ヨセミテ国立公園での休暇 その8 自然保護の父–John Muir その3 国立公園に格上げ

ジョン・ミューア(John Muir)はヨセミテの大自然に魅了されたばかりでなく、自然の驚異と人間の営みについての原稿や著作を発表していきます。New York Tribune, Scribner’s, Harper’sといった出版社が原稿を引き受け、自然や環境についての著作が世の中にでるのです。科学界からも注目され、彼の出版物は世間でも広く読まれるようになります。著作はミューアが自分の足で歩き観察したことが題材となっています。

こうして作家、植物学、地質学にも精通したミューアは、シエラネバダ山脈の地形が氷河作用に深く関わっていることを発表します。1848年から1855年代ゴールドラッシュ(Gold rush)の頃で、西部開拓の人口が急増します。人々は、豊かな森に豊富な水をたたえたヨセミテの地で森林伐採やダム建設を計画していきます。ミューアはこうした世相の流れに真っ向から異議を唱えていきます。

1890年、イエローストーン(Yellowstone)が唯一の国立公園でした。そのころヨセミテ公園は州立公園だったのです。ミューアは、国立公園への格上げの運動を始めます。彼の著作が多くの人々の賛同を得ます。さらに支援団体が議会に対して格上げのロビー活動をしていきます。

他方、森林業の団体は、保護する資源は無駄遣いになっているとして格上げに反対するのです。こうした反対活動にもかかわらず、ヨセミテとセコイア(Sequoia)は国立公園として指定され、自然保護の対象となっていきます。

1901年には、ミューアは自然保護団体の人々とルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領にホワイトハウスの執務室(Oval Office)で会い、自然保護地域の拡大を訴えるのです。1903年にルーズヴェルトとミューアはヨセミテ峡谷でキャンピングをし、一帯の148ミリオンエーカー(6029平方キロ)の森を保護の対象とします。ルーズヴェルト政権下では全米の国立公園の数が二倍になるのです。国立公園の理念を確立させたのがルーズヴェルトといわれている所以です。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その6 自然保護の父–John Muir その1 ウィスコンシン大学での学び

アメリカのナチュラリスト(naturalist)の草分けとか「自然保護の父」と呼ばれたジョン・ミューア(John Muir)を数回にわたり紹介することにします。

ミューアは、1838年にスコットランド(Scotland)のダンバー(Dunbar)という街で生まれます。後年、1892年、彼がンフランシスコ市に創設した「Sierra Club」という自然保護団体の資料によりますと、ミューアは幼少から冒険好きでいつも野外で遊んでいたといわれます。海岸沿いにあった小さな学校で学びます。

1849年に家族と共に移民としてアメリカに渡ります。落ち着いたところはウィスコンシン(Wisconsin)の真ん中あたりにあるポーテージ(Portage)の近くにあるHickory Hill Farmという小さな街です。

やがてミューアはウィスコンシン大学に入り、哲学、科学、文学などに触れることになります。丁度、その時代の思想家、哲学者であり作家、詩人であったエマーソン(Ralph Emerson)やソーロ(Henry D. Thoreau)から深い感化を受けます。しかし、学びでの途中でウィスコンシン大学を退学し、インディアナポリス(Indianapolis)にあった金属部品工場で仕事に就きます。その間の経緯はよくわかりません。

ヨセミテ国立公園での休暇 その5 ヨセミテ渓谷の滝

ヨセミテ峡谷(Yosemite Valley)は、狭い地域に多数の滝が集まっているのが特徴です。なぜか滝は人々を惹き付けます。生き物のような姿だからでしょうか。

この峡谷はもとはといえば氷河でした。すり鉢のような渓谷です。そのため急峻な崖、氷河の段差、氷河の本流に向かって落ち込んでいる支流の谷などが多いのです。雪解けの4月から6月にかけては滝が生まれる条件が揃っていて、観光客を楽しませてくれます。

ヨセミテ渓谷にある739メートルのヨセミテ滝(Yosemite Fall)は、北アメリカで最も高い滝です。二つの滝からなり、Upper Yosemite Fall は436メートル、Lower Yosemite Fallは98メートルとあります。同じくこの渓谷にあるリボン滝(Ribbon Fall)は、落差は491メートルです、水が一気に垂直に落下する距離においては最も高い滝です。エルキャピタンの西にあり、落ち口はヨセミテ滝よりも60m高い所にあります。しかしこの滝の寿命は短く、たいてい7月上旬までには干上がるといわれます。

ヨセミテ渓谷の中でも有名なのが、ワウォナ(Wawona)トンネルの東出口のトンネル・ビューポイント(Tunnel Viewpoint9から見えるブライダルベール滝(Bridalveil Fall)です。落差188メートル で、1年中水が流れています。そのほか公園内には一時的に生まれて消える滝が何百とあるとパンフレットにあります。幻の滝というわけです。

ヨセミテ渓谷に住んでいたのは、アワネーチー族(The Ahwahneechee)という原住民です。人々は滝を意味する”Cholock”という表現を使っていました。アワネーチー族の一つの伝承(Ahwahneechee Legend)があります。滝壺にはいくつかの悪霊が住んでいて、Polotiと呼んでいました。あるときアワネーチーの女が川に水を汲みに行ったとき、悪霊がいるという滝壺の辺りに入り一匹の蛇を捕まえます。その夜、女の住む家がつむじ風で滝壺に巻き込まれ、女と乳飲み子も呑み込まれたということです。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その4 多様な動植物の生息地

7月17日にヨセミテ国立公園周辺で発生した大規模な山火事は、狩りをしていたハンターが火をおこし、燃え広がったのが原因と発表されています。通常なら、夏の観光シーズンで世界から多くの人が訪れ、にぎわいを見せるこの国立公園が今、ほぼ無人化しています。観光客にも業者にも大打撃です。山火事による煙が、公園内の観光名所を覆っています。

山火事の被害は、動植物にも及びます。ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ(Sierra Nevada )山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地で、生物の多様性を育んでいると案内書にあります。

以下、案内書の記述です。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っています。それぞれ低木・オーク林帯 (chaparral/oak woodland)、低地・低山植生帯 (lower montane)、高地・低山植生帯 (upper montane)、亜高山帯 (subalpine)、および高山帯 (alpine) です。カリフォルニア州には7,000種の植物が見られますが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られるというのです。

さらに、160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテのたぐいまれな地質学的な形成過程と特異な土壌が寄与しているとされます。また、アメリカグマ(Eastern black bear)や、アライグマ(Raccoon)などの哺乳類が約100種類以上生息しています。

ヨセミテ国立公園には、四季を通じておおよそ262種の鳥が住み着いたり渡ってきます。ロビン(American robin)、キツツキ(acorn woodpecker)、 黒鳥(red-winged blackbird)、フクロウ(great gray owl)、川ガラス(American dipper)、アメリカゴガラ(mountain chickadee)、 ゴジュウカラ(red-breasted nuthatch)、、ステラーカケス(Steller’s jay)の鳴き声はうるさいほどです。「ジェイ、ジェイ」と鳴くのでこの名がついています。ぴんと張った鶏冠が特徴です。別名、ブルージェイ(Blue jay)とも呼ばれます。

ヨセミテ国立公園での休暇 その3 「Giant Sequoias」

ヨセミテ国立公園は、合衆国国立公園局(National Park Service, NPS)が管理しています。Park Rangerというつばの広い帽子をかぶったガイドが働いているのをご存知の方が多いでしょう。私の家族は5日間過ごしたのですが、ほとんどの観光客は日帰りです。自動車で公園内に入るには一台20ドルの入園料を払います。一度支払うとその日だけですが、何度でも出入りできます。そして日帰の人たちは、車で簡単に行けるヨセミテ渓谷の主要ポイントだけを回るようです。

ヨセミテ渓谷では、駐車場所を確保するのは非常に難しいので、年間通して無料のシャトルバスが走っています。20分毎の内回りと外回りのバスは結構混んでいます。

ヨセミテ公園は1890年、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)に次いでアメリカで二番目の国立公園に指定されます。1856年にヨセミテを訪れ住みついていたのが、ガレン・クラーク(Galen Clark) という人です。彼は住んでいたワオナ(Wawona)の近くでジャイアント・セコイア(Giant Sequoias)の森を発見、その後50年以上の人生すべてを熱心な保護活動に費やした人とあります。

セコイアはヒノキ科(またはスギ科)の樹です。平均的な樹高は80メートル、胸高直径5メートル、樹齢は400年から1300年ほどで、2200年のものが現在知られる最高齢とされています。厚さ30センチに及ぶ樹皮や芯材の色からレッドウッド(Redwood)とも呼ばれています。この樹皮と木質部はタンニンを多く含み、病原菌や白アリの侵入を拒んでいます。とても良い香りがします。

ヨセミテ国立公園での休暇 その2 「El Capitan」

MacintoshのOS Xは「El Capitan」 と呼ばれています。アップルが開発したOS Xシリーズの12番目のものです。実はこの名称は、ヨセミテ国立公園の代表的な花崗岩の巨大な一枚岩からつけられています。朝日があたるこの一枚岩の壁紙が画面を楽しませてくれています。

「El Capitan」 とはスペイン語「岩の族長」からとった名称です。この一枚岩は、ヨセミテ渓谷の北側にそそり立ち、渓谷の谷床からは約1,000メートルあります。世界一の大きさで、ロッククライミングの名所として知られています。登頂には、平均4日から6日がかかります。世界のより難しい山のクライミングに向けた格好の練習場所となっているとあります。

他に、花崗岩ドームとして知られるのがハーフドーム(Half Dome)です。渓谷の底から約1,470メートル、25キロから30キロの道のりで、健脚の人でも往復10時間から12時間位かかります。「午後3時まで頂上に達しないときは引き返しなさい」とパンフレットに書かれています。

「El Capitan」 を谷底から遠望すると豆粒のようなクライマーが登っています。ロッククライミングをしなくても、1日がかりで頂上まで歩いて行けるトレイルも整備されています。わたしたちは、あちこちのトレイルを歩きましたが、「El Capitan」 までは挑戦しませんでした。孫達は「El Capitan」 に登りたかったようでした。

ヨセミテ国立公園での休暇 その1 大規模な山火事が

「心に残る名曲」は少しお休みします。

今、カリフォルニア州の東側に広がるヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)は、再び大規模な山火事に見舞われています。私は家族とでヨセミテ公園で一週間の休暇を楽しみました。山火事が発生する前の7月1日から6日の間です。この時期を選んだのは、ボストンにいる長男で、集まった13名の一族が生活するロッジを予約できたからです。ここで3食の食事を作り長閑と過ごすことができました。

ヨセミテ公園に行くにはサンフランシスコで車で4時間、ロサンゼルスからは約6時間のところにあります。マリポサ郡(Mariposa)及びトゥオルミ郡(Tuolumne)にある自然保護を目的とした国立公園です。ヨセミテ公園は、スペイン語で「雪の山脈」と呼ばれるシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の中央部に位置し、公園の面積は3,081平方キロメートル。ちなみに日本で最も広い大雪山国立公園は2,268平方キロメートルです。Yosemiteとはネイティブ語で「灰色熊」という意味だそうです。ここには年間350万人以上が訪れるのですが、そのほとんどが集まるのは、公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(Yosemite Valley)です。私たちが泊まったロッジから車で一時間のところです。

1984年に世界遺産に登録され、急峻な白い花崗岩の絶壁、数百メートも流れ落ちる多くの巨大な滝、谷間を流れる澄んで冷たい大小の川、ジャイアントセコイア(Giant Sequoias)の巨木の林、生物の多様性によって、世界的に知られることとなります。公園全体の約95パーセントは原生地域に指定されています。

心に残る名曲 その五十 チャイコフスキーと日本人 その二 ロマノフ王朝

チャイコフスキーは、1860年代の革命思想の高揚の時代と、それに続く反動的な悲観的時代に生きた作曲家です。音楽院時代は、ルビンシュタインの家に寄宿し、ルビンシュタインが主宰する芸術家サークルを中心に、作家、詩人、音楽家、俳優、学者らと知遇をえます。彼の作曲の出版を引き受けたのがロシア最大のクラシック音楽の楽譜出版社ユルゲンソン(Pyotr Yurgenson)との出会いも幸いしたといわれます。

交響曲第4番と5番は「宿命」の主題に貫かれながらも、民族的な楽曲の喜びに達したといわれます。第4番の第一楽章(first movement)は暗さのなかにロシアの将来を暗示するかのような劇的が印象を与えてくれます。

晩年のチャイコフスキーは次々と作品を残します。1887年の組曲第4番、1888年の交響曲第4番、1889年の眠れる森の美女、1890年のオペラ、スペードの女王、1892年のくるみ割り人形、1893年の交響曲第6番「悲愴」などです。ロシア革命がひたひたと迫る頃です。

心に残る名曲 その四十九 チャイコフスキーと日本人 その一 音楽院時代

今回はロシアの作曲家チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の話題です。チャイコフスキーといえば「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」などのバレー音楽が知られています。明るく軽やかな印象を受ける曲です。それが日本人にはチャイコフスキーが親しみやすい作曲家として定着している理由でしょう。しかし、チャイコフスキーの曲想はバレー音楽のように華やかではありません。実は絶望と歓喜というロシア独特の風土によって揺れ動いた作曲家なのです。

小さいときから家庭教師について音楽を学び、ピアノと音楽理論に触れます。母親も美しい声の持ち主で、チャイコフスキーもピアノでの即興演奏を試みていたといわれます。

1852年にチャイコフスキーは、ロシア帝国の首都であったペテルスブルグ(St. Petersburg)の法律学校で学びます。卒業後は法務省の九等文官となります。1861年にロシア音楽協会が新設した音楽学校に第一期生となり、職業音楽家の道を歩み始めます。1863年に音楽学校は音楽院(Moscow Conservatory)として改組され、音楽院の院長はルービンシュタイン(Anton Rubinstein)というピアニストで作曲家でありました。

ルービンシュタインらからは管弦楽法を学びます。その後音楽院の教師となりハンガリーの作曲家リスト(Liszt Ferenc)やフランスのベルリオーズ(Louis Berlioz)などの影響を受け、大きな楽器編成の曲を作り始めます。しかし、あまりに異端的な技法であるとして、音楽院の教師らからは不評であったようです。まだ音楽院ではそうした技法は許されていなかったからです。

心に残る名曲 その四十八 「Blockflöte」

楽器の話題を取り上げます。ブロックフレーテ(Blockflöte)、フルート(Flute)などの呼び名の管楽器です。小学生も学校で学んでいるリコーダ(Recorder)のことです。私も下手ですが、リコーダを吹きます。

リコーダという楽器は西欧諸国、特にルネッサンスからほぼ18世紀中期まで重要な位置を占めていました。フルートと比較して違う点は、全面に7つ、背面に1つの指孔数があることです。

私の使うリコーダの管材はローズウッド(rosewood)です。他に楓、ツゲが多く用いられます。梨、杏、桜、りんご、さらにポプラなど緻密で硬質の木材も用いられます。バロック以降は、象牙、ガラス、べっこう、大理石で作られたリコーダもあります。

一般のリコーダは、バロック型といって全体を3分して作られたものです。大小さまざまなリコーダがありますが、大雑把には4種類といわれます。ソプラノ(デカント)、アルト、テナー、そしてベースです。楽譜ですが、テナー以上は高音部記号を、ベース以下は低音部記号を使います。持ち方と運指ですが、左手が上方、右手が下方と固定されています。

リコーダにはタンギング(double and triple tonging)という技術があります。「ティキティキ、、」という具合に文字通り舌の使い方のことです。これは舌と指の使い方により、いろいろな音を作る「アーティキュレーション(articulation)」といわれます。リコーダは強弱や音質変化の幅が限られています。従って、アーティキュレーションのニュアンスは他の楽器に以上に重要な意味を持ちます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

心に残る名曲 その四十七 「Sheep May Safely Graze」

このバッ(J.S. Bach)の作品は、「心に残る名曲 その十七」でも取り上げました。「楽しき狩りこそわが悦び BWV208」の中の一曲がこの作品で、英語のタイトルとして「Sheep May Safely Graze」とつけられ”羊は憩いて草を食み”と訳されています。もともとこの曲の作詞家はSalomon Franckによって書かれました。ソプラノが詠唱(aria)したり、オーケストラでも演奏されたりします。「Graze」とは味わい深い単語です。

「Jesu, Joy of Man’s Desiring BWV 147」と同様に結婚式などの祝いの宴で使われます。もとはヴァイセンフェルス公であるクリスティアン(Christian von Sachsen-Weissenfels)の誕生を祝う曲としてバッハは作曲したといわれます。

ヨーロッパの文化に羊はすっかり溶け込んだ家畜です。その出典とは旧訳聖書詩編 23:1(Psalm)にあります。ダビデの賛歌といわれ、「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる」と記されます。​主は羊飼い、イスラエル​人​は​​羊​の​群れということです。ヨハネによる福音書10:11には、「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる 」とあります。

心に残る名曲 その四十六 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その二  民謡的色彩

ブラームスの声楽曲はもとより、器楽曲の多くの主題やモチーフの中に民謡的な性格が見いだされると指摘されています。例えばヴァイオリンソナタ第一番ト長調と第二番イ長調に、自作の「雨の歌」、「歌の調べのように」が転用されています。管弦楽曲や室内楽曲が複雑で精緻な構造を持っているにも関わらず、きわめて自然で親しみやすいのは、このような主題やモチーフの有する民謡的、歌曲風な性格に由来しています。

ブラームスの作品の特徴ですが、劇音楽や交響詩が少ないこと、器楽曲と声楽曲が同じ程度なのですが器楽曲では室内楽が圧倒的に多いことです。管弦楽曲でも伝統的な形式を重んじ、重厚で壮大かつ精緻な印象を受けます。

ブラームスの民謡との関わりです。フランス革命とナポレオン(Napoleon Bonaparte)の出現による各国での民族意識の高揚と自国の文化遺産の再発見がその理由といえそうです。ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧します。イタリア・ドイツ西南部諸国・ポーランドはフランス帝国の属国に、そしてドイツ系の残る二大国、オーストリア・プロイセンも従属的な同盟国となります。独裁や圧政から独立を獲得するためには、こうした民族意識は欠かせない要因です。

心に残る名曲 その四十五 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その一ドイツ民謡の精神的風土

ブラームス(Johannes Brahms)といえば、我が国でも非常に人気の高いドイツの作曲家です。その理由は、作品の楽風にあるような気がします。ソナタ、変奏曲、室内楽曲、交響曲などの古典的な形式を蘇生し、復活しようとしたといわれます。

Johannes Brahms
Capriccio, Op. 76, no. 1
Music Deposit 17 (formerly known as Ma21 B73 op.76 no.1)
Page 4
Gilmore Music Library, Yale University

ブラームスは父からヴァイオリンとチェロの手ほどどきを受け、私立学校にはいります。そこで聖書を愛読したといわれます。やがてピアノも学び、バッハやベートーウェンのドイツ古典主義の精神を学んだようです。

中世の「教会旋律」、「ネーデルランド(Netherland)楽派のカノン(Canon)」、「パレストリーナ様式(Palestrina)」、「フーガ(Fuga)」、「パッサカリア’Passacalia)」、「無伴奏モテット(Motteo)」、「コラール(Chorale)」など、遠く中世やルネッサンス時代にまでさかのぼる遺産を復活させた作曲家です。

教会旋律とはグレゴリア聖歌の分類に使われる終止音によって四つに分類されます。終止音から高く上がり下がりします。カノンとは、複数の声部がおなじ旋律を異なる時点からそれぞれ演奏されます。「主よ、人の望の喜びよ」とかパッヘルベル(Pachelbel)のカノンにみられる様式です。パレストリーナ様式とは、滑らかな旋律の流れ、豊かな和音の連続による完璧な和声、厳格な対位法、などルネッサンス音楽の様式のことです。フーガとは模倣対位法といわれ遁走曲といわれます。パッサカリアはスペインとイタリアで盛んになった遅い三拍子の舞曲のことです。モテットとは声楽曲のジャンルの一つです。中世末からルネッサンス音楽にかけて発達しました。

心に残る名曲 その四十三 「エグモント序曲」 Egmont Overture

ベートーヴェン(Ludlich van Beethoven)作曲の劇付随音楽です。現在では序曲(Overture)のみが単独で演奏されることがほとんどです。「エグモント(Egmont )」とはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の戯曲「エグモント」を題材としていて、16世紀のフランドルの軍人で政治家であったラモラール・ファン・エフモント(Lamoraal van Egmont)のことといわれます。

ネーデルラント(Netherland)諸州がスペインに対して反乱を起こしたのが八十年戦争といわれます。その指導者がエフモントでした。これをきっかけに後にオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれています。なおフランドル(Flandern)とは今のオランダの南部、ベルギー西部、そしてフランス西部地域を指します。

エフモントが圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、やがて逮捕され死刑に処せられます。その男の自己犠牲と英雄的な行為に基づいてベートーヴェンが作曲したといわれます。荘厳さ、力強さ、雄渾多感さなど「皇帝」や「英雄」を想起させるような旋律も登場します。

心に残る名曲 その四十三 シューベルトと「シューベルティアーデ(Schubertiade) 」

シューベルト(Franz Peter Schubert)は、早くから楽才を示し、11歳のとき王室礼拝堂の少年聖歌隊に採用されます。その後国立神学校で音楽教育を受けます。その頃から演奏や作曲に腕をふるいます。17歳で交響曲第一番ニ長調を作曲し、1814年には「野薔薇」、「魔王」、「たゆみなき愛」、等のドイツリート(Lied)を作ります。「美しき水車小屋の娘」、ピアノ独奏曲「楽興の時」など、良く歌う旋律、リズム、豊かな音色や鮮やかな転調などによって特色づけられている交響曲、室内楽曲、即興曲やピアノの作品を次々と作ります。

1820年頃には、彼の作品を聴くための芸術的なくつろいだ集まりができます。これはシューベルティアーデ(Schubertiade)と呼ばれました。音楽協会の名誉会員に推挙され、その返礼に作ったのが「未完成交響曲」といわれます。第二楽章で終わる有名な曲です。

確かにシューベルトは歌曲を始め交響曲などをたくさん作ったのですが、教会音楽の作曲家としても忘れてはならないことです。それは教育を受けた神学校においてカトリシズム(Catholicism)の影響を受けたからだろうと容易に考えられます。ミサ曲を6曲も作っています。最初の4曲は、明るい叙情、流麗な旋律で古典派音楽の伝統を踏まえた形式を備えています。ミサ曲第二番のト長調(Mass No. 2 in G Major) は、壮麗さや輝かしさに満ちています。ソプラノの独唱も交じったキリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクトス(Benedictus)、アニュデイ(Agnus Dei)が合唱と共に響きます。

心に残る名曲 その四十二 「ロザムンデ序曲」

中学や高校の音楽室にはなぜか、年代順に歴代の有名な作曲家の絵がかかっていました。シューベルト(Franz Peter Schubert)もそうです。シューベルトは各分野に名曲を残しますが、とりわけドイツ歌曲(Lied)において功績が大きいので「歌曲の王」と呼ばれています。短命の作曲家たちに比べても最も短命でその一生は31年。その間、シューベルトは600曲以上の歌曲作ったといわれます。「野薔薇」、「冬の旅」、「魔王」はなんども歌い、「鱒」はよく聞かされました。ピアノ五重奏曲にも「鱒」というのがあります。

「キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde)作品26はシューベルトが同名のロマン劇のために作曲した劇付随音楽とあります。音楽事典によりますと、劇付随音楽とは劇の台本や進行に合わせ作曲された音楽だそうです。劇や芝居を盛り上げ、様々な効果を作り出すために創作され、序曲、間奏曲、挿入曲などから成るとされます。

ロザムンデ序曲は、アンダンテの序奏と「アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)」という楽曲のハ長調の主部からなり、序奏の部分は少々劇的に暗いのですが、一変して叙情的でロマン的な旋律の美しさへと移ります。アレグロ・ヴィヴァーチェとは「生き生きと」の意味で,快活で速く明確なアクセントをもつ旋律のことです。主部はソナタ形式による単純な形をとっていますが、親しみやすい楽想を有しています。ロマン的とは「ロマンティックな音楽」とでも云えます。やわらかく夢見がちな雰囲気を連想させるような音楽という意味で使われています。

心に残る名曲 その四十一 「ピアノ協奏曲第五番 変ホ長調ー皇帝」

ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の名曲の一つです。骨太で男性的な雰囲気のする旋律で横溢しています。なるほどこの曲には「皇帝」の通称がついています。皇帝とはいったい誰なのかが気になります。まさかナポレオン(Napoleon Bonaparte)ではないでしょうが、、当時のオーストリア皇帝フランツ二世(Franz II)かもしれません。その時代はフランスとオーストリア帝国、ハプスブルク帝国らが盛んに覇権争いをしていました。

ベートーヴェンはバッハ(Johan Sebastian Bach)等と並んで音楽史上幾多の名曲を作ったことで知られています。「楽聖」という称号のようなものが与えられています。晩年は耳が遠くなったということを小学校の音楽の時間にきいたことがあります。

この協奏曲は、全3楽章構成となっており、第2楽章と第3楽章は続けて演奏されます。全曲にわたって雄渾壮大とか威風堂々といった旋律が続きます。管弦楽とピアノのまさに競演が最後まで続きます。ときに第二楽章では幽玄な風情の旋律を弦がおごそかに奏でるのも印象的です。第三楽章はソナタ形式で、同じ主題が何度も弾かれ、ロンド形式の風体を示しています。快活なリズムで始まり、最後はティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲 その四十 「クラリネット協奏曲 イ長調」  K.622

モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が協奏曲のジャンルで残した最後の作品であり、クラリネットのための唯一の協奏曲といわれています。復習ですが協奏曲とは別名コンチェルト(Concerto)、管弦楽団を従えて独奏するような形式です。管弦楽は黒子のような存在なのですが、この協奏曲を聴いているまるでクラリネットと競争するかのような、掛け合いのようなすばらしい協演を聴かせてくれます。

第一楽章はアレグロ(allegro)とあります。音楽用語ですが、イタリア語本来の意味は「陽気な、快活な」だそうですが、まさにそんな感じのする楽章です。歌劇「魔笛」の一部を編曲したような快活な楽章です。色彩豊かな旋律で満ちています。

第二楽章は、アダージョ(adagio)、つまり遅い速度で書かれた楽章です。なんともやるせないというか、切ないというか、なんともとろけるクリームが口のなかに広がるみたいな感じです。

第三楽章はロンド(rondo)とあります。踊り手がまるい輪をつくって踊るかのような雰囲気です。ロンドとは舞踏歌とか輪舞曲ともいわれています。同じ旋律を幾度も繰り返す形式の楽章です。なまめかしく色っぽいさま、男の気をそそるさまを「コケティッシュ(coquetry)」というのだそうですが、この楽章はそんな雰囲気が横溢しています。

心に残る名曲 その三十九  「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中、最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。

 

 

 

 

 

各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式(sonata)です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章(scherzo)です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンド(rondo)とは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンドとは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

第3楽章の主題は、ドヴォルザークがチェコからの移民が多く住んでいたアイオワ州スピルヴィル(Spillville, Iowa)を訪ねたときに、森で聴いた鳥のさえずりを下敷きとしたとされています。Spillvilleの街のサイトへ行きますと、ドヴォルザーク一色の説明や写真がでています。