心に残る一冊 その61 「晩秋」 町奉行日記から

山本周五郎作の「町奉行日記」からです。徳川氏の最重要拠点であった岡崎藩の重臣新藤主計は、強い義務感を持ち重税政策を藩内で実行しようとします。部下の浜野新兵衛はそれに反対し上申書を出します。ですがそれが受け入れられず切腹を言い渡されます。やがて、主君の死後、主計はお家の改革のために国許に預けられ裁きを受ける身となります。新兵衛の娘、都留は主計の世話役を命じられます。

主計は都留の父を死に追いやった張本人です。都留は母から懐剣を預かって、仇を遂げてほしいと云われます。彼女は主計の世話をしながら仇討ちをしようと考えます。都留は、自分は女であるのに父母の想いを背負わなければならないという複雑な思いを抱いていたはずです。

主計は蟄居以来、時を惜しんで文書の整理に没頭します。それは自らの失政を示す書類をつくり、裁きの場に出そうとしていたのです。それを側で見ていた都留は次第に復しゅう心が萎えていくのです。そして「少しお肩をもみましょうか、、」と主計に声をかけます。

主計は云います。
「わたしはお前を知っている。お前が誰の娘かも、、ふところから懐剣をはなさないことも、、今朝は懐剣を持っていないようではなか、、」

そうして肩をもみながら、都留と主計は庭のうつろいを見つめます。主計は呟きます。

「花を咲かせた草も実を結び枝も枯れて一年の営みをおえた。幹や枝は裸になり、ひっそりとながい冬の眠りに入ろうとしている。自然の移り変わりのなかで、晩秋という季節の美しさは格別だな」

心に残る一冊 その60 「土佐の国柱」 町奉行日記から

主人公は土佐藩の高閑斧兵衛という山内一豊の懐刀です。かつて一豊は安土の馬寄において、妻が金十両をだして良人に名馬を買わしめたというので信長の目にとまり、出世の端緒を得ます。斧兵衛はずっと一豊に仕えてきたのです。慶長五年、一豊は土佐に封じられます。長宗我部が長年領主として君臨してきた土佐です。名君として領民によって神の如く崇拝されたのが長宗我部一家です。

一豊が土佐にやってきたのですが、長宗我部を慕う土民が多く、一豊も施政の上で苦労するのです。一豊が亡くなりその息子山内忠義が跡を継ぎます。実は一豊の死に際して、追腹を切るつもりであった斧兵衛ですが、一豊から「三年待て」といわれていました。

一豊の百日忌の仏事の行列に土民の中から生魚が投げ込まれます。家来達は土民を捕らえ斬ってしまえと叫びます。そこに一豊の寵臣であった斧兵衛がやってきて、「鎮まれ!」と叫ぶのです。それは土佐の旧領主長宗我部の遺徳をいまだに慕う領民を山内側に統一せよ、と生前に一豊に言い含められていたからです。我慢せよという意味が込められていたのです。

斧兵衛は手を尽くして領民の慰撫につとめるもその効果が上がらず、藩内からも斧兵衛の手ぬるさを非難する者も多くいました。やがて斧兵衛は反山内派の豪族や残党を集め、彼らと共に山内に叛旗をひるがえそうと密謀します。斧兵衛の娘小百合がその密謀を知って隣に住む池藤小弥太に伝えたのです。実は小百合が密謀を知ったのは偶然ではなく、斧兵衛が反山内派の一味を滅ぼすための苦肉の策であることをほのめかしたのです。そして密計は発動前に発露し、斧兵衛も討手の小弥太の手にかかり討ち取られます。

最期に及んで「最早お家は万歳!」と笑みを湛えた斧兵衛を小弥太はみるのです。こうして反山内の一味は滅ぼされます。山内忠義はこれをきいて感動に震えます。そして「斧兵衛は土佐の国柱なり」と述懐するのです。斧兵衛は当家にとって格別な者であることを知ったのです。一豊と斧兵衛の心と心がかくまで触れ合うものかと忠義は思い起こすのです。

心に残る一冊 その59 「誰がために鐘は鳴る」

この作品は、アーネスト・ヘミングウエイ(Ernest M. Hemingway)の小説「老人と海 (The Old Man and the Sea)」、「武器よさらば (A Farewell to Arms)」と並ぶ名作といわれています。スペイン内戦 (Spanish Civil War)を主題としています。原題は「For Whom the Bell Tolls」。

スペイン内戦は、スペイン軍の将軍フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)に率いられたグループがスペイン人民戦線政府といわれた共和国政府に対してクーデター(military coup)を起こすことにより始まります。この内戦は1936年から1939年まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結します。それによってフランコ政権下というファシスト体制ができあがるのです。この政権はやがてイタリアのムッソリーニ(Benito Mussolini)やドイツのヒットラー(Adolf Hitler)からも支援を得て連合国と戦うことになります。

舞台は、スペイン、マドリッド(Madrid)の郊外の山中です。すでにファシスト軍の包囲にあり、共和国軍はその攻撃にさらされます。一アメリカ青年ロバート・ジョーダン(Robert Jordan)は、その激しい情熱によって、スペイン内戦に馳せ参じ共和国政府軍の義勇軍に加わり、ファシスト軍への救援を阻止するためにパルチザン(Partisan)であるゲリラ隊を指揮して山中の橋を爆破しようとします。彼の活動は4日3晩という期間なのですが、死の爆破を前に知り合ったスペイン人の娘マリア(Maria)と熱烈な恋に陥いります。

ジョーダンはファシスト軍への最後の抵抗を試みるために、マリアと別れて一人立てこもります。そして 「誰がために鐘は鳴る」は、次の文で終わります。

「ロバート・ジョーダンは木陰に伏せて、注意深く細心に気を引き締めて、両手をしっかり支えていた。彼は敵の士官が、松林の端の木々と草地の緑の斜面との境目のあたり、日の光のあたっているところまでくるのを待っていた。彼は、森の松葉の散り敷く地面に押しつけられた心臓が、激しく鼓動するのを感じることができた。」

心に残る一冊 その58 「変身」

カフカ(Franz Kafka)は、チェコフロバキア共和国(Czechoslovakia)の首都プラハ(Prague)のユダヤ人の家庭に生まれます。チェコフロバキアは11世紀頃からドイツ化が進んだため、カフカもまたドイツ語に精通していました。斜陽となったオーストリア帝国に支配されていたのがチェコフロバキアです。法律を学んで学位を取得し保険局に勤めながら作品を執筆し始めます。父親は頑健な立志伝にあるような商人だったようです。カフカはこの父の圏内に生きることで苦しめられたといわれます。

 

 

 

 

 

やがて「ユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させる」ような独特の小説作品を残していきます。「変身」(The Metamorphosis)は、旅回りの布地販売員グレゴール・ザムザ(Gregor Samsa)が主人公です。いつも骨の折れる職業を選んだことを後悔しています。毎日毎日旅をしながら、商売上の神経の疲れを感じています。旅の苦労は、汽車の乗り換え、不規則で粗末な食事、絶えず相手が変わって長続きせず、決して心からうち解け合うようなことのない人付き合いをしています。

「ある朝、ザムザが気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっていることのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。」

勤めてから一度も病気になったことないグレゴールは、ベッドの上で考えます。恐らく雇い主は家に電話をかけて、どうして出勤しないのかと聞くだろう。そして、健康保険医を連れてきて、両親に向かって怠け者の自分を非難するだろうと。やがて次第に家族に疎まれていきます。

虫への変身という変わったモチーフは作者カフカの人間として境遇を見つめる姿を表しています。希望と絶望、真実と虚偽、自由と束縛、現世の生活と未来の生活、という人間のさまざまな対立と不断の緊張にある存在をカフカは描くのです。

心に残る一冊 その57 「車輪の下」

ドイツ語原題は「Unterm Rad」、英語では「Beneath the Wheel」です。作者は「郷愁」や詩集でも知られるヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)です。

ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい心の少年ハンス・ギーベンラート(Hans Giebenrath)は、豊かな天分を有しています。ハンスは父親や牧師や教師の野蛮な虚栄心との葛藤で成長します。周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、難関とされるヴュルテンベルク(Wurtemberg)州立学校の試験に合格し、14歳のときにマウルブロン(Maulbronn)神学校に入学します。

「リンゴの木の下で彼は湿った草地に横になった。さまざまな不快な感情や悩ましい不安やまとまらない考えのために眠ることができなかった。彼はけがされはずかしめられたような気持ちがした。どうして家に帰れよう?父親に何と言おう?明日は自分はどうなるだろう?彼はもう永遠に休み、眠り、恥じねばならないかのように、すっかり滅入り、みじめな気持ちになった。頭と目が痛んだ。立ち上がって歩き続けるだけの力も、もうなくなっていた。」

ひたむきなハンスが、必死になって夜遅くに机にうつ伏すまで勉強する姿、試験に通った喜びに胸を躍らせる姿、それは多くの読者に伝わります。しかし、神学校の生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものでした。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、半年で学校を去って見習い工として出なおそうとします。しかし、その努力はやがて権威との戦いに敗れ、犠牲となっていきます。無理解な教育という車輪の下敷きになり、生活に敗れ、はかない初恋によろめき死に去っていくのです。当時のヘッセの経歴は、「車輪の下」の原体験となっていると言われます。

心に残る一冊 その56 「月と6ペンス」

「月と6ペンス」の作家はサマーセット・モーム(Somerset Maugham)。原題は「The Moon and Sixpence」 です。まずはこの小説のストーリーです。ロンドンの一株式仲買人であるストリックランド(Charles Strickland)という平凡な家庭人が主人公です。この四十男が突然ものに憑かれたように、自分は絵を描くのだと言い出し、妻子を棄てて出奔します。いろいろな徘徊を重ねて、やがて太平洋タヒチ島(Tahiti)にわたり、最後はライ病(leprosy)にかかりながら、会心の大作を残して亡くなります。

次のような情景があります。ライ病に罹ったストリックランドは自分が納得する果物の絵を描きます。側には、現地人の娘のアタ(Ata)がかいがいしく寄り添います。当時この辺の島では隔離ということが厳しく行われていなかったので、ライ病患者は自分が望めば、自由に居住することが許されていたようです。

「俺は山の中に入る」 ストリックランドはいった。
するとアタは、さっと立ち上がって、彼と向かい合った。

 「ほかのものは、行きたけりや、行かせていいけど、わたしはあんたを放したりはしないわ。あんたは私の男で、わたしはあんたの女だもの。あんたがわたしをおいて行くのなら、わたし、家の裏にあるあの木で首を吊ってしまう。神様に誓ってもいいわ。」

一瞬、ストリックランドの剛毅さがぐらつき、両の目が涙で一杯になり頬を伝わって流れます。

主人公ストリックランドの遍歴からは、人は決して首尾一貫した存在ではないこと、善人と思われる者も、実はとんでもない悪の因子を秘めていること、逆に悪人であってもどうにかすると珠玉のような善の要素をもっているのだということが語られます。表から見ただけでは人間はわからない存在であることをモームはストリックランドを通して言わせています。

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心に残る一冊 その55 「風と共に去りぬ」

アメリカ南北戦争(American Civil War)時代を舞台とするリアリズムの歴史小説といわれるのがこの作品です。原題は「Gone with the Wind」。出版は1936年です。作者はマーガレット・ミッチエル(Margaret Mitchell)。映画にもなりました。南北戦争は1861年から4年間続きます。

Olivia de Havilland and Hattie McDaniel, featured here in a scene still from “Gone with the Wind,” were both nominated in the Supporting Actress category at the 12th Academy Awards®. McDaniel won the Oscar® for her role as Mammy in the 1939 film. Restored by Nick & jane for Dr. Macro’s High Quality Movie Scans Website: http:www.doctormacro.com. Enjoy!

北軍(Union)と南軍(Confederate Army)の戦いによる南軍の敗北、破壊と再建というアメリカで最も激動の時代を描きます。そこに生きたのが、美貌で勝気な気性の少女スカーレット・オハラ(Scarette O’hara)です。彼女を巡る愛欲関係と激動する社会を南部人の立場から描いています。

ジョージア州(Georgia)アトランタ(Atlanta)は南部の心臓部です。そこに近いタラ(Tara)に大農場主オハラ家の娘がスカーレットです。しかし、スカーレットは、近くに農場を持つウィルクス家(The Wilkes)の長男、アシュレイ(Ashley)の貴族的で優雅な文化と教養に惹かれます。アシュレイにはメラニー(Melanie Hamilton)という献身的で寛容な妻がいます。

緒戦は南軍が優勢でした。綿花を中心に農業を中心として富を貯え、さらに多くの優秀な指揮官がいたこと、奴隷制を維持し南部の生き方を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かったといわれます。戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていきます。

もう一人の主人公がレット・バトラー(Rhett Butler)。すでに南軍の敗北を予見し、戦争を馬鹿げた浪費だといって、密輸入によって巨利をしめる大胆な男です。スカーレットの前に現れては、独特のやり方で求愛し、やがて二人は結ばれ娘をもうけます。しかしスカーレットは娘を失います。自分を姉のように慕っていたメラニーまでが流産により命を落とします。死の床のメラニーに指摘されて初めて自分が愛しているのはアシュレイではなくレットだということを自覚します。

メラニーによって、スカーレットはそれまで何かを探していた自分のその何かがようやく見つかったと思い急いで帰宅し、レットに愛を打ち明けるのですが、レットはすでにスカーレットに疲れきっていました。もはやスカーレットを愛してはいないことを説明し、故郷に帰ってしまいます。娘とレットとメラニーを失い、ついに孤独となったスカーレットは、タラの地にて再出発の一歩を踏み出そうと決意します。

心に残る一冊 その54 「登と赤ひげ」

「赤ひげ診療譚」の続きです。小石川養生所の医師、新出去定は赤ひげ先生とあだ名されています。治療は手荒く、言葉もきわめて辛辣で乱暴です。見習いでやってきた保本登はその言動をじっと見ています。去定は徹底した合理主義者です。「医術がもっとすすめば事態は変わるだろう。だがそれでもその個体の持っている生命力を凌ぐことはできないだろう。」このように生きることの畏敬の念が去定の行動を支えていることを登は感じていきます。

あるとき、狂女といわれた住人の精神障害の原因究明を去定は登に命じます。それは生い立ちから今に至るまでの生活歴を徹底的に調べるということです。登は患者と面談をしながら、狂いがいじめやいやがらせを避けるための見せかけの振る舞いであることに行きつきます。そうした行為には貧しさと無知があることに気がつき、去定の医術に対する姿勢に私淑していくのです。

またあるとき、登は五郎吉とおふみという夫婦の一家心中に出会います。4人の子どもとともに鼠いらずを飲むのです。この家族は息つく暇もないほどの貧乏暮らしをしています。長屋では隣近所で兄弟以上の付き合いをしながらも死ななければならないほどだったのです。おふみは枕の上でゆらゆらとかぶりを振りながら登にいいます。

「子ども達も人並みに育てることは出来ない。育てるどころか、長次には盗みを教えてきたようなものだ。親たちからあたしたち夫婦、そしてこのままいけば子どもまで同じ苦しみを背負わなければならない。もうたくさん、もうこれ以上本当にたくさんだ、、」

「もし、あたしたちが助かったとして、そのあとはどうなるんでしょうか。これまでの苦労がいくらかでも軽くなるんでしょうか。そういう望が少しでもあったんでしょうか。」

登は不幸や貧困や病苦の姿から、そこに現れる庶民の赤裸々な生き様を見ます。そして養生所に残る決意をします。赤ひげは登の延長上にいるようです。何十年かの後の登は、まさに赤ひげであるかのような予感がしてくるのです。

心に残る一冊 その53 「ノルウェイの森」

「分厚い雨雲をくぐり抜けて着地すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズ(Beatles) の「ノルウェイの森」(Norwegian Wood)だった。」

この小説は、私の愛読書にはいるかどうかは今も定かではないのですが、主人公のワタナベの不真面目さと真面目さがまざって、それでいて青春の苦悩が伝わります。愛する者との別れと喪失感、そして再生への歩みが、とりまく恋人、友人、先輩によって語られます。たしかに、興味のある小説です。ですが「チボー家の人々」や「三太郎の日記」の主人公とは違って社会を変えようとしたり、変革しようとする思想は薄いような印象です。

「今では僕の脳裏に浮かぶのはその草原の風景だ。風の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かび上がってくる。とてもくっきりと。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。」

「ここのいちばん良いところはね、みんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているから、お互いを助けあおうとするの。他のところはそうじゃないのよ。残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは、私たちは助けあうの。」

このような記述からは、社会もこのような助け合いの仕組みと人々の意識が必要ではないかと、作者はワタナベをして主張します。なにかしらこの主人公は作者本人の化身ではないかとさえ思えてきます。直子、レイコ、キズキ、緑、永沢らはそれぞれ個性的で、20歳のワタナベが成長するのを支えているようです。

心に残る一冊 その52 「赤ひげ診療譚」

主人公は赤髭先生の新出去定か、医員見習の保本登なのかは定かではありません。山本周五郎の有名な作品です。貧しく蒙昧な最下層の男女のなかに埋もれる幻滅から、登は赤髭に抵抗するのですが、彼の一見乱暴な言動に脈打つ強靱な精神に抗いながらも次第に私淑し成長していきます。

長崎での遊学で蘭学を勉強した登は、幕府の表御番医や御目見医を目指して、勇躍江戸にやってきます。だが、同じく町医者であった父親が、小石川養生所で新出去定から教えを受けるように登に言いつけるのです。登はふてくされ、周りの者を卑下し自分のプライドをぶら下げて、一刻もはやく養生所を出ようとします。養生所にやってくるのは誰も行き場所がなく、棄民のような姿です。暑い最中、赤髭に同行し回診しながら江戸に暮らす庶民の生活を知ります。その道すがら、赤髭は登に語るのです。

現在、われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ。貧困と無知に勝ってゆくことで、医術の不足を補うほかない。

それは政治の問題だという云うだろう。誰でもそう云って済ましている。だがこれまでかって政治が貧困や無知に対してなにかしたことがあるか。貧困だけに限ってもいい。江戸開府このかた、幾千百という法令がでた。しかし、その中に人間を貧困のままにして置いてはならない、という箇条が一度でも示された例があるか、、、、

貧しい人間が病気になるのは大部分が食事が粗悪なためだ。金持ちや大名が病むのはたいてい美味の過食ときまっている。世の中に貪食で身を滅ぼすほどあさましいものはない。あの恰好を見ると俺は胸が悪くなる。

このようの赤髭は登に述懐するのです。

山本周五郎の多くの作品は、江戸時代に材をとっています。武士の哀感や市井の人々の悲喜を描いています。後に触れますが、「日本婦道記」とか「釣忍」などの作品に人間模様が克明に写しだされています。その世界は義理人情ではなく、命の尊厳とか人間性の回復ということがテーマとなっているようです。庶民の側に立った稀有の反権力者ともいえそうな作家です。

心に残る一冊 その51 エマソンと「自己信頼」

ラルフ・エマソン(Ralph Emerson) は、1800年代に主としてマサチューセッツ(Commonwealth of Massachusetts)で活躍した思想家、哲学者、作家、詩人です。彼を「自己啓発の祖」などと呼ぶ人もいます。本人は「そんな呼び名はどうでもよい」と思っているでしょうが、、、、彼の業績を称えるように全米各地に「Emerson」や「Thoreau」のついた小中学校があります。

「自己信頼(Self Reliance」という彼の著作があります。これを紹介してみます。私がこの本を読んで一番感じ入った言葉があります。

「人間は臆病で弁解ばかりしている。すっかり自信を失い、自分はこう思うとか私はこうだ、といいきる勇気もなく、どこかの聖人や賢人の言葉を引用している。」

「心に残る一冊」を通して、私も他人の信条や思想に共鳴しながらこのシリーズを描いているのでエマソンのこの言葉に少々狼狽えます。

「私たちは吟遊詩人や賢者たちが放つ目も眩むような輝きよりも、自分の内側でほのかに輝いている光を見つけ、観察するべきだ。人は自分の考えをそれが自分のものだ、という理由で無造作に片付けてしまう。そして天才の仕事をみるたびに、そこに自分が却下した考えがあることに気づく。これは、優れた芸術作品を前にしたとき、私たちが学ぶ最大のことに違いない。これらの作品は、たとえ周囲のすべてが反対していようとも、にこやかに、しかし断固として自分の中に自然に湧き上がってくる印象に従うべき、と教えてくれる。」

自分の印象や考えを徹底的に信じ生きることが大切だとエマソンはいうのです。

「さもなければ、翌日にはあなたがいつも考え、感じてきたものと全く同じことをどこかの誰かが言葉巧みに語り出し、あなたは恥じ入りながら、自分の意見を他人から頂戴する羽目になる。」

エマソンの主張する自己信頼とは、利己心とは違うようです。彼のいう自己信頼とは、自己(ego)ではなく、自分の中に住む普遍的な存在を指しているようです。これは精神の自律ともいうべき境地かもしれません

心に残る一冊 その50 「西部戦線異状なし」

原題は「Im Westen nichts Neues」、英語は「All Quiet on the Western Front」という小説です。作者はドイツ人エーリヒ・レマーク(Erich Remark)。第一次世界大戦が始まったのは1914年8月です。それらか4年間の戦いで集結しますが、フランス、ドイツ、イギリス、カナダ、アメリカらの兵士や市民あわせて326万人が犠牲となります。

この小説は、兵士達の勇敢で英雄的な行為を賛美するものではなく、兵士達が置かれた過酷な状況を描いています。絶え間ない砲撃や爆撃の不安、戦いの間の単調な時間、食糧難、訓練不足の兵士の消耗や生死が語られます。主人公はポール・ボイマー(Paul Baumer)というドイツ軍兵士です。学校の教師から従軍するようにかきたてられて入隊するのです。作者レマークも従軍し負傷して戦線を離脱してからこの小説を書いたといわれます。ポールとはレマークのことのようです。22か国語に翻訳され250万部も売れたといわれます。

西部戦線は、ドイツとフランスの国境沿いのことです。ルクセンブルグ(Luxembourg)、ベルギー(Belgium)をまたぐフランスの重要な防御線です。この西部戦線ではドイツとフランス軍が対峙し、一進一退の突撃や塹壕線が続きます。この膠着状態を打開するために始めて毒ガス、飛行機や戦車が投入されます。

ポールはある時、偵察を志願しそこでドイツ兵と白兵戦になり始めて相手を殺すのです。長く苦しむ兵士を目の当たりにして、彼のうえに悔いや良心の呵責、そして赦しの感情がこみ上げてくるです。

心に残る一冊 その49 「風土–人間学的考察」

私の小さな本棚に岩波書店からでた「風土–人間学的考察」があります。昭和45年の第37版というものです。いかに世間で読まれてきた本かがわかります。著者は和辻哲郎。題名が示すように、人を取り巻くさまざまな現象の中に自然科学の対象ではない「風土」という概念を持ち込んで、人を風土における「関係」という視点で考察するのがこの本の中心テーマのようです。一般に風土の現象といいますと、人は単に風土に規定されるのみでなく、人は風土に働きかけてそれを変化させると考えられています。

和辻は、風土に関連して子どもと保護者の関係をかなり難解に説いています。ここでは私なりに「人を子どもとし、保護者や家族を風土として置き換えて」考えることにします。子どもは保護者によって完全に規定される存在ではありません。子どもには天賦の才能が備わっています。モンテッソーリ(Maria Montessori)はそれを秩序感と言っています。子どもの才能については様々に言われるのですが、この才能は保護者という風土が育み伸ばすものと考えられます。

子どは保護者の庇護にあり、保護者を変えたりすることができません。ですが、本来の生きることへの志向性があります。それをどのようの伸ばすかは、保護者や家族という風土にあるのではないかと考えられます。ここでの風土とは、時間を経て形成された暗黙のうちに他の時代にも受け入れられる普遍的なものです。

和辻は子どもと保護者という関係から論を進めて、次のように人間、男と女の存在をとらえます。
「人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち「間柄」における人である。人の「間」とは、アリストテレス(Aristoteles)も指摘したように、男と女との「間」である。男といい女という区別は、すでにこの「間」において把握せられている。すなわち「間」における一つの役目が男であり、他の役目が女である。この役目を持ち得ない「人」はいまだ男にも女にも成っていないのであり、男にも女にも成っていないものをいくら結合させてもそこに「男女の間」は成立しない。」

子どもを育てることは、男女のそれぞれに役目によってなされるのであり、そのことによって、子どももまた個人にして社会であるという「間柄」における存在として大人になるというのです。子どもをどのように育てるかは、もはや一家族のしつけや教育の方針に規定されるのではないというのが和辻の主張であります。

心に残る一冊 その48 「方法序説」 Discourse on the Method

フランスの思想家は日本人に知られ、思想界に広く影響を与えてきたように思えます。その代表といえばジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)、ヴォルテール(Voltaire)、シャルル・モンテスキュー(Charles Montesquieu)などの啓蒙主義を代表する人物です。さらにミッシェル・フーコ(Michel Foucault) 、オーギュスト・コント(Auguste Comte)など多彩な思想家を生んだのがフランスです。

どうしてこうした思想家が輩出したのでしょうか。それはフランスの教育制度にあるような気がします。フランスの学校は基礎知識を徹底的に教え込むのです。そして考える力や文章力をつけるということを指摘したのは「遙かなノートルダム」の作者森有正氏です。「方法序説」の原題はフランス語ですが、英語では「Discourse on the Method」とあります。「方法に関する講話」とでも訳しておきましょう。

デカルト(Rene Descartes)は少しでも疑わしいものは一応真理でないとして退け、まったく白紙から始めようと提案します。これは私にとって非常に興味をかきたてられる言葉です。彼はさらに言います。「違う文化を見るべし」とか「常識を無条件に受け入れるな」と。ところが、どうしても疑えない真理として彼に残ったのは、自分が疑っているという事実であり、疑うところの「わたし」の存在でありました。こうしてデカルトは「わたしは考える。だからわたしは存在する」ということを哲学の第一原理として宣言します。ここにデカルトの偉大な貢献があります。

「方法序説」は、デカルトの哲学を概略的に理解できる格好の書物です。彼の思想的な発展のあとをたどることができ、その考え方は現在にもに通じ応用することができるという意味で、この本の価値は大といえます。そのことを少しだけ解説してみましょう。

デカルトは自分自身の論理は、次の4つに集約されると主張します。
1) 真実だと明白に認識しない限り、真実とは受け取らない。
2) 問題は常に小部分に分解して解決する。
3) 単純なものから、複雑なものに順を追って解決する。
4) 思考に落ち度がないかどうか、確証を得る。

「われわれは嬰児として理性をよく使えないうちから、感覚するものについて真偽さまざまに判断をくだしているし、そうして出来てしまった多くの考えが、いま真理を知るさまたげとなっている。そういう考えからまぬがれるためには、いつか一度、少しでもたしかでないと思われるものは、みんな疑ってみるよりほかに仕方がないように思われる。」

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心に残る一冊 その47  「Transcendentalism」とエマソン

前回、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)の自然の中での簡素な生活の可能性を描いたことを綴りました。私の関心は、なぜ「自然からの崇高な啓示」を受けたのかであります。ソーロは奴隷制に反対し、「支配しない政府が最上の政府である」といった市民としての主権を主張もします。こうした思想の背景には、ハーヴァード大学で学んだこと、学校の教師についた経験があることなどが考えられます。ハーヴァード大学(Harvard University) はもともとは聖職者や指導者を養成する機関でありました。マサチューセッツ州の学校では体罰も容認されていました。こうした教育界の伝統にソーロは疑問を持ちます。

当時、マサチューセッツで文筆をふるっていたのがエマソン(Ralph Emerson) です。ハーヴァード大学の神学部を卒業し、やがてボストンにあったユニテリアン教会(Unitarian church)の副牧師となります。同時に州議会で儀式を執り行うチャプレン(chaplain)ともなります。エマソン父親もユニテリアン派の教職者でした。しかし、エマソンは次第に教会の組織や伝統、しきたりに懐疑的となり、もっと自由な立場で考え行動しようとして聖職を辞任するのです。ユニテリアンの信条は、「個人の思想信仰は権威への服従からではなく追求の結果から生じる」という宗教と哲学の折衷でまとまっています。

エマソンは同士とともに、1836年9月に「超越主義」を標榜する”Transcendental Club”という同好会を結成します。超越主義とは「先験主義」ともいわれ、人々を駆り立てるものは「思慮深い静寂」といった超越の体験(transcendentalism)であるという、ある種神秘的な考え方です。

私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、普遍の美が存在し、どの部分どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。

こうしたニューイングランドを中心に起った理想主義運動は、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する理神論,信仰による義認や予定説であるカルビニズム(Calvinism)などに反対します。カルビニズムはフランスの神学者であったJean Calvinの信仰思想のことです。そして認識や知識、真理の性質とかその起源、さらには人が理解できる限界などについて考察する認識論においては直観を重んじます。倫理的には人道主義や個人主義の立場に立ち,宗教的にはユニテリアン派に属する考え方といわれます。どこか汎神論的傾向が感じられます。

心に残る一冊 その46 「ワルデンー森の生活」

ボストン(Boston)から車で北西20キロのところ。独立戦争の口火を切った古戦場の一つ、レキシントン・コンコード(Lexington-Concord)があります。舞台は1775年頃です。このあたりは広大な森が広がり、そのあちこちに湿地や池などが点在します。ニューイングランド(New England)と呼ばれます。1845年、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)は、教育手段として使われていた笞打ちに反対し教師を辞任し、ここにあるワルデン池 (Walden Pond)のそばに簡素な家を建て、森の中でひとり2年余りの自給自足の生活を始めます。ソーロはアメリカの随筆家です。

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Henry D. Thoreau

1854年に出版されたソーロの「ワルデンー森の生活 (Walden, Life in the Woods)」は、ニューイングランドでの生活の記録です。自然のなかにその身を置いて、自然とともに生きることの意味を語っています。大事だと思われることは、ソーロにとって自然とはワルデン池と周りに広がる森という自然だけではないことです。自分自身が文明化され機械化されつつあるアメリカにあって、より自然体でいきることの意義を探すのです。自然体とは、生活に必要な最低限のものを自力で手に入れて生きることを意味します。ソーロは人間はそれができるのだと訴えます。

「素晴らしい絵を描き、彫像を刻むこと、こうした創造の能力は良いものです。けれど、人が生きて、描き、練り、暮らしを良くする芸術ほど、輝かしい芸術はないでしょう。日々の暮らしの質を高めることこそ最高の芸術ではありませんか。」

文明化した人の人生の目的が、未開の人のそれと比べ、格段の価値があるとはいえないとソーロはいいます。暮らしに必要な物と心地よさを追い求めることで十分だ、というのです。適量の豊かさで良いのではないか、、、このような暮らしをしていて、なぜ人頭税などを払う必要があるのか、とも訴え逮捕されたりします。

ソーロと同じ時期に執筆活動で活躍したアメリカを代表するといわれる文筆家で思想家が、エマソン(Ralph W. Emerson)です。彼もソーロと同じくハーヴァードを卒業し、一時牧師となります。教職を辞してからはコンコードに住むのです。「地としての世界の中に自分の理性に見えるとおりの意味を正直に読み取ろうという自己信頼の思想」を強調します。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

心に残る一冊 その45 「エミール」

架空の「エミール(Emile)」という金持ちの孤児で健康な少年を著者のルソー(Jean-Jacques Rousseau)が育てていくという設定で書かれています。誕生から年令にそって、子どもに何をどう教えるべきか、そして一人前の人間としてどのように育てるかという教育論が語られます。

ルソーはエミールをして、人間は生まれつき善良であることを知り、そのことによって自分自身によって隣人を判断できるのが大事だと説きます。社会がどのように人間を堕落させていくのか、人々の偏見のうちに社会のあらゆる不徳の源がなんであるか、個人の一人ひとりが尊敬を払うことの大切さも説きます。当時の教会を中心とする価値観や伝統などの慣習から解放され、個人の自由を理想とするとことを訴えます。

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている。」

「学問の研究にふさわしい時期があるのと同様に、世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期がある。あまりに若い時にそういうしきたりを学ぶ者は、一生のあいだそれに従っていても、選択することもなく、反省することもなく、自信はもっていても、自分がしていることを十分に知ることもない。しかし、それを学び、さらにその理由を知る者は、もっと豊かな見識をもって、それゆえにまた、もっと適切で優美なやり方でそれに従うことになる。」

伝統やしきたりで縛られる不幸な社会に生まれる子どもを、いかに「自然人」として育てあげるか。ルソーは「人間はもともと自由なものとして生まれた」というテーゼから論じています。

ルソーは、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示しています。自然による教育とは、これは子どもの成長のことです。人間による教育は教師や大人による教育です。事物による教育は外界に関する経験から学ぶということだと主張します。

心に残る一冊 その44 「シートン動物記」–狼王ロボ

イギリス人作家アーネスト・シートン(Ernest T. Seton)の作品はいろいろと読みました。子どもにも大人も動物の不思議な習性や行動、そして家族の絆や群れのつながりを教えてくれる作品です。シートンは長くカナダやアメリカで生活し、アメリカ・インディアンの生活を理想とし、今でいうエコロジー(ecology)と自然主義を基調として著作活動をした作家として知られています。

日本で一般に知られた標題は「狼王ロボ(Lobo, the King of Currumpaw)」。合衆国西南部、ニューメキシコ州北部が舞台です。カランポー(Currumpaw)と呼ばれる地帯です。多くの馬、牛、ヒツジなどが放牧される丘と小川が広がります。そこに一匹の灰色オオカミ「ロボ」がいます。ロボは並み外れた知恵と力を持ち、一族の集団を統率します。その群れは毎日のように牧場を襲い、牛やヒツジを殺します。土地の人びとは、ロボに畏敬の念すら込めて「カランポーの王者、ロボ」と呼びます。

ロボには高額の賞金がかけられ、オオカミ狩りの経験を持つシートンにも捕獲の白羽の矢が立ちます。しかしロボは悪魔のような賢さで、仲間をしとめようとする人間たちの挑戦を退けます。あらゆる術策は尽きたかに見えたとき、シートンはロボとつがいであるブランカ(Blanka)に目を付けます。そして捕えて殺すことに成功します。彼女を失ったロボは狂いブランカの血の臭いにおびき寄せられてシートンの罠にはまってしまいます。

本作のモチーフは、アメリカの大平原で展開されたオオカミと人々の暮らしです。シートンは言うのです。「もともとアメリカでは、先住民のアメリカ・インディアンはオオカミを敬っていた。白人とオオカミとの間に接点はなかった。だが白人が野牛が皆殺しにしたため、オオカミは牧牛を襲うようになり、それに伴いオオカミ狩りが始まったのだ。」

心に残る一冊 その43 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」

ドイツの社会学者テンニェス(Ferdinand Tönnies),が使ったゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)は、人間の社会関係を分析する概念として今も広く知れわたっています。ドイツ語辞書によりますと、「Gemein」とは市井の人、常民、庶民など、「Geselle」とは相棒、仲間、職人など,「schaft」は名詞・形容詞の語尾について、性質や状態が集まったものをあらわします。例えば、友達Freund にschaftが付くとFreundschaft で友情というわけです。ゲマインシャフトとは共同体組織、ゲゼルシャフトとは利益社会とか機能分化社会のことといわれます。

テンニェスによれば、人間の意志はさまざまな関係を営むとします。そこには肯定的な関係や否定的な関係があるのですが、大事なことは相互的な肯定の関係によって形づくられる集団である提起します。こうした集団はゲマインシャフトとゲゼルシャフトに区別されていきます。

まずゲマインシャフトとは、人間の根源的あるいは、自然的な状態としての人間の意思の完全な統一体であるとします。その例は、地縁、血縁、友情、家族、村落などです。こうした「共同体」は自然発生するというのです。町内会とか郷友会、自治会といった身近で緩やかな組織です。

これに対してゲゼルシャフトとは、平和的な仕方でたがいに生活していながら、本質的に結合しないで、利害関係に基づいて人為的に作られた利益社会を指します。近代社会の特徴はこのゲゼルシャフトの形成と発展にあるといわれます。その例は、大都市、国家、および世界という3つに代表されます。企業、同盟、連合体もそうです。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの分化は、人間関係に及ぼした影響です。関係が疎遠になり「疎外」ということが懸念されました。今ほど地域住民の相互性が強調される時代はありません。地域コミュニティの再形成を示唆したのがテンニェスの功績といえましょう。

心に残る一冊 その42  Intermission  感謝祭とPlimoth Plantation

今日で感謝祭の休暇が終わると、キリスト教会暦の典礼である待降節 (アドベント: advent)がやってきます。クリスマスのシーズンのことです。バッハ(Johann Sebastian Bach)のクリスマスオラトリオ(Christmas Oratorio)やキャロル(Christmas Carol )が聴かれる頃です。「12 Days of Christmas」もいいですね。こうした音楽を聴きながら、1600年代にイングランドやオランダなどからはるばる新大陸にやってきた人々ことを考えます。信仰が長い航海を支えていたとはいえ、さぞかし苦しい旅だったろうと察します。

ボストンから東南に車で一時間のところにメイフラワー号(Mayflower)が大西洋を渡って到着したプリマス(Plymouth)という港町があります。ここにメイフラワー号のレプリカが停泊しています。1620年9月にイングランドの南にあるPlymouthという港町から出航し66日をかけてこの地に到着し、その名がついたようです。そうした人々は巡礼者(Pilgrims)と呼ばれました。102名の乗船者中、最初の冬を越して生き残ったのは53名と半数の乗組員だったとあります。イギリス国教会からの信仰の自由を求めた人々です。1629年には清教徒(Puritans)がプリマスの北にあるセーレム(Salem)にも到着します。どちらもプロテスタントの人々です。

メイフラワー号に乗ってやって人々が作成した誓約書(Mayflower Compact)が残っています。後のアメリカ憲法の下敷きになったものです。この誓約は「アメリカ最初の憲法」という歴史家もいます。誓約書によって人々の暮らしや農場の秩序を保ったのです。

プリマスの郊外にある「Plimoth Plantation」のことです。1624年にイングランドからやってきた人々がこの居住地を開拓したという記録があります。今でいうコロニーです。ここには、住居、鍛冶屋、パン屋、洋服屋、学校、集会所、家畜小屋、倉庫、貯蔵庫、チャペル、そして牢屋もあります。当時は300人くらいが住んでいたようです。農場の柵の外で小麦や大豆、コーンなどを作りました。こうして共同体の生活が営まれました。ここは現在、入植当時の生活を再現した野外博物館となっています。プリマスは「アメリカの故郷」と呼ばれ、歴史的遺産を数多く残す観光地となっています。なぜか”Plimoth”と”Plymouth”は使い分けられています。