ナンバープレートから見えるアメリカの州アイオワ州・American Heartland

注目

アイオワ州(Iowa)のナンバープレートには、穀物を保存するサイロや納屋が背景に印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州(Minnesota)、東はウィスコンシン州(Wisconsin)及びイリノイ州(Illinois)、南はミズーリ州(Missouri)、そして西はネブラスカ州(Nebraska)及びサウスダコタ州(South Dakota)に囲まれています。州都で最大の都市はデモイン(Des Moines)です。

アイオワ州のナンバープレート

2024年の合衆国大統領選挙を控え、各地で党員集会(Caucus)が開かれます。アイオワ州は、共和党が党員集会を最初に開くことで注目される州でます。2024年1月15日に党員集会が開かれトランプが圧勝しています。この集会とは、政党の大統領候補を決定するための地区レベルによる党員の会議のことです。アイオワ州はなんとなく地味な印象を受けがちですが、政治的には伝統的に民主党と共和党が競うところです。

アイオワには、東がミシシッピ川(Mississippi River)、そして西はミズーリ川(Missouri River)が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

アイオワはヨーロッパからの多くの民族を惹き付けたようです。1800年代にスウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、およびブリテン諸島(Britain Islands) からの多くの移住者がやってきて農業に携わります。ドイツ人は最大の集団であり、あらゆる郡に入植していきます。特にミシシッピ川沿いが多く大多数は農夫になりましたが、また職人や商店主になった者も多かったようです。さらにある者は新聞を編集し、教師となり、銀行を経営したりして発展します。

アメリカの中西部(Midwest)は「コーンベルト」(Corn Belt)と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。

Map of Iowa

アイオワのあたりは、「アメリカの心臓部」(American Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の穀倉地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業です。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。Heartlandとは「とても大切な地」という意味にもとれます。後に触れますが、カンザス州のプレートにも同じフレーズがあります。

アメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方、ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピ川とその支流を使いアイオワ、ウィスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾にも到達します。ジョリエの貢献は、彼の名前を付けた町の存在に現れています。

ロバート・ウォラー(Robert Waller)の小説に登場する屋根付き橋のローズマン・ブリッジ(Roseman Bridge)は、アイオワ州のマディソン郡(Madison County)のウィンターセット(Winterset)にあります。また、1989 年に公開されたケヴィン・コスナー(Kevin Costner)主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)で描かれた野球場も同様にアイオワが舞台でした。
(投稿日時 2024年2月3日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アーカンソー州・The Natural State

注目

アーカンソー州(Arkansas)のナンバープレートには「Natural State」「自然の州」とあります。州の公式のニックネームは1970年代に観光宣伝用に作られ、今日でも使われています。全米随一の温泉都市であるホットスプリングス(Hot Springs)が知られ、一帯はホットスプリングス国立公園(Hot Spring National Park)となっています。

アーカンソー州は南にルイジアナ州(Louisiana)やテキサス州(Texas)と接し、西はオクラホマ州(Oklahoma)、北はミズーリ州やテネシー州(Tennessee)と隣り合っています。州の地勢ですが、大きく二つに分けられて、山脈や渓谷地帯とミシシッピ川沿いの大平原から成ります。アーカンソー州の地形は多様性に富んでいます。北部と西部のオザーク(Ozark)山脈とワチタ(Ouachita)山脈は、東部の豊かで平坦な河川が流れる農地とは対照的です。州のほぼすべての川は北西から南東に流れ、アーカンソー川とレッド川(Red)を経て、東部の主要な境界を形成するミシシッピ川(Mississippi River)に注いでいます。

その結果、他州からの移民はほとんどなく、州の人口は基本的に均質でした。しかし、2種類の農業経済と関連して、2つの異なる地域文化が生まれたといわれます。物理的に孤立したオザークとワチタの山岳地帯の文化は、主に自給自足農業と小規模な木材製品産業に基づいていました。それとは対照的に、東部と南部の平坦なミシシッピ氾濫原の低地文化は、綿花プランテーションと大規模な小作農による典型的な南部農業システムの基盤となりました。

Map of Arkansas

アーカンソーという名前は、初期のフランス人探検家たちが、この地域の有力な先住民族であるクアポー族(Quapaw)と、彼らが定住した川沿いを指して使ったものといわれます。この呼称は、クアポー族に地元のもう1つの先住民コミュニティであるイリノイ族が当てた言葉であるアカンシー(akansea)が転訛したものと考えられています。州都リトルロック(Little Rock)は州の中央部に位置します。

私は高校一年のときに、リトルロックの高校でおきたアフリカ系アメリカ人生徒の排斥運動を知りました。合衆国最高裁が人種統合を行うよう命令を出したことで、ときの大統領アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)は州兵を派遣して、生徒を護衛し高校に入れるという出来事です。それに抗議して州知事とリトルロック市は、その学校年の残り期間、高校を閉鎖することを決めます。ですが1959年秋までにリトルロック市の高校は完全に人種差別を撤廃します。

1992年の大統領選挙戦では、アーカンソー州出身のビル・クリントン(Bill Clinton)は民主党予備選挙に勝利し、前回の選挙に出馬したアル・ゴア(Albert Gore)を副大統領候補に選びます。そしてジョージブッシュ(George Bush)に勝利しこの州出身者として初めて民主党からの大統領に選出されます。

アメリカの南部に位置しているのですが、意外と白人人口が多いのが特徴です。たとえば1905から1912頃にはヨーロッパからの移民が多数やってきます。ドイツ人やスロバキア人(Slovak)は平原に, 、アイリッシュ(Irish)もコミュニティを形成していきます。ドイツからの移民の多くはルーテル教会の信徒といわれます。

ヒストリック・ワシントン州立公園(Historic Washington State Park)では、開拓者の暮らしを学べます。ミュージアム・オブ・ネイティブ・アメリカン・ヒストリー(Museum of Native American History)には、アーカンソー州の先住民が残した陶磁器や道具が展示され子ども達の社会見学と学習の場となっています。産業ですが、主要なものは農業、制材、皮革、観光が盛んです。特に米作は全米一の生産を誇ります。近年は自動車部品やアルミニウムの原料となるボーキサイト(bauxite)の産でも知られています。
(投稿日時 2024年2月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州はじめに

注目

大分前に、このブログでアメリカのナンバープレートのエピソードなどを紹介しました。今回は、それを改訂して州の新しい歴史や出来事を追加して掲載します。ナンバープレートの蒐集は私の趣味の一つです。我が家の小さな倉庫に80枚あまりが積んであります。すべて アメリカ留学中に集めたものです。ナンバープレートはライセンスプレート(License Plate)というのが正しい呼び方です。

ナンバープレートに興味をもったのはそのデザインにあります。州の形をしたもの、州の特産物や自然のイラストを入れたもの、州の歴史やスポーツ、イベントを思い起こさせるものなどがあります。州の名前は必ず入ります。デザインの中で私の最も好きなのが州のキャッチフレーズやモットーが付いているものです。それに引き替え、我が国のプレートは貧相で魅力がありません。もっと工夫して都道府県の特徴をデザインとして欲しいものです。

各州のナンバープレートにあるキャッチフレーズは、歴史、人、自然、特産物、観光などに分けることができます。例えば、マサチューセッツ州(Massachusetts)は「Spirit of America」というキャッチフレーズです。このフレーズは、この州の建国の歴史と独立の精神を意味しています。アラスカ州のは「The Last Frontier」と印字されています。

アメリカのナンバープレートは、州や郡ごとに独自のデザインを持っています。非常に色彩豊かなものから、地味なものまで様々です。追加の手数料を支払えば自分のナンバープレートを作ることもできます。「Kiss Me」などと書かれたのを見たことがあります。他にも「Prison Made」(刑務所で作られた)というフレーズのもあります。可笑味のあるものです。確かカリフォルニア州(California)のプレートでした。サンフランシスコ(San Francisco)の金門橋(Golden Gate Bridge)付近にあるアルカトラズ島 (Alcatraz Island)で作られたものかもしれません。アルカトラズ島は今や一大観光地となっています。

通常2年ごとにナンバープレートのデザインは変わります。ですから一つの州には沢山のプレートがあり、蒐集家を喜ばせます。この国の多様性を感じる機会がここにもあります。

ナンバープレートの集め方はいろいろです。他の州をドライブしていて自動車の解体屋の前を通るとそこに自分の持っていないのを見かけます。すぐ停めて交渉し、自分でプレートを外したことが何度もあります。家族寮の掲示板に「ウィスコンシン州以外のプレートを望む」という紙を貼っておくと電話がきて自分で外しにいきます。「ついでに新しいのを付け替えて」と頼まれることもありました。これから五十音順にナンバープレートを通して見えるアメリカの各州の歴史や魅力を紹介しましょう。

成田滋のアバター

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読後感】「ただ一撃」 藤沢周平

したたかに生きる庶民や、うだつの上がらない下級武士などを淡々と描いたのが作家藤沢周平です。その短編作品に「ただ一撃」があります。この小説のあらましです。仕官を望む一浪人の清家猪十郎は、自分を高く売るために履歴書である高名の覚を持参し、庄内藩内にやってきます。そして藩の優れた若侍と試合を所望します。タイ捨流という無双の刀遣いで、腕自慢の連中4名を撃ち込み、手傷を負わせるのです。

初代庄内藩主忠勝は、この野猿のような猪十郎をぶちのめせと家老に命じて不機嫌に去ります。家老たちは苦渋の相談の果てに、かつて兵法堪能だった刈谷範兵衛を5番手の相手に決めるのです。

範兵衛は60歳の隠居の身。毎日嫁の三緒に「お舅さま、洟、洟」と注意される体たらくです。範兵衛の息子,篤之介は三緒の夫ですが、父が兵法の達者であることを知らないので驚きます。

鶴ケ岡城下から半里ほどのところに、小真木野と呼ぶ広大な原野があります。高台のため未だに狐狸が出没するといわれています。範兵衛は対決に備えそこで修行に入ります。通りがかりの者から天狗を見たという噂が流れます。

やがて天狗に間違えられた範兵衛が修行を終えて帰宅し、ぐっすり昼寝をした後三緒と語ります。

 範兵衛 「妻の房枝が死んでから、女子の肌に触れたことがない」
 範兵衛 「男のものはもはや役に立たんようになったかも知れん」
三緒 「もうお年ですゆえ、ご無理でございましょう」

二人で短い会話をしながら範兵衛はいいます。
    範兵衛 「ところがさっき奇妙な夢をみてな」
    三緒  「夢、でございますか」
    範兵衛 「夢の中で、嫁女を犯した」
    範兵衛 「無理かどうか、試したい」
    三緒 「それがお役に立つなら、お試しなさいませ」

こうして範兵衛は嫁の三緒と合意の上で交わるのです。「儀式のようにして行われたそのことの最中に三緒の躰は不意に取り乱して歓びに奔った」のです。翌朝三緒は懐剣で喉を突いて自害します。驚愕した篤之介は飛び込んできて自害を知りますが、範兵衛は眉も動かしません。

試合で範兵衛は清家猪十郎を「ただ一撃」であっけなく勝ちます。それからは、ぼんやり庭や空を眺め、やがて雪が振ると部屋に閉じ籠って、行火を抱いてうつらうつらと眠る日課です。範兵衛は急速に老いていきます。「ただ一撃」とは嫁女三緒との交わりを暗示しているかのようです。

結末の文は憎たらしいほど見事です。江戸時代を舞台として老人の性というきわめて現代的課題に迫ります。現代小説では醜くなりがちな話を持ち前の筆力で、いざとなると大胆な女の可憐さを描くこの作品は秀逸といえましょう。

      (2023年11月5日 大和田囲碁同好会 成田 滋)

読書感】「暗殺の年輪」 藤沢周平

端正で凛とした文体で知られる作家藤沢周平の名作の一つといわれる武家ものの短編小説「暗殺の年輪」を紹介します。

海坂藩士・葛西馨之介が主人公です。成長するにつれ、周囲が向ける冷ややかな笑いの眼を感じるようになります。そして仲間から孤立していきます。剣友仲間に貝沼金吾がいます。あるとき金吾に誘われて貝沼家の奥屋敷へ行くと、3人の家老たちが待っています。一人の郡代が馨之介を見ていいます。
「これが、女の臀ひとつで命拾いをしたという倅か、よう育った。」この野卑で無思慮な一言が馨之介の胸を貫きます。

剣技を見込まれた馨之介は、藩執行部の反対派である家老の水野から、藩政の実権を握る重役の嶺岡兵庫の暗殺を引き受けろと言われます。20年もの昔、父の葛西源大夫は、藩内の派閥争いにからんで中老の嶺岡兵庫の暗殺にかかわり、失敗して横死します。その事件ののち、幼い馨之介の命と家名を救おうとして嶺岡に肌を許したと噂されたのが母の波留です。その秘密を知った馨之介は、母に問い詰めるのです。

波留の顔色はほとんど灰色で、眼のまわりはくすんでいます。まるで老婆のようです。
 母 「お前のためにやったことですよ。」
 馨之介「ずいぶんと愚かなことをなされた。」
 馨之介「そのために、私は20年来、人に蔑まれてきたようだ。」

夫の敵に身を任せ、じっと耐えてだれにも秘密を明かすことなく生きてきた波留は、悲哀を一杯に溜め込み家の守りをやり通すのです。男以上の豪毅さを感じさせてくれます。

浴びるほど酒を呑んだら苛立たしく募ってくる母への憎悪も幾分晴れそうだと、いきつけの飲み屋に行きます。したたかに呑んで家に戻ると血の匂いがします。奥の間の襖を開くと、むせるような血の香がそこに立ちこめています。掌に懐剣を持って自害した母の姿があります。穏やかな死相をしています。馨之介は立ち上がると嶺岡兵庫の刺殺を引き受ける覚悟を決めるのです。

馨之介は汚名を晴らすのですが、やがて父と同じ罠にかかったことを知るのです。それは、剣友仲間の貝沼が水野家老とともに、自らの手が動いた痕跡を消すために馨之介の口をふさごうとする策動です。口をふさげば、馨之介の死が父源大夫の横死に絡む私怨から嶺岡を刺殺したと雄弁に語ることになるのです。

家名を残すための、馨之介の母の哀しい行動が端正な文章で描写されています。軽侮され続ける馨之介が簡潔で無駄なく記述されています。そして汚名を晴らすはずが、策略に乗せられた馨之介の憤りが凛として描かれています。ほの暗く哀切を感じさせる一作です。

            (2023年11月4日  成田 滋)

【風物詩】その六「らんまん」から 

毎日朝ドラを観ております。私の親しい友人が高知にいて、彼に案内されて県立牧野植物園を訪ねたことがあります。市内の五台山の広大な敷地にある素晴らしい施設です。牧野富太郎は、東京大学理学部植物学教室への出入りを許され、植物分類学の研究に打ち込みます。自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に、新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけます。やがて「日本の植物分類学の父」と呼ばれます。「らんまん」は牧野の生誕160年を記念して製作されたようです。

「らんまん」の舞台は明治の後期です。小学校を中退し、やがて東京帝国大学理学部の植物学教室に出入りを許されるという筋書きです。天下の帝国大学という序列の厳しい縦社会の組織で、研究に没頭する涙ぐましい姿が描かれます。いかに研究中心の組織とはいえ、帝国大学を頂点とする封建的な組織というのは、上意下達の軍隊組織のように、秩序を乱すことは許されない洗脳されたような社会です。

私もある国立の研究所で小さな縦社会の裏側を経験したものです。いっぱしの研究者として、業者から支援を受けて物品を供与されたり、海外での学会発表に出掛けることもありました。研究では研究費を獲得することが仕事の1つでした。私は上司からみると組織をはみ出す「出る杭」であったようです。そのため「蟄居」を命じられたことがあります。蟄居とは謹慎のことです。

高知県立牧野植物園

その後研究所を去って、兵庫県にある小さな国立大学で職に就きました。「出る杭は抜かれ捨てられる」ような有様でした。ですが兵庫で始めて組織のなかでも自由な空気を吸うことができました。誰の指図もなく、獲得した研究費を好きなように使えるのです。研究費は税金の一部であります。自己管理が要求される社会ですが、自分の研究が社会にどのように貢献したか、を問われるとあまり自信がないのが少々歯痒いです。

【風物詩】その五 「ありがとう、ご苦労さん、ごめんなさい」

1973年頃那覇市にいたとき、共同住宅の自治会で琉球大学の教官をしていた浅野さんと知り合いました。本土復帰を終えて、私を含め住宅には那覇市内のいろいろな官庁に出向してきた「ヤマトンチュ」がいました。「ヤマトンチュ」とは沖縄方言で、本土からの人といういう意味です。住宅内に琉球の歴史や文化を学ぶなどいくつかのサークルができました。1964年から65年にかけて県内で流行した風疹により聴覚などに障害のある「風疹児」や障害児の勉強グループもできました。

浅野さんの奥さんの旧姓は根間さんといい、琉球大学を卒業後、国費で国立女子大の大学院で障害児教育を研究したということを知りました。私は小さな幼稚園を開設し、そこに知的な障害のある子どもを受け入れることにしました。根間さんの依頼で一人の発達障害の子どもを預かりました。指導の仕方の基礎を学んでいなかったのでお手上げで、暫くして子どもは幼稚園を退園していきました。その頃、「自閉症は増えている」という本を手し、子どもの発達を真剣に学ぶ必要性に駆られました。幸い国際ローターリークラブより奨学金をいただき、ウィスコンシン大学で障害児教育を学ぶ機会が与えられました。それから6年余り経って文科省の特殊教育の研究所に就職しました。

斎場御獄–南城市

最近、浅野さんご夫妻が綴ったブログを発見しました。お二人は現在、本島の東側、知念半島にある南城市にお住まいです。知念半島には。世界遺産の斎場御獄 グスク、神の島といわれる久高島などの史跡に恵まれています。私と同じ年頃のご夫妻のブログの中で興味ある記述がありました。二人はある約束をしたというのです。「ありがとう」「ご苦労さん」「ごめんなさい」という言葉を日常生活で互いに交わそう、というのです。ご主人はこうした言葉は夫婦間で使っていなかったので、最初は大分ためらったとか。今では慣れてスイスイ口からでてくるというのです。示唆に富むエッセイでした。

【風物詩】その四 庭木の剪定

先日、シルバーセンターの人達がきて、マンションの剪定作業をしてくれました。全体で3日間の作業でした。毎年2回で同じ剪定業者なので、作業員の方々とは顔見知りとなっていました。

一階に住む私の庭にきたので、まず剪定して欲しい木とそうでない木を相談します。柿、オリーブ、金柑、無花果は剪定しないように依頼します。こうした木は、7〜8年前に苗木を買ってきて植えたものです。柿などは収穫が終わる秋には、自分で剪定作業をします。この剪定のコツや仕方はYoutubeで学んでいます。木の種類ごとに作業の仕方が丁寧に説明されるので大変参考になります。

作業員の方々によると、剪定の適当な時期は年に夏と冬のようです。夏におこなうのは弱剪定、冬におこなうのは強剪定というのだそうです。弱剪定では、軽めの剪定をおこない、長く成長しすぎた枝や葉を切ることです。それによって風通しや日当たりをよくします。強剪定のおもな目的は、樹高や樹形の調節と生育の促進のためで、高くなりすぎた枝を落とすとか、不用な枝を取り除くことです。樹木は上部のほうが成長しやすく、下にいくにつれて成長スピードが遅くなります。そのため上部の枝を強目に剪定し、下部の枝を弱目に剪定するのがコツといわれます。

【風物詩】その三 野菜作り

今年も野菜作りは収穫の最盛期を迎えました。ミニトマトは10本の苗からたわわに実ってとても老夫婦二人では食べきれません。近所にお裾分けをしています。ゴーヤは西側の窓際に植えて、カーテンのような日蔭としています。ゴーヤは細長いものと、丸みのあるものを植えて収穫し始めました。ゴーヤは琉球にいたとき、はじめて食したものです。茗荷もぼつぼつでてきています。茗荷は刻んで素麺のタレにそえ、ピリッとした香りを楽しみます。

今年はキュウリやゴーヤは種から苗を作りそれを植え替えて,見事に大きくなっています。成長が早いので表面がとげのあるうちに収穫します。キュウリの粕漬けは美味しいものです。茄子は生協店で売っているような立派ななりではありません。水やりは毎日欠かさないのですが、なぜか固いのです。

家庭菜園は楽しい

ハウスものの野菜は、温度や水量が管理され、肥料も調節されているので、立派なものができます。それに対して、家庭菜園は自然の成り行きに任せるので、虫もやってきます。ですが薬は決して使いません。見栄えは色も形も大きさもいまいちですが、無農薬だけは自慢できることです。

庭が狭いので8つのプランターを使い、主に葉野菜の種を植えています。この場合は「元肥入り」や「初期肥料配合」と記載されている培養土を使うようにしています。間引きしてから茎を大きくし、ときどき追肥します。茎ブロッコリーも成長が早いです。葉野菜でサラダなどを楽しんでいます。

【風物詩】その二 「Walkability」と「Mobility」

このところ自転車に乗るときは、ヘルメットを被ります。5年ほど前に購入したものですが、最近の改正道路交通法の施行に関するニュースで、改めて倉庫にあったものを被っています。

乗っている自転車は2台。1台は父親譲りで20年ものの骨董品、もう1台は3段ギアの新車です。ちょっとした買い物のときは骨董品のを、遠出のときは3段のに乗ります。時々近くの自転車店で空気を入れますが、骨董品のは実に頑丈でまだまだ乗れるとのお墨付きをもらっています。最近の自転車は価格は安いのですが、作りがいわば、チャチだそうです。

もっぱら自転車を利用しているので、自動車には滅多に乗りません。駐車場の問題がほとんどないのが自転車です。最近は自転車専用レーンもつくられて、自転車の利用を推進しています。それで思い出すのが、15年前にオランダのアムステルダムに行ったときです。丁度夕食のレストランに行ったのですが、顧客は合羽を着て自転車でやってくるのです。雨の日には自転車は避けるものだ、という先入観があります。オランダのどの街にも自転車道があり、自転車の利用が半端でないことを知りました。自転車道は、自動車道や歩道とそれぞれ物理的に分離しているのです。

アムステルダムの街

「Walkability」とは徒歩か自転車での移動、「Mobility」は自動車を使った移動という意味です。自転車の利用を促進するには、専用レーンや路上に自転車のアイコンを貼る、などの配慮が大事です。「カーボンニュートラル」の実現には、移動は車を控えて、公共交通機関や自転車を使うことが求められています。これは誰しもができる小さな行動です。

【風物詩】その一 コロニアルスタイル

地も空も焼きつくすような凄まじい酷暑のあとに、一夜の小雨がやってきて、八王子の街も急に秋の気配に包まれたようです。時おり吹きすぎる風がいやに涼しく、萎れたキュウリの葉がピンともとどおりになりました。今朝はもう昨日までの夏の陽ざしではありません。梅雨がまだ明けないというのに、妙におかしな天気です。39度を記録したとか。

隣り近所からは、改築か新築らしいのか、柱を組み合わせる小槌の音が響きます。木材の音は、金属音と違い心地よいものです。夏は涼しく、冬は暖かいのが木造の家です。今住んでいマンションは、日蔭の側でも、壁を手でさわると生暖かいのです。すっかり暖まっているのはコンクリートのせいです。

木造の家のことです。長男夫婦はボストンの郊外で築後80年になろうかという家に住んでいます。二人の息子は大学生となり家にはいません。彼らの家はコロニアル・スタイルという17~18世紀にイギリスの植民地のアメリカで発達した建築や工芸の様式です。建物は正面にポーチがつき、大きな窓やベランダがあるのが特徴です。コロニアルとは植民地という意味です。

ボストン郊外の長男宅

数年前に訪ねたとき、丁度断熱材をいれる工事をやっていました。私は二階の寝室の壁に新しい断熱材をいれるを手伝いました。古い材料をかたづけるのも厄介でした。長男はホームセンターで大工に指示された材料を買ってきます。木材はシロアリ対策のためにすべて防腐剤が施されているとのこと。防腐剤は有害なので、勝手に燃やしたりすることは禁止されているようです。大工は、大事な箇所を受け持ち、その他は長男が自分で受け持つという、いわばDIY (Do It Yourself)を地で行くような工事です。

あとで聞いたことですが、長男は息子たちとでガレージの大きなドアを付け替えたというのです。ドアの開閉は、車内からコントローラーで操作します。こんな工事まで自分たちでやるのは、アメリカはでは決して珍しいことではないようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その76 アメリカの自治領 その五 アメリカ領サモア

アメリカ合衆国の州に付けられている愛称を取り上げて歴史や地理を辿ってきました。76回の今回で終わりとします。アメリカ領サモア(American Samoa)は、太平洋の南西、ハワイとニュージーランドの中間に位置するサモア群島は紀元1000年以上前から人々が暮らしていましたが、ヨーロッパ人によって発見されたのは18世紀になってからです。主都はパゴパゴ(Pago Pago) 5つの島とローズ環礁(Rose Atoll)など2つの珊瑚礁からなります。

サモアは、ポリネシア文化を体験できる場所といわれ、トゥトゥイラ島(Tutuila Island)、タウ島(Ta’u Islands)オフ島(Ofu Island)の各島の一部は、アメリカンサモア国立公園(National Park of American Samoa)に指定されています。

サモアを巡る列強による争いの歴史です。サモアでのキリスト教宣教活動は、ロンドン宣教師協会(London Missionary Society)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)がクック諸島(Cook Islands)とタヒチ(Tahiti)から到着した1830年後半に始まります。 19世紀後半までに、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの船舶は、パゴパゴ港を石炭燃料船と捕鯨のための給油所として評価し、サモアに日常的に停泊していたようです。1839年にアメリカ合衆国の探検隊がこの島々を訪れたという記録もあります。

1889年3月、ドイツ帝国海軍部隊がサモアの村に入り、その際、アメリカ人の財産を破壊します。その後、3隻のアメリカ軍艦がアピア港(Apia)に入港し、そこにいた3隻のドイツ軍艦と交戦する準備をしていました。しかし、交戦する前に台風が来て、アメリカとドイツの軍艦は大破します。そのために両軍はやむなく休戦したとあります。

20世紀に入り、国際的な対立は、1899年にドイツとアメリカがサモア諸島を2つに分割する三国間条約によって決着します。 東部の島々はアメリカの領土となり、現在アメリカ領サモアとなっています。西部の島々はドイツ領サモアとして知られるようになります。こうした協議は、1887年のワシントン会議、1889年のベルリン条約、1899年のサモアに関する英独協定の3つです。アメリカは、東部の小さな島々を正式に併合し、そのうちの一つには有名なパゴパゴ港(Pago Pago)があります。アメリカ海軍がサモア東部を所有した後、パゴパゴ湾の既存の捕鯨基地は、アメリカ海軍ツツイラ基地(Tutuila)として拡張されます。

アメリカ領サモアは合衆国議会により自治法 (Organic Act) が制定されていない非自治的領域 (unorganized territory)となっています。1967年7月1日に発効した憲法によって自治政府が成立し、領内の行政執行権は準州知事が、立法権は自治領議会が担っています。住民はアメリカの国籍を持ちますが、市民権はありません。なんとも不思議なことです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その75 アメリカの自治領 その四 北マリアナ諸島

北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)は、サイパン島(Saipan)やテニアン島(Tinian)、ロタ島(Rota)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島のススペ(Susupi)です。小笠原諸島の南側に連なるミクロネシア最北端の島や北から南へ15の島が並びます。

Map of Saipan

マリアナ諸島の歴史です。東南アジアから渡って来たチャモロ人(Chamorro)が定住し、古代にはタガ王朝(Taga Dynasty)が成立します。1521年にマゼランがグアム島にやってきます。1668年からカトリックの布教が始まります。当時のスペイン皇后マリアンナ(Mariana)を記念して命名されたのがマリアナ諸島です。1565年には全島がスペインの支配下に入りますが、チャモロ人の反乱は絶えず、スペインーチャモロ戦争が勃発します。1698年には全島民がグアムに強制移住させられるという歴史を辿ります。

戦前のサイパン

1898年、米西戦争の結果マリアナ諸島はカロリン諸島(Caroline Islands)とともにドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本の国際連盟委任統治領となります。当時は「南洋諸島」と呼ばれた地域です。日本の委任統治下で、サイパン、テニアンではサトウキビ農場の開発に成功します。サイパン島では1934年に砂糖生産のために南洋興発という会社が設立され、砂糖キビを運搬する鉄道も敷設され1944年まで使われます。今も砂糖王公園(Sugar King Park)があります。

太平洋戦争中、サイパン島やテニアン島は住民を巻き込んだ日米の地上戦が展開されました。統治下のパラオ諸島(Palau Islands)に優る繁栄をします。1978年、他のミクロネシア地域から離脱し、自治政府をつくり1986年アメリカの自治領となります。北マリアナ諸島の住民は、アメリカの市民権を有しています。マリンスポーツ、キューバ・ダイビングなど観光が主な産業で日本人旅行者も絶えません。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その74 アメリカの自治領 その三 グアム

マリアナ諸島(Mariana)の南端に位置し、ミクロネシア(Micronesia) では最大の島がグアム(Guam)です。その大きさは淡路島よりやや小さいようです。南北に細長く、北部は高原で南部は密林に覆われています。1521年に世界一周途上のマゼラン(Magellan) によって発見され、1668年に正式にスペイン領となります。米西戦争の結果、1898年にアメリカ領となります。1941年から3年間は日本軍が占領します。現在は、太平洋の交通の要所で、軍事的、経済的な重要性を有しています。今はアメリカの準州で主都はアガニア(Agana)となっています。住民はチャモロ族(Chamorro)です。

グアムにおいて最初に宣教活動をしたのはフランシスコ派のカトリック教会です。イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父(Diego Luis San Vitores)は1668年からグアム島で約4年間、布教に献身し殉教した伝説的な人物です。ビトレスは、グアムの中に会堂を建てます。その最も大きく最も格式が高いのがハガニア大聖堂(The Dulce Nombre de Maria parish)です。場所は、グアムの首都ハガニアにあるスペイン広場の東側に位置しています。1672年にビトレスは、酋長の子どもに洗礼を強行したとして殺害されます。それが契機となり、グアムやマリアナ諸島は、チャモロとスペイン軍の間の戦争が勃発し、それが終結するまでに 20 年以上かかったといわれます。

Map of Guam

隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルス(Common Wealth)と呼ばれる準州となります。その動きを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた推進運動が起こります。しかし、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否します。運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、あるいは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置いているといわれます。日本、アメリカによる統治を経て、現在もアメリカの未編入領土であるグアムは、未だにコロニアリズム的状況(Colonialism)から脱却できていないといえそうです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その73 アメリカの自治領 その二 プエルト・リコ

プエルト・リコ(Puerto Rico)は、カリブ海(Caribbean Sea)北東に位置する合衆国の自治的・未編入領域でコモンウェルス(Common Wealth)という政治的地位にあります。プエルト・リコ本島、ビエケス島(Vieques)、クレブラ島(Culebra)、モナ島(Mona)などから成ります。主都はサン・フアン(San Juan)となっています。多くの島から成るプエルト・リコでは、今でも建築、食べ物、音楽、言語にさまざまな形でスペインの伝統が色濃く残っています。英語も広く話されており、島全体でアメリカドルが流通しています。

Map of Puerto Rico

1493年11月のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が進められ現在に至っています。スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」(rich port)を意味しヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族(Taíno)によってボリケン (Borikén)、またはボリクアス (Boricuas) と呼ばれていました。ボリケンとは「勇敢なる君主の地」(Land of the Valiant Lord)を意味します。現在のプエルト・リコの名称は、一説にコロンブスがサン・フアンに入港した時に「Qué Puerto Rico!」(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれています。

1898年の米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico, Rich Port) と地名表記も英語化されますが、プエルト・リコ人の感情に配慮して1932年にプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになりました。スペインではプエルト・リコは「魅力溢れる島」(island of enchantment)と呼ばれます。

パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコ内では、フォラカー法(Foraker Act)によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体されます。プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となりました。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全・独立派や合衆国への編入派が今もしのぎを削っています。

島内にはいろいろな史跡があります。サン・ファンにあるエル・モロ砦(Castle El Morro)はスペイン軍が、フランス、イギリス、オランダやカリブの海賊達などの敵対勢力から、サン・ファンの街を守るために建てたカリブ最強の砦と言われた要塞です。1539年頃建設が始まり、1790年頃に完成したという記録があります。今は、ユネスコの世界遺産となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その72 アメリカの自治領 その一 北ヴァージン諸島

州の愛称をたどってアラバマ州からワイオミング州、そしてワシントンD.C.までやってきました。合衆国の州に準ずる地域、あるいは本土未編入の自治領的な仕組みは、コモンウェルス(Common Wealth)とか、準州と呼ばれます。アメリカでは自治が認められている地域がいくつかあります。北ヴァージン諸島(Virgin Islands)、プエルトリコ(Puerto Rico)、グアム(Guam)、北マリアナ諸島(Northern Mariana)、サモア(Samoa) といった地域です。今回からは、順番にこうしたアメリカの自治領を紹介します。まずは北ヴァージン諸島です。

カリブ海(Caribbean Sea)の東端から東南端にかけて分布する諸島である小アンティル諸島(Lesser Antilles)がヴァージン諸島といわれます。その西側半分は約50の島々からなるアメリカ領で、東側半分は約60の島々からなるイギリス領となっています。アメリカ領とイギリス領に人が住むそれぞれ3つある主な島以外は、ほとんど無人島です。

Virgin Islands in Caribbean Sea

北ヴァージン諸島のような自治領とは、その地域の政治や行政などを主権国家の許可を得ずに行うことができる体制です。国家は主権を持っていますが、自治領は主権は持っていません。主権というのは、「領土・領海・国民・国家体制」などを支配する権限のことを指します。北ヴァージン諸島の人口は102,000人ほどで、サトウキビ栽培を中心に農業従事者が多いのですが、近年は観光への投資が盛んなところとなっています。火山島と珊瑚礁が多く、亜熱帯に属しますが貿易風のおかげでしのぎやすい地帯といわれます。

観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)です。セント・トーマス島には、ブラックビアーズキャッスル(Blackbeard’s Castle)とか 99 段の階段といった見どころがあります。空中トラムのスカイライド(Skyride)も知られています。セント・クロイ島のクリスチャンステッド(Christiansted)では、デンマークがこの地域に及ぼした影響を18 世紀の建築物の街並みから体感できるといわれます。

Harry Belafonte

北ヴァージン諸島は、少々大袈裟ですが「アメリカの楽園」とかカリプソ音楽(calypso)の発祥地などといわれます。カリプソはカーニバルで発達した音楽ジャンルで、リズムは4分の2拍子となっています。カリプソの歌詞は、島の生活に関連するあらゆる話題に及ぶようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その71  ワシントンD.C.

合衆国首都のワシントン.(Washington District of Columbia)は、通称ワシントンD.C.と呼ばれています。D.C.は連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

ワシントンD.C.には、他にも多くの記念建造物やスミソニアン博物館(Smithsonian Museum)などが立ち並んでいます。172か国の大使館に加え、世界銀行(World Bank)、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行(IDB)、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれています。労働組合、学術などロビイストの各種団体本部もこの地に居を構えています。連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界的都市で、また金融センターとしても重要な街です。首都としての機能を果たすべく設計された計画都市ともいわれています。

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)も卒業生です。

Rev. Martin Luther King, Jr.

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その70 『Equality State』とワイオミング州

アメリカで最も人口が少ないワイオミング州(Wyoming)は、手つかずの自然が非常に多く残っている州でもあります。ワイオミングとはアルゴンキン語族(Algonquian)インディアンの言葉で「大平原」を意味し、州の東側3分の1はハイプレーンズ(High Plain)と呼ばれ、広大なグレートプレーンズの西部にあたる標高の高い平原地帯が広がっています。

白人の到来以前、プレーリーに大群をつくって生息していたバイソン(bison)をねらい、18世紀の中頃からフランス人毛皮商人が、フォートララミー(Fort Laramie)と名付けた交易所が作られます。19世紀の中頃、白人の侵入に対するインディアンの怒り高まります。レッドグランド(Red Grand)に率いられたスー族(Sioux)とシャイアン族(Cheyenne)の戦士たちが1876年まで合衆国軍隊と戦うという歴史が残っています。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)は、その事実を取り上げた作品です。

Dances with Wolves

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。

イエローストーンには熱湯を噴出する間欠泉や、カラフルな熱水泉が点在しています。間欠泉ではオールドフェイスフル(Old Faithful Geyser)が世界的に有名です。「faithful」とは「忠実に」を意味し、一定間隔で忠実に噴出することを指します。熱水泉ではグランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)が特に人気があります。

Dances with Wolves

州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の廷吏となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie T. Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが会った州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その69 『Easy Rider』が今に伝えるもの

ウィスコンシン州の紹介が、ハーレー・ダビッドソンに移り、映画『Easy Rider』へ行き着くという不可解な展開です。舞台は1965年前後のアメリカ社会です。この映画は、アウトローと呼ばれた若者の生き方を通じて、支配的だった白人至上主義、権威主義等によって現実に起きている問題の不可思議さ、残酷さを表現するというコンセプトで作られています。こうした問題提起を行ったアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群は広く大衆に支持され、現実社会の人権に対する意識の高まりに見事に寄与しています。それでは「Easy Rider」のあらすじです。

ワイアット(Wyatt)とビリー(Billy)は自由奔放な青年です。メキシコからロサンゼルスまでコカインを密輸した後、そのコカインを売って大金を手に入れます。ワイアットの乗るチョッパーバイクの星条旗柄(Stars & Stripes-painted)の燃料タンク内に隠されたプラスチックチューブに現金を詰め込みます。そしてルイジアナ州ニューオーリンズのマルディグラ祭り(Mardi Gras)に間に合うように東へ向かって走ります。チョッパーバイクとは、ヴェトナム戦争によって心が病んでしまった元兵士たちが平和に馴染めず、バイクを盗んで原型がわからないように弄り倒して生まれたスタイルのバイクといわれます。

Steppenwolf

旅の途中、ワイアットとビリーはアリゾナ州の農家でバイクのパンクを修理し、農夫とその家族と食事をするために立ち寄ります。その後、ワイアットはヒッピーのヒッチハイカーを拾い、荒野を走っていくと、大勢の旅人を受け入れているコミューンへとやって来ます。そのコミューンに誘われ、そのまま滞在することになります。リサ(Lisa)とサラ(Sarah) という2人の女性と知り合い、ヒッチハイクのコミューンのメンバーと自由恋愛(free love)を楽しみます。ヒッチハイカーはワイアットにLSDを渡し、「正直な人たち」と共有するように勧めるのです。

その後、ニューメキシコ(New Mexico) でパレードに同乗していた2人は、「無許可パレード」の罪で逮捕され、刑務所に入れられます。そこで2人は、酒に溺れて留置場で一夜を明かした弁護士ジョージ・ハンソン(George Hanson)と知り合います。ワイアットは、アメリカ市民自由連合( American Civil Liberties Union:ACLU)のために働いたことがあるという話をすると、ジョージは2人の出所を助け、ワイアット、ビリーとともにニューオーリンズへ向かうことにします。その夜、キャンプをしながら、ワイアットとビリーはジョージにマリファナ(marijuana)を紹介するのです。アルコール依存症だったジョージは、中毒になってもっと悪い薬物に手を出すことを恐れ試そうとしないのですが、手をだしてしまいます。

ルイジアナ州の小さな町の食堂で3人は、アウトローかつ長髪であるためか、地元の人々にじろじろ見られます。店員の女の子たちは、そんな3人を面白がるのですが、地元の男たちや警察官は、彼らを誹謗中傷し嘲笑するのです。3人は騒ぎを起こさずに立ち去り、町の外でキャンプをします。夜中、地元の男たちは寝ている3人を襲い棍棒で殴ります。ビリーが叫び、ナイフを振り回すと、襲撃者たちは立ち去ります。ワイアットとビリーは軽傷を負いますがジョージは撲殺されます。

ニューオーリンズに向かった2人は、ジョージから聞いた娼家を見つけ、そこの娼婦のカレン(Karen)とメアリー(Mary) を連れて、マーディグラ(Mardi Gras)の祭典でパレードが行われる通りを歩き回ります。4人はフレンチ・クオーター(French Quarter)の墓地にたどり着き、そこでヒッチハイカーがワイアットに渡したLSDを吸うのです。

翌朝、田舎道で古いピックアップトラックに乗った地元の男2人に追い抜かれます。トラックの運転手らは、彼らを脅してやるとショットガンを手にします。ビリーとすれ違ったとき、助手席の男が発砲し、ビリーは転倒します。ワイアットがビリーの元へ戻ると、彼は道端に倒れて血まみれです。自分の革ジャンでビリーの傷口を覆い、ワイアットは、Uターンしてきたピックアップに向かって車を走らせます。今度は運転席側の窓からショットガンが再び発射されます。ワイアットのバイクは宙を舞い、バラバラになって炎に包まれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その68 『Harley-Davidson』とEasy Rider

映画「イージー・ライダー」(Easy Rider) は、1960年代後半からアメリカで作られた反体制的な若者の心情を映したアメリカン・ニューシネマ(American New Cinema)というジャンルの作品です。大衆文化やカウンター・カルチャーの先駆けとなった名作ともいわれ、1965年のヴェトナムへの軍事介入によって、閉塞的な状態になったアメリカ社会に若者たちが抵抗していくのです。やがて反戦運動が全国的な広がりをもつようになり、映画や音楽界にも厭戦ムードが込められていきます。

1960年代のアメリカ社会ではアウトロー(Outlow)の乗り物というイメージの強かったのがハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)です。それに反戦運動が展開するにつれ、徴兵忌避を生み、ヒッピー(Hippy)とかドラッグ(drug)が横行していきます。このようなアウトローの出現が国家権力への静かな抵抗となり、アメリカン・ニューシネマの大きなコンセプトになった考えられます。

冒頭で主人公らがバイクで疾走するシーンに使われ曲は、ステッペンウルフ(Steppenwolf)というロックバンドが演奏する「あるがままに生きよう」(Born to Be Wild)でした。当時、大衆文化およびカウンターカルチャーでバイク乗りの姿や態度を表現するときに、こうしたロック音楽は効果的であったようです。

Easy Rider

「Easy Rider」とは、「仕事をせずにのんびり生きている人」とか、「簡単に落とせそうな女」というアメリカで使われる隠語です。白人主義者たちから差別されても自由を謳歌しながら生きようとする作品です。こうした映画は「ロード・ムービー」(road movie)とよばれ、旅の途中で起こる様々な出来事が展開されるのです。

さて、燃料タンク、ヘルメット、革ジャンの背中に星条旗が貼り付けながら、麻薬の密売に成功し大金を稼いだ2人のバイク乗りが、真のアメリカを発見しようと出発します。「自由を求める旅」ですが、やがてどこにも見付けられないと嘆いていくのです。次回は、「イージー・ライダー」の中味を取り上げます。