懐かしのキネマ その20 七人の侍

1954年に製作された「七人の侍」は、黒澤明が監督した上映時間3時間27分という名画です。後に「日本映画史上空前の超大作」と呼ばれます。アメリカの西部劇映画 「荒野の七人」(The Magnificent Seven)の下敷きとなります。「荒野の七人」は西部開拓時代のメキシコに移して描かれます。

戦国時代後期、戦に敗れた野武士が悪辣な群盗と化します。あちこちの山間に繰り返し出没し、農村を襲撃しては掠奪を欲しいままにしていました。そこで思い余った農民が野武士を撃退すべく、貧しい浪人を雇うことにします。浪人へのご褒美は腹いっぱいの白米を食べさせるという条件です。農民たちは宿場町に出て腕の立ちそうな侍を探し、村の防衛を懇願します。侍探しは難航しますが、才徳にすぐれた勘兵衛という侍に出会います。勘兵衛のもとに個性豊かな七人の侍が集まります。最初は侍を恐れる村人達ですが、いつしか団結して戦いに挑むことになります。

土砂降りの雨の中、野武士との泥まみれになる戦闘は熾烈を極めます。戦闘が終わると七人の侍のうち、四人が討ち死にします。辛くも生き残った勘兵衛ら三人は、小高い丘に並んだ四つの土饅頭の墓を見上げて、「今度もまた、負け戦だったな、勝ったのはあの百姓たちだ、我々ではない」としみじみ呟くのです。主演は三船敏郎と志村喬、その他津島恵子や島崎雪子、東野英治郎、山形勲、左卜全が共演しています。今では、皆懐かしい俳優です。

懐かしのキネマ その19 マカロニ・ウェスタン

日本だけの呼び名で知られる西部劇映画に「マカロニ・ウェスタン」(Macaroni Western)があります。イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ばれます。1960年代前半から、イタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇のことです。1964年に作られた「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars)が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こります。

マカロニ・ウェスタン映画が作られた場所は、スペインのアルメリア(Almería)の荒野です。数は多くないもののこの地でドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。イタリアだけでなく、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」は、「ヨーロッパ製ウェスタン」(European Western)と呼ぶようです。

「スパゲッティ・ウェスタン」と最初に呼んだのは、映画評論家で知られた淀川長治といわれます。少々小馬鹿の気分でつけたのかもしれません。なぜなら、アメリカ人が本場ハリウッドで作られる西部劇に対して「スパゲッティ・ウェスタン」はニセモノ西部劇だと蔑んでいたからです。1960年代には日本ではパスタ(pasta)というマカロニ(macaroni)、スパゲッティ(spaghetti)、ラザニア(Lasagna)どの食品の総称の呼び名は誰も知りませんでした。もっぱらマカロニかスパゲッティが人気の食品でした。

1965年、「荒野の用心棒」が製作されます。監督はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)、主演はクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)です。この映画の下敷きは、1961年に作られた黒澤明が監督した「用心棒」です。時は世界中が激動していた頃。イギリスからはビートルズ(The Beatles)が、フランスには「新しい波:ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)が、アメリカでは人種差別撤廃やベトナムの反戦運動が盛んな頃です。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウェスタン映画が世に送りだされます。ハリウッドが作り続けてきた正統派ウェスタンへの一種の挑戦です。歴史観とか正義感、ヒューマニズムなどの教科書的なテーゼへのアンチというわけです。純粋に面白ければ良し、という娯楽アクション西部劇の元祖がマカロニ・ウェスタンです。

懐かしのキネマ その18 太平洋戦争を描いた映画

去る大戦で多くの人々が傷つき犠牲になりました。「挙国一致」、「堅忍持久」といったスローガンにより、誰一人勝つことしか信じない時代がありました。戦意昂揚、生活統制、精神動員などの標語が映画を通しても大衆に浸透していきます。こうした歴史からの深い反省を込めた映画が戦後に作られるようになりました。どの作品も戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人々が描かれています。そのいくつかを紹介します。

まずは、1956年に作られた「ビルマの竪琴」です。原作は、竹山道雄が執筆した児童向け文学を基に描かれた作品です。終戦直前のビルマ(Burma)、現在のミャンマー(Myanmar) の戦線が舞台となっています。イギリス軍に追い詰められ、日本軍は中立国のタイ(Thailand)を目指して撤退します。その途中で、小隊が降伏し捕虜となります。やがて戦線で命を落とした大勢の日本兵を残して帰国することになります。それに耐えられず、竪琴をひきながら彼らを供養するため僧となった旧日本兵・水島上等兵の姿が描かれます。監督は市川崑でした。

次ぎに1959年に製作された「野火」です。小説家、大岡昇平のフィリピン(Philippines) での戦争体験を基に書かれたものを映画化しています。監督したのは、同じく市川崑です。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第二次大戦末期のフィリピン戦線です。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒否します。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまうのです。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島(Leyte)の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会するのです。そこで彼が目の当たりにしたのは、孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友です。ことごとく彼の望みは絶ち切られ、遂に狂人化していくのです。

1983年に作られた「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Battlefield)」は異色の映画です。日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作です。ジャワ(Java) 山中の日本軍捕虜収容所という、極限状況のもとで出会った男たちの抑えた友情の物語です。二・二六事件の決起に参加できずに死に遅れたエリート武官のヨノイ、彼の部下の単純で粗暴な軍曹ハラ、ハラと唯一心の通うイギリス軍中佐との友情が描かれています。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、当時の日本軍兵士の敵国捕虜の扱いや各国の歴史的な違いを大島渚監督がしっかりと描き出しています。

2006年に作られた「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima) は、第二次大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」で日本側の視点による作品です。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が監督を務めています。1944年に本土防衛最後の砦として硫黄島に降り立ったのが栗林忠道陸軍中尉と日本兵たちです。圧倒的に不利な戦況、絶望の中で、家族の元に生きて帰りたいと願いながら死闘を繰り広げた兵士がいます。届けられることのなかった家族への膨大な手紙やそこに込められた兵士一人ひとりの姿と、戦線の壮絶な戦いを描いた作品です。

懐かしのキネマ その17 映画音楽の多様化

無声映画の撮影中にムードを醸し出し場面を盛り上げるために、音楽がしばしば演奏されていました。専属の楽団を持っていたところもあります。フル・オーケストラの演奏とともに撮影されたともいわれます。やがて、音楽をあらかじめ録音しておき、それを撮影中に流すことによって、シーンのムードを高め、サイレント時代の音楽による演出方式を再現する試みが定着していきます。

トーキーの時代になると、1933年にハリウッドの音楽監督の草分けといわれたマックス・スタイナー(Max Steiner)の「キングコング」(King Kong)が音楽を担当し、この作品を皮切りに映画音楽の一般的なパタンが作り出されます。オープニングで音楽が映画のムードを醸し出し、その後は監督の意図や嗜好によって、音楽がサウンドトラックに見え隠れし、アクションを高めるのです。映画音楽は、ヴィクター・ヤング(Victor Young)、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)、モーリス・ジャール(Maurice Jarre)といった作曲家に受け継がれていきます。

映画音楽も多様化していきます。大編成のオーケストラ演奏によるドラマチックな音楽が世界的に定着する一方で、チターやギターだけの独奏で新鮮な効果を醸し出すことに成功していきます。英国映画「第三の男」、フランス映画「禁じられた遊び」のような名作も生まれます。1950年代には雅楽や能、謡いを絡ませた黒澤明監督の「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」なども生まれます。独特の響きが画面上の臨場感を高めるの一役かっています。

エニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)という作曲家も従来の音楽のスタイルを一変させます。その音楽の使い方は革命的ともいわれます。マカロニ・ウエスタ(Spaghetti western)映画で響いたシンプルで記憶に残るメロディが特徴です。アコースティックのリズムに、強い口笛が重なり、銃声や馬の蹄の音、教会の鐘、そしてひときわ激しいギターの調べなど予想外のサウンドが彩を加えています。「続・夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)では、ハーモニカ、コヨーテの遠吠え、ヨーデル、口笛、鞭を鳴らす音が鮮烈な雰囲気を生んでいます。映画の重要なシーンも音楽のお陰で臨場感や迫力が生まれてきます。

懐かしのキネマ その16 映画の宣伝力

「映画は芸術であろうと、商品であろうとその特徴は大衆性にある」と言われています。絵画や建築物と違い、「同時的、集団的観賞の対象」であることです。本来は、一人で静かに観賞するものではないということらしいです。映画館でも家で1人で観てもよいのでしょうが、、。

この集団的同時性を最初に活用したのが社会主義国や全体主義国家、そして新興国です。国の宣伝に映画を利用するのです。「十月革命」の発祥地、ロシアでは「最も大切なものは映画であり、ニュースである」と位置づけます。こう叫んだのは革命指導者のレーニン(Nikolai Lenin) です。北朝鮮からのニュースでも大衆を動員した集団的な構図の動画が流れてきます。大群衆が一斉に行進したり拍手をしたりして、指導者への忠誠を誓います。

ナチスドイツも映画を戦争宣伝の道具とします。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、映画局を設置し、大衆の戦争精神の昂揚のために、効果的に映画を使います。1938年のベルリンオリンピックを通してナチスの力を誇示したオリンピックの記録動画「オリンピア」(Olympia)、別名「美の祭典」という映画もそうです。この作品を監督したのは、レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)という女性です。ナチス党大会の記録映画「意志の勝利」 がナチスによる独裁を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画として知られています。ヒットラーをして彼女を「ドイツ女性の完全な典型」と呼ぶほどでした。

懐かしのキネマ その15 休憩—Intermission

奇跡のような出来事の話題です。私の長男は家族とボストンから西へ60マイルくらいのプリンストン(Princeton)という田舎町に住んでいます。彼はマサチューセッツ州(Massachusetts)第二の都市ウースター(Worcester)にあるイエズス会系の大学で教えています。嫁のケート(Kate)は近くの小学校で教師をしながら童話を書いています。長男夫婦には2人の息子がいて、その長男はボストンの大学の2年生、次男は9月からウースターの工科大学で学びます。この次男に起こった話です。

彼は、週末に近くのスーパーマーケットでアルバイトをしています。先日サービスステーションで車にガソリンを入れて帰りました。家に戻ってから財布がないのに気が付きます。財布には現金、運転免許証、デビッドカード、COVID-19ワクチン接種証明などを入れていました。急いでサービスステーションに戻り、事務所に届け物がないかを確かめましたがありません。

それから暫くして、1人の男性が次男の家にこの財布を届けにきました。免許証の住所から辿ってきたのです。男性は、ハイウエイの出口にこの財布が落ちていたのに気が付いたというのです。次男は、ガソリンを入れるとき、財布を車の上に置き忘れたのです。暫くそのまま走り、ハイウエイの出口のカーブで財布がずり落ちたようです。この男性は、「MAPFRE INSURANCE」という保険会社の社員で、たまたま通りがかりで次男の財布を見つけたというのです。

このエピソードを嫁のケートは、先日Facebookで紹介します。そうするとこの男性の行為に53のコメントが書き込まれ、どれも驚きの感想となっています。私もコメントをすべて読んで、即座に「アーメン、この男性はアメリカの良心だ」と書き込みました。男性の写真を紹介しておきます。他のコメントの中に、15年前に落とした財布を150マイルも運転し届けてくれた人がいた、というのもありました。

懐かしのキネマ その14 プロデューサーと監督

映画の上映初頭には題名の後に「Produced by 」というテロップが流れます。制作者(プロデューサー) という意味です。映画製作の実権を握るのが製作者です。ハリウッドでは全権を持ち、最終的な編集権すら持ちます。プロデューサーによって、監督の意図に反した作品が勝手に作られた歴史もあります。自らプロデューサーとなって自分の映画を作ることに成功した監督といえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、セシル・デミル(Cecil DeMille)、ジョン・フォード(John Ford)、ビリー・ワイルダー(Billy Wilder)、ケビン・コスナー(Kevin Costner)等がいます。

プロデューサー制度の成立のことです。初期の映画プロデューサーは、いずれも小規模な会社を持ち、資金を用意し、企画を定め、制作にあたりました。スタッフの中で最も発言力のあったのが撮影技師です。動く画に撮影するということが最も重要な仕事なっていたからです。次ぎに、監督の者が映画の仕組みが複雑になっていくので発言力を持っていきます。それでも企画と資金の面でプロデューサーという立場は絶対的な権威をがあり、監督は映画を作るために現場的にも重要でありました。ですが最終の決定権はプロデューサーであるという伝統は今も変わりません。

懐かしのキネマ その13 無声映画と有声映画

映画フアンには「トーキー」(talkie)という言葉は懐かしいのではないでしょうか。トーキーとは映像と音声が同期したものです。「talkie」はもともと「Talking picture」から生まれています。その後「Moving picture」という用語が使われ、そこから「movie」となります。

昔の映画はサイレント映画でした。無声映画です。その対義語は有声映画とか「発声映画」といわれました。映画のはしりは、1900年代にパリで始まります。1920年代の後半に無声映画が誕生します。1928年に「サウンドトラック」を最初に用いたのがウォルト・ディズニー(Walt Disney)です。1930年代になるとロサンジェルス(Los Angels)のハリウッド(Hollywood)が映画文化の中心となり、「トーキー」が一役を買います。

日本では、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流でした。楽士の奏でる生演奏の音楽とともに独自の“語り”で作品を盛り立てました。活動弁士は通称「カツベン」と呼ばれていました。そのためか「トーキー」が根付くには時間がかかったといわれます。作家や俳優であった徳川夢声は1913年に活動写真(無声映画)の弁士となったようです。東京を代表する弁士として人気を博します。しかし、昭和の時代になって、トーキーが登場すると夢声ら弁士の出番はなくなり、やがてラジオで活躍します。吉川英治の『宮本武蔵』の朗読などで有名となり、テレビ創成期の立役者の一人となります。

懐かしのキネマ その12 娯楽映画の傑作

子どもも大人も掛け値なしに楽しんだ映画といえば、E.T.(Extra-Terrestrial)の右に出る作品はないでしょう。1982年公開のSF映画です。当時、映画史上最大の興行収入を記録した作品です。

とある杉の森に球形の宇宙船が着陸し、中から小さな宇宙人が数人出てきます。彼らの目的は地球の植物を観察し、サンプルを採集することです。その内の1人は宇宙船から遠く離れ、崖の上から住宅地の灯の海を見て驚きます。その時、宇宙船の着陸を察知した人間らが車で近づいてきます。宇宙船は危険を察知して離陸しますが、遠くにいた宇宙人1人は地上にとり残されてしまいます。取り残された宇宙人は叫び、近づいてくる人間から逃げ出します。10歳のエリオット(Elliot)はその宇宙人を目撃します。エリオットがポーチで見張っていると、ついに宇宙人が彼の前に姿を現わします。やがて2人は心が通い合うようになります。

1975年制作のジョーズ(Jaws) スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の出世作となります。ある避暑地の海辺の町において巨大な人食いホオジロザメが海水浴客を襲います。警察署長と若い海洋生物学者、プロのサメハンターの3人がホオジロザメ狩りをする海洋アクション・スリラーです。

1990年に制作された「ジュラシック・パーク」(Jurassic Park)です。コスタリカ(Costa Rica)沖の孤島につくられたテーマパーク「ジュラシック・パーク」。そこでは太古の琥珀に閉じ込められたDNAを使い、恐竜たちを蘇らせていた。前代未聞の夢の大テーマパークになる予定でしたが、ある夜、安全装置が解除され、恐竜たちが柵の外へ脱走、次々と人間たちを襲っていきます。島に残された人間は、島からの脱出を目指すのですが、、、、SFエンターテイメント作品の傑作といわれます。この映画の全体を通しての背景には「生命倫理や生命の進化・歴史」「テクノロジーの進歩と過信」に対する哲学的テーマが込められているという高い評価がなされています。

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懐かしのキネマ その11 障害を扱う名作『レインマン』

アメリカ映画には、心身に障害のある人々に焦点を当てた作品がいろいろとあります。本稿ではそれを紹介することにします。1988年に公開された映画『レインマン』。主演にトム・クルーズ(Tom Cruise) とダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)が登場しています。この作品は、自由奔放な弟チャーリー(Charlie)とサヴァン症候群 (savant syndrome) の自閉症である兄レイモンド(Raymond) の交流です。実業家のチャーリーは、絶縁していた父の訃報が届きます。彼は父親の遺産を手にするために故郷に帰ります。しかしチャーリーは父親の遺産が全てサヴァン症候群を持つ兄レイモンドの信託財産として運用されることを知るのです。

何とか遺産を手に入れたいチャーリーはロサンゼルス (Los Angels) まで旅行に行こうとレイモンドを施設から連れ出します。レイモンドは自閉症のために、普通にコミュニケーションをとることはできませんが、並外れた記憶力を持っていました。金欲しさに、父親の遺産相続人である自閉症の兄を施設から連れ去った弟が、兄と旅をしていくうちに本来あるべき兄弟の絆を取り戻していくのです。

もう一つの障害者が主演となる作品に「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)」があります。「Gump」とは、うすのろという意味です。アラバマ州に生まれたフォレストは、生まれつき背骨が曲がっており、脚装具がなければ歩けませんでした。また彼はIQ75の知能しかなかったため、学校の先生にも養護学校への入学を進めらられます。しかし、フォレストを女手一つで育てる母親は、彼を普通の子として育てるため公立学校へ進学させるのです。

登校初日、スクールバスで他の子からいじわるされるフォレストを同じ座席に座らせたのは、心優しい女の子ジェニー(Jenney) です。2人は仲良くなり、ある日いじめっ子から逃げるためジェニーが「走って、フォレスト」と呼びかけたことを機に、フォレストは脚装具をはじき飛ばして走り出します。誰も追いつけない走りの才能が開花したフォレストは、やがてその才能を見出されてアラバマ大学(University of Alabama) に入学します。アメフトの試合で大活躍し、全米代表チームに選ばれます。その後、兵役に就きベトナム戦争での激戦中に戦友を助け出し勲章を貰います。時の大統領ジョン・F・ケネディ(J.F. Kennedy)とホワイトハウスで面会するのです。

懐かしのキネマ その10 笑いやユーモアで健康を「パッチ・アダムス」

アメリカ映画にはユニークな作品や、それを演じるユニークな俳優がいますね。泣き笑いして観衆に感動を与える映画を紹介しましょう。実在の医師と患者の心の交流を描いたヒューマンドラマ「パッチ・アダムス」(Patch Adams)です。ロビン・ウィリアムズ(Robin Williams) が医師パッチ・アダムスを演じています

パッチ・アダムスは普通の医者とはちょっと違います。ユーモアが治療には一番効き目があると信じてやみません。彼は、自分のリスクを考えずに、とにかく患者を笑わせようと努力するのです。自殺未遂の果て、精神病院に入院したアダムスは、ジョークで患者たちを笑わせ、心を癒す能力に目覚めるのです。そんな彼に富豪で天才病の患者アーサー(Arther)は「パッチ」というニックネームをつけまます。パッチとは、解決するとか治すという意味です。2年後、パッチは精神科医を目指し、ヴァージニア大学(University of Virginia) の医学部に入学します。白衣を着て病院に潜入し、患者たちを笑わせ心をつかんでいきます。パッチの笑いの療法が次第に功を奏し、ベテラン看護婦たちも温かな目で見守ってくれるようになります。しかし、学部長のウォルコット(Walcott) はパッチを快く思わず、放校処分にします。ですが常に成績がトップクラスのパッチに学長が理解を示し、大学に残ることが許されるのです。

パッチは、病院の規則や高額医療費などの理不尽さから無料の病院を作りたいと考えるようになります。精神病院で患者同士として出会った富豪のアーサーから出資を受け、夢が現実します。同僚と共にさまざまな患者を無料で受け入れてきますが、ある患者がパッチの同僚である女性を殺し自殺するという事件が起きます。パッチはその衝撃から診療所を閉め病院もやめる決心します。再び患者の心を捉えたことを契機にやり直すのです。しかし、そんな時、医師免許も保持せず、無料で診察していたことを理由に退校が申し渡されます。その決定を不服とするパッチは、医師会の裁定を仰ぎ弁明しようとします。裁定の席上で、大勢の傍聴者を前にして、医者と患者は対等であることや、心をほぐすことが何よりの治療になることを訴えます。それが首尾良く認められ無事大学を卒業し、独自の治療方法を広く伝えることになるのです。

懐かしのキネマ その9 ウィリアム・ワイラーと「ベン・ハー」

アメリカの映画監督には多くの個性的な人がいます。ウィリアム・ワイラー(William Wyler)もその1人でしょう。非常に幅広いジャンルの映画を製作し、登場人物の心理や性格の描写に長けていたという評判です。ワイラーが1959年に製作した「ベン・ハー」(Ben Hur)はローマ帝国時代のユダヤ人家族を描いた大作です。

エルサレム(Jerusalem)の名家に生まれたベン・ハーは、義兄弟であるメッサラ(Messala)の裏切りにより奴隷船送りとなります。マケドニア(Macedonia)との海戦で乗っていた旗艦が転覆しますが、ローマ海軍の総司令官アリウス(Arrius)を救出します。海戦は大勝利となりアリウスとともにローマに凱旋します。やがて数年ぶりに戻った故郷で戦車競争出場の機会をつかんだベン・ハーは、競技場でメッサラとの宿命の対決に挑み勝利します。そしてライ病になっていた死の谷と呼ばれる洞穴に隔離されていた母と妹を許嫁のエスター(Esther)と一緒に助け出します。神の奇跡によって治癒した母と妹を抱きしめながら喜びを分かち合うのです。この原作の副題は「キリストの物語」(A Tale of the Christ)とあるように、キリストの生誕や受難と復活が「ベン・ハー」の物語の背景となっています。この作品は、アカデミー賞作品賞を含む合計11部門を受賞します。これは史上最高の受賞数といわれます。ワイラーは3度目の監督賞を受けます。

ワイラーが1953年に制作した作品に「ローマの休日」(Roman Holiday )があります。ヨーロッパ最古の某王室の王位継承者、アン(Ann)は公務で退屈しています。親善旅行で訪れたローマの宮殿から抜けだします。そんな彼女に偶然に出会った新聞記者ジョー(Joe)は、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、王女と知らないふりをしてローマのガイド役を買って出ます。市内観光にはしゃぐアンの姿を同僚のカメラマンにこっそり撮影させるのです。束の間の自由とスリルを満喫するうちにアンとジョーの間い強い恋心が芽生えます。アンを演じたのがオードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)、新聞記者を演じたのがグレゴリー・ペック(Gregory Peck)でした。

1958年にワイラーは「大いなる西部」(The Big Country)を監督します。東部から西部の婚約者のところにやってきたジム・マッケイ(Jim Mckay)は、“西部の掟”を知らず、周りから腰抜けだと罵られます。水源地の所有をめぐって、二人の地主は長い間対立し、両者とも水源地を買い取り、水を独占しようとしますが、水源地の地主ジュリー(Julie)は争いを嫌がり土地をどちらにも売りません。ジムは争いを収めようと土地を買い取るのです。

懐かしのキネマ その8 「ビルマの竪琴」

「ビルマの土は赤かった、岩はあたたかった」というテロップが最初に流れます。「ビルマの竪琴」の原作は竹山道雄。これが映画化されたのは1956年で監督は市川崑です。出演者ですが、水島上等兵は安井昌二、井上隊長は三國連太郎、伊東軍曹は浜村純が演じています。そして馬場一等兵は西村晃、物売りの老婆は北林谷栄という懐かしい俳優が登場します。

ビルマ戦線で逃避行する日本兵の小隊がありました。井上隊長は音大出で隊員達に「荒城の月」などの合唱曲を教えては歌っていました。隊員の中に竪琴の名人である水島という上等兵がいました。原住民に変装して斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を撤退させていたした。小隊は国境の近くで終戦を知り、武器を捨て英国軍に投降します。そのとき、英軍兵士と一緒に歌ったのがイングランド民謡の「埴生の宿」(Home, Sweet Home)です。埴生とは、床も畳もなく土や粘土でつくられた家のことです。

小隊は遥か南のムドンに送られることになります。途中、三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得を命じられたのが水島です。しかし、日本兵らは降伏を拒否し全滅します。水島はかろうじて生き延び、1人ムドンに向かう途中で無数の日本兵の死体と遭遇するのです。ムドンに着いた小隊は、収容所に出入りする物売り婆さんに水島を探して貰うように頼みます。ある日、作業に出た小隊は橋の上で青いオウムを肩にのせたビルマ僧を見掛けますが、その僧侶は目を伏せて足早に去ります。

水島は三角山の戦闘のあと、僧侶姿となりムドンへ急ぐのですが、途中で数知れぬ日本兵の白骨化した死骸を目の当たりにします。そして亡き同胞の霊を弔うためにビルマの地に留まろうと決心するのです。物売り婆さんからあの僧侶の肩にとまっていたオウムの弟だという青いオウムを譲り受けた隊員らは「水島、いっしょに日本へ帰ろう」という言葉を熱心に教え込みます。三日後に帰還ときまった日、隊長は物売り婆さんにオウムをあの僧侶に渡してくれと頼みます。すると、出発の前日になって水島が1人の子どもとで収容所の鉄条網の前に現われます。隊員は一斉に「水島!一緒に日本に帰ろう!」!と叫びます。僧侶姿の水島は子どもから竪琴をとり、「仰げば尊し」を弾いて姿を消すのです。

帰還の日、物売り婆さんは土産物をもって隊員に別れを告げるためにやってきます。そして水島から預かった手紙を隊長に渡します。引き揚げ船のなかで、井上隊長は隊員に静かに水島からの手紙を読み上げるのです。隊員は水島の気持ちをようやく理解するのです。

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懐かしのキネマ その7 戦争と平和

アメリカの映画監督で異彩を放つのがオリヴァー・ストーン(Oliver Stone)です。合衆国陸軍に志願しヴェトナムで従軍した経歴の持ち主です。彼の多くの作品の傾向は、連邦政府やアメリカ政治を強く批判していることに現れています。特にヴェトナム戦争に対する強い懐疑は、映画「プラトーン」(Platoon)で示されています。戦争が人間に与えた影響を描き一躍有名になったのがこの作品です。無抵抗のヴェトナム村民に対する放火や虐殺、虐待や強姦、米兵たちの間で広がる麻薬常用や殺人、誤爆や同士討ちなど、軍隊の恥部を描いています。プラトーンとは歩兵小隊という軍事用語です。主演はクリス・テイラー(Chris Taylor)を演じたチャーリー・シーン(Charlie Sheen)です。

ストーンは「JFK」という映画も監督しています。ケネディ大統領暗殺事件の真相究明に執念を燃やす地方検事ジム・ギャリソン(Jim Garrison)の姿を描いた現代ミステリードラマです。この映画の本質は、合衆国政府が公式に発表した究明レポートに対する疑惑を提起していることです。政府というのは得てして、「記憶にない」と説明し、真実を隠し、ねじ曲げることによって大衆からの批判や攻撃をかわすものです。

1988年に制作されたのが「プライベート・ライアン」(Saving Private Ryan)です。主演は中隊長ミラー(John Miller)大尉を演じたトム・ハンクス(Tom Hanks)で、監督はスピルバーグ(Steven Spielberg)です。ノルマンディー(Normandy)上陸作戦を成功させたアメリカ軍ですが、ドイツ国防軍の激しい迎撃にさらされ多くの戦死者を出します。そんな中、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall)の元に、ある兵士らの戦死報告が届きます。それはライアン家の四兄弟のうち三人が戦死したというものです。残る末子ジェームズ・ライアン(James Ryan) がノルマンディー上陸作戦の前日に行なわれた空挺降下の際に「敵地で行方不明になった」という報告が入ります。マーシャルはライアンを保護して本国に帰還させるように命令するのです。

救出命令を受けた中隊長ミラーの大隊は、ライアンがいると思われるフランス内陸部へ向かいます。大隊は味方がドイツ軍と交戦中の村に入り、戦闘に参加します。ついに探し求めていたライアンを発見し、ミラーはライアンに帰還するように命令します。ところがライアンは、「It Doesn’t Make Any Sense」「なにを言っているんだ、この戦場の同僚を見捨てて国に帰れるか!」とミラー中隊長の命令を拒否するのです。

懐かしのキネマ その6 「戦場のピアニスト」と「野いちご」

「戦場のピアニスト」(The Pianist)を監督したのが、ポーランド人のロマン・ポランスキー(Roman Polanski)です。良くも悪くもいろいろな話題の多い監督だったようです。ユダヤ人に対して行った組織的、国家的迫害であるホロコースト(Holocaust)の悲劇を映画で訴えるのは時代や人種を超えて人々に訴えるものがあります。ポランスキーもユダヤ系ポーランド人として、この映画製作に傾注したことが伝わります。「戦場のピアニスト」の要旨です。

1939年ナチスドイツがポーランドに侵攻したとき、主人公シュピルマン(Władysław Szpilman)はワルシャワ(Warsaw)の放送局で演奏するピアニストでした。ワルシャワ陥落後、ユダヤ人はゲットー(ghetto)と呼ばれる強制居住区に移され、飢えや無差別殺人に脅える日々を強いられます。やがて何十万ものユダヤ人が収容所へ移されるようになる頃、1人収容所行きを免れたシュピルマンは、砲弾が飛び交い、街が炎に包まれる中で必死に生き延びるのです。ある晩、彼は隠れ家で1人のドイツ人将校に見つかります。自分がピアニストだったことを告げると、将校はなにか弾くように命令します。そこでシュピルマンはショパン (Frédéri Chopin)のバラード第1番を弾くのです。この将校も音楽を愛していて、シュピルマンの演奏に感じ入りマントや食糧などを届けるのです。

スウェーデン(Sweden)を代表する映画監督にイングマール・ベルイマン(Ingmar Bergman)がいます。「野いちご」(Wild Strawberries)という作品は、功績を認められ名誉学位を受けることになった老教授イサク(Isaac)の一日が舞台です。授与式の前日、イサクは自分の死を暗示する夢を見るのです。人生の終わりにさしかかった老教授が、人間の老いや死、家族、夢を追想するのです。青春時代の失恋の思い出を野いちごに託した叙情的な作品と呼ばれています。ベルイマンの最高傑作の一つといわれていますが、内容が難しいだけにじっくり観る必要がある作品です。その他、「第七の封印」、「処女の泉」などどれも深い精神性や人生の意味を考えさせる作品を世に送っています。ベルイマンを20世紀最大の映画監督と呼ぶ人もいます。

懐かしのキネマ その5 個性的な監督

アカデミー賞を3回受賞し、アカデミー監督賞は7回ノミネートされ2回受賞したのが、スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)です。どの作品も興行的にも大成功で、最高の売り上げに貢献した監督といわれています。

1988年にスピルバーグが製作したのが、「プライベートライアン」Saving Private Ryan)という映画です。連合軍はノルマンディー(Normandy)上陸作戦を成功させますが、ドイツ軍の激しい迎撃にさらされ多くの戦死者を出します。そんな中、アメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル(George Marshall)の元に、ある兵士の戦死報告が届きます。それはライアン家(Ryan)の四兄弟のうち三人が戦死したというものでした。残る末子ジェームズ・ライアン(James Ryan) も、ノルマンディー 上陸作戦の前日に行なわれた空挺降下の際に「敵地で行方不明になった」という報告が入ます。マーシャルはライアンを保護して本国に帰還させるように命令するのです。命令を受けたレンジャー大隊の中隊長ミラー(John Miller)大尉は、6名の部下とで、ライアンがいると思われるフランス内陸部へ向かうのです。

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List) この映画の舞台は、第二次大戦下、ナチス・ドイツ占領下のポーランドです。ユダヤ人が居住地から収容所に送られ、虐殺されていくのを知ったドイツ人の実業家のオスカー・シンドラー(Oscar Schindler) は、迫害されるユダヤ人を自身の工場に雇用し、事業に成功します。そして、雇用された1,200人のユダヤ人がナチスの虐殺から救われます。

懐かしいキネマ その4 監督 西部劇の神様

西部劇映画はアメリカの十八番ともいえるジャンルです。アメリカの発展には、西部の進出と開拓が必要でした。そこにはどうしても白人とアメリカ先住民族との確執が起こりました。白人中心主義が強かった時代です。その確執を共感的にとらえた映画は沢山あります。例えば[Dance with Wolves]という映画です。監督と主演はケビン・コスナー(Kevin Costner)です。コスナーは、先住民族であるインディアンを虐殺し、バッファローを絶滅寸前に追いやる政府の方針や軍隊に対して警鐘を鳴らし、同時にフロンティアへの敬意を表しています。その点で従来の西部劇とは大きく異なる視点で制作しています。

西部劇映画を監督した人にジョン・フォード(John Ford)がいます。西部の荒野の厳しい自然風景を壮大なスケールで描くのと得意としています。荒野に生きる男の心情を情感豊かに表現する作風は観ている人を魅了します。[西部劇の神様]とも呼ばれるほどです。俳優は、ヘンリー・フォンダ(Henry Fonda)、ジョン・ウェイン(John Wayne)、モーリン・オハラ(Maureen O’Hara)らのアイリッシュ系やワード・ポンド(Ward Pond)らを重用したことでも知られています。フォードはジョン・ウェインをしばしば使い、「黄色いリボン」(She Wore a Yellow Ribbon)、「駅馬車」(Stagecoach)、リバティバランスを撃った男(The Man Who Shot Liberty Valance)、「静かなる男」(The Quiet Man)、「捜索者」The Searchers なども監督します。ジョン・スタインベックの小説を主題とした「怒りの葡萄」 (Grapes of Wrath)でもメガフォンをとった名監督です。

懐かしのキネマ その3 有名な監督

今回は映画作品を手掛けた監督を取り上げます。「アラビアのロレンス」(Lawrence of Arabia)は、1962年に公開されたイギリス・アメリカ合作映画です。監督はデヴィッド・リーン(David Lean)。この映画でアカデミー監督賞を受賞します。プロデューサーであるサム・スピーゲル(Samuel Spiegel)とタッグを組んだ戦争映画『戦場にかける橋』もそうです。この映画で日本軍の捕虜収容所の所長、斉藤大佐を演じたのが早川雪洲です。イギリスを代表する俳優アレック・ギネス(Alec Guinness)はニコルソン大佐を演じています。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago) というロシア革命の混乱に翻弄される人々を描いた映画の監督もデヴィッド・リーンです。主人公で医師のユーリー・ジバゴ(Yuri Zhivago)と恋人ララ(Lara)の運命を描いた大河小説が原作となっています。ノーベル文学賞を授与された作品を映画化したものです。

ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)というイタリア人の監督兼俳優をご存知でしょうか。「自転車泥棒」や「ひまわり」の監督として名作を作っています。「ひまわり」は戦争で出征した夫が戦争が終わっても帰らず、訃報も届かず行方不明扱いのままです。妻は生存を信じてやまず、彼を探しにロシアに向かうのですが。ようやく夫と再会したとき、ロシア人の女性と結婚していることを知ります。

デ・シーカが俳優としても出演した映画に「ロベレ将軍」(Generale Della Rovere)、「武器よさらば」(Farewell to Arms) があります。後者ではイタリア人軍医役として出演しました。映画「武器よさらば」はアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)の長編小説を基にしています。イタリア人監督といえば、フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)を忘れることができません。「道」(La Strada)「カビリアの夜」(Nights of Cabiria)「甘い生活」(La dolce vita)があります。どれも独特の映像感覚が発揮されているといわれます。フェデリコ・フェリーニの全作品のサウンドトラックを作ったのがニーノ・ロータ(Nino Rota)です。

イタリア人監督にセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)がいます。強烈な個性の主人公を登場させ、これぞマカロニ・ウェスタンといわせた作品を世に発表します。「荒野の用心棒」(A Fistful of Dollars)、「夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)、「ウェスタン」(Once Upon a Time in the West)などです。「ウェスタン」ではチャールズ・ブロンソン(Charles Bronson)、クラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)など懐かしい俳優が登場しています。ピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi) という監督もいました。「鉄道員」(The Railroad Man)という作品です。大戦後の初老の鉄道機関士とその幼い息子の喜怒哀楽を描いた名作です。この映画でジェルミは主人公の機関士を演じています。

懐かしのキネマ その2 サウンドトラック

映画には主題曲があります。サウンドトラック(サントラ)(soundtrack)で良く知られています。前回少し触れた映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーンリバー」(Moon River)は、作曲家ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancine)というイタリア系アメリカ人によるものです。ニューヨークのアパートで猫と暮らしている娼婦ホリー(Holly) は、宝石店ティファニーの前で朝食のパンを食べるのが大好きです。やがて彼女のアパートに作家志望の青年ポールが引っ越してきます。2人の愛のさや当てに相応しい甘ったるいメロディに酔いしれます。

映画「ひまわり」(Sunflower)のサントラ「愛のテーマ」もマンシーニの作曲です。1970年に製作されたこの映画は、戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を描いた作品で、キャストは、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)とマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)。エンディングでの地平線にまで及ぶ画面一面のひまわり畑が記憶に残ります。ロマンチックなサスペンス映画のサントラ「シャレード」(Charade)も甘ったるい名曲です。「刑事コロンボ」の主題曲もあります。映画「別働隊」の主題歌「モナ・リサ」(Monna Lisa)もあります。第二次大戦中、北イタリアを舞台としたパルチザン(ゲリラ–Partisan)の活躍を描いたものでした。マンシーニの作品はどれも印象に残るものです。

1997年のアメリカ映画「タイタニック」(Titanic)の主題歌「 My Heart Will Go On」も印象に残る曲です。作曲者はジェームズ・ホーナー(James Horner)。「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme) も趣があります。作曲はモーリス・ジャール(Maurice Jarre)です。主演は、オマー・シャリフ(Omar Sharif) とジュリー・クリスティ(Julie Christie)でした。このように映画にとってはサントラは、欠かすことのできない助演者のような存在であることがわかります。

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懐かしのキネマ その1 映画雑誌 

今回から映画に関する話題を取り上げていきます。私は父の影響を受けた大の映画ファンです。父とは生前は時々観に行ったものです。最後に一緒に観たのは「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai) でした。映画雑誌、名監督、名俳優や脇役、名作映画、サウンドトラック、映画の文化などを綴ってみます。

映画はキネマ (kinema) とも呼ばれます。キネマトグラフ(kinematograph)の略字です。「キネマ旬報」という映画雑誌があります。1919年7月に創刊されて今も発行されています。名称からはレトロ趣味の感じがします。毎年、「日本映画ベスト・テン」・「外国映画ベスト・テン」・「文化映画ベスト・テン」が選出されて名画が紹介されています。最近は読者の投票でもっとも人気が高かった作品として「キネマ旬報読者賞」が作られています。今となっては懐かしい「映画の友」とか「映画情報」という雑誌もありました。シネマ(cinema) という単語もあります。同じく映画という意味ですが、この単語で思い出すのは、「シネマ‐スコープ(CinemaScope)」です。映画館で横長のスクリーンに驚いたものです。もちろん「総天然色」でした。

「スクリーン」という映画雑誌を覚えている人はよっぽど映画が好きな人です。発行が 1946年という歴史があります。洋画専門の雑誌です。カラーページなので、書店で手にとっては「観たいな、、」とつぶやきました。「スクリーン」の表紙には、しばしばオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)が登場しました。ハリウッド黄金時代に活躍した女優です。1953年の「ローマの休日」(Holiday in Rome)や1963年の「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany’s)など、鼻から抜けるような彼女の発音は忘れられません。