心に残る名曲 その八十 ショスタコーヴィチ その3 「交響曲第5番」

本日、ミルウォーキの近く住む、かつての国際ロータリークラブのスポンサーから手紙がきました。ユダヤ暦の新年の挨拶、ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashanah)と住所変更の知らせでした。ショスタコーヴィチがユダヤ音楽に造詣が深いことを考えていたので、少々驚きでした。

 ショスタコーヴィチがユダヤ音楽の主題を使った歌曲集「ユダヤの民俗詩から」を作曲したのが1948年です。ブリタニカによると、ピアノ三重奏曲第2番の最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されているというのでYouTubeで聴いてみました。預言の音楽,祈りの歌,労働歌,典礼の音楽,哀歌といったものが複雑に混ざった印象を受けます。

ショスタコーヴィチの経歴や作曲歴を音楽事典から引用してみます。
1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで誕生
1915年夏、母親から初めてのピアノのレッスンを受ける
1916年 グリャッセール音楽学校に入学
1919年 ペテルブルク音楽院に入学
1929年 交響曲第3番
1937年 交響曲第5番
1941年 交響曲第7番
1944年 ピアノ三重奏曲第2番
1945年 交響曲第9番
1948年 アンドレイ・ジダーノフ(Andrey Zhdanov)がショスタコーヴィッチはじめ著名な文化人や知識人に対する抑圧政策を主導
1948年 ヴァイオリン協奏曲第1番
1949年 弦楽四重奏曲第4番
1951年 24の前奏曲とフーガ
1962年 交響曲第13番
1971年 交響曲第15番

心に残る名曲 その七十九 ショスタコーヴィチ その2 「ユダヤ音楽への傾倒」

フィンランドのシベリウス(Jean Sibelius)、ロシアのプロコフィエフ(Sergei Prokofiev)と共に、マーラー(Gustav Mahler)以降の最大の交響曲の作曲家といわれているのがショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)です。交響曲だけでなく、多くの弦楽四重奏曲を残し、20世紀最大の作曲家の一人という評価を受けています。「交響曲第5番ニ短調」など、曲全体が暗く重い雰囲気のものが多い印象を受けます。

それでも、交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」は、第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したそのさなかで作曲され、ファシズムに対する戦いと「宿命的勝利」が表現されています。明るい未来や希望を託したような印象を受ける曲です。

ショスタコーヴィチは、マーラーへの興味をはじめとして 交響曲第5番などでユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律を引用したりしています。ユダヤ音楽へ傾倒していたことが伺われます。例えば、交響曲第7番の第1楽章終わりでは、クレズマー旋律(Klezmer)が使われています。クレズマー旋律とは、イディッシュ(Yiddish)とよばれる東欧系ユダヤ、アシュケナジム(Ashkenazim)の民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつです。19世紀後半からアシュケナジムの移民と、第二次世界大戦前後に東欧やドイツを逃れたユダヤ人らが婚礼などの儀式を通して継承してきた音楽のことです。

 

心に残る名曲 その七十八 ショスタコーヴィチ その1 交響曲の作曲家

ロシアの作曲家、音楽家といえば19世紀のチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、そして20世紀はショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)といえるでしょう。もちろん他にも民族主義的な芸術音楽の創造を志向した「ロシア5人組」といわれた音楽家がいます。リムスキー・コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov)もその一人です。民族色豊かなオペラとか色彩感あふれる管弦楽曲を数多く作曲しています。音楽の特徴として、反ヨーロッパ、反アカデミズムを標榜したとされます。それは、ロシアの地からの題材やロシア民謡の要素に基づき親しみやすい作品を書くといった考えです。

ショスタコーヴィチは1919年にペテログラード音楽院(Petrograd Conservatory)に入学します。そこでピアノを学ぶと同時に作曲学の講義を受けます。1927年にはショパン国際コンクール(Chopin International Competition)で高い評価を得ます。しかし、ピアノ奏者としてではなく、作曲活動に邁進していきます。

1937年にはレニングラード音楽院(Leningrad Conservatory)で作曲部門の教師となります。1941年にドイツ軍に包囲されているレニングラードで交響曲第七番を作曲します。一時レニングラードを脱出し、そして1943年にモスクワに居を構えて本格的な作曲活動に入ります。モスクワ音楽院(Moscow Conservatory)とレニングラード音楽院の教師として復帰します。

しかし、作曲活動は容易ではなかったようです。それはソビエト政府が決める音楽のスタンダードに添った作品を書かなければならなかったからです。それでも15の交響曲、多くの室内楽曲や協奏曲などを書いています。

 

心に残る名曲 その七十七 グスタフ・マーラー その3 「1,000人の交響曲」

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の三回目です。アメリカには大勢のユダヤ系の人々が住んでいました。ヨーロッパからのユダヤ系の移民も多かったからです。皆、反ユダヤ主義の迫害を逃れてきた人々です。マーラーにとって異国とはいえ、安らぎを覚えた国であったに違いありません。

 マーラーの作品は交響曲と歌曲に二分されます。テノールとアルトのための歌曲集と云われるのが「大地の歌」です。これはマーラーの晩年の傑作で6つの楽章から成るものです。

さらにマーラーは後年、10の交響曲を作曲します。交響曲第2番から4番では独唱や合唱、そして管弦楽のための大カンタータを作曲します。交響曲第8番変ホ長調ではオーケストラに加えて2つの混声合唱団、児童合唱団、8人の独奏者、そしてパイプオルガンが加わります。その規模を指して「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。1時間半の「半端ではない」演奏です。

 

心に残る名曲 その七十六 グスタフ・マーラー その2 反ユダヤ主義の台頭

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の二回目です。1880年頃から指揮者としてチェコの地方劇場で演奏します。得意のレパートリーとしていたのがワーグナー(Richard Wagner)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)です。1891年にはハンブルグ市立歌劇場(Hamburgische Staatsoper)の首席指揮者となり、ハンブルグ管弦楽団(Philharmoniker Hamburg)を率いて演奏します。さらに1897年には、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper )の総監督に就任。ヨーロッパ音楽界の最高の地位に就きます。

その頃からヨーロッパでは反ユダヤ主義が急成長していきます。反ユダヤ主義者がウィーン市長になると、マーラー批判を繰り広げていきます。マーラーはユダヤ人であることを意識しながら、ワーグナーの反ユダヤ主義の政治思想から距離をとっていきます。そして、ユダヤ教からカトリックに改宗するのですが、反ユダヤ主義者は、「ゲルマン文化の冒涜者」としてマーラーをウィーン宮廷歌劇場の総監督の座から下ろすのです。

マーラーは後年、10の交響曲を作曲するのですが、どれもウィーンの古典派の伝統に基づきながらも、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽の世界を開拓するという意図が反映されているといわれます。交響曲第8番はその代表です。「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。しかしながら、芸術上の冒険をあまり好まないウィーン市民の気質との確執で、マーラーはウィーンを離れることを決心したようです。

反ユダヤ主義者に攻撃されたマーラーは、1907年12月にニューヨークへ渡ります。そしてメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)やニューヨークフィル(New York Philharmonic)の指揮者として活躍し始めるのです。

心に残る名曲 その七十五 グスタフ・マーラー その1ユダヤの家系

オーストリアの作曲家にグスタフ・マーラー(Gustav Marhler)がいます。1860年生まれです。20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで活躍した指揮者であり作曲家です。

オーストリア帝国に併合されていたボヘミヤ(Bohemia)の寒村カリステ(Kalischt)で、ブランデーの製造を営むユダヤ人家庭で育ちます。4歳のころからピアノを学び音楽の才能を示します。その後、イグラウ(Iglau)tという街にあるギムナジウム(Gymnasium)に入学します。ギムナジウムというのは中高一貫校のようなものです。

その頃から、彼は、もともとチェコ人(Czech)でありながらドイツ語を話し、国籍がオーストリア人でありながら、ユダヤ人であるという人種の葛藤を経験します。それが後の作曲活動や作品にも影響を与えることになります。

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心に残る名曲 その七十四 アントニエッタ・ステッラと二人のライバル 

ステッラは、1950年代から1960年代に活躍したイタリアの代表的な歌手です。彼女の活躍した時代には、二人の巨星といわれるソプラノ歌手がいました。マリア・カラス(Maria Callas)とレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)です。少し割を食ったのが、ステッラを含めた同じ世代のソプラノ歌手といえそうです。ステッラは、NHKイタリア歌劇団公演で3度にわたり来日しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性の声の種類は、ソプラノ、メゾソプラノ、そしてアルトに分けられます。ソプラノにはいくつかの種類があります。よく聞くのがコロラトゥーラ(coloratura)で、歌いが速くコロコロと転がすような装飾が付くのが特徴です。もう一つはスピント(spinto)といって、情熱的で激しい感情をあらわす声のソプラノです。スピントのソプラノ役柄は例えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)、「トロヴァトーレ」(Trovatore)、「ドン・カルロ」(Don Carlo)といった歌劇でしょう。

ステッラもマリアカラスもスピントの歌手といえそうです。19世紀中頃からのロマン派オペラから多く現われています。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)やプッチーニの歌劇での歌唱で知られています。

 

心に残る名曲 その七十三 歌手アントニエッタ・ステッラ

1960年代の学生時代に僅かの小遣いを使って、中古のLPレコードを始めて買いました。手にしたのが、『ラ・ボエーム』(La Bohème)という歌劇のレコードです。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo A. Puccini)の作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラです。ジャケットに美しい女性が載っていました。それがイタリアのソプラノ歌手アントニエッタ・ステッラ(Antonietta Stella)です。

 19世紀、パリのカルチェラタン(Latin Quarter)には、貧しい学生や芸術家が多く住んでいます。主人公のミミ(Mimi)もその一人です。貧しいお針子(seamstress)です。そこのアパートに一緒に住んでいたのが詩人・ロドルフォ(Rodolfo)です。彼も貧しく火の気の無い部屋で仕事をしています。暖炉に入れて売れ残りの原稿をくべて寒さに耐えています。二人ともボヘミア(Bohemia)からの移民のようです。 「Bohème」とはボヘミア人という意味です。

あるときミミがロウソクの火を借りにロドルフォの部屋のドアをたたきます。ロドルフォが開けると、ミミはめまいがして床に倒れ込むのです。介抱されたミミは火を借りて礼を言い、戻ります。そのときミミは鍵を落としたことに気がつき戻ってきます。戸口で風がローソクの火を吹き消してしまいます。暗闇で二人は鍵を探すのです。ロドルフォが先に見つけそれを隠してミミに近寄ります。それから彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人だと云って聞かせるのが「」冷たい手を(Icy cold hand)」です。続いてミミも自己紹介をして歌うのが「私の名はミミ(They Call Me Mimi)」です。

やがて二人の愛情のこもった二重唱で幕がおります。

心に残る名曲 その七十二 グリークと「ピアノ協奏曲イ短調」

グリーグによる唯一のピアノ協奏曲(Concerto in A minor)です。1868年デンマークのSollerodに訪問している時に作曲されたグリーグ初期の傑作といわれます。たった一曲のピアノ協奏曲とは珍しいことです。我々日本人の琴線に触れる旋律がこの曲にはあります。色彩豊かな旋律、金管楽器の壮麗な演奏、ピアノ奏者でもあったグリークは繊細なメロディをピアノに添えています。

第一楽章 Allegro molto moderatoは、やや早めの楽想です。ティンパニーに続いてピアノが響き、そして管弦楽でテーマが演奏されます。ソナタ形式のよりテーマが繰り返されます。甘い旋律のテーマはしびれる程です。第一楽章は12分の演奏です。第二楽章Adajoは北欧の自然や村、フィヨルドを思い起こさせるような優雅な曲です。第三楽章Prestは、文字通り軽快で速い演奏です。終章には新たな抒情的なテーマ曲がピアノで演奏されます。管弦楽が国歌とも思えるメロディを奏でて終わります。

 

心に残る名曲 その七十一 グリークと「抒情小曲集」

グリークはライプツイッヒ音楽院での留学後、帰国してベルゲン(Bergen)でピアニストや作曲家として活躍します。次第にドイツやデンマークのロマンティックな語法から離れ、やがてノルウェーの国民主義的形式に向かいます。故郷の民俗音楽的要素に基づく作曲活動をしていきます。ノルウエーの民俗音楽に創作の原典を見いだし、やがて種々の編曲を通じて国民的な音楽の基礎を築きます。そして母国の民謡や舞曲を芸術的なものに高めるのです。

 グリークは1871年に音楽協会を設立します。グリークの作曲の特徴は、小規模な歌曲やピアノ曲において最も発揮されているようです。1867年から1903年にかけて作曲した全66曲からなる「抒情小曲集」第3集があります。その中の「春に寄す」という曲は、春の息吹とノルウェーの美しい情景が目に浮かぶ抒情的な作品です。「2つのノルウェー民謡による即興曲」、「ノルウェーの踊りと歌」といったピアノ独奏曲もあります。歌曲では「山とフィヨルドの思い出」、合唱曲アルバムでは「ノルウェー民謡による12曲」が知られています。

 

心に残る名曲 その七十 グリークとドイツロマン派音楽 

先日、鬼籍に入った囲碁仲間がいます。入院している病院に見舞いに行ったところ、前日の早朝に亡くなられたとか。もう少し早めに見舞うべきでした。

ペール・ギュント(Peer Gynt)の物語に放蕩息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)の死の曲があります。管弦楽の荘重な響きが悲しみを伝えています。葬送曲といえばいろいろなジャンルがあります。代表的なものはレクイエム(Requiem)がです。鎮魂歌ともいわれ、死者の安息を願うミサ曲です。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「レクイエム ニ短調」が有名です。葬送行進曲もあります。葬儀に死者を運ぶときに使われます。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「英雄」の第2楽章が知られています。

さて、グリークの作品の特徴です。彼の両親はスコットランド系とドイツ系で、母親はピアノを弾いていたのでその薫陶を受けます。1858年にライプチッヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)に4年間留学します。この音楽院は、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)によって創立されたとあります。そこで和声対位法、作曲法などを学び、特にシューマン(Robert Schumann)らのドイツロマン派音楽の影響を受けます。1868年、グリークがデンマークで25歳のときに作曲した「ピアノ協奏曲イ短調作品16」はロマン派音楽の香りが濃く漂います。

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方を組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」 

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

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心に残る名曲 その六十八 グリークと「北欧のショパン」

私は1971年に家族とともに沖縄に出掛けました。そして那覇で「丘の上幼稚園」を開設しました。本土復帰の翌年の1973年のときです。幼稚園は那覇市外を見下ろすことのできる上之屋というところにありました。園庭の隣りには市の泊浄水場がありました。

那覇は、赤いデイゴやハイビスカスと紺碧の空、そしてエメラルドの海で朝が始まります。幼稚園の朝はいつも同じ音楽を流しました。それがグリーク(Edvard Hagerup Grieg)の有名な組曲「ペール・ギュント(Peer Gynt Suite)」の第一曲である「朝(Morning Mood)」でした。オーケストラの伸びやかで爽やかな旋律が園庭に広がりました。

「北欧のショパン」と呼ばれるのがノルウェー(Norwegian)の作曲家グリークです。数多くのピアノ小品を残したからです。1843年にベルゲン(Bergen)生まれます。やがて壮大なクラシック音楽の数々を世に送り出していきます。本人も卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、沢山の自作をヨーロッパ各地で演奏したようです。

「ペール・ギュント」は、数あるグリーグの作品の中で最も知られています。同じノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen)の戯曲が「ペール・ギュント」です。グリークはその付随音楽として作曲します。

 

心に残る名曲 その六十七 チャイコフスキーと日本人 その十三 ドン・コサック合唱団とアメリカ

ドン・コサック合唱団の名称は、ドン川からつけられています。この川はモスクワの南東から始まり、南西へと向かい約2,000kmを流れる大河です。ところでコサックの生き方を題材とした「静かなるドン」があります。ミハイル・ショーロホフ(Mikhail Sholokhov)の作品です。彼はソビエトを代表する作家といわれます。ロシア革命に翻弄され、黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の物悲しい生きざまを描いています。

ソフィア(Sofia)からオーストリア(Austria)の首都ウィーン(Vienna)へと演奏の旅を続けます。1923年7月にウィーンで開いた演奏会は大賛辞をもらい、その後一万回の演奏会へ続きます。1926年にはオーストラリア(Australia)での演奏旅行をし、そのときサーヴァ・カマラリ(Savva Kamaralli)というリードテナー(lead tenor)がオーストラリアに定住することを決意するという出来事もあります。1930年にはアメリカでの演奏旅行を始め、1936年には団員全員がアメリカの市民権を取得することになります。

ドン・コサック合唱団の指揮者はセルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff )です。腕を少し動かし、手の平と指で団員に指示を与えます。指揮者にありがちなダイナミックな指揮と違い、少しも派手ではありません。団員一人ひとりが豊かな声量を有しているので大袈裟な身振りは必要がなかったようです。

 

心に残る名曲 その六十六 チャイコフスキーと日本人 その十二 ドン・コサック合唱団

第二次大戦後、日本にも何度も訪れ演奏会を開いたドン・コサック男声合唱団のことです。この合唱団はいわば男声合唱の世界では先駆的なグループといえるでしょう。その後、ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)、ロジェ・ワグナー合唱団(Roger Wagner Chorale)、ノーマン・ルボフ合唱団 (Norman Luboff Choir)などが結成されます。ドン・コサック合唱団は1930年代から50年代にかけてアメリカで人気を得ます。コサックの衣装をまといロシアの聖歌やオペラ曲、軍歌、民謡などをアカペラで歌いました。

歴史を1920年代に戻しましょう。コサック隊は帝政ロシアの側について農民運動などを鎮圧していくのですが、内紛でボルシェビキによって組織された赤軍との争いでコサック隊は完全に制圧されます。そのため隊員は各地に逃れていきます。コサック隊員はイスタンブールの近くにあったシリンジア(Cilingir)というトルコの捕虜収容所で合唱団を組織するのです。これがドン・コサック男声合唱団の始まりです。そして教会での礼拝で歌い、やがてギリシャのレムノス島(Lemnos)という淋しい街に移動します。その島を領有していたのはイギリス軍ですが、野外コンサートでは大変な人気を得ます。その合唱団の指揮をしていたのが元ロシア帝国軍人、セルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff)です。

その後、ドン・コサック男声合唱団はブルガリア(Bulgaria)のバーガス(Burgas)という街に移ると、そこでロシアの公使から教会附属の合唱団になるように勧められます。教会は貧しく、テント生活をしていた隊員を十分に支えることができませんでした。隊員は歌う傍ら働くことを余儀なくされます。そして、首都のソフィア(Sofia)でようやく宿舎が与えられるのです。1923年6月にソフィアの大聖堂アレキサンダー・ネフスキ教会 (Alexander Nevsky Cathedral)で公のデビュを果たすのです。

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心に残る名曲 その六十五 チャイコフスキーと日本人 その十一 ボリシェヴィキの一党独裁

ロシア帝国は官尊民卑の風潮が強く、至るところで官等、制服、勲章がものをいう時代だったと云われます。身分制度による差別がやがて農民や労働者の蜂起につながっていきます。運動はさらに内戦状態へと移ります。

多数派と呼ばれたボリシェヴィキは、戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策をとります。この理由はこの内戦を戦い抜くためという大義がありました。あらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除く、すべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などから成っていました。

この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わります。ロシア経済は壊滅的な打撃を受け、農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こします。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになります。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んだと云われます。

この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めていきます。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化されます。レーニンによって十月革命直後の1917年12月に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織チェーカ(Cheka)は裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられます。1918年8月には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こします。これをきっかけに革命勢力や反政府勢力、共産主義政府が起こすテロである「赤色テロ」を宣言して対抗します。他方、復古勢力や政府が起こすテロは「白色テロ」と呼ばれました。秘密警察組織

退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺されます。ロマノフ王朝の完全な消滅です。

心に残る名曲 その六十四 チャイコフスキーと日本人 その十 ステンカ・ラージン

ロシアの工業も農民の労働力に大きく依存していました。農民は、工場に買われた占有農民、工場に編入された編入農民に分かれます。いずれもほとんどが出稼ぎ農民だったといわれます。19世紀末にも工業や建設の労働者の大半は出稼ぎ農民でありました。やがて重工業の熟練労働者を中心に完全な都市労働者の階層がうまれ、労働運動に影響を及ぼしていきます。

農民運動は民族運動と結びつき、大量の農民逃亡が起こります。それを押さえ込むために、帝政ロシア政府は各地で暗躍し始めたコサック兵(Cossacks)の取り込み政策を行い成功していきます。コサックとは、没落した欧州諸国の貴族、逃亡した農奴、遊牧民の盗賊で形成された独特の軍事的共同体のことです。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動や革命の鎮圧などを行っていきます。

日本でも知られるロシア民謡に『ステンカ・ラージン(Stenka Razin)』があります。コサックの指導者の一人で、モスクワの総主教や金持ちの商人の積荷を積んだ船団を撃破するなど、農民だけでなく下層階級の支持を受けるようになります。やがてステンカ・ラージンは、帝政に対して蜂起し、ロシアの貴族や官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」の樹立を宣言します。カスピ海にも乗り出したステンカ・ラージンは、ペルシアの沿岸を荒らしていきます。そして遂にはペルシア艦隊を撃滅し、いわばステンカ・ラージンは手のつけられない存在となっていきます。ステンカ・ラージンは反政府の武装蜂起を公然と開始します。

ドン・コサック(Don Cossacks)のことです。はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加しし、露土戦争やクリミア戦争での活躍が知られています。名称は、根拠地を流れるドン川に由来するといわれます。祖国戦争でも7万のドン・コサック兵がナポレオン軍と闘います。モスクワ総主教がラージンを破門したと聞いたドン・コサックもラージンに叛旗を翻します。

ドン・コサックは、軍役のほかに警察業務を担当していたことから、体制派とか帝政派の支持者、民衆の弾圧者、また革命への反逆者というイメージが強く形成されたようです。ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守り、その結果、ボリシェヴィキとの戦争で赤軍に敵対します。そのため、革命時期には内紛によりドン・コサックは白軍と赤軍に分かれ、白軍は敗れていきます。白軍には革命への反逆者としての汚名が残ります。

心に残る名曲 その六十三 チャイコフスキーと日本人 その九 身分制度と農奴

ロシア革命の歴史を辿りますと、この国の複雑な身分制度が大きな要因になっていることがわかります。ロシア帝国は住民の身分的な編成を特徴としています。農村共同体の維持や強化、身分別選挙なで身分差別は維持されていました。

人頭税の導入も特徴といわれます。ロシア社会は大きく二つに分けられます。僧侶と貴族、名誉市民は人頭税と徴兵を免除されていました。19世紀末には、人口の7割以上がロシア教会に所属していました。独身の黒僧(修道士)と家族持ちの白僧に分かれ、主教などの教会上層部は黒僧によって占められていました。貴族は世襲貴族と一代貴族があり、後者は軍隊や官庁で一定の官位に昇進した者です。さらに上位に昇進すると世襲貴族となります。

ロシア帝国は農業国です。人頭税もはじめは都市住民が3%、残りの97%は農民が負担していました。農民の2割は国有地で、3割は教会領に住んでいました。国有地の農民は自由農でこれに対して貴族所領の農民は「農奴(serf)」と呼ばれていました。農奴制は18世紀になると強化拡大され、世紀末には農民の6割、総人口の約55%が農奴でありました。領主による扱いも家畜並みだったようです。

19世紀後半には、人口の増加で土地が不足が深刻化し、農業危機が起きます。農村の過剰人口はシベリアなどの辺境や国外へと大量に移住していきます。やがて農民運動が起きるのです。

心に残る名曲 その六十二 チャイコフスキーと日本人 その八 ロシア革命と僧侶ラスプーチン

ロシア革命の経過は、調べれば調べるほど複雑です。革命と新しい国作りには産みの苦しみがあるということでしょう。現在放映されている大河ドラマ「西郷どん」もそうです。国を愛し、故郷を愛し、人を愛し続ける闘士が登場します。たくましさと生命力がいずれの革命の指導者に感じられます。チャイコフスキーはこうした思想の変化をどのように感じていたでしょうか。

ロシアでは内戦中が起こります。覇権争いです。ロシアの反革命分子の政府も宣言されます。旧軍の将校が各地で反革命軍として軍事行動を開始します。総称して白軍と呼ばれます。複雑なのは緑軍のように、多数派と呼ばれたボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も生まれるのです。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約(Treaty of Brest-Litovsk)締結後に軍事人民委員となっていたトロツキー(Lev Davidovich Trotsky)は赤軍を創設して戦っていきます。

臨時政府は、ケレンスキ(Aleksandr Kerenskii)が法相として入閣し、自由主義者中心の内閣となります。臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ(Mikhail Aleksandrovich)大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公はこれを拒否し、皇帝(ツァーリ)につくものが誰もいなくなります。皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた伝説的な僧侶、ラスプーチン(Grigorii Rasputin)が皇族や貴族のグループによって暗殺されたりします。そしてロマノフ(House of Romanov)朝は崩壊します。