アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その113 アメリカ社会の転換

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 1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。 1880年のアメリカ大陸の人口は5,000万人をわずかに超えていました。1900年には7,600万人弱となり、50%以上増加しますが、それでも19世紀のどの20年間をみても人口増加率は緩やかでした。ミシシッピー以東のほとんどの州は、全国平均をわずかに下回る増加率でした。

 人口増加の多くは、今世紀末の20年間にアメリカに流入した900万人以上の移民によるものです。共和国初期から1895年までは、移民の大半は北欧か西ヨーロッパからでした。しかし、1896年以降、移民の大半は南欧や東欧からやってきます。移民が政治的権力を持ち、暴力や産業紛争を引き起こしていると考える敏感なアメリカ人は、新しい移民がアメリカ社会に容易に同化できるはずがないという懸念を抱きます。こうした懸念は、アメリカへの入国資格を必要とする移民の数を制限する法律を求める運動へと発展します。やがて20世紀初頭には北欧や西ヨーロッパからの移民を優遇する割当法(quota)を制定することになります。

 それまでは、移民に対する大きな規制といえば、1882年に合衆国議会で可決された中国人労働者のアメリカへの移民を10年間禁止する「中国人排斥法」(Chinese Exclusion Act)くらいでした。この法律は、10年以上にわたる西海岸の中国人排斥運動であると同時に、あらゆる移民を受け入れるというアメリカの伝統的な考え方に、変化をもたらすものでした。

 カリフォルニアからの圧力に応え、議会は1879年に排斥法を可決したのですが、1868年の「バーリンゲーム条約」(Burlingame Treaty)によって中国人に保証された権利を奪うものであるという理由で、ヘイズ大統領(President Hayes)が拒否権を行使します。バーリンゲーム条約とは、1868年7月にアメリカの国務長官ウイリアム・スワード(William Seward)と清朝の使節団の代表で駐清公使であったバーリンゲーム(Anson Burlingame)との間で調印され、アメリカへ無制限の中国人移民を許可する条約です。

 1880年にこの条約の条項は改正され、アメリカは中国人の移民を一時停止することができるようになります。中国人排斥法は1892年にさらに10年間更新され、1902年には中国人移民の一時停止が無期限とされます。中国人の初の大規模な移住は、1848年から1855年にかけてのカリフォルニア・ゴールドラッシュに始まり、その後も大陸横断鉄道の建設の使役に従事します。合衆国史上で移民に対する最も重い使役の一つといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その112 ブッカー・ワシントンとアトランタ妥協案

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 1880年代から90年代にかけて、多くのアフリカ系アメリカ人は、南部白人からの容赦ない敵意と増大する憎悪に直面します。そこで彼らは、唯一の賢明な道は表立った対立を避け、何らかの形の融和を図ることであると考えます。この方針の最も有力なアフリカ系アメリカ人の代弁者は、アラバマ州のタスキーギー研究所(Tuskegee Institute in Alabama)の所長であったブッカー・ワシントン(Booker Washington)でした。彼は、政治、哲学や文学を教えながら、より良い農民や職人になる方法を学ぶようにと仲間のアフリカ系アメリカ人に強く促したのです。タスキーギー研究所は、今はタスキーギー大学(Tuskegee University)となっています。

 ワシントンは、倹約と産業、そして政治を避けることで、アフリカ系アメリカ人は次第に白人の隣人から尊敬されるようになると考えていました。1895年、アトランタ綿花合衆国・国際博覧会(Atlanta Cotton States and International Exposition)の開会式での演説で、ワシントンは自分の立場を詳しく説明し、この演説は「アトランタ妥協案」(Atlanta Compromise)として知られるようになります。

 アトランタ妥協案とは、南部の白人たちがアフリカ系アメリカ人の基礎教育、いくらかの経済的機会、法制度下における正義を認め、また白人たちが南部の企業に投資しフリカ系アメリカ人の教育慈善団体に資金提供を行うことを承認することです。当時、農村部のコミュニティに暮らす南部のアフリカ系アメリカ人たちは、差別、人種隔離、権利の剥奪、さらに組織化されていない雇用体制に従わざるを得ない状況にありました。

 彼は、アフリカ系アメリカ人のために連邦政府が介入する望みに期待せず、南部の改革は内部からもたらされねばならないと主張します。黒人も白人も、「社会的平等の問題を煽ることは最も愚かなこと」であり、社会生活において南部の人種は指のように分離していても、経済的進歩においては手のように一体化していることを認識すれば変化をもたらすことができると主張するのです。

 南部の白人に好意的に受け入れられたワシントンの提案は、南部の黒人にも多くの支持者が現れ、彼らは彼の教義のなかに、圧倒的な白人の力との正面からの悲惨な対決を避ける方法を見出したのです。ワシントンの展望が、秩序正しく勤勉で質素なアフリカ系アメリカ人の世代を生み出し、ゆっくりと中流階級の地位へと導いていったかどうかは不明でした。再建後のほとんどの期間、南部全域に深刻な経済不況が広がっていたからです。

 貧しい白人も貧しい黒人も、絶望的に貧しかったこの地域では、地位が向上する機会はあまりありませんでした。1890年までに南部は、一人当たりの所得、公衆衛生、教育など、アメリカ国内のあらゆる指標で最下位となります。つまり、1890年代の南部は、貧しく遅れた地域であり、南北戦争の惨禍から立ち直ることも、再建時代の再調整に順応することができていなかったのです。

 ブッカー・ワシントンの名言からです。
 「成功とは、人生において得た地位によって測るのではなく、成功するために打ち勝った障害によって測るべきことを私は学んだ。教育は人生とは別個のものでもなければ、システムや哲学でもない。それはいかに生き、いかに働くかを直接的に教えるものである。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その111 新しい南部の復興とジム・クロウ法

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南部におけるアフリカ系アメリカ人の投票は、救済系と保守系の対立の犠牲となりました。ジョージア州のトム・ワトソン(Tom Watson)のような一部のポピュリストの指導者は、南部の貧しい白人と貧しい黒人は、大農場主やビジネスマンとの闘いに利害関係を持つと考えたのですが、ほとんどの小規模の白人農民は、保守政権の維持に役立ったアフリカ系アメリカ人に対して執念深い憎しみを抱きます。1890年にミシシッピ州が新憲法制定会議を開いたのを皮切りに、1908年にジョージア州が憲法を改正するまで、旧連合国のすべての州がアフリカ系アメリカ人の選挙権を剥奪しようと動いたのです。

 合衆国憲法は、人種差別を全面的に禁止しているため、南部の州は、有権者に憲法のあらゆる条項を読解できる能力を要求し、アフリカ系アメリカ人を排除します。地元の登録機関は、この識字条件を白人には免除しますが、黒人が懸命に投票しようとすると厳格に識字条件を要求します。ルイジアナ州はさらに工夫を凝らし、憲法に「既得権条項(grandfather clause)」を追加し、1867年1月に議会が南部でアフリカ系アメリカ人の参政権を課す前に、投票権を有していた白人やその息子や孫をこの識字テストから免除するようにしたのです。他の州では、投票するために厳しい財産上の資格を課したり、複雑な投票税を制定したりします。

 社会的にも政治的にも南部の人種問題は、保守的な政権に挑戦する農民運動の高まりとともに悪化していきます。1890年には、南部保守系の勝利により、アフリカ系アメリカ人の地位は法律によって明確に定義され、従属的で完全に隔離された地位に追いやられてしまいます。「ブラックコード」とよばれる法的制裁がアフリカ系アメリカ人に課せられただけでなく、非公式、非合法、そしてしばしば残忍な手段が、彼らを特定の場所に留めるためにとられたのです。

 ジム・クロウ法(Jim Crow Laws)と呼ばれる人種差別的内容を含む南部諸州の州法により、一般公共施設の利用を禁止したり制限したりします。そのため、南部では年間平均188件ものリンチが起こります。ジム・クロウ法は、黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限した州法の総称です。病院、バス、電車、レストラン、結婚、交際、学校などで分離や隔離が実施されます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その110 南部ポピュリズムの台頭

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南部諸州の共和党政権は、1870年には早くも崩壊し始め、1877年にはすべて倒壊します。その後13年間、南部はフランス王室のように、自分たちが経験した革命から何も学ばず、何も忘れていないとされるブルボン家(Bourbons)と呼ばれる白人民主主義者、別名白人エスタブリッシュメントの指導下におかれたのです。ブルボン家とは王国の中心に広大な所領を有し,強い独立性を保っていた貴族です。南部全体としては、この政治の特徴は正確とも公正ともいえませんでした。南部のほとんどの州では、新しい政治指導者たちは農場主だけでなく、鉄道、綿織物、都市の土地投機に関心を持つ南部の新興財界の代表でもあったのです。

 人種問題に関しても、南部の新しい政治指導者たちは、ブルボンというラベルから想像されるほど反動的ではありませんでした。南部の2州を除くすべての州で白人が多数派であったにもかかわらず、保守政権はアフリカ系アメリカ人の権利を剥奪しようとはしませんでした。彼らの抑制的な姿勢は、連邦政府のさらなる介入を恐れたこともあったのですが、主に、詐欺、脅迫、操作や調整のいずれによってもアフリカ系アメリカ人有権者をコントロールできるという保守派指導者たちの確信から生まれていました。

 実際、アフリカ系アメリカ人の票は、南部の実業家や農場主を優遇し、小規模な白人農民を犠牲にし、これらの政権にとって大きな価値を持つものでした。これらの「救済者政府」(Redeemer government)は、貧しい人々のためになる州政府のプログラムを大幅に削減し、あるいは廃止したりしました。1890年、南部の一人当たりの公教育費はわずか97セントで、国全体では2.24ドルでした。また、州の囚人、精神障害者、盲人のケアもないがしろにされ、公衆衛生のための措置も拒否されました。同時に、こうした保守的な政権はしばしば驚くほどに腐敗し、公務員の横領や脱税は、再建時代よりもさらに多発していました。

 農場主の支配に憤る白人の小農民、アラバマ州中央部からミシシッピ州北東部にかけて広がるブラックベルト(Blackbelt)の選挙区で投票できない丘陵地帯の住民、支配者との抗争に敗れた政治家たちは、南部の保守政権を打倒しようと何度も試みました。1870年代には、彼らは無党派層やグリーンバック(Greenback)労働者層の候補者を支援しましたが、目立った成功は収められませんでした。1879年、ヴァジニア州にレドジャスター党(Readjuster Party)が設立されます。党名は、その支持者が同州の巨額の資金負債を再調整し、小規模農民の税負担を軽減しようとしたことから名付けられました。

 レドジャスター党は議会を支配し、1880年にはそのリーダーであるウィリアム・マホーン将軍(Gen. William Mahone)を合衆国上院議員に選出しました。しかし、1890年になると、それまで農業改革に専念していた有力な農民同盟が政治活動の禁止を解除し、保守の覇権に対抗するようになります。この年、農民同盟の支援を受けたベンジャミン・ティルマン(Benjamin Tillman)がサウスカロライナ州知事に、ジェームズ・ホーグ(James Hogg)がテキサス州知事に選出され、ここに南部ポピュリズムの全盛期が到来します。

 ポピュリズムとは、人々によるエリートや既得権益層への意義の申し立てが特徴とされます。広義には現状の経済・社会課題に対する不満を表します。指導者が人々の感情に訴え扇動して大衆迎合の政治に堕していくことです。西部や南部の農民を中心に結成された人民党(People’s Party; Populist Party)は、農家の立場を引き上げようと、上院議員の直接選挙、累進所得税、労働環境等を訴えます。禁酒党(Prohibition Party)は、宗教的道徳思想を背景に、禁酒運動を推進して全国的に禁酒法を成立させていこうとします。また禁酒党は女性の政治参加の流れを促したともいわれています。ですがいずれも政治主流とはなりえませんでした。

 グリーンバック(Greenback)とは労働者という低所得者の代名詞で、ドル紙幣の呼称でもあります。憲法発布後、最初に登場したこのドル紙幣は 1861~1865年の南北戦争時で、不換通貨として悪評高いのですが 1862年から3度にわたって発行されます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その109 ユリシーズ・グラントの時代

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グラント大統領(Ulysses S. Grant)の二期にわたる政権では、共和党の勢力が徐々に衰えていきます。政治家としてのグラントは消極的で、戦場で発揮したような輝きは全くありませんでした。彼の政権は、彼が忠実に擁護した部下の不誠実さによって汚点を残すことになります。ウィリアム・サムナー(William Sumner)、ベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)、タデウス・スティーブンス(Thaddeus Stevens)といった人種差別に厳しく反対する急進派の指導者が亡くなり、共和党の指導者はロスコー・コンクリング (Roscoe Conkling)やジェームズ・ブレイン(James Blaine)といった、初期の共和党に見られたような理想主義的熱意を持たない者の手に移ってしまいます。ブレインは政教分離原則を促進するために、宗教学校に公的資金を使うことを禁じる憲法修正条項を提案した政治家でもありました。

 南北戦争を機に、共和党は南部の黒人に、民主党は北部の労働者や新移民に、それぞれ新たな支持層を広げていきます。そして、それぞれが全国政党として連邦の政治に責任を持つ態勢を作り上げていきます。両党は大統領権力をめぐって激しく競いますが、南部再建が大きな争点となります。

 南部の急進派政権を強化するための努力は、次第に失敗を重ねるようになります。人種による投票差別を禁止する1870年の修正第15条の採択は、南部ではほとんど効果がありませんでした。テロ組織と農場主からの経済的圧力が、アフリカ系アメリカ人を投票所から遠ざけたからです。また、共和党が可決した3つの強制排除法(Force Act)は、大統領に人身保護令状を停止する権限を与え、テロ組織に重い罰則を課すのですが、長期的には成功しませんでした。これらの法律は、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan: KKK)を解散させることには成功しますが、KKKメンバーと彼らの戦術によってこれまで以上に白人を民主党陣営へと向かわせることになります。

 急進的な再建とグラント政権に対する北部の幻滅は、1872年の自由共和党(Liberal Republican Party)の運動で明らかになります。その結果、奴隷制廃止運動と多くの改革運動も提唱したホレス・グリーリー(Horace Greeley)が大統領に指名されることになります。グラントは圧倒的に再選されますが、国民の感情は1874年の議会選挙で示され、南北戦争勃発以来初めて民主党が下院を支配することになります。

 グラントが三期目を目指していたにもかかわらず、ほとんどの共和党員は1876年までに候補者と再建計画の両方を変更する時期がきたと認識し、オハイオ出身のラザフォード・ヘイズ(Rutherford B. Hayes)が指名され、第19代合衆国大統領となります。ヘイズは、高い理念と南部への深い共感を持っていた穏健派の共和党員でした。ヘイズの指導によって共和党の急進派の支配が終ります。

 1876年の大統領選挙をめぐる状況です。ヘイズは、たとえ南部に少数の急進派政府が残るとしても、南部白人と協力する意思を強める姿勢をとります。多くの不正が行われた選挙で、民主党候補のサミュエル・ティルデン(Samuel Tilde)は一般投票の過半数を獲得しますが、15人の委員からなる選挙委員会によって僅差でヘイズの勝利となります。

 ヘイズの陣営は、この行き詰まりを解決するために、南部の民主党議員と協定を結び、南部から連邦軍を撤退させ、南部の支援を民主党に分け与え、南部が要求する堤防や鉄道建設への連邦補助金の提供に賛成することを約束することとなりました。北部はアフリカ系アメリカ人を保護するために南部の選挙に干渉しなくなり、南部の白人が再び州政府を支配することになります。

 ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を叫びます。1877年の鉄道大ストライキを鎮圧するよう連邦軍に命じ、再建が終了すると連邦軍の南部撤退を命じます。ヘイズは「黒人の権利は、南部白人に委ねたほうが安全である」と発言したりします。

 グラント大統領は1879年6月に日本を訪問します。明治天皇はグラント夫妻の訪日を歓迎し、浜離宮内の延遼館を夫妻の宿舎として提供します。天皇とグラント将軍の会見は、天皇自らが浜離宮を訪問するという前例のない形で行われたといわれます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その108 白人至上主義者の秘密結社

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議会による再建計画のもとで南部の諸州に設立された政府は、従来の決まり文句とは異なり、かなり誠実で効果的な行政を行いました。この時期は「黒人の再建」と呼ばれることもありましたが、南部の急進派政府は、アフリカ系アメリカ人に支配されることはありませんでした。黒人の知事はおらず、黒人の上院議員も2人、下院議員も数人しかおらず、黒人が支配する議会は1つしかありませんでした。アフリカ系アメリカ人が政権を握ったとしても、その能力や誠実さは白人と同様であったと思われました。

 このような急進派の政府は確実に資金を必要としましたが、戦後の復興や、ほとんどの南部の州でたとえば公立学校の設置のために、多額の州による支出が必要だったのです。汚職はいろいろありました。例えば、1871年のニューヨーク行政を破綻させたツイード・リング(Tweed Ring)といった職員の汚職グループが摘発されました。リング(William Tweed)という役人が首謀した汚職です。しかし、実際に起こったスキャンダルから言えることは、共和党員が民主党員よりも酷いとか、黒人が白人よりも罪深いということといったことではありませんでした。

 アパラチア山岳地帯の南部白人の一部と豊かな低地の農場主は、新政府においてアフリカ系アメリカ人とその北部生まれの「カーペットバガー」(carpetbagger)と呼ばれた政治に関心のある者に協力することを望んでいました。そのような人々は「スカラウグ」(scalawags)といわれ、ヤクザ者扱いを受けていました。

 南部白人の大部分は、アフリカ系アメリカ人の政治、市民、社会の平等に猛烈に反対し続けました。彼らの敵意は、いわゆる「高慢な黒人」を罰し、彼らの協力者である白人を南部から追い出そうとするクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)のようなテロ組織を通じて見られることがありました。民主党は、南部で徐々に勢力を回復し、北部が急進派政権の支援に疲弊し、南部から連邦軍を撤退させるときを待っていたのです。

 表面的には,黒人も白人と平等の地位を得たようにみえます。しかし、クー・クラックス・クラン(KKK)という白人至上主義者の秘密結社は、黒人に対するリンチを数多く引き起こします。白いガウンと覆面を着け、十字架を燃やして有色人種を脅迫する儀式は知られました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その107 南部の復興

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南部では、復興期は無秩序を伴いながらも再建しようとしました。南部の白人は、アフリカ系アメリカ人を無視しようとし、市民権をほとんど拡大せず、社会的平等を断固拒否していました。他方、アフリカ系アメリカ人は完全な自由と、何よりも自分たちの土地を欲していました。必然的に両者の間に衝突が頻発しました。暴動に発展したものもあり、アフリカ系アメリカ人の指導者個人に対するテロ行為が目立ちました。

 こうした混乱の中で、南部の白人と黒人は、農場を再び稼働させ、生計を立てる方法を模索し始めていきます。実際、再建時代の最も重要な出来事は、大々的に宣伝された政治的な争いではなく、南部社会で起こったゆっくりとした、ほとんど気づかないほどの変化でありました。アフリカ系アメリカ人は合法的に結婚できるようになり、従来型の安定した家族単位を築きました。彼らは静かに白人教会から離脱し、独自の宗教組織、黒人教会を形成し、それがアフリカ系アメリカ人社会の中心的存在となっていきます。土地もお金もないため、ほとんどの自由民は白人の主人のために働き続けなければなりませんでした。しかし、彼らはギャングとなったり、奴隷のように農園主によって看守されて暮らすことを嫌悪するようになりました。

 南部の大部分では、小作は次第に労働の仕組みとして受け入れられるようになります。資本不足の農園主は、現金での賃金を支払う必要がないため、この制度を好みました。アフリカ系アメリカ人は、借りた土地に個々の小屋で住むことができ、何を植えるか、どのように耕すかについてある程度の自由があったので、この制度を好みました。しかし、再建時代を通じて、この地域全体は絶望的に貧しく、1860年代後半に相次いだ凶作と1870年代の農産物問題は、白人と黒人の双方に打撃を与えます。

 「もはや奴隷ではなくなった」黒人は依然として農場の労働力として重要でした。債務や契約で拘束されている場合を除き、どの農場で働くか、どこを生活の場とするかの選択する権利を持っていました。1877年に連邦軍が南部を撤退し「再建」の時代が終わると、様々な形で黒人差別が合法化されていくことになります。差別は陰に陽に根強く残ります。それが1960年代の公民権運動まで続きます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その106 在職任期法と弾劾決議

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アンドリュ・ジョンソン大統領や北部の民主党員、および南部の白人は、共和党の再建計画に拍車をかけます。大統領は1866年8月にフィラデルフィアで開催された全国連合大会(National Union Convention)で新しい政党を組織しようとします。8月から9月には、大統領は自分の政策を広め、共和党の指導者を攻撃するために、北部や西部の多くの都市を訪れます。大統領の強い要請により、テネシー州を除く南部のすべての州が圧倒的多数で修正第14条を拒否します。

 1866年秋の選挙で勝利した議会の共和党員は、1866年から1867年の会期中に、南部を再建するためのより厳しい第二の計画作りに動きます。過激派の共和党員と穏健派の共和党員の間の長く激しい論争の後、党指導者は最終的に1867年の第一次再建法に関して妥協案を作成します。3つの補則的な再建法へと拡大され明確化されます。こうしてこの法律は、南部でこれまで構築した政体を一掃するのです。

 この法律は、旧南軍を連邦軍の支配下に戻し、新しい憲法制定会議の選挙を要求し、採択された憲法にアフリカ系アメリカ人の選挙権と元南軍指導者の公職からの追放を要求するのです。この法律の下で、旧アメリカ連合国のすべての州に新しい州政府が樹立されたのです。ただし、テネシー州は既に再連邦への復帰が認められていました。そして1868年7月までに、議会はアラバマ、アーカンソー、フロリダ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスカロライナから上院議員と下院議員を選出することに同意します。1870年7月までに、残りの南部諸州も同様に再編され、連邦へ編入されていきます。

 議会の共和党員はジョンソン大統領に疑問を呈し、彼が度重なる拒否権を可決した再建法を大統領が施行すること疑い、可能な限り彼の権限を剥奪しようとします。議会は大統領の軍事命令はすべて軍の最高司令官であるユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)を通じて発令することを要求します。それによって軍に対する大統領の統制を制限しようとします。そして、在職任期法(Tenure of Office Act)によって、任命される閣僚を解任する大統領の権利を制限します。

 ジョンソン大統領は、南部における急進的な法律の執行を阻止するために極力努力しますが、共和党のより極端なメンバーは大統領の弾劾を要求します。大統領が1868年2月に急進的な陸軍長官エドウィン・スタントン(Edwin Stanton)を内閣から解任する決定を下します。しかし、その解任は明らかに在職任期法に反していたため、共和党の弾劾手続きの口実となります。下院は大統領の弾劾に投票し、長引く裁判の後、上院はわずか1票差でジョンソンは大統領の座を保つことができます。この一連の騒動により議会とジョンソンの対立は決定的なものになり、政権はレームダック化l(ame duck)し退任します。レームダックとは、選挙で敗れて任期が残りのいわば死に体のことです。

 修正第14 条とは、連邦議会で採決された憲法の修正条項です。大事な内容は市民権を出生または帰化したものと明記し、黒人の市民権を認めたことです。黒人にも市民権を与え、黒人に投票権権を与えない州には不利益を与えるという内容でもあります。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その105 アフリカ系アメリカ人とブラックコード

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南部の白人は、ワシントンからの政治経済的指導がほとんど与えられなかったため、政府を再編成する際の方策のためには、支持してきた地元の政治指導者に頼ることとなりました。南部の新しい体制は、不思議なことに戦前の体制に似ていました。確かに、奴隷制は廃止されました。しかし、再建された南部の各州政府は、解放奴隷の権利と特権を規制する「ブラック コード」(Black Codes)の採用を進めました。州ごとに異なりますが、これらのコードは一般に、アフリカ系アメリカ人を劣等者として扱い、社会における二次的および下位の地位に追いやるものでした。

 アフリカ系アメリカ人は土地を所有する権利が制限され、武器を持つことができず、放浪やその他、犯罪のために奴隷状態におかれる可能性がありました。南部の白人の行動は、アフリカ系アメリカ人の権利を最小限の保護さえも保証する準備ができていないことでした。1866年5月に起こったメンフィス(Memphis)と1866年7月に起こったニューオーリンズ(New Orleans)での暴動では、アフリカ系アメリカ人が残忍な暴行を受け無差別に殺されるという事態になりました。

 1865年から1866年の議会会期中の北部共和党員は、こうした暴動の発生を予想していたようで、必然的にアンドリュ・ジョンソン大統領と対立することになります。議会は、奴隷制から自由への移行を容易にするために1865年3月に設立された福祉機関である解放奴隷局を継続させて、アフリカ系アメリカ人の権利を保護しようと提案します。しかしジョンソンは法案に拒否権を行使します。

 アフリカ系アメリカ人の基本的な公民権を定義し保証する法律も同様の運命を辿るのですが、共和党は大統領の拒否権を無視することに成功します。大統領がホワイトハウスのポーチから共和党の指導者を「裏切り者」として非難する一方で、議会の共和党員は南部を再建するための独自の計画を策定しようとします。彼らの最初の取り組みは、憲法修正第14 条の通過でした。これは、皮膚の色に関係なく、すべての市民の基本的な公民権を保証し、議会での代表者を減らすと脅してアフリカ系アメリカ人に選挙権を与えるように南部の州を説得しようするのです。

 ブラックコードとは黒人差別法で、人頭税納入や読み書きテストの実施による選挙権の実質的剥奪、土地所有の制限、人種間の結婚禁止、武器の所持や夜間外出の禁止、陪審員になれないなどの制約をうたうのです。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その104 リンカンの暗殺と南部の再構築

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急進派の共和党員は、議会の権限が行政的に奪取されることを経験し、南部の社会システムに最小限の変更しか必要とせず、州を合衆国から脱退させた南部人に政治権力を委ねるという手続きに激怒します。 急進派は、1864年7月に議会を通過したウェイド・デービス法案(Wade–Davis Bill)で独自の復興計画を発表します。南部の各州の白人男性市民の過半数が再建プロセスに参加する必要があり、未来だけでなく過去の忠誠を誓うことを主張します。法案が厳しすぎて融通が利かないと判断したリンカンは拒否権を行使しました。それに対して過激派は彼を激しく非難します。

 1864年から1865年の議会は、大統領の「10%計画」に基づいて組織されたルイジアナ州政府を承認するという大統領の提案を却下しました。リンカン大統領と議会は合衆国の再構築をめぐって対立していました。1865年4月にリンカンは暗殺されます。第17代大統領となったアンドリュ・ジョンソンは連邦再構築の過程で議会とより協調していくように思われました。元下院議員で上院議員だった彼は、下院議員を理解していました。

 テネシー州が脱退したとき、自分の命を危険にさらしても国を支持した忠実なユニオニスト(Unionist)であったジョンソンは、脱退に妥協しないことを確信していました。 その州の戦時知事としての彼は、政治的に巧妙で、奴隷制に対して厳しい姿勢をもっていました。 「ジョンソンよ、私たちはあなたを信じている」と急進派のベンジャミン・ウェイド(Benjamin Wade)は新大統領が就任宣誓を行った日に宣言します。「神に誓って政府の運営に問題はありません。」

 ジョンソンへの急進的な信頼は間違いであることが判明します。新大統領はまず第一に彼自身が南部人でありました。彼は民主党員であり、1868 年に大統領に再選されるための第 1 歩として、旧政党の復活を模索していました。ジョンソンは、黒人男性が生来、劣っており政治への参与が難しいとして、アフリカ系アメリカ人に対する白人南部人と同じような態度でした。

 平等な市民的または政治的権利のために。1865年5月、ジョンソンは南軍の大半に恩赦と恩赦の一般宣言を発表し、ノースカロライナ州の再編を進める権限をノースカロライナ州の暫定知事に与えます。その後まもなく、彼は他の旧南軍諸州に対しても同様の布告を発布します。こうして合衆国憲法への将来の忠誠を誓った有権者によって、州の憲法制定会議が選ばれることになります。会議では脱退の条例を廃止し、南軍の債務を撤廃し、奴隷制を廃止する修正第13条を受け入れる用意でした。しかし、大統領は有権者にアフリカ系アメリカ人に選挙権を与えることは要求しませんでした。

 アンドリュ・ジョンソンは、リンカン大統領暗殺事件後は大統領に昇格します。リンカンがやり残した南北戦争の戦後処理を行います。黒人奴隷の処遇は南部諸州の判断に委ね、大統領特赦で多くの南部人指導者の政治的権利を復活させていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その103 戦争の余波と南部の再構築

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南北戦争は両陣営に多大な犠牲を強いることになりました。連邦軍は約36万人の死者を含む50万人以上の死傷者を出し、南軍は約25万8千人の死者を含む約48万3千人の死傷者を出しました。両政府とも、戦争遂行のための資金集めに懸命に努力し、不換紙幣を作るために印刷機に頼らざるを得ませんでした。南軍の個別の統計は明確ではありませんが、この戦争で最終的にアメリカは150億ドル以上の損害を被ります。

 特に、戦争により大半が行われ、労働力を失った南部は、物理的にも経済的にも壊滅的な打撃を受けます。結論からいえば、アメリカの連邦は維持され回復しましたが、肉体的、精神的苦痛の代償は計り知れず、戦争がもたらした精神的傷は長く癒されませんでした。

 南北戦争における当初の北部の目的は連邦の維持であり、自由州のほぼ全部が同意した戦争の目的でした。 戦闘が進むにつれ、リンカン政権は、軍事的勝利を確保するために奴隷解放が必要であると結論づけました。その後、自由は共和党員にとって第二次戦争の目的となります。

  チャールズ・サムナー(Charles Sumner) やサディアス・スティーブンス(Thaddeus Stevens)のような共和党のより過激なメンバーは、政府が解放奴隷の市民的および政治的権利を保証しない限り、解放は偽物であると考えていました。したがって、法の前のすべての市民の平等は、この強力な派閥の第三の戦争の目的となります。連邦の再構築(Reconstruction)時代の激しい論争は、これらの目標のどれを主張すべきか、そしてこれらの目標をどのように確保すべきかについて集中しました。

 リンカン自身は国の再構築に対して柔軟で実用的なアプローチをとっており、南部人が敗北した場合、連邦への将来の忠誠を誓い、奴隷化された人々を解放することだけを主張します。南部の諸州が征服されると、彼は軍の総督を任命して、その回復を監督させていきます。これらの任命者の中で最も精力的で効果的なのはアンドリュー・ジョンソン(Andrew Johnson)あり、テネシー州で忠実な政府を再建することに成功した民主党員であり、1864年にリンカンと共に共和党候補として副大統領に指名さます。

 1863年12月にリンカンは、1860年の大統領選挙で有権者数の少なくとも10 パーセントに支持された場合、憲法と連邦を支持し、奴隷を解放するとした州の政府を承認することを約束して、南部諸州の整然と再建していきます。ルイジアナ州、アーカンソー州、テネシー州では、リンカンの計画の下で連邦政府に忠実な州政府が形成されます。そして彼らは連邦への再加盟を求め、議会に上院議員と代表者を送り出していくのです。

 北軍の勝利で南北戦争は幕を閉じます。その後合衆国は工業化が進み、強大な近代国家へとなり、より中央政権的な連邦国家となります。終戦後の1865年1月、憲法の修正が連邦議会で成立し、奴隷制度の禁止が謳われます。しかしその後も南部では黒人の公民権を否定する運動が続きます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その102 戦争の激化

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北軍の将軍アンブローズ・バーンサイド(Ambrose Burnside)はポトマック陸軍の司令官としてジョセフ・フッカー将軍(Gen. Joseph Hooker)を任命し、フッカーは1863年4月に攻勢に転じます。彼はヴァジニア州チャンセロズビル(Chancellorsville)でリー将軍の陣地を奪取しようとしますが、完全に出し抜かれ、撤退を余儀なくされます。

 その後、リーは2度目の北部侵攻を開始します。ペンシルベニア州に入り、小部隊の偶然の出会いがゲティスバーグ(Gettysburg)でのクライマックスとなる戦いとなります。リー軍はゲティスバーグの戦いで撃退され、ヴァジニア州に後退します。ほぼ同じ頃、西部でも転機が訪れます。2ヶ月にわたる巧みな作戦の末、1863年7月4日、グラントはミシシッピー州ヴィックスバーグ(Vicksburg)を攻略します。まもなくミシシッピ川は完全に北軍の支配下に入り、事実上南軍は二分されることになります。

 1863年10月、W.S.ローズクランズ将軍(Gen. W.S. Rosecrans)率いる北軍がジョージア州チカマウガ・クリーク(Chickamauga Creek)で敗れた後、グラントがこの戦場の指揮に召集されます。ウィリアム・シャーマン(William Sherman) とジョージ・トーマス将軍(Gen. George Thomas)の巧みな支援により、グラントは南軍のブラクストン・ブラッグ(Braxton Bragg)をチャタヌガ(Chattanooga)から追い出し、テネシーから撤退させます。シャーマンはその後ノックスビル(Knoxville)を確保します。

 1864年3月、リンカンは北軍の最高司令官としてグラントを任命します。グラントは東部のポトマック陸軍の指揮を執り、すぐに北軍の圧倒的な兵力と物資の優位に基づく消耗戦の戦略を立案します。彼は5月に行動を開始し、荒野のスポツィルバニア(Spotsylvania)、コールドハーバー(Cold Harbor)の戦いで多大な犠牲を払いながらも、6月中旬には南軍陣営をヴァジニア州ピーターズバーグ(Petersburg)の要塞に釘付けにします。ピーターズバーグの包囲は10ヶ月近く続き、グラントは徐々にリーの陣地を包囲していきます。

 他方、シャーマンはジョージア州で唯一重要な南軍部隊と対峙していました。シャーマンは9月初めにアトランタを占領し、11月にはジョージア州を480km行軍し一帯を破壊しながら、12月10日にサバンナ(Savanna)に到着し占領します。

 1865年3月、リーの軍隊は死傷者と脱走兵により縮小し、補給も絶望的に不足します。グラントは4月1日にファイブフォークス(Five Forks)で最後の進軍を開始し、4月3日にリッチモンドを占領し、4月9日に近くのアポマトックス・コートハウス(Appomattox Court House)でリー将軍の降伏を受け入れます。シャーマンはノースカロライナ州を北上し、4月26日にJ.E.ジョンストン(J.E. Johnston)の降伏を受け入れ、ここに戦争は終わりを告げます。

 南北戦争における海軍の作戦は、陸上での戦争に比べれば二の次でしたが、それでもいくつかの有名な戦果がありました。合衆国海軍将校だったデヴィッド・ファラガット(David Farragut)はニューオリンズとモービル湾(Mobile Bay)での行動を正当に評価され、モニターとメリマックの戦い(Monitor and Merrimack)は、しばしば近代海戦の幕を開けたとされます。しかし、この海戦の大部分は封鎖戦争であり、北軍は南軍のヨーロッパとの通商を止めるのにほぼ成功するのです。

 グラントは大統領として、1879年7月3日から同年9月3日まで国賓として日本に滞在します。8月20日に浜離宮で明治天皇に謁見し歓待を受けます。アメリカ合衆国大統領が訪日を果たした初の人物でもあります。浜離宮内に天皇会見記念のプレートがあります。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その101 奴隷解放の対立

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戦争の圧力の下で、南北両政府は徐々に奴隷制を終わらせるための動きを始めていきます。リンカンは、黒人奴隷の解放が北部の大義に対するヨーロッパ人の民意に好影響を与え、南軍から農場での生産的な労働力を奪い、北軍に切望されていた新兵を加えることができると考えるようになります。1862年9月、彼は解放の暫定宣言を発し、反政府勢力の領土にいるすべての奴隷を1863年1 月1日までに解放することを約束します。彼はその後約束した最終宣言をします。

 解放によって黒人の徴用が始まり、戦争の終わりまでに北軍に従軍した黒人の数は合計178,895人に達します。リンカンは奴隷解放宣言の合憲性について確信がなかったので、憲法改正によって奴隷制を廃止するよう議会に促していきます。しかし、これは1865年1月31日の修正第13 条まで行われず、実際の批准は戦後までは行われませんでした。

 その間、南軍は、緩やかではありましたが、奴隷の解放の方向に向かっていきました。南部の軍隊に対する絶望的な必要性により、ロバート・リー将軍(Robert Lee)を含む多くの軍人が黒人の徴用を要求しました。ついに1865年3月、南軍議会は黒人連隊の編成を承認します。数名の黒人が南軍に採用されましたが、降伏が間近に迫っていたため、実際に戦闘に参加した者はいませんでした。

 さらに別の手段でデービス政権は、遅ればせながらヨーロッパからの援助を求める外交使節団を派遣し、1865年3月に南軍が外交的承認と引き換えに奴隷制の人々を解放することを約束します。やがて南軍も奴隷制度の終焉が避けられないという認識となりました。戦争の終わりまでに北軍と南軍は、奴隷制が消滅する運命にあることを理解していくのです。

 南軍にとり奴隷は重要な兵站を担当し、食糧を用意し、兵士の制服を縫い、鉄道を修理し、農場や工場や鉱山で働き病院などで労働したりしました。やがて南部の地域中に奴隷解放宣言のコピーが行き渡り数多くの奴隷たちが農場主から離れていきます。

 1863年に1,007人の黒人兵と37人の白人将校で構成された北軍の第54マサチューセッツ歩兵連隊(54 Infantry Regiment) は、奴隷制を終わらせるため南軍兵士との戦闘を開始します。全黒人部隊の第54歩兵連隊の大佐で指揮官にロバート・ショー(Robert G. Shaw)がいます。黒人を素晴らしい兵士達だと尊敬し、彼らが白人兵士より少ない給与を受け取ることを知ったとき、彼はこの不平等が改善されるまでボイコットさせたという逸話が残るほどです。

 サウスカロライナ州チャールストンの近くでの第二次ワグナー砦(Second Battle of Fort Wagner)の戦いで戦死したロバート・ショーの活躍は1989年の映画「グローリー」(Glory)の主題に使われました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その100 ウィリアム・クラーク大佐

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ウィリアム・クラーク(William S. Clark)は、化学、植物学、動物学の学者で、後に札幌農学校の学長として活躍した人です。マサチューセッツ州(Massachusetts)のイーストハンプトン(Easthampton)で育ち、成人期のほとんどをマサチューセッツ州アマースト(Amherst)で過ごします。彼は 1848 年にアマースト大学(Amherst College)を卒業し、1852 年にドイツのゲッティンゲン大学(Göttingen)で化学の博士号を取得します。その後、1852 年からアマースト大学で化学の教授を務めました。

 クラークの学歴は南北戦争によって中断されます。クラークは、戦争における北軍の大義を熱心に支持し、アマースト大学で学生の軍事訓練指導に参加し、多くの学生を軍隊に志願させることに成功します。 1861年8月、マサチューセッツ第21志願歩兵連隊(the 21st Regiment Massachusetts Volunteer Infantry)の少佐に任命されます。彼は第21マサチューセッツ連隊に2年近く従軍し、最終的には1862年に中佐(lieutenant colonel)、1862年から1863年まで大佐(colonel)としてその連隊を指揮します。

 第21志願歩兵連隊マサチューセッツは、最初の数か月間、メリーランド州アナポリス(Annapolis)にあるアメリカ海軍兵学校(Naval Academy)で駐屯任務を割り当てられました。1862年1月、連隊はアンブローズ・バーンサイド少将(Ambrose Burnside)が指揮する沿岸師団に配属され、ノースカロライナでの作戦に向けて師団と共に移動します。クラークは 1862 年 2 月に連隊の指揮を執り、1862 年 3 月 14 日のニューバーンの戦い(Battle of New Bern)で連隊を指揮します。

 その行動で、クラークは連隊が南軍の砲台に突撃し、敵の大砲にまたがり、彼の連隊を前進させるのです。この大砲は、交戦中に北軍が捕獲した最初の大砲でした。アマースト大学の学長の息子であり、この戦闘で戦死した第 21 マサチューセッツ連隊の副官であるフラザール・スターンズ中尉(Frazar Stearns)に敬意を表して、バーンサイド将軍からアマースト大学に贈呈されます。その大砲はアマースト大学のモーガンホール(Morgan Hall) 内に設置されました 。

 1862年7月にマサチューセッツ第21連隊が北ヴァジニアに移された後、連隊は最終的にポトマック軍(Army of the Potomac)の一部となり、第二次闘牛場の戦い(Second Bull Run)、アンティータムの戦い(Antietam)、フレデリックスバーグの戦い(Fredericksburg)など、この戦争における最も大きな戦闘のいくつかに参加した.連隊は、1862 年 9 月 1 日のシャンティリーの戦い(Battle of Chantilly)で最悪の犠牲者を出します。森の中で雷雨をついての戦いの混乱の中で、クラークは連隊から離れ、ヴァジニア州の田園地帯を 4 日間さまよい再び軍隊に戻ります。彼が行方不明になっている間、戦死したと誤って報道され、アマーストの新聞は彼の死亡記事を「またも一人の英雄が去った」(Another Hero Gone)という見出しの下に掲載したほどです。

 退役後、1867年にクラークはマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College: MAC)の第 3 代学長に就任します。彼は教員を任命し、州内の学生を集めた最初の人となります。当初は大学の運営は成功していたものの、MAC は政治家や新聞編集者から、急速に産業化が進んでいる州で農業教育において資金を無駄にしているとの批判を受けます。マサチューセッツ州西部の農民は大学を支援するのが遅かったのです。これらの障害にもかかわらず、革新的な学術機関の組織化というクラークの業績は、やがて国際的な注目を集めます。その一つが札幌農学校への赴任と発展です。

 ウィリアム・クラーク博士の業績は、農学教育のリーダーとして札幌農学校、そして北海道大学の発展に寄与されたことが強調されがちです。ですが 軍歴についてはあまり知られていません。農学校でも学生に規律及び諸活動に厳格かつ高度な基準を設け士官養成を狙いとしたことが知られています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その99 外交問題と戦争の成否

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デイヴィスや多くの南軍の盟主たちは、イギリスやフランスが自分たちの独立を認め、戦争に直接介入してくれるものと期待していました。しかし、リンカンやスワード国務長官、チャールズ・アダムス (Charles Adams)駐英大使の巧みな外交術と、戦争の重要な局面での南軍の失敗により、彼らは決定的な支援を取り付けることに失敗します。

 イギリスとの最初のトラブルは、1861年11月、チャールズ・ウィルクス大佐(Capt. Charles Wilkes)が英国の蒸気船トレント(Trent)を停船させ、ヨーロッパに向かう2人の南軍使節、ジェームズ・メイソン(James M. Mason)とジョン・スライデル(John Slidell)を強制的に連行したときでした。最終的に二人は解放されたのですが、ロンドンのパーマストン卿(Lord Palmerston)の政府との外交的断絶だけは防ぐことができました。

 さらにアダムス駐英大使の抗議にもかかわらず、イギリス諸島で建造されたアラバマ号(Alabama)が完成後に出航し、南軍の海軍に加わることが許可されたことで、連邦とイギリスの間に危機が訪れます。さらに、イギリスで南軍のために2隻の強力な軍艦が建造されていることがリンカン政府に伝えられると、アダムスは有名な「これは戦争だ」というメモをパーマストンに送り、土壇場で軍艦はイギリス政府によって押収されたと言われています。

 サムター要塞の占領後、両軍は直ちに軍隊の調達と編成を開始します。1861年7月21日、南軍の首都リッチモンドに向かって行進していた約3万の北軍は、マナサス(Manassas)で止められ、トーマス・ジャクソン将軍(Gen. Thomas Jackson)とP・ボーレガード将軍(Gen. P.G.T. Beauregard)率いる南軍によってワシントンDCに追い返されます。敗戦のショックは北軍に活気を与え、北軍は50万人の増員を要求します。ジョージ・マッケラン将軍(Gen. George McClellan)は、北軍のポトマック軍(Army of the Potomac)を訓練する任務が与えられます。

 1862年2月、北軍のユリシーズ・グラント将軍(Ulysses Grant)がテネシー州西部の南軍の拠点であるヘンリー砦(Fort Henry)とドネルソン砦(Fort Donelson)を占領し、戦争の最初の主要作戦が始まります。この行動に続いて、北軍のジョン・ポープ将軍(Gen.John Pope)がミズーリ州ニューマドリッド(New Madrid)を占拠し、4月6、7日のテネシー州シロー(Shiloh)での流血の戦いがありますが、決定的な結果とはならず、6月にはテネシー州のコリント(Corinth)とメンフィス(Memphis)を占拠することになります。また、4月には北軍の海軍大将デビッド・ファラガット(David Farragut)がニューオリンズ(New Orleans)を制圧します。

 東部では、マッケランがリッチモンド攻略のために10万人の兵力で待望の進攻を開始します。リーと彼の有能な副官であるジャクソン(Jackson)とJ.E.ジョンストン(J.E. Johnston)の反対で、マッケランは慎重に行動し、7日間の戦い(Seven Days’ Battles)で後退し、彼の半島キャンペーンは失敗に終わります。第二次ブルランの戦い(Second Battle of Bull Run)で、リーはポープ率いる別の北軍をヴァジニア州から追い出し、その後メリーランド州に侵攻します。マクレランはアンティータム(Antietam)でリーの軍勢を牽制することができます。リーは撤退後再編成しますが、12月13日にマッケランの後継者であるA.E.バーンサイド(A. Burnside)にヴァジニア州フレデリックスバーグ(Fredericksburg)で大敗を喫してしまいます。

 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫ります。さらに、翌1863年1月に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示します。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その98 政党内部の対立

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戦争の指導者である北軍のリンカンと南軍のデイビスの両者は、それぞれの党派で深刻な攻撃を受けます。どちらも反対者の主張に直面しました。リンカンの場合、東部の都市へのアイルランド移民と北西部の州の南部生まれの入植者は、特に黒人に対して敵対的であり、したがって解放に対して反対でした。他の多くの北部人は戦争が長引くにつれて不満を抱くようになりました。

 奴隷制の足がかりがあまりなかったサザン・ヒル・カントリー(Southern hill country)の住民も、同様にデイビスに対して敵対的でした。さらに、戦争を遂行するために両指導者は政府の権限を強化する必要があり、戦争をもたらした統合のプロセスをさらに加速させていきます。その結果、両政府は州知事から激しく攻撃され、州知事はその権限の侵害に憤慨し地方自治を強く支持していきます。

 北部の政治上の不満は、1862年の議会選挙で示され、リンカンと彼の党は世論調査で激しい反発を受け、下院で過半数を占めていた共和党の議席が大幅に減少します。同様に南軍も1863 年の議会選挙は政権に非常に強く反対したため、デイヴィスは、南軍の支配下にあったアッパーサウス(upper South)の州からの代表者と上院議員の継続的な支持によってのみ、指導性を発揮することができました。その結果、新たな選挙を行うことができなくなります。

 1864年8月になり、リンカンは大統領に再選されることが悲観的となり、民主党候補のジョージ ・マクレラン将軍(Gen. George McClellan)が自分を破るであろうと予想していました。ほぼ同時に、デイビスは連合の副大統領であるアレクサンダー・スティーブンス(Alexander Stephens)によって公然と攻撃されました。しかし北軍の勝利、特にウィリアム・シャーマン (William Sherman)のアトランタ占領は、リンカンに大いに味方します。そして、戦争においてが北軍が勝利を収めたとき、彼の人気は最高潮に達します。他方、デイビス政権は敗北が続くたびに支持を失い、1865年1月、南軍議会はデイビスに対してロバート・リー(Robert Lee)を南部全軍の最高司令官にすることを主張するのです。こうして一部の人は、明らかにリーという強力な指導者の誕生を期待したのです。

 南北戦争で奴隷制や南部の没落を描いた映画に「風と共に去りぬ」があります。主人公はスカーレット・オハラという女性です。アイルランド系の移民で大農場を経営していたのですが、、。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その97 戦争の政治的経過

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次の4年間、北軍(the Union)と南軍(the Confederacy)は対立に陥りました。エイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)とジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)の政府が追求した政策は、驚くほど似ていました。両方の大統領は当初、軍隊の運営を志願兵に頼っていました。両政府は、戦争の初期段階で有色人種に群がった若者の大群を武装させ、装備させる準備が不十分でありました。戦闘が進むにつれ、両政府はようやく徴兵に訴えていきます。最初は南軍が1862年初めに、北軍はその後、1862 年後半にあまり効果のない対応をし、続いて 1863 年により厳しい法律を制定していきます。価格、賃金、または利益をあまり規制しないような経済問題における公正な政策を打ち出すのです。

 北軍と南軍が厳格な規制の対象としたのは鉄道だけでした。南軍は、独自の粉工場を建設する際に、「社会主義」(state socialism)についていくつか試みました。リンカン政権もデイヴィス政権も、戦争の資金調達に対処する方法を知りませんでした。どちらも紛争の終盤まで効果的な課税制度を発展させず、借金に大きく依存していました。資金不足に直面した両政府は、印刷機に目を向け、不換紙幣(irredeemable)を発行することを余儀なくされました。北軍は4億3,200 万ドルを「グリーンバック」と呼ばれる 償還不能で無利子の紙幣で発行し、南軍も同様な紙幣で 15億5,400 万ドル以上を印刷しました。その結果、双方で暴走したインフレが発生しました。これは、戦争の終わりまで続き、小麦粉が1バレル1,000ドルで販売されるなど、南部で劇的なインフレが続きました。

 戦争の根本原因である奴隷制度についても、両政府の政策は驚くほど似通っていました。南軍の憲法は、他のほとんどの点で北軍の憲法と似ており、奴隷制度を明確に保証していました。奴隷制度廃止論者からの圧力にもかかわらず、リンカン政権は当初、合衆国に残っていた 4 つの奴隷州であるデラウェア州、メリーランド州、ケンタッキー州、ミズーリ州で、奴隷解放に向けた動きが忠誠心を乱すのではないかという理由で、奴隷制の現状を黙認しました。

 1861年にリンカンが大統領に就任、1863年1月に奴隷解放宣言を発し、奴隷解放を戦争目的に掲げ、国際世論も北部支持に傾きます。それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国(Confederate)を成立させ、ジェファソン・デイビスを大統領に選出します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その96 1860年の大統領選挙と内戦の勃発

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 1860年の大統領選挙は非常に緊張した雰囲気の中で行われました。南部の人々は、自分たちの権利が法律によって保証されるべきだと判断し、領土内の奴隷制の保護を主張する民主党候補を支持します。そして彼らはスティーブン・ダグラス(Stephen Douglas)を拒絶し、その国民主権の教義を疑問視し、ケンタッキー州出身のジョン・ブレッキンリッジ(John Breckinridge)を支持します。

 ダグラスは、北部および国境州の民主党員のほとんどに支持されており、民主党候補で出馬しました。年配の保守派は、党派的な問題のあらゆる扇動を嘆き、解決策を提案しませんでしたが、ジョン・ベル(John Bell)を立憲連合党(Constitutional Union Party)の候補者として提案します。成功に自信を持っていた共和党員は、長い公務であまりにも多くの責任を負っていたウィリアム・スワード(William Seward)の主張を無視し、代わりにエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)を大統領候補に指名します。共和党の勢力はほぼ完全に北部と西部に限定されて、リンカンは一般投票では多数しか得られませんでしたが、選挙人団(electoral college)では大勝します。

 南部では、リンカンの大統領当選が脱退の合図となり、12月20 日にサウスカロライナ州(South Carolina)は合衆国から脱退した最初の州となります。すぐに南部の他の州がサウスカロライナに続きます。ブキャナン政権(Buchanan’s administration)による南部諸州の脱退を阻止しようとする努力は失敗に終わります。ブキャナンは国が分裂と内戦へ進むのを防ぐための統率力を発揮せず、消極的な対応に終始したといわれます。

 南部諸州の連邦要塞のほとんどが次々と脱退主義者に占領されていきます。他方、別の妥協点を探るワシントンでの精力的な努力は失敗に終わります。その最も期待された計画は、連邦上院議員のジョン・クリッテンデン(John Crittenden)による、奴隷州から自由州に分割するミズーリ妥協線を太平洋まで延長するという提案でした。

 脱退を目指している極端な南部人も、苦労して勝ち取った選挙での勝利の報酬を手にしていた共和党員も、妥協にはあまり関心がありませんでした。1861年2月4日、リンカンがワシントンで就任する1か月前に、南部の 6 つの州、サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、ルイジアナ)がアラバマ州モンゴメリーに代表を派遣し、新しい独立政府を樹立します。テキサスからの代表者がすぐに彼らに加わりました。

 ミシシッピ州のジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。

 こうした南部の既成事実に直面したリンカンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート・アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。

 この要塞に迅速に補給するか、撤退させるかの決定が必要でした。閣僚内部での苦悩に満ちた協議の後、リンカンは南軍が最初に発砲をするとしても物資を送る必要があると判断します。1861年4月12 日、北軍の補給船が窮地に立たされているサムター要塞に到着する直前に、チャールストン(Charleston)の南軍の大砲がサムター要塞に発砲し、戦争が始まりました。

 アメリカ史では北部と南部に分断した内戦は「the Civil War」(内戦の意味) と言われます。建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに黒人奴隷制問題が加わり、自由州と奴隷州のいずれに属するかというぬきさしならぬ対立に至ります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その95 「抑えがたい対立」とジョン・ブラウン

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1857年、連邦最高裁判所は、議会と大統領をが直面していた政党間の対立を解決しようとします。ミズーリ州の奴隷であったドレッド・スコット(Dred Scott)が、主人に連れられて自由な領地に住んでいるとして自由を求めた訴訟で、ロジャー・テイニー(Roger Taney)最高裁長官が率いる法廷の大多数は、アフリカ系アメリカ人はアメリカの市民ではなく、したがってスコットに法廷に訴訟を提起する権利はない、と判断したのです。

 テイニーはさらに、領土内での奴隷制を禁止するアメリカの法律は違憲であると結論づけます。黒人は人間ではなく財産に過ぎないという判決だったのです。それに対して北部の反奴隷主義の裁判官2人は、テイニーの論理とその結論に対して激しく非難します。南部では賞賛されたこのドレッド・スコット判決は、北部全域で非難され拒否されます。

 この時点になると、南北を問わず多くのアメリカ人が、アメリカではもはや奴隷制と自由は共存できないという結論に達していました。南部人にとっての答えは、もはや自分たちの権利と利益を守ってくれない連邦からの脱退という主張でした。彼らは、妥協案が検討されていた1850年のナッシュビル(Nashville)大会の時点ですでにこのことを討議しており、ますます多くの南部人が連邦からの脱退を支持していきます。北部人にとっての解決策は、南部の社会制度を変えることでありました。奴隷の即時解放や完全解放を主張する者はほとんどいなかったのですが、同時に南部の奴隷制という「特殊な制度」を抑制しなければならないと考える者は少なくなかったのです。

 1858年、ニューヨークの有力な共和党員ウィリアム・スワード(William Seward)は、自由と奴隷制の間の「抑えがたい対立」について語っています。イリノイでは、共和党の新進政治家エイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)が、ダグラスと上院の席を争って敗れますが、「片や奴隷、片や自由という状態では、この政府は永続することはできない」と表明します。

 1859年、ポタワトミー族虐殺(Pottawatomie massacre)の罪を逃れたジョン・ブラウン(John Brown)が、10月16日の夜、ヴァジニア州ハーパーズ・フェリー( Harpers Ferry)を襲撃し、奴隷を解放し、南部白人に対するゲリラ戦を開始しようとします。ブラウンはすぐに捕えられ、ヴァジニアの奴隷には彼の訴えに耳を貸すことはしませんでした。南部の人々は、これが自分たちの社会体制を崩そうとする北部の組織的行動の始まりだと恐れます。南部人はブラウンが狂信者であり、無能な戦略家であり、その行動は奴隷廃止論者でさえ疑問視したのですが、北部の人々のブラウンへの賞賛は増すばかりでした。

 ブラウンが奴隷解放の反乱に失敗して死刑が執行されたとき、北部の諸州では、教会の鐘が鳴らされ、弔砲が撃たれ、大規模な慰霊の式が行われたといわれます。エマーソンやソローのような有名な作家が多くの北部人の前でブラウンのことを誉め称えています。やがてアメリカ連邦(Union)とアメリカ連合国(Confederate)の離脱と南北戦争に繋がっていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その94 奴隷制をめぐる二極化

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ダグラスの中央政府よりむしろ地元の人々が奴隷制度についての決定をすることができる、という法案に対して北部の人々は激昂します。奴隷制を嫌ってはいましたが、共和制が緩やかなものである限り、南部の「特異な制度」を変えようとする努力はほとんどしていませんでした。実際、ウィリアム・ギャリソン(William Garrison)が1831年に『リベレーター』を創刊し、すべての奴隷の即時無条件解放を訴えた時には、彼の支持者はごくわずかで、その数年後にはボストンで実際に暴徒化したことがありました。しかし、南部と奴隷制度に無関心であることを、北部の人々はもはや公言することはできなくなり、政治の派閥は密接に結びついていきます。

 奴隷制の問題を中心に、アメリカのあらゆる制度に政党間の違いが現れ始めたのです。1840年代には、メソジスト(Methodists)や長老派(Presbyterians)といった国内の主要な宗教宗派が、奴隷制の問題をめぐって分裂します。北部や西部の保守的な実業家と南部の農場主を結びつけていたホイッグ人民共和党は、1852年の選挙の後、分裂し事実上消滅します。ダグラスの法案によりカンザス州とネブラスカ州で奴隷制が認められると、北部住民は反奴隷制政党を結成し始め、ある州では反ネブラスカ・民主党、他の州では人民党(People’s Party)となり、どの地域ではその党は共和党と呼ばれるようになりました。

 1855年と1856年の間に、カンザス州で奴隷制擁護派と反対派が入植してきて対立し、結果的に奴隷制反対派側が勝ちを収めることになりました。この出来事は、各州の関係をさらに悪化させ、共和党は強化されていきます。カンザス州は、かつて議会によって組織されていましたが、自由州と奴隷州の戦いの場となり、奴隷制に対する懸念と土地投機や職探しが混在する争いとなっていきます。

 自由州と奴隷州の対立する議会が正当性を主張し、事実上の内戦が起こります。入植者間の争いが暴力に発展することもありました。1856年5月、反奴隷制の拠点であったローレンス(Lawrence)の町を、奴隷制支持派の暴徒が略奪します。5月24日、25日には、自由州党派のジョン・ブラウン(John Brown)が小隊を率いてポタワトミー・クリーク(Pottawatomie Creek)に住む奴隷制推進派の入植者を襲撃し(Pottawatomie massacre)、5人を冷酷に殺害し、奴隷制推進派への警告として遺体を残して引き揚げました。

 合衆国議会も、こうした暴力行為を無視できませんでした。5月22日、サウスカロライナ州の下院議員プレストン・ブルックス(Preston Brooks)は、マサチューセッツ州の上院議員チャールズ・サムナー (Charles Sumner) がカンザス州の廃止論者を支持する演説をしたとき、自分の「名誉」が侮辱されたとして、上院議場で机を叩いて抗議します。1856年の大統領選挙で、投票が政党間で二極化することが明らかになります。民主党のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)第15代大統領に当選したものの、共和党候補のジョン・フレモント(John Fremont)が自由主義州の過半数の票を獲得します。

 現在、人種差別に関する学校教育が一つの論争となり、「白人の子どもに罪悪感を抱かせる教育を教師がしている」という声が保守派の間で高まっているといわれます。選挙が近くなると必ず争点になります。「批判的人種理論」という言葉も生まれています。

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