書店で忘れてはならないのは「図書」という冊子です。「読書家の雑誌」といわれるほど、読書の新しい愉しみを発見できるところです。「古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、旅のときめき体験、味あふれるエッセイの数々、人生への思索などを綴る」とあります。知的好奇心あふれる読者が長く手にしている小冊子です。

岩波書店から出版されるにはどうしたよいか、ということです。恐らく原稿を幾重にも審査されるのでしょう。科学研究費補助金の審査よりも厳しいのではないかと察します。岩波から出版するにはどうしたらよいか、どなたか良い知恵を教えてくださいませんか。

心に残る一冊 その26 Intermission  広辞苑改訂と岩波書店

「広辞苑」の出版元は岩波書店。岩波書店の本にはいろいろとお世話になりました。大学の教科書に始まり、関連の専門書、そして新書や文庫といった按配です。岩波新書の刊行は1938年というのですから凄いの一語に尽きます。「方法序説」や「広島ノート」、その他「風土」といった本が手許にあります。北海道大学時代は、少々気取って「世界」や「思想」を読んだものです。1960年代ではこうした雑誌を読まないと時代に遅れるという雰囲気がありました。岩波のものであればどれも信頼がおける、という思い込みやこだわりが私にはあります。

創業者の岩波茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身といわれます。「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田舎暮らしを好んだとあります。岩波の刊行物にあるエンブレムにはミレーの種を蒔く人が描かれています。ミレーを引用したのはそんなところにあったのかもしれません。

岩波書店で忘れてはならないのは「図書」という冊子です。「読書家の雑誌」といわれるほど、読書の新しい愉しみを発見できるところです。「古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、旅のときめき体験、味あふれるエッセイの数々、人生への思索などを綴る」とあります。知的好奇心あふれる読者が長く手にしている小冊子です。

岩波書店から出版されるにはどうしたよいか、ということです。恐らく原稿を幾重にも審査されるのでしょう。科学研究費補助金研究費の審査よりも厳しいのではないかと察します。岩波から出版するにはどうしたらよいか、どなたか良い知恵を教えてくださいませんか。

心に残る一冊 その25 Intermission 広辞苑改訂と「はんなり」

このシリーズでちょっと休憩します。先日「10年振りに広辞苑改訂」という記事がありました。毎日のように図書館通いをして大分経ちます。そしてブログの素稿を書くために、きまって新村出氏編集の「広辞苑」を書架から取り出します。調べたい用語や単語を書き写すとすぐ書架に戻します。広辞苑の利用者が多いのです。漢字を調べるときは白川静氏編集の「字通」を借ります。

図書館にある広辞苑は2007年出版の第六版。定価は書いてありません。私が家で使う広辞苑は昭和44年出版の第二版です。定価は3,200円で出版年は西暦を使っていません。初版も昭和30年とあります。

辞書を手にして知りたいことは、その語がどのような意味があるかということです。さらに、語がどのように意味を変えたかを調べるのに辞書は欠かせません。古語や現代語を包括し、学術その他広くゆきわたる語いや事項を含むいわば小百科事典です。語いの多義性とか多様性、実用性を教えてくれるのも辞書です。広辞苑は用例や典拠を豊富に掲げています。語源や語法をみることによって本義や派生語を知ることも望外の楽しみとなります。こうして知的好奇心をかきたててくれます。

広辞苑では、地域語や地域の事情なども選ばれています。たとえば「はんなり」。落ち着いた華やかさを持つさま、上品に明るいさま、とあります。「はんなりとした色合い」というように使うのでしょうか。兼好法師が「今ここで見る顔はまた、はんなりとなつかしう、かわいらしう、恥ずかしう」という具合に引用されています。「花なり」が語源とか。京言葉の代表といわれているようですが、道産子のわたしには「はんなり」という言葉を調べて納得し、なにか京の出になったような気分になります。

同じく岩波書店から出ている「国語辞典」も持っています。こちらは携帯用で、さすがに「はんなり」はありません。固有名詞や外来語を掲載しないのが編集の方針とあります。

心に残る一冊 その24 「たそがれ清兵衛」

「蝉しぐれ」と並ぶ私の愛読書の一冊が「たそがれ清兵衛」です。この小説を読んだのは50代ですが、いつも手元に置いておきたい作品です。庶民や下級武士の悲哀を描いた時代小説にはどこか共感するものがあります。大衆小説の本筋は娯楽色が豊かなこと、という言い方がされますが、私には社会の底辺にいる人々の息づかいを豊かに描く藤沢周平の筆遣いに惹きつけられます。

主人公は下級武士の井口清兵衛。「たそがれ清兵衛」と呼ばれています。病弱な妻の世話や看病のために、同僚との付き合いを断わり、退城の合図とともに黄昏れ時に帰宅するのです。そのため「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれています。

海坂藩の藩主が若くして没し、ほどなく後継者争いが起こります。世継ぎが決まり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まります。粛清されるべき人物の中に一刀流の使い手、余吾善右衛がいました。余吾は切腹を命じられながらもそれを拒絶し、討手の服部某を斬殺し自分の屋敷にたてこもります。海坂藩は清兵衛に新たな討手として命じます。交友があった余吾善右衛に清兵衛は自首をすすめます。

壮絶な果たし合いが終わり清兵衛は、傷だらけで自宅に戻ります。清兵衛を待っていたのは2人の娘と朋江という女性です。清兵衛は幼なじみの朋江を思い続けていたのです。やがて清兵衛は朋江を妻に迎えます。

明治維新とともに勃発した戊辰戦争で賊軍となった海坂藩は、圧倒的な官軍と戦うことになります。清兵衛は官軍の銃弾に倒れます。時代に翻弄される人々の一人にたそがれ清兵衛をみるのです。

心に残る一冊 その23 「三屋清左衛門残日録」 醜女

この時代小説を読んでいますと、なにか自分に思い当たることが描かれていて実に愉快な気分になります。

「さぞのんびり出来るだろうと思っていたのだ。たしかにのんびり出来るが、やることななにもないというのも奇妙なものでな。しばらくはとまどう」 清左衛門はかつての部下であった佐伯熊太にいいます。

「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持ちが委縮してくる。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心が戻るまでしばらくかかった」

熊太は「ひと一人の命がかかっている話」を清左衛門を持ちかけ助けを求めます。おうめという女のことです。彼女は城下の貸家の娘です。行儀見習いのため城の奥御殿に奉公にはいります。あるとき藩主が何の気紛れを起こし、醜女と呼ばれていたおうめに一夜の伽をいいつけるのです。その一夜の出来事のあと、身籠ったらしいという噂で、おうめには暇が出され実家に戻り、藩から三人扶持をもらう身分となります。三人扶持とは3人の家来や奉公人を抱えることができる切米のことです。

あまり公にできないことなので、ほとほと困っている熊太は、手を貸せと清左衛門に頼みます。

「しかし、わしはもやは隠居の身でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならないだろう」
「そのことならさっき、城で又四郎どのに会った話した」 熊太ははぬかりなく言います。又四郎は清左衛門が家督を譲った息子です。

「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」

身籠ったのは、相手がわからぬ父なし子というので、殿の威信を損なわないように、おうめを密かに処分してしまえという山根備中という組頭がいうのです。山根は権威主義に忠実な家風で育ったため、言うだけではなく、実際におうめを抹殺しかねない、と清左衛門は考えおうめを助けようと人肌脱ぐのです。

心に残る一冊 その22 「三屋清左衛門残日録」 微変化

一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。

「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。

藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。

心に残る一冊 その21 「三屋清左衛門残日録」 寂寥感

「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。

勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。

藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。

仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。

こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。

心に残る一冊 その20 「木綿触れ」

藤沢周平の小説には、下級武士の無念や悲劇、農民や職人のつましくも助け合い生きる姿を描いた作品が目だちます。彼の故郷は山形県鶴岡市です。東北の小京都といわれる静かなたたずまいの城下町です。山といえば、羽黒山や月山、湯殿山、金峯山などが周りにあります。そして川です。内川、青龍寺川、赤川が作品に登場します。山と川、そして橋が舞台となっています。

子を失って悲嘆にくれる妻を励まそうとする下級武士、結城友助。代官手代の上司、中台八十郎は代官所で金を吸い上げ、倹約令がでているのに絹の着物など、ぜいたくな身なりをし妾も囲っています。下士も庶民も絹を着てはならない時代です。苦しい生活の中から妻はなえに中台のために差し操って絹の着物を作らせた親切が仇となります。そして中台に妻を弄ばれるのです。はなえはそれが元で自殺を遂げるのです。はなえが身を投げたのが川です。

友助は代官手代中台八十郎の屋敷に出掛けます。

友助 「言うことをきかなければ、お上に訴える。そうなれば自分だけでなく、亭主も結城家の家名も危ういとでも言いましたか?それでは、あの臆病な家内がどう手向かえるものでもない。死んだ者同然に、言うことをきいたはずです」
中台 「それでいいではないか、結城、」
中台 「事実、そのために結城の家にも、おぬしにも、なんのお咎めもないではないか」
友助 「しかしそのために家内は死にましたぞ」
中台 「そんなことは、わしは知らん。女が勝手に死んだのだ」
友助 「あなたは、人間の屑だ」

友助は抜き打ちに中台の肩を切り、はなえの仇を討つのです。そして正座して腹をくつろげます。庭に水音が響き、家の中はなお静まりかえっています。腹を切るのを妨げる者は誰もいません。

心に残る一冊 その19 「蝉しぐれ」 その五 お福との別れ

「蝉しぐれ」の最終稿です。文四郎は、お福と御子を救った勲により二十石の加増となります。さらに一緒に闘った布施鶴之助の召し抱えを横山家老に願いでて受理されます。家老家を出ると文四郎は、追放された里村の刺客に襲われます。文四郎は、秘剣村雨の極意を使いかろうじて刺客を仕留めるのです。

20数年後、文四郎は郡奉行として出世します。そして父親のかつての名、助左衛門をもらい二人の父親になります。江戸では側室として仕えたお福の前藩主が亡くなり、その一周忌を前にしてお福は白蓮院の尼になることを決め、海坂藩に戻ってきます。そして、その前に助左衛門に会いたいと手紙を送ってきます。

二人はしみじみと語らい、感極まって手をとり合い抱き合うのです。助左衛門はお福の唇を求めると、お福それにも激しく応じてきます。しばらくしてそっと助左衛門の身体を押しのけ、声をしのんで泣くお福です。別れ際にお福は言います。

「ありがとう文四郎さん、これで思い残すことはありません」

権力争いの渦中にあって、主人公文四郎の凜としてさっそうたる生き方と清朗な行動、親友との一途な剣の修行と友情、市井の人々や農民への暖かい眼差しと寄り添う生き方があります。そこには抒情が漂います。

心に残る一冊 その18 「蝉しぐれ」 その四 奸計と死闘

ふくが蛇に咬まれたときの様子です。右手の中指がぽっくりと赤くなっていま。文四郎はためらわずその指をふくむと、傷口を強くすいます。泣くふくを文四郎は叱るのです。「泣くな」 赤くなっていた唾を吐き捨てるのです。文四郎とふくの相思の情はやがて広がります。

15歳の時、藩主の手が付いて側室となったふくはお福と名乗ります。すぐに身ごもるのですが流産してしまいます。文四郎の親友で、江戸藩邸にいて論語などの学問をしている島崎与之助は、流産は側室おふねの陰謀だという噂があると文四郎に語るのです。その後送られてきた与之助の手紙には、江戸藩邸でにわかにお福の評判が悪化し、藩主の寵愛を失ったという噂が触れられています。

海坂藩内では跡目を巡る権力争いが激化します。文四郎の父、助左衛門も義のために反逆者と烙印を押され切腹させられたのです。牧家を潰されなかった文四郎にも家老里村左内=稲垣派と横山派の派閥争いを目の当たりにしていきます。そして双方から誘いがやってきますが、文四郎は態度を決めかねています。

お福は海坂藩にある藩主の御殿、欅御殿で藩主の御子を産み、そこに隠れます。この子どもが成長し藩主になることに危惧を抱くのが里村=稲垣派です。お福と子どもを亡きものとし、それを横山派の仕業としようとします。そして里村は横山派が御子に食指を動かしている、とそそのかし文四郎に御子をさらってこいと命令するのです。里村はさらに、牧家を潰さなかった貸しがあると文四郎に伝えます。

家老里村の奸計に気づいた文四郎は、友人の逸平らとでお福と子どもを助けに御殿に向かいます。そのとき里村の一隊が御殿にやってきます。里村らの考えはこうです。文四郎を御殿に乗り込ませ、そこを襲って文四郎と御殿の人間を皆殺しにする、その罪は文四郎一人に着せ、あとでそれとなく横山派の仕業と匂わせる。さらに横山派が里村派に罪を着せるために文四郎を使って御子を奪わせようとしたが、護衛の者と斬り合いになって相撃ちに倒れた、という台本を考えていたのです。

文四郎らは死闘の結果、お福と御子を無事助けて横山家老に預けます。里村=稲垣派に対する処分が発表されます。里村らは領外永久追放や座敷牢に閉じ込める郷入り処分となります。

心に残る一冊 その17 「蝉しぐれ」 その三 父の切腹

文四郎は牧家に養子にきて育てられたのです。つましい牧家の暮らしながら、養父、養母から暖かい愛情をそそがれて成長します。世継ぎを巡る閥に巻き込まれた養父は、詰め腹を切らされることになります。

「しかし、わしは恥ずべき事をしたわけではない。私の欲ではなく、義のためにやったことだ。おそらくあとには反逆の汚名が残り、そなた達が苦労することは目に見えているが、文四郎はわしを恥じてはならん。そのことは胸にしまっておけ、、登世をたのむぞ、、、、」 登世は文四郎の養母です。

「夜が明けると、日はまた昨夜の嵐に現れた城下の家々と木々にさしかけ、その日射しは、六ッ半(8時)に達する頃には、はやくも堪えがたい署熱の様相をむき出しに見せ始めた。そして五ッ半になると牧文四郎の家に城から使者がきた」

「藩に対する反逆の罪により、牧助左衛門には切腹を。牧家は家禄を四分の三に減じ、普請組を免じて、家は長屋に移す。」  使者は文書を読み上げます。
「自裁し終わった遺骸は、それぞれの家で引き取って貰う。できれば荷車を支度するように」 
文四郎 「何刻までに参ったらよろしゅうございますか?」
使者 「始まるのは四ッ半、助左右衛門どのは昼過ぎになろうが、昼までには寺にきておるほうがようかろう」

予期していたように、むしろをかけられた父親の荷車は行く先々で人々の冷たい視線を集めます。軒下にたっている人々が一語も出さず、しんとして自分を見送るのを文四郎は痛いほど感じるのです。

「さあ、押してくれ!」
助けにきてくれた道蔵に一声かけると文四郎は最後の気力を振り絞って、横たわる父親の荷車を押してのぼりになる坂をはしり上がります。その姿は「蟻のごとく」、車はそれほど重かったのです。喘いで車を押す文四郎の眼に、組屋敷から小走りにかけつけて来る少女の姿が映ります。確かめるまでもなく、それはふくです。文四郎の側までくると、荷車の上の遺体に手を合わせ、文四郎に寄り添って梶棒をつかみ、涙がこぼれるのをそのままに一心な力をこめて梶棒を曳くのです。

心に残る一冊 その16 「蝉しぐれ」 その二 海坂藩

藤沢周平の出身地はかつての庄内藩。彼の多くの作品にでてくる城下町、領国の風土の描写は、庄内藩とその城下町鶴岡が下敷きとなっています。それが架空ですが海坂藩です。後に紹介する長編「三屋清左衛門残日録」や「風の果て」といった作品の舞台も海坂藩を伺わせてくれます。

政変に巻きこまれて父を失い、家禄を減らされた主人公、牧文四郎の成長を描いたのが「蝉しぐれ」です。小説の冒頭では文四郎は15歳。市中の剣術道場と学塾に通い、ひとつ年上の小和田逸平や同い年の島崎与之助と仲がよく、また隣家の娘ふくに不思議と心を引かれ、すこしずつ大人になっていきます。平凡な日々がおだやかに過ぎてゆくなかで、海坂藩内ではお世継ぎをめぐる政争が表面化し、これに養父助左衛門も関与していきます。

城の周りを流れる五間川が氾濫しそうになって、外出中の助左衛門の代わりに文四郎が駆けつけたことがあります。遅れて到着した助左衛門は、金井村の田がつぶれるのを防ぐために、堤防の切開の場所を上流に変更するよう、指揮を執っていた相羽惣六に進言します。金井村の人々はそのときのことを感謝し、後に助左衛門が反逆罪で捕らえられた時には、堤防切開工事に一緒に参加した青畑村の人々と共に助命嘆願書を提出します。

藩内には横山派と稲垣派との政争があり、助左衛門は横山派に加わり、特に村々を回って村方に横山派を作り上げる働きをします。しかし、文四郎が16歳の年の夏、横山派が稲垣派に敗れ、一統12名と共に藩に対する反逆の罪で切腹を言い渡されます。切腹前日、面会を赦された文四郎に助左衛門は言い残すのです。

「父を恥じてはならぬ、母を頼む」

心に残る一冊 その15 「蝉しぐれ」 その一 川と橋

藤沢周平の「蝉しぐれ」を数回にわたり紹介していきます。彼の作品は時代小説とか歴史小説といわれるようですが、内容や雰囲気からするとどうも新しい時代小説のようです。「蝉しぐれ」という原題ですが、蝉が亡骸を残し、晩秋の降ったりやんだりする小雨から、なんとなく憂うつな雰囲気が漂います。そして街の描写、自然のうつろい、主人公の住まいや身分などが丁寧に描かれます。なにかが起こる前兆を読者に期待させるのです。

藤沢周平の作品の中には、川や橋がよく登場します。江戸期の「橋」を舞台とした小話があります。橋は対岸へと渡るためだけではなく、人生が交差する場として描かれます。歳月が流れた橋の上で男が昔の幼馴染みにいう場面もあります。「綺麗になった。」というのです。

「蝉しぐれ」の冒頭では、次のような自然が描写されます。

いちめんの青い田圃は早朝の日射しをうけて赤らんでいるが、はるか遠くの青黒い村落の森と接するあたりには、まだ夜の名残の霧が残っていた。じっと動かない霧もあさの光をうけてかすかに赤らんで見える。そしてこの早い時刻に、もう田圃を見回っている人間がいた。

舞台は山形の海坂藩です。主人公の牧文四郎、そして小和田逸平、島崎与之助は、十五六歳の若者です。この三人が人間として成長し、また現実の厳しさに直面していきます。やがて、三人はの郡奉行、藩校の教授、御書院目付となっていきます。御書院とは藩主の身を守る防御任務のことです。

文四郎の家の隣に小柳甚兵衛の娘ふくがいます。文四郎の3歳年下です。お福は藩主正室の寧姫に仕えるため、江戸に向かうことになります。その直前に牧家を訪ねて文四郎に思いを伝えようとするのですが、あいにく文四郎は外出していて会うことができません。

「小柳のふくさんがたった今帰ったばかりだけど、、、、そのあたりで出会いませんでしたか」と落ち着かない顔で文四郎の母はいいます。
いや」 文四郎の胸にあかるいものがともります。ふくの名前を聞くのはひさしぶりだったのです。
「それがね、、急に江戸に行くことになったと、挨拶にみえたのですよ。」
「明日、たつのだそうです。江戸屋敷の奥に勤めることになったとかで、、その話はあとにして、、、、」 母は指で外をさすのです。
「ちょっと追いかけてみたらどうですか。まだその辺にいるかも知れませんよ。」
「わかりました」

文四郎はふくが帰りそうな道を探します。そしてあげくは川岸の道まで行きますがふくの姿は見えません。

 

 

心に残る一冊 その14 「小川の辺」

「小一里ほど歩いたとき、突然のように日光が射し、靄はしばらくの間、白く日に輝いたあと、急速に消えていった。行く手にまだ山巓のあたりに雪を残している山が見えた。海坂藩は三方を山に、一方を海に囲まれている。里に近い山は早く雪が消えるが、その陰に空にそばだって北に走る山脈には、六月頃まで斑な残雪が見られる。」

このように藤沢周平の小説には、自然や季節の情景が描かれます。絵を彷彿とさせてくれます。それは日本人の心にある自然です。高いビルやけばけばしい看板、ネオンサイン、騒がしい公園はありません。昭和の年代にあちこちに残っていた風景です。郷愁を思い起こすと詩情が漂うようようです。そして川や橋が登場します。「小川の辺」、「橋ものがたり」という小品もそうです。

脱藩して江戸へ逃亡した義弟を主命によって討手として斬らねばならない武士、戌井朔之助の不条理を描いています。佐久間森衛と共に逃亡した妻の田鶴も討たねばならなくなるという苦悩が描かれています。田鶴は朔之助の実の妹なのです

新蔵は朔之助の家で居候をしながら剣術を磨い若党です。朔之助は家老の助川権之丞の脱藩した義弟を討てとの命令で苦悩し、それを両親に伝えるのです。母親は兄弟同士の斬り合いを頑なに拒みますが、父親は「田鶴が立ち向かってくるなら二人とも斬れ!」と朔之助に言い渡すのです。

朔之助は父親に、必ず生きて連れ戻すと約束します。田鶴もまた新蔵と一緒に剣術に励み、密かに心を寄せ合う仲でありました。家族の会話を聞いていた新蔵は、朔之助に同行したいと申し出て出掛けます。

江戸の郊外で、義弟の隠れ家を探し出します。田鶴が外出したのを見計らって二人は家に近寄り、朔之助は佐久間を討ちます。そととき田鶴が帰ってきて、「討手は兄上でしたか!」「佐久間の妻としてこのまま見過ごすことはできません」と剣を抜いて朔之助に向かってくるのです。「若旦那さま、斬ってはなりませんぞ」と新蔵は叫びます。

朔之助のすさまじい気合いで田鶴の剣は巻き上げられ、川に落ちていきます。「田鶴を引き揚げてやれ」と新蔵に叫びます。新蔵の腕が田鶴の手を引き、胴を巻いて草の上に引き揚げるのを朔之助はみます。新蔵が田鶴に何か話しかける姿は、二人が本物の兄妹のように朔之助には見えます。そして、二人は、このまま国に帰らないほうがいいかも知れないとも思うのです。

「田鶴のことはお前にまかせる」といいながら、朔之助は懐から財布を抜き出して新蔵に渡すのです。「俺は一足先に帰る。お前達は、ゆっくりと後のことを相談しろ。国へ帰るなり、江戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ。」