心に残る名曲 その八十七 「ロザムンデ間奏曲」第三番

「キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)」は11曲からなる劇です。その中に「間奏曲第3番変ロ長調」があります。この間奏曲はたったの3分ほどの曲です。さらっとした曲なのですが、静かで癒されるような美しい小品です。アンダンティーノ(Andantino)というアンダンテ(Andante)よりもやや速めに奏でられる印象的なヴァイオリンの主旋律は親しまれています。

 間奏曲の構成はきちんとしたロンド形式(ABACA)です。最初のAの部分は変ロ長調で始まります。シューベルトはこのメロディーがよほど好きだったらしく、最晩年のピアノ独奏曲『4つの即興曲』第3曲にも用いられているほどです。Aの部分は、四拍子で4小節づつ16小節で終わります。

次はト短調のBに移ります。少し変わった調子ですがこれもありでしょう。最後にニ短調に転調するところはより格調が高くなります。この部分は木管楽器の掛け合いが見事です。Bの後半でオーボエ(oboe)とクラリネット(clarinet)が互いに対話するように競演します。こうした演奏は云うことがないほど聞き惚れます。シューベルトの作品には、オーボエとクラリネットがしばしば登場するような気がします。そしてAの主旋律に戻って終曲となります。

 

 

 

心に残る名曲 その八十六 「キプロスの女王ロザムンデ」序曲

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は、日本で最も根強い人気のある作曲家の一人といってよいでしょう。たった31歳の生涯で、歌曲、室内楽、交響曲、そして劇付随音楽といわれる作品を600曲以上作ります。その半数が歌曲だったと音楽事典にあります。

ベルリン出身の女流作家ウィルヘルミネ・フォン・シェジー(Wilhelmine von Chezy)の戯曲『キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)のために作曲されたのがこの曲です。シューベルトは付随音楽として序曲の他にも劇に沿った音楽をいくつか作曲していたようです。ですがこの序曲のみが演奏されることが多いようです。

 「ロザムンデ」のあら筋です。貧しい田舎町で育った少女ロザムンデ(Rosamunde)でしたが、実は地中海の王国キプロスの王女だったことが分かります。王国に戻り王位を継承してロザムンデが女王に即位すると、王宮では王女の権力を狙って求婚する者が現れたりします。それを嫉んで毒殺を企てたりする者まで現れ、王女は命を狙われるようにもなります。そこへ、若き青年が現れ王女の危機を救い、二人はめでたく結ばれるというお話。

この序曲は、低音から迫るトランペットと弦楽器の演奏から始まります。フルートとオーボエが弦楽器の静かなメロディに合わせて静かに曲が続きます。そして、トランペットが数回響き、曲が静かになります。この序奏が終わると、弦楽器が明るく爽やかな調子に変わります。賑やかで明るいフレーズが軽快に聴こえてきます。軽快なリズムに乗ってティンパニが轟くと迫力も伝わってきます。途中ではオーボエやフルート等の管楽器がやわらかく聴かせる部分をなんどか繰り返し、トランペットやトロンボーンが高らかに響いて終曲となります。演奏時間は約9分位です。

心に残る名曲 その八十五 ジョン・フィリップ・スーザ その二 「雷神」

19世紀のマーチングバンド(Marching Band)の音楽に貢献したのがジョン・スーザです。父親はポルトガル系、母はドイツ系です。周りの音楽好きの人々に囲まれ、スーザは自然に音楽と親しむようになります。7歳のとき音楽の勉強を始め、父親の紹介で13歳のときに大統領直属のワシントン海兵隊楽団に入団します。そこでトロンボーン奏者となります。

 海兵隊楽団に5年間在籍し、それを退団して各地のオーケストラやバンドを転々とします。1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰します。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」や「雷神(Thunderer) 」はこの時期の作品といわれます。

1892年、スーザが36歳のとき「スーザ吹奏楽団(Sousa’s Band)」を結成し、9月にニュージャージー州で第1回の公演を行います。その後全米各地への演奏旅行に出掛けます。ヨーロッパにも数度の演奏旅行に出掛けます。当時はラジオやテレビがないので、演奏会はどこも満員だったといわれます。

スーザ吹奏楽団は金管や木管楽器、打楽器による大編成だったので、まるで「軍楽隊オーケストラ(military orchestra)」とも呼ばれました。多くの団員を擁していたので、野球チームを作ったようです。投手はもちろんスーザでありました。

「雷神」は華やかで軽やか、浮き浮きするようなメロディです。この作品は、スーザが最も早い時期に作曲しアメリカらしいサウンドの行進曲と呼ばれています。この行進曲は、スーザの他の曲と同様の標準的な形式(AABBCDCDC)をとっています。Bセクションの反復部では、対位法的旋律が導入されています。

心に残る名曲 その八十四 ジョン・フィリップ・スーザ その一スーザフォーン 

北海道の名寄南小学校で低学年を過ごしました。そのとき、学校に吹奏楽部がありました。そこで聴いたのが行進曲です。後でその曲がスーザ(John Philip Sousa)というアメリカの作曲家であることを知りました。道立旭川西高校でも吹奏楽部があり、街の祭りでは他の学校に交じって行進していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スーザは元アメリカ海兵隊(United States Marine Corps-USMC)の音楽隊隊長で「行進曲の王様(March King)」と呼ばれたようです。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」など100曲を超えるマーチを作曲します。「常に忠誠を(Semper Fidelis)」という曲は、海兵隊の正式行進曲として知られています。1987年12月に合衆国の「国の公式行進曲」(National March)に制定されたのが、「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」です。

吹奏楽部というのは、別名マーチングバンドなどと云われます。そこで用いられるマーチング用チューバのスーザフォーン(sousaphone)です。この楽器はスーザの考案によって命名されます。マーチングバンドの後方から放たれる重低音は、行進曲に重厚感を与えます。その巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示す楽器でもあります。

心に残る名曲 その八十三 メンデルスゾーン その3 ピアノ協奏曲第1番

メンデルスゾーンはバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)の設立など、19世紀の音楽界に大きな影響を与え一人です。1901年に瀧廉太郎がこの音楽院に留学しています。「ヴァイオリン協奏曲」「無言歌集」など今日でも広く知られる数々の作品を生み出しています。

ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲(Matthaw Passion)」を編曲し、自らの指揮によりこの曲の復活を果たします。1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な出来事だったといわれます。この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、慈善公演として成功させます。当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評されたほどです。ルーテル派に改宗したメンデルスゾーンは、マタイ受難曲を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と考えていたといわれます。

1826年に作曲したシェイクスピアの劇作「真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)」の序曲、「結婚行進曲(Wedding March)」なども知られています。ついでですが、祝婚曲といえばワーグナー(Richard Wagner)のオペラ「ローエングリン(Lohengrin)」の中の「婚礼の合唱」も有名です。

メンデルスゾーンはピアノ奏者でもあったので、曲には技巧を誇示するような華やかな雰囲気を感じさせてくれます。これは楽想は「カプリチオ的(Capriccio)」といわれ、形式にとらわれず生気のある楽曲です。ピアノ協奏曲第1番ト短調やヴァイオリン協奏曲ホ短調も管弦楽の序奏がなく、主題の展開で活き活きした着想と機知に富んだ点が目だちます。

メンデルスゾーンはまた多くの歌曲も作っています。ハイネ(Heinrich Heine)の「歌の本(Buch der Lieder)」の詩からとった「歌の翼に」や無言歌集第30番の「春の歌」も親しみのある旋律で有名です。

 

心に残る名曲 その八十二 メンデルスゾーン その2 交響曲第2番「賛歌」 

メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn) は、ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニストです。1809年生まれです。父Abraham Mendelssohnは銀行家、有名な哲学者Moses Mendelssohnの次男です。母Leaはプロイセン(Prussia)宮廷の宝石細工の娘でした。3歳のときベルリンに移住し、両親の慎重な教育計画にそって育てられます。9歳のときにすでにピアノ奏者として公衆の前で演奏し、神童の一人とも云われていたようです。

 メンデルスゾーンの家には、詩人、音楽家、哲学者、科学者が集まり、私的な音楽会を開いたり、芸術論をたたかわせるサロンのような状況であったようです。こうした環境でメンデルスゾーンは音楽や文芸的な素養が育まれたと考えられます。1816年に家族全員が改宗しルーテル教会信徒となります。ユダヤ系ドイツ人としての葛藤があったようです。1819年に1821年にはワイマール(Weimar)でゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)にも会います。1829年にイギリスを訪問し、イギリスの聴衆がメンデルスゾーンの音楽に対して共感を示します。旅先で「フィンガルの洞窟」を作曲します。

1830年からヨーロッパ中を駆け巡る旅が始まります。ミュンヘン、ウィーン、ナポリ、ローマ、パリ、ロンドンなどの都市で演奏します。その頃、ベルリオーズ(Louis Berlioz)やリスト、ショパンなどと知遇をえます。交響曲「スコットランド」、「イタリア」などの着想を得たといわれます。後に「宗教改革(Reformation)」と呼ばれる交響曲第5番を作曲します。数多い詩篇やカンタータではバッハの手法を学んでいます。オラトリオ「聖パウロ(St. Paul)」、「エリア(Elijah)」ではヘンデルから影響を受けたようです。聖歌のモチーフを使用し、宗教への関心の深さを示しています。交響曲第2番「賛歌」の終楽章では声楽を用い、ベートーヴェンの合唱付きの影響を受けたことがわかります。

 

心に残る名曲 その八十一 メンデルスゾーン その1 Symphony No. 4 in A Major

「 交響曲イタリア」と呼ばれるこの曲は、明るく伸びやかな音色、親しみのある旋律で知られています。A Majorとはイ長調ということです。長調は長音階に基づく調べの意味で、音楽の世界では、ドイツ語でのA Durと呼ぶのが一般的のようです。

「交響曲イタリア」は、 1833年3月にロンドンで初演されたとあります。作曲したのはドイツの作曲家、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)です。16の交響曲や交響詩を書いています。彼の交響曲では最も知られた曲といわれます。イタリアの風景や調べに満ちていることからこのニックネームが付けられたようです。

メンデルスゾーンは、初期ロマン派の音楽家で作曲、指揮、教師として活躍します。ロマン派音楽とは、バロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表します。和声の流麗さ、長く力強い旋律、表現の基礎としての詩情とか文学との融合など、音楽の「調性」という概念が確立したものがロマン派音楽と呼ばれています。

ロマン派音楽は「ロマンティックな音楽」といった雰囲気を連想させますが、むしろオーケストラの規模を拡大し、ソナタ形式の伝統に基づく音楽です。ソナタ形式の音楽は、 序奏部、 展開部、再現部、結尾部といった楽曲から成ります。「交響曲イタリア」を聴くとロマン派音楽をほうふつとさせます。

心に残る名曲 その八十 ショスタコーヴィチ その3 「交響曲第5番」

本日、ミルウォーキの近く住む、かつての国際ロータリークラブのスポンサーから手紙がきました。ユダヤ暦の新年の挨拶、ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashanah)と住所変更の知らせでした。ショスタコーヴィチがユダヤ音楽に造詣が深いことを考えていたので、少々驚きでした。

 ショスタコーヴィチがユダヤ音楽の主題を使った歌曲集「ユダヤの民俗詩から」を作曲したのが1948年です。ブリタニカによると、ピアノ三重奏曲第2番の最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されているというのでYouTubeで聴いてみました。預言の音楽,祈りの歌,労働歌,典礼の音楽,哀歌といったものが複雑に混ざった印象を受けます。

ショスタコーヴィチの経歴や作曲歴を音楽事典から引用してみます。
1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで誕生
1915年夏、母親から初めてのピアノのレッスンを受ける
1916年 グリャッセール音楽学校に入学
1919年 ペテルブルク音楽院に入学
1929年 交響曲第3番
1937年 交響曲第5番
1941年 交響曲第7番
1944年 ピアノ三重奏曲第2番
1945年 交響曲第9番
1948年 アンドレイ・ジダーノフ(Andrey Zhdanov)がショスタコーヴィッチはじめ著名な文化人や知識人に対する抑圧政策を主導
1948年 ヴァイオリン協奏曲第1番
1949年 弦楽四重奏曲第4番
1951年 24の前奏曲とフーガ
1962年 交響曲第13番
1971年 交響曲第15番

心に残る名曲 その七十九 ショスタコーヴィチ その2 「ユダヤ音楽への傾倒」

フィンランドのシベリウス(Jean Sibelius)、ロシアのプロコフィエフ(Sergei Prokofiev)と共に、マーラー(Gustav Mahler)以降の最大の交響曲の作曲家といわれているのがショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)です。交響曲だけでなく、多くの弦楽四重奏曲を残し、20世紀最大の作曲家の一人という評価を受けています。「交響曲第5番ニ短調」など、曲全体が暗く重い雰囲気のものが多い印象を受けます。

それでも、交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」は、第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したそのさなかで作曲され、ファシズムに対する戦いと「宿命的勝利」が表現されています。明るい未来や希望を託したような印象を受ける曲です。

ショスタコーヴィチは、マーラーへの興味をはじめとして 交響曲第5番などでユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律を引用したりしています。ユダヤ音楽へ傾倒していたことが伺われます。例えば、交響曲第7番の第1楽章終わりでは、クレズマー旋律(Klezmer)が使われています。クレズマー旋律とは、イディッシュ(Yiddish)とよばれる東欧系ユダヤ、アシュケナジム(Ashkenazim)の民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつです。19世紀後半からアシュケナジムの移民と、第二次世界大戦前後に東欧やドイツを逃れたユダヤ人らが婚礼などの儀式を通して継承してきた音楽のことです。

 

心に残る名曲 その七十八 ショスタコーヴィチ その1 交響曲の作曲家

ロシアの作曲家、音楽家といえば19世紀のチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、そして20世紀はショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)といえるでしょう。もちろん他にも民族主義的な芸術音楽の創造を志向した「ロシア5人組」といわれた音楽家がいます。リムスキー・コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov)もその一人です。民族色豊かなオペラとか色彩感あふれる管弦楽曲を数多く作曲しています。音楽の特徴として、反ヨーロッパ、反アカデミズムを標榜したとされます。それは、ロシアの地からの題材やロシア民謡の要素に基づき親しみやすい作品を書くといった考えです。

ショスタコーヴィチは1919年にペテログラード音楽院(Petrograd Conservatory)に入学します。そこでピアノを学ぶと同時に作曲学の講義を受けます。1927年にはショパン国際コンクール(Chopin International Competition)で高い評価を得ます。しかし、ピアノ奏者としてではなく、作曲活動に邁進していきます。

1937年にはレニングラード音楽院(Leningrad Conservatory)で作曲部門の教師となります。1941年にドイツ軍に包囲されているレニングラードで交響曲第七番を作曲します。一時レニングラードを脱出し、そして1943年にモスクワに居を構えて本格的な作曲活動に入ります。モスクワ音楽院(Moscow Conservatory)とレニングラード音楽院の教師として復帰します。

しかし、作曲活動は容易ではなかったようです。それはソビエト政府が決める音楽のスタンダードに添った作品を書かなければならなかったからです。それでも15の交響曲、多くの室内楽曲や協奏曲などを書いています。

 

心に残る名曲 その七十七 グスタフ・マーラー その3 「1,000人の交響曲」

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の三回目です。アメリカには大勢のユダヤ系の人々が住んでいました。ヨーロッパからのユダヤ系の移民も多かったからです。皆、反ユダヤ主義の迫害を逃れてきた人々です。マーラーにとって異国とはいえ、安らぎを覚えた国であったに違いありません。

 マーラーの作品は交響曲と歌曲に二分されます。テノールとアルトのための歌曲集と云われるのが「大地の歌」です。これはマーラーの晩年の傑作で6つの楽章から成るものです。

さらにマーラーは後年、10の交響曲を作曲します。交響曲第2番から4番では独唱や合唱、そして管弦楽のための大カンタータを作曲します。交響曲第8番変ホ長調ではオーケストラに加えて2つの混声合唱団、児童合唱団、8人の独奏者、そしてパイプオルガンが加わります。その規模を指して「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。1時間半の「半端ではない」演奏です。

 

心に残る名曲 その七十六 グスタフ・マーラー その2 反ユダヤ主義の台頭

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の二回目です。1880年頃から指揮者としてチェコの地方劇場で演奏します。得意のレパートリーとしていたのがワーグナー(Richard Wagner)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)です。1891年にはハンブルグ市立歌劇場(Hamburgische Staatsoper)の首席指揮者となり、ハンブルグ管弦楽団(Philharmoniker Hamburg)を率いて演奏します。さらに1897年には、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper )の総監督に就任。ヨーロッパ音楽界の最高の地位に就きます。

その頃からヨーロッパでは反ユダヤ主義が急成長していきます。反ユダヤ主義者がウィーン市長になると、マーラー批判を繰り広げていきます。マーラーはユダヤ人であることを意識しながら、ワーグナーの反ユダヤ主義の政治思想から距離をとっていきます。そして、ユダヤ教からカトリックに改宗するのですが、反ユダヤ主義者は、「ゲルマン文化の冒涜者」としてマーラーをウィーン宮廷歌劇場の総監督の座から下ろすのです。

マーラーは後年、10の交響曲を作曲するのですが、どれもウィーンの古典派の伝統に基づきながらも、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽の世界を開拓するという意図が反映されているといわれます。交響曲第8番はその代表です。「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。しかしながら、芸術上の冒険をあまり好まないウィーン市民の気質との確執で、マーラーはウィーンを離れることを決心したようです。

反ユダヤ主義者に攻撃されたマーラーは、1907年12月にニューヨークへ渡ります。そしてメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)やニューヨークフィル(New York Philharmonic)の指揮者として活躍し始めるのです。

心に残る名曲 その七十五 グスタフ・マーラー その1ユダヤの家系

オーストリアの作曲家にグスタフ・マーラー(Gustav Marhler)がいます。1860年生まれです。20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで活躍した指揮者であり作曲家です。

オーストリア帝国に併合されていたボヘミヤ(Bohemia)の寒村カリステ(Kalischt)で、ブランデーの製造を営むユダヤ人家庭で育ちます。4歳のころからピアノを学び音楽の才能を示します。その後、イグラウ(Iglau)tという街にあるギムナジウム(Gymnasium)に入学します。ギムナジウムというのは中高一貫校のようなものです。

その頃から、彼は、もともとチェコ人(Czech)でありながらドイツ語を話し、国籍がオーストリア人でありながら、ユダヤ人であるという人種の葛藤を経験します。それが後の作曲活動や作品にも影響を与えることになります。

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心に残る名曲 その七十四 アントニエッタ・ステッラと二人のライバル 

ステッラは、1950年代から1960年代に活躍したイタリアの代表的な歌手です。彼女の活躍した時代には、二人の巨星といわれるソプラノ歌手がいました。マリア・カラス(Maria Callas)とレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)です。少し割を食ったのが、ステッラを含めた同じ世代のソプラノ歌手といえそうです。ステッラは、NHKイタリア歌劇団公演で3度にわたり来日しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性の声の種類は、ソプラノ、メゾソプラノ、そしてアルトに分けられます。ソプラノにはいくつかの種類があります。よく聞くのがコロラトゥーラ(coloratura)で、歌いが速くコロコロと転がすような装飾が付くのが特徴です。もう一つはスピント(spinto)といって、情熱的で激しい感情をあらわす声のソプラノです。スピントのソプラノ役柄は例えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)、「トロヴァトーレ」(Trovatore)、「ドン・カルロ」(Don Carlo)といった歌劇でしょう。

ステッラもマリアカラスもスピントの歌手といえそうです。19世紀中頃からのロマン派オペラから多く現われています。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)やプッチーニの歌劇での歌唱で知られています。

 

心に残る名曲 その七十三 歌手アントニエッタ・ステッラ

1960年代の学生時代に僅かの小遣いを使って、中古のLPレコードを始めて買いました。手にしたのが、『ラ・ボエーム』(La Bohème)という歌劇のレコードです。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo A. Puccini)の作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラです。ジャケットに美しい女性が載っていました。それがイタリアのソプラノ歌手アントニエッタ・ステッラ(Antonietta Stella)です。

 19世紀、パリのカルチェラタン(Latin Quarter)には、貧しい学生や芸術家が多く住んでいます。主人公のミミ(Mimi)もその一人です。貧しいお針子(seamstress)です。そこのアパートに一緒に住んでいたのが詩人・ロドルフォ(Rodolfo)です。彼も貧しく火の気の無い部屋で仕事をしています。暖炉に入れて売れ残りの原稿をくべて寒さに耐えています。二人ともボヘミア(Bohemia)からの移民のようです。 「Bohème」とはボヘミア人という意味です。

あるときミミがロウソクの火を借りにロドルフォの部屋のドアをたたきます。ロドルフォが開けると、ミミはめまいがして床に倒れ込むのです。介抱されたミミは火を借りて礼を言い、戻ります。そのときミミは鍵を落としたことに気がつき戻ってきます。戸口で風がローソクの火を吹き消してしまいます。暗闇で二人は鍵を探すのです。ロドルフォが先に見つけそれを隠してミミに近寄ります。それから彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人だと云って聞かせるのが「」冷たい手を(Icy cold hand)」です。続いてミミも自己紹介をして歌うのが「私の名はミミ(They Call Me Mimi)」です。

やがて二人の愛情のこもった二重唱で幕がおります。

心に残る名曲 その七十二 グリークと「ピアノ協奏曲イ短調」

グリーグによる唯一のピアノ協奏曲(Concerto in A minor)です。1868年デンマークのSollerodに訪問している時に作曲されたグリーグ初期の傑作といわれます。たった一曲のピアノ協奏曲とは珍しいことです。我々日本人の琴線に触れる旋律がこの曲にはあります。色彩豊かな旋律、金管楽器の壮麗な演奏、ピアノ奏者でもあったグリークは繊細なメロディをピアノに添えています。

第一楽章 Allegro molto moderatoは、やや早めの楽想です。ティンパニーに続いてピアノが響き、そして管弦楽でテーマが演奏されます。ソナタ形式のよりテーマが繰り返されます。甘い旋律のテーマはしびれる程です。第一楽章は12分の演奏です。第二楽章Adajoは北欧の自然や村、フィヨルドを思い起こさせるような優雅な曲です。第三楽章Prestは、文字通り軽快で速い演奏です。終章には新たな抒情的なテーマ曲がピアノで演奏されます。管弦楽が国歌とも思えるメロディを奏でて終わります。

 

心に残る名曲 その七十一 グリークと「抒情小曲集」

グリークはライプツイッヒ音楽院での留学後、帰国してベルゲン(Bergen)でピアニストや作曲家として活躍します。次第にドイツやデンマークのロマンティックな語法から離れ、やがてノルウェーの国民主義的形式に向かいます。故郷の民俗音楽的要素に基づく作曲活動をしていきます。ノルウエーの民俗音楽に創作の原典を見いだし、やがて種々の編曲を通じて国民的な音楽の基礎を築きます。そして母国の民謡や舞曲を芸術的なものに高めるのです。

 グリークは1871年に音楽協会を設立します。グリークの作曲の特徴は、小規模な歌曲やピアノ曲において最も発揮されているようです。1867年から1903年にかけて作曲した全66曲からなる「抒情小曲集」第3集があります。その中の「春に寄す」という曲は、春の息吹とノルウェーの美しい情景が目に浮かぶ抒情的な作品です。「2つのノルウェー民謡による即興曲」、「ノルウェーの踊りと歌」といったピアノ独奏曲もあります。歌曲では「山とフィヨルドの思い出」、合唱曲アルバムでは「ノルウェー民謡による12曲」が知られています。

 

心に残る名曲 その七十 グリークとドイツロマン派音楽 

先日、鬼籍に入った囲碁仲間がいます。入院している病院に見舞いに行ったところ、前日の早朝に亡くなられたとか。もう少し早めに見舞うべきでした。

ペール・ギュント(Peer Gynt)の物語に放蕩息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)の死の曲があります。管弦楽の荘重な響きが悲しみを伝えています。葬送曲といえばいろいろなジャンルがあります。代表的なものはレクイエム(Requiem)がです。鎮魂歌ともいわれ、死者の安息を願うミサ曲です。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「レクイエム ニ短調」が有名です。葬送行進曲もあります。葬儀に死者を運ぶときに使われます。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「英雄」の第2楽章が知られています。

さて、グリークの作品の特徴です。彼の両親はスコットランド系とドイツ系で、母親はピアノを弾いていたのでその薫陶を受けます。1858年にライプチッヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)に4年間留学します。この音楽院は、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)によって創立されたとあります。そこで和声対位法、作曲法などを学び、特にシューマン(Robert Schumann)らのドイツロマン派音楽の影響を受けます。1868年、グリークがデンマークで25歳のときに作曲した「ピアノ協奏曲イ短調作品16」はロマン派音楽の香りが濃く漂います。

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方を組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」 

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

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