心に残る名曲 その二十八 「シェナンド」Shenandoah

「シェナンド」は19世紀から歌われている合衆国の民謡で、歌詞から「オー・シェナンド」(Oh, Shenandoah)とか「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Missouri)とも呼ばれています。シェナンドは西部へ渡った人がヴァージニア州のシェナンド川またはシェナンド・バレー(Shenandoah Valley)を懐かしんで歌ったとも、そこに住む恋人のネイティブ・アメリカンの娘を焦がれる唄ともいわれます。歌詞からそのことが伺われます。

Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away you rolling river.
Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away, we’re bound away
‘Cross the wide Missouri

Oh, Shenandoah, I love your daughter,
Away, you rolling river.
For her I’d cross your roaming waters,
Away, I’m bound away
‘Cross the wide Missouri.

19世紀に至るまで、富を求めビーバーを捕獲する冒険家や交易商人がミズリー川の西に進出していました。多くはカナダからの毛皮商人です。孤独な旅をしながら時に原住民の女性と仲良くなったり結婚したりします。こうして恋の唄が作られます。

イロコイ・インディアン(Iroquiois)に「Shenandoah」と呼ばれた酋長いました。この酋長の娘と恋に落ちた旅人が歌ったのが「シェナンド」というのが本筋です。この曲を作ったのは、恐らくカナダ人で歌の上手な探検家ではなかったかという説があります。当時の交易手段は河川や運河を漕いでいくことです。そこで荷物を積み運ぶ商人はボートマン(boatman)と呼ばれ、非常に重宝されたようです。

「Shenandoah」はアメリカ史では、アメリカインディアンとして有名な酋長です。そのせいでしょうか、彼の名をつけた街があちこちにあります。この歌は海の上でも歌われ「Sea Shanties」とも呼ばれます。荷役をする人々、錨を上げ下げする人々の舟唄、労働歌のことです。

心に残る名曲 その二十七 Jerusalem(聖歌)

18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake)の詩に、同国の作曲家チャールズ・パリー(Sir Charles Hubert Hastings Parry)が1916年にオルガン伴奏による合唱曲を作ったのが「Jerusalem」です。後にエドワード・エルガー(Edward William Elgar)によって編曲され管弦楽伴奏版も作られました。毎年夏にロンドンで開催されるBBC主催の音楽祭「プロムス(Proms)」の最終夜に、国歌「女王陛下万歳」や第二の国歌とも呼ばれるエルガーの「希望と栄光の国」と共に必ず演奏されます。

「Jerusalem」は事実上のイングランドの国歌といわれています。1981年に作られた映画「炎のランナー(Chariots of Fire)」でもこの聖歌が歌われました。「Jerusalem」の歌詞は次のような内容です。私なりに訳してみました。

And did those feet in ancient time
 Walk upon England’s mountains green?
 And was the holy lamb of God
 On England’s pleasant pastures seen?
 And did the Countenance Divine,
 Shine forth upon our clouded hills?
 And was Jerusalem builded here,
 Among these dark Satanic Mills?

いにしえの時に人々が
 イングランドの緑なす山並を歩いたのか?
  神の子羊もイングランドの心地良い牧ばに顕れたのか?
 雲立ち込める丘に神のみ顔が輝き出でたというのか?
 かつてのエルサレムが存在したのか?
 陰うつで邪なる粉ひき小屋の間に

毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にするポピュラー音楽の祭典、プロムス最終夜にオーケストラに合わせて参加者全員が歌います。

心に残る名曲 その二十六 「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」とボヘミアの国民的作曲家

ヨーロッパの中心に位置するチェコですが、チェコ人音楽家は作曲家としてよりも演奏家として評価されていたといわれます。スメタナらはそのことを意識していたようです。親友であったハンガリー人のフランツ・リスト(Franz Liszt)が創始した交響詩(symphonic poem)をスメタナも書き始めます。交響詩とは管弦楽によって詩的、絵画的内容を描写し表現する一楽章の音楽形式のことです。チェコ人としての音楽作りという一種のナショナリズムが生まれたといわれます。

それ以降はスメタナオペラに目を向け、オペラ「リブシェ(Libuse)」を書き、交響詩「我が祖国」はチェコ民族を賛美するという意図で書かれた作品です。モルダウ(Moldau)は余りにも有名な旋律です。こうした作品と書いた時期は彼の愛国的な情熱が絶頂に達した頃のようです。その後、「売られた花嫁」などでチェコ固有の音楽形式を作り出していきます。

スメタナがボヘミア音楽の先駆者とすれば、ドボルジャークは最初の国民的大作曲家といえそうです。文化や風俗を反映する主題を駆使し、新しい音楽の独自性と独創性を世界に問い直したといえましょう。八つのオペラ、多くの交響詩に祖国の伝説や歴史、英雄、風景さらに思想を取り入れ、他のいかなる国民的作曲家の追随を許しません。

「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」はドボルジャークの傑作の一つといわれています。アイオワ州北東部にあったチェコ人コミュニティとの交わりからできた作品です。いくつかの主題には五音階に傾いています。断然素晴らしいのは第二楽章のゆるやかなレント(lento)。哀愁をたたえはじけるようなヴァイオリンの旋律、他の楽章にも行き渡る活気をあらわしています。
特定の形式や拍子テンポに縛られないスケルツオ(scherzo)は楽章はアイオワ州の森林地帯できいた鳥の鳴き声をメモし、作曲に利用したとあります。

第四楽章には、原始的な特徴、ネイティブアメリカンの歌の断片を取り入れています。ナショナル音楽院のハリーパリー(Harry Parry)という学生の黒人霊歌を聴き、深い関心をいだいたといわれます。その影響を感じさせる曲です。

心に残る名曲 その二十五 チェロ協奏曲ロ短調 (Dvorak Cello Concerto B minor)

ドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作です。ボヘミアの民族音楽と新大陸アメリカの土着の音楽を融和させたといわれるチェロ協奏曲にはいくつかの特徴があります。「ロンド(rondo)」と呼ばれる異なる旋律をはさみながら、同じ主題の旋律をなんども繰り返す形式をとっています。大辞泉ではロンドを「輪舞曲」と名付けていて、Aという主題の旋律が、繰り返し演奏されます。「A B A C A D A」という具合です。さらに、管弦楽の部分が劇的と思われるほど響き渡ります。

第一楽章では早めのアレグロ(Allegro)に始まり、次ぎにまどろむような第1副主題、親しみやすい旋律が流れます。第二楽章では、緩やかに遅く(Adagio, ma non troppo)、民謡風の第2副主題といずれも美しい主題がロンドの形式にそって演奏されます。木管楽器は抒情に溢れた響きを放ちます。ホルンの音も穏やかに流れます。もちろん独奏チェロの技巧性が遺憾なく発揮されます。最終楽章は、第1楽章の第1主題が回想され最高潮に達して全曲が閉じます。

作曲家がチェロ協奏曲を書くのは、それなりの理由があるといわれます。チェリストであったハタッシュ・ヴィハンという友人からの作曲要請があったようです。ですがドヴォルザークにはチェロを協奏曲の独奏楽器としてはあまり効果的でないと考えていたようです。しかし、この曲を聴いていると管弦楽とチェロのバランス、音の混ぜ合わせなどは、彼自身ヴィオラの奏者であったことも伏線にあったような気がします。

この作品は、親しみやすい旋律に満ちていることから、その主題が先住民インディアンや南部の黒人の歌謡から採られたという説があります。この説はともあれ、ボヘミアの民俗舞曲であるポルカ風のリズムも感じられます。チェロ協奏曲の範疇にとどまらず協奏曲という形式でも最高傑作の一つとして評価される作品です。

心に残る名曲 その二十四 ドヴォルザークとスメタナ

交響曲第9番「新世界より(New World)」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ(America)」と並ぶドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作の一つといわれるのが、チェロ(Cello)協奏曲です。協奏曲とは複数の独奏楽器と管弦楽で演奏される多楽章形式の曲です。

ドヴォルザークの故郷はボヘミア(Bohemia)。ボヘミアはとは現在のチェコ(Czech)の西中部地方を指す地名です。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指したようです。首都はプラハ(Prague)です。

1892年9月にドヴォルザークはニューヨークにやってきます。そしてナショナル音楽院(National Conservatory)の院長に迎えられ、講義や作曲に没頭します。ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を調べ、それを自身の作品に反映させたのが「新世界より」とか「アメリカ」です。

ドヴォルザークはスメタナ(Bedrich Smetana)とともに、民族性や地域性と国際的水準との両立を目指した作曲家や音楽家の総称であるボヘミア楽派(Bohemian school)と呼ばれます。特にスメタナは、チェコの独立、チェコ民族主義と密接に関連する国民楽派を発展させた先駆者といわれます。その代表曲が「わが祖国」といわれ、チェコの歴史や伝説、風景を描写した作品といわれます。

心に残る名曲 その二十三 「アンヴィル・コーラス」 イル・トロヴァトーレから

ヴェルディ(Giuseppe Verdi) 歌劇、イル・トロヴァトーレ(IL Trovatore)の合唱は「アンヴィル・コーラス」(Anvil chorus)として知られています。ジブシー(gypsy)の男たちが鍛冶仕事で金床(Anvil )をリズムよくハンマーで叩きながら歌うので、「鍛冶屋の合唱」とも呼ばれています。ジブシーは、かつてヨーロッパ各地にいた移動型の民族のことですが、今はこの言葉は使われません。

イル・トロヴァトーレは、中世の騎士物語ともいわれ、美女をめぐって生き別れになった兄弟の公爵と吟遊詩人の争い、ジプシー女の呪い、母娘二代にわたる復讐といった複雑な舞台劇です。

このオペラは華やかな旋律が歌手たちの声や合唱、管弦楽で満ちています。オペラ史上最大級の作曲家と呼ばれるヴェルディの作品のなかでも、これほど輝かしくも悲劇にふさわしく翳りあるメロディが展開するオペラはそうはないと「Encyclopaedia Britannica」でいわれます。

「鍛冶屋の合唱」は、ジプシーたちが夜明けに歌うことから別名『Coro di Zingari ジプシーの合唱』とも呼ばれています。次のような歌詞となっています。
”Singing the praises of hard work, good wine, and Gypsy women.His lovely Gypsy maid!”

心に残る名曲 その二十三 リヒアルト・ワーグナー

ワーグナー(Richard Wagner)はバッハが活躍したライプツイッヒで育ちます。幼少期から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽で身を立てていきます。ワーグナーは、ライプツィヒ大学(Universität Leipzig)で学び、音楽を学んでからはドレスデン(Dresden)の宮廷楽長とし迎えられます。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバー(Carl von Weber)から強い影響を受けたといわれます。

「ローエングリン(Lohengrin)」、「トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)」といった楽劇(Musikdrama)のほかに、「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer)」という神罰によって、現世と煉獄の間をさまよい続けているオランダ人の幽霊船が喜望峰で遠望されるという物語の曲もあります。神話や伝説に題材にして求め、人間は女性の愛によって救われるという考え方が以上の作品に貫かれています。

自由を圧迫するドイツ社会への失望し、1849年にドレスデンの革命に参加し、ロシアの革命家のバクーニン(Mikhail Bakunin)と交流するなどで指名手配されます。そしてスイスに亡命します。追放は1862年に解除されバイエルン国王の保護で宮廷楽長となります。

ワーグナーは、いくつかの特徴的な旋律で劇中の人物を表現するという手法をとりいれ、巨大な管弦楽法によって分厚い和音や半音階的進行、無限に流れる旋律などを曲に盛り込みます。これが楽劇という形式です。それまでの歌唱とかアリア偏重のオペラに対して,音楽と劇の進行を密にし融合を図った音楽形式といわれます。その形式を確立したワーグナーは「楽劇王」と呼ばれるようになります。

心に残る名曲 その二十二 「兵士の合唱」 ファウストから

フランスの作曲家、シャルル・グノー(Charles Gounod)の作品にドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の劇詩「ファウスト(Faust)」第1部に基づく同名のオペラがあります。

老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆きます。そして服毒自殺を図るのですが思いとどまります。そこに悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が現れ、 ファウストの望みを聞くというストーリーです。このオペラで歌われるのが「兵士の合唱」です。

グノーの作品に合唱曲として「賛歌と教皇の行進曲」があります。バチカンの国歌(National Hymn of Vatican)ともいわれます。彼の作品は、優雅でやさしい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った音楽といわれます。フランス近代歌曲の父とも呼ばれ、は今日も広く愛されています。バッハのクラヴィアを援用した「アベ・マリア」の作曲でも知られています。

心に残る名曲 その二十一 「巡礼の合唱」 タンボイザー WWV70から

「タンホイザー」(Tannhäuser WWV.70)ワーグナー(Richard Wagner)が作曲した全3幕のオペラです。正式な名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sangerkrieg auf Wartburg)といいます。このオペラで良く知られているのは序曲(Overture)、第2幕のエリザベート(Elizabeth)のアリア(Aria)、「大行進曲」などで個別でもよく演奏されています

ところで、ワーグナー作品目録は、Wagner-Werke-Verzeichnis(WWV) といわれています。作品目録は1番から113番までの番号が付されています。バッハの作品の目録である「BWV」と同じです。

「巡礼の合唱」(Pilgrim’s Chorus)ですが、中世のドイツでは、騎士たちの中で吟遊詩人(Minstrel)となって歌う習慣があったといわれます。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲン(Thüringen)の領主の親族にあたるエリザベート(Elizabeth)と清き愛で結ばれていたのですが、ふとしたことから官能の愛を求めるようになります。

我に返ったタンホイザーは自分の行為を悔やみますが、領主はタンホイザーを追放します。そして領主はタンホイザーにローマに巡礼に行き教皇の赦しが得られれば戻ってきてよいと云います。彼は巡礼に加わりヴァルトブルク(Waltburg)城を去ります。

ヴァルトブルク城近くの谷。タンホイザーが旅立ってから月日がたちます。エリザベートは、タンホイザーが赦しを得て戻ってくるようにと毎日祈り続けます。やがてローマから巡礼の一行が戻ってきます。エリザベートはその中にタンホイザーを探すのですが、彼はいません。このとき歌われるのが「巡礼の合唱」です。

心に残る名曲 その二十 グレゴリオ聖歌 その2 その特徴

グレゴリオ聖歌のように歌を典礼に導入する形式は、元をたどればユダヤ教のシナゴーグ音楽(synagogue music)に由来します。ユダヤ教の礼拝儀式ではヘブライ語(Hebrew)による宗教歌が歌われます。それらは旧約聖書の朗唱,祈祷歌,賛歌などでいずれも無伴奏です。ヒンズー教(Hindu)も 同じような形式の歌を礼拝でとりいれています。

グレゴリオ聖歌の特徴としては次のことが挙げられます。
1)無伴奏のユニゾンによって歌われる、一本の単純な旋律なのでプレインソング(plainsong)とも呼ばれる
2)全音階のみを使ってすべての旋律を表現する方法でできている
3)2拍子、3拍子といった拍節がない
4)歌の終り感がない
5)歌詞はラテン語

ミサで歌われる祈りのグレゴリオ聖歌はキリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクタス(Benedictus)、アニュスデイ(Agnus Dei)からなります。

Kyrieとは、「主」を意味し、「Kyrie eleison)」「主よ憐れみ給え」と三度唱和します。7世紀になるとGloriaが加わります「栄光」という意味で、もともと詩篇(Psalm)にある歌詞が引用されます。11世紀頃、Credoが採用され「信条」「信仰」として歌われます。Sanctusは「聖なる」、Benedictusは「恵みある」で初期のキリスト教時代である使徒時代(Apostolic Time)に作られたようです。Agnus Deiは「神の子羊」とされ7世紀の東方教会のミサで歌われ定着しました。

心に残る名曲 その十九 グレゴリオ聖歌 その1 名前の由来

グレゴリオ聖歌(Gregorian chant)は単旋律(monophonic)でユニゾン(unsion)によるローマカトリック教会の典礼音楽です。ミサの中で歌詞に旋律が付けられたものです。590年から604年までローマ教皇であったグレゴリウス1世(Gregorius)にちなみ、770年頃からグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)と呼ばれるようになります。グレゴリウスは聖歌をいわば公認したというわけです。「Chant」とは聖句を詠唱するとか単調な旋律で繰り返し歌う、という意味です。もともとはフランス語です。

フランク王国(Frank)のカール大帝(Charlemagne)らによる古典復興といわれるカロリング・ルネッサンス(Carolingian Renaissance)が起こる800年頃の文化隆盛期に聖歌は大きく育ったといわれます。それは、フランク王国がキリスト教を受容し、グレゴリオ聖歌をミサで使い、王国の運営にも教会の聖職者たちが多くを担ったこともあります。やがて聖歌は西方全域へと波及し、ローマカトリック教会もこれを採用します。

キリスト教の伝統的な聖歌には二種類あります。一つは東方教会で使われるビザンティン聖歌(Byzantine Chant)です。ギリシャ正教会の奉神礼で用いられる歌でギリシャ語世界に存在する聖歌です。西方教会を代表するのがグレゴリオ聖歌です。

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心に残る名曲 その十八 バッハと三つの時代

バッハが特に影響を受けた作曲家の一人がブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)であることを既に述べました。ブリタニカ国際大事典によりますと、1705年に北ドイツにあるルーベック(Leubeck)を訪ね、ブクステフーデの壮麗な演奏と作品に触れたことが彼の音楽的成長に大きな役割を及ぼしたとあります。「トッカータとフーガ 二短調 BWV 565」はその代表です。1708年にワイマール(Weimar)公の宮廷に礼拝堂オルガニスト、兼オーケストラのヴァイオリニストとして迎えられます。「トッカータ、アダージョとフーガBWV564」やコラール前奏曲、「オルガン小曲集BWV599-644」などから、ワイマール時代がバッハの「オルガン曲の時代」と呼ばれる所以です。

しかし、ワイマール公爵家の内紛や楽長の死後、その後任に選ばれなかったことの理由からバッハはワイマールを辞します。そしてハインリッヒ・ケーテン公(Heinrich von Anhalt-Köthen)に招かれます。そこでは世俗的な器楽の作曲と演奏が主な職務となります。有名な「無伴奏チェロ組曲BWV1007」、「ブランデンブルグ協奏曲BWV1046-51」などを完成させます。さらに「平均律クラビーア曲集BWV846-69」「インヴェンション BWV772-80」など多くのクラヴィア曲を作ります。ケーテンでの六年間はバッハにとって「世俗器楽曲の時代」と呼ばれました。

さらに1723年からライプツイッヒ(Leipzig)に移り、聖トーマス教会(St. Thomas)と聖ニコライ(St. Nicholas)教会の音楽監督(カントル)として作曲にも注ぎます。そして「ヨハネ受難曲 BWV145」、「マタイ受難曲 BWV244」、「クリスマスオラトリオ BWV248」、「ロ短調ミサ曲 BWV232」といった「四大教会音楽」を残す活躍を示します。そうした作曲活動からライプツイッヒ時代は「教会声楽曲の時代」と呼ばれるくらいです。

心に残る名曲 その十七 「楽しき狩りこそわが悦び BWV208」

バッハの作曲した「世俗カンタータ(Secular Cantata)」の一つで、通称「狩のカンタータ(Jagdkantate)」と呼ばれています。現存するバッハの世俗カンタータの中では最も古いものです。1713年2月のヴァイセンフェルス公クリスティアン(Christian von Sachsen-Weissenfels)の誕生を祝う祝典曲といわれます。全部で15曲から成ります。

「世俗カンタータ」とは、バロック時代の声楽形式で,一つの物語を構成する歌詞がアリア,レチタティーボ(recitative),重唱,合唱などからなる多楽章形式のものです。小型のオペラまたはオラトリオともいわれます。今日では教会礼拝用音楽としての教会カンタータが有名です。

ブリタニカ大百科事典によりますと、バロック時代を通じての標準的で一般的なカンタータは、世俗カンタータであったようです。第1曲 レチタティーヴォの「楽しき狩りこそわが悦び」は言葉の抑揚に忠実なので朗唱と訳されています。終曲の第15曲は「愛しき眼差しよ」という合唱となっています。

ところで、第9曲はアリア(Aria)「羊は憩いて草を食み(Adagios Sheep may safely graze)」という叙情的な朗唱です。「Adagios」とや「ゆっくり」、とか「長閑と」という曲の表現やテンポを示す音楽用語です。旋律の美しさを重視し、リコーダは牧歌的なテーマを要所で挿入し、ソプラノが伸びやかに草を食む羊を描きます。

羊とは領民をさし、牧童はクリスティアン公を示唆しているといわれています。領民の安寧を導く賢い王となるように願った曲のようです。第9曲はこのカンタータの中で最も知られているといえましょう。

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心に残る名曲 その十六 「インヴェンションとシンフォニア BWV 772-801」

この曲は、バッハのクラヴィアのための曲集の一つです。「クラヴィア」とは鍵盤のことであることは既に述べました。バッハが若き音楽家の育成に主眼を置いて作曲された小品集といわれますが、芸術的に高い音楽ともいわれます。バッハはザックセン(Sachsen)で宮廷楽長として、またライプツィヒにある聖トーマス教会(St. Thomas Church)の音楽監督(トーマスカントルーThomascantor)として長く活躍します。その間、こうした音楽家を育成するいわば教育目的のクラヴィア曲を多数作曲したといわれます。

インヴェンション(invention)とは、「創作」とか「着想」という意味です。シンフォニアは古代ギリシャ語の「symphonia」調和という意味だそうです。16世紀頃になると、曲集の題名に用いられるようになります。器楽合奏による多楽音形式の曲種名ともなります。器楽シンフォニアは、オラトリオなどの声楽曲の器楽前奏ないしは間奏として用いられます。インヴェンションは2声部の、シンフォニアは3声部の、対位法的な形式による様々な性格の小曲でです。シンフォニアは「3声のインヴェンション」と呼ばれることもあります。

バッハは演奏目的だけでなく、作曲も視野に入れた優れた教育作品としたようです。レオポルト・ケーテン(Leopold von Anhalt-Köthen)公に招かれ宮廷楽長として活躍した時代に作ったといわれます。現代のピアノ学習者のための教材としても広く用いられています。また教育作品に留まらず、バッハの他のクラヴィア楽曲と同様、多くのチェンバロ奏者やピアニストが演奏しています。こうした演奏はYouTubeで楽しめます。

演奏者の曲の解釈によって、演奏の内容が異なるのは興味あることです。ですが作曲者の意図がなんであったのかを考えてしまいます。楽譜には作曲者の意図が明確にあらわれています。テンポもそうです。「allegro」は「速く」、とか「活発に」というテンポです。「allegro con brio」は「アレグロのテンポで生き生きと」とあります。この違いを演奏者はそれぞれに解釈するというわけです。

心に残る名曲 その十五 「マニフィカト ニ長調 BWV243」

ラテン語の「Magnificat」とはマリアの賛歌と云われ、カトリック教会の典礼において夕べの祈りの中心をなす歌のことです。ラテン語での名称は「Canticum Beatae Mariae Virginis」といいます。「Canticum」とはキリスト教における聖歌の一つです。歌詞はルカによる福音書(Gospel according to Luke) 第1章46~55節に由来し、〈わが魂は主をあがめ Magnificat anima mea Dominum〉の最初の語の名称に由来します。マリアがバプ   テスマ(Baptisma)のヨハネの母となるべきエリサベツ(Elizabeth)を訪ねたときに受けた受胎告知の祝詞に対して答えた賛美の歌でです。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。

マリアの賛歌のあとには、典礼の中でしばしば使われる「頌栄」(doxology)という賛歌が続きます。祈祷文ともよばれます。聖務日課の晩課で歌われるほか,多声部の作品も多く,オルガン曲にも作曲されています。 プロテスタント教会で使われる頌栄の一つは次のような祈祷文です。

父、御子、御霊の神に、御栄えあれ、
始めも、今も後も、代々に絶えず アーメン

Glory be to the Father, and to the Son, and to the Holy Ghost.
As it was in the beginning, is now and ever shall be, world without end. Amen.

心に残る名曲 その十四 カンタータ第147番 「心と口と行いと生活で」

1716年、バッハはワイマール(Weimar)で待降節(Advent)第四日曜日用に作曲をはじめました。しかし、作曲を中断してライプツィヒ(Leipzig)に移ったのちに改作します。第1部、第2部からなる大規模なカンタータです。ライプツィヒでは200曲のカンタータのうち、実に160曲を作ったというのですから驚きです。

有名な「主よ、人の望みの喜びよ」のコラールが登場するカンタータがこの147番です。1723年に主の母マリア(Mary)訪問の祝日のために作曲したと推測される教会カンタータです。全10曲からなり、終曲のコラールは「主よ、人の望みの喜びよ」となります。ドイツ語では、Jesus bleibet meine Freude、英語では、Jesu, Joy of Man’s Desiring というタイトルがついています。

ルカによる福音書(Luke)1章39節から56節がマリアの賛歌と呼ばれます。この箇所は次のような内容です。

ザカリア(Zacharias)とエリサベツ(Elisabeth)の夫婦は老齢になるまで子どもに恵まれずにいたのであきらめかけていましたが、ザカリアのもとに天使ガブリエル(Gabriel)が現れ「エリサベツが子を産むのでヨハネ(John)と名づけなさい」と告げ、エリサベツは身ごもります。後の洗礼者ヨハネです。
そののち同じように天使ガブリエルから受胎を告知された聖母マリア(Mary)は立ってユダ(Judah)の町へ行き、エリサベツの家を訪ねます。

マリアは、ザカリアの家に入ってエリサベツに挨拶します。エリサベツがマリアの挨拶を聞いたとき、その子が胎内でおどります。エリサベツは聖霊に満たされ声高く叫んで言います。
「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上が私のところに来てくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたの挨拶の声が私の耳に入ったとき、子どもが胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」
するとマリアは言います。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」

エリサベツもマリアも主の言葉を「心と口と行いと生活で」忠実に守り、やがて子育てに尽くす姿を予見しています。

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心に残る名曲 その十三 「G線上のアリア BWV1068」

「管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068」の第2曲「アリア」(Air on G String)が通称「G線上のアリア」です。原曲はニ長調で書かれています。1871年にドイツのヴァイオリニストのヴイルヘルミ(August Wilhelmj)がヴァイオリンの四本の弦の中で一番低いG線だけで弾けるようにハ長調に転調したといわれます。

この曲には「Air」と副題がつけられています。フランス語で「エール」です。英語では「エア」、イタリア語では「アリア」「aria」となります。こうした副題から感じられることは、歌謡的、叙情的な器楽曲であるということです。

ニ長調のアリアは穏やかで清楚な印象を、ハ長調のほうはG線がいぶし銀のように渋く響きます。ヴァイオリンの高い音程の曲を聴くことが多い中、G線だけで演奏されるこの曲は、まるでビオラかチェロで演奏されているような印象を受けます。

 

 

 

 

 

孫のAndersが同じ高校の生徒、石館楓さんと二重奏を弾いています。二人はボストンの郊外に住んでいます。

心に残る名曲 その十二   讃美歌358番「こころみの世にあれど」

昨日、イギリスでのローヤルウェディング(Royal Wedding)を観ました。どうしてこなんにイギリス国民はもとより、世界中の人々がこの結婚式に惹き付けられるのかを思いました。礼拝式の最初で歌われた讃美歌は私の大好きな曲の一つであったので、なおさら印象深い瞬間でした。

この讃美歌は、日本では「こころみの世にあれど」と題するものです。讃美歌集の358番に位置します。プロテスタントの教会では統一した讃美歌です。英語名は「Be Thou My Vision 」。原文にそって訳しますと、「私の光となってください」となります。「こころみの世にあれど」は歌詞の内容をくみとったものです。「Thou」とは「You」のことで神や主を意味します。

こころみの世にあれど、
 みちびきのひかりなる
  主をあおぎ、雨の夜も
   たからかにほめうたわん

Be thou my vision, O Lord of my heart;
naught be all else to me, save that thou art thou my best thought, by day or by night;
waking or sleeping, thy presence my light.

この讃美歌は8世紀ころのアイルランドの古い民謡が元歌です。中世期のアイリッシュの人々で歌われ、やがてそれが広まったといわれます。この詩を作ったのは眼の不自由なアイリッシュだったと言い伝えられています。「Be Thou My Vision 」というタイトルからそれが伺えます。

今や全世界の英語圏の教会で歌われているキリスト教の伝統的な讃美歌です。キリストを愛し従う者に与えられる内なる平安を表現した讃美歌といえます。

心に残る名曲 その十一 スカルラッティ

1600年の後半から1700年の前半に活躍した作曲家にスカルラッティ(Alessandro Scarlatti)がいます。宗教曲や器楽曲もありますが、主なものはオペラやカンタータです。Wikipediaによりますとナポリを中心として活躍したことから、「ナポリ派の父(Neapolitan School of Opera)」と呼ばれたようです。ナポリのあたりでは周りにいた音楽家の師であったとあります。

バッハと同じ年代で活躍したスカルラッティは、カンタータを800曲、オラトリオ、ミサ曲、モテット、マドリガル、器楽曲のコンチェルト、シンフォニアなどを作曲しています。イタリアオペラの典型的な序曲といわれるシンフォニアはナポリで作曲したといわれます。

スカルラッティは、メディチ(Ferdinando de’ Medici)とかスエーデンのクリスティーナ女王(Queen Christina)などの庇護を受けて活躍したようです。こうした富豪や貴族は彼の音楽に心酔していたことが伺えます。さらにカトリック教会での礼拝堂楽長などにも就任します。例えば、ローマの聖マリアマジョーレ大聖堂(Basilica di Santa Maria Maggiore)です。アクアヴィヴァ枢機卿(Cardinal Acquaviva)の推薦といわれます。

スカルラッティの音楽様式は、17世紀および18世紀前半に発達した芸術および建築の様式、イタリアのバロック(Baroque)に代表されます。その特徴は、曲が過度に装飾的で誇張され,派手に飾りたてられていることです。この特徴は絵画や建造でも見られます。バッハはこうした同世代の音楽家からも影響を受けていたことは容易に想像できます。

心に残る名曲 その十 ブクステフーデ

バッハの作品は世界中で知られています。「音楽の父」という名声は揺るぎないものですが、彼の作品を支えた背景にはその才能やたゆみない努力、そして影響を受けた作曲家がいたということです。それがドイツのブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)とかイタリアのスカルラッティ(Alessandro Scarlatti)といった作曲家と云われます。

ブクステフーデは17世紀の北ドイツおよびバルト海 (Baltic Sea) 沿岸地域を統治していたプロイセン(Prussia)を代表する作曲家でオルガニストといわれます。1668年にバルト海に面する北ドイツの代表都市、リューベック(Leubeck)のマリア教会(St. Mary Church)のオルガン奏者となり,終生この地位についた人物です。同教会で以前から行われていた世俗的性格をもつ音楽会〈アーベントムジーク(Abent Musik)(夕べの音楽)〉を続け,オルガン演奏のほか,合唱やオーケストラも含めた大規模なものに発展させるという貢献をします。

平日に行われていたアーベントムジークをクリスマス前の5回の日曜日に移し、オルガンの隣りに聖歌隊を配置し、合唱とオーケストラ40名ほどが演奏するというものです。1705年に20才のバッハもこの催しでリューベックを訪れたといわれます。なおキリストの降誕を待ち望む週はアドベント(advent)と呼ばれています。

ブクステフーデの作曲活動ですが、オルガン曲はプレリュード(Prelude)、フーガ、オルガンコラールなど90曲が現存するといわれます。カンタータも100曲以上が現存し、これらがバッハのカンタータへと発展していきます。他にも世俗声楽曲であるマドリガル(Madrigal)、ハープシコード(harpsichord)やチェンバロ(Cembalo)などの作品があります。

ブクステフーデ作曲で現存する約120曲の声楽曲は、婚礼用の8曲等を除いてすべてプロテスタント教会のための宗教曲となっています。これらの作品は今日、カンタータと呼ばれることも多いのですが当時、宗教曲に対してカンタータという呼称が用いられることはなく、独立した複数の楽章から構成される声楽曲といってもよさそうです。声楽曲における歌詞の形式は、聖書等の散文詩、ドイツ語コラールなどにに分類することができます。

ブクステフーデのオルガン曲を聴きますと、バッハの作品かと思われるほどです。バッハはこの作曲家より多くのことを学んだことが容易に伺われます。