アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その3 ポルトガルやフランスの植民地化政策

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アメリカ大陸におけるイギリスの植民地化政策は、ヨーロッパ人による開拓の序章に過ぎません。1418年にポルトガル人 (Portuguese) が、北アフリカのモロッコ(Morocco)西方、大西洋上にあるポルトサント島 (Porto Santo) へ航海し、それが開拓政策の始まりといわれます。1487年にはポルトガル人は、アフリカの西海岸沿いに位置するモーリタニア(Mauritania)のアルギン(Arguin)、シエラレオ(Sierra Leone)、エルミナ(El Mina)などに交易の拠点をおきます。

1497年にはヴァスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰(Cape of Good Hope)を通り、アフリカの東海岸に到達します。その後、ポルトガルはインドにおける商業圏を築くことになります。1500年には、ペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral )は、ブラジル(Brazil) を経由してインド洋に達します。ポルトガル人はこうして新大陸へも進出していきます。

Vasco da Gama
Jacques Cartier
Pedro Alvares Cabral

 航海や探検におけるポルトガル人の活躍に続いて、コロンブスのアメリカ大陸への航海後、スペイン人も急速に航海を始めていきます。カリブ海(Caribbean Sea)をはじめ、新スペイン(New Spain)やペルー(Peru)などを征服し、ヨーロッパ諸国の新大陸への関心や羨望を大いに高めます。

フランスは、ヨーロッパにおける戦いでは自国の領土を保全していきますが、スペインやポルトガルのように海外への進出は遅れをとっていました。16世紀初頭になると、フランスの船乗りはニューファンドランド(Newfoundland)に拠点をつくります。1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)は、セントローレンス湾(Gulf of St. Lawrence)の探検に乗り出します。1543年までに、フランスは新大陸での植民地化を断念していきます。16世紀の後半になると、フランスはフロリダ(Florida)やブラジルに植民地をつくろうと試みます。しかし、いずれも失敗に終わり16世紀はスペインとポルトガルの二カ国が新大陸における植民地づくりで覇権を握っていきます。

フランスの新大陸における植民地化の足跡は、各地に残るフランス語の町や村の名前で分かります。例えば、ウィスコンシン州(Wisconsin)だけをみてもPortage, Racine, Prairie du Chien, Prairie du Sac, Radisson, Marquette, Nicoletなど沢山の町にフランス語名が付けられています。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その2 先住民族の生活様式と文化

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先住民族の生活様式は各地域における食糧資源によって決定されます。各地域の物質文化も食料、その他の資源に応じて違いがありました。魚や海の哺乳類は、大陸の沿岸に住む人々の食料となり、どん栗などはカリフォルニア先住民族の定番の食料となりました。アメリカバイソン(bison)やバッファロー(buffalo)等、平原に住む動物はそこに定住する先住民族の食料となりました。狩猟や釣りは中西部や東部の先住民族の暮らしの支えとなり、南西部の先住民族は、主としてトウモロコシを食料とし魚や動物は代用食となりました。こうした食料の調達により、釣りや狩猟、植え付けと果実の採取によって、食料獲得の技術を促していきます。

tepees

食糧や資源はそれぞれの地域の資源という文化に依存します。先住民族は人力や犬ぞり、筏、小舟、カヌーなどで物を運びました。16世紀初頭にスペイン人がもたらした馬は、先住民族もすぐに取り入れ、大平原におけるバッファローの捕獲に活躍します。先住民族の諸文化は家の形によっても識別されます。たとえば、エスキモー(Eskimos)はドーム型の氷の家(igloos) 、大平原やプレーリー(prairie)の先住民族は土や毛皮で造った小屋やテント(tepees)、一部の南西部の先住民族ープエブロ(Pueblo) は平屋根の多層式の家屋(Adobe)、更には衣類、工芸、武器、さらに種族の経済的、社会的、宗教的な習慣も各部族によって異なっていきます。

 先住民族は、通常アメリカ・インディアン(America Indians)とかネイティブ・アメリカン(Native Americans)と呼ばれます。本稿では先住民族とか先住民と表記します。衣食住の形態は、先住民族独特のものがあり民族学や民俗学の興味ある話題となります。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その1 先住民族とクリストファー・コロンブス

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アメリカ大陸(北米大陸)はクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)の航海以前に何度かにわたって発見されていたようです。コロンブスが上陸した時、彼は「新大陸 (New World)を発見した」と思ったかもしれません。上陸した島は後に命名されたサン・サルバドル島(San Salvador Island)です。ここには先住民のインディオ(Indio)でアラワク族系(Arawak)に属するルカヤン族(Lucayan)が住んでいました。

ルヤカン族

 やがて北米大陸にはアジア系のモンゴロイド(Mongoloid)がアジア大陸からベーリング海峡(Bering Strait)を通って移住してきます。ヨーロッパ人が最初に到達する以前にこうした先住民族は一般にインディアン(Indians)と呼ばれ、大陸の様々な地に定住していました。コロンブス以前からアメリカ大陸に先住民族が定住していたことは動かぬ事実ですから、世界史の上で始めてこの大陸を発見した人物はコロンブスでないことは言うまでもありません。 先住民族らから、「アメリカ大陸の発見はヨーロッパ中心主義に基づいた的外れの見方である」と批判されてきたのも理解できます。

 コロンブスがやって来る前には、現在のアメリカ大陸に1,500万人の先住民族がいたといわれます。先住民族がアメリカの歴史において、どのような役割や影響を及ぼしたかは興味ある話題です。先住民族は多様な部族から成り、その文化や生活においてさまざまな違いがあります。新大陸にやってきたヨーロッパ人がもたらした文明は、やがて先住民族の暮らしや文化によって影響を受けていきます。彼らの食事や香料、物作り、作物作り、戦いの技法、言語、民謡、など民族の独特な文化の注入が、ヨーロッパからの征服者にいろいろな影響を与えていきます。長く続いた白人による西部開拓は、先住民族の激しい抵抗を誘発し、後に合衆国における最も悲劇的な歴史を記すことになります。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

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この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

感謝祭と勤労感謝の日

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 1977年11月26日、高速道路(インターステイト−94)は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってウィスコンシン州のマディソンからミルウオーキにお住まいのルロイ・ハスという元宣教師宅に着きました。感謝祭の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

 ハス牧師は、戦前は中国の内陸で、戦後は日本での伝道に20年あまり従事していました。ですから日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ英語の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス牧師の言葉に聞き入りました。それから夕餉が始まりました。

 エプロンをつけたハス牧師自らが七面鳥の丸焼きにナイフをいれて、細かく切り分けます。この役割はご主人が受け持つのが伝統だそうです。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは味が鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィングという乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソースです。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれもミセス・ハス手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

 家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆家族で感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス牧師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから47年が経ちます。ハスご夫妻は既に召されています。

 11月23日が近づきました。勤労感謝の日です。 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」として1948年に制定されました。勤労感謝の日の前身は、古くから日本にある新嘗祭(にいなめさい)という祭りです。これは新米の収穫を神に感謝するための祭りで、おもに皇族が行ってきました。時代を経て、11月23日は神への感謝から労働をするすべての人への感謝の日へとなりました。

 万国に共通することは、実りと収穫という恵みに感謝する行事があることです。収穫へ感謝を示すとは、見えざる手に対して畏敬の念を表すことです。それがどのような神であれ仏であれ、感謝するという行為がなにかの形で現れます。

 なぜ感謝するのかです。それは私たちがなにかに、誰かに支えられていることに気づくからです。仏教では「知恩」という言葉があります。恩を受けていることを知るということです。そこから「布施」という与えることを意味する行為が生まれるといわれます。恩に報いることです。

 「どんなことにも感謝しなさい」という聖句があります。「ありがとう」はわたしたちの生活の土台になるものです。私は、家内にそれを素直に言葉に表わすことができません(..;)。「Thank you」は「Think of you」からきているともいわれます。「あなたのことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるというのです。勤労感謝の日は、大切な人々に心からの「ありがとう」を伝える日です。家族や友人、近所の人たち、働く人たちが私たちを支えてくれることに感謝をする日でもあります。

Turkey
Thanksgiving −The Legend of John Carver

木枯らしの季節 その1 山口誓子の詩

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 一段と寒くなってきました。「海に出て木枯らし帰るところなし」 という句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のISと同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

 誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。この句の舞台は、樺太南部の港町、大泊です。明治34年に京都で生まれた誓子は、明治45年に樺太日日新聞社の社長であった祖父の住む樺太へと渡ります。そして、大正6年に大泊中学から京都府立一中に転校するまでの約5年間を樺太で暮らしています。

探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

 私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。誓子が療養中に詠ったのがこの句は、敗戦間近で反戦文学などの流行に警戒していた官憲の検閲にひっかからなかったようです。

木枯らしの季節 その2 ライデンからプリマスへ

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感謝祭の由来

 北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

 バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。


メイフラワー号

 ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープコッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

MayflowerII

 プリマス開拓地はボストンから車まで一時間のところにあります。ボストンに行かれたときは、是非ともこの自然博物館を訪れることを強くお勧めします。プリマスはPlimothとかPlymouthと綴られます。その違いの理由は分かりません。


高速サーバーの利用開始

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奈良の友人が、古いサーバーにあった過去10年あまりの投稿や画像などのデータベースを新サーバーに移管する作業をしてくれました。

晩秋のウィスコンシン大学構内のバイクロードです。右側はレイクメンドータ湖です。私もここをしばしば走ったものです。

秋の卒業式の模様です。

Gutenberg エディターにようこそ

Gutenberg Editorとは


この新しいエディターのゴールは、WordPress へのリッチコンテンツの追加をシンプルで楽しくすることです。この投稿全体がコンテンツのパーツ—LEGO ブロックのようなもの—により構成されており、動かしたり操作できるようになっています。カーソルを動かすと、様々なブロックが枠線と矢印とともにフォーカスされます。矢印を押すとブロックをすばやく並び替えることができ、コピー & ペーストしているうちに内容が消えてしまう恐れがありません。

現在ご覧いただいているのがテキストブロックで、すべてのブロックのうち一番基本のブロックです。テキストブロックは、投稿内を自由に移動できる独自のコントロールがついています。

…例えば、右揃えのこれのようなものです。

見出しは別ブロックとなっており、コンテンツのアウトラインと構成に役立ちます。

百聞は一画像にしかず

画像とメディア取り扱いへの高い気遣いは、新しいエディターのメインフォーカスです。キャプションを追加したり、全幅にするのがより簡単で強力になっているのにお気づきいただけるでしょう。

美しい風景
テーマでサポートされていれば、画像ツールバーに「幅広」ボタンが表示されます。お試しください。

キャプションを選択、削除、編集してみてください。画像や他のテキストを間違って選択して、表示を台無しにしないよう気を使わずに済むようになりました。

「挿入」ツール

WordPress ができるすべてのことが、すばやく、同じ場所・インターフェイスで可能であると想像してみてください。HTML タグやクラスを理解したり、複雑なショートコード構文を覚える必要はありません。これこそが「挿入」ツール—エディター中にある (+) ボタン—の真髄で、すべての利用可能なコンテンツブロックを閲覧し、投稿に追加することができます。プラグインとテーマは独自のブロックを登録することができ、リッチな編集や公開の可能性を広げます。

お試しいただくと、WordPress が投稿に追加可能でありながら、ご存知ではなかったものを見つけていただけるでしょう、以下はこの投稿が使用しているブロックの簡単なリストです。

  • テキストと見出し
  • 画像と動画
  • ギャラリー
  • YouTube、ツイート、他の WordPress 投稿などの埋め込み。
  • ボタンやヒーロー画像、区切りなどのレイアウトブロック。
  • もちろん、このようなリストも ^^

ビジュアル編集

ブロックの大きな利点は、それぞれの場所で編集し、コンテンツを直接操作できることです。引用ソースやボタン内テキストなどを編集するためのフィールドを持つのではなく、コンテンツを直接変更できます。以下の引用を編集してみてください:

このエディターは、リッチな投稿や固定ページの作成を簡単にする、新しい執筆体験を生み出そうとしています。また「ブロック」によって、現在はショートコード、カスタム HTML、外部埋め込みコード自動ディスカバリー機能が実現していることをより簡単にします。

マット・マレンウェッグ、2017

 

 

引用の​​ソースに対応する情報は、画像下のキャプションに似た別のテキストフィールドです。このため、ソースを選択、変更、または削除しても、引用自体の​​構造は保護されます。いつでも簡単に戻すことができます。

ブロックは、必要なもの何でもかまいません。たとえば、テキスト構成の一部として目立たない引用符を追加してもよいでしょう。または、巨大で装飾的なものを表示させることもできます。これらのオプションはすべて挿入ツール内で利用できます。

サイドバーのブロックインスペクターでスライダーをドラッグすると、ギャラリーのカラム数を変更できます。

メディア重視

新しい幅広全幅配置をギャラリーと組み合わせると、非常にメディアリッチなレイアウトをすばやく作成できます。

全幅画像はかなり大きくなる場合もありますが、画像によってはそうする価値があることもあります。

上は2つの画像のみのギャラリーです。フロート調整を行うことなく、魅力的な見た目のレイアウトを簡単に作成することができます。またブロックを切り替えて、ギャラリーを個別の画像へ簡単に戻すこともできます。

あらゆるブロックでこれらの配置を選択できます。埋め込みブロックでも利用でき、ボックス外でもレスポンシブ対応しています:

https://vimeo.com/22439234

静的または動的、装飾的またはプレーンなものなど、お好みのブロックを構築できます。こちらがプルクオートブロックです。

Code is Poetry

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