心に残る名曲 その二百三 日本の名曲 平井康三郎の「平城山」 

1910年高知県で生まれ、1936年に東京音楽学校研究家作曲部を修了します。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたっています。

東京音楽学校で教鞭をとりながら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲します。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わります。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等として活躍します。

1965年には「詩と音楽の会」を結成し、日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行っています。小学校や中学校の校歌も数多く手がけたことでも知られています。「さくらさくら」「ゆりかご」は彼の手によって作られます。そうした作曲活動の功績で紫綬褒章、勲四等旭日章、毎日出版文化賞等多数の栄誉を受けています。

心に残る名曲 その二百二 日本の名曲 宮城道雄 「春の海」

神戸で1894年に生まれた宮城道雄は、やがて邦楽に洋楽的要素をいれた新様式の作品を多数発表し、演奏家としても活躍し大正と昭和の邦楽界に革命的な業績を残した作曲家です。

1902年に失明しますが、生田流箏曲と野川流三弦を伝授されます。既習の曲の反復から脱し、自ら作曲を志していきます。そして処女作となる「水の変態」を発表します。1920年に本居長世とで「新日本音楽」と銘打って新作発表会を開きます。この頃、尺八の中尾都山とともに全国を巡演していきます。

草創期のレコードやラジオ放送にも積極的に参加し、作品と演奏を世に広めます。古典様式の新作曲にも力を入れるとともに、古典音楽の勢力からも高く評価されるようになります。そして1932年には、東京音楽学校の教授まで登りつめます。1933年にはフランスのヴァイオリン奏者シュメ(Renee Chemet)が宮城の箏とで「春の海」を合奏しレコード化していきます。

心に残る名曲 その二百一 日本の名曲 草川 信 「ゆりかごの唄」

草川 信は長野県埴科郡の出身です。長野師範学校附属小学校、現在の信州大学教育学部附属長野小学校で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学を経て、東京音楽学校に進みます。そこでバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事します。

卒業後は渋谷区立小学校訓導や東京府立第三高等女学校教諭などを経験します。そのかたわら、演奏家として活動していきます。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がけるのです。実兄、草川信雄も同校卒業生で今も飯田橋にある富士見町教会オルガニストでありました。富士見町教会といえば植村正久という有名な神学者が初代の主任牧師となった由緒ある教会です。

草川は童謡で広く知られ「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など多数の名曲を残しています。ヴァイオリニストだった影響でしょうか、流れるような旋律が特徴でどれもわらべうた的な雰囲気で抒情的です。

ついでですが、「夕焼け小焼け」の作詞家中村雨紅は八王子市の上恩方というところの出身です。

心に残る名曲 その二百 日本の名曲 近衛秀麿 「越天楽」

このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。

1925年に帰国後は、山田耕筰の日本交響楽協会の結成に加わり、その後新交響楽団を組織します。彼は欧米に12回にわたり出掛け、90あまりの交響楽団を指揮するという珍しい経歴があります。近衛秀麿は日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人でもあります。北原白秋の詩に作曲した「ちんちん千鳥」、雅楽の「越天楽」などが知られています。

日本を代表する指揮者であり、またナチス政権下のドイツ・欧州でユダヤ人演奏家の亡命をサポートしていたという事実が近年話題となっています。その人物が近衛秀麿だというのです。「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜亡命オーケストラの謎〜」が放映され、近衛秀麿のヨーロッパにおける第二次大戦まえの行動が描かれています。

心に残る名曲 その百九十九 日本の名曲 大中寅二 「椰子の実」

大中寅二は1896年生まれの作曲家です。同志社大学経済学科を卒業し、やがて山田耕筰に学びます。1920年からは東京の霊南坂教会のオルガニストを務めます。1925年にドイツに留学し、そこでヴォルフ(Leopold Wolff)に師事して作曲法を習得します。

帰国後は東洋英和女学院短大などで教え、やがて有名となる歌曲「椰子の実」を差曲します。1932年の第一回音楽コンクールの作品部門で入賞します。宗教音楽の分野での作品が多く、「主よ憐れみ給え」、「ヨブ」、「四季の頌」など、20曲あまりのカンタータ(Cantata)を発表しています。カンタータを作曲するというのは、日本の音楽史上、初めてではなかったでしょうか。

大中寅二の息子が大中恩です。作曲家や指揮者として知られています。彼は信時潔に師事します。今も日本の合唱団のレパートリーで重要な位置を占める作曲家です。もっぱら子どもの歌と合唱作品を残します。阪田寛二とのコンビで「サッちゃん」などで知られています。

島崎藤村

椰子の実
 名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ
   故郷の岸を 離れて
    汝はそも 波に幾月 (島崎藤村作)

心に残る名曲 その百九十八 日本の名曲 成田為三と 「歌を忘れたカナリヤ」

秋田県出身の作曲家成田為三です。生まれは1893年。1914年に東京音楽学校に入学し、山田耕筰に教えを受けます。現在の東京芸術大学です。在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けます。1916年にはすでに「浜辺の歌」を作曲するという才能を示します。この曲は、国民的作品として今でも広く歌い続けられています。

成田為三

1917年に同校卒業後、九州の佐賀師範学校教師となりますが、作曲活動を続けるために東京に戻ります。そして1922年にドイツに留学します。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(Robert Kahn)に師事し、和声学、対位法、作曲法を学びます。1926年に帰国後、留学中に学んだ対位法の技術をもとにした「対位法初歩」、「和声学」、「楽式」、「楽器編成法」といった理論書を著すのです。為三は、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し輪唱曲集なども発行します。

歌を忘れたカナリヤ」が「赤い鳥」誌上で発表されます。「赤い鳥」は、1918年に詩人鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌です。この雑誌に為三作曲の楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載されます。新鮮にして甘美なメロディーが日本中の子どもたちの心をつかんだといわれます。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったようです。ですが5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになったといわれます。北原白秋の「からたちの花」が発表されたのも「赤い鳥」です。「赤い鳥」によって児童文学運動は一大潮流となるのです。日本の文学史上、先駆的な雑誌になったことがわかります。

心に残る名曲 その百九十七 日本の名曲 信時 潔 「海ゆかば」

歌も作詞家も作曲家も先の大戦に巻き込まれた歴史があります。誰が非難されるべきかではなく、どうしたらこのような悲劇的な歴史を繰り返さないようにすべきを考えたいものです。作曲家、信時潔の作品から特にそう感じます。彼は1887年、大阪生まれです。少年の頃から賛美歌に親しんだといわれます。東京音楽学校でチェロを学びながら対位法や和声楽を学びます。そして1920年にチェロと作曲研究のためにドイツに留学します。帰国後は、留学生が必ず保証されている同学校の教授となります。

信時 潔

1937年、大伴家持の歌詞「海ゆかば」を作曲します。大戦中、「海ゆかば」は国歌より多く歌われていたといわれます。そういえば国立競技場における学徒出陣の際も、最後に学生も観客もこの歌を歌っています。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
   かへり見はせじ

信時が得意の賛美歌でレクイエム調の荘厳な歌曲としたようです。太平洋戦争末期に大本営が玉砕を報じる時にそのテーマ曲に使われたといわれます。

心に残る名曲 その百九十六 日本の名曲 本居長世の「青い眼のお人形」

本居長世は1885年に東京に生まれます。1908年に東京音楽学校を卒業し作曲活動に始めます。「青い眼の人形」、「めえめえ小山羊」、「汽車ぽっぽ」、「七つの子」、「靴が鳴る」などのわらべ歌は今も愛唱されています。

近世の邦楽に多く用いられる半音を含む五音階である「都節音階」によって感傷的でなにか古いムードをたたえた作品が多いようです。「都節音階」とは、ミ、ファ、ラ、シ、ドを基調とし四拍子や八分の六拍子による曲調です。

その他にも「十五夜お月さん」、「通りゃんせ」、「お山の大将」、「赤い靴」などを作曲します。箏の宮城道雄らととともに新日本音楽運動を起こし、邦楽界に大きな刺激を与えた作曲家といわれています。

心に残る名曲 その百九十五 日本の名曲 弘田龍太郎と「浜千鳥」

弘田龍太郎は1892年に高知県安芸市に生まれます。1914年に東京音楽学校器学部ピアノ科を卒業します。そして1928年に文部省留学生としてベルリン大学で学び、作曲とピアノを研究します。帰国後は、東京音楽学校教授となります。その後は、母校を去って作曲活動に専念していきます。ラジオの子ども番組の指導や児童合唱団を指揮したりしていきます。

弘田龍太郎

晩年は幼児教育に携わり、歌曲と童謡を多く作曲します。リズム遊びの指導などもやります。作品にはヨナ抜き長音階の旋律が圧倒的に多いのが特徴です。ヨナ抜き長音階とは、日本固有の五音音階のことです。例えば、「ドレミソラ」のように「シ」の音がないという具合です。西洋音楽ではドで終止するという考え方がありますが、ヨナ抜きではラとかレで終わります。「君が代」もそうです。

浜千鳥」のような感傷的なものから「雀の学校」のように単純明快まであります。その他、「靴が鳴る」 「叱られて」 「雨が降ります」など短調の曲ですが、叙情溢れる作品です。北原白秋らとの共作も目だちます。

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲 中山晋平と 「証城寺の狸囃子」

長野で1887年に生まれます。中山晋平がその生涯で作曲した作品は、童謡、新民謡、流行歌、その他判明しているだけで1,800位の作品があるといわれます。ものすごい作曲活動です。ここでは、その数多くの作品の中から代表的なものをとりあげます。

中山は島村抱月の書生となります。島村は明治から大正に活躍した演出家、劇作家です。1912年に音楽学校を卒業し、抱月主宰の芸術座公演の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲し、これがたいそうな評判を得ます。劇中で松井須磨子が歌ったのが有名です。その後『ゴンドラの唄』など多くの劇中歌を作曲,それらは洋楽スタイルによる最初の近代的な流行歌であったといわれます。

松井須磨子と島村抱月

野口雨情作詞の「波浮の港」、「出船の港」など民謡風で芸術的な作品のほか、新民謡では「須坂小唄」、童謡では「証城寺の狸囃」「あの町この町」など多数の傑作を生みます。千葉県木更津市の證誠寺にまつわる伝説からとったのが「証城寺の狸囃子」といわれます。

以後,民謡の特徴を生かした童謡,歌謡曲などを作り、大衆音楽に貢献します。独特の明快な日本的、庶民的な歌のスタイルが伝わりま。今日の演歌にも通じます。今日の大衆歌曲の道を拓いたともいえそうです。

心に残る名曲 その百九十三 日本の名曲 中田 章 「早春賦」 

中田 章

中田章は1886年に東京生まれの作曲家でオルガニストです。1905年に東京音楽学校で学んだのち,やがてオルガンや音楽理論を教えました。
作曲家としては,春を待ちわびる思いを歌った唱歌「早春賦」によってたいへん有名になりました。この曲は,大正初期に,同じ東京音楽学校で国語を教えていた吉丸一昌が詩を書き,同僚だった中田章に作曲を依頼して生まれたものです。

吉丸一昌はドイツ歌曲『故郷を離るる歌 Der letzte Abend』の訳詩をしたことでも知られています。
  春は名のみの 風の寒さや
   谷のうぐいす 歌は思えど
    時にあらずと 声もたてず
     時にあらずと 声もたてず

「早春賦」はモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)作曲「春への憧れ(K596)」と非常に曲想が似通っているといわれます。両方を聞きくらべてみてはどうでしょうか。

心に残る名曲 その百九十二 日本の名曲 山田耕筰「からたちの花」

日本の西洋音楽の分野で初めて本格的な活動を行った作曲家で指揮者が山田耕筰です。大正から昭和の時代にかけ,日本における西洋音楽の基礎を作るうえで,創作と演奏の両面にわたって大きく貢献します。

山田耕筰

山田は1886年,東京に生まれます。少年時代に両親を亡なくしたため,イギリス人宣教師と結婚した姉夫婦のもとで育てられます。この義理の兄が東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)で、彼から音楽を教わるのです。東京音楽学校の声楽科を卒業後,実業家の岩崎小弥太の援助を受けて,24歳からドイツのベルリンの音楽院に留学し,伝統的なドイツ音楽の作曲を学びます。和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得です。東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかった時期です。

1914年,28歳で帰国してからは日本初の管弦楽団を指揮したのをはじめ,大小さまざまな演奏会を開いて日本に西洋音楽を広めます。さらに,自らも多くの作曲を行い,国内だけでなく海外でも作品を発表しました。彼の作品の数はたいへん多く,オペラや管弦楽曲から映画音楽まで幅広いジャンルにわたっています。

管弦楽団の運営に失敗し、1926年に茅ケ崎に移住します。この地の穏やかな環境で創作意欲を取り戻し、歌曲や童謡の作曲にも取り組みます。三木露風の詩「赤とんぼ」や「この道」などの名曲が茅ヶ崎で生まれます。北原白秋の詩による「からたちの花」、「待ちぼうけ」、「砂山」など数多くの名曲を残し,その旋律は言葉のアクセントを生かし,日本語が自然に美しく歌われるように工夫されています。

三木露風

心に残る名曲 その百九十一 日本の名曲 滝廉太郎と「荒城の月」

西洋音楽黎明期の代表的な作曲家の一人が滝廉太郎であるとWikipediaにあります。1890年に15歳で東京音楽学校に入学し、本科をへて研究科へ進みます。そしてピアノ奏者となります。1900年に聖公会博愛教会にて洗礼を受けます。

1901年、文部省派遣留学生として、ドイツのライプツィヒ王立音楽院(Hochschule fur Musik und Theater Felix Mendelssohn Bartholdy Leipzig)に入学します。そこでピアノや対位法を学びます。音楽院に入った2か月後に肺結核により、1年後には帰国を余儀なくされます。そしてわずか23歳にて夭折します。文部省中学唱歌となる「荒城の月」、「箱根八里」は特に有名です。その他、「花」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などがあります。

1900年に発表された「春のうららの隅田川」という曲は「四季」のうちの1曲です。素晴らしい伴奏が響きます。その楽譜の初頭で、滝は西洋音楽の模倣を脱し、日本人作曲家として「芸術歌曲」を創出してゆく自覚を喚起しているといわれます。ほとんどの作品が歌曲です。滝は、山田耕筰らとともに西洋音楽理論を用いて創作を試みた最初期の作曲家といわれます。

心に残る名曲 その百九十四 日本の名曲  岡野貞一と「ふるさと」

鳥取市の鳥取城跡にある久松公園入り口に作曲家、岡野貞一と「ふるさと」の歌碑が建っています。 鳥取城は、元鳥取藩主池田家の居城がですが、現在天守閣などの城はなく、石垣や壕が残っています。近くには洋風建築で国の重要文化財となっている仁風閣があります。

岡野貞一は1878年に鳥取で生まれます。1895年東京音楽学校に入学し、その後1918年より文部省の尋常小学校唱歌の作曲委員となります。1932年まで東京音楽学校で教鞭をとり、数々の曲を作っていきます。東京のメソジスト教派、本郷中央教会のオルガニストや聖歌隊の指揮者として実に実に43年間、礼拝奏楽を担当します。

岡野貞一

この教会にカナダ製の最初のパイプオルガンが設置されたのが1890年。英国ウェールズから東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)が初代の聖歌隊長、オルガニストとなります。彼はオルガン技師でもありました。妻は山田耕筰の姉の山田恒子でした。その後、岡野貞一を本郷教会のオルガニストとして指名するのです。

岡野の作品も最も知られているのが「ふるさと」です。1914年に尋常小学唱歌の第六学年用として採用されます。作詞は高野辰之で、その後も高野と一緒に作ったのが「おぼろ月夜」、「春の小川」、「春が来た」、「紅葉」などです。「ふるさとを思い起こす歌」の人気投票では、岡野の「ふるさと」が常に第一位の地位を保っています。

 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
  山はあおき故郷 水は清き故郷

心に残る名曲  その百九十三 ヨハネス・オケゲム Qu’es mi vida, preguntais

中世ルネッサンス音楽に戻り、しばらく西洋の音楽家から離れることにします。ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)は、中世ルネッサンス音楽を席巻したといわれるフランドル楽派(Franco-Flemish school)の作曲家です。すでにこのブログで取り上げてきたデュファイ(Guillaume du Fay)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres)と同じく15世紀の半ばに活躍した作曲家といわれます。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本」(Chigi codex)によって伝承されています。「キージ写本」とはフランドル(Flemish)地方の音楽原譜集のことです。

オケゲムの曲です。「死者のためのミサ曲」(Missa pro Defunctis)は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムといわれています。多声部の響きが敬虔さ伝えています。ごくわずかの現存する作品の中で技巧を凝らした36声部のための「主に感謝せよ」 (Deo gratias)、「私の愛する人」(Ma maitresse)は、オケゲムの表情豊かな音楽と作曲技法を伝えてくれています。

デ・プレに強い影響を与えたように、カノン(canon)という複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式用いた「キリエ」(Missa Prolationum-Kyrie)は美しい音を響かせています。オケゲム自身が著名なバス歌手で聖歌隊指揮者でもあったことから、オケゲムの多声部におけるバスの旋律はかなり込み入っており、複雑な響きを与えています。

心に残る名曲  その百九十二 レハール 「金と銀」

ワルツ「金と銀」(Gold and Silber)やオペレッタ「メリー・ウィドウ」(Merry Widow)などで知られるハンガリーの作曲家がフランツ・レハール(Franz Lehar)です。オペレッタについては、どこかで喜劇とか小喜劇と呼ばれ、ハッピーエンドで終わる歌劇のようなものであることを述べました。レハールの父親は軍楽隊長で、12歳のときプラハ音楽院(Prague Conservatory)に入学し,ヴァイオリンを学びます。ドヴォルザーク(Antonin Dvorak)らに作曲技法を学び、軍楽隊長を経てウィーンでオペレッタ作曲家としてデビューします。1902年からウィーンの劇場で指揮者として活動を始めます。

1905年に「メリー・ウィドウ」を発表するとウィーンを熱狂させたといわれます。この作品は,以後ドイツ各地,ペテルブルグ(St. Petersburg),ミラノ(Milan),ロンドン(London),ニューヨーク(New York)などで相次いで上演されます。「金と銀」ですが、ワルツのリズムに乗った流麗な旋律がオペレッタの特徴です。当時流行していたダンスのリズムや民族的な素材を取り入れ、和声的、対位法の技巧を駆使し旋律をいっそう豊かにしています。

心に残る名曲 その百九十一 バルトークと「Divertimento」

バルトーク(Bartok Bela)はルーマニアで生まれハンガリーの作曲家です。ハンガリーのブダペスト王立音楽アカデミーに学びます。ブラームスの影響を受けた作曲活動にも取り組んでいたバルトークは、1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されます。

しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。

1905年からはコダーイ・ゾルタン(Koday Zoltan)とともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始します。その調査はやがてトルコや北アフリカにも及んだといわれます。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの民族音楽の特性を発見しますが、保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘したようですが、研究成果はその後の創作上の源泉となっていきます。1907年、26歳でブダペシュト音楽院ピアノ科教授となります。

1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,「弦楽四重奏曲第3番」、「同第6番」、「Divertimento」などを作曲していきます。第二次世界大戦が勃発し、ハンガリーももはや民俗音楽を研究できる環境ではなくなります。ナチスの文化政策などを嫌い、バルトークは1940年にファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命します。

心に残る名曲 その百九十 エネスク 「Oedipe」

ルーマニア(Romaniaの作曲家にジョージ・エネスク(George Enescu)がいます。ルーマニアといえば、1989年12月にニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceausescu)の独裁政権が市民革命によって打倒され、民主化へ踏み出した記憶に新しいことです。ですがその後の民主化の道のりは今なお険しいようです。

エネスクは7歳のときにウィーン音楽院(Vienna Conservatoryに入りヴァイオリンを学び始めます。1894年にはブラームス(Johannes Brahms)と親交を結び、本格的な古典音楽のスタイルを学びます。1895年にパリへ聴き、パリ音楽院では和声、対位法、古楽など作曲に関して幅広く学びます。1899年にパリ音楽院(Paris Conservatory)のコンクールでヴァイオリン部門において最高賞を受賞します。

演奏家として幅広いレパートリーを持ち、ほぼ全ての作品を暗譜で演奏、指揮することができるほど、音楽史上の音楽家の作品を研究していたといわれます。バッハ(J. Bach)やワーグナー(R. Wagner)への傾倒するような作品や、新古典主義の風潮、半音階による複雑な旋律などの作風を表していきます。

エネスクの器楽曲では技巧に彩られた多彩な旋律が伸びやかに演奏されます。ルバート(rubato)というテンポにとらわれず、自由に感情表現を行う演奏の仕方を駆使して作曲します。祖国ルーマニアの音楽を題材にした作品も多く創作しています。「パルランド・ルパード」(Parlando rubato)というルーマニアの民族的哀歌の旋律は全作品を通じて現れ、その装飾的な音の動きはエネスクの特徴の一つといわれます。「Balada pentru vioara」、「Rumanian Rhapsody」、「Legende」、「Oedipe」などの作品にそれが伺えます。

心に残る名曲 その百八十九  ロッシーニ 「ウィリアム・テル」序曲

ジョアキノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)はイタリアの作曲家。多数の歌劇(オペラ)を作曲しています。父はトランペット奏者、母は舞台での袖役の歌手でした。そのようなわけで、劇場で少年時代を過ごしたようなものです。同時に怠け癖の多い少年だったといわれます。14歳のときにボローニアの音楽学校(Bologna’s Philharmonic School)に入学します。ヴァイオリン、ホルン、ハープシコード(harpsichord)を習います。やがて指揮者の見習いとなり、ハイドンやモーツアルトに感化されていきます。それから20年の間、40余りの歌劇を作曲するのです。

多くの歌劇のなかで「セビリアの理髪師」(The Barber of Seville)、「セミラーミデ」(Semiramide)、「アルジェの女」(The Italian Woman in Algiers)、「シンデレラ」(Cinderella)、「泥棒かささぎ」(La gazza ladra) などが有名です。なかでも「ウイリアム・テル」(William Tell)は劇的な歌劇として、序曲が広く演奏されています。

「ウイリアム・テル」はロッシーニの最後の歌劇となります。この歌劇は、スイス人の民族主義と自由、そして独立ということをテーマにしています。弓矢の名手、ウィリアム・テルはハプスブルク家の支配に立ち向かい、やがて彼は英雄として迎えられます。これをきっかけに反乱の口火を切り、スイスの独立に結びつくという伝承を元にしています。

しかし、歌劇「ウイリアム・テル」は、権力に抵抗する革命的な人物を賞賛しているという理由でイタリア人検閲官と摩擦を起こし、イタリアでの上演が制限されたといわれます。それだけ「ウイリアム・テル」という人物もこの曲もイタリアの庶民の間で好感を呼んでいたということでしょう。

心に残る名曲 その百八十八 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第五番「皇帝」

Krystian Zimermanのピアノ、ウィーンフィル(Wiener Philharmoniker)の演奏、Leonard Bernsteinの指揮によるピアノ協奏曲第五番「皇帝」(The Emperor Concerto) は、聴いていて誠にしびれを感じるようです。この演奏を生で聴いた人は幸いなるか、といいたいほどです。

この曲名「皇帝」とは、もちろんナポレオン(Napoleon Bonaparte)を指すと思われます。しかし、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)はドイツ人ですから、どのような心境でこの曲を作ったのかは興味あることです。Emperorという響きからベートーヴェンは、彼なりに英雄としてのナポレオンに敬意を表していたのではないかと想像できます。

第1楽章はアレグロ(Allegr)変ホ長調で、独奏協奏曲式ソナタ形式です。驚くことに、いきなりピアノの独奏で始まります。このような出だしは他に知りません。展開部は木管が第1主題を奏して始まり、豪快に協奏しながら第1主題を中心に展開してゆきます。

第2楽章はアダージョポオモッソ(Adagio un poco mosso)と付けられ、穏やかな旋律が響きます。全体は3部からなっており、第3部は第1部の変奏となっています。章の最後で次の楽章の主題を変ホ長調で予告するかのようで、そのまま続けて3楽章に流れていきます。

最終楽章はロンドアレグロ(Rondo Allegro)といわれ、ソナタ形式で快活なリズムで始まります。ホルンの通奏低音が入り、終わり近くでティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。