アメリカ合衆国建国の歴史 その89 大陸の西部進出と政治的危機

19世紀を通じて、東部の入植者たちはミシシッピ渓谷やその対岸側へと進出し続け、フロンティアをさらに西へと押いやっていきます。ルイジアナ購入地は、開拓者たちとその後に続く者たちに十分なスペースを提供しました。しかし、アメリカ人の放浪癖(wanderlust)は、この地域に限ったことではありませんでした。時代を通じて、アメリカ人はルイジアナ領の南、西、北の地域に移動していきます。これらの土地の大半はメキシコやイギリスが領有権を有していたため、必然的にこれらの国々とアメリカとの間で争いが起こります。

アメリカ国民のナショナリズムの高まりは、民主党のジャクソン大統領、1845年から-1849年のジェームズ・ポーク(James K. Polk)大統領、1841年から1845年まで務めた拡張主義のホイッグ大統領ジョン・タイラー(John Tyler)によって、「自由のための帝国」を拡大するという目標達成の原動力となります。これらの大統領は、それぞれ抜け目のないほどの行動をとります。ジャクソンは、友人のサム・ヒューストン(Sam Houston)がメキシコと新たに独立したテキサス州との関係を解消することに成功した1年後に、テキサス共和国と正式な関係を結ぶのに成功します。タイラーは、上院が彼の提案した併合条約を圧倒的に拒否したため、テキサス州の連邦への編入を各議会が僅差で投票できるよう、共同決議の提案に踏み切ります。

James Polk

ポークは、1846年に49度線以南のオレゴン州(Oregon)を合衆国に返還する条約をイギリスと交渉することに成功します。これはまさに、イギリスが拒否していた案件でありました。ポークは、メキシコ領ニューメキシコとカリフォルニア上部を獲得するためにいかなる手段もいとわず、国境紛争を口実にメキシコと戦争を始めます。米墨戦争(Mexican-American War)は広く賞賛されるものではなく、多くの下院議員はこれを嫌っていたのですが、その戦争遂行の資金調達のための予算計上にあえて反対する者はほとんどいませんでした。

John Tyler

これらの領土の拡張政策は、国民の支持を得たという証拠はないのですが、広く反対を呼び起こすものでもありませんでした。しかしながら、1844年のポークの大統領当選がテキサス併合を求める民衆の声であると説明する拡張主義者の主張は、確かなものであるとは言い難たかったのです。クレイは僅差で敗れ、自由党とネイティヴィスト(nativist)の少数の有権者がホイッグから離反しなければ、クレイは勝利を収めていたといわれます。1840年代に民主党の論説主幹らによって考案された、太平洋まで西進するのはアメリカの「明白な運命」であるという民族主義的な考えは、その後まもなくポークが行った戦闘的な政策に対して世論をひきつけたことは確かです。この考え方は、アメリカ国民の気分を代弁したものと言われています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その88 宗教的改革を目指す運動

アメリカ版の世俗的な完璧主義(secular perfectionism) が広く影響を及ぼしたとはいえ、前世紀アメリカで最も顕著だったのは、宗教的熱意による改革でした。宗教的な熱意が常に社会的な向上と結びついていたわけではありませんが、多くの改革者は、社会悪を治すことよりも魂を救うことに関心を寄せていました。日曜学校組合(Sunday school union)、家庭宣教師協会(Family Ministry Teachers Association)、聖書・トラクト協会などに積極的に参加し、多額の寄付を行った企業家たちは、利他主義的な考えから、組織が社会的改善よりも精神的な向上を強調し、「満足する貧者(contented poor)」の教義を説いていたことから、そのような行動をとったのです。つまり、宗教心の強い保守派は、宗教団体を利用して自分たちの社会的偏向を強化することに何の問題も感じなかったといえるのです。

Ralph W. Eemerson

他方、急進派はキリスト教を社会活動への呼びかけとして解釈し、真のキリスト教的正義は、独りよがりで強欲な人々を怒らせるような闘争の中でしか達成されないと確信していました。ラルフ・エマーソン(Ralph W. Emerson)は、個人の優位性を主張した代表といえます。エマーソンによれば、大きな目標は、物質的条件の改善ではなく、人間の精神の再生ということでした。エマーソンや彼のような改革者たちは、同じ志を持つ理想主義者と団結して新しい社会モデルを実践し、主張することに矛盾を感じませんでした。エマーソンらの精神は、同じような考えを持つ独立した個人による社会活動を通じて復活し、強化されることになったのです。ヘンリー・ソロー(Henry D. Thoreau)もエマーソンの薫陶を受けた一人です。

Henry D. Thoreau

アメリカ合衆国建国の歴史 その87 改革運度への賛同

ギャリソン派であろうとなかろうと、奴隷制撤廃派の指導者たちは、自分たちの個人的な不適応を解消するための変人とか、ニューイングランドのエリートとして失いつつある地位を回復するために奴隷制問題を利用した人々として軽蔑されていました。真実はもっと単純なのかもしれません。神経症患者や北部の社会経済的エリートで奴隷制度撤廃論者になった者はほとんどいませんでした。この運動の熱意と宣伝の成功にもかかわらず、多くの北部の人々はこの運動に激しく反発し、自由白人の大多数はそのメッセージに無関心でありました。

1830年代、都市部では暴徒が起こり、資産と地位のある者に率いられて、廃止派の集会を襲撃します。彼らは、アフリカ系アメリカ人やそのシンパの白人の財産や人々に暴力を振るいました。奴隷撤廃運動の指導者たちは、ニューイングランドで育ったこと、カルヴァン主義的な独善主義、高い社会的地位、比較的優れた教育を受けていたことなど、驚くほど似ていたのです。彼らの運動が世俗的、あるいはエリート主義的ではなかったと思われます。ですが一般市民は、アフリカ系アメリカ人を嫌悪し、制度内での進出に良くは思っていませんでした。

Black women

多くの改革運動が存在したからといって、多数のアメリカ人がそれを支持したわけではありません。撤廃運動は世論調査では不利に働きました。一部の改革は他のものより人気がありましたが、概して、どの主要な運動も大衆の支持を得ることはできませんでした。また、これらの活動に実際に参加した人は少なかったことが判明しています。ブルック・ファーム(Brook Farm)やインディアナ州のニュー・ハーモニー(New Harmony)、ニューヨーク州のオネイダ(Oneida)のようなユートピアを標榜するコロニーでは、多くの賛同者を獲得することはできず、他の多くのグループも賛同はしませんでした。これらの改革運動の重要性は、その規模や成果から生まれるものではありません。

In the Cotton Plantation

改革とは、アメリカ生活の不完全さに対する少数の人々の感受性を反映したものです。ある意味で、改革者たちは「良心の声(voices of conscience)」であり、物質主義的な市民に対して、アメリカンドリームがまだ現実になっていないことを思い知らせ、理想と現実の間にある溝を指摘したのでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その86 いろいろな撤廃運動 

制度上での廃止で最も大事だったことは、奴隷制撤廃論です。この運動は、熱烈に主張される一方で、激しく抵抗され、1850年代には、政治的に失敗したようにみえました。しかし、1865年に、内戦という犠牲を払いながらも、憲法改正によってその目的を憲法に挿入するこに成功します。その核心は、3世紀以上にわたってアメリカ人が最善と最悪の顔を持つ「人種」の問題でありました。それがこの時代、アメリカの地域間の対立という力学と絡み合ったとき、その爆発的な潜在力が最大限に浮き彫りになる現象が起こりました。19世紀半ば、改革への衝動がアメリカ国民を団結させる共通のものであったのですが、その衝動が奴隷制度に現れたことで、4年間にわたる南北戦争という血塗られ遂にアメリカ国民は二つに分かれるのです。

William L. Garrison


撤廃運動そのものも多様ではありました。その一端を担っていたのが、ウィリアム・ギャリソン(William L. Garrison)という人物です。彼は「即時主義者(immediatist)」として、奴隷制だけでなく、それを容認する合衆国憲法をも糾弾します。彼の新聞「リベレーター(The Liberator)」は、奴隷制に反対する戦争では妥協しないという約束を宣言していました。ギャリソンの妥協のない論調は、南部だけでなく多くの北部の人々をも激怒させ、あたかもそれが奴隷制撤廃論全般の典型であるかのように扱われた時代が長く続いたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。

Frederick Douglass

撤廃論者の反対側には、セオドア・ウェルド(Theodore Weld)、ジェームズ・バーニー(James G. Birney)、ジェリット・スミス(Gerrit Smith)、セオドア・パーカー(Theodore Parker)、ジュリア・ハウ(Julia W. Howe)、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)、サーモン・P・チェイス(Salmon P. Chase)、リディア・チャイルド(Lydia M. Child)などがいて、彼らはさまざまな立場で反対論を主張しましたが、ギャリソンよりは融和的な立場にたっていました。ジェームズ・ローウェル(James R. Lowell)は、伝記作家として奴隷撤廃論者の主張は、固定した感情に走るべきではないといいます。そして、ギャリソンとは対照的に「世界は緩やかに癒されていかなければならない」と訴えます。また、デヴィッド・ウォーカー(David Walker)やロバート・フォーテン(Robert Forten)などの自由黒人やフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)などの元奴隷の活動も重要でありました。彼らは、この運動に取り組む明確な理由を持ちながら、白人の同僚たちとより広い人道的動機を共有しようとしました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その85 ユートピア社会主義とトクヴィル

工業化の進展により、何千人もの労働者が、制御できない景気循環の浮沈や雇用者の寛大さに依存するようになります。当時は「多くの人々の生活が少数の人々の手に委ねられている」といわれました。階級間の不均衡が拡大し、経済学者たちの行動に拍車がかかります。ある者は資本主義の永続性を認めながらも、労働組合を通じて従業員の交渉力を高めようとしました。また、私企業のモデルを否定し、競争路線ではなく協調路線での社会の再編成に目を向ける者もでてきました。フーリエ主義(Fourierism)やユートピア社会主義(Utopian socialism)がそうです。

労働改革者の一人、ジョージ・エヴァンス(George Evance)は、労働者の供給量を減らすことによって賃金を上げることを提案します。一部の労働者には公有地から切りとった無料の農場、「ホームスティード」(homesteads)を与えるという提案です。知識人党に属する移民規制の闘士たちの中にも、生粋のアメリカ人の雇用を守るという目的を持っている者がいました。また、シルベスター・グラハム (Sylvester Graham) が提唱した健康的な食生活や、アメリア・ブルーマー(Amelia

Seneca Falls Convention

Bloomer)が提唱した良識ある女性の服装など、周辺問題に焦点を当てた改革者もいました。彼らはいずれもこうした小さな一歩が、人間全体のより合理的で優しい行動へとつながると考えていたのです。

農業改革のような現実的なものから、世界平和のようなユートピア的なものまで、どのような改革運動であれ、アメリカの広大な世界にメッセージを広める手法は似ていました。1841年、トクヴィル(Tocqueville)がアメリカは民主主義が鍵であると指摘したメッセージが広まり、支持者を獲得するために任意の組織が結成されていきます。教会に所属している場合でも、これらの団体は牧師ではなく、専門家が指導するのが普通であり、弁護士の数が際立って多かったようです。次に、こうした団体の新聞による宣伝については、少額の資本と労働で簡単に行うことができました。ある評論家が指摘したように、ほとんどすべてのアメリカ人が、社会の普遍的な改善のための計画をポケットに入れていたといわれ、他のすべてのアメリカ人もそれを知っていたようでした。

セネカ・フォールズ大会

このような運動のうち、2つの運動は南北戦争の時代を超えてもその勢いを保っていました。一つは節酒運動で、モラリズム、効率性、健康といった永続的な価値を呼び起こすものです。飲酒は、過度に摂取するとアルコール依存症になり、社会的コストが発生し、生産性が低下し、身体に害を及ぼす罪と見なされていました。1848年のセネカ・フォールズ大会(Seneca Falls Convention)で初めて全米に知られるようになった女性の権利運動は、男女の役割分担の正当性という普遍的な考えを主張し、根強く浸透していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その84 千年王国説

1830年から1860年にかけての「自由の発酵」の時代には、18世紀末の人道的衝動と19世紀初頭のリバイバルの鼓動が混在していました。この2つの流れは一緒に流れていました。例えば、米国キリスト教宣教師会を設立した真摯なキリスト教徒は、イエス・キリストによる救いの福音をアジアの「異教徒」に伝えることが自分たちの義務であると信じていました。しかし、中国やインドの貧しい人々の宗教に対する攻撃を受けながらも、病院を設立し、中国人や「ヒンズー教徒」の改宗者の地域での生活を大きく改善します。

千年王国説のエンブレム

千年王国説(Millennialism)という、キリストの再臨を前に、世界はまもなく終わり、罪を清めなければならないという教えは、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)などのリバイバリスト(revivalists) が説いたものです。この教えは、世俗的な完全主義と対峙するものでした。世俗的完全主義とは、世界の仕組みを実現可能な形に変えることによって、あらゆる形の社会や個人の苦しみを取り除くことができるという考えです。それゆえに、さまざまな十字軍と十字軍兵士が誕生したのです。公教育が最も大事でると説いたホレス・マン(Horace Mann)は、マサチューセッツ州教育委員会の教育委員からアンティオキア大学 (Antioch College)の学長になり、学生たちに「人類のために何らかの勝利を収めるまでは、死ぬことを恥と思え」と説きました。

Thomas Perkins

そのような勝利を得るための一つの方法は、運命に翻弄され、社会から見放され、虐待されてきた人々の状態を改善することでした。例えば、サミュエル・ハウ(Samuel Howe)が率いた聴覚障害者への教育運動や、ボストンの企業家トーマス・パーキンス(Thomas Perkins)やジョン・フィッシャー(John D. Fisher)による盲人教育機関の設立があります。パーキンスは、キリスト教のビジネスマンにとって、自分の事業に対する神の祝福に感謝を示すために慈善事業を行うことは良い方法だと考えていたのです。また、ドロシー・ディックス (Dorothea Dix)は、神と科学に対する敬虔な信者であった独立宣言の署名者ベンジャミン・ラッシュ (Benjamin Rush)の先例にならって、精神障害者の酷い扱いを改善するための活動を行っていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その83 少数政党と改革の時代

この時代、理念政治は大政党ではなく、小政党によって代表されました。反メーソン党(Anti-Mason Party) は、権力者の陰謀とされるものを一掃することを目的としていました。労働者党(Workingmen’s Party)は、「社会正義」を唱えました。ロコフォコ党(Locofocos) は、民主党内外の独占主義者を糾弾し、敵対勢力によって暗くなった会場で最初の会合を開いたときに使ったマッチにちなんで名付けられました。様々な名前の民族主義政党は、ローマ・カトリック教会のあらゆる悪事を告発しました。自由党は、奴隷制の拡大に反対します。これらの政党は、本来の有権者に加え、多くの有権者を惹きつけるような幅広いアピールをすることができなかったため、どれもはかないものとなりました。民主党とホイッグ党は、その日和見主義にもかかわらず、また日和見主義であるがゆえに、アメリカの有権者の現実的な精神をよく反映して繁栄していきました。

Anti-Mason poster

1830年から1850年にかけての時代を歴史家は「改革の時代」と呼びました。ドルの追求が熱狂的になり、それを国の真の宗教と呼ぶ人もいた時代です。何万人ものアメリカ人が精神的、世俗的な向上を目指す様々な運動に参加していきました。なぜ、前世紀末に改革運動が起こったのかについては、まだ意見が一致していません。プロテスタント福音主義の暴走、イギリスやアメリカ社会全体を覆う改革精神、啓蒙主義の完璧主義的な教えに対する遅れ、19世紀の資本主義の特徴である世界的な通信革命など、いくつかの説明が挙げられますが、いずれも決定的なものではありません。

女性の権利、平和主義、禁酒運動、刑務所改革、借金による投獄の廃止、死刑廃止、労働者階級の待遇改善、国民皆教育制度、私有財産を捨てた共同体の組織化、精神異常者や先天性障害者の待遇改善、個人の再生などが、この時代の熱狂的な人々を刺激するさまざまな改革運動を北アメリカで同時に盛んにした原因でありました。

女性参政権運動

アメリカ人の生活で最も奇妙なことは、経済的な飢餓と精神的な努力の組み合わせです。どちらも、未来はコントロールし、改善することができるという確信の上に成り立っていました。辺境での生活は過酷だったのですが、人間の状態は必ず良い方向に変化するという強い信念がありました。かつてカルヴァン主義が予言したように、人間の本性は永久に短所の溝にはまってはいないという確信です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その82 主要な政党の結成

1800年代の時代の大政党は、手段ではなく、人の勝利を得るために作られたといえます。政党が誕生すると、その指導者たちは当然ながら、有権者に理念の優先を納得させようとしました。しかし、元連邦党員が最初はほぼ同数の新党に集まり、国内改善や国立銀行などの問題で対立していた人々がジャクソンの後ろで団結できたことは注目に値します。しかし、時間の経過とともに、各政党はそれぞれ特徴的で対立する政治的な政策と結びつけるようになっていきます。

1840年代になると、ホイッグ(Whig)とクレイらの人民共和党の下院議員は、対立する者として結集し投票するようになりました。ホイッグスは弱い行政府、新しい合衆国銀行、高い関税、州への土地収入の分配、恐慌の影響を緩和するための救済法、連邦議会の議席再配分などに賛成し、民主党は反対しました。ホイッグスは反対票を投じ、民主党は独立国庫、積極的な外交政策、拡張主義を承認します。これらの問題は、議会で主要政党を二分したように、有権者を二分しうる重要な課題でありました。確かに、ジャクソン派が、アフリカ系アメリカ人や奴隷廃止論者に対して懲罰的な措置をとったり、アメリカ先住民の権利を保護する条約を無視して南部のインディアン部族を追放したり、その他の強硬な手段をとろうとしたことは重要でした。しかし、これらの違いは、民主党とホイッグがイデオロギー的に分裂し、前者だけが無産者の利益を何とか代弁しているということではありませんでした。

1828年の高率関税に対するサウスカロライナの激しい反対運動で勃発した危機によって、これまでの党派は簡単に崩壊していきました。ジャクソンは、カルホーンの無効化政策、つまり州が関税などの連邦法を無効化する権利に断固反対し、民主党内外で広く支持されていました。この危機に対するクレイの解決策である妥協関税は、ジャクソンとのイデオロギーの対立ではなく、クレイの調停能力、戦術的な巧みさによる政治的優位を示すものと考えられました。

連邦第二銀行

ジャクソン派は、第二合衆国銀行との戦いを、西部、債務者農民、貧しい人々一般を抑圧する貴族の怪物との戦いとして考えていました。1832年のジャクソンの大統領再選は、銀行戦争に関する民主党の解釈に民衆が同意したことの表れと理解されました。最近の調べによりますと、ジャクソンの大勝は前例がなく、民主党の成功は他の要因によるものであった可能性があることが明らかになっています。第二銀行については、多くの西部人、多くの農民、そして民主党の政治家でさえ、主にジャクソンの怒りを買わないために反対したことを認めていましました。

連邦準備制度理事会

ジャクソンが第二銀行とその頭取であったニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)を嫌悪する理由は複雑でした。反資本主義のイデオロギーでは、政府資金の貯蔵庫としての準国営銀行を資本家に支配され、利潤追求に熱心な何十もの「ペットバンク」(pet banks)と呼ばれた州立銀行(Pet Banks)や民間銀行に置き換えるというのがジャクソン流の政策でした。こうした、銀行の取締役が民主党の政治家であることのように考えられました。おそらく、民主党とホイッグの実利主義と類似性は、「猟官制度」という政党が互いに官職を分け合うことに最もよく示されていました。ホイッグは、政権を離れている間は、有利な税関やその他のポストを支持者に譲り渡すという民主党の卑劣な政策を非難していましたが、政権に就くと同様の慣行に走ったのです。ただし、興味深いことは、ジャクソン派の任命者が、いわゆる富裕な先任者たちよりも平民的であったことでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その81 アンドリュ・ジャクソン

ジャクソンは、彼の信奉者たちにとっては、人民民主主義の体現者でありました。強い意志と勇気を持った真の自作自演の男である彼は、多くの市民にとって、一方では自然と摂理の広大な力を、他方では人民の威厳を体現した人物であったようです。また、気性が荒いという弱点は、政治的な強みにもなりました。彼を指して、財産と秩序の敵と烙印を押した反対派は、金持ちに対する貧乏人、利権者に対する平民のために立っているとジャクソンの支持者が主張したことに賛成せざるをえませんでした。

Andrew Jackson

ジャクソンの味方は、彼の主要な敵対者と同様に、実際には保守的な社会信条を持つ富裕層でありました。彼は多くの書簡の中で、労働について言及することはほとんどありません。大統領に就任する以前、テネシー州で弁護士として、また実務家として、彼は持たざる者ではなく有力者に、債務者ではなく債権者に味方しました。彼の評判は、政党が人民の政党であり、政権の政策が人民の利益のためになるという信念を広めた識者たちによって大きく持ち上げられました。一部の裕福な批評家によってなされた野蛮な攻撃は、ジャクソンらが民主的であると同時に急進的であるという信念を強めることになりました。

Andrew Jackson

1820年代半ばに誕生したジャクソン派(民主党)は、さまざまな人物や利害関係者が、主に現実的なビジョンによって結びついた緩やかな連合体でありました。オールド・ヒッコリー(Old Hickory)と呼ばれたはジャクソンは素晴らしい候補者であり、彼が大統領に選出されれば、人々に利益をもたらすという2つの信念を抱いていました。候補者としての優秀さは、彼が何の政治的理念も持っていないように見えたことに由来しています。この時代、国政レベルでは明確な政党は存在していませんでした。ジャクソン、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)、ジョン・カルフーン(John C. Calhoun)、ジョン・アダムス(John Adams)、ウィリアム・クロフォード(William H. Crawford)の5人は、大統領候補として、尊敬するジェファソンの党に属する「共和党員」を自称していました。国民共和党はアダムスとクレイの支持母体であり、1834年に誕生したホイッグス(Whigs)は何よりもジャクソン打倒のための党でありました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その80 政治の民主化

1820年代から1830年代にかけて、アメリカの政治はますます民主化されていきます。それまで任命制であった地方や州の役職は、選挙制になります。ほとんどの州で選挙権に対する財産権やその他の制限が緩和されたり廃止されたため、選挙権は拡大します。不動産所有者以外の者の選挙権を奪っていた自由所有権の要件は、1820年までにほぼすべての州で廃止され、納税者の資格も、徐々にではありましたが撤廃されます。

多くの州では、それまでの音声投票に代わって印刷投票が採用され、無記名投票も普及しました。1800年には2つの州だけが大統領選挙人の一般選出を規定していましたが、1832年にはサウスカロライナ州だけが依然として立法府にその決定を委ねていました。党の指名を行う機関として、立法府や議会の党員集会(caucuses)での選挙で選ばれた代議員からなる大会が次第に増えていきました。党員集会における選挙によって、秘密裏に会合する派閥(cliques)よる候補者指名制度は、民主的に選出された団体による公開の候補者指名制度にとって代わられていきます。

予備選挙と党員集会

このような民主的な変化は、アンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)とその信奉者たちによって引き起こされたものではありません。かつてはそう信じられていたのですが、、、ニューヨークやミシシッピーなどの州では、ジャクソン派(Jacksonians)の反対を押し切って行われた改革もあります。政治的民主主義の普及を恐れる人々は、どの地域にもいましたが、1830年代にはそのような懸念を公に表明しようとする者はほとんどいなくなりました。ジャクソン派は、自分たちだけが民主主義の擁護者であり、上流階級の敵対勢力と死闘を繰り広げているという印象を効果的に定着させようとしました。このようなプロパガンダの正確さは、地域の状況によって異なるものでした。19世紀初頭の大きな政治改革は、実際には、どの派閥や政党によっても構想されませんでした。問題は、こうした改革が本当にアメリカにおける民主主義の勝利を意味するのかということでした。

党員集会

小さな派閥や自分たちの立場を固める「集票マシン」が、以前は党員集会を支配していたのですが、やがて民主的に選出された指名大会へと変わっていきます。1830年代には、ヨーロッパ系の一般人がほとんどの州で選挙権を持つようになりますが、指名プロセスは依然として人々の手許に及ばないものでした。さらに重要なことは、各州で競合する派閥や政党が採用する政策は、一般有権者にはほとんど関係のないものでした。

州政治を実質的に動かしていた代表と「連合」の立法計画は、主として政党の信奉者に報い、政権を維持するために作られたものでした。各州の政党は、庶民のためと言いながらも、銀行や交通事業の独占権を内部関係者に与えるような平凡な法案を支持するのが特徴でした。アメリカの政党が高邁な政治理念を掲げる組織ではなく、現実的な集票連合となったのは、この時代に制定された別の一連の改革が大きな要因でありました。選挙制度の改革は、州内の有力な得票者数で州庁を分割する従来の比例代表制とは対照的に、小選挙区の勝者または複数得票者に報いるもので、「単一課題」とか「イデオロギー」政党の可能性を阻み、多人数への対応を試みる政党を強化するものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その79  富と貧困

著名なフランスの政治思想家で法律家であるアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、同時代の多くの観察者と同じように、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると信じていました。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを補完していると観察します。アメリカの富豪の多くは生まれながらにして貧しかったと考えられており、「成り上がり者」(self-made)という言葉はヘンリー・クレイ(Henry Clay)が広めたといわれます。社会は非常に流動的で、財産の急激な増減が顕著であり、頂点に立つことは最も謙虚な者以外には不可能であるとされていました。成功の機会は誰にでも自由に与えられると考えられ、物質的財産は完全に平等に分配されてはいませんでしたが、理論的には、社会的階層の両端には少数の貧者と少数の富者しか存在しないほど公正に分配されていました。

Alexis de Tocqueville

しかし、その実態は大きく違っていました。富裕層は当然ながら少ないのですが、1850年までのアメリカには、全ヨーロッパを上回る数の大富豪がいました。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアには、それぞれ10万ドル以上の資産を有する者が1,000人ほどいましたが、当時、富裕層の納税者は自分達の資産の大部分を税務調査官に秘密にしていました。当時は、年収が4,000ドル、5,000ドルあれば、贅沢な暮らしができるのですから、まさに巨万の富を所有していたということです。

Democracy in America

一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、東北地方の大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われて久しいのですが、やがて富豪は貧しい家ではなく、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に生きてはいましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その78  都市の発展と女性の進出

この時代、都市は新旧ともに繁栄し、その人口増加は国全体の目覚しい成長を上回ります。その重要性と影響力は、そこに住む比較的少数の市民をはるかに超えていきました。都市フロンティア(urban frontier) であれ、旧海岸地域であれ、前世紀末の都市は、その周辺地域の富と政治的影響力の中心となりました。世紀半ばに人口が50万人に達したニューヨーク市は、ニューヨーク州ポキプシー(Poughkeepsie)やニュージャージー州ニューアーク(Newark)のような都市とは桁違いの課題に直面していました。

しかし、この時代の変化のパターンは、東部都市でも西部都市でも、古い都市でも新しい都市でも、大都市でも小都市でも驚くほど似ています。その生命線は商業にあり、商人、専門職、地主などのエリートが、町政に経済性を求める古い理想を不本意ながら捨て去っていくのです。そして、新たな問題に対処するために増税が行われ、世紀半ばの都市社会が新たなチャンスを手に入れることができるようになっていきます。港湾の整備、警察の専門化、サービスの拡充、廃棄物の確実な処理、街路の改善、福祉活動の拡大など、これらはすべて改善することが社会的に有益であると確信した資産家たちの政治的手腕と利己心の結果でありました。

都市はまた、教育や知的進歩の中心地ともなりました。「貧困層」や「慈善」学校の汚名から解放され、比較的財政に恵まれた公的教育制度の出現や、技術革命によって可能になった活気ある低価格の新聞「ペニープレス」(penny press)の出現は、最も重要な発展の一つででありました。拡大するアメリカ社会における女性の役割は、相反する考え方によって変化していきます。一方では、解放を後押しする要因も生まれました。例えば、成長する都市では、公立学校で初等教育を受けた少女や若い女性に、事務員や店員として新しい仕事の機会が与えられました。

Dr.Elizabeth Blackwell

さらに公立学校の教師が必要とされたことも、女性の自立への道を開いていきました。より高いレベルでは、マサチューセッツ州サウスハドリー(South Hadley)のマウントホリヨーク(Mount Holyoke)のような女子大学の設立(1837年)や、オハイオ州のオベリン(Oberlin)(1833年)やアンティオキア(Antioch)(1852年)のようなごく少数の男女共学の大学への女性の入学によって、上昇志向のはしごを築くことができたのです。また、近代最初の女性医師とされるエリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell)や、アメリカ女性で初めて宗派を超えた聖職に就いたオリンピア・ブラウン(Olympia Brown)など、稀に専門職に就く女性もいました。

Rev. Olympia Brown

他方、伝統的な教育を受けた上品な家庭の女性たちは、依然として柔らかく艶やかな期待に縛られていました。大衆的なメディアで語られる「女性としての義務」には、夫の財産を守ること、子どもや使用人の宗教的・道徳的教育、装飾品や読み物の適切な選択による高い感性の育成などが含まれていました。「真の女性」とは、多忙な男性が市場の厳しい世界で一日の激務を終えた後に、家庭を静寂と休息の場所とすることが期待されました。そうすることで女性は崇拝されながらも、明らかに非競争的な役割に留まっていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その77  ユートピア移民のコロニー

次ぎに、新世界に新しい社会を作ろうとした思想家たちのユートピア移民のコロニーにも触れることにします。テネシー州のナショバ(Nashoba)やインディアナ州のニューハーモニー(New Harmony)には、それぞれフランシス・ライト(Frances Wright) とロバート・オーウェン(Robert D. Owen)という2人のイギリス人が入植しました。また、アイオワ州のアマナ(Amana)、ワスプ–テキサス州のニューウルムやニューブラウンフェルス(New Braunfels)には、ドイツ人が計画した入植地(colony)ができました。「明白なる運命」(Manifest Destiny) に代表される物質主義と拡張主義の大胆さが、移民によるアメリカ国民の膨張に一因しているとすれば、これらの共同生活の試みは、アメリカ人の思想を動かしている物質主義的とは違ったものでした。それは、改革の時代における地上の楽園を求めるというパターンに合致するものでもありました。

Robert Owen

北部のアフリカ系アメリカ人のほとんどは、自由以外のものをほとんど持っていませんでした。彼らは、北東部の都市でアイルランドの競争相手の進入に対して戦いを演じてはいました。この2つの集団の間の闘争は、一時的に醜い暴動に発展します。一般社会が自由なアフリカ系アメリカ人に示した敵意は、それほど激しいものではありませんでしたが、同様に絶え間なくみられました。政治、雇用、教育、住宅、宗教、そして墓地までもが差別され、過酷な抑圧体制のなかに置かれました。奴隷と違って、北部の自由なアフリカ系アメリカ人は、自分たちが支配されることを批判し、また請願することができましたが、彼らの状況が悪化し続けるのを防ぐに無駄であることを知っていきます。

Frances Wright

ほとんどのアメリカ人は田舎に住んでいました。機械の進歩によって農業生産は拡大し、農業の商業化が進みますが、独立した農業従事者の生活は世紀半ばまでほとんど変化しませんでした。しかし、一部の農家が発行する機関誌には、「自分たちの努力は社会から評価されていない」と書かれていました。農家の実態は複雑で、多くの農民は、労働に明け暮れ、現金は不足し、余暇はほとんどない生活を送っていました。農民の賃金は微々たるもので、農民の多くは、過酷な労働と現金不足、余暇のない生活を強いられていました。しかし、アメリカでは、自分の土地を持つ農家の割合がヨーロッパよりはるかに多く、世紀半ばになると、農業従事者の生活水準やスタイルが着実に向上していることが、さまざまな事実によって明らかになっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その76  移民と人口の増加

アメリカ社会は急速に変化していきます。人口増加率は、ヨーロッパ人にとっては驚くべきものでしたが、前世紀数十年間のアメリカの人口増加のペースは、10年で10分の3から3分の1というのが普通でした。1820年以降、人口増加率は全国一律ではありませんでした。ニューイングランドと南部大西洋岸地域は、人口の増加率は低迷します。ニューイングランドは西部保護地域の優れた農地に入植者を奪われ、南部大西洋岸地域は新参者に提供する経済的場所が少なすぎたからです。

1830年代から1840年代にかけての人口増加の特徴は、移民によるものでした。19世紀の最初の30年間に到着したヨーロッパ人は約25万人でしたが、1830年から1850年にかけてはその10倍となりました。移民は、アイルランド人とドイツ人が圧倒的に多く、彼らは、個人ではなく家族単位で渡航し、豊かな労働、土地、食料、自由、そして兵役のないアメリカ生活の驚くようなチャンスに魅了されたのです。

White Anglo Saxon Protestant

しかし、移民に関する単なる統計は、南北戦争前のアメリカにおける移民の重要な役割のすべてを語ってはいません。技術、政治、偶然性が交錯し、また新たな「大移動」が生まれたのです。1840年代には、大西洋での蒸気輸送が始まり、最後の世代のウィンドジャマー(windjammers)と呼ばれた貨物用帆船が帆走速度を向上させたことで、外洋航路はより頻繁に、規則正しく利用されるようになりました。どん欲なヨーロッパ人がアメリカの呼びかけに応じ、農地を占拠し、都市を建設することが容易になっていきます。アイルランド人の移民は、1845〜1849年のアイルランドのジャガイモ大飢饉によって流れを本流に変えていきます。

他方、ヨーロッパでは、民主主義思想の着実な成長が、フランス、イタリア、ハンガリー、ドイツで1848年の革命を生みます。イタリア、ハンガリー、ドイツ3カ国の革命は残酷にも弾圧され、政治難民が続出します。したがって、革命の後に渡航したドイツ人の多くは、自由な理想、専門的な教育、その他の知的資本をアメリカ西部に持ち込んだ難民でした。アメリカの音楽、教育、ビジネスに対するドイツ人の貢献は、統計で測ることはできないほどです。また、アイルランド人の政治家、警察官、神父がアメリカの都市生活に与えた影響や、アイルランド人全般がアメリカのローマ・カトリックに与えた影響も定量化することは難しいといえます。

Potato Famine

アイルランド人とドイツ人のほか、1850年代に農業不況のあおりを受けて、まだ開拓されていない大平原に新しい土地を求めて移住した何千人ものノルウェー人とスウェーデン人がいました。また、1850年代にカリフォルニアに移住した中国人は、苦境を乗り越えて金鉱で新たな機会を得ようとします。これら移民もまた、アメリカの文化に多大な影響を与えていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その75 芸術と出版界

Stephen Foster

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William H. McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で定番のものとなっていきました。

大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィンJoseph G. Baldwin、ジョンソン・フーパー(Johnson J. Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネッ(James G, Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank LeslieHarper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah J. Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市アメリカで大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』Leaves of Grass(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらます。

Walt Whitman

アメリカ合衆国建国の歴史 その74 産業革命期の文学界

1861年から1865年にかけてのアメリカの南北戦争(Civil War)前の数十年間、アメリカの文明は旅行者を惹きつけてやみませんでした。何百人もの旅行者が、新しい社会に魅了され、ヨーロッパの人々にアメリカを紹介するために「伝説の共和国(fabled republic)」のあらゆる面について情報を得ようとしてやってきました。旅行者たちが何よりも興味をそそられたのは、アメリカ社会のユニークさでした。旧世界の比較的静的で整然とした文明とは対照的に、アメリカは激動的で、ダイナミックで、絶えず変化し、人々は粗野ですが生命力にあふれ、ものすごい野心と楽観、そして独立心に満ちているようにみえました。多くの教養あるヨーロッパ人は、軽い教育を受けたアメリカの庶民の自己肯定感に驚かされたようです。普通のアメリカ人は、地位や階級を理由に誰かに従うことはしないようにみえました。

Nathaniel Hawthorne

1800年代初頭、イギリスの風刺作家が「世界の至るところで、誰がアメリカの本を読むのか」と問いかけたことがあります。もし、そうした風刺作家が「ハイカルチャー」の枠を超えたところに目を向けていたなら、多くの答えが見つかっただろうと思われます。実際、1815年から1860年の間に、ヘンリー・ロングフェロー(Henry W. Longfellow) やエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の詩、ジェームズ・クーパー(James F. Cooper)の小説、ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne) の小説、ラルフ・エマーソン(Ralph W. Emerson)のエッセイなど、今では世界中の英語散文・詩の学習者に知られている伝統的文学作品が溢れんばかりに生み出されたのです。これらはすべて、アメリカらしいテーマを表現し、ナッティ・バンポ (Natty Bumppo)、ヘスター・プリン(Hester Prynne)、エイハブ船長(Captain Ahab)など、今や世界のものとなったアメリカらしい登場人物が描かれています。

Edgar Allan Poe

それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その73 産業革命の黎明期

経済、社会、文化の歴史を相互に切り離すことはできません。アメリカの「工場システム」の創設は、将来への期待、移民に対する一般的に歓迎される寛容さ、労働力の不足に関連する豊富な資源、イノベーションに対する前向きな考えなど、いくつかの特徴的なアメリカの国力における相互作用の結果でした。

たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。

A machine Invented by Eli Whitney

イギリスで使用され始めていた紡績と織機は、厳重に輸出が禁じられていました。やがて、必要な機械の設計を彼の驚異的な記憶に残した若いイギリスの機械工であるサミュエル・スレーター(Samuel Slater)は、1790年にアメリカに移住するとともにブラウンの野心と彼の機械への関心に気づきます。スレーターはブラウンや他の人々とパートナーシップを結び、重要な設備を再現し、ロードアイランド(RhodeIsland) に大きな織物工場を建設しました。

時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けました。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助が始まると、たとえ控えめであってもアメリカの産業化にとって重要でした。

1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) は、後に彼にちなんで名付けられ、父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。彼らの道徳的行動は婦人によって監督され、彼ら自身が宗教的、劇的、音楽的、そして学習グループを組織しました。こうしたアイデアは、イギリスやヨーロッパの他の場所の惨めなプロレタリアとは全く異なり、アメリカの新しい労働力となっていきました。

Labour in the Lowell Cotton Mills

ローウェルの繊維工場は、国内外から視察にくる訪問者を驚かせました。やがて、業界内の競争力がより大きな作業負荷、長時間労働、低賃金によって、当初のようなの牧歌的な性格を失っていきました。 1840年代から1850年代には、ヤンキーの若い女性が当初のような組合を結成してストライキを起こすと、彼らはフランス系カナダ人とアイルランド人の移民に取って代わられます。それでも、初期のニューイングランドにおける産業主義は、アメリカの例外主義を意識したものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その72 運河と鉄道

運河と鉄道は、外輪船に較べてもアメリカが起源ではありませんでした。イギリスとヨーロッパ大陸の18世紀の運河は、かさばる荷物を低速で安価に移動するための単純ではありましたが便利な手段でした。アメリカ人は、流れる川を接続することによって国の水輸送システムを統合していきます。五大湖とオハイオ-ミシシッピ川の谷がある大西洋に向かう水運です。最も有名な導管であるエリー運河 (Erie Canal)は、ハドソン川と五大湖を接続し、西部とニューヨーク市の港を結んでいました。ペンシルベニア州、メリーランド州、オハイオ州の他の主要な運河は、オハイオ川とその支流を経由してフィラデルフィアとボルチモア(Baltimore) に合流しました。

Erie Canal

運河の建設は1820年代から30年代にかけてますます人気が高まり、州や州と民間の努力の組み合わせによって資金が提供されることもありました。しかし、多くの建設された運河も、賢明でない運営の運河プロジェクトは消滅しました。そのような憂き目にあった州は、運河事業に対してより警戒するようになりました。

運河の開発は、鉄道の成長によって追い抜かれていきました。ミシシッピ川を越えた西部で不可欠な長距離をカバーするのには、鉄道は道路システムに較べてるかに効率的でした。アメリカで最初の鉄道であるボルチモアとオハイオ線の工事は1828年に開始され、大規模で爆発的な建設により、1860年までに国の鉄道網はゼロから50,000 kmに達しました。鉄道網は、急成長するシステムの運用の他に、政治的および経済的に大きな影響を及ぼしました。

Canal boat

ジョン・アダムズ(John Adams) は、「国内海外振興」擁護の最たる政治家でした。連邦政府が支援した高速道路、灯台、浚渫および水路の開墾作業です。どれも商取引を支援するために必要な開発です。強力なナショナリストで経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者、ヘンリー・クレイ (Henry Clay) もいました。クレイは、国内の改善と関税の賦課を通じて、製造品をアメリカの農業製品と交換する産業部門の成長を促進し、それによって国の各分野に利益をもたらすシステムを提案しました。しかし、クレイらの計画に内在するコストと拡大された連邦支配に対する多くの農本主義者の強い反対は、民主党と共和党の間の長い闘争を生み、南北戦争中の共和党における自由民主派(Whig) 経済主義の勝利まで続きました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その71  流通革命

あらゆる面における工業化進展の鍵である輸送の改善は、アメリカでは特に重要でした。発展途上のアメリカ経済の根本的な課題は、国の地理的広がりと貧弱な道路網の状態でした。五大湖、ミシシッピ渓谷、湾岸と大西洋の海岸を単一の国内市場に組み込むという幅広い課題は、航行可能な河川の豊かなネットワークに蒸気船を投入することによって最初に解決されました。

蒸気船


早くも1787年、ジョン・フィッチ(John Fitch) はフィラデルフィアの人々に実用的な蒸気船を公開しました。数年後、彼はニューヨーク市でもその業績は受け入れられました。政府の資金援助がないため、蒸気船の発明を完全に実用化するには民間の支援が必要でありました。その結果、最初の蒸気船の実用化を実現したのはロバート・フルトン(Robert Fulton) でした。彼は、1807年に最初にハドソン川(Hudson River)を外輪船(paddle wheeler) クレルモン号(Clermon)で走らせるための資金を得て、何度も運転していきました。その時点から、内陸では蒸気が王様であり、その最も壮観な船はミシシッピ川の外輪船でした。これは、浅い急流の川で航行ことができる船を作ることに挑戦した海洋技術者のユニークな作品となりました。

Robert Fulton

海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。ギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争(1824)で、マーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。

潜水艦Nautilus号

「ギボンズ対オグデン」という裁判事例です。アーロン・オグデン (Aaron Ogden)の会社に、ニューヨーク州は州内の水域における蒸気船の独占航海権を与えていました。ところが、連邦法によって航海の許可を受けていたトーマス・ギボンズ(Thomas Gibbons)は、ニューヨーク州法を無視し、ニュージャージー州からニューヨーク州に蒸気船を航海させるビジネスを始めました。そこでオグデンは訴えを提起しますが敗訴します

アメリカ合衆国建国の歴史 その70 アメリカの経済

アメリカ経済は、1812年の米英戦争後の数10年間で驚くべき速度で拡大し成熟しました。西部の急速な成長により、穀物と豚肉の生産のための素晴らしい新しい中心地が生まれ、国のかつての農産物が他の作物に特化できるようになりました。特に繊維製品の新しい製造プロセスは、北東部の「産業革命」を加速させただけでなく、北部の原材料市場を大幅に拡大することで、南部の綿花生産のブームを説明することができました。

18世紀半ばまでに、ヨーロッパ系の南部人は、綿花経済が依存していた奴隷制を、彼らが以前にシステムを保持していた「必要な悪」ではなく「肯定的な善」と見なすようになります。利益を上げる上で綿花は中心的な役割を果たしていきます。産業労働者は、この期間の早い段階で、国の最初の労働組合、さらには労働者の政党を組織しました。自己資本要件が急増する時代に企業形態は繁栄し、投資資本を引き付けるための古くて単純な形態は時代遅れになりました。商取引はますます専門化され、製品の製造における分業は、生産を特徴づけるようになり、ますます洗練された分業を進めていきます。

成長する経済運営は、新興アメリカの政治的紛争と切り離せないものでした。当初の問題は、簡単な信用の分散型システムを望んでいるジェファソン(Jefferson) の共和党が代表農本主義者と、金融市場の安定と利益を求めている投資コミュニティの間の対立でした。ハミルトン(Hamilton)と彼のフェデラリストによって擁護されたこの後者のグループは、政府と民間株主が共同所有する1791年の第一合衆国銀行の設立で最初のラウンドを勝ち取りました。それは政府の財政代理人であり、その本部であるフィラデルフィアに信用システムの重心を置いたのです。信用システムの憲章は1811年に失効し、その後の1812年の米英戦争中に調達と動員を妨げた財政的混乱は、そのような中央集権化の重要性を示しました。したがって、ジェファソンでさえ、1816年にチャーターされた第二合衆国銀行の承認に転換していきます。

第二合衆国銀行

第二合衆国銀行は絶え間ない政治的攻撃に直面しましたが、紛争は、農業と商業的利益の間だけでなく、拡大する信用システムの利益へのアクセスを望んでいる地元の銀行家と銀行の社長のような人々の間でも起こりました。第二合衆国銀行のニコラス・ビドル (Nicholas Biddle) は、トップダウンの管理を通じて銀行業務の規則性と予測可能性を高めたいと考えていました。憲法は合衆国に貨幣をコイン化する独占的な権限を与え、通貨としても機能する紙幣を発行することを許可します。さらに各州による銀行の設立を許可します。しばしば政治的な権限を有する国営銀行は、紙幣の価値と同様に、その価値が大きく変動した土地によって通常担保されている危険なローンに対する調整された検査と保護機能を欠いていました。過剰な憶測、破産、収縮、そしてパニックは避けられない結果でした。

Nicholas Biddle

ビドルの希望は、アメリカ銀行への政府資金の多額の預金が、それが地元の銀行への主要な貸し手になることを可能にし、その強さの立場から、不健全な銀行に責任を取らせるか、または閉鎖させることができることでした。しかし、この考えは、信用を拡大し、その受取人を選択する権利は、重要であり、裕福なエリートだけに限定することは出来ない主張します。こうした立場は、成長する民主主義の精神に反するものでした。この見解の違いは、ビドルとジャクソンの間の古典的な戦いを生み出し、ビドルがアメリカ銀行の再認可を勝ち取ろうとしたこと、ジャクソンの拒否権と政府資金の重要な銀行への移転、そして1837年の恐慌に至りました。1840年代まで連邦政府は、内戦が国の銀行システムを作成する法律が制定されるまで、資金を独立した国庫に置きます。財政政策決定の政治化はアメリカ経済史の主要なテーマであり続けました。