【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その二 日本の教育界における男女定員制

格差是正のためにマイノリティに割り当てを行う手法の一つに「クオータ制(quota)」があります。「quota」とは、ラテン語に由来する英語で「一定程度の割り当て、取り分」(a proportional part or share)といった意味です。日本では輸入の枠を設けるクオータ制度を使って、国内の産業を守っています。企業にも一定の枠で障害者を雇用しなければならない仕組みがあります。

No discrimination!

深刻なクオータ制や男女差別制は、教育界に存在します。全国の公⽴⾼校で唯⼀都⽴⾼校だけが⼊試で男⼥別定員制を設けていることで、女子生徒にとって不利になっている現状が大きな話題となっています。男⼥の合格最低点に差が生じ、⼥⼦のほうが⾼くなる傾向があることが理由とされています。都立高校全日制普通科の男女別合格者は、2021年度の入試は、51.9%が男子枠、48.1%が女子枠を設けていました。これがクオータ制です。しかし、性別で二分して異なる基準を設けることは、科学的妥当性に乏しいと多くの識者はいいます。世間の大きな批判を受けて、都教育委員会は男女定員制を是正するようです。

男女の合格ライン

複数の私立医科大学の入試で、女子の合格基準を男子より厳しく設定したり、点数を操作していたことが発覚した問題があります。医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話で判明しました。 女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていたのです。

2018年8月、文部科学省は医学部がある全国の大学に緊急調査を実施します。その結果、私立の9大学で女子差別や年齢差別などの不適切な入試が確認されます。問題の指摘された私立医科大学のへの私学助成金はいずれもカットされます。2011~2018年度に受験した女性13人が「性別を理由に差別された」として、慰謝料など計約5500万円の損害賠償を求めた集団訴訟で、東京地裁は、大学に対して13人に計約805万円を支払うように命じる判決を出しています。

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その一 最高裁判所は違法と判断

これから数回に渡り、アメリカの大学でにおける合格判定を巡る話題を取り上げます。2023年6月29日の木曜日、アメリカ連邦最高裁判所(Federal Supreme Court) は歴史的な判決を下し、ハーヴァード大学(Harvard University)とノースカロライナ大学(University of North Carolina) の入試プログラムを無効としました。大学における人種差別を考慮した積極的差別是正措置(Affirmative Action)を事実上廃止するとしました。日本と違い多民族がモザイクのように混ざる国です。もともと白人が政治や社会、経済を支配した歴史があります。そのため黒人奴隷の解放を巡る南北戦争が起こり、それでも根強く人種差別が続き、1960年代にマーチン・ルーサー・キング牧師らによる公民権運動の高まりによって制度上は人種差別は違法となりました。しかし、社会の至るところに目の見えない差別が今も起こっています。

Affirmative Action and Protesters

大学での学びは、すべての人にとって重要なパスポートのようなものです。高等教育には多額の費用がかかるのはどこも同じです。特に貧富の差が激しいのが多民族国家です。アメリカはその代表といえるかもしれません。学力がついていても、貧しいが故に大学に入ることができないのが少数民族出身(マイノリティ)の若者に多いのです。そこで、大学は積極的差別是正措置という特別な採用枠を設けて、一定程度の学力がある少数民族の若者にも入学を許可しようとする仕組みが1980年代から多くの大学で始まりました。

アメリカの大学への志願者は、学力テストの他に全国レベルで科学からスポーツ、ボランティア活動などあらゆる分野で特別な業績や経験があるかどうかがも審査されます。特異な能力も入学の大事な要件なのです。それから人種などの出自も考慮されて、いわば総合的に調べられて合否の判定がくだされます。興味あることには、志願者が大学の同窓生の子弟であるとか、大学に多額の寄附をする家庭の子弟であるか、ということも合否の結果に反映されます。このようにアメリカの大学ではマイノリティの若者に特定の割合で入学させる仕組みを採用しています。これが積極的差別是正措置といわれる優遇措置です。今回、長年の判例を覆しこの措置が違法であると最高裁判所は決定したのです。

【風物詩】その六「らんまん」から 

毎日朝ドラを観ております。私の親しい友人が高知にいて、彼に案内されて県立牧野植物園を訪ねたことがあります。市内の五台山の広大な敷地にある素晴らしい施設です。牧野富太郎は、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込みます。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけます。やがて「日本の植物分類学の父」と呼ばれます。「らんまん」は牧野の生誕160年を記念して製作されたようです。

「らんまん」の舞台は明治の後期です。小学校を中退し、やがて東京帝国大学理学部の植物学教室に出入りを許されるという筋書きです。天下の帝国大学という序列の厳しい縦社会の組織で、研究に没頭する涙ぐましい姿が描かれます。いかに研究中心の組織とはいえ、帝国大学を頂点とする封建的な組織というのは、上意下達の軍隊組織のように、秩序を乱すことは許されない洗脳されたような社会です。

私もある国立の研究所で小さな縦社会の裏側を経験したものです。いっぱしの研究者として、業者から支援を受けて物品を供与されたり、海外での学会発表に出掛けることもありました。研究では研究費を獲得することが仕事の1つでした。私は上司からみると組織をはみ出す「出る杭」であったようです。そのため「蟄居」を命じられたことがあります。蟄居とは謹慎のことです。

高知県立牧野植物園

その後研究所を去って、兵庫県にある小さな国立大学で職に就きました。「出る杭は抜かれ捨てられる」ような有様でした。ですが兵庫で始めて組織のなかでも自由な空気を吸うことができました。誰の指図もなく、獲得した研究費を好きなように使えるのです。研究費は税金の一部であります。自己管理が要求される社会ですが、自分の研究が社会にどのように貢献したか、を問われるとあまり自信がないのが少々歯痒いです。

【風物詩】その五 「ありがとう、ご苦労さん、ごめんなさい」

1973年頃那覇市にいたとき、共同住宅の自治会で琉球大学の教官をしていた浅野さんと知り合いました。本土復帰を終えて、私を含め住宅には那覇市内のいろいろな官庁に出向してきた「ヤマトンチュ」がいました。「ヤマトンチュ」とは沖縄方言で、本土からの人といういう意味です。住宅内に琉球の歴史や文化を学ぶなどいくつかのサークルができました。1964年から65年にかけて県内で流行した風疹により聴覚などに障害のある「風疹児」や障害児の勉強グループもできました。

浅野さんの奥さんの旧姓は根間さんといい、琉球大学を卒業後、国費で国立女子大の大学院で障害児教育を研究したということを知りました。私は小さな幼稚園を開設し、そこに知的な障害のある子どもを受け入れることにしました。根間さんの依頼で一人の発達障害の子どもを預かりました。指導の仕方の基礎を学んでいなかったのでお手上げで、暫くして子どもは幼稚園を退園していきました。その頃、「自閉症は増えている」という本を手し、子どもの発達を真剣に学ぶ必要性に駆られました。幸い国際ローターリークラブより奨学金をいただき、ウィスコンシン大学で障害児教育を学ぶ機会が与えられました。それから6年余り経って文科省の特殊教育の研究所に就職しました。

斎場御獄–南城市

最近、浅野さんご夫妻が綴ったブログを発見しました。お二人は現在、本島の東側、知念半島にある南城市にお住まいです。知念半島には。世界遺産の斎場御獄 グスク、神の島といわれる久高島などの史跡に恵まれています。私と同じ年頃のご夫妻のブログの中で興味ある記述がありました。二人はある約束をしたというのです。「ありがとう」「ご苦労さん」「ごめんなさい」という言葉を日常生活で互いに交わそう、というのです。ご主人はこうした言葉は夫婦間で使っていなかったので、最初は大分ためらったとか。今では慣れてスイスイ口からでてくるというのです。示唆に富むエッセイでした。

【風物詩】その四 庭木の剪定

先日、シルバーセンターの人達がきて、マンションの剪定作業をしてくれました。全体で3日間の作業でした。毎年2回で同じ剪定業者なので、作業員の方々とは顔見知りとなっていました。

一階に住む私の庭にきたので、まず剪定して欲しい木とそうでない木を相談します。柿、オリーブ、金柑、無花果は剪定しないように依頼します。こうした木は、7〜8年前に苗木を買ってきて植えたものです。柿などは収穫が終わる秋には、自分で剪定作業をします。この剪定のコツや仕方はYoutubeで学んでいます。木の種類ごとに作業の仕方が丁寧に説明されるので大変参考になります。

剪定ばさみ

作業員の方々によると、剪定の適当な時期は年に夏と冬のようです。夏におこなうのは弱剪定、冬におこなうのは強剪定というのだそうです。弱剪定では、軽めの剪定をおこない、長く成長しすぎた枝や葉を切ることです。それによって風通しや日当たりをよくします。強剪定のおもな目的は、樹高や樹形の調節と生育の促進のためで、高くなりすぎた枝を落とすとか、不用な枝を取り除くことです。樹木は上部のほうが成長しやすく、下にいくにつれて成長スピードが遅くなります。そのため上部の枝を強目に剪定し、下部の枝を弱目に剪定するのがコツといわれます。

【風物詩】その三 野菜作り

今年も野菜作りは収穫の最盛期を迎えました。ミニトマトは10本の苗からたわわに実ってとても老夫婦二人では食べきれません。近所にお裾分けをしています。ゴーヤは西側の窓際に植えて、カーテンのような日蔭としています。ゴーヤは細長いものと、丸みのあるものを植えて収穫し始めました。ゴーヤは琉球にいたとき、はじめて食したものです。茗荷もぼつぼつでてきています。茗荷は刻んで素麺のタレにそえ、ピリッとした香りを楽しみます。

今年はキュウリやゴーヤは種から苗を作りそれを植え替えて,見事に大きくなっています。成長が早いので表面がとげのあるうちに収穫します。キュウリの粕漬けは美味しいものです。茄子は生協店で売っているような立派ななりではありません。水やりは毎日欠かさないのですが、なぜか固いのです。

家庭菜園は楽しい

ハウスものの野菜は、温度や水量が管理され、肥料も調節されているので、立派なものができます。それに対して、家庭菜園は自然の成り行きに任せるので、虫もやってきます。ですが薬は決して使いません。見栄えは色も形も大きさもいまいちですが、無農薬だけは自慢できることです。

庭が狭いので8つのプランターを使い、主に葉野菜の種を植えています。この場合は「元肥入り」や「初期肥料配合」と記載されている培養土を使うようにしています。間引きしてから茎を大きくし、ときどき追肥します。茎ブロッコリーも成長が早いです。葉野菜でサラダなどを楽しんでいます。

【風物詩】その二 「Walkability」と「Mobility」

このところ自転車に乗るときは、ヘルメットを被ります。5年ほど前に購入したものですが、最近の改正道路交通法の施行に関するニュースで、改めて倉庫にあったものを被っています。

乗っている自転車は2台。1台は父親譲りで20年ものの骨董品、もう1台は3段ギアの新車です。ちょっとした買い物のときは骨董品のを、遠出のときは3段のに乗ります。時々近くの自転車店で空気を入れますが、骨董品のは実に頑丈でまだまだ乗れるとのお墨付きをもらっています。最近の自転車は価格は安いのですが、作りがいわば、チャチだそうです。

もっぱら自転車を利用しているので、自動車には滅多に乗りません。駐車場の問題がほとんどないのが自転車です。最近は自転車専用レーンもつくられて、自転車の利用を推進しています。それで思い出すのが、15年前にオランダのアムステルダムに行ったときです。丁度夕食のレストランに行ったのですが、顧客は合羽を着て自転車でやってくるのです。雨の日には自転車は避けるものだ、という先入観があります。オランダのどの街にも自転車道があり、自転車の利用が半端でないことを知りました。自転車道は、自動車道や歩道とそれぞれ物理的に分離しているのです。

アムステルダムの街

「Walkability」とは徒歩か自転車での移動、「Mobility」は自動車を使った移動という意味です。自転車の利用を促進するには、専用レーンや路上に自転車のアイコンを貼る、などの配慮が大事です。「カーボンニュートラル」の実現には、移動は車を控えて、公共交通機関や自転車を使うことが求められています。これは誰しもができる小さな行動です。

【風物詩】その一 コロニアルスタイル

地も空も焼きつくすような凄まじい酷暑のあとに、一夜の小雨がやってきて、八王子の街も急に秋の気配に包まれたようです。時おり吹きすぎる風がいやに涼しく、萎れたキュウリの葉がピンともとどおりになりました。今朝はもう昨日までの夏の陽ざしではありません。梅雨がまだ明けないというのに、妙におかしな天気です。39度を記録したとか。

隣り近所からは、改築か新築らしいのか、柱を組み合わせる小槌の音が響きます。木材の音は、金属音と違い心地よいものです。夏は涼しく、冬は暖かいのが木造の家です。今住んでいマンションは、日蔭の側でも、壁を手でさわると生暖かいのです。すっかり暖まっているのはコンクリートのせいです。

木造の家のことです。長男夫婦はボストンの郊外で築後80年になろうかという家に住んでいます。二人の息子は大学生となり家にはいません。彼らの家はコロニアル・スタイルという17~18世紀にイギリスの植民地のアメリカで発達した建築や工芸の様式です。建物は正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがあるのが特徴です。コロニアルとは植民地という意味です。

ボストン郊外の長男宅

数年前に訪ねたとき、丁度断熱材をいれる工事をやっていました。私は二階の寝室の壁に新しい断熱材をいれるを手伝いました。古い材料をかたづけるのも厄介でした。長男はホームセンターで大工に指示された材料を買ってきます。木材はシロアリ対策のためにすべて防腐剤が施されているとのこと。防腐剤は有害なので、勝手に燃やしたりすることは禁止されているようです。大工は、大事な箇所を受け持ち、その他は長男が自分で受け持つという、いわばDIY (Do It Yourself)を地で行くような工事です。

あとで聞いたことですが、長男は息子たちとでガレージの大きなドアを付け替えたというのです。ドアの開閉は、車内からコントローラーで操作します。こんな工事まで自分たちでやるのは、アメリカはでは決して珍しいことではないようです。

【話の泉ー笑い】 その四十七 パントマイム その7 手話とマイム

今回で【話の泉ー笑い】はお終いです。言葉がなかった太古、人々は狩りをするとき、動物の真似をし、身振り手振りで追い詰めたはずです。赤児も母親には体で表現し意思を伝えます

ローマ時代、ルキウス・アンドロニクス(Lucius Andronics)という劇作家・詩人がいました。アンドロニクスは各地で自作の戯曲を演じていましたが、アンコールに応じ過ぎて声が枯れてしまい,奴隷に代わりに歌わせ、自身は体で演じそれが大いに受けてたそうです。Wikipediaによりますと、アンドロニクスは、古代ギリシャの文芸作品をラテン語に翻訳し、古代ローマの劇作及びラテン文学の父と呼ばれます。

中世の後期には、カトリック教会の司祭らは、大勢の文盲の民衆のために、体を使って聖書の教えを伝えたともいわれます。当時、礼拝はすべてラテン語で執り行われ、聖書の朗読もラテン語だったので、会衆は理解できなかったからです。印刷技術も未発達なので、聖書は民衆に流布しませんでした。

最後に、手話とパントマイムの類似点や相違点など触れてこのシリーズを終わります。以下の文章は、酒井邦嘉著の「言語の脳科学」 (中公新書)より引用しました。話題とした「笑い」から少しずれています。

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『ジェスチャーやパントマイムは、送り手がメッセージを身振りで表現して、受け手が視覚を通して理解するという点では手話と共通している。手話では、音声言語以上に、視覚的な情報を加えることが多い。例えば「山田さん」という名前だけでなく、顔の輪郭や太っているかどうかなどの目に見える特徴を豊富に織り込みながら話題にするのが普通である。パントマイムがうまければ、その人の歩き方などの癖を真似することで、手話を使いこなす人らしい、具体的な表現ができるだろう。しかし、手話とパントマイムでは、伝えられるメッセージだけではなく、伝え方そのものが根本的に違う。

パントマイムでは、顔の表情や頭の動きは主に感情を表現することに使われる。他方、日本手話では、手の動きと合わせて、顔の表情や口の形、うなずきなどの頭の動きを同時に使うのが普通である。これは、副詞としての意味を付け加えたり、例えば、「懸命に」、「気楽に」など文節の切れ目や疑問文などの文法的な働きを持たせることができる。

手話は手しか使わないと思ったらそれは大きな誤解である。手を使わない動作を巧みにブレンドすることで、手話ではパントマイムよりも遙かに抽象的なことまで正確に表現できる。』

【話の泉ー笑い】 その四十六 パントマイム その6 その芸術

笑いの芸術、パントマイムのまとめです。「声を用いず身体の動きや顔の表情のみを表現手段とする芸術」がパントマイムです。黙劇とか無言劇です。古代ギリシャで生まれた「ものまね」を中心とした座興的な雑芸と呼ばれました。パントマイムの起源は古代ローマのパントミムス(pantomimus)に求めるのが定説のようです。ギリシャ時代は雑劇といわれましたが「ものまね,身振り」的な要素が強調され、1つの芸能のジャンルとなりました。

紀元後からおよそ5世紀の初めに至るまで、ものまねが卑俗であるとしてキリスト教会からの「道徳的な非難」や名帝といわれたトラヤヌス皇帝(Emperor Marcus Trajan)による禁止令にもかかわらず、古代ローマ人には大いに愛好されたといわれます。ローマ帝国の解体以降は、いわば1つの芸術ジャンルとしては消滅しますが、実体としては種々の雑芸や笑劇の中にその要素が吸収され、西欧演劇の一底流として中世・ルネッサンス期から近代へと生き続けることになります。

ジェスチャー(NHK)

本稿で既に述べましたが、イタリアのコンメディア・デッラルテという旅芸人一座の中にパントマイムの要素を色濃く見ることができます。17、18世紀にフランス宮廷などで行われた神話を題材とする仮面舞踏劇もパントーム(pantomime)と呼ばれています。

19世紀になるとパントマイムは、演劇史の中で全盛期を迎えます。フランスにおいうてピエロに扮した芸人の芸として発達します。その後、エティーヌ・ドクルー(Etinne Docroux)やバロー、マルソーに受け継がれていきます。パントマイムは、音声言語を排除するので、舞台芸術として実践することは、戯曲上演と比べてかなり少ないのが実際です。それでも演劇表現の中で占める普遍性によって、今日でも俳優訓練や養成の一手段として世界各国で重視され、人々に笑いや感動を与え続けています。

【話の泉ー笑い】 その四十五 パントマイム その5 映画「ユダヤ孤児を救った芸術家」

マルセル・マルソーはユダヤ人でした。ドイツ軍のフランス侵攻に伴い、ユダヤ人であることを隠すために姓を「Mangel」から「Marceau」に名前を変えたようです。彼の父はゲシュタポ(Gestapo)によって捕らえられ、1944年にアウシュビッツ強制収容所(Auschwitz Concentration Camp)で亡くなります。若いとき、マルソーは第二次大戦中にナチと協力関係にあったフランス政権に立ち向かうべく、レジスタンス運動に身を投じます。彼はフラン語、英語、ドイツ語に堪能だったようで、一時、連合軍第三軍のジョージ・パットン(General George Patton’s Third Army)の連絡将校として働いたとあります。

沈黙のレジスタンス

このマルソーの実体験を映画化したのが「沈黙のレジスタンス–ユダヤ孤児を救った芸術家」という作品です。第二次世界大戦が激化するなか、彼は兄のアランらとでナチに親を殺されたユダヤ人の子どもたち123人の世話をします。悲しみと緊張に包まれた子どもたちにパントマイムで笑顔を取り戻させます。それでもナチの勢力は日に日に増大し、1942年、遂にドイツ軍がフランス全土を占領します。マルソーらは、険しく危険なアルプスの山を越えて、子どもたちを安全なスイスへと逃がそうとします。

マルセル・マルソー

「戦時中だからこそ、子ども達を笑わせたい」「真の抵抗とは人を殺すことではなく、命を繋ぐこと」と映画の中でマルソーは言います。「芸術とは、見えないものを見えるようにし、見えるものを見えないようにする」とも言います。この考え方はまさに彼のアートそのものであり、彼が子ども達を救おうとしたシーンにも表れています。

【話の泉ー笑い】 その四十四 パントマイム その4 マルセル・マルソー

1998年に日本でも公演したことのあるマルセル・マルソーのことです。彼は、パントマイムという芸術形式における第一人者で、近代パントマイムの歴史で最も有名な演者の一人といわれます。マルソーは、5歳のとき母に連れられてチャーリー・チャップリンの無声映画を見たことがきっかけで俳優を志したと回想しています。やがて演劇や身体を使ったパフォーマンスを学びます。

Marcel Marceau

ちなみに映画『天井桟敷の人々』(Les enfants du Paradis)のバチスト役(Baptiste)で世界的に有名になるジャン・ルイ・バローは、マイム研究家であったエチエンヌ・ドゥクルー(Etienne Decroux)の生徒でした。マルソーはバローが立ち上げた劇団に参加しますが、バローが映画を中心とした活動になり、マルソーはパントマイムを追求するためにバローから離れます。マルソーはこの劇団のパントマイムのバチストで演じた道化役で好感触を得たことを弾みに、最初の無言劇(mimodrame)『プラクシテレスと黄金の魚–Praxitele and the Golden Fish』をサラ・ベルナール劇場(Sarah Bernhardt Theater)という所で公演し高い評価を得るのです。

Marcel-Marceau

1947年には、マルソーの代名詞ともいえるキャラクター「Bip」を名乗ります。「Bip」は白く塗られた顔、よれよれのシルクハット、帽子に力なく飾られた花、ストライプのシャツなどはパントマイムの一般的なイメージとして認知されるほど、大衆にアピールします。言葉を発せず体ひとつで表現されるそのパフォーマンスは高い評価を受け、とりわけ有名な『若さ、成熟、老年そして死』(Youth, Maturity, Old Age, and Death)と呼ばれているパフォーマンスは有名となります。このパフォーマンスについて、評論家は「彼は小説家が何冊書いても表現しきれない世界を2分で表現してしまう」と言ったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十三 パントマイム その3 道化役とピエロ

コンメディア・デッラルテが衰退すると、その遺産を取り入れた道化芝居がフランスで発達していきます。現在の道化役(ピエロ: pierrot)のイメージ、白塗りでちょっととぼけたキャラクターは、この時期のフランスの道化芝居から生まれたものといわれます。その後、時代の流れとともに19世紀後半にはこのような道化芝居も衰退していきますが、その流れを取り入れたジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)などが身体技法としてのパントマイムを洗練させていきます。やがてバローの生徒として、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)が登場します。マルソーは後に「パントマイムの神様」「沈黙の詩人」と呼ばれ、今日のマイムの大衆化に大きな貢献をしたといわれます。そしてパントマイムを「沈黙の芸術–Art of Silence」として確立するのです。

Street Performance

ピエロとかクラウン(Clown)は、西洋の道化役のことです。原型はイタリアの即興喜劇コメディア・デッラルテの、のろまでずうずうしい居候の道化役ペドロリーノ(Pedrolino)です。17世紀後半にパリのイタリア人劇団によってフランス化され、白いだぶだぶの衣装を着て顔を白塗りにし、円錐形の帽子,黒い仮面、鳥の嘴のような大きい鼻を持ちシルクハットを被った小柄な老紳士プルチネラ(Pulcinella) が登場します。おそらくペドロリーノの後身であるピエロ〈悲しき道化〉だったようです。

Performer and Children

ピエロは、男子名ピエール(Pierre) の愛称を名のって、歌と対話を交互に入れた通俗的な喜劇・舞踊・曲芸などのボードビル (vaudeville)やバレエで活躍します。19世紀にはボヘミヤ(Bohemia) 出身のパントマイムの名優ドビュロー(De Bureauがこの役柄をさらに洗練して、まぬけだが繊細なロマンチストで恋に悩み哀愁に満ちたピエロ像を完成していきます。またサーカスでは、より活動的な役柄であるプルチネッラ (Pulcinella)や即興劇のアルレッキーノ(Arlecchino)の要素が加えられ、イギリスのクラウンとも混ざり合って、ひだ付きの襟飾りと目や口の周りの赤い化粧が強調された道化師となります。そのいずれもが多くの作家や画家の題材にもなり、笑いのキャラクターとして定着していきます。

【話の泉ー笑い】 その四十二 パントマイム その2 コンメディア・デッラルテ

現代のパントマイムといえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)の無声映画を思い浮かべます。サイレント作品「街の灯:City Lights」は、盲目の女性との恋を悲しくも暖かに描き世界中で大ヒットとなったことは、すでにこのシリーズで紹介しました。丁度トーキーの波が押し寄せる頃です。英語圏においては、パントマイムという単語は、主にクリスマスに子ども向けに演じられるコメディ要素の強い伝統的演劇を指すようです。

City Lights

今日私たちが知っているパントマイムに強い影響を与えたものとして、ルネサンス期(Renaissance)のイタリアの即興喜劇で起こったコンメディア・デッラルテ(Commedia dell’arte) が引用されています。デッラルテとは、今で言う旅芸人一座のことです。ヨーロッパ全土を放浪し大道芸を行ったといわれます。ヨーロッパの各地を訪れるのですから、言語の壁を乗り越える必要がありました。そうしてパントマイムの技法が洗練されていったようです。

Limelight

コンメディア・デッラルテは観客を楽しませるために様々な手段を使ったようです。演技は誇張され、やがてラッツィ(Razzi)と呼ばれる独特の笑いのテクニックも編み出されていきます。時にはパントマイムやジャグリング、アクロバットなどの身体表現も交えて演じられます。仮面を使用する即興演劇の一形態で、演じる内容の多くは時代や社会の風刺喜劇が中心であったといわれます。

【話の泉ー笑い】 その四十一 パントマイム その1 その語源

話の泉は、パントマイムという「沈黙の芸術–笑い」へと展開していきます。週末、ヨーロッパやアメリカの大都会の繁華街を歩くと、必ずといってもよいほど大道芸(ストリートパフォーマンス;street performance) に出会います。ジャグリング(juggling)もそうです。台詞ではなく身体や表情で表現する演劇の形態で黙劇とか無言劇とも呼ばれる「パントマイム」(pantomime)も見かけます。

大道芸人

パントマイムでは、実際には無い壁や扉、階段、エスカレータ、ロープ、風船などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現します。特異な服装や化粧をして全く身じろぎをしないパフォーマンスにも会い、子ども達を驚かせたり喜ばせたりします。

パントマイムの語源をWikipediaから引用します。パントマイムとは「全てを真似る人」「役者」を意味する古典ギリシア語 「pantomimos」とあります。古代ギリシアの頃のパントマイムは、演劇の一演目という扱いだったようで、今とは違い仮面舞踏に近いものだったといわれます。

「泣き笑いして我がピエロ」(堀口大学)

パントマイムをする人を、パントマイミスト(pantomimist)、マイマー(mimer)、パントマイマー(pantomime)などと呼びます。英語圏ではマイムアーティスト(mime artist)という呼びかたもあるくらいです。イギリスでは18世紀以降、台詞のある滑稽劇として独特の発展を遂げ、クリスマスの風物詩となるくらい人気がでます。

【話の泉ー笑い】 その四十 真打ち「話の泉」 その5 「二十の扉」

「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、ゲーム性をとことん追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

司会者の藤倉修一

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。

レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。「話の泉」の次ぎに生まれたのが、「二十の扉」です。1947年11月から1960年4月まで毎週土曜日の午後7時30分から30分間、NHKラジオ第1放送からの番組です。アメリカで放送されていたクイズ番組『Twenty Questions』(20の質問)をモデルにした番組といわれます。動物、植物、鉱物の3つのテーマから出題された問題に、回答者は司会者に20まで質問ができ、その間に正解を探しだしていきます。質問を扉とみなして20の扉を開けていくという趣向でした。

二十の扉

「二十の扉」の問題はすべてリスナーから寄せられました。リスナーからの問題の投稿は「話の泉」の比ではないくらい多く、1日に2万通を超える日があったと言われています。「話の泉」に比べて、番組を楽しむためのハードルはやや低かったと思われます。「話の泉」が「クイズに付随したトークを楽しむ番組」だとすれば、「二十の扉」は「クイズ的なゲームを楽しむ番組」だったようです。

「話の泉」との差別化を徹底的に図ったこの番組は、とことんゲーム性を追求していました。企画段階では1か月半、週3回ほどテンポの速さと司会者の応答の仕方の猛練習が行われたことにより、スピーディな進行とエンターテイメント性を兼ね備えた超人気番組になったといわれます。番組終了まで司会を担当したのは藤倉修一というアナウンサーです。彼の功績は非常に大きかったと言えます。

「二十の扉」では、観客は答えを知っており、回答者の質問が良い質問をすると、観客から拍手が起きます。そのほか笑いが起きたり、薄い拍手が起きたりします。そしてそれが回答者に対するヒントになります。こうした形で観客も番組に参加していたのです。レギュラー回答者による通常の放送のほかにも「ゲスト大会」が頻繁に開かれます。歌舞伎、政治家、プロレス、文壇などといった、普段あまりクイズとは縁のなさそうな分野からもゲストを招いて番組を盛り上げたようです。

【話の泉ー笑い】 その三十九 「話の泉」 その4 司会者

放送番組に欠かせないのが司会者です。特にトーク番組はそうです。徳川夢声をはじめとする一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、1946年から1964年の間にかけて、タレントとしての才能も高い人気地位を保ちます。

第1回の放送では徳川夢声が司会を担当します。出場者は、サトウハチロー、中野五郎、中野好夫、堀内敬三でした。徳川夢声はもとより自他共に認める鉄道ファンであり、「話の泉」での共演者からは「彼のモノ知りは非常に本格的なのである」と評されたようです。多くの著名人とのインタビューを通して博識が育まれたようです。司会者と回答者、丁々発止のやりとりが聴衆者に受け入れられます。ということは、この番組は「クイズそのものを楽しむ番組」ではなく「『クイズを出題し、回答したり、内容について話したりして楽しんでいる人』を楽しむ番組」だったとわれます。

中野好夫

徳川夢声は、最初は無声映画の弁士で知られるようになります。しかし、トーキー映画の登場により活弁の仕事が無くなると、ラジオやテレビの司会者・俳優・作家として活躍し、持ち前のユーモアと博識で人々に愛されます。特に吉川英治作「宮本武蔵」の朗読で国民的人気を得ます。

回答メンバーは、自他ともに「雑学」という知識の持ち主と自負?していたようです。「話の泉」のメンバーは諸事に詳しいことが要求されます。そこで「偏学」という用語も使われてきます。メンバーの人々自らもその知識は偏っていると認め、大学教授のようないわゆる学者バカを「偏学」というべきだ、と広言してやまないような文化人です。

堀内敬三


徳川夢声の後を引き継いだ司会者が和田信賢です。一癖も二癖もある文化人のレギュラー回答者たちを相手に絶妙な問答を繰り広げ、タレントとしての才能も高い人気アナウンサーの地位を高め、司会者としての人気は絶頂期を迎えます。後に不世出の名アナウンサーと呼ばれるほどでした。その後は高橋圭三らが担当します。 回答者には、堀内敬三、サトウ・ハチロー、徳川夢声、渡辺紳一郎、山本嘉次郎、大田黒元雄、春山行夫といった当時の知識人・著名人たちです。彼らの当意即妙のユーモアを加えるところに、その知性の高さを聴衆者に感じさせたものです。

【話の泉ー笑い】 その三十八 「話の泉」 その3 知的な推理ゲーム

「話の泉」は、わが国のクイズ番組の嚆矢であり、知的な推理ゲームとして定着し18年間873回続きます。ラジオが全盛期の頃です。そこには、クイズ番組を面白くする要素がありました「話の泉」に含まれる構成要件は次のようなものです。
1 リスナーを巻き込む    本番組の場合は問題投稿・公開放送とする
2 クイズをしている人を見せる   本番組では解答者と司会者の軽妙なトークをいれる
3 難問奇問を選定する   問題のジャンル調整しリアクションのとりやすい問題を選ぶ
4 名司会者を配置する   回答を引き出す助けもする

話の泉-公開放送

今、思えば現在ではわざわざ指摘する必要がないくらい当たり前な構成要件です。ですがテレビと違いラジオ番組ですから、リスナーがイメージを形成するような質問と応答であることが大事でした。聴覚からの情報によって、いかにして笑いを形成するかに関して番組製作者と司会者は苦労したことと察します。

問題は全国から募集し、集まった問題を番組製作者らがしぼります。公開録音の前日に司会者と番組製作者でそこからが13通位を選びます。一般常識、文芸、スポーツ、音楽、科学、社会、地理、歴史など、あらゆる分野に平等に行きわたるように按配したようです。放送されるクイズ問題に正確を期するために、事実関係を確認する「ウラ取り」をしたかどうかです。今のように正確さや厳密さが求められることからすると、放送直前に「ウラ取り」するというのは考証が不足するという懸念が浮かびます。

【話の泉ー笑い】 その三十七 「話の泉」 その2 リスナーが参加する番組 

前回は、クイズ番組の出発点としての「民主化教育」のことに触れました。「話の泉」の製作にあたってはGHQから「リスナーの声が反映された番組」「リスナーが参加する番組」を制作すべし、という指導があったとか。戦前戦中のラジオ放送が軍部の一方的な情報伝達であったことを打破する意図がありました。リスナーの希望や質問を放送に反映するというお触れは、ジオ番組制作において一般的に行われていたGHQからの指導でした。

サトウイチロウ

話の泉」における「リスナーの参加」はどのような形で行われたのかです。リスナーから寄せられた問題に、博学博職の回答者が10秒以内にユーモアを交えて答えるという形式です。司会者のアナウンサーが、リスナーからの難問奇問に対して回答者にヒントを交えて答えを促すのです。リスナーからの出題は1日1,000通を超え、採用されるのは1,300通にたった1通という難関であったようです。採用された問題には30円、回答者が回答できなかった問題には50円の賞金が出されたとあります。

「NHK放送史」HPでは、当時の放送をごく一部ですが聞くことができます。
出題者 「これから並べる数字はいったい何を表しているでしょう。三・三・四。」
回答者A 「三・三・九なら分かるけどなあ」
出題者 「まだ数字をもう一つ言うと分かるんです。前の方を。三・三・四の」
回答者B 「あーそりゃ学校だ。六・三制のね、六・三・三・四でしょ。」
出題者 「はい、よろしゅうございます」
回答者B 「だけどね、私の場合はね、もう少しかかりますな。六・六・六・六くらいかかりますな」

回答者Bはサトウハチローです。最後の言葉は、自分が中学を退学したことを踏まえた「くすぐり」でしょう。クイズの回答に関するやりとりの中で聞かれる、こうした軽妙で珍妙な会話が魅力だったのです。

和田信賢

【話の泉ー笑い】 その三十六 「話の泉」 その1 民主化教育 

戦後間もない頃、クイズ番組がNHKのラジオに登場します。それが1946年から放送された「話の泉」です。当時の呼称は「当てもの」で、一般リスナーからの問題に5人の文化人が10秒で解答するというものでした。

当時の問題「がんもどきの作り方をご存知ですか?」に10秒以内で誰も答えられなかったといわれれます。正解は「豆腐を潰して切り昆布と人参を混ぜて揚げます」。少々難易度が高かった「話の泉」です。ですがこの番組の解答者は、難問もあまり苦にしない博学博識の文化人たちでした。

話の泉ー公開放送

「話の泉」はクイズ番組の原型といわれます。こうしたクイズの内容は、当時のGHQ(General Headquarters)内の民間情報教育局(Civil Information and Educational Section: CIE)の指導を受けて制作されたといわれます。興味深い経緯です。この番組はアメリカの人気ラジオ番組「Information Please」を下敷きにしたといわれます。ラジオ放送しかない時代です。日本を「民主化教育」する目的で、アメリカのクイズ番組が輸入されたといわれます。

話の泉と回答者

しかし、GHQのいう「民主化教育」がどういうものだったのかということは、判明していません。たとえば、Wikipediaでは、クイズ番組を通じて、戦前の家族に見られる家父長的な関係性を突き崩すことを意図した、というような考え方が紹介されています。どうもその意味はすっきりと理解しにくいです。クイズ番組による民主化教育の推進や家父長的な関係性の打破は、少々付け足しのような印象です。

【話の泉ー笑い】 その三十五 落語 その9 外国人に理解されるか

笑いは万国共通の表現です。この感情表現は言葉の理解によって生まれまが、例外はパントマイムです。落語は日本語をよく理解していないと伝わりにくいといわれがちです。そうなると「落語は外国人に通用するのか」という疑問が浮かびます。ご存知かもしれませんが、何人かの噺家さんは、外国人を相手に国内や海外で公演やイベントを開いています。

立川志の春

その内の一人が三遊亭竜楽です。英語だけに留まらず、中国語やフランス語など8カ国の言語を使って落語を行なっている活躍振りです。英語での小噺です。桜の花見にでかけたときに、友人にそのときの情景を語ります。酒がうまかった、串焼き、寿司は美味しかった、通りがかりの女性が綺麗だった、若い少女はセクシーだった、、などなど。そこで友人が聞きます「桜はどうだった?」「I don’t remember,,,,」 まさに花より団子という噺を語ります。

桂かい枝という噺家もいます。師匠である5代目桂文枝さんの高座に惚れ込み、大学を卒業後に入門します。その後外国人に落語を広めるために、英語での公演を21カ国で300回以上も行なっているというのですから驚きです。「動物園」という新作落語です。ある男、動物園で職を見付けます。虎のぬいぐるみを着て子どもや大人を楽しませる役です。台詞の英語も面白いのですが、仕草が絶妙で台詞はいらないほど外国人を笑わせます。

桂三輝

古典落語を本格的に英語で演じる噺家に立川志の春がいます。イェール大学卒業という経歴から英語が得意だったこともあって外国人観客を笑わせています。「藪入り」という演目も筋書きを忠実に演じています。立川志の春は云います。「英語落語は、中学校レベルの英語で楽しめる!」。日本語と英語は文法が違うから、落語の面白さは伝わらないんじゃないの?という問いに対しても「全然そんなことはなくて、、」というのです。「英語に触れる機会として落語がある」というのは含蓄ある言葉です。

また最近では外国人落語家という人も活躍しています。その人が外国人落語家の桂三輝さんです。これでカツラサンシャインと読みます。桂三輝はカナダ生まれですが、いつしか落語に興味を持つようになり、現在ではニューヨークに拠点を置き、落語の活動をしているのです。得意な演目が長助という男の長い名前によって起こる笑いを主題とした古典落語「「寿限無」です。ダイアン吉日という女性噺家もいます。

【話の泉ー笑い】 その三十四 落語 その9 「紙入れ」と間男

洋の東西を問わず、男と女の関係は、落語の最も笑いを誘う話題です。その一演目が「紙入れ」です。間抜けな旦那と抜け目のない妻、その間で悩む小僧の物語です。

得意先の商家のご新造さんから、今夜は旦那が帰らないから遊びに来てくれと、いう手紙を本屋の新吉という小僧がもらいます。世話になっている旦那には悪い気もするのですが、迷った末に出かけて行きます。

「紙入れ」

新造は酒を勧め、今日は泊ってくれといいます。新吉は断りますが、新造はどうしても帰るというなら、留守の間に新吉が言い寄ってきたと旦那に言うと脅すのです。困ってがぶ飲みして悪酔した新吉は隣の間の布団に入ります。すぐ後から長襦袢姿になった新造も布団へ入って来ます。

さあ、という時、表の戸を叩く音、帰らぬはずの旦那が帰って来たのです。あたふたする新吉を尻目に、新造さんは落ち着いて新吉を裏口から逃がすのです。

家に戻った新吉、悪いことはできないものだと反省しているうちに、旦那から貰った紙入れを忘れたことに気づきます。中には新造からもらった手紙が入っています。その夜はまんじりともせず明かします。

翌朝、新吉は恐る恐ると旦那の家に行きます。旦那は新吉が浮かぬ顔をしているのであれこれと尋ねます。女のことだと分かり、あれこれと説教を始めます。新吉も昨夜の顛末を喋り出し、手紙のはさんである紙入れを忘れた、そこの旦那に見つかっただろうかと心配そうに言うのです。そこへ現れた当のご新造さん。

新吉とご新造

・新造 「おはよう新さん、気が小さいのねえ。それは大丈夫と思うわ。だって旦那の留守に若い人を引っ張り込んで楽しもうとするくらいだから、そういう所に抜かりないと思いますよ。新さんを逃がした後に、紙入れがあればきっと旦那に分からないようにしまってあるはずよ。ねえあなた!」
・旦那 「そうりゃあそうだ。よしんば見つかったところで、自分の女房を取られるような野郎だよ。まさかそこまでは気がつかねえだろう」

【話の泉ー笑い】 その三十三 落語 その8 泥棒と笑い

落語に泥棒がしばしば出てくる舞台は長屋です。江戸時代、庶民の多くは長屋に住んでいました。隣り近所つきあいが当たり前の頃ですから、だれも鍵をかけることはありません。泥棒にとっては格好のカモです。しかし、盗めるものといえば着物などめぼしいものは少なかったようです。「喧嘩と火事は江戸の華」といわれました。木造の安普請の建物ですから、風が吹けば桶屋が儲かる時代です。「泥棒デモやろうか、、」という「デモ泥」もいたとか、、、

江戸の泥棒

そんな長屋で人情味のある泥棒を描いた演目に『夏泥』があります。泥棒は情深いのが欠点で、それが仇?となって、「さあ殺せ!」と開き直った住人にうまく欺され逆にカネを巻き上げられる、「来年もまた泥棒に入ってくれ」と誘われる始末です。盗人噺の代表の一つです。

「また来てくんねー」

上方落語では「盗人の仲裁」「盗人のあいさつ」などの演目名で披露されるのが「締め込み」です。泥棒が空き巣に入り、品物をまとめて逃げようとすると、住人が帰って来ます。仕方なく土間にかくれます。住人夫婦は、戸締まりのことで喧嘩を始めます。熱い湯の入ったヤカンを投げるありさまです。お湯が土間に流れると泥棒、我慢出来なくなって住人の前に出てきてしまいます。住人は喧嘩の仲裁に入ってくれたのを感謝して、また来るようにというのです。

「狸札」という演目です。いじめていた子狸を助けた八五郎の所に狸が恩返しにやってきがます。借金があるから札に化けてくれと言われると五円札に化けます。相手のガマ口に四つに折って入れられた狸は、苦しくなってガマ口を食い破って、中に入ってあった札も持って帰るという噺です。

【話の泉ー笑い】 その三十二 落語 その7 粗忽噺と笑い

「粗忽」。なんとも惚けたようですが響きがよい言葉です。おっちょこちょい、そそっかしい、あわてんぼう、ということです。 軽はずみとか唐突でぶしつけといった意味もあります。

江戸時代はしばしば大火が起こり、そこら中に安普請のアパートが造られます。いわば復興住宅という長屋です。そのせいで宿替えとか引っ越しが日常的であったようです。「粗忽の釘」はそのような江戸の下町が舞台です。

演目「転宅」

粗忽者の亭主にしっかり者の女房が長屋に引っ越ししてきます。亭主はそそっかしいだけあって、運ぶ荷物を後ろの柱と一緒にくくってしまったり、それに気付かず担ごうとしたり、旧宅を出るまでに一騒動が起きるのです。女房が新宅にきちんと引っ越しても、亭主野郎はやって来ません。道に迷うわ行き先は分からなくなるわで、やっとのことで辿り着いた亭主に、呆れながらも女房は釘打ちを頼みます。
  「お前さん、箒を掛けたいから柱に長めの釘を打っとくれよ」
  「よしゃ、俺は大工だ、任しとけ!」

亭主はいい気になって釘を打つのですが、調子に乗ってすっかり釘を打ち込んでしまいます。それも柱ではなく壁にです。おまけに八寸の瓦ッ釘。これが隣の家の仏壇の横に飛び出て、騒動の始まりとなります。

「転宅」という泥棒噺も粗忽の代表といえるかもしれません。大抵、落語の泥棒といえば間抜けなものと決まっています。お妾のお菊のところから旦那が帰宅します。お菊が旦那を見送りに行くその留守にこそ泥が侵入します。この泥棒、旦那が帰りがけにお菊に五十円渡して帰ったのをききつけそれを奪いにやって来たのです。

泥棒とお菊

泥棒、座敷に上がりこみ、空腹にまかせてお膳の残りを食べ、酒を飲み始めます。そこにお菊が戻ってきて鉢合わせます。泥棒、慌ててお決まりのセリフですごんでみせますが、お菊は驚きません。それどころか、「自分は元泥棒で、今の旦那とは別れることになっている。よかったら一緒になっておくれでないか」と迫るのです。

間抜けな泥棒すっかり舞い上がってしまい、デレデレになってとうとう夫婦約束をしてしまいます。そして形ばかりの三三九度の杯を交換するのです。「夫婦約束をしたんだから、亭主の物は女房の物」と言われ、メロメロの泥棒はなけなしの二十円をお菊に渡してしまいます。泥棒は、今夜は泊まっていくと言い出しますが、お菊がとっさに「二階に用心棒がいるから今は駄目。明日のお昼ごろ来るように」といって泥棒を帰してしまいます。妾宅は平屋なのを泥棒は知りません。

翌日、ウキウキの泥棒が妾宅にやってくるとそこは空き家になっています。近所の煙草屋に、お菊はどうしたかときくと、仕返しが怖いので引っ越したというのです。
 「お菊は一体誰か、、」
 「誰かといって、お菊は元義太夫の師匠だ」
 「義太夫の師匠? 見事に騙られたぁ!」

【話の泉ー笑い】 その三十二 落語 その6 名奉行噺と笑い

江戸時代前期、第5代将軍・徳川綱吉によって制定されたのが「生類憐れみの令」です。保護する対象は、捨て子や病人、高齢者、そして動物で、魚類、貝類、昆虫類まで及んだといわれます。特に鹿は春日大社の神使いとされ、誠に手厚く保護されていました。庶民は鹿にかしずくほどであったといわれます。ちょっと叩いただけでも罰金、もし間違って殺そうものなら、男なら死罪、女子どもは石子詰めという刑が待っていたようです。興福寺の小僧が習字の稽古中に大きな犬が入ってきたと思って文鎮を投げたところ、それは鹿でした。当たり所が悪く死んでしまったという話もあります。石子詰とは地面に穴を掘り、首から上だけ地上に出るようにして埋める罰です。

徳川綱吉

「鹿政談」の荒筋です。奈良の町に豆腐屋を営む老夫婦が住んでいました。ある朝、主である与兵衛が朝早くに表に出てみると、大きな赤犬が「キラズ」といわれた「卯の花」の桶に首を突っ込み食べていました。卯の花とはおからのこと。与兵衛が手近にあった薪を犬にめがけて投げると、命中し赤犬は死んでしまいます。ところが、倒れたのは犬ではなく鹿です。

当時、鹿を担当していたのは代官と興福寺の番僧。この二人が連名で願書を認め、与兵衛はお裁きを受ける身になります。この裁きを担当することになったのは、名奉行との誉れが高い根岸肥前守。お奉行とて、この哀れな老人を処刑したいわけではありません。何とか助けようと思い、与兵衛にいろいろとたずねてみますが、嘘をつくことの嫌いな与兵衛はすべての質問に正直に答えてしまいます。困った奉行は、部下に鹿の遺骸を持ってくるように命じます。そして鹿の餌料を着服している不届き者がいるとして、逆に代官や番僧らを責め上げるのです。そして鹿が犬であることを認めさせるという演目です。

名奉行

「佐々木政談」という演目はこちらも名奉行で知られた南町奉行、佐々木信濃守。非番なので下々の様子を見ようと、田舎侍に身をやつして市中を見回ります。そこで子どもらがお白州ごっこをして遊んでいるのが目に止まります。面白いので見ていると、十二、三の子供が荒縄で縛られ、大勢手習い帰りの子が見物する中、さかしいガキがさっそうと奉行役で登場します。この奉行役の子どもの頓智に佐々木信濃守は偉く感心してやがて子どもをとり立てるという噺です。

天狗裁き

「天狗裁き」の奉行は大分違います。家で寝ていた八五郎が女房に揺り起こされます。「お前さん、どんな夢を見ていたんだい?」八五郎は何も思い出せないので「夢は見ていなかった」と答えますが、女房は隠し事をしているのだと疑うのです。「夢は見ていない」「見たけど言いたくないんだろう?」と押し問答になり夫婦喧嘩になってしまいます。喧嘩の仲裁に入った長屋の差配や町役人も夢の噺を聞きたがります。挙げ句の果てお白洲に訴えられ、奉行までもが夢の話を聞きたいといって八五郎を責め立てるのです。最後に高尾の山に飛ばされ、そこで天狗にまで夢の話を聞かせろ、と苛まれる愉快な話です。

【話の泉ー笑い】 その三十一 落語 その5 与太郎噺と笑い

落語にはいろいろな人物が登場します。「八っぁん、熊さん、」などと並ぶ代表的なのが与太郎です。与太と呼ばれます。性格は八五郎に似ていて惚けていますが、憎めません。

与太は、例外なくぼんやりした人物として描かれます。性格は呑気で楽天的。何をやっても失敗ばかりするため、心配した周囲の人間から助言をされることが多いのです。こうしたキャラクターから、与太郎の登場する噺は爆笑ものが多く、与太郎噺と分類される場合もあります。さらに「愚か者」の代名詞となっていますが、決して憎めない存在です。長屋の者は与太郎をかばうことを決して忘れません。

上野広小路の寄席

「孝行糖」という演目では与太は親孝行という筋書きになっています。殿様から親孝行なので褒美の青ざし五貫文を頂戴します。五貫文とは一両一分で十万円くらいと云われます。長屋の者は、五貫文を元手に与太郎にお菓子の孝行糖売りの行商を教えるので。自立させようというのです。そして与太に客寄せの台詞を教えます。「チャンチキチ スケテンテン♪ 孝行糖、孝行糖〜」。「錦の袈裟」という演目では与太にしっかりものの妻が登場します。与太に錦の袈裟とふんどしをつけて男衆の集まりに送り出すきっぷのいい妻です。若い衆らとで吉原に乗り込みますが、与太は女達にすっかりもてるのです。与太を殿様だと勘違いしたからです。周りの男は与太のもて振りにすっかりあてられるという結末です。

代書屋

「牛ほめ」という演目では、頓珍漢な言動ばかりしている与太さんが登場します。新築の叔父の家を訪問し、父親に教えられた通りにほめ言葉を並べて感心されるのですが、最後に牛を見せられて失敗します。「大工調べ」では与太は腕っぷしのいい大工として登場し、滞納した店賃のカタとして没収された道具箱を取り返すべく、大工の棟梁の助言で、あこぎな家主を相手に訴訟を起こします。お奉行も味方しようとするのですが、ばか正直なためになかなか決着しません。「つづら泥」は与太が泥棒を試みる数少ない噺。夜自分の家に泥棒にはいるという大失敗をします。

「佃祭」にも与太が登場します。佃島の祭りの帰りに渡し船が転覆して死んだと思われるのが与太です。ところが近所の旦那の家に、ほかの住人たちに連れられて長屋の月番で代表の1人として弔問に訪れる与太。ですが、悔みと嫌みの区別がついていなかったり、最初の一言が「このたびはどうもありがとうございます」だったりで、厳粛な雰囲気をぶち壊しにします。

【話の泉ー笑い】 その三十 落語 その4 世間知らずの殿様と笑い

筆者は落語の素人でまったくの後発組です。そのような訳で落語を語るには少々気恥ずかしい気分なのですが、笑いを取り上げているのでどうしても筆を執りたくなるのが落語なのです。素人の目からみた落語の内側には、人の生き様とかペーソスが充満していて、ヨーロッパやロシア、アメリカのジョークに劣らぬ笑いの泉であることを強調したいのです。

富嶽百景

落語の演目にはいろいろな人やモノが登場します。例を挙げると、名前では八五郎、与太郎、与兵衛、熊五郎、定吉、多助、三太夫、正助、お鶴、お菊、竹さん、新さんなどです。動物では犬、猫、狸、鹿、鷺、雀、ウワバミ(大蛇)、馬、魚では鰻、秋刀魚、鯛、白魚、カツオなどです。食べ物では、豆腐、蕎麦、うどん、鰻重、ワサビ、人に関しては、坊主、花魁、遊女、行商、盲人、間男、盗人、殿様、側室、侍、代官、女房、妾、女中、くずや、魚屋、大工、長屋の差配、幇間、按摩、蕎麦屋、ケチ、お人好し、正直者、間抜け、世話好き、粗忽者、ほら吹き、博打好き、大酒飲み、乱暴者、藪医者、すり、などなどきりがありません。話題となると、酒、夢、あくび、富くじ、火事、怪談、幽霊、妾宅、引っ越し、新築祝い、厠、転失気、道楽、吉原、喧嘩、祭り、敵討ち、天狗、浅草寺、長屋、講中、白洲など多彩です。

目黒の秋刀魚

おおよそ落語に登場する人物には、名奉行や頓智のある子どもなどは例外として、真面目で頭の良い者はあまり登場しないことになっています。こうした人物は笑いの対象にはなりにくいようです。江戸時代は士農工商の世の中です。お侍が形の上では幅を利かしていました。町人は小さくなって歩いていた時代です。そんなこともあってか、殿様とか大名、侍は笑いの対象になっていました。彼らは世の中の動きに疎いこともあり、庶民や町方は殿様などを茶化すのです。

そうしたぽーっとした殿様の代表が「目黒の秋刀魚」にでてきます。自分がどうしても蕎麦をを打ちたくて、習ったばかりの蕎麦の作り方を家来に披露するのです。ところがその蕎麦がとても食せるような代物でありません。ですが殿様の打った蕎麦を食べないと打ち首になるというのです。ですから殿様の蕎麦は「手うち蕎麦」と呼ばれます。食通ぶっている者は笑いのネタとなります。

【話の泉ー笑い】 その二十九 落語 その3 オチと演目

多くの場合、「落ち」は「オチ」、「下げ」は「サゲ」とカタカナで表記します。「オチ」(サゲ) は落語の中で笑いを誘う生命ともいうべき重要なものです。これにはいくつもの型があり、なかには一つの落語で2種、3種を兼ねている場合もあります。オチとは、長い歴史のなかで幾多の落語家が創意工夫を凝らして作ったものです。この「落ちの種類」は、『落語の研究』(大阪・駸々堂書店)で分類が試みられ、それから人々の関心が寄せられるようになったといわれます。以下、オチの種類と演目を紹介しておきます。演目は小生が聴いたことがあるものだけです。

地口落ち:
 大阪では「にわか落ち」といわれるオチです。オチが駄洒落になっているもので、落語のオチのなかではもっとも多いといわれます。『富久』『大工調べ』『鰍沢』『大山詣り』『錦の袈裟』『天災』などがあります。

考え落ち:
 このオチは、演目を聞いているとなるほどと思われ、笑いが生まれるものです。よく考えないとわからない落ちともいわれます。その代表には『そば清』『蛇含草』『妾馬』などがあります。

しぐさ落ち:
 言葉に出さず、しぐさで見せるオチです。『死神』『こんにゃく問答』『猫久』『お菊の皿』『ちりとてちん』どれも笑える演目です。

住吉神社

仕込み落ち:
 あらかじめオチの説明を「枕」といわれる導入部)あるいは筋のなかで入れておくと笑えるものです。『明烏』『真田小僧』など。

とたん落ち:
 最後に落ちるとたんに、そのオチのひとことで咄全体の筋がうまく決まる演目です。最後まで聞かないと笑えません。『寝床』『愛宕山』『笠碁』『後家殺し』『幾代餅』『藪入り』『お化け長屋』『芝浜』『二番煎じ』など古典落語の名作に出てくるオチです。

ぶっつけ落ち:

佃の渡し


 互いに言っていることが通じないで、別の意味にとって、それが落ちになるのです。『らくだ』『あくび指南』『抜け雀』『お化け長屋』などがその例です。

まぬけ落ち
 誠にばかばかしい間抜けたことで結末を迎えるオチです。行き倒れの自分の死骸と錯覚して、抱え上げた粗忽者、「この死人はおれにちげいねい、抱いている俺はだれだろう?」『粗忽長屋』『夏の医者』『代脈』『長短』『転失気』『時そば』など優れた古典落語に多いです。

逆さ落ち:
 落ちになる内容を、そのまま先に言ってしまっておく。『片棒』『死ぬなら今』が好例です。

見立て落ち: 
 意表をつくものを見立てるオチで、『たぬき』『たがや』などの演目です

【話の泉ー笑い】 その二十八 落語 その2 扇子と手拭

伝承されている伝統的な話芸が落語や講談です。演者が一人で何役も演じ、語りのほかは身振りや手振りのみで物語を進める独特な形式です。使うのはといえば、扇子や手拭だけ。舞台には座布団があるだけです。たまに音曲が流れてくるのもありますが、それは例外です。ほとんど演者が工夫を凝らして、演目に登場するモノや人を表現する独演です。表情や視線も大事な仕草となります。扇子と手拭を使い、食べる、吸う、飲む、打つ、寝る、書く、歩く、酔っぱらうなどを座布団に座って演じます。

扇子と手拭い

古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に「オチ」のあるものを「落とし噺」といわれます。これが「落語」の本来の呼称であったのですが、のちに発展を遂げた「人情噺」や「怪談噺」と明確に区別する必要から「滑稽噺」の呼称が生まれたようです。今日でも、落語の演目のなかで圧倒的多数を占めるのが滑稽噺です。滑稽噺は「生業にかかわるもの」(日常性)と「道楽にかかわるもの」(非日常性)に大別されるといわれます。例えば「片棒」という演目は冨を築いた旦那が三人の息子の誰に跡を継がせるかという展開で、困ってしまうという噺です。日常性と非日常性が見事に溶け合っている演目です。

扇子の使い方

人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」といい、親子や夫婦など人の情愛に主眼が置かれています。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な演目です。人情噺にあっては、「落ち」はかならずしも必要ではありません。「子別れ」や「文七元結」、「芝浜」、「ハワイの雪」などの演目はそうです。ほのぼのとした情愛が伝わるものです。

「落とし噺」や「人情噺」が一般に語り中心で上演されるのが「素噺」です。鳴り物や道具などを使いません。「怪談噺」のような芝居がかったものに音曲を利用するのもあります。特に幽霊が出てくるような噺は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多いです。怪談噺は、笑いで「サゲ」をつけるという落語の定型からはずれるものといえます。

「オチ」の特徴ですが、聴衆に対し「噺はこれでおしまい」と納得させるしめです。それ故に「オチ」は演者の創作性が出るところが聴衆にとって興味深いのです。「千早振る」という百人一首を題材としたパロディ調の演目もそうです。演者が最も神経を使うところが「オチ」ではないかと思うのです。

【話の泉ー笑い】 その二十七 落語 その2 落語の成立

落語の成立についてです。世界百科事典によりますと、もともと1681年から1688年にかけての天和・貞享時代に上方を中心に「軽口」「軽口ばなし」と呼ばれました。しかし、上方の衰退期といわれる1764年から1781年の明和・安永時代の終わり頃になると、江戸に移って江戸小噺時代になります。その頃は「おとしばなし」と呼ばれました。「らくご」と読むようになったのは1887年頃といわれます。このように落語の成立期や熟成期は、江戸時代後期から幕末、そして明治時代にかけて形づくられたといわれます。落語が普及したのは昭和に入ってからです。

One man story teller

時代の暮らしぶりや風俗を背景にしたものが演目の中心です。武士や大名も登場しますが、圧倒的に多いのが江戸期の町人であり長屋の住人である職人らの庶民です。彼らは生きいきと描かれ,権力におもねることなく、むしろ権力をあざ笑う庶民のうっぷん晴らしの芸として語り継がれてきました。

落語の基本構成は「マクラ」「本題」、そして「オチ(サゲ)」からなります。マクラは導入部で、ごく自然に本題に入るための流れをつくります。そこが噺家の腕とされます。噺家は「マクラ」を喋るのではなく「マクラを振る」といいます。

本題につづいて「オチ」で噺を締めるのですが、オチのない人情噺では「〜〜という一席でございます」などの言葉で締めるようです。例えば『八五郎出世』という演目では、調子者の八五郎の妹お鶴が側室となり子どもを生みます。その慶事に八五郎は殿様に招かれ都々逸などを披露し、それにより仕官にとりたてられるというお目出度いところで終わります。

【話の泉ー笑い】 その二十六 落語 その1 古典落語と創作落語

庶民の楽しみ

私が落語を嗜むようになったのは定年退職後です。それまでは、仕事が特に忙しかったわけでもなかったのですが、他にマラソンをやったり藤沢周平の本を読んだり、カメラをいじったりして落語を楽しむ余裕がありませんでした。

iPodを手にしてから、さてなにを入れようかとしたとき、音楽に加えて落語が有料、無料でネット上で沢山あることを知りました。それ以来iPodに落語をため込んでは歩きながら、山登りを楽しみました。落語の楽しみが少しずつわかり始めました。それは演目もさることながら、噺家によって落語の内容が聞き手に異なって伝わることでした。一つの演目をいろいろな噺家で聞くという贅沢さが楽しくなりました。

江戸時代の噺家

落語は、「落とし話」といわれるように大抵の場合そのお終いに「サゲ」とか「オチ」があります。英語では「punchline」といいます。これを期待して聞き手はどんなサゲなのか、とワクワクしながら待つのです。古典落語はレパートリーが決まっているので、演者の語り口の違いを楽しむことになります。さすがに名人と呼ばれる噺家の語りには聞き惚れます。それからは、新作落語とか創作落語も楽しむようになりました。今や新作落語は、古典落語と並んで落語の大事な幹といわれます。

関西の落語は上方落語と呼ばれます。その中心が、上方落語専門定席の「天満天神繁昌亭」でしょうか。上方言葉の独特な響きが快いです。名人、古今亭志ん朝のように京言葉や大阪言葉などを使い分ける演者も多くなりました。どの噺家も言葉の会得には時間をかけていることがわかります

新作落語は年代的には若手の噺家によるものが多いといえます。例外は、上方落語の名人、桂三枝、今の六代目桂文枝です。お歳は82歳ですが、その創作力には驚くほどです。彼は、「新作落語はおおむね、時期が過ぎたらそのネタを「捨て」ざるを得なくなる運命にある」として、「創作落語」と呼んでいます。この発想は頷けます。柳家喬太郎の「ハワイの雪」という人情噺や「寿司屋水滸伝」という創作落語にもサゲが待っています。どちらも落語の主柱として高度な技芸を要する伝統芸能に間違いありません。もっと創作落語も親しみ笑いたいものです。

【話の泉ー笑い】その二十五 ピーナッツと親愛なる友人たちへ

今回で【ピーナッツ】のシリーズは終わりです。2000年1月3日、『ピーナッツ』最後の日刊コミックが発行されます。そのストリップには、シュルツが読者に宛てたメモと、タイプライターを前にしたスヌーピーが犬小屋の上に座って深く考え込んでいる絵が描かれています。翌日からは、再放送のパッケージが発刊されます。シュルツは体調不良で1月3日以降に連載されるストリップを5本描いていました。その最初のものは1月9日に掲載されます。

Wonderful Peanuts!

2000年2月13日、シュルツは亡くなります。その日、ピーナッツ史上最後の新しいストリップが新聞に掲載されます。3コマで、チャーリー・ブラウンが電話に出るところから始まり、相手はスヌーピーを呼んでいると思われる人物です。チャーリー・ブラウンは 『いや、彼は手紙を書いていると思います 』と答えます。次のコマでは、スヌーピーがタイプライターの前に座り、”Dear Friends “宛ての手紙の冒頭が描かれています。最後のコマは、大きな青空を背景に、過去に描かれた10枚の絵が配置されています。その下には、シュルツから読者へのメッセージがあります。その内容は次のような言葉です。

Snoopy hit home run!

『親愛なる友人たちへ
私は幸いにして50年近くもチャーリー・ブラウンとその仲間たちを描いてきました。これは、私の子どもの頃の夢を実現するものでした。しかし、残念なことに、私はもう毎日漫画を描くことができなくなってしまいました。私の家族は「ピーナッツ」を他の人に続けてもらいたくないと言っているので、引退を決意することとしました。長い間、編集者の方々の献身さ、そしてコミック・ストリップの読者が私に寄せてくれた素晴らしい激励と愛情に感謝しています。チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシー、……彼らを忘れることはできないでしょう。  チャールズ・シュルツ{署名}』

【話の泉ー笑い】その二十四 「精神分析スタンド」とアドバイス

ルーシーは時に「精神分析スタンド」(Pychiatric Help)という相談室を自作してカウンセラーとしての相談料をとるなど、ちゃっかりしたキャラクターです。アメリカの多くの子どもたちは夏休み中などで道路際でレモネードスタンド(lemonade stand) を立てます。このことをパロディ化したものなのです。ブースの正面には、「The Doctor is」と書かれたプラカードがあり、「In/Out」のプラカードが立っていて、ドクターが在席しているかを示します。彼女は5セント(約7円)で精神分析をしアドバイスしてくれるのです。たいていは心配性のチャーリー・ブラウンにアドバイスをするのですが、、、、。

Psychiatric Stand

ルーシーのアドバイスは、通り一遍の大衆心理や、陽気で明白な真実、時に洞察に満ちた調査など多岐にわたるので笑いを誘います。例えば、スヌーピーの治療中にルーシーが、子どもの頃、家族の中の他の「犬」とどのように関わっていたかを尋ねる場面があります。言うまでもなく、スヌーピーはこの質問を無視するので笑えます。外で寝るのが怖くなってしまったスヌーピーのために、チャーリー・ブラウンはルーシーに相談して精神分析スタンドで診てもらうことにします。夏の最中なので、立て札には相談料は割引きで4セントにします。無事にスヌーピーの不安は消えるのですが、チャーリー・ブラウンのもとには何と多額の請求書が送られてきて・・・。

The doctor has changed.

相談にやってきたライナスは、ルーシーのアドバイがわかりません。ルーシーは「理解できるような助言はきかないこと、、、全然役に立たないにきまっているから」と煙に巻くようなアドバイスをしたり、、「いつかは大人になって、誰の助けも借りずに、人生と向き合わなければならないのよ、、、」と深い名言をはいたりします。スヌーピーもそれに真似てか、「もし何かをやり遂げたいのなら自分でやるべきだよ!」とアドバイスをします。

ライナスが「新しい算数は難しすぎる、、」と相談にやってきます。ルーシーは「できるわよ、、時間がかかるだけなんだから、、」と励まします。スヌーピーは仲間にいいます。「口先ばかりの心のない言葉は、なんの役にも立たないよ」。そして草野球で負けても「昨日から学び、今日を生き、明日に期待すること」(Learn from yesterday, live today, and look forward to tomorrow) 。こうした会話が生まれるのは、ルーシーが作った「精神分析スタンド」のお陰なのでしょう。

【話の泉ー笑い】その二十三 「ピーナッツ」と社会の多様性

1960年代は、一般に「ピーナッツ」の「黄金時代(Golden Age)」と考えられています。この時期には、ペパーミント・パティ(Peppermint Patty)、「第一次世界大戦の空飛ぶエース」としてのスヌーピー、「天然の巻き毛」のフリーダ(Frieda)、フランクリン(Franklin)など、よく知られたテーマやキャラクターが登場します。ピーナッツは、1950年代から1960年代前半に描かれた他の作品と比べると、特にその巧みな社会批判が際立ってきます。シュルツは、人種や男女の平等の問題をあからさまには取り上げませんでした。シュルツにとって、「権利は平等である」というテーゼは自明のことだったようです。チャーリー・ブラウンの野球チームに女の子が3人いたことも、少なくとも10年は時代を先取りしていたといえるのです。当時、女性が野球をすることはなかったのです。ペパーミント・パティのしなやかな運動神経と自己肯定感は当然のことであり、女性の進出は当たり前だと考えていたのです。

Franklin and Charlie Brown

1968年7月にシュルツはロサンゼルスの白人教師ハリエット・グリックマン(Harriet Glickman) の勧めで、アフリカ系アメリカ人のキャラクター「フランクリン(Franklin)」を4コマ漫画に登場させます。1968年はテト攻勢(Tet offensive) が始まりベトナム戦争の潮目が変わる頃です。シュルツは、黒人のキャラクターを加えることはアフリカ系アメリカ人のコミュニティを見下すことになると懸念しましたが、グリックマンは、黒人のキャラクターを加えることは、異なる民族の子どもたちの友情という考えを広めるのに役立つと説得したといわれます。フランクリンは、海辺を舞台にした3部作に登場し、まずチャーリー・ブラウンのビーチボールを水中から取り出し、その後、砂の城を作るのを手伝い、その間に父親がベトナムにいることを口にするといった場面が出ます。フランクリンが近隣に住み、地域の学校に通うのも当たり前のこととして描きます。フランクリンの誕生は、1968年にシュルツが社会主義的なファンとの間で交わした手紙の結果であったといわれます。

シュルツは、他にもさまざまなテーマに対して風刺的な言葉を投げかけています。彼の子どもや動物のキャラクターは、大人の世界を風刺していきます。長年にわたり、彼はヴェトナム戦争から学校の服装規定、「新しい数学(New Math)」まで、あらゆることに取り組んでいきます。1962年5月のあるトピックには、「自由を守れ、アメリカの貯蓄債券を買え」と書かれたアイコンまでありました。1963年には、「5」という名前の少年をキャストに加え、その姉妹は「3」と「4」という名前とし、父親は彼らの家族名を郵便番号に変更するというコマを描きます。シュルツは、番号が人間のアイデンティティを支配する手段になると懸念し疑問を投げかけるのです。

また、近所の子どたちが雪だるま作りのリーグに参加しますが、チャーリー・ブラウンがリーグやコーチなしで自分で雪だるまを作ろうとするのです。ですがリトルリーグは、チャーリー・ブラウンらの行動を批判する場面があります。シュルツは、大人が支配するリトルリーグやお膳立てされた「組織的な」遊びを揶揄するのを忘れません。

「ピーナッツ」では、特に1960年代には、何度も宗教的なテーマに触れています。1965年のテレビ番組「チャーリー・ブラウン・クリスマス」では、ライナス・ヴァン・ペルト(Linus van Pelt)が欽定訳聖書(King James Version of the Bible)(ルカ2:8-14)を引用して、チャーリー・ブラウンにクリスマスとは何かを説明しています。シュルツは個人インタビューで、ライナスは自分の精神面を表していると述べています。「チャーリー・ブラウン・クリスマス」では宗教的な内容が明示されているため、シュルツの作品には明確なキリスト教のテーマがあると解釈する人も多いくらいです。

【話の泉ー笑い】その二十二 ルーシーと野球と

野球はアメリカの魂のスポーツといわれます。そのためか、「ピーナッツ」には野球をめぐる笑いやユーモアのコマが目立ちます。チャーリー・ブブラウンはチームの監督であり、通常は投手であり、他のキャラクターはチームの他のメンバーとなっています。チャーリー・ブラウンはひどい投手であり、彼の努力にも関わらず打ち込まれたり、メンバーは彼をマウンドから叩き落とし、パンツ一枚にさせてしまうこともあります。しかし、チャーリー・ブラウンはごく稀な例外を除いて毎試合登場し、雨が降ってチームのみんなが帰宅してもその場に留まるのです。

Lucy

チャーリー・ブラウンは何度負けても、シーズン開始時には楽観的で、いつも「優勝まであと一歩、あと一歩」と励まします。チャーリー・ブラウンさえも「なぜか勝てない」と呟くのですが、チームは何度か勝利しており、そのほとんどはチャーリー・ブラウンがいないときなのです。そのため、チャーリー・ブラウンはいつもこの事実を深く悲しくは思っています。

チャーリー・ブラウンは、スタンドにいる赤毛の少女に気づいて、とても緊張します。チャーリー・ブラウンは、スタンドにいる彼女に気づくと、体が震えてピッチングができなくなり、ライナスに交代してもらうほどです。チームが勝った後、赤毛の少女はライナスを抱きしめて駆け寄るのです。

ロヤンヌ(Royanne Hobbs)と対戦したチャーリー・ブラウンは、初のホームランを打ちチームの勝利に貢献します。再びロヤンヌと対戦し、チャーリー・ブラウンは再度ホームランを打ち、チームのために試合に勝ちます。ロヤン・ホブスが後でチャーリー・ブラウンにホームランを打たせたことを認めると、チャーリー・ブラウンはショックを受けるのです。

【話の泉ー笑い】その二十一 ピーナッツと野球

原作者のシュルツは、登場するキャラクターのスポーツを通して、試練や達成感、喜怒哀楽をユーモラスに描いています。弱小草野球チームの監督兼投手がチャーリー・ブラウンです。メンバーの放言と好き勝手な行動に呆れ、連戦連敗にへこみ、ピッチャー返しで吹っ飛ばされ続けても、彼の野球愛はとどまることをしりません。 負けたチームから「君のチームに負けたせいで馬鹿にされている」と抗議されるほどなのです。勝ったのはライナスの弟リラン(Rerun) が出場した試合と、チャーリー・ブラウンが参加していない試合のみです。映画「スヌーピーとチャーリー」では、負傷し退場した場面もでてきます。

Ahuuu!

一見すればチャーリー・ブラウンが無能だからと思われがちですが、実際はルーシーを始めとするチームメイトのやる気と協調性の無さもあり、必ずしも彼一人のせいではないのですが、、、。実にコミック始まって以来43年目の1993年に発表されたエピソードでは生涯初のホームランを打ち、サヨナラ勝ちを記録しているほどです。また、ある回では試合には負けたもののルーシーを外した試合で善戦したこともあるくらいです。このときの敗因は、ボールをキャッチをしようとしたスヌーピーにルーシーが野次を飛ばし、エラーをさせたためです。

Peanuts gangs

アメフトのコマでは、ルーシーが押さえているボールをチャーリー・ブラウンが蹴ろうとするとルーシーが直前にボールを取り上げてしまい、チャーリーは派手に転倒します。ルーシーはこれを気に入っているようで折にふれてチャーリー・ブラウンを誘おうとし、チャーリー・ブラウンも彼女に乗せられる形でいつも醜態をさらしてしまうのです。ある時、チャーリー・ブラウンがボールを蹴ろうとした足がルーシーの手に当たってしまい、骨折させたことがあります。その後、ルーシーがリランにボールを託したためにボールを蹴られ、ルーシーは大変悔しがる場面があります。

ペパーミント・パティは、勉強が苦手で成績はDマイナスが多いのです。一度Zマイナスにされたこともあり、この時はさすがに「これは評価ではなく私に対する皮肉です」と校長へ抗議を申し入れ、Zにまで上げさせたことがあります。スポーツは得意で、野球チームも持っていて、チャーリー・ブラウンのチームにはいつも圧勝しています。パティは都合の悪いことがあると根拠もなく他人のせいにする悪い癖がありますが、チャーリー・ブラウンを「チャック(Chuck)」と呼び、思いを寄せている女の子です。

【話の泉ー笑い】その二十 スヌーピーとの友情

チャーリー・ブラウンが幼いころ、砂場で遊んでいる最中にほかの子に頭から砂をかけられて大泣きし、翌日両親から買い与えられたのがビーグル犬スヌーピーとの最初の出会いです。餌を与える行為以外では一緒にゴルフをしたりカヌーを漕ぎに行くなど完全なパートナーです。スヌーピーを飼い犬としてだけでなく、何よりも大切な存在と思っていて、彼のために学校を辞めようとしたことすらあります。

肝心のスヌーピーからは「丸頭の子」と認識されていて、名前すらまともに覚えられておらず、また主人と飼い犬との立場を入れ換えるような会話をしていたときもあります。その時スヌーピーが「ぼくが主人とばかりに思っていたけれど」とチャーリー・ブラウンに対して発言したこともあるくらいです。

come on Snoopy!

しかし、この思いは一方的というわけでもなく、スヌーピーもチャーリー・ブラウンに信頼を抱いており、チャーリー・ブラウンが家族とともに出かけたときは「丸頭の子はぼくを捨てたりしないよね?」と寂しがる言動もあります。スヌーピーの型破りな行動に振り回されることも多く、「どうして僕は他の子のように普通の犬を持てないんだ?」と愚痴るのが定番となっています。

ペパーミント・パティ(Peppermint Patty) の野球チームと試合をした際、自分のチームの攻撃で相手ピッチャーのペパーミント・パティの投じたボールがバッターのスヌーピーの頭を直撃。チャーリー・ブラウンはパティがビーンボール(pin ball) を投げたとして激怒し、試合放棄したこともあります。スヌーピーとの間柄を語るエピソードです。

Snoopy hit home run!

勝試合がないチームの監督兼ピッチャーのチャーリー・ブラウンは何とかしようと頑張るのですが、チームメイトはバラバラ・・・。そんな時、ユニフォームを揃えてチームを元気づけようと画策します。いろいろな大人に働きかけると、練習道具やユニフォームを揃えてくれるというスポンサーが現れます。チャーリー・ブラウンはスポンサーにチームのメンバーを紹介し、ユニフォームのサイズを伝えます。

Snoopy’s butting

ところが予定のスポンサーは、リーグがルーシーという女の子や犬のプレーを認めていないことを理由に、チャーリー・ブラウンのチームを応援できないというのです。そしてルーシーとスヌーピーを解雇するようにいいます。チャーリー・ブラウンは憤然としてスポンサーの申し出を断るのです。

【話の泉ー笑い】その十九 ピーナッツとチャーリー・ブラウン

「ピーナッツ」の原点は、1947年から1950年までシュルツの故郷であるミネソタ(Minnesota)の州都セントポール(St. Paul)にあった新聞「セントポール・パイオニア・プレス(St. Paul Pioneer Press)」に毎週掲載されたコマ漫画「リリーフォクス(Li’l Folks)」です。「Li’l Folks」とは小さき人々とか、取るに足らないもの、つまらないもの、という意味です。この漫画の細部には、ピーナッツと共通する部分がありました。チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」という名前はそこで初めて使われたといわれます。また、このシリーズには、1950年代前半のスヌーピー(Snoopy)によく似た犬も登場していました。

Charlie Brown and Snoopy in the Classroom


チャーリー・ブラウンはスヌーピーの飼い主であり、妹はサリー(Sally)。両親はいるようですが、他の大人と同様作中には姿を見せません。親友は毛布を片時も手放さないライナス(Linus)。級友であるルーシーにいつも小煩く言われたり丸め込まれたりします。チャーリーという名前から、読者からはよくチャールズ・シュルツの分身と思われたようですが、チャーリー・ブラウンという名前はシュルツの美術学校時代の級友からきているといわれます。

At Spelling Bee Contest

ただ、シュルツはインタビューで「チャーリー・ブラウンは僕自身でもあるんだ」と答えたことがあるようで、彼の持つ気苦労などがチャーリー・ブラウンに反映されたりすることはあると述懐しています。シュルツの父親は床屋を経営していました。シュルツによればチャーリー・ブラウンはきれいな金髪であるために髪が薄く見えるだけで、丸坊主ではないそうです。実際の作画でも前髪と後頭部の毛が描き込まれ、濡れ髪では実線で描かれています。スヌーピーにいわせれば、主人のチャーリー・ブラウンあくまでも「丸頭の子」(“round-headed kid”)であり「禿頭の子」ではありません。

Happiness with Snoopy

チャーリー・ブラウンは、自他共に認める冴えない人柄であり、とにかく女運が悪く、ヴァイオレット(Violet)やルーシーなどの女子の「いじめ」相手になっていた時期もあります。考え方にもどこか卑屈なところがあって、敗者や弱い立場の人たちに同情することが多い子です。他者への思いやりは人一倍強く、いつもはチャーリー・ブラウンをいびるルーシーも彼が病気になると落ち着きをなくすのです。「赤毛の女の子」(little red-haired girl)に片想いし、後にサマーキャンプで出会ったペギー・ジーン(Peggy Jean)と恋仲になりますが、いずれも報われないまま終わったり、自分だけバレンタインカードが貰えなかったりします。友達のライナスには好きな女の子を奪われるなど、恋愛運は悪いのがチャーリー・ブラウンです。

【話の泉ー笑い】その十八 ピーナッツ(Peanuts)の漫画

今回からは漫画(cartoon)の世界の笑いを取り上げます。老若男女問わず、世界上で人気を維持しているのが「ピーナッツ(Peanuts)」というアメリカンコミック(Ameeican comic)です。主人公はチャーリー・ブラウン(Charlie Brown)という男の子。彼は他者への思いやりは人一倍強く、忠誠心が強く決断力があり、ちょっと気まぐれなところもあります。献身的な野球のマネージャーでもあり、あきらめるべきときでも、決してあきらめない頑固さも備えています。

Peanuts Gang

その飼い犬であるスヌーピー(Snoopy)は、今も人気は抜群です。ビーグル(beagle)犬のスヌーピーは、実は可愛いだけではなく、どこかゆる〜くのんびりと朗らかなイメージで周りを癒し、犬ながら深い名言をたくさん残しています。チャーリー・ブラウンは愛犬スヌーピーの世話に関してはとても責任感があります。彼は、もともと親切で忍耐強い性格で、自分の心を無にするかのように他人を助けるのが好きなのですが、自分自身はどうにもならないという性格です。

”空振り三振”

「ピーナッツ」は、チャールズ・シュルツ(Charles M. Schulz)が作・画を担当し、毎日曜日の独占形態となっていたコミックです。1950年から2000年まで連載され、その後も再放送されています。「ピーナッツ」は、コミック漫画の歴史の中で最も人気と影響力のある作品の一つであり、全部で17,897の4コマ(ストリップ)が掲載されています。というわけで「間違いなくチャールズ・シュルツという一人が語った最も長い物語」になっています。2000年にシュルツが亡くなった時点で、「ピーナッツ」は2,600以上の新聞に掲載され、75カ国で約3億5,500万人の読者を獲得し、21カ国語に翻訳されたという歴史があります。アメリカでは、4コマのギャグを標準的なものとして定着させました。

精神分析スタンド

「ピーナッツ」には大人は存在するものの、ほとんど登場しません。幼い子どもたちのコミュニティだけに焦点を当てています。主人公のチャーリー・ブラウンは、おっとりとして、繊細な性格を有していますが、自分にあまり自信がありません。凧を揚げることも、野球に勝つことも、いらいらしがちな友達のルーシー(Lucy)が持っているサッカーボールを蹴ることもできません。いつも最後の瞬間にドタキャンされるのです。ですがそのユーモアは心理的に複雑で、登場人物の相互作用や関係性によって描かれます。この漫画は、アニメーションや演劇で脚色され全世界で親しまれている作品です。

【話の泉ー笑い】その十七 ボケとツッコミ

外国人にも容赦なくツッコミを求める関西人がいます。外国人でもボケとツッコミはわかってくれると思うからでしょう。その通りです。彼らは笑いのなにかはわかっています。関西の場合はボケとツッコミが笑いの技能とか技芸といえそうです。『関西人は面白い』というステレオタイプがあるのは、一つはテレビで芸能人が関西弁で話していることの影響もあります。【関西弁が強いのではなく、生活ことばが強い、標準化されない生活ことばで笑いを産むのが関西漫才だ】という人もいます。頷ける言葉です。

芸人の言語学

日本の漫談家(One-man talker) には、女性客に対して「綺麗ですね」と褒めちぎった後、「私は女性を見る目が無いのです」、「昭和枯れすすきの皆さん」といって笑いを誘う定番があります。老化現象、高齢化社会、物忘れ、夫婦の確執、アルツハイマー、痴呆症、カツラ等を引き合いにしたフレーズは結構笑いを誘うことが多いようです。当然、中高年以降の聴衆者を前にしての笑いの場です。中高年に対するネタとして「冷え切った夫婦関係」「容貌の衰え」「病気や死」こうした話題で聴衆を笑わせ、終わりに「一言多かった事を心からお詫び申し上げます」といって場を和らげるのです。

「日本では、ボケとツッコミに代表されるように、会話のやりとりの中から生まれる笑いが主流ですが、欧米ではストーリーを語るような笑いのパタンが多いです。一言で欧米と言っても、アメリカとヨーロッパでもまた違っていて、ヨーロッパはアイロニー(皮肉)の要素が大きいといわれます。話題はほとんどの場合、特定のターゲット層に向けて発せられるもので、 発信する人と受け取る人の間に何らかの共通する文化が想定されているのが普通です。さきほどの漫談の話題は、中高年の人であればすぐ笑えるものばかりです。若年層にはまだピンとこないはずです。年代層によって文化が違うからでしょう。

ボケ、ツッコミ認定証

関西のある夫婦の漫才から思うのですが、ボケは一人で突っ走るような雰囲気です。そこでツッコミは相手の話を受け入れて「おかしいと思ったところを視聴者の声としてツッコむ」のです。いかに話し相手を主役として立て、ツッコミに徹するかというのが可笑味を醸す大事な点といえそうです。