心に残る一冊 その113 「小説日本婦道記」 その十一 「二十三年」(2)

怪我で運ばれてきたおかやを治療した医者は云います。
「崖から落ちたときに頭をうったのが原因でござろう」
「口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかもしれん」

医者が去るとまもなくおかやは起き出します。そしてしきりに靭負の息子の牧二郎を背負いたがるのです。四国松山に発つための支度のできている荷物を持ち出して「ああ、、ああ、、」と外を指さします。すぐに旅立っていこうという仕草です。思いがけない奇禍で白痴になってさえ、松山へ供をしてゆく積もりです。

  「おかや、、」靭負は側に立って呼びかけます。
「、、、いっしょに松山へ行こう、おまえにはずいぶん苦労をかけるが、松山へ行って治ったら新沼から嫁に遣ろう」
「もし治らなかったら一生新沼の人間になれ、わかるか?」
おかやはけらけらと笑います。

おかやの兄、多助は云います。
「ただ、こんなお役に立たぬ者になり、また遠国のことでなにかあってもお伺いすることができません」
「どうか呉々も宜しくお頼みします」

松山への旅の途中、おかやは考えたより足手まといにはなりません。却って役に立つのです。口が利けないのと、物事の理解が遅鈍なだけです。靭負の身の回りや牧二郎の世話には欠けるところがありません。「もしおかやを伴れてこなかったら、、、」靭負はしばしばそう思うのです。

松山に着きます。然し伊世松山藩、蒲生家の老職からは、予想外の冷ややかなあしらいを受け仕官の道が絶たれます。靭負は道後村に居を定め収入の途として、道後名物の土焼きの人形づくりを始めます。それからひどい暮らしが何年も続きます。

蒲生氏のあとに隠岐守松平定行が松山に封ぜられてきます。彼は靭負が会津蒲生の旧臣であり、松山にきた目的など仔細に知っていました。そして松平家に仕官する気がないかを尋ねてきます。食録も会津の旧扶持だけは約束するというものです。靭負は仕官を決意します。牧二郎は十六歳になり学問や武芸に励み二十歳で召し出されて父とは別に百石の役料をもらいます。

やがて靭負は五十三歳で亡くなり、牧二郎が跡目を継ぎます。そして菅原いねという娘を娶ります。祝言の夜、四十三歳となったおかやを呼んで対座します。
「おかや、牧二郎もこれで一人前になった、今日まで二十三年、新沼家のためにおまえの尽くして呉れたことは大きい、、」
「明日からは妻がお前に代わる」
「おまえは牧二郎にとって母以上の者だ、」
「妻のいねにも、お前を姑と思って仕えるように云ってある」
「明日からおまえは新沼家の隠居であるぞ、、、」

牧二郎はじっとおかやの眼を見つめます。そして云うのです。
「だから、おかや、おれはお前に白痴の真似をやめて貰いたいのだ、」
おかやは顔色を変えます。
「おまえは白痴でも唖者でもない、おれはそれを知っているんだ、、」
牧二郎は激してくる感情を抑えながら云います。おかやは驚愕の余り身を震わせて大きく眼を見張り、坐りなおしてうつ伏します。

心に残る一冊 その112 「小説日本婦道記」 その十 「二十三年」(1)

小説日本婦道記にある最後の作品「二十三年」は1945年10月の「婦人倶楽部」に掲載された作品といわれます。この雑誌は講談社から創刊され、「主婦の友」や「婦人公論」と並んで読まれたといわれた月刊誌です。

主人公は、新沼靭負という会津蒲生家の武士です。”靭負”は”ゆきえ”と呼ばれます。靭負は御蔵奉行に属し、食録は二百石余りでした。まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な暮らしをしてきます。しかし、主家の改易があり、下野守忠郷が病没すると嗣子がないことが原因で会津蒲生家は改易となります。多くの者は寄る辺を頼り、また他家へ仕官して、思い思いに城下から離散していきます。1611年に起こった会津地震も藩内を大きく揺さぶります。

   下野守の弟にあたる蒲生忠知が伊予の国松山藩で、二十万石で蒲生の家系をたてているというので、会津藩の人々は松山藩に召し抱えられたいと希望します。靭負もその中の一人です。靭負は妻のみぎを亡くし乳飲み子を抱えています。貯えも多くはないので、家士や召使いには皆暇を遣りますが、「おかや」という婢は独りどうしても出て行きません。おかやには両親はいませんが、兄の多助はおかやに度々、良縁があるからお暇を頂くようにと云ってきます。おかやはまだ早すぎると答えるばかりです。

仲間が欠けていくのを見送りながら靭負は独りで松山に行くことに決めます。
「松山にお供させて頂きます」 とおかやは云います。

仕官の見通しもなく、浪人の身で給金さえ遣りかねるときがくるといって靭負はおかやへ家へ帰るように云います。
「ではせめて坊さまが立ち歩きをなさるようになるまで、、、」
靭負は多助に家に戻るよう申し訓えてくれるように頼みます。多助の訓が功を奏したのか、おかやは案外すなおに云うことをききます。靭負は牧二郎を抱いておかやと多助が出て行くのを見届けます。しかし、おかやは八幡様の崖の下で倒れているのが見つかり、戸板に乗せられて靭負の家に運び込まれます。医者は「脳の傷みがひどく、ひと口でいえば白痴のようになっている」と云います。

心に残る一冊 その111 「小説日本婦道記」 その九 「尾花川」

膳所藩は近江国大津周辺にあった藩で彦根藩に次ぐ譜代藩です。関ヶ原の戦のあと、幕府が全国の諸大名に命令し行わせた土木工事が天下普請。膳所城はその第一号と云われます。京都の東の守りを固める目的で築かれたようです。藩主家は本多家です。藩政安定化のため、漁民を保護してしじみの豊漁を奨励したことで知られていました。

幕末期、頻繁に異国船が渡来し各地で尊王攘夷の声があがっていた頃です。膳所藩も攘夷派と佐幕派が対立しています。河瀬太宰は尊王攘夷の波の中にいます。やがて佐幕派が藩内で力を盛り返します。あるとき、将軍家茂が膳所城に宿泊することになっていたのですが、藩内に不穏な動きがあるというので、宿泊は取りやめとなります。藩は恥をかくのです。そのため藩は尊攘派の藩士を検挙します。

河瀬宅は琵琶湖から離れ近くに尾花川が流れ、屋敷も広く幕吏の追捕を逃れる者にはいい隠れ場所でした。尊攘派の同志は河瀬の家に、我が家のようにやってきて静かな一時をすごしたり、志を語りあいます。幸子は客人を温かく迎え酒食も費用をいとわず気を配ります。客人をして「百日の労苦が一夜で癒される」と云わしめたくらいです。

太宰の妻幸子はゆったりした体つき、口数は少ないのですが、はきはきとしたなかに温かい包容力をもった婦人です。年齢からも気性からも老臣の五男に育った太宰には姉という感じで、一種の圧迫感を受けるばかりでした。太宰は膳所藩の家臣です。

やがて幸子のもてなし方がよそよそしくなります。安い鮒を買い、酒はもうないといって食事をだしたりして、吝嗇にちかいもてなしなのです。太宰がそのことを尋ねると幸子は云います。この家へ立ち寄りくださるときくらいは、身にかなうおもてなしをして、せめて一屋なりとも心からご慰労もうしたい、そう考えて至らぬながら酒肴の吟味もしてきた、しかし、この世情不安の中で、いまは禁裏でさえ食べるものに難儀しているという、事に身を捧げる志士の日夜のご辛労はどれほどか、それなのに酒肴を吟味するなど許し難い行為だ、と云うのです。

幸子は太宰に云います。「ひともわれもできるだけ費えをきりつめ、あらゆるものを捧げて王政復古の大業のお役にたてなければなりません。」

太宰は妻の言葉を聞いておのれの迂闊さを恥じ入り、決意します。どんな人間よりも謙虚に、起居をつつしみ困苦欠乏とたたかって大業完遂の捨石とならなければと、、、

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

心に残る一冊 その110 「小説日本婦道記」 その八 「風鈴」

主人公、弥生の良人は扶持が十五石の加内三右衛門です。息子は与一郎といって毎日剣術の稽古に励んでいます。弥生の両親は他界しましたが、妹が二人います。小松は百樹家という二百五十石の寄合いの妻に、津留は三百石の家に嫁いでいます。

二人は時々姉のところに遊びにやってきます。ひさしに古雅な青銅の風鈴をみて、この家には色彩がない、調度品もみなくすんでいるなどと指摘します。しきりに姉に対して、もっと華やかで豊かな暮らしをするように云いいながら風鈴を箪笥の引き出しにしまうのです。
「お姉様はこんなにして、一生を終わってよいのでしょうか」
「いつまでも果てしのない縫い張りやお炊事や煩わしい家事に追われ通して、これで生き甲斐があるのでしょうか」
「そしてお姉様は、やがて小さなおばあさまになっておしまいになさるのね」

三右衛門は火鉢に手をかざしながら、一冊の写本をひらいてみます。妙法寺記というものです。そこに勘定奉行の岡田庄兵衛という老人が訪ねてくきます。そして三右衛門に奉行所へ替わるよう推挙したいと云います。ところが、三右衛門は現在のお役に馴れてもいるし、自分の性に合っていると云いいます。
「はじめ御書庫の中で分類朝年代記というものを拝見しておりました」
「飢饉の条のあまりに多いことから思い切って詳しい年表を作ってみようと思いました」

庄兵衛が三右衛門に訊きます。
「然し、そこもとの多忙なからだで、どうしてこんなむつかしいことを始める気になったのだ?」 
三右衛門は答えます。
このように年次表に書き上げますと飢饉のくる年におよそ周期があるのです」
「凶作があって一年めに飢饉の続くことがもっとも多く、次に五年、ないし六年目にくる例が非常に多い、この年次表が完成して周期の波がはっきりわかるとすれば、藩の農政のうえにかなり役立つと思うのですが、」
「たしかに、、」 庄兵衛は大きく頷きます。
「そうすれば冷寒風水による原因もわかって耕作法のくふうもあろうし、荒凶に対する予備もできるだろう、」

ですが、庄兵衛は云います。
「勘定所つとめではさきも知れているし、殊にそこもとの仕事は気ぼねばかりが折れて酬われることが少ない、まったくの縁の下の力持ちで、わしも役替えするほうがよいと思うがな、、」

「役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません、勘定所の、ことに御上納係は、その年々の年貢割をきめる重要な役目で、常づね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ、これには年数と経験が絶対に必要です、単に豊凶をみわけるだけでもわたしは八年かかりました、そして現在ではわたしを措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません、」
「、、、、それとも誰かわ私に代わるべき人物がございましょうか」
「正直にもうして代わるべき者はない」 庄兵衛はそう呟きます。

三右衛門はこう続けます。
その人たちには、私が栄えない役を務め、いつまでも貧寒でいることが気の毒にみえるのです、なるほど人間は豊に住み、暖かく着、美味をたべて暮らすほうがよい、たしかにそのほうが貧窮であるより望ましいことです、」
「貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば活きる甲斐があるように思いやすいのです」
「然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することでできるでしょうか」
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだではなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」

隣で二人の会話を聞いていた弥生は身震いをします。
「そうだ、少なくとも良人や子どもにとってかけがえのない者にならなくては、、」
箪笥にしまっていた風鈴を弥生は思い出します。それを吊ると久しく聞かなかったチリンチリンという澄んだ音が響きわたります。

心に残る一冊 その109 「小説日本婦道記 その七 「不断草」

「もう少し気を働かせないといけませんね、」姑が云います。
姑は両眼が不自由です。勘が悪く、起きるから寝るまでいろいろと菊枝の介添えが必要でありました。それでも姑は息子、登野村三郎兵衛のことになるとまるで菊枝に同情がなくなります。三郎兵衛も菊枝に刺々しい言葉遣いとなります。菊枝は神経が昂ぶり、幾夜も寝られない日が続きます。

菊枝の父は仲沢庄大夫で上杉家の三十人頭です。半年後、仲人の蜂屋伊兵衛がきて離縁と決まります。そして荷をかたづけていると種子の袋を見つけます。「唐苣」、とうちぎ、またの名を不断草です。時なしに蒔き、いつでも柔らかい香気のある葉がとれます。姑にはなによりの好物でした。

上杉家の若き主君、弾正太弼治憲は非常に英名の質があり、家督を継ぐとかなり大胆な藩政の改革をします。その改革を心よからずと思う家臣がいて五十カ条にあまる訴状をもって治憲に迫るのです。治憲は果断なく機先を制し、訴状を退けます。訴状を出したもののなかに登野村におりました。そのため扶持を返上し退身します。母親は農家の預けられます。

菊枝は思うのです。良人が離縁を迫ったのは、この事件の結果を知っていてその累を菊枝に及ぼしたくなかったためかと。そして自分は登野村を出るべきではなかったと気がつくのです。

父、仲沢庄大夫の前にでた菊枝は云います。
「これから登野村の老母のもとへ行きたいのです」
「お前には、、」
「ならぬと申したらどうする、」
「わたしを義絶していただきます」
こうして菊枝は父から勘当されます。

村の名主、長沢市左右衛門に事情を包まず話し、老母のみとりをさせて貰いたいと頼みます。そして菊枝だということを内密にして欲しいとも云い添えます。市左右衛門は菊枝を連れて隠居所へ行きます。
「ようやくおまえさまのお世話をしてくれる者が見つかりました」
「わたしもこのとおり、眼の不自由なからだです」
「いろいろ面倒であろうが、よろしくお願いいたしますよ」
「もったいない仰せでございます、秋ともうします」
菊枝は気づかれないようにと、つぶやくような声でそう云います。

あくる朝、菊枝は隠居所の横にひらける畑の隅に唐苣の種子を蒔きます。やがて全部の種子が芽生え、小さな柔らかいあさみどりの双葉がびっしりと生えてきます。ある夜、菊枝は初めて唐苣を採って食膳にのぼらせてみます。
「これは唐苣ですね」
「、、、はい」
「お気に召しましてうれしゅうございます」

老母の許に一通の封書が届けられます。
「倅からきた文です」
倅とはかつての菊枝の良人です。文面は三郎兵衛の病臥の知らせです。菊枝は胸のふさがるおもいで姑に読み聞かせます。やがてしずかに盲いた面をあげて云います。
「おまえ、みとりにいってお呉れ」
「、、、、、、」
「おまえ、おどろいておいでのようだね」
「わたしおまえに気づかなかったとでも思っておいでだったの」
「でもね、わたしはね菊枝どの、わたしはここへ移るとすぐきっとあなたが来てお呉れだと思っていました」
「お姑上さま、」
「きっとお呉れだと、、、わたしはあなたのお気性を知っていましたからね」
菊枝は堪りかねて姑の膝へすがりつきます。

心に残る一冊 その108 小説日本婦道記 その六 「糸車」

主人公、お高の父は依田啓七郎という松代藩五石二人扶持です。二人扶持とは、1年間に二人分の生活費として米十俵の扶持米を貰える身分ということです。つつましい暮らしです。実直で温厚、しかし卒中で倒れ殆ど寝たり起きたりの生活をおくっています。十歳になる松之助という息子がいます。妻は松之助が三歳のとき亡くなります。

お高の実の父は西村金大夫で、松本藩の勘定方頭取をしていて五百五十石の身分です。実の母がお梶です。かつて西村家には子どもがたくさん生まれ、養育することにもこと欠くありさまでした。そのため松代藩の依田啓七郎にお高を遣ったのでした。その後、不思議なほど幸運に恵まれ西村金大夫は勘定方に出世したのです。

お高は依田家で木綿糸を紡いで生計のたしにしています。お高が織った糸束を会所に持って行くと係の老人が云います。
「わずかの間にたいそう上手になられたな、」
「そなたの糸は問屋でも評判になっているそうだ」
「ひとつには孝行の徳かもしれぬが、、」

夜、父の肩をもんでいると父は云います。
「おまえあした松本へゆくのでがな、」
「松本ではお梶どのがご病気だそうな、おまえさんに一目逢いたいから四五日のつもりで来てくれるよう、お使いの者がきたのだ」

お高が西村家に着くとお梶女が云います。
「依田どのからあなたにあてた手紙です」
こんど松本におまえを帰すにあたってはいろいろ考えた、西村からこれまでの養育料としてかなり多額のたいもつをくれる話があり、それだけあれば自分の田地を買って松之助と二人、安穏にくらしていける、おまえも西村のむすめとして仕合わせな生涯にはいれるだろう、という内容でした。

その手紙を読んで、お高は父から松本へゆけといわれた夜のことを思い浮かべます。お高に肩をもませながら、こちらに背を向けて自分の辛い顔をみせたくなかったのです。

実の母、お梶にお高は云います。
「思し召しはよくわかりました。ほんとうに有り難う存じますけれど、私はやはり松代へ帰らせていただきます」

「ただいま戻りました」
「どういうわけで帰った?」
「持たせてやった手紙は読まなかったのか、」
「拝見いたしました」
「おゆるしください、父上さま、」
「わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます」
「乳ばなれをしたばかりで、母の懐からよそへ遣られたお高を父上さまは可哀そうと思ってはくださいませんか?」
「もし可哀そうだとお思いくださいましたら、ここでまたよそへ遣るようなことはなさらないでくださいまし」

「だが、西村はおまえにとって実の親だ、西村に戻ればおまえは仕合わせになれるのだ」
「いいえ、仕合わせとは親と子がそろってたとえ貧しくとも、一椀の粥を啜りあっても親と子が揃って暮らしていく、それがなによりの仕合わせです」
「お高にはあなたが真実のたった一人の父上です、亡くなった母上がお高にとってほんとうの母上です、この家のほかにわたしには家はございません」
「父上、」と叫びながら松之助が走り寄ってきます。表で二人の話を聞いていたのです。
「どうぞ姉上を家においてやってください!」

「西村どのには父から手紙を書く、もう松本には遣らぬからと」
松之助は姉の膝へとびつき、涙に濡れた頬をすりつけながら声をあげて泣き出すのです。

心に残る一冊 その107 「小説日本婦道記」 その五 「藪の蔭」

由紀は、八百石の大寄合という恵まれた家に生まれます。世の中の辛酸暮らしを知りません。安倍休之助との祝言の日、仲人に連れられて安倍家に向かいます。乗物をおりて六畳ほどの部屋に案内されます。新しく張り替えられた襖や障子に燭台の灯がうつっています。休之助は三百石のお納戸役で気性は温和なことで定評がありました。

急に外がざわざわとします。
「なにごとでございますか?」
「休之助がけがをして戻った、、」

大藪のところで倒れている休之助が見つけられたというのです。休之助の母が由紀に家に戻るように云います。
「わたしは家へはもどりませぬ」と由紀は凜として云います。
「おそれいりますがわたしに着替えをさせてくださいまし、常着になりたいと存じますから」
常着とはふだんぎのことです。

「でも由紀どの、それは、」
「いいえ、まだ盃こそいたしませんけれど、この家の門をはいりましたからは、わたしは安倍の嫁でございます」

休之助はござを敷いた夜具の上に仰臥しています。医者がきて傷の手当てをしますが、傷は脇腹で三十針も縫ったほどでした。すべての人が去って、はじめて二人だけになったとき、老母はそっと由紀の手をとって云います。
「ありがとうよ」
「ふつつか者でございます、どうぞいろいろお叱りくださいまして、、、」

七日になってお納戸頭が休之助の家にやってきてしばらく話ししています。その夜、休之助は床の中で由紀に、勘定方へ急ぎ八十両を届けるように指示します。由紀は晴れ着などを売り、実家にも頼んでなんとか八十両を集め納戸に届けるのです。瀬沼弥十郎という同僚がお納戸の金、百両を費消していたのです。それを休之助は知ってしまうのですが、黙っていたのです。そして弥十郎は休之助を襲うのです。

費消した金がお納戸に戻り、事件はうやむやになります。そしてあるとき瀬沼弥十郎が家に訪ねてきます。
「あのとき、大藪のほとりで闇討ちをしかけたのは、そこもとに自分の不始末をみつけられたからで、」
「そしてそこもとを斬り、そこもとに罪をなすりつけようとしたのだ」
「そこもとは拙者の不始末をひきうけて呉れた、あれだけのたいまいの金を黙って返済し、自分の名を汚した体面を捨てて罪を着てくれた」
「拙者はそこもとがよからぬ商人にとりいられて、米の売買に手をだしているらしいということを聞いていた」
「人間は弱いもので、欲望や誘惑にかちとおすことはむつかしい、誰にも失敗やあやまちはある、あのとき意見をしなかった拙者にも半分の責任があると思った」
「それが幾らかでもそこもとの立ち直るちからになって呉れればよいと思って、、、」
少しも驕ったところのないたんたんとした言葉です。

休之助は弥十郎を励ますのです。
「そこもとは立ち直った、奉行所に抜擢され江戸詰になったそうだが、しっかりやってくれ」

心に残る一冊 その106 「小説日本婦道記」 その四「箭竹」

「箭竹」とは矢に用いる竹のことと辞書にあります。「箭」とは矢のことです。

十九歳の家綱が弓を射ています。一本の矢が光の糸を張ったように飛び、心地良い音をたてて的に突き刺さります。その矢が気に入るのです。調べてみると弓矢には「大願」という小さな二文字が彫られています。家綱はこの矢の出所を調べるよう家臣に言い付けます。

将軍の射る矢は諸国の大名たちから献上され、精選されました。問題の矢は三河のくに岡崎藩の水野けんもつ忠善からの献納と判明します。水野けんもつの家臣に茅野面記という者がいました。面記は勤役中に刃傷沙汰があり切腹させられます。そのため妻みよと二歳の安之助は領内追放を申し渡されます。そして美濃の国、加納藩の実家に身を寄せます。やがて水野けんもつは国替えで岡崎藩へ加封されるとともに、みよも忘れ形見の安之助とともに主君の国替えについていきます。

岡崎は竹の産地。岡崎藩から献上される竹束は知られていました。竹を削って磨き箭べらにする仕事をみよはすすめられます。馴れてくるとみよばめきめきと腕をあげ、誰の作るのにも負けないような立派な箭を作る自信がついてきます。

安之助が十八歳になると母親に働きに出たいと懇願します。
「父上は不運なできごとのなめに、ご奉公なかばで世をお早めなさいました、侍にとってこれほど無念な、苦しいことはありません、どんなにおつらかったことか、、」
「ご生害のとき、父上が一番お考えになったのは、あなたのことです、あながた人にすぐれた武士になり、父のぶんまでご奉公をするようにそれだけお望になすったのです、、」
「よくわかりました母上、わたしは一心に修行いたします、そして千人にすぐれた武士になります」
「それをお忘れなさるな、道はまだ遠いのですよ」

みよは、母の愛情を込めて箭竹にきわめて小さく「大願」の二文字をつけることを思いつきます。もしかすれば、それがご主君のお手に触れるかも知れない、、どうぞこの二文字がとのさまのお眼にとまりますよう、そう祈りながら箭を作っていきます。

水野けんもつは「大願」を彫った箭がみよによって作られたことを知ります。女にもあれほどの者がいたのか、武士の妻として、良人の遺志をついで二十年、微塵もゆるがぬ一心をつらぬきとおした壮烈さは世に稀なものであると感じ入るのです。そして箭竹の顛末を記した書状を幕府に送ります。

安之助はほどなく召し出されて父の跡目を継ぎ茅野家を再興します。

 

心に残る一冊 その105 「小説日本婦道記」 その三 「梅咲きぬ」

加代と直輝という夫婦と姑の物語です。加代は歌作りに励んでいます。あるとき「寒夜の梅」という歌を作ります。直輝の母、かな女が数冊ある短冊を見ながら云います。
「みごとにお詠みなすったこと、本当に美しくみごとなお歌ですね」
「でももうお歌はこのくらいにして、またなにかほかの稽古ごとをおはじめなさるのですね、」

直輝は加代のようすがいつまでも沈んでみえるのに気がつきます。ある夜、そっと妻の部屋にいくと、加代は灯のかげで歌稿を裂き捨てています。
「どうしたのだ、、」
加代はだまって悲しげな眼をあげ、すがるように良人を見上げます。直輝はその眼をみて事情を了解します。
「母上が仰しゃったのか、、」
「、、、はい」
「加代は不束者でございますから、母上さまのお気に召すようには甲斐性もございませぬ、、、」
「体が弱いためお子をもうけることもできませぬし、、」
「もうおやめ、それ以上はわかっている」
直輝はやさしくさえぎります。

  母の気性がと云いかけたまま、ややしばらく黙っていた直輝はやがて妻を励ますように云います。
「ほかの事とはちがい、おまえの和歌の才だけはかくべつだ、、わたしからそれとなく母上にはなし申してみよう」
加代は良人の温かい気持ちを胸一杯にかんじながら、裂き残した歌稿をつつましく集めるのです。

明くる夜、直輝は隠居所をおとづれます。端ぎれを綴り縫いしている母はそれを仕上げているところです。なにがお出来になりましたときくと、加代にやる肩蒲団だと答えます。
「あの寝部屋は冷えますからね、それにあの人はあまりお丈夫ではないから、、、」
「それはさぞ珍重に存じましょう」

あくる朝、梅の蕾がおよそ四分がた、一斉に咲きだしています。かな女は加代を部屋に呼び入れます。
「今日はわたしの思いでばなしを聴いていただこうと思いましてね」
「はい、うかがわせて戴きます」
「自分の口からこう云っては、さぞさかしらに聞こえることでしょうけれど、わたしは茶の湯の稽古でたいそう才をみとめられました、お師匠さまからも折り紙をつけられるところまでいきました、そのときわたしは茶の湯をやめました」
「良人も惜しんでくれました、、、つぎに笛のお稽古を、笛のつぎには鼓を連歌や詩、絵などもお稽古を始めました、でもわたしはどれも奥底まではゆかず、九分どおりでやめてしまったのです」

「加代さん、わたしが芸事をつぎつぎに変えたのは移り気からだとお思いになりますか?」
「学問諸芸にはそれぞれ徳があり、ならいおぼえて心の糧とすれば人を高めます、けれどその道の奥をきわめようとするようになると「妻の心」に隙間ができます、妻が身命をうちこむのは、家をまもり良人に仕えることだけです」

「わたし、あやまっておりました」
「、、、加代さん」
「もう仰るな、年寄りのぐちがいくらかでもお役にたてばなによりです、そしてそこの覚悟さえついておいでなら、歌をおつづけなすっても結構なのですよ」

やがてかな女は加代に云います。
「こんなものを作りました」
端切れを継いでつくった肩蒲団をとってそっと嫁のまえに押しやります。
「あなたのお寝間は冷えますから、これを肩にかけておやすみなさい、」

その日、城から帰った直輝は妻の顔色が見違えるように冴え冴えとしているのにおどろきます。

心に残る一冊 その104 「小説日本婦道記」 その二「松の花」

主人公は佐野藤右衛門という紀州徳川家の年寄役と女達です。藤右衛門は千石の禄をもらっています。64歳となり老年をいたわる思し召しで藩譜編纂役となり、下から上がってくる素稿を点検する仕事で、以前のような煩雑な日常から解放されています。「松の花」とは烈女節婦の伝記や紀州家中、古今誉れの高き女性たちを収録したものです。これを手直しするのが藤右衛門の仕事です。

藤右衛門の妻、やす女は重態で伏せています。
「申し上げます、父上申し上げます」長子、格之助の声がします。
「病間へおいでください、母上のご様子が悪うございます」

  格之助と嫁のなみ女、次男の金三郎、婢頭のそよ、皆せきあげて泣いています。
「まことにお安らかな眠るようなご往生でございました」
脈をとっていた医者がそう云うのをききながら、藤右衛門はしずかに枕元に坐ります。そして妻の唇にまつごの水をとってやります。夜具のそばになみ女の手が少しこぼれ出ているのをみて、それを入れてやろうとそっと握ります。まだ温みがあるその手がひどく荒れてざらざらしているのに気がつきます。

半通夜がおわり、弔問客は帰って行きます。
「格之助と金三郎で伽をする、遠慮無くさがるように」と若侍や女達に云います。しばらくしても誦経の声が響きます。家氏のしもべの女房らが一夜の伽をしたいといって奥に座っているのです。亡き妻を実の親のように慕っていたのです。藤右衛門は自分の知らなかった妻の一面を知ります。

葬儀の後も、夜ごと夜ごと、彼の耳に母屋のほうで音をしのばせて誦経する人声がかすかに聞こえます。むせぶような念仏の声も伝わります。仕えていた女房たちです。その声は肺腑をしぼるようで、嘆きがこもっています。どうして妻はあれぼどの嘆きを彼らに与えるのか、彼らにとって妻はそれほど大きい存在だったのかと藤右衛門は校閲の筆を休めて、想いに耽ります。

格之助に、妻やすの形見を女房たちにわけるように命じます。女房頭のそよが箪笥をあけ引き出しからつぎつぎと衣類を取り出します。それはみな着古した木綿物です。洗い抜いて色がさめたもの、継ぎをあてたものばかりです。藤右衛門はなかばあきれて訊きます。
「そのほかもうないのか、まったくこれでお終いなのか、、」
「、、、はい、お納戸の長持にはまだお古着もありますが、継ぎはぎもならぬほどの品です」
「人の目に触れれば恥ずかしいゆえ、おりをみて焼き捨てよ、との仰せでござりました」

あまりに粗末な品々です。藤右衛門は呆然とした気持ちで格之助の顔を見ます。
「これではいかにも見苦しすぎると思うが、どうか、、」
「母上が身におつけになった品ですから、お遣わしになってよろしいかと存じます、わたしもなみに一枚頂戴いたします」

そよはすり寄って衣類を敷居ぎわに運び、平伏している女房達に云います。
「旦那様のおぼしめしで、亡き奥様のお形見わけをいたします、、」
「ここにあるのが、紀州さまご老職、千石のお家の奥様がお召しになったお品です、わたしたちには分にすぎたくだされものをあそばしながら、ご自分ではこのようなお品をお召しになっていたのです」
「、、この色のさめたお召し物をよく拝んでください、継ぎのあたったこのお小袖をよく拝んでください、」
そよの喉へ嗚咽がせき上げます。女房たちも声をころしてむせぶのです。

藤右衛門は格之助に云います。
「やすはどうしてあのような見苦しいものを身につけていたのだ、わしは少しも気がつかなかった、本当にあんなものしか持っていなかったのか?」
「母上はつましいことがお好きでございました」
「母上はいつかこのように仰せられていました、、、、武家の奥はどのようにつましくとも恥にはならぬが、身分相応のご奉公をするためには、常に千石千両の蓄えを欠かしてはならぬ、、」
「それをおまえに云ったのか?」
「いえ、なみを娶ったとき、あれにそうお諭しくださったのを隣の部屋で聞いたのです」

皮膚の荒れた手とつましい暮らしを知ったとき、これほどのことにどうして気がつかなかったのだろうかと、藤右衛門は妻のやす女に向かって呟きます。
「おまえは、わしに世にあらわれざる節婦がいかなるものかを教えてくれたぞ、、」
そして稿本の「松の花」を再び開きしずかに朱筆をとりあげます。

心に残る一冊 その103 「小説日本婦道記」 その一 直木賞の辞退

この小説は、松の花、箭竹、梅咲きぬ、不断草、藪の蔭、糸車、風鈴、尾花川、桃の井戸、墨丸、二十三年、という11の短編から成ります。そこに貫くテーマは男の「武士道」に対する女の「婦道」ともいうべきものです。自分らしく生き、自分以外の人々を仕合わせにすることを実践した11人の女性たちを描いた作品から成ります。妻の死をもって妻の偉大さを知る夫、夫への忠誠心を貫き、女手一つで息子を武士に育て上げる姿、夫の小言に苦しむ妻、鼓や和歌で豊かな才能を持ち縁談を断る女性など、個性的な生き様と矜持が伝わります。

この作品は、昭和十八年の直木賞にノミネートされます。しかし山本は賞を辞退します。直木賞の受賞歴で唯一彼だけが断るという異例の事態です。その後も持ち込まれる文学賞をすべて辞退するのも、ただ異をたてるのをよしとする「曲軒精神」だけではなく、作者にとって読者から与えられる以上の賞があろうとは思われぬ、という信念に発した所為だったといわれます。「曲軒」とはへそまがり。山本を「曲軒精神の持ち主」と呼んだのは先輩作家の尾崎士郎といわれます。

昭和十八年は敗戦が濃厚になる時期。誰もが耐乏生活を強いられた頃です。この小説は、山本の貧乏生活を支えた妻が難病になり、幼子を残して死に向かっている頃に書かれたようです。この小説は、世間の評価はおおむね日本女性の献身を描いたものだということのようです。山本はそうした評価に大いに不満だったといわれています。

直木賞をもらえば現金収入にもなりますが、そのような打算は許さなかった誇りが山本にあったようです。直木賞選考委員の資質にも山本は大いに不満があったようです。「そんな者達から評価を受けるのは真っ平ご免」。まさにへそまがりだったのでしょう。

心に残る一冊 その102 「寝ぼけ署長」

この探偵小説が書かれたのは昭和21年頃ですが、作中の時代設定は戦前ですから内務省があった頃です。戦後は警察庁となります。

主人公の五道三省はある地方都市の警察署長です。五道三省という名は、山本の本名清水五十六、周五郎からの数字をもじった名なのかもしれません。署でも官舎でも寝てばかりいるため、毎朝新聞から「寝ぼけ署長でも勤まる」などと揶揄されています。年齢は40歳くらいで独身。太っていて、二重あごで腹のせり出た鈍重そうな体つきです。青野庄助という毎朝新聞社会部の記者が「寝ぼけ署長」の名づけ親です。

   署に赴任してくる前は警視庁で13年間を過ごしますが、その際は警視総監も手を焼く横紙破りで通し、慣例に反して自分のしたい事を無理にもすること、我を通す、善しと信じたら司法大臣と組み打ちしてもやりぬいてきました。そのため、三度も官房主事に推されながら、三度とも断るのです。

一見するとぐうたらな無能者にしか見えないのですが、実は極めて有能で大概の仕事は1時間もあれば片づけてしまいます。そのため暇をもて余して寝ているのです。寝た振りをして、他人の言動を聞き、観察するという怖い面もあります。読書量も凄まじく英・独・仏の三か国語のほか、漢文も読みこなせます。愛読書は詩、詩論、文学史などの評論書です。

署内でも世間からもお人よしの無能だと思われていた署長でしたが、五年後に離任することになった際には、署内からも世間からも別れを惜しむ人々が続出し、貧民街では留任を求めるデモ行進も起こるほどでした。

五道署長の在任中、犯罪事件は前後の時期の十分の一となり、起訴件数も四割以上減少します。実は切れ者で辣腕家の署長が、「中央銀行三十万円紛失事件」などでいち早く真相を突きとめるのです。人情家であったので罪を憎んで人を憎まずの精神から、過ちで罪を犯してしまった人間を可能な限り救済しようと、違法な手を使って巧妙に工作するという按配でした。

「貧乏は哀しいものだ、、、こんな時まず疑われるのは貧乏人だから、然し、貧乏はかれらひとりの罪じゃない、貧乏だということで、彼らが社会に負い目を負う理由はないんだ。寧ろ社会のほうで負債を負うべきだ、、、」

「本当に貧しく、食うにも困るような生活をしている者は、決してこんな罪を犯しはしない、彼らにはそんな暇さえありはしないんだ、、、」
「犯罪は怠惰な環境から生れる、安逸から、狡猾から、無為徒食から、贅沢、虚栄から生れるんだ」
「決して貧乏から生れるもんじゃないだ、決して、、」山本は五道三省を通してそう云わしめます。

心に残る一冊 その101  「追いついた夢」

女の名はおけい。年は十七歳です。和助は風呂場で湯に温められたおけいの肌を眺めて「千人に一人もいないというのは本当かもしれない、たしかに他の女達とはちがう、他の女にないなにかがある」と呟きます。

ほどなくしておけいは風呂から上がってきます。
「こちらに来てお坐り」
「私はぜひ世話をしたいと思うが、おまえの気持ちはどうだ、私の面倒をみてくれるか?」
「はい、こんな者ですけれど、お気に召しましたらお願いします」
「私は遁世したいのだ、世間からも人間からも離れたい、煩わしい付き合いや利欲のからんだ駆け引きとすっぱり手を切りたいのだ」

こうしておけいは和助の妾宅へ引っ越すために、住んでいる長屋にやってきます。母親のおたみは三年も病床に伏しています。それを隣の女が面倒をみています。おけいは和助との約束のあらましを話します。

おけいの父、七造は植木屋の職人をしていました。以前は京橋あたりの質屋にいました。おたみはその店で養女でしたが、七造と愛し合っていました。婿をとることになったので隠しきれず、結局義絶となって二人とも追い出されてしまいます。義絶とは肉親との関係を絶つことです。酒も煙草も口にせず何の道楽もない七造は急死します。その日から暮らしの生計がおけいの肩にかかってきます。

七造のかつての同僚、職人の宇之吉がおけいの力になっていました。彼の息子があるとき木登りで遊んでいて落ち、腿骨を折ってしまいます。医者の骨接ぎがまずかったのか、折れた部分が膿み出してそれがもとで死んでしまいます。「貧乏人は医者にも満足にかかれない、病気になったらおしまいだ」と宇之吉やおけいは嘆きます。

和助は金銀地銀の売買や両替をしていました。銀座に店を構え高利の金融にも手を出していました。和助はおけいを案内し、水天宮の近くで辻駕籠を拾い、途中なんども乗り換えて目黒を経て玉川の近くにやってきます。千坪あまりの広い土地に家がありました。妾宅です。吾平ととみという老夫婦が二人を出迎えます。

和助はお茶を飲み終えるとおけいに家の中をみせてまわります。土蔵を開けると云います。
「この中に金や書き付け、大金がしまってある、私が何十年とかかって集めたものだがね、、」
「おまえがよく面倒をみてくれれば、いつかこれがみんなおまえの物になるんだよ」

和助はおけいに五、六日のうちに戻ってくるといって、銀座の店をたたむため出掛けていきます。和助にはお幸という妻と十三年連れ添ってきました。二人でつかの間の会話をします。和助はすっかりお幸との情が消えています。五、六日のうちにかえると云った和助はそれっきり姿をみせず、使いたよりもありません。和助がおけいのところに向かう途中、卒中で倒れたのです。和助は六郷在の御救小屋で身許不明のまま死んだということです。

それから二年後。おけいの調布の村におたみが引き取られて寝ています。かつての許嫁の宇之吉と妹も一緒です。吾平夫婦が一緒に暮らすことをすすめたのです。
「ここに地面を借りて、おけいちゃんの側で暮らすことができれば、おれはそれだけで十分だ」
「、、、ね泣いてもよくって宇之さん、」
「、、、いつか大島町の河岸で云ったんじゃないの、こんど二人が一緒になれたときは泣けるだけ泣きって、、」

心に残る一冊 その100  「おもかげ抄」 小房は椙江

「おもかげ抄」の二回目です。鎌田孫次郎のところに沖田源左衛門が訪ねてきます。荒れ果てた長屋の部屋ですが、塵一つとどめぬ行き届いた掃除、源左衛門には孫次郎の人となりが察せられます。経机の前に坐り、唱名しながら香を上げ、ふと仏壇を見上げたとき、「あっ」と低い声を上げます。仏壇に掲げてある小さな女の絵姿を暫し見つめています。
「これがご家内のお姿でござるか?」
「はあ、同郷の朋友に絵心のある者がござって、戯れに描いた似顔絵が形見となっております」
「、、、、、ふしぎに似ている」源左衛門は呟きます。

源左衛門の倅、千之助に稽古をつけて去ろうとしたとき、源左衛門が一人の娘を連れて出てきます。孫次郎は娘の顔を見るとさっと顔色を変えて立ちすくみます。
「これは千之助の姉、小房と申す不束者、お見知りおき願いたい」
「は、は、拙者こそ」
「下手ながら娘が茶を献じたいと申す、ご迷惑でなかったお上がりくださらぬか」
「他に少々お話もござるが、、」
「お邪魔仕ります」
「話といっても外でもござらぬ、鎌田氏には二百石でご仕官するお望はござらぬか?」

お茶とともにすすめられ菓子を孫次郎はじっと見つめます。そして敷紙に包むと源左衛門の「もう一杯茶を召し上がれ」と云うのを振り切るようにして暇します。家に帰ると包みを仏壇の前に供えると、崩れるように坐ります。
「椙江、、そなたの好きな蒸し菓子だぞ、そなたの好きな、、、」
「生前であれば欲しがっていた菓子が今になって手に入った、そなたが死んだ今になって二百石の仕官、、、今になってこの蒸し菓子がなんになる、出世がなんになるのだ、」
「嫁してくるが否や、主家を浪人して五年、佳き家柄に育ってなんの苦労も知らぬそなたが無残な貧に痩せてゆく姿、、、」
「薬も満足に与えられなかった貧苦の中で衰え果てたままそなたは死んだ」
「、、そして今になって、出世の緒口、そなた亡き今となって、なんのために二百石を取ろうぞ、、椙江っ、」 
孫次郎は声を忍んで泣くのです。

長屋の差配、六兵衛に当地を立退くことを伝えます。暗いうちに浪宅を引き払った孫次郎、貧しい着替えの包みにしっかりと妻の位牌をおさめ、見送りがきては面倒と足早に浜松の城下を西へ向かいます。その時です。
「お待ち申して居りました」
旅姿の女が現れ孫次郎は一歩退きます。
「どなたでござるか?」 女は笠をとります。恥じらいを含んで見上げる顔は源左衛門の娘小房です。眉をそり、お歯黒の姿となっています。
「こなたは、、、小房どの」
「いいえ、いまは椙江と申しまする」
孫次郎は自分の耳を疑います。
「椙江、、椙江、、?」

「どうぞこれをご覧遊ばして」
小房はそう云って一通の書状を孫次郎に渡します。それは源左衛門の達者な走り書きです。親切を徒にして立ち退こうする身を、武士と見込めばこそ娘の眉を落とし歯を染め名を変えるのみか、亡く人の再生と思え、とまで云い添えてあります。
「それ程までにこの孫次郎を、、」
源左衛門の身にしみる情宜に孫次郎、胸をうたれるのです。

「今は何ごとも申し上げぬ、旅の不自由ご得心でござるか」
「どこまでもお伴をいたします」
「では、、、、紀州へ参ろう」 孫次郎は手紙を巻き納めます。
「高野の霊場へ納めるものがござる、その供養が終わったら直ぐに浜松に戻りましょうぞ」
「行って帰えるまで二十日、帰ったらそこもとと改めて祝言だ」

心に残る一冊 その99  「おもかげ抄」 鎌田孫次郎

山本周五郎の「小説日本婦道記」に収録されている「おもかげ抄」です。
浜松の裏街道にある家作へ引っ越してきたのが鎌田孫次郎です。年の頃は二十八、九。上背があり立派な体つきで色の浅黒い、眼の涼しいこのあたりでは珍しい美男です。家作とは借家のことです。

魚売りの金八が長屋の周りの者に云います。
「まあ、聞きね、」「表へでて洗濯をしているじゃねえか」、「奥様のお加減でもお悪うございますか」と訊いたんだ。「するとその返辞がふるってら、」
「いや別にとこも悪いと申すほどでもござらぬが、ちと我がまま、まあ朝寝がしたいのでござろうよ、とかくどうも女は養い難しでござる、、あはは、、」
長屋の女房達の間に孫次郎につけられた甘次郎、甘田甘次郎先生などの綽名がたちまち付近にひろまります。

二十日あまりが経ち隠居の六兵衛が孫次郎の浪宅を訪れます。
「ようこそおいで下された」と奥へ振り返って、「これ椙江、お客来じゃ、お茶をいれ申せ」とい云います。舌打ちをしながら「しようのないやつ、また頭でも病むと申すのであろう、我がままがつのって困る」

孫次郎がご用向きをきくと、空屋を寺子屋として子どもに素読の指南し、剣術も教えて欲しいというのです。孫次郎は二つ返事で引き受けます。初秋の昼下がり空き地で子ども達に剣の心得を教えていると、子どもが叫びます。
「向こうの原っぱでお侍が斬り合いをやっていますよ」

孫次郎も剣を持ってかけつけると、一対四の真剣勝負です。訊くと御意討となった侍の犬飼研作を四人が仕留めようというのです。犬飼の剣は鋭く四人の侍は歯が立ちません。孫次郎は助太刀し犬飼を倒します。そこに一人の老武士が馬で駆ってきます。「あっぱれ、お見事」と思わず声をあげます。子ども達も空き地の隅で固まってみていました。孫次郎が戻ると「お師匠さまは強いな、、」と歓声をあげます。

二、三日経たある日、さきの老武士が前触れもなく孫次郎を訪れます。
「椙江、お客様じゃ、、」
「ご覧の如き浪宅、何のお構いもなりませぬ、どうぞお許しを」
老武士の名は沖田源左衛門という家臣の大番頭をしているという。
「お手前のほど、先日篤と拝見仕った、ご流儀は梶派でござるな」
「実は拙者も壮年の頃、梶派一刀流をわずか学びなしたので、太刀懐かしく拝見いたしました」

倅の千之助に梶派を教えて欲しいというのです。
「未熟の拙者、とても人に教え申すことなど出来ませぬが、折角の思し召しを辞するは却って失礼、宜しかったら型だけでも」
「ところでご家内はご病気でござるか?」
「はあっ、、、」

孫次郎はなぜかうつむきやがて席を立つと「ご覧ください」といって合いの襖を開けるのです。
甘次郎という綽名をきいていた源左衛門は、甘次郎と呼ばせる妻はどんな美人かとみると、次の間には小さな経机がひとつ、仏壇のまえに据えられていて、ゆらゆらと線香の煙が立ち上っています。
「これは、、、、、」
「実は三年前に死去致しまして、、」
「すると先刻、奥へ声をかけられたのは?」
「お耳にとまって赤面仕る」
「仕合わせ薄き女にて、三年浪々の貧中死なせましたが、未練とお笑いくださるな」
「手前にはどうしても死んだと思い切ることができず、、」
「面影あるうちは生きているつもりにて、あのような独り言を申し始めたのが癖となり、今日までそのまま、、、」

「いや佳きお話を承った、亡き人へのそれほどの御愛、未練どころか却ってお羨ましゅう存ずる、拙者もご回向仕ろう」

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心に残る一冊 その98  「三年目」 人情裏長屋から

山本周五郎が得意とする長屋に暮らす市井の人々の物語です。

友吉はいい大工職人でした。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとでずば抜けた腕を発揮し、17歳のときにはすでに一人前の手間取りになっていました。広田屋は当時左前で友吉と角太郎の二人しか職人をもっていません。伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして広田屋を盛り返そうとします。

ところが伊兵衛は大怪我をし、臨終の前に友吉をとお菊が夫婦になるように遺言をします。友吉には賭博の癖があったので、「今日限りさいころは捨ててくれ」と言い残します。友吉は悪仲間と縁を切るために江戸から上方へ行き新規まき直しをする決心をします。

三年後、友吉が江戸に戻るとお菊の安否を尋ねてあるきます。堀の棟梁の息子、仁太郎という道楽者から、お菊は角太郎と深川近辺で所帯をもったことを聞かされるです。

降り続く雨で大川の水は濁って岸に溢れかかっています。新大橋は通行止めとなり友吉は入った居酒屋でお菊が角太郎と八幡様の裏の二階屋にすんでいることを聞きます。角太郎は友吉より一つ上、腕も達者というほどではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で間違いのない仕事をするだけが取り柄でした。

雨の街へでたとき、友吉のこころはずたずたになっています。
畜生、あの顔で騙しゃがったか、、、
「中川の水門が壊れたぞ、、、」という声が響きます。
友吉は教えられた二階屋にやってきます。
「どなた、、、、船定さんからですか、、」
「、、、、あっ、お前は」
「友吉だ、驚いたか、」
「よくも、よくもおいらを騙しやがったな、、おいらこんなことを知らねえからおいらあ上方で三年、一口の酒も呑まず稼いだぞ、、」
そういって友吉はお菊を縛り上げ、押し入れに押し込みます。

そこに角太郎が帰ってきます。そして取っ組み合いの喧嘩なります。角太郎が云います。
「兄貴、あの時の約束を忘れたのか?おらあいったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、、」
「そんならなぜお菊と夫婦になった!」

死んだ広田屋伊兵衛が堀の棟梁に借金があって、その金を枷に若棟梁の仁太郎がお菊を妾にしようとしたことを云います。広田屋の再興には堀一家とは喧嘩ができないので、二人で夫婦になったとみせかけるしかなかったと説明します。

一階には水が入ってきます。押し入れられぐったりしたお菊を二人で助け上げるのです「、、、おらあ鈍な生まれつきだ、兄貴にとんだ心配をかけちまって済まねえ、、勘弁してくんな」
「角、、、、生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ、」
「お菊、気がついたか、友吉だ、、、」
「友さん、、、、」

心に残る一冊 その97  「荒法師」

山本周五郎の「荒法師」を紹介します。

武蔵の国にある臨済宗の古刹に昌平寺があります。そこに荒法師と呼ばれていた俊恵という僧がいました。もと土地の貧しい郷士の子で幼いとき孤児となり昌平寺に引き取られます。十八歳になり京へのぼり、最古の伽藍である東福寺にはいり建仁寺からさらに鎌倉の円覚寺で修行します。六尺近い体格、一文字を引いた眉、光る眼、全てが逞しい姿の僧になります。「いかにも荒法師という風だ」とその名が近在に広がります。

俊恵の修行は、生死超脱という難題に向き合ったことです。俊恵は云うのです。いちど死に逢うやすべてあとかたもなく消え去る。この世にあって存在の確かなるものは、まさに「死」においてほかにない。かくて死はすべての消滅でありながら、しかも唯一のたしかな存在である。この矛盾をどう解すべきか、、、、、

あらゆる生物はやがて死滅する。同時にあらゆる生物が生ききるのも事実ではないか。生物は死ぬるまで生きる。死が否定しがたいものであるなら、生もまた否定できない。死が必ず現前するものだとすれば、むしろ生きてあることを肯定し、そのまさしい意識を把握すべきだ、生死の超脱は生きることのうえに成り立たなくてはならない、俊恵はその一点に向けて修行していきます。

武蔵国に石田三成の軍勢が攻めてきます。忍城という北条の出城が昌平寺の近くにありました。三成の指揮下にあった浅野軍の使者が昌平寺を本陣に使いたいと申し出ますが、慧仙和尚は断ります。そのため昌平寺は焼き払われます。昌平寺の近くに住む花世という娘が俊恵のもとにきて、討ち死にした人々を弔ってほしいと云ってきます。俊恵は出掛けて数珠をつかみながら読経していきます。形容し難い惨状の前で俊恵は唱えます。
「、、なお十万の諸仏、仰ぎ願わくは愛護の御手を垂れて、、、、」俊恵は念仏唱名しながら一人ひとり供養していきます。

一人の武者の前に立ち、静かに経文を唱えはじめると、ふいにその武者が「御坊無用だ、、、、」と激しい口調で云います。微かに呼吸があります。
「もうながくない、もうそのときはみえている、」
「しかし経文は読むに及ばないぞ」
「なぜ経文は無用だと仰しやる?」
「おれは、、、」
「おれは成仏するつもりはないからだ、、、」
「生きて命のある限り、死ねば悪鬼羅刹となって十たびも、十たびも人間になって生まれかわり、あくまで父祖の国土は守護し奉る、これがもののふの道なのだ、おれだけではないぞ、、」
「断じて成仏せず、、」

俊恵はかっと眼をひらき叫びます。「そうだ、これだ、ここにあった。」武士の信念に生死超脱の境地をみるのです。
「唯今のご一言、肝に銘じました。こなたには及ばぬまでも御遺志を継いで城に入ります。ぶしつけながら鎧を借り受けます。」

俊恵は忍城に入り、攻撃する浅野の軍勢に向かいます。真一文字に突っ込むさまは凄く、群がる人数の中でも一歩もひかず奮戦した闘い振りも類の無いものでした。浅野軍の兵たちも後に「あれはたしかに名のある武士だったに違いない」と云います。「あとにもさきにもあれほど大胆不敵な闘いぶりをする者を見たことがない、敵ながら全く惜しい武士だった」と振り返るのです。

心に残る一冊 その96  「月の松山」

「月の松山」という山本周五郎の作品です。宗城孝也という青年剣士が主人公です。

孝也は浪人の子で、江戸に育ちます。十六歳のとき孤児となり茂庭信高家に預けられます。茂庭家は古くから兵法をもって北条氏に仕えます。鞍馬古流の小太刀を教え、二十町余りの山林と十五町余りの田畑をもって家計は豊かです。病床にある信高は、一人娘の桂が孝也と結ばれることを願っています。しかし、孝也もまた右足の骨が壊死し枯れ木のように脆くなっています。肉も腐りはじめ菌が体に広がっているのです。
「お気の毒ですが、もう間違いありません」医師の花崗道円が云います。
「すると期間はどのくらいですか?」
「百日よりは早いことはあるまいが、一年より遅くはない」

松山という高さ百尺あまりのなだらかな丘陵があります。孝也は辞去するとその坂を登りつめたところにある枯れ草の上に腰を下ろします。自分の将来が長くないことを考え精一杯生きようと決心するのです。桂は孝也の病を心配しています。

茂庭家の山林や田畑をめぐって争いが起こります。地境争いを吹きかける坪田与兵衛という一派がいます。坪田は土着の大地主ですが、領主松平家の金御用を勤めだしてから、にわかに横暴になり、自分の持ち地所と接するとこで地境争いを起こします。茂庭家の田畑にもそれが及ぶのです。そして信高の病状が悪くなるにつれて、両家の地境争いが深刻化していきます。

孝也は郡代役所から年貢帳などを取り寄せ「今後は境を超えない」という誓書を取り戻してきます。しかし、大道寺九十郎とか日野数右衛門といった素行の悪い松平家の家来が「紙切れ一枚で役に立つのかああ、、」などと嘲笑するのです。

孝也の桂への態度がよそよそしくなっていきます。桂がそのことで茂庭道場の西秋泰二郎に相談するのですが、その密会のような場面に孝也がきます。西秋は桂との会話を説明するのです。
「弁解か、云ってみろ」
「待ってください、ひとこと云わせてください」
「西秋さまに罪はありません」 桂は云います。孝也は黙って二人を見ていました。
「どうか誤解しないでください」

五年に一度の奉納試合があります。この試合は鞍馬流の正統を示す絶好の機会です。病気の孝也は、この奉納試合を目指して泰二郎を鍛えようとします。そんな孝也の様子が変化していきます。稽古の烈しさと仮借なさは徹底的で泰二郎がどんなに疲れても自分で納得するまで稽古をやめないのです。孝也は泰二郎を奉納試合に出させようと考えています。

坪田の小作人がまたまた越境し始めたという知らせがきます。かつて茂庭道場にいて破門された大道寺や日野らが真剣での果たし合いを孝也に申し込むのです。孝也は部屋をすっかり片付け師匠の信高と泰二郎宛に封書を残します。

大道寺や日野の助っ人の弓矢を背中と腰に打ち込まれた孝也のところに泰二郎がかけつけます。
「大道寺らはどうした?」
「仕止めました」
「おれの足を見ろ、右の足だ、」
「あっこれは、宗城さん、」
「触るな、それは脱疽というのだ、おれはもうこのままでも五十日とは生きられない軀なんだ」
「脱疽ですって、あの骨もにくもくさる、、」
「手紙を読んだな?」
「郡奉行所に届ければ、もう坪田も悪あがきはすまい、おれはいい死に場所に恵まれたんだ、」
「西秋、、、あの人を頼む、茂庭のあとを頼む、、、」

心に残る一冊 その95 山本周五郎という作家 その四 「須磨寺附近」

山本周五郎は三年間関西へ転居し仕事もしています。神戸で小さな雑誌社に勤めました。旧友の姉が須磨区に嫁いでいたのを頼って下宿します。彼女の夫は海外勤務です。山本は彼女を「須磨寺夫人」と呼んでいます。そのときの「危険な恋」が「須磨寺附近」という小説だといわれます。

「須磨寺附近」は大正十五年に文藝春秋に山本周五郎のペンネームで発表したのが文壇出世作といわれます。清三という男が主人公です。青木の兄がアメリカに赴任しているため、友人の青木、青木の兄嫁である康子、そして清三という奇妙な3人暮らしです。浜辺、須磨寺、六甲山などに遊ぶうち、清三は康子に心惹かれていきます。神戸松竹座での待ち合わせを機に2人の仲は俄かに接近するのですが、康子は夫に呼ばれアメリカに去っていきます。主人公の清三というのは山本の本名、清水三十六からとったようです。山本自身の青春のアヴァンチュールだったのかもしれません。

山本が「小説日本婦道記」を書いたのが昭和十七年といわれます。昭和は小林多喜二や徳永直、宮本百合子らプロレタリア文学の全盛期といわれました。その間、山本は少年少女雑誌小説や推理小説書きに没頭します。さらに大人向け娯楽小説雑誌、キングなどを主な執筆舞台としていたといわれます。純文学作家と大衆作家とは異人種とみられるような時代です。

山本は云います。「文学には純も不純もない、より文学を最大多数の人々へというおれひとりの旗印を掲げる」とうっ積したような思いで主張するのです。ここでの最大多数の人々とは、恵まれた一部の権力者やエリートたちのことではなく、社会から見放されたような日陰に身を寄せる多数の人々のことです。反権力の姿勢で庶民の側に立ち、弱い人々がこの世を暮らしていくためには、お互いが同世代に生きる人間であるという絆や連帯感が大事だと云うのです。こうして純文学と大衆文学の垣根を取り除こうとします。

「大衆小説を書くが、やがてその中で自分のやりたいことをやる、同じ小説で講談雑誌へ出しても”改造”や”中央公論”へ出してもおかしくないものを仕上げる」と云っています。雑誌改造は主に労働問題、社会問題の記事が中心で、中央公論は自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした雑誌です。

山本さらに云います。「自分の書くものは、よく古風な義理人情といわれる、私が自分が見たもの、現実に感じることができるもの以外は殆ど書かないし、英雄、豪傑、権力者の類には全く関心がない。人間の人間らしさ、人間同志の共感といったものを満足や喜びの中よりも貧困や病苦や失意、絶望の中により強く感じる。」

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心に残る一冊 その94 山本周五郎という作家 その三 血縁や地縁を問い直す

いつの時代もおとなしくしていれば楽に暮らせます。ところがなにかに物言いをつけたり反対したりすると、周りから嫌がらせを受けたり、締め付けとかしっぺ返しがやってくることが多いものです。したがって黙っているのが安全です。

大衆とか庶民という言葉によってくくられる大多数の人々の暮らしの中にそんな側面がよくあります。沈黙や無気力さや長いものに巻かれるような生き方に山本周五郎は黙っていないのです。無気力を思い切ってさらけ出し、人間としての怒りを沸き立たせたのが山本の文学だといわれます。

「怒りという感情の発動とは、自分が生きる主人公であるための、そしてより豊かな人間関係を築いていくための突破口なのだ」と山本は云っているような印象を受けます。私の勝手な憶測ではありますが、、、

この突破口の具体的な事例が、血縁や地縁を問い直すという主張です。江戸時代という封建制度にあって、その秩序を保つ要因は、血縁や地縁ということです。血筋とか出身地ということです。これによって人間の一生が規定されるのが当時の社会です。例を挙げれば我が国の士農工商とかインドのカースト制。こうした制度というのは社会の仕組みを固定させ、社会の発展を阻害し、その結果として安定した社会を維持することに寄与するのです。

山本は、人間にとって最も身近な血縁とか地縁とはいわば内向きの仕組みであると云います。それに風穴をあけ、新しく人と人とを結ぶ心縁、つまり心の絆をもってする家族とか故郷における人間関係の再構築を図ろうとしたことが作品に横溢しているような気がします。山本の作品を読み込んでいくとき、必ずやどこかでこのような新たな人間関係を作りだそうという意図を感じます。これまで紹介してきた「かあちゃん」、「朝顔草紙」、「初蕾」、「菊千代抄」、「いさましい話」、「七日七夜」など、心という縁でつながる物語を解説してきました。