ヘンリー・ソロー(Henry David Thoreau)もエマーソンを師と仰ぎ、薫陶を受けた思想家です。エマーソンやソローらの改革者たちは、同じ志を持つ理想主義者と団結して新しい社会モデルを実践し、主張することに矛盾を感じませんでした。エマーソンらの精神は、同じような考えを持つ独立した個人による社会活動を通じて復活し、強化されることになったのです。
千年王国説(Millennialism)という、キリストの再臨を前に、世界はまもなく終わり、罪を清めなければならないという教えは、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)などの信仰復興運動家(revivalists) が説いたものです。この教えは、「世俗的完全主義」と対峙するものでした。世俗的完全主義とは、世界の仕組みを実現可能な形に変えることによって、あらゆる形の社会や個人の苦しみを取り除くことができるという考えです。
それゆえに、千年王国説によってさまざまな十字軍(crusade)や十字軍兵士などが誕生したのです。公教育が最も大事であると説いたホレス・マン(Horace Mann)は、マサチューセッツ州教育委員会の教育委員からアンティオキア大学 (Antioch College)の学長になり、学生たちに「人類のために何らかの勝利を収めるまでは、死ぬことを恥と思え」と説きました。ホレス・マンは政治家でもありましたが、「アメリカの教育の父」(Father of American Education)と呼ばれるほど、公教育の普及に尽力した人物です。
そのような反対を克服する一つの方法は、運命とされたり、社会から見放され、虐待されてきた人々の状態を改善することでした。例えば、サミュエル・ハウ(Samuel Howe)が率いた聴覚障害者への教育運動や、ボストンの企業家トーマス・パーキンス(Thomas Perkins)やジョン・フィッシャー(John D. Fisher)による盲人教育機関の設立があります。パーキンスは、キリスト教のビジネスマンにとって、自分の事業に対する神の祝福に感謝を示すために慈善事業を行うことは良い方法だと考えていたのです。また、ドロシー・ディックス (Dorothea Dix)は、神と科学に対する敬虔な信者であった独立宣言の署名者ベンジャミン・ラッシュ (Benjamin Rush)の先例にならって、精神障害者の酷い扱いを改善するための活動を行っていきます。
パーキンス盲学校(Perkins School for the Blind)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンの郊外にある、視覚や聴力障害、他の障害を合わせ持つ人たちのための学習センターです。卒業生には、ローラ・ブリッジマン(Laura Bridgman)、アン・サリバン(Anne Sullivan)、ヘレン・ケラー(Hellen Keller)がいます。
著名なフランス人政治思想家で法律家、外務大臣を務めたアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に観察します。そして、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると感じていきます。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを支えていると観察します。
一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、大陸の東北に位置する大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。長年「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われていたのですが、やがて豊かになると、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に暮らしていましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。
トクヴィルはアメリカで9カ月間の視察旅行をします。このときの体験をもとに書いたのが『アメリカのデモクラシー』(Democracy in America)という本です。「アメリカはデモクラシーの最も発達した国であり、デモクラシーこそ人類の共通の未来である以上、アメリカはフランスの未来である」と書いています。この書物は近代民主主義思想の古典といわれています。「民主主義においては、人々は自分達にふさわしい政府を持つ」とは彼の言葉です。
1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。
1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な農地への期待を持ちます。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。
そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズなのです。ヴァルデイズでは毎年夏に「From This Day Forward」という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活など苦難の歴史を演じる内容です。
アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で学ぶ定番のものとなっていきました。
それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。
エドガー・アラン・ポーは「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)、「黒猫」(The Black Cat)、「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue)などの推理小説や「黄金虫」(The Gold-Bug)など多数の短編作品を発表します。有能な雑誌編集者であり、文芸批評家であったともいわれます。しかし、アメリカ文学がもともと清教徒の多い北部ニューイングランドで起こったもので彼の作品は不人気だったといわれます。
たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学(University of RhodeIsland)の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。
時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けます。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助は、大規模ではありませんでしたがアメリカの産業化にとって重要でした。
1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したのがフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) です。その町は後に彼にちなんでローウェルと名付けられます。父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。
海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川(Mississippi River)流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。1824年のギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争で、マーシャル最高裁長官(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。
ロバート・フルトンは、最初の商業的に成功した蒸気船の開発で知られエンジニアです。1807年の頃です。当時の蒸気船はまともに動くものがほとんど無かったために、ハドソン川での試運転までは周囲から「フルトンの愚行」と揶揄されていたようです。またフルトンは、世界初の実用的な潜水艦の1つであるノーチラス(Nautilus)を発明したことでも知られています。「海底二万里」(20000 Leagues Under the Sea)というアメリカ映画の潜水艦名もノーチラスでした。