この人を見よー内村鑑三 その二十 いかにして大文学を得んか

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内村鑑三は清教徒主義に基ずく厳格な宗教学者とか伝道者と言われています。しかし、彼の経歴にはもう一つの側面があることを知らねばなりません。彼の著作を調べますと、独自のキリスト教思想の醸成には、彼の豊かな文学や哲学への造詣にあったことが分かります。その読書意欲や多言語の習得は、彼の独特の思想の形成に貢献したことです。

 これは内村の文学観、文学の定義を言ったものと思われます。このような文学観にもとづいて文学を論じ、日本文学に警告と指針を与えようとしたものが「なにゆるに大文学は出でざるか」、「いかにして大文学を得んか」という二篇です。

William Wordsworth

 「大文学なきのみならず、中文学なし、小文学なし。しかり、もし文学とは思惟の創作を言うならば、今日の日本に文学ありと言うを得るや」と断じ、文学を定義して「文学とは高尚なる理想の産なり。文字を美術的に並べたてたとして文学にはあらざるなり。ゆえに理想なきところには文学はあらざるなり。そもそも大文学なるものは世界的思想の成体なり」として日本に真の文学のないのはこの思想の欠如のためであると断定するのです。実に驚くべき考え方です。

 それでは、どうすれば大文学を得られるかとの問いに答えて、「文学は天賜なり」というのです。文学者は文体を修めること、世界文学の攻究、自然の観察、品性の修養などにつとめねばならない」とします。文体については、「われに言わんと欲する事実ありて、これを言い表すの語に乏しからずとて、文体は文字や文章の工夫ではなく思想である」とし、世界文学を学ぶには、先ず第一に聖書を学ばねばならないと主張するのです。さらに聖書、ダンテ(Dante)、ゲーテ(Goethe)、ワーズワース(Wordsworth)、テニソン(Tennyson)などを引用して、自然観察の重要性を強調し、「大文学は気魄なり、人たることなり、人の面をおそれざることなり。正義をありのままに実行することなり。世論と称するとどの叫びに耳を傾けざることなり。富を求めざることなり、爵位を軽んずることなり。これ大文学者の特性として最も貴重なるものなり。」と主張します。

 「古人の大著を究むるにあり。自然に真理を探るにあり。自己を清うして天来の思想に接するにあり。これ余の信ずる、大文学を得るのみちなり。余はこの大問題をつくせしとは言わず。しかも余の論ぜしところの全く無益ならざるを信ず。」という主張は、かれの思想家としての矜持を言ったものと思われます。

Les Misérables

 このような内村の西欧的な、きわめて広義で格調の高い文学観が、当時の青年にとり、いかに清新なおとづれ(Good News)として響き渡ったことは想像に余りあるといえます。国木田独歩、小山内薫、有島武郎、正宗白鳥、志賀直哉など無数の文学青年が内村を見上げ、あるいは親しくその教えを受けるに至ったのも決して理由のないことではありません。近世日本文学史における内村の寄与と影響とは極めて注目に価するものがあります。

 しかし内村のいう文学は実は思想文学であり、キリスト教文学であり、むしろ道徳文学、信仰文学でありました。ゆえに一般の文学観とは全く異なり、市井の文学者の期待や要求を満足させることはできなったのです。のみならず厳しい清教徒的な信仰と生活の上に立つ文学には、日本の文学者には到底堪えることができなかったのです。そのため、やがて彼らはほとんど例外なく、内村の主張に失望し、反抗して、彼のもとを去っていくのです。キリスト教によって文学の人となった内村の文学が、彼のキリスト教とは別にして理解され、喜ばれるはずはなかったのです。内村の文学観は日本のみならず現代の世界においては、すでに前時代的なものとなっていくのです。

 しかし、内村は終生このキリスト教の文学観を捨てませんでした。多くの青年文士が内村のもとを去り、同時にキリスト教をも棄ててしまうことを悲しみつつも、内村は決してその文学観を棄てず最後まで文学を愛し、文学のうちに生きたのです。内村は大文学のなんたるかを論じるとともに、自ら生涯を費やしてその大文学を綴り続けたのです。そして、文学とは本来聖い、高い、麗しい魂と心のうたであることを聖書観に基づいて証しようとしたのです。

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この人を見よー内村鑑三 その十九 トーマス・カーライル

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内村鑑三や新渡戸稲造らの門下生に、後の東京大学総長矢内原忠雄や無教会派のキリスト教独立伝道者である畔上賢造等がいます。畔上は内村の弟子といわれた伝道者です。彼らに多大な影響を与えたのが、19世紀のスコットランドの著作家・評論家のトーマス・カーライル(Thomas Carlyle)です。カーライルは「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張したことでも知られています。

Thomas Carlyle

 彼の言う「英雄」とは歴史に影響を与えた神、預言者、詩人、僧侶、文人、帝王などを指すようです。例えば内村は「後世への最大遺物」において、「勇ましい高尚なる生涯」が「後世への最大遺物」になる例として、カーライルが友人ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の晩年の内妻、ハリエット・テイラー(Harriet Taylor Mill)により誤って燃やされてしまった「フランス革命史」の膨大な完成原稿を書き直したエピソードを挙げ、「私はカーライルという人については全体非常に尊敬を表しております」と書いています。

 内村は1893年8月に京都へ移り、そこで著作活動を始めます。「基督信徒のなぐさめ」といった著作を世に出します。この著作に「無教会」という言葉を使うのです。その間カーライルに心酔し、全著作を読んだといわれます。そうしたきっかけで「カーライルを学ぶの利と害」という講演もしたほどです。あたかも内村が「カーライルを語るときは、自分自身を語っているのかのようだった」という評論もあります。内村がカーライルを学ぶ利として誠実、労働尊重、貧民(平民) 、愛護の三点をあげ、害として不平等をあげています。

 特にカーライルが「クロムウェル伝(Oliver Cromwell’s Letters and Speeches)」で、政治の理想を描いているという指摘は、彼の強いクロムウェル崇拝が感じられます。クロムウェルはイングランドの政治家、軍人で、イングランド共和国初代護国卿(Lord Protector)となった人物です。カーライルは「英雄論」(On Heroes, Hero-Worship, and the Heroic in History) でクロムウェルを英雄の一人としてとり上げ、フレデリック・ハリソン(Frederic Harrison)は軍人としてのクロムウェルを「我が国の歴史に一人二人を数えるだけである」と高く評価します。クロムウェルは強い回心の経験し、生涯ピューリタン(Puritanism)を貫いた人物です。

Ralph W. Emerson

 イギリスなどヨーロッパでは20世紀以降は、カーライルの思想は時代遅れと評され、彼の反ユダヤ主義的言動はナチスへの影響も含めて批判の的となっています。イングランドの歴史家、アンソニー・フルード(James A. Froude) はカーライルのユダヤ人嫌悪を「ドイツ的」(Teutonic)と評するほどでした。にもかかわらず、カーライルはヴィクトリア朝絶頂期の大英帝国において、その時代を代表する優れた著述家・言論人としての名声を確立します。

 アメリカに眼を向ければ、カーライルの最も重要な弟子は、エマーソン(Ralph W. Emerson)といわれます。宗教的、社会的信念から離れ、汎神論的象徴主義による評論「自然」(Nature)を発表し、これが彼を中心とする超絶主義運動(Transcendentalism)の指導者となった哲学者です。超絶主義は、客観的な経験論よりも、主観的な直観を強調します。その中心は、人間に内在する善と自然への信頼であるとする思想です。エマーソンはしばしば「アメリカのカーライル」と称せられるほどでした。イギリスの哲学者ジョン・ミュアヘッド(John H. Muirhead)は、ドイツ観念論を受け入れたカーライルをして、「哲学的懐疑主義を拒絶し、当時の哲学思想の発展において、イギリスとアメリカにおいて他の誰にも及ばないほどの影響力を発揮した」と記しています。

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この人を見よー内村鑑三 その十八 交友の歓喜

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この内村のエッセイの書き出しは「新年に入りてより、四人の珍客は我が輩の小さな書斎に入りきたった。我が輩は謹んで彼らを優遇礼待せんとす。」となっています。この珍客とはもちろん、レンブラント、ベートーヴェン、ルーテル、そしてカントです。

Rembrandt H. van Rijn

『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第9巻目は、「なにゆえに大文学は出でざるか」「宗教と文学」「詩人ウォルト・ホイットマン」など、内村の文学観や人生観、および宗教観を語る内容となっています。その中に「交友の歓喜」と題するエッセイがあります。内村は、レンブラント(Rembrandt H. van Rijn)、ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、ルーテル(Martin Luther)、そしてカント(Immanuel Kant)の4人を心の友としていることを語ります。内村はこうした偉大な人物が世界人であることに感銘するのです。

Ludwig van Beethoven

「レンブラントは画界におけるカルビンと称せられし者であって、新教的思想を筆と色とで表し者である。彼は好んで商人、職工等、いわゆる下層の民と称せられたる者を描いた。彼はもちろん、彼の霊魂の救い主イエス・キリストを描いた。彼はいまの平民主義者のように、神を無視し、キリストをあざけるような者ではなかった。彼は平民主義をその根本において解した者である。彼の理想はの平民は、いうまでもなくナザレの大工イエスである。彼はこの人を神の子として拝した。ゆえに自身が平民の画家となったのである。」

Martin Luther

内村の第二の珍客、ベートーヴェンについてです。「彼の肖像をみて、彼が音楽の人であるとはどうしても思えない。彼の眼は怒っている。どうしても調和の人ではない。不平の人である。憤怒の人である。」内村は「もちろん、自身は音楽を解しない。ゆえに美術的に彼を評価することはできない。しかしながら余は少しく彼の人物を知る。風波多かりし彼の生涯を知る。余は余の小さなる生涯が少しく、彼の大なるそれに似ている事を感謝する。」と書きます。

第三の珍客、ルーテルについてです。「彼のサクソン的(Saxson) な容貌、百姓面と称せんばかりの顔、眼は暴風の後の平静を示し、太りたる手は何物かを握るごとし、けだし聖書なるべし。」「ああ、ルーテルよ、余はなんじを知りし以来、なんじを忘れざるなり。余の小さななる生涯は多くはなんじの大なる生涯にならって成りしものなり。余はなんじの事業をもって余の事業となさんと欲す。」「使徒パウロ(St.Paul)と聖アウグスチン(St. Augustine)となんじ、余は今やまたなんじの接近を要すること切なり。しかして、余がもしなんじと余との救い主なる神イエス・キリストの命にそむくがこときことあらんには、なんじその鋭き眼をもって余を責めよ。」

Immanuel Kant

内村は「第四の珍客はカント先生である」と書いています。「豪気なるカント先生、近世のソクラテス(Socrates)、しかもソクラテスよりも大なる哲学者。先生の哲学の大なるは先生の哲学のためでないことを、先生をして哲学者として立たしめしその精神、これが先生の偉大なるゆえであって、また先生の哲学の偉大なるゆえである。」「先生は自由と真理と信仰とのために堅固なる地位を設けたもうた。先生は哲学者としてよりは人類の友として貴くある。」

内村はこれら四人を心の友として仰ぎ見ていることが伝わります。著者がいかに博愛と心温かい世界人であったことが明らかです。内村は終生、一切の派閥に加わらず、独立の生涯を貫いたのは当然でありました。この四人の大先輩に関する記述によって、内村の伝道の精神、すなわち信仰の精神が理解できそうです。

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この人を見よー内村鑑三 その十七 詩人ウォルト・ホイットマン

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アメリカの詩人、随筆家、ジャーナリストにウォルト・ホイットマン(Walter Whitman)がいます。超越主義(Transcendentalism) から写実主義(Realism)への過渡期を代表する人物の一人で、アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人でもあります。独自の詩の創始者とされ、しばしば「自由詩の父」と呼ばれています。詩集『草の葉』(Leaves of Grass) の原型となる作品は、すでに1850年に着手しており、生涯、手を加え続けることとなります。ホイットマンが書こうとしたのは、真にアメリカ的な叙事詩であり、聖書の韻律を利用した自由詩の形式を用いたことで知られています。

 ホイットマンは理神論(Deism)に深く心酔していました。理神論とは、神の存在を認めつつ、啓示や奇跡を否定し、理性によって神を理解しようとする立場です。特定の宗教が他の宗教よりも重要だといった考えを否定し、全ての宗教を対等に扱うのです。主要な宗教を一覧にし、その全てを尊重し受け入れるという姿勢を示します。この感覚は「祖先とともに」 (With Antecedents) で更にはっきりと示されています。この中で彼は「自身はすべての理論、神話、神、半神を受け入れる / 古い語り、聖書、系図は、一つ残らず、真実だとみなす」と記しています。1874年、心霊主義運動(Spiritualism)のために詩を書くように依頼されたホイットマンは、自分は無神論者であり、すべての教会を認めるが、どれ一つとして信じないと言います。

Leaves of Grass

 さて、内村はどうしてホイットマンと出会ったかです。内村は日本にホイットマンを紹介した最も古い人といわれます。彼はホイットマンの詩と人とに深く傾倒していいました。題材、形態、表現などすべての面で一切、詩の伝統と形式と常識とを無視して、大胆に自由に歌う自然児の彼の詩に心酔し、人生と宇宙と、社会と国家と、教育と政治と、予言と宗教と、あらゆるものの真理が歌い上げられていることを理解するのです。また、無理解と不遜と貧困のうちにも、臆せずたじろがず、高貴に大胆に、自由の精神に生き抜いた自由の勇者の人と生涯とに、限りなき尊敬と愛慕とを寄せたのです。ホイットマンの詩はそのまま内村の詩であり、ホイットマンの人と生涯と自由とは、そのまま内村の人と生涯と自由であったといわれます。

Walter Whitman

 内村は晩年までホイットマンの詩句を引用し、つばの広い帽子を送られると「ホイットマンのかぶっていたような帽子だ」といって喜んだという逸話が残っています。ホイットマンはいつもつばの広い帽子をかぶっていました。大自然児ホイットマンと著者との間には血が通っていたようです。ホイットマンの信仰は万有神教とか自然神教とか呼ぶべきもので、キリスト教の正統信仰とは見なしがたいものではあります。にもかかわらず、正統信仰中の正統信仰を厳に守る内村が、ホイットマンの信仰までも賞賛することは、異様に映ります。しかし、内村はホットマンの人と生涯に同感し同情しながらも、その度を超えているのではないと思われます。ホイットマンの信仰自由の精神は、実は、そのまま内村の信仰自由の精神だったといえるのです。

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この人を見よー内村鑑三 その十六 アマースト大学へ

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1885年の秋、ペンシルヴァニア州立精神薄弱児養護院を辞して、マサチューセッツ(Massachusetts)にあるアマースト大学(Amherst College)へ向かいます。この理由は先輩であった新島襄の勧めと紹介によるものです。新島は、1864年7月に密出国してアメリカに渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてアマースト大学やアンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary) で学びます。そして、改革派教会(Reformed churches)(カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」(American Board)の準宣教師となった人です。

1850年代のアマースト大学

 内村がアマースト大学へ編入しようとした理由は、この大学が当時はキリスト教宣教師養成の一翼を担っていたからだと言われます。ウイリアム・クラークもこの大学で教鞭をとり、学生の中に同大学初の日本人留学生として同志社大学の創始者新島がいたのです。徹底した少人数教育のため卒業生数は少ないのですが、著名な卒業生を多数輩出していることで知られています。

 「ニュー・イングランド(New England)へは、私はぜひとも行ってみなければならなかった。私のキリスト教はもとニュー・イングランドから来たものであり、従ってニュー・イングランドはそのキリスト教が引き起こしたわが内心の苦悶に対して責任を持つからである。」このように内村は言います。内村がこの地へ行ったのは、アマースト大学の総長ジュリアス・シーリー(Dr. Julius H. Seelye) に会うためでした。彼はすでに日本にいたときから、この総長の著書を読んで、その敬虔さと学識を知っていたのです。内村は、古びてよごれた服をまとった惨めな姿で(内村談)、わずか7ドルをポケットに入れて大学町に行くのです。そして総長邸の玄関に立つのです。新島が総長にあらかじめ自分の名前を紹介してくれていました。

 扉が開いて大きな体躯、獅子を思わせるような双の眼に光る涙、並外れて強く暖かい握手、もの静かな歓迎と同情の言葉で内村を迎えてくれるのです。これは彼に会う前に密かにわが心に描いていたものではないというのです。内村は、彼が心から喜んで差し出す援助の手にわが身を任せることを約して彼のもとを辞するのです。そして、学校の寄宿舎の一室を無料で貸し与えられるのです。親切な総長は小使いに言いつけて、必要品を整えさせてくれました。「私は寄宿舎の一番高い階の一室に落ち着き、全能の神が彼ご自身が示してくださるまでは断じてこの場所から動くまいと決心した。」

Amherst College

 アマースト大学では歴史学の教授、ドイツ語の教授らから様々な知見を得たことを書いています。特に聖書註解学の教授との出会いは印象に残ります。彼は内村のために旧約聖書歴史学と有神論との特別講義をします。彼の講義の唯一の学生だった内村は連続三学期、規則ただしく討論研究をします。その教授は、内村の中にある儒教その他の善い異郷精神を引き出し、それを聖書の基準に照らして比較考察したといわれます。

 しかし、哲学では内村は全然失敗であったと言います。東洋流の演繹的な自分の心は、知覚、概念、その他に関する厳粛な帰納的方法と全く相容れなかったというのです。我々東洋人は真理を確立するにあたり、倫理よりは視覚に頼ることの方が多い。自分がニュー・イングランドの大学で教えられたところによれば、哲学は、この東洋人の懐疑と霊的幻想とを解決するにはあまり役立たないと主張します。ユニテリアンその他の理知的な宣教師が、東洋人は理知的な民だから理知的にキリスト教に改宗させねばならぬと考えたのは最大の誤りだったとも考えるのです。

 「東洋人は詩人であって科学者ではない。三段論法の迷路は、われらが真理の神にいたるための道ではない。ユダヤ人は「一連の啓示」によって真の神に関する知識に達したという。そしてそれはアジア人すべてを通じて言えることだ。」と内村は宣言するのです。

Dr. William Clark

 アマースト大学総長ほど内村を感化し変化させた者はいなかったようです。礼拝堂で、彼が立ち上がり賛美歌を指示し、聖書を読み祈るだけで十分でした。「私はこの尊敬すべき人を一目見たさに、一度として礼拝をさぼらなかった。」総長はあるとき、宣教師大会、いわゆる外国伝道集会に招いたのです。内村は、そこはキリスト教国のクリスチャンらしさを示すもので、こうした大会は異教徒の国にはないと観察します。内村は皮肉をこめて次のように言います。

 「万余の知識人の男女が三つも四つもの大きな会場に満ちあふれて、どうすれば他国民に福音のさいわいを味わさせ得るかについて聞こうとしている光景は、それだけですでに深い感動を与えるものであった。これらの人々にとり異邦人伝道事業は、ショーにする値打ちがあることだけは確かだった。そして、それは疑いもなく、あらゆる宗教的ショーの中でももっとも高貴な最も神聖なショーであった。」

 外国伝道の根拠は、異教徒の暗黒をクリスチャンの光明と比較対照して描き出すことにあると考えられていました。外国伝道のための雑誌、評論、新聞などはいずれも、異教徒の不道徳や堕落や愚かな迷信などの記事を満載していました。「もし君たちがそれほど立派な人々なら、そんなところへ宣教師を送る必要はない」という言葉に対して、内村は「いいえ、みなさん、こうした高潔な人たちこそ、他の国の人々以上にキリスト教を憧れ求めているのです」と答えたというのです。内村は言います。「異邦人に対するあれみ以上の高い動機に基づかぬキリスト教外国伝道は、援助を送る側も送られる側も多く傷つかぬうちに、全部引き上げる方がよいと信じる。」  

 内村が全生涯をかけて伝道に捧げながら、外国宣教師をはじめ、そこからの補助を一文も受けず、独立の清い節度を貫く姿勢が表れています。かくいっても幾多の内外の友人の愛の援助、献金があったことを告白しています。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その五 宥和政策の理由と失敗

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ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。

あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。
“You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”

 このチャーチルの言葉は、先日のトランプがプーチンとの会談で示したロシアの譲歩に似ています。停戦はウクライナのゼレンスキー大統領の態度如何であると言って、プーチンになんらの警告も出さなかったのです。しかも会談中にロシアのウクライナの都市への爆撃が続くという有様です。


ズデーテン地方

 この発言は、チェンバレン政権がヒトラーに譲歩したことを「屈辱(dishonour)」と断じ、それが結局は戦争を防ぐどころか助長する結果になるだろうと警告するのです。チャーチルは、チェンバレンが国民にたいして述べた「平和」は幻想であり、ミュンヘン会談の後に宣言されたその和平は一時的なものであり、根本的な解決になっていないと断定します。そして「ヒトラーの要求は止まらない。彼はズデーテン地方だけで満足することはなく、次の侵略を計画している。その侵略がやがて起きる。」と予測します。ヒトラーの野望に対しては、力による抑止が必要であるとし、ヒトラーその野望を止めるには譲歩ではなく、早期の軍備強化と集団安全保障体制が必要だと主張します。

 結果的にチャーチルの見解は的中し、1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発するのです。チャーチルの警告は現実のものとなり、宥和政策の失敗が明確になります。チャーチルはミュンヘン会談における宥和政策を「屈辱的で危険な譲歩」と位置づけ、戦争を防ぐどころか逆に招く結果になると強く批判しました。彼の見解は当時は少数派でしたが、後に歴史的に正しかったと評価されています。

チェンパレンの我々の時代の平和

 チェンバレンが宥和政策を選んだ主な理由はいくつか指摘されています。それには第一次世界大戦の記憶と反戦世論がありました。イギリスを含むヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の記憶が生々しく、戦争による莫大な犠牲に多くの人が苦しんでいました。大戦後、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い世論が形成されており、政府に対しても戦争回避の姿勢が求められていました。特にイギリスでは、「平和のためなら多少の譲歩はやむを得ない」と考える国民が多かったのです。

 宥和政策を選んだもう一つの理由は、軍備の不備と準備不足がありました。1930年代のイギリスは、世界恐慌という経済不況の影響もあり、軍備の再建が進んでいませんでした。特に空軍・陸軍ともに、ドイツとの全面戦争を即座に戦える状態ではなかったようです。チェンバレンは、今戦うよりも、時間を稼ぎ軍備を整えることが現実的と考えていたとも言われます。こうして、複数の歴史的、政治的、社会的要因が絡んでおり、チェンバレンの宥和政策は、「弱腰」ではなく、当時の状況下で「最善の現実的選択」と考えられた部分もあります。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発

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トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれたのですが、詳しい会談結果は報道されていません。大統領専用機から降りて、両者の対面場所に向かうトランプの歩みはジグザクで、痴呆的(dementian)な障がいがあるようだ、というコメントもあります。共同記者会見のタイトルは、「Trump presser goes horribly wrong with Putin. Luncheon between US and Russians delegates has been cancelled. Trump will immediately return to Washington. 」首脳会談はトランプにとって悲惨な結果であるというコメントです。

「Trump has mad extraordinary concessions to Russia in exchange for nothing. Russia has repaid him by continuing the war and seeking to win it. Putin knows that Trump want the Novel Prize.」「この首脳会談は、トランプはロシアに対し何の見返りもなしに、並外れた譲歩をした。ロシアは戦争を継続し、勝利を目指すことで報いてきた。プーチンは、トランプがノーベル賞を欲しがっていることを知っている」と報道する有様です。

 共同記者会見では、両首脳は会談の内容を簡単に説明するだけで、実質的なウクライナ戦争の停戦などのディールはありませんでした。記者からの質問も受けず立ち去るのです。記者から「質問、質問、、、」という叫びを全く無視して会場を立ち去るのです。会談では全く停戦に向けた進展がなかったからでしょう。次のようなコメントも寄せられています。「プーチンがこの会談に同意したのは、トランプを当惑させ、従順な子犬のように見せるためだけだった。任務は達成された。」ロシア駐在の元アメリカ大使が会談の内容について、プーチンは何も妥協せず、トランプは何も得るものがなかったとコメントしています。


 1938年9月28日、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が仲介に入り、イギリスの首相チェンバレン、フランスの首相ダラディエ、ムッソリーニ、ドイツの総統ヒトラーが集まり会談を行う提案を行います。ヒトラーは応諾し、開戦の延期を声明します。報告を受けたイギリス議会では大歓声が起こり、戦争勃発の懸念から低迷していたニューヨーク株式市場も一斉に反発し値上がりします。翌、9月29日、ミュンヘンで4カ国の首脳による会談が行われます。チェコスロバキア代表のヤン・マサリク(Jan Masaryk)駐英大使とヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny)駐独大使は会議には参加できず隣室で待たされるのです。

 翌30日午前1時30分に会談は終了し、4か国によってミュンヘン協定(Munich Agreement) が締結されます。ドイツの要求はほとんど認められ、ハンガリーとポーランドの領土要求にも配慮された結果となります。ヒトラーは「これ以上の領土要求はしない」と約束するのです。それは英独共同宣言と呼ばれ、戦争の危機は一応は回避されます。会談の隣室で待っていたマサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡されます。この一連の国際会議はミュンヘン会談(Munich Conference)といわれます。

 なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世(George VI) は、チェンバレンにバッキンガム宮殿(Buckingham Palace) のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えます。大衆の前で国王と政治家の友好関係を見せるのは極めて異例であったといわれます。

 しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、ウインストン・チャーチル(Winston L, Churchill)が指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「イギリスとフランスが実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されています。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われています。

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、9月3日にチェンバレンもフランスのダラディエとともに対独宣戦布告を行います。ここに第二次世界大戦が勃発するのです。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その三 ネヴィル・チェンバレン

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2025年8月15日にアラスカのアメリカ軍基地において、トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれました。ウクライナ抜きです。会談後の共同記者会見で両者が発言した内容はさして新しいものではありません。お互いに多くの点で一致をみたが、重要な点ではまだ未解決な課題があるという内容です。

 トランプとプーチンは大国の首脳ですが、双方は大事な課題については相違があるということを認め合ったようです。それはウクライナ領土のドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)の割譲を要求するプーチンに対してトランプが合意していないということです。この違いはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)とトランプ大統領との格の違い、チェンバレンとヒトラーとの格の違いを示しています。つまり、ヒトラーのほうが政治や軍事面で優位であるがゆえに、チェンバレンは妥協せざるを得ないという結末が待っているのです。このことは「その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発」で説明します。

 1938年4月24日、ズデーテン・ドイツ人民党党首で指導者的存在であったコンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)はチェコスロバキア政府に対し、ズデーテン地方でのドイツ人の地位向上と自治を求めます。1938年5月7日、イギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対し、ヘンラインの要求を受け入れるように求めます。これを介入の好機とみたヒトラーは、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)大将にチェコスロバキア侵攻計画「緑作戦」の策定を督促していきます。5月20日にこの作戦は完成しますが、軍の見通しは時期尚早とされ、ヒトラーもいったんはチェコスロバキア侵攻を見送るのです。

ナチス総統館

 イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)はチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相エドワード・ダラディエ(Édouard Daladier)と外相ジョルジュ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet) をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意します。9月19日にプラハ(Prague) 駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Benes)にズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告します。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶します。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関与しない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行います。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ(Milan Hodza)内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー(Jan Syrovy)内閣が成立します。

ミュンヘン会談後ロンドンに戻るチェンパレン

 チェコスロバキア政府の勧告受諾を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルク(Godesberg) でのヒトラーとの会談に臨みます。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーン(Ceský Tesín) の割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否します。こうして会談は物別れに終わります。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告します。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その二 ズデーテン地方

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チェコスロバキア(Czechoslovakia)でも有数の工業地帯であったのがズデーテン(Sudeten)地方です。ここにはチェコスロバキア最大の財閥であるシュコダ財閥(Skoda Works)をはじめとする多くの軍需工場が立ち並んでいました。また、この地方の約28%がドイツ系住民といわれていました。チェコスロバキア政府は、ドイツ人の独立運動を警戒し、ドイツ人を公務員に登用する事を禁止する措置をとっていました。そのため、ズデーテン地方のドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ人民党(Sudeten German Party) は、チェコスロバキアからの分離とドイツへの併合を唱えていました。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されていると主張しており、解放を唱えていました。ヒトラーがここで持ち出したのが、ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決)national self-determination) の論理です。

Sudeten

 1937年6月24日、ドイツ陸軍参謀本部は、近隣への侵攻作戦の策定を開始します。その中でもチェコスロバキアに侵攻する計画が「緑作戦」(Fall Grün) と呼ばれました。特に西部のズデーテン地方は、ドイツにとっても重要な目標でした。当時、チェコスロバキアの東半の領土であるスロバキア(Slovakia)とカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia) はかつて北部ハンガリー(Hungary)と呼ばれており、トリアノン条約(Treaty of Trianon) によってチェコスロバキアがハンガリーから奪取した経緯がありました。

 トリアノン条約は、第一次世界大戦後の1920年6月4日に、フランスのヴェルサイユにあるトリアノン宮殿で、連合国とハンガリーの間で調印された講和条約です。この条約により、ハンガリーは領土の大部分を失い、現在のチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに分割されました。それ故に、ハンガリー王国は北部ハンガリーの回復を狙い、領有権を主張していました。さらにチェコスロバキア北部にはポーランドとの係争地も存在していました。

 他方で、チェコスロバキアは1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、1935年5月16日にはソビエト連邦とも相互防衛援助条約を結んでいました。このため、チェコスロバキアへの領土要求は世界大戦を発生させる懸念があったのです。1938年3月にドイツは、オーストリアを併合(Anschluss of Austria) し、ズデーテン問題はドイツの次なる外交目標となっていきます。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その一 トランプとプーチンの会談

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宥和政策(Appeasement)とは、戦争の回避、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式です。敵対国の主張に対して、相手の要求をある程度受け入れることによって問題の解決を図ろうとする政策です。宥和主義ともいわれ、危機を抑止する概念といわれます。

Munich Agreement

 なぜ宥和政策の話題を取り上げるかです。今週、トランプ大統領がプーチン大統領とアラカスカで会談することになりました。この会談でどのようなことが協議され、どのような結論が出るかは興味あります。報道によりますと、トランプは、プーチンとで領土の交換をし、それで停戦しようとしているらしいとのことです。この二人の大統領の会談には、当事者であるウクライナのゼレンスキー大統領(resident Zelensky)は蚊帳の外だというのです。ウクライナはロシアの領土であるクルスク州(Kursk Oblast)の一部を占拠していますから、それを得る代わりにドンバス地域(Donbas)をロシアに渡すという案です。ウクライナはロシアが占拠するドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)を渡すことには反対しています。まずは双方が停戦して、その間領土の協議をしようという計画だったようです。

チェコスロバキア領土の奪い合い

 ウクライナがアメリカとロシアの会談に臨めないとなれば、これに似た歴史が1938年に開かれたミュンヘン会談(Munich Agreement) を思い起こします。この会談は、ドイツのミュンヘンで開催された国際会議で、チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズデーテン(Sudeten)地方帰属問題が協議されました。この会談にはイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席します。ドイツ系住民が多数を占めるズデーテンの自国への帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) 総統に対し、イギリス・フランス両首脳は、これ以上の領土要求を行わないことを条件に、ヒトラーの要求を全面的に認め、1938年9月29日付けで署名します。

 この会談で成立したミュンヘン協定は、戦間期の宥和政策の典型とされ、イギリスとフランスの思惑とは裏腹にドイツの更なる増長を招き、結果的に第二次世界大戦を引き起こしたことから、一般には強く批判されることが多い協定です。

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この人を見よー内村鑑三 その十五 ペンシルヴァニアでの看護人生活

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1885年、内村鑑三は渡米しメソジスト派の宣教師メリマン・ハリス(Merriman C. Harris)の紹介で、ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のエルウイン(Elwyn)にある州立白痴児養護院長のアイザック・カーリン(Issac N. Kerrlin) という方に「拾い上げられます。」この院長は実行家型の慈善事業家でした。彼は内村の性格を調べてから保証人となることを引き受けるのです。そして彼の「看護人」に加えるのです。内村は、「帝国政府の官吏から急転して白痴院の一看護人」となります。内村それを転落とは感じなかったと述懐しています。まるでナザレ(Nazareth) の大工の子によって今や全く新しい人生観を与えられた、と受けとめるのです。

ペンシルヴァニア州立白痴児養護院

 この病院勤めはマルチン・ルター(Martin Luther)のエルフト(Erfurt) 僧院行きとほぼ同じ目的によるものだと言います。ルターは、エルフトにおいて「神の永遠の義が、人間のいかなる努州立精神薄弱児養力によっても強制できない、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられる純粋な恵みの贈り物である」ということを感得するのです。内村は、「来たらんとする怒りから逃れる唯一の避難所として、そこを選び、そこで自分の肉を屈服させ、霊的な清浄に達しうるように訓練して、天国を継ぐ血と考えた」のでした。それゆえに、実のところ自分の病院勤めの動機は自己本位だったと認めるのです。

 心の葛藤は別として、内村は病院内の生活は少しも不愉快なものではなかったと言います。院長は自分の幸福を心から願い、わが子に対するような真の愛情で世話してくれたようです。院長は、「肉体を正しい状態にしておくことが、品性を行為をも正しくすることだ」と信じていました。「院長は私の霊魂よりも胃の腑のほうに多く心を配ってくれた。本格的な食事を十分にとって元気をつけるようにと言って、しばしは実質的な援助を送ってくれた。彼を知らぬ人は、彼を狂人じみた唯物論者だと思っていた。特に彼が「道徳的低能」なる特異の題目について語るとき、ひとしおその感を深くするのであった。」「道徳的低能とは、両親の犯す過ちや悪い環境が原因となって興る体質上の堕落を意味する。」というのです。しかし、院長は唯物主義者でも無神論者でもなく、堅く摂理を信じ、神の御手が彼の全生涯を導いていたのです。

 院長は聖書に関して広い知識を持っていました。彼の告白する信仰は厳密な意味での「正統信仰」ではなかったのですが、彼は心なき知識偏重過ぎを憎み嫌い、ユニテリアン主義(Unitarianism) をさして「最も偏狭な、最も無味乾燥な教派だ」と公言していました。しかし彼の妻はユニテリアン信者でした。内村は、彼の宗教や音楽のゆえに彼の讃美者また忠実な弟子となったのではないと語ります。「人類の中の最も不幸な人々のために、そこに盛んな集団居住地(コロニー)を造り上げた。目標をあやまたぬその意志、700人余りの狂人を治め、導き、従わせるその管理の手腕、これらすべてが、この人を私の驚嘆と研究との的とした」と言います。

 このような人物は、自分は故国においても外国においても見たことがなかったと述べます。当時、内村は自身が悩んでいた激しい宗教上の懐疑を解くことはできなかったのですが、生活と信仰をといかに活用すべきかを教えてくれたのはこの病院長であったと述懐するのです。「慈善なるものは、どれほ高貴で繊細な感情に支えられていようとも、それを悩める人類の福祉とするための明晰な頭脳と鉄石とを欠くならば、この実際社会では役に立たぬ」ということを、彼は教えてくれたのです。

 「まことに彼こそは私に人間性を与えてくれた人である。もしも私が書物と大学と神学校だけでキリスト教を学んだのであったなら、私のキリスト教は冷たい、堅い、実行性を欠いたものとなっていただろう。この実際家の生きた実例は、実践神学のどんな課程よりも、適切にまた感銘ぶかく、この貴重な授業を自分に授けてくれた。」 (注:白痴という単語は今は使いませんが、本稿では内村鑑三の書いた文章からそのまま引用しています。)

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この人を見よー内村鑑三 その十四 キリスト教国にて

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「山にある者は山を見ず」は、「鹿を逐う者は山を見ず」という故事成語のことで、利益や目的ばかりに気を取られていると、周りの状況や全体像が見えなくなることの譬えです。内村鑑三は「山というものの真に調和のとれた姿は、ただ遠方からのみ望むことができる」と言います。同じことが各々の祖国についても言えるというのです。「その中に住んでいる間は、人は祖国の真の姿を知らない。統一総体としての祖国を理解するためには、祖国から遠く離れて立たねばならない。」

 内村はアメリカで滞在しながら次のように述懐します。「そこに住んでいる間は極端に一方的であった。まだ異教徒だったころの自分は祖国は宇宙の中心であり、世界の羨望の的だと考えていた。」、「神々みずからそこに住み、実に光明の源泉であるというのが、異教徒だったころの自分に写っていた祖国の姿であった。しかし、ひとたび回心した自分はその考えに疑問を持ち始めた。」

Huldrych Zwingli

 内村は、多くの大学やカレッジのあるアメリカについて、清教徒の本国なるイギリスについて、ルーテル(Martin Luther)の祖国なるドイツについて、ツイングリ(Huldrych Zwingli) の誇りなるスイスについて、ノックス(John Knox) のスコットランドについて語り聞かされていきます。そうしているうちに、わが祖国は全く「とりえのない国だ」という考えにとらわれていきます。日本の道徳的、社会的の欠陥に話が及ぶたびに、アメリカやヨーロッパではそんなことはないと語りきかされるのが常だったようです。こんな国が果たしてマサチューセッツ(Massachusetts)やイギリスのような国となり得るかと、自分は心から疑ったと回想します。

 しかし、遠く離れて波浪の異郷から眺めたとき、祖国はもはや「とりえのない国」ではなくなっていきます。それのみか、類いまれなほど美しく見えた始めたのです。それも異教徒だったころの美しさではなく、「その固有の歴史的使命によって宇宙間に確固たる地位を占める、真に均整のとれた調和の美しさである」というのです。そして、祖国日本こそは、高遠な目的と高貴な野心をもって世界と人類とのとのために存在する神聖な実在であると受けとめていきます。

 そればかりでなく、内村にとって外国旅行のもたらしたな収穫は、こうした体験のみではなかったようです。「人は異郷の空の下で暮らすとき、いかなる境遇にあるときにもまさって、自分自身の中へ、深く追い込まれる」というのです。逆説的に言えば、「我々は自分自身についてより多く学ぶために、広い世界へと出て行くのだ。世界とは、他の国民、他の国家と接触する場所以上に、自分自身をはっきりと示される所はない」と断言します。

Martin Luther

 ただ外国滞在にあたっては、自分は次の三つのことを経験したと言います。第一は異郷にあるかぎり孤独は避けがたいということです。そこで最善の交友の機会があっても、その国の言葉を自由に操ることができたとしても、自分は依然として一人の他国者であるというのです。楽しく面白い会話でも、時制や規則に合わせて動詞を正しく変化させたり、単数の名詞には単数の動詞を使ったとしても、似たり寄ったりの多くの前置詞の中から適切なものを選び出したして、余計な精神力を使わねばならないために、煩わしいものとなるというのです。友情のこもった晩餐会に招かれても一定の食卓作法にあわせたり、フォークとナイフを使って噛んだり飲み込んだりせねばならいために、おおかたの楽しみは失せるというのです。

 第二の経験は、人は国外へ一歩踏み出すとき、自分以上のものとなるというのです。海外では、自分の国と民族とを揃えて行くのです。自分の言行はもはや自分自身のものではなく、種族と国家のものとして批判されるというのです。外国に滞在する者は、ある意味において各自が祖国の全権公使であり、国と国民を代表するというのです。そして世界は、彼を通して彼の国を批判するのです。こうして高い責任感ほど人間をしっかりさせるものはないことを自覚するのです。この身が卑しくふるまうか気高くふるまうかによって、祖国が非難されたり賞賛されたりするのです。このことを知れば、あらゆる軽率や軽薄さは、直ちに自分から離れていくと言います。

 第三の経験です。それは郷愁がどんなものかを知るということです。それは性に合わぬ環境に対する自然な反動といえそうです。「見慣れた顔や山や野はもや目に映らない。聞こえる言葉は祖国のものではない。新しい環境に馴染もうと努めるにつれ、故郷はその妬み深い愛をもって、ますます我らを懐かしい思い出に結びつける」のです。その結果、憂鬱になり、心は時に涙に沈むのです。「故郷(ふるさと)は遠きにありて想うもの」を実感するのが海外での生活経験になるのです。

 まだまだ外国旅行や留学が珍しい時代に内村は異教徒の国アメリカに滞在します。彼の三つの体験は時代を経ても今の我々にも伝わる心情です。

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この人を見よー内村鑑三 その十三 シナ人とアイルランド人

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「ジョン公」(John Chinaman)という呼称は、19世紀から20世紀初頭のアメリカで中国系移民に対して使われた蔑称です。この呼び名の由来や背景には、当時の人種差別的な風潮や文化的な無知や偏見が深く関連しています。なぜ「ジョン公」と呼ばれたのかです。アングロ・サクソン系(Anglo-Saxon)アメリカ人にとって、「John」はごく一般的な男性名で、無個性な「誰でもない人」を象徴する名、たとえば 「John Doe」のように使われます。「John Doe」とは、「本名が判らない」、「本名を出したくない」、「身元不明死体」など何らかの理由で男性を仮名で指すときの「呼び名」です。これを中国人にあてがうことで、彼らの個人性や固有の名前を無視し、ひとくくりにする意図がありました。

Anglo-Saxonの由来

 「公」という訳語の由来ですが、「公」は、英語の “Mister” にあたるような敬称風の言い回しですが、文脈によっては皮肉や揶揄を含んでいます。つまり「偉そうな顔をしているが、本当は蔑まれている」というニュアンスです。背景にある歴史的文脈では、19世紀後半、特にカリフォルニアなどの西部地域では、多くの中国人労働者が鉄道建設や鉱山労働に従事しました。彼らの勤勉さや低賃金労働が白人労働者の脅威と見なされ、反中感情が高まりました。この時期に風刺画や新聞などで「John Chinaman」が頻繁に登場し、しばしば吊り目、小柄、長い辮髪などのステレオタイプ的な描写とともに嘲笑されました。

 風刺とカリカチュア(caricature)における「ジョン公」は、風刺画や新聞で中国人労働者を象徴するキャラクターとして登場しました。カリカチュアとは、人物の顔や体の特徴を故意に歪めたり、誇張したりして描くことで、ユーモラスな印象や風刺的な意味合いを持たせる人物画です。滑稽や風刺の効果を狙って描かれるため、しばしば戯画、漫画、風刺画などと言われます。「ジョン公」という呼称は、アメリカ社会における中国系移民に対する差別意識や文化的ステレオタイプの象徴でした。

中国系移民の分布

 「ジョン公」についての逸話があります。若い日本人技師の一行がニューヨークに架かるブルックリン橋(Brooklyn Bridge)を視察に行った時の事です。橋脚の下に立って、吊鏈の一本一本の構造と張力とについて論じ合っていると、シルクハットをかぶり、眼鏡をかけた立派な身なりのアメリカ紳士が寄ってきました。そして「やあ、ジョン」と言いながら、日本科学者の中に割り込んできたのです。「シナからやってきた君たちは、こんなものを見ると、びっくり仰天するだろうな、ウン、、」。この無礼な問いに、日本人技師の一人がしっぺがえしを食らわせて言いました。「アイルランドからやってきたあなたもご同様でしょうよ」。すると紳士は怒って「ノー、とんでもない。わしはアイルランド人じゃない」と言ったのです。そこで「われわれだってシナ人じゃありません」と静かに答えたのです。これは見事な一撃でした。シルクハット氏は仏頂面をして立ち去ったそうです。彼はアイルランド人と呼ばれることを嫌っていたのです。

 アイルランド人、別名アイリッシュ(irish) はカトリック信徒です。新生アメリカでは、カトリックに対するに偏見や恐れが強く、アイリッシュは宗教的理由で差別されることが多かったのです。当時、主流の白人アメリカ人、特にアングロサクソン系は、アイリッシュを劣った民族、白人とは違う下等人種とみなしていました。彼ら移民は非常に貧しく教育水準も低かったため、すぐに安価な労働力として工場や建設現場などで働くようになります。こうして既存の白人労働者との競争が激化し、反感も買ったのです。新聞やポスターなどでアイリッシュが猿に似た姿や酒に溺れる乱暴者として描かれることも多かったといわれます。

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この人を見よー内村鑑三 その十二 キリスト教国におけるシナ人

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内村は、インディアンとアフリカ人に対するアメリカ人の感情は、極めて強硬で非キリスト教的だと断定します。同時にシナ人の子孫に対する彼らの偏見、嫌悪、反感に至っては、我々異教国にも類をみないほどのものであるとも言います。シナ全土のいたる所に宣教師を送り出して、彼らの子女を孔子の不条理や仏陀の迷信からキリスト教に改宗させようとしている国、その同じ国が、国土の上に一人のシナ人の影の落ちるのをさえ憎んでいると言明します。こんな逆説がかつてこの地上にあったのかと嘆くのです。

Don Quixote

 これほどまでに嫌いぬく国民に対して宣教師を送る外国伝道とは、そもそも」セルバンテス(Cervantes) の「真の勇気というものは、臆病と無鉄砲との中間にある」という機知から生まれた騎士道なのか、はたまた子どもじみた騎士道なのではないか、とも指摘します。セルバンテスは、騎士道本を読み過ぎて妄想にとらわれ、古ぼけた甲胄に身を固め、やせ馬ロシナンテ(Rocinante)に跨って旅に出るドン・キホーテ(Don Quixote)を描きます。その時代錯誤と肉体的脆弱さで、ドン・キホーテは行く先々で嘲笑の的となるという物語です。

 内村は、アメリカ人がこれほまでにシナ人を嫌う理由は主として三つあると指摘します。第一はシナ人は貯蓄を全部本国へ持ち帰ってアメリカを貧乏にするからであるというのです。彼らは働きの三分の一を国内で消費し、その残りはすべて本国で安楽と幸福とを贖うために持ち去るではないか、そしてシナ人は持ち去る金額に相当する事業をあとに残していくというのです。黄金はすでに彼らのものに違いないのですが、しかるにこの正直な勤労の人々に対して、その神聖な所有権を拒もうとするアメリカ人は一体なにものなのかと強く迫るのです。「祝福されしクリスチャン」なるアメリカ人は、あざけりの言葉と共に我らを外に蹴り出すのでしょうか。「ああ、復讐の神よ、こんなことが一体あっていいものでしょうか。」と内村は慨嘆するのです。

移民排斥の漫画

 第二に、シナ人は自国の風俗や習慣を固執するから、キリスト教社会では見苦しいといわれていたようです。「それにシナ人は不潔でまた狡猾だ」と諸君はいう。諸君に次の点をたずねたい。シナ人が市警察へ爆弾を投じたり、白昼アメリカ婦人を襲ったりした例を諸君は今日までにきいたことがあるか。もし、社会の秩序と品位とを保つのが諸君の目的ならば、なぜドイツ人排斥法やイタリア人排斥法をも同時に制定しないのか。なんの反抗もしないあわれなシナ人を、そも何の罪ありとで、かほどまでに迫害するのか。われらの国に滞在するコーカサス人の不正がシナ人のそれと比較考慮されることこそ望ましい。」

 第三に低賃金で働くシナ人は、アメリカ人労働者を不利におとしいれると考えられていました。この理由は第一、第二の理由よりもはるかにもっともらしくきこえるようです。これは、アメリカ人労働者を保護するために、シナ人の輸入労力に適用された悪しき「保護政策」がありました。内村は次のようにも言います。

「こんなに従順な、こんなに不平をつぶやかぬ、こんなに勤勉な、そしてこんなに安価な労働者階級を、諸君は世界のどこで見いだすことができるか。彼らをその独自の業種に振り向けて利用せよ。そのことが、ただに諸君のキリスト教の信仰にふさわしいばかりでなく、諸君の財布にとっても有利なことは明白なのだ。諸君と同じ人間を幸福にすることをなぜ拒むのか。律法と福音とを信じる君たちが、なぜ他国人に親切と情とを与えないのか。シナ人排斥法の全体の調子は、非聖書的、非キリスト教的、非福音的、非人道的だということである。不条理といわれる孔子でさえ、これより遙かに善いことを教えているではないか。」

 内村はさらに言います。「私はシナ人ではないことを告白せねばならない。この世界最古の国民と人種的に近親関係にあることを決して恥じたことのない私である。孔子と孟子を世界に送り、ヨーロッパ人が夢想もしない数百年も前に、羅針盤と印刷機械とを発明していた彼らである。しかし、広東出のあわれな苦力(クーリー)がアメリカ人から受ける侮辱や虐待のすべて我が身に受けるに及び、私はただただ、クリスチャンの忍耐によって辛うじて頭と心との平静を保っている。彼らはすべて「ジョン公」(John Chinaman)と呼ばれている。ニューヨークの親切な巡査までが我々をその名で呼ぶのである。」
(注:内村鑑三の原著にある「シナ人」という用語はそのまま引用します。)

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この人を見よー内村鑑三 その十一 キリスト教国という異教国

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アメリカでは金銭が万能の力であることを内村は経験していきます。サンフランシスコに着いたとき、一行の者に降りかかった災難によってそれを知るのです。五ドル金貨の入った財布をすられたのです。「キリスト教国にも異教国同様にスリがいるぞ」と互いに戒め合ったというのです。シカゴでは拝金主義(mammonism)を体験するのです。それは、駅の食堂で食卓を囲んでいたとき、ハム族(Ham)とおぼしい黒人の給仕がやってきて、食前の祈りをしている内村らに「皆さんは信心深いですね、本当に。」といって寄ってきたのです。そして、自分達もメソジスト派の信者であるとか、教会の執事をしているなどと語るのです。

セム族の分布図

 ハム族とは別名セム族と呼ばれ、旧約聖書に登場するノア(Noah)の息子セム(Sem)の子孫とされる人々、またはセム語を話す民族の総称です。古代には、メソポタミア(Mesopotamia)、シリア(Syria)、アラビア半島などに住む民族が含まれていました。現在では、主にユダヤ人とアラブ人がセム人とみなされています。

 この黒人信徒や執事は実に親切で、彼らの信仰との共通の話題に興味ありげで、まる2時間聞いていたのです。別れ際になると彼は黒い手を差し出して「いくらかくださいよ、、、」とせがむのです。しかたなく、50セント銀貨を取り出して彼の手に握らせたというのです。この国では親切さえも物々交換なのかと嘆くのです。内村らはチップの事は知らなかったようでした。内村は後に渡し船の中で絹の洋傘を盗まれたりします。そして自分が異教徒であることの無邪気さに戻ったと述懐するのです。

 キリスト教国において所持品の安全さが守られぬ事を知って、内村は不思議がるのです。キリスト教国民の間で見られるほと大がかりな鍵の使用を驚くのです。キリスト教国では、あえて金庫やトランクはいざしらず、あらゆるドアや窓、タンスや引き出し、冷蔵庫にいたるまで鍵が掛けられていて、主婦は腰に一束の鍵をガチャガチャさせながら働いているというのです。

 自分の故国では、最も疑い深い人が言い出したと思われるような言葉があるといいます。「火を見たら火事と思え、人を見たら泥棒と思え。」しかし、内村は、くまなく鍵のかかったアメリカ人の家庭以上に、この戒めを文字通り実行しているところを知らないと述べます。「セメント造りの地下室と石造りの金庫とを必要とし、ブルドッグと警官とによって守らねばならぬ文明なるものは、果たしてしてキリスト教文明と呼び得るであろうか。公正なる異教徒の自分はそれを疑わざるを得ない。」

John Brown

 このように、キリスト教国と考えていたアメリカで、内村はこの国の人々に広まる強烈な人種的偏見の現実を体験します。残忍非道の方法で土地を奪われ、罠に掛けられ狩り回され連れてこられた黒人を目の当たりにするのです。彼らはアフリカからの輸入です。彼らにたいして相当の同情とキリスト教的友愛とが示され、サクソン(Saxon)の義人ジョン・ブラウン(John Brown)も虐殺されねばならなかった国です。キリスト教国民は今では「黒ん坊」として同じ客車に乗るほど寛容になったとえは、黒人との間に相当の距離をおくのを体験するのです。デラウエア州(Delaware)のある街の一区画が黒人専用になっているのを見て驚き、こんな厳重な人種的分け隔ては実に異教的なやり方だと知人に漏らすのです。

 ジョン・ブラウンのことです。彼は白人の奴隷制度廃止運動家で、奴隷にされていたアフリカ系アメリカ人の解放のためにバージニア州(Virginia)ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry)で奴隷制度廃止運動を始めます。この町で武器庫を襲撃しますが失敗に終わり、捕らえられて後に反逆罪として絞首刑に処せられます。国中を震撼させた運動といわれます。

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この人を見よー内村鑑三 その十 キリスト教国の第一印象

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内村鑑三の当時のアメリカについての印象は、興味ある話題です。彼は1884年に私費でアメリカに渡ります。11月24日に「金門橋を過ぎると視界にはいる煙突や帆柱はみな天を指す教会堂の尖塔かと疑われた。」そしてサンフランシスコに到着します。あるアイルランド人のホテルに馬車で乗りつけます。それまで彼が会った白人種はおおかた宣教師だったので、その観念が深く心に食い入って、道すがら会う人は皆キリスト教の高い目的を抱く教役者のように思われたのです。これまで彼はキリスト教国と英語国民とを特別な尊敬の念もって眺めていたのです。やがて「この子どもぽい考えから私は徐々にきわめて徐々に抜け出したのである。」

 内村は高貴なもの、有益なもの、向上的なものをすべて英語を媒介物を通して学んでいきました。もちろん聖書を英語で読破していました。前稿で書いたバーンズの聖書註解書も英語でした。キリスト教国アメリカに関する彼の概念は、高貴な、信仰的な清教徒的なものでした。清教徒は、日曜日の娯楽などを避け、労働・節制・家庭の秩序を重視しました。家庭は「小さな教会」とされ、信仰教育の場と考えられていました。個人の生活にも厳格な道徳基準を求めました。しかし、内村が上陸後に知ったのは拝金主義や人種差別の流布したキリスト教国の現実です。

 ヘブル語法(Hebrew)が、少なくともある意味でアメリカにおける日常の言葉遣いであることを知ります。それは人々は皆ヘブル風の名前を持っていることでした。つまり、旧約聖書や新約聖書にでてくる固有名詞が、人々の名前として残っているのです。Andrew、Bartholomew、David,、James、 John、 Joshua、Luke、Mark、Martha、Mary、Michael、Paul、Peter、Philip、Simon、Stephen、 Thomasなど枚挙に暇がありません。こうした名前が馬にも付けられていることに驚くのです。

12使徒と最後の晩餐

 ところで、ヘブル語法が英語に与えた影響は、生成AIによれば、一般的な文法構造のような直接的な影響というよりも、聖書翻訳、特にキング・ジェームズ訳(King James Version)を通じた語彙・文体・表現の影響という形で見られることです。例を挙げますと、感嘆や呼びかけの構文、たとえばヘブル語の呼びかけや感嘆の語法が英語表現に残されています。 “Holy, holy, holy is the Lord of hosts”という例です。ヘブル語的並列法・反復法特徴(パラレリズム: parallelism)も英語に引き継がれています。さらにヘブル語の宗教概念を英語に採用した「covenant(契約)」「redemption(贖い)」「sin(罪)」「righteousness(義)」などの概念語は、日常語にまで浸透しています。ヘブル語では主語+述語の順序よりも、強調したい語を文頭に置く語順の自由さがあります。”Great is thy faithfulness.”といった按配です。

ヘブル語の一例(テトリスの海外旅行より引用)

 内村は、人々が不快な気持ちになるとき、宗教上の呪いが伴うことを知ります。「神にかけて、やつは悪魔だ」(By God!, he is a devil.) 、「こん畜生」(Jesus Christ ! ) (damn-devi l )といった言葉を見聞きするのです。そして立派な職業に従事する者までが、我々が極度に畏れ敬いながらようやく口にする言葉を平気で発するのを体験するのです。そして、これらのすべてのヘブル語法の根底に横たわる深刻な冒涜罪を発見し、それを十戒(Ten Commandments)の三、すなわち「神の名をみだりに唱えてはならないこと」に対する明白な違反と断言するのです。内村はこうして、アメリカでヘブル語法の英語の体験を通して、「キリスト教文明」に対する信頼に疑問を抱いていきます。

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この人を見よー内村鑑三 その九 新しき教会

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1881年7月9日、土曜日に農学校の卒業式が行われ、その後卒業演説会が開かれます。第二期生が入学したときは21名でした。病気その他で、卒業の時は12名に減っていました。そのうち7人がクリスチャンとなります。卒業時、上位の七席を占めていたのはこの7人でした。内村は首席、二番は宮部金吾、六番が新渡戸稲造だったとあります。特に内村の成績は抜群で空前であったばかりでなく、絶後だったといわれます。卒業後、開拓使御用掛として北海道開拓使民事局勧業課に勤め水産を担当します。月俸は30円だったようです。

北海道開拓使

 宮部金吾は札幌農学校で教鞭をとるために東京大学に行き、新渡戸稲造も農学校で教鞭をとることになります。内村は勤務の傍ら、教会堂を建て、それを独立させることに奔走します。そして、1882年に南2条西6丁目にあった古い家屋を購入して、札幌基督教会,、後の札幌独立キリスト教会を創立するのです。教会堂は安い木造建築なので、雪が吹き込んできて、ある日は婦人席は使えなかったとあります。婦人達の乗ったソリは雪の中で動きがとれなくなり、家までたどりつくのに酷く苦労をしたようです。

 全教会員が出席して総会を開いた時です。今や実社会という荒波に乗りだした内村らは、人生なるものが教室の中で想像した以上に現実で真剣なものだということに気がついていきます。すでに400ドルの借金をしている上、説教者には一銭の謝礼も払っていない中、一般経費は相当な額にのぼり、そうした難題に取り組むのです。そこにニュー・イングランドに住む「イエスを信じる者の誓約」の起草者から100ドルの小切手が送られてくるのです。この方こそ恩師ウイリアム・クラークだったのです。「神は備えたもう、兄弟達よ、うなだれた頭を上げよ、天の父は我らを見捨てたまわなかった。」この吉報は教会員の間にたちまちひろがり、一同は希望を取り戻すのです。

札幌農学校農場

 新しい教会ができると、教会規則を作ることになります。信仰個条は使徒信条(Apostle’s Creed)で、教会規則書の基になったのは「イエスを信じる者の誓約」という簡単なものでした。教会は5人からなる委員会で管理されていきます。会計は複式簿記で整理したという先駆的なものでした。ただ規則書が触れていない問題、たとえば教会員の入会、退会などは、全教会員を招集し全員の2/3の投票で決めるというものでした。この教会は一人ひとりが教会のために何らかの働きをすることを要請しました。一人として怠けることは許されなく、誰も彼もが教会の発展と繁栄とについて責任を持つのだということを確認するのです。

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この人を見よー内村鑑三 その八 芽生えの教会

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メリマン・ハリス(Merriman C. Harris)宣教師より洗礼を受けた二期生、特に結束が強かった7人は「新しい人」となったことを自覚し、やがて自分たちの教会を作ろうと考えていきます。寄宿舎の私室に作ったのがそれです。この小さな教会はどこまでも「民主的」で、各自はみな教会員として同じ資格をもっていました。それが真に聖書的であり使徒的であると思っていました。集会の指導役は順番に皆に廻ってきました。順番に当たった者は牧師であり教師であり、小使いでもありました。牧師は開会を宣して祈祷し、聖書を朗読します。次に自分で短い話をしてから、羊の群れを一人ひとり順に呼んで感話をさせるのです。

 当番の牧師は日曜日の朝、第1に会費を集めて集会のためになにか甘い物を用意するのです。感話をさせる間に、甘い物を配り、その茶菓に元気づけられている間に感話は進行するという按配です。会員はそれぞれ自分の特質を示す感話をしました。例えば「不信心について」、「慈悲深い神の摂理」、「神にたいする畏敬と尊崇」などでした。

Albert Barnes, pastor of the First Presbyterian Church Philadelphia, 1837

 そうした礼拝の持ち方に加えて、学生は聖書研究の参考書を探していました。そのため主としてイギリスやアメリカの出版物を頼ることになります。例えばアメリカ伝道小冊子協会の出版物を手に入れたり、「週刊絵入りキリスト教雑誌」などでした。ボストンのユニテリアン協会(American Unitarian Association) が彼らにキリスト教関連の刊行物を送ってくれたりしました。そうした雑誌を学生達は熟読していきます。その中で最も感化を与えたのはフィラデルフィア(Philadelphia)の長老教会 (Presbyterian Church) のアルバート・バーンズ師(Rev. Albert Barnes)が著した「新約聖書注解」(Notes on the New Testament)です。

 内村は、この注解書が世にも有益な魅力のあるものとして、学校を卒業するまでに新約聖書に関するこの註解を一字もあまさず読破していたと記しています。「註解の各巻にあふれる深い霊性、簡潔で明瞭な文体、その中にみなぎる清教徒の精神に感動する」のです。「この偉大な神学者によって押された神学の刻印は、自分の心から永久に消え去ることはない」とも述懐するのです。

 いよいよ学生達は新しい教会を作ることになります。そのとき宣教師から、アメリカのメソジスト監督派 (Methodist Episcopal Church) は新教会堂建設のために400ドルを援助するという手紙を受け取ります。しかし、学生らは貰うことにちゅうちょし、返済の難しさを考えるのです。ですが教会堂の土地に100ドルかかるので、残りの300ドルを建築費用に充てようと考えていきます。やがて大工がきて新しい教会堂建築の見積書を提出してきます。建築の設計にわくわくするのですが、借金をすることの苦悩、やがて返済の困難さに直面していきます。

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この人を見よー内村鑑三 その七 洗礼を受ける

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1878年6月2日、内村鑑三はアメリカから来ていたメソジスト派(Methodists)のメリマン・ハリス(Merriman C. Harris)宣教師より洗礼を受けます。内村17歳のときです。ハリス師とは終生の親友となります。

Rev. Merriman C. Harris

 「彼の前に我々がどんな具合にしてひざまずいていたか、また我々の罪の為に十字架につけられしキリストの名を告白せよといわれたとき、堅い決心のうちにもどんなに震えながらアーメンと応えたかを、私は今でもよく覚えている。ところで我々は、日々との前にクリスチャンたることを告白すると同時に、おのおの洗礼名をつけるべきだと考えた。そこで、ウェブスター字典の付録を調べてそれそれ自分にふさわしいと思う名前を選びだした。」 内村は『旧約聖書』の「サムエル記」(Books of Samuel) 20章に登場するダビデ(David)に対するヨナタン(Jonathan)の友愛にいたく動かされていたので、ヨナタンと名乗ることになります。

 「サムエル記」に登場するサウル王(King Saul)は、ダビデがイスラエルの王位に就くことを望んでいるのではないかと疑い、ダビデを殺害しようと目論むのです。しかし、ヨナタンは父の意図を知ると、 ダビデの身に危険が迫っていることを知らせるという記事があります。内村は洗礼の感動を次のように記します。

Gaius Iulius Caesar

 「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえです。ルビコン川は、古代ローマ時代、ガリア(Gallia)とイタリアとの境をなした川です。ローマ時代、ルビコン川より内側には軍隊を連れて入ってはならないとされており、違反すれば反逆者として処罰されたのです。しかし、ユリウス・シーザー(Gaius Iulius Caesar)が大軍を率いてこの川渡り、ローマに向かうのです。

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この人を見よー内村鑑三 その六 「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」

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『内村鑑三信仰著作全集』全25巻の第2巻目がこのタイトルとなっています。第一章の「異教」に始まり第十章の「キリスト教国の正味の印象」で終わっています。内村がこの章に記そうとしたのは、自分がいかにしてクリスチャンになったかということです。なぜなったかということではありません。「なぜ、なったか」というのは「回心の哲学」ということですが、これが本題ではないと言います。彼は自分自信を綿密な観察の対象としてきたとも述べます。そしてその観察は、神秘に充ちていることを発見します。

左は新渡戸稲造、右は内村鑑三

 内村は多くの日記を書いています。その日記を「航海日誌」と呼んでいます。自分という憐れな小舟が罪と涙と多くの悲哀とを通過して、上なる天を目指して進む、日ごとの進歩を記録していく、とも言うのです。もう一つの例えは、この日記は「生物学者の写生帳」とも呼んでいることです。一個の霊魂が稲から成長して熟した穀物になるまでの、発生学的成長に関する、形態学上と生理学上のあらゆる変化がここに書き留められているというのです。

 第一章の「異教」は内村の血統から始まります。内村家は代々高崎藩表用役をつとめ禄高は50石で儒教を信じていました。父親は中国聖賢の書物や言葉をほとんどそらんじていたほどです。「自分には聖賢の政治道徳的な教訓はよく理解できなかったが、しかし儒教のおおよその気分は深く心に染みこんでいった」と述懐しています。儒教の「孝は諸徳のもとなり」と教えるのですが、これは「主を恐れることは知識の始まりである」というソロモンの箴言(Proverbs)(1章7節)と似ているといいます。長上に対する服従と尊敬とを強く教え込む東洋思想に言及し、同輩や目下との関係にも触れます。すなわち交友における誠実、兄弟の融和、目下の者に対する寛容さを言うのです。こうした儒教の教訓は、多くの自称クリスチャンに授けられている教訓に比べて少しも劣るものではないと言います。しかし、当時の内村は、武士の家からの多くの欠点や迷信にとらえられていたことも告白しています。

 第二章の「キリスト教への入門」は、ある朝学友が内村を外人居留地への礼拝に誘ったことから始まります。そして日曜日ごとに、教会に通うのですが、当時の内村はこのような常習的行為のもたらす怖ろしい結果を知らなかったのです。自分に英語の手解きをしてくれる英国婦人は、内村の教会通いを喜んでくれるのです。彼にとっては教会通いは「物見遊山」だったのですが、、、。キリスト教は、それを信ぜよと迫られないうちは、内村にとって楽しいものでした。さらに教会の信者の示す親切は彼をいたく喜ばせたのです。小さい時から祖国を他のすべての国にまさって尊び、祖国の神々を拝して他国の神を拝してはならないと教えられてきた内村です。武家たる父親らから異国に興った宗教を信じるものは、祖国に対する反逆、国教に対する背教者となる、と信じ込まされていたのです。

 やがて札幌農学校に入学する内村らに対して、上級生らは下級生を回心させようと試みるのです。周りの同窓生は皆回心していきますが、内村は一人それに抗して「異教徒」として孤立します。学内の世論があまりに強く内村は、ついに「イエスを信じる者の誓約」に署名するのです。当時内村は16歳であり、「加入せよ」との上級生からの力に屈せざるを得なかったようです。こうして、内村のキリスト教への第一歩は自らの意志に反して強制された、言い換えれば、自分の良心に反したものだった、回想するのです。

アマースト大学時代の内村鑑三

 この誓約書はもともと英語で書かれていました。ウイリアム・クラークが書いたものだったのです。誓約書に署名したのは総数30名を超えていたといわれます。新しい信仰のもたらす益は、宇宙には唯一の神がいますのみであることを教えられたと述懐します。キリスト教的一神教が自分のすべての迷信を根本的に断ち切ったと言います。そして自分は「イエスを信じる者の誓約」に強制的に署名させられたことを悲しまなかったとさえ断言するのです。それほど誓約の内容は霊感的(inspiring)だったと回想します。

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