常識を疑え

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「事実に基づく報道」というフレーズをしばしば耳にします。公共放送の綱領はそのように謳っています。しかし、このような常識については立ち止まって考える必要があります。本稿はメディア界の常識を考えることにします。

 メディアの常識にはいろいろあります。まず「ニュースは事実を中立・客観的に伝えている」とか「意見が対立する問題では多角的に論点を提示する」といわれます。これは多くの人が無意識に信じている前提ですが、かなり怪しいのです。何故かといえば、報道には必ず次のような工程が入ります。何をニュースにするかという選択、誰が記事を書くのか、次にどの順番で伝えるかという順位、そしてどんな言葉や表現を使うか、最後に誰のコメントを載せるかという手続きです。このような過程では、すでに編集という価値判断が入っています。

 メディアの常識の第二は、「専門家のコメントは信頼できる」という神話です。いろいろな報道や討論系番組が調査や特集型の報道番組があります。よくある構図ですが、そこには特定の立場に近いメディア向けに「使いやすい」人が繰り返し招かれています。政策に近い専門家が呼ばれ、政策を批判する専門家が登場しないのです。テレビ局は「バランスはとった」と主張するようですが、いつも「お抱え」、「お気に入り」のような人間が登場します。このような「常連」からは、論点の深さや前提は検証されないと感じるのです。

 メディアの常識の第三は、「数字やデータは嘘をつかない」というフレーズです。これも強力な常識です。例えば、「2024~2025年時点の政府債務残高対GDP比は250%超で、主要先進国の中で群を抜いて世界最高水準にある」という説明です。しかし、政府の持つ資産を差し引いた「純債務」で見ると、OECD基準では日本はイタリア等より低いのです。つまり、どの数字を使うか、比較対象を何にするかによって見方は異なるのです。

 日本の国会議員は多すぎる、公務員数が多すぎる、公務員の給与は高すぎる、公共投資が多すぎる、といった常識は、国際比較をすれば間違いであることは明らかなのです。「失業率は改善している」という報道があったとします。この場合、非正規や短時間労働を含めると実態は不確実ではないかという疑問が浮かびます。「支持率◯%」と報道されても調査方法や標本の選び方、その母数、質問文の内容が分からないと失業率の報道は信頼できません。

 メディアの常識の第四は、「報道機関は権力を監視する存在である」といわれることです。確かに理念としては正しいようですが、現実はかなり複雑です。報道機関は、政党や政府の監視を受けています。例えば、過激な報道をすると「放送権を取り上げる」と脅されることもあります。結果として本質的に危険な話題は避け、対立を「分かりやすい対立構図」に単純化する傾向が生まれます。

 メディアの常識の第五は、記者クラブ制度による報道内容の均一性ということです。記者クラブは日本の官公庁や企業に大手メディアが常駐し、情報提供や記者会見を独占する特権的構造が、閉鎖的で権力との癒着を招いている問題です。フリーランスや新興メディアを排除し、発表中心の「発表報道」による監視機能低下が問題視されています。取材機会の不平等も長年批判されています。さらに報道機関は、視聴率やクリック数企業や広告主との良好な関係を保たないと番組のスポンサーから降りられます。こうした利益誘導によって迎合的な姿勢をとってしまいます。

「常識を疑う」とは、メディアを敵視することではなく、距離をとることです。なぜ今これを報じているのか?、誰かの視点が欠けていないか?、逆の立場から見るとどうなる?、というように立ち止まって自問自答することです。いわゆるクリティカル・シンキング(critical thinking) が大切です。

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合衆国のアファーマティブ・アクションの歴史

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積極的差別是正措置とか積極的格差是正措置とかの英語は「アファーマティブ・アクション(affirmative action)」といいます。政府または組織が制度的差別に対処しようとする一連の政策と慣行を指します。歴史的にも国際的にも、アファーマティブ・アクションへの支持は、雇用と賃金の不平等の是正、教育へのアクセスの拡大、多様性、社会的平等、社会的包摂の促進、そして不当、損害、または実質的平等とも呼ばれる阻害の是正に役立つ可能性があるという考えによって正当化されてきました。過去の差別により不利益を被ってきた女性、マイノリティ、障害者などに対し、実質的な機会均等を実現するため、雇用や教育の場で特別な優遇措置や優先枠を設ける取り組みのことです。

BBCより引用

 アファーマティブ・アクション政策の性質は地域によって異なり、厳格な割当制から、参加促進を目的とした奨励のみを目的とするものまで、様々な形態があります。一部の国では、割当制を採用しており、特定のグループのメンバーのために、政府職、政治的地位、学校の空席の一定割合を確保しています。

 割当制を採用していない他の領域では、少数派グループのメンバーは選考プロセスにおいて優先権または特別な配慮を受けています。合衆国では、大統領令による積極的差別是正措置は、当初は人種に関わらず選抜を行うことを意味していました。そして大学入学選抜においては、2003年の最高裁判所のグラッター対ボリンジャー(Grutter v. Bollinger)事件起こります。ミシガン大学ロー・スクールを受験しますが不合格となった原告は、大学側が人種的少数派を優遇し、成績の良い白人応募者を差別すのは、合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に違反しているとして訴えます。 最高裁は5対4の僅差でロー・スクールの入試政策は合憲であると裁決したのです。

 2023年に学生公正入学協会対ハーヴァード(Students for Fair Admissions v. Harvard) 事件でこの判決が覆されるまで、この優遇措置は広く実施されていました。この事件は、ハーヴァード大学が入学選考で人種を考慮するアファーマティブ・アクションがアジア系への差別にあたるとして争われた訴訟です。2023年6月、最高裁はこの選考基準が「法の下の平等」に違反し違憲であるという画期的な判決を下すのです。

 合衆国では、以上のように積極的差別是正措置は議論の的となっていて、この問題に関する世論は分かれています。アファーマティブ・アクションの支持者は、それが集団の実質的な平等や社会的経済的に恵まれない集団や歴史的に差別や抑圧に直面してきた人々の権利を促進すると主張します。アファーマティブ・アクションに反対する人々は、それが逆差別の一形態であると主張するのです。アファーマティブ・アクションは、多数派集団内の最も恵まれない人々を犠牲にして、少数派集団内の最も恵まれた人々を利益にする傾向があると主張して反対するのです。

(Lighthouse Haeaiiより引用)

 ヨーロッパにおける一般的に見られる積極的差別是正措置は、ポジティブ・アクション(positive action)として知られており、これは、少数派集団を特定の分野に参入させることで機会均等を促進するものです。ポジティブ・アクションには多様な手法があり、例えば、各団体、企業、大学、研究機関などの特性に応じて次のような方法をとります。
 (1) 指導的地位に就く女性等の数値に関する枠などを設定する方式で「クオータ制」と呼ばれ性別を基準に一定の人数や比率を割り当てる手法です。
 (2) ゴール・アンド・タイムテーブル(goal and timetable) 方式は、指導的地位に就く女性等の数値に関して、達成すべき目標と達成までの期間の目安を示してその実現に努力する手法のことです。

 わが国における女性の参画は徐々に増加していますが、他の先進諸国と比べて低い水準であり、残念なことにその差は拡大しているといわれます。ただ、史上初の女性内閣総理大臣の登場で男女共同参画の国民感情と不平等解消の諸政策は推進されるかもしれません。

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外来語の動詞化とノリ

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このところ若者だけでなく中年の主婦が「あの品物をググってみた」と使うのを耳にします。先日アメリカの友人が、スーパーボウルの話題について「You should be able to google the article of NFL. 」(NFLの記事を検索できるぞ)と書いてきました。今や「 google」も動詞化されているのです。言葉は生き物ですから、多様に変化するのは当然としても、こからどこまでこうした単語が動詞化され、愛嬌とおかしみという「フラ」が生まれるかは興味あることです。

 動詞化にはいくつかの現象があります。第一はサービス名の外来語が動詞化することです。それは特にITとかSNS系が多いことです。前述の「ググる」の他に「ラインする」、「ズームする」、「ウーバーする」、「インスタる」、「ブックする」といった具合です。第二は、若者の言葉が俗語としての動詞化することです。くだけた会話でよく使われます。「バズる」、「ミスる」、「ディスる」、「パニクる」、「メモる」、「トラブる」「ハモる」、「バズる」というように「〜る」をつけて五段動詞化するのが特徴です。ちなみに、「バズる」とは蜂の羽音を表現するざわめき「buzz」という用語からきたものです。

 第三は、表現が意味する行為がはっきりしていて、操作したりアクションすることが想像できることです。「to friend 」という言い方は「友達に追加する」という意味であり、「to DM」は「ダイレクトメッセージを送る」ということです。」このような使い方は、「何をしたか」が説明なしで伝わり動詞にしやすいのです。会話の途中で「とっさに使いたい」という場面が多いのが特徴となります。「あとでググるわ」、「もうフレンドした?」、「それDMして!」というように会話でとっさに使いたいときに出てくるのです。

 第四は、代替語がないとか用語が定着していないと、名前がそのまま動詞になる場合です。例えば、「to photoshop」は「写真を加工する」、「to uber」は「アプリで車を呼ぶ」とか「アプリで配達してもらう」とい按配です。ついでですが、Uberが日本で急速に浸透したのは、コロナによる強制的な生活変化、出前文化との相性、決済環境の成熟、配達員や店舗の参加しやすさということのようです。スマホの普及と共に日本の「宅配文化」と相性が良かったのです。

 日本人はもともと時間厳守や出前、口コミが重視されてきました。言葉の動詞化はそうした文化の合理性とノリの両方で進化しているのが面白いところです。

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ダイバーシティとは

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詩人金子みすゞの著作「私と小鳥と鈴と」の中に、有名な「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」というフレーズがありました。本稿は、多様性とか「みんなちがっていい」というダイバーシティという話題です。

金子みすゞ

英語の多様性(diversity)の語源は、ラテン語の「diverstias」に由来するといわれます。 diversitas は、動詞 divertere(向きを変える、離れる)から派生した形容詞です。興味あることですが、もともともは「一致可能なものに反すること(Difference)、矛盾とか対立するもの、一致しないもの」といった消極的な意味を有していたとされます。それと同時に「相違、多様、様々な形になる」という意味も併せ持っていたともいわれます。

17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のように使われるようになった多様性とは、性別、民族、人種、性的指向、年齢、障害、文化、階級、宗教、その他の人生経験など、より広範なコミュニティ全体を反映しているかどうかを指します。2001年11月にユネスコ(UNESCO)の「文化的多様性に関する世界宣言」の第一条では、「生物的多様性が自然にとって必要であるのと同様に、文化的多様性は、交流、革新、創造の源として、人類に必要なものである。この意味において、文化的多様性は人類共通の遺産であり、現在及び将来の世代のためにその重要性が認識され、主張されるべきものである」と規定されています。

1992年6月に締結された「生物の多様性に関する条約(Convention on Biological Diversity)」の前文は、「締結国は、生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し」という表現を使い次のような多様性をうたっています。

■ジェンダーの多様性(Gender diversity):
 特定の集団における男性、女性、およびノンバイナリー(nonbinary)の個人の代表性を意味します。`
■年齢の多様性(Age diversity):
 様々な世代の個人を包含できるように年齢分布を示します。
■人種的および民族的多様性(Racial and ethnic diversity):
 集団が国民的または文化的伝統を共有する個人で構成されているかどうか、あるいは多様な出身地や背景を持つ個人で構成されているかどうかを評価します。
■身体能力の多様性(Physical ability diversity):
 目に見える障害と目に見えない障害のある人々の視点とそうした人々の役割や貢献を考慮することです。
■神経多様性(Neurodiversity):
 Neuro(脳・神経)とDiversity(多様性)の2つを組み合わせた造語で、「脳や神経、それに由来する個人レベルでの様々な特性の違いを多様性と捉えて相互に尊重し、それらの違いを社会の中で活かしていこう」という考え方です。特に、発達障害において生じる現象を、能力の欠如や優劣ではなく「人間のゲノムの自然で正常な変異」として捉えるという概念で「ニューロダイバーシティ」と呼ばれています。

金子みすゞが言わんとしたことは、人種や身体の特徴、感じ方や考え方、そして得意、不得意。これらがみな異なるからこそ、私たちは互いに助け合うことができるということです。「ダイバーシティ」とか「多様性」という概念を先取りした金子みすゞの発想に敬服するものです。私たち一人ひとりの多様さや違いは、この社会全体にとって、必ず意味があり、不可欠なものといえます。

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サステナビリティとは

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新しい概念が英語圏から次から次へと入ってくる時代です。IT、ビジネス、国際政治、環境問題などの分野がそうです。今回は、最初から英語で生まれた考え方である「サステナビリティ(sustainability」という用語を取り上げます。

サステナビリティは「持続可能性」と訳されています。この概念は、現代の環境運動によって注目を集めました。この運動は、資源の利用、成長、消費のパターンが生態系の健全性と将来世代の幸福を脅かす現代社会の持続不可能な性質を非難したことで注目されます。持続可能性は、短期的で近視眼的で無駄な行動に代わる選択肢として提起されています。さらに既存の制度を評価する基準としても持続可能性が取り上げられます。つまり、社会が目指すべき目標として機能するものだと考えられています。

持続可能性はまた、既存の社会組織の形態を検証し、それらが破壊的な慣行をどの程度促進しているかを判断することにも応用されます。そしてより持続可能な活動の発展を促進するために、どうすれば人間は、現状を意識的に変革する努力することが必要かを問うのです。

持続可能性は、「持続可能な収穫」、「持続可能な社会」、「持続可能な開発」といった概念の中核を成しています。持続可能な収穫とは、木材や魚など、特定の自己再生可能な天然資源の収穫を指します。小魚はリリースする、漁獲量を制限する、無農薬農業を進める、太陽光、風力、水力など再生可能エネルギーを増やす、など多数あります。このような収穫は、基盤となる自然システムの再生能力によって支えられるため、原則として無期限に維持できるのです。

持続可能な社会とは、生態学的限界によって定められた境界内で生きることを目指す社会です。電気自動車の普及とか、公共交通の利用などで環境に過度の負担をかける慣行が改革または廃止されることにより、皆が安心して暮らせる継続的な社会を維持することができます。最後に、持続可能な開発とは、現在および将来の世代のニーズに対応し、経済、社会、環境の考慮事項を意思決定にうまく統合する社会発展のプロセスを指します。17の目標とわれるSDGs(Sustainable Development Goals) は、この持続可能な開発を実現するための具体的な課題リストとなっており貧困や教育、ジェンダー、気候変動を含んだ包括的な目標となっています。

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コルティナ・ダンペッツォと歌劇

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2026年2月6日、第25回オリンピック冬季競技大会がイタリア北部の都市ミラノ(Milano)とコルティナ・ダンペッツォ(Cortina d’Ampezzo)で開催されました。この大会の開会式を観ながらいくつかの感慨のようなものを覚えました。第一は演出の素晴らしさです。開会式がまるで歌劇を観ているような雰囲気です。歌があり踊りがあり、そして野外劇場のような晴れやかな舞台がありました。第二は歌劇の三大巨匠の曲をふんだんにとりいれてイタリアを演出していたことです。三大巨匠とは、ヴェルディ(Giuseppe Verdi)、プッチーニ(Antonio Puccini)、そしてロッシーニ(Gioachino Rossini)です。第三は、観客の感情を揺さぶる劇的な演出です。開放感、真面目さ、衣装の美しさ、そして悲劇的な演出です。父親が戦場で戦っているという息子が晴れやかな舞台で手を振るウクライナの選手の姿がありました。

Cortina d’Ampezzo

 コルティナ・ダンペッツォといえば、アルペンスキー回転で猪谷千春が1956年に日本人として冬季オリンピック史上初の銀メダルを獲得した場所です。このとき、オーストリアのトニー・ザイラー(Anton Sailer)が回転・大回転・滑降全てで金メダルを史上初めて獲得したのも思い出されます。1956年といえば私は中学一年生のときです。新聞に載った猪谷の滑りの写真をはっきりと記憶に残っています。猪谷は北海道の国後島で生まれ、大きくなってからニューハンプシャー州にあるダートマス大学(Dartmouth College)で学業と筋力トレーニングをします。ダートマス大学を卒業後、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝、1955年から1957年まで全米大学体育協会(NCAA)の スキー選手権大会の回転競技部門で三連覇するのです。

 歴史的な音楽の先進国がイタリアです。西洋の伝統音楽における代表的な楽器のバイオリンやピアノなどの多くは、イタリア語を母国語とする製造者によってその原型が確立されたといわれます。現在も世界中で通用する音楽関連の専門用語の多くは、イタリア語となっています。今度のオリンピック大会の開会式で音楽をふんだんに取り入れ、音楽の本場はイタリアであることを強調していました。特に劇場型のオペラを思わせる見事な演出から三人の作曲家を取り上げてみます。

 イタリアの特にオペラの歴史において、「三大作曲家」とか三大巨匠と称されるヴェルディ、プッチーニ、そしてロッシーニは、その華麗な音楽とは裏腹に、私生活や作品において極めて「過激」なエピソードを残しています。オペラ王の異名を持つヴェルディはイタリア統一運動の英雄的な存在であり、その頑固さと妥協しない性格が過激さとして表れました。妥協なき芸術性の持ち主で、劇場支配人や歌手の要求を跳ね除け、自身の音楽的信念を強引に押し通したといわれます。代表作として『椿姫(The Lady of the Camellias)』や『アイーダ(Aida)』があります。歌詞の中に革命歌も取り入れているほどです。

 クラシック界の伊達男と呼ばれていたのがプッチーニです。過激な女性関係を持ち、浮気を原動力として作曲すると公言していたとされます。なんとも呑気で天衣無縫な態度です。作風の過激さも知られ、『トスカ(Tosca)』では拷問シーン、『蝶々夫人(Madame Butterfly)』では刀を喉に突き立てて自殺、『ラ・ボエーム(La Boheme)』では不治の病、結核による死など、観客の感情を揺さぶる劇的な展開を惜しみなく表現しました。

 ロッシーニは喜劇の巨匠といわれます。『セビリアの理髪師(The Barber of Seville)』をわずか2〜3週間で書き上げるなど、天才的な作曲速度で知られています。毒舌でも知られ、他の作曲家を批判する際、ブラックジョークを駆使したといわれます。 『セビリアの理髪師』の他に『ウィリアム・テル(William Tell)』などのオペラ作曲家として最もよく知られ、その作品は当時の大衆に非常に人気があったといわれます。

 オペラの他にも、ルネッサンス期(Renaissance)の声楽曲のマドリガル(madrigal)、世俗歌曲のフロットラ(frottola)やイタリア流行歌であるカンツォネッタ(canzonetta)など、我が国でも知られているイタリア音楽の作品形式は幅広いものがあります。イタリアの国歌には、「我らは何世紀にもわたり、虐げられ、嘲れてきた、歩兵隊に参加せよ、我らに死の覚悟あり、イタリアが叫んでいる、、そうだ!」とあります。実に勇ましくミラノ・コルティナのオリンピックはそのイタリア市民の叫びを発散しているかのようです。

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