アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その40 印紙税法

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植民地の多くの土地所有者は、公式に流通が停止された紙幣の復活という大盤振る舞いの恩恵を受けました。しかし、重商主義政策の一環として、1765年にイギリスは北米植民地にアメリカ駐屯軍費の一部を負担させるため,イギリス議会が同地発行の新聞,証書などに最高10ポンドの印紙を貼ることにした印紙税法を制定します。この印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を打撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。内国税というのは、本来イギリス国内でさまざまなモノやサービスに課せられる税のことです。それを植民地にも持ち込もうとするのです。

Tax Stamp

 しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎになるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択されます。

 イギリス本国政府による印紙法の押しつけに対する反対運動は、植民地の抵抗運動を一段と強めていきます。さらにこうした抗議運動が植民地の枠を越えて拡がり、植民地13州の議会が連帯して印紙法会議を開催します。そこで、「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に照らし、植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税することはできないと決議し、印紙法の撤廃をイギリス政府に請願します。

 イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態に怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(Marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に印紙法の廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を統治し、立法する権限を有する」と宣言したのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その16 王室任命の知事と権限

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イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの重商主義帝国の権威を代表し、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地やその他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

 実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

Massachusetts Colony

 王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会し、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

 ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができたのです。

 大英帝国は、北アメリカ大陸の植民地化と統治のために、保護貿易主義をとり、さまざまな行政機構の整備をはかります。しかし、次第にその支配は複雑化し、やがてほころびが出始めます。

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