アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その11 ウィリアム・ペンとペンシルベニア州

注目

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ペンシルベニア州(Pennsylvania)は、その創設者ウィリアム・ペン(William Penn)のリベラルな政策のおかげもあり、アメリカのすべての植民地の中で最も多様でダイナミックに繁栄することになります。 ペン自身はイングリッシュ・ホイッグ(English Whig)と呼ばれるリベラルでしたが、決して過激な思想の持ち主ではありませんでした。 彼のクエーカー教徒(Society of Friends)としての信仰は、当時の一部のクエーカー教徒の指導者の宗教的過激主義ではなく、信仰における大事な教えである良識と平和主義の自由の尊重など、ホイッグの教義といわれる基本的な信条へ信奉が特徴でした 。ペンは、新世界で提唱した「聖なる実験」(holy experiment)によって、これらの理想を実現しようとしました。

 ペンは、1681年にチャールズ二世(Charles II) からの勅許によってデラウェア川(Delaware River) 沿いの土地を父親の王への忠誠に対する報酬として与えられます。 1682年にペンによって提案された最初の政府の枠組みは、それぞれ植民地の自由な所有者によって選出される評議会と下院議会から成るものでした。評議会は立法について唯一の権限を持つとされました。下院は、評議会によって提出された法案を承認または拒否することができました。

William Penn

 この形態の政府の「寡頭的」性質について多くの反対があり、その後ペンは1682年に第二の政府の枠組みを提案し、1696年には三番目の政府の枠組みを提案します。しかし、どれも植民地の住民を完全に満足させることはできませんでした。1701年に、ようやく議会にすべての立法権を与え、評議会を諮問機能のみを備えた任命機関とする特権憲章(Charter of Privileges)が市民によって承認されました。特権憲章は、他の3つの政府の枠組みと同様に、すべてのプロテスタントに宗教的寛容の原則を保証するとしました。

 ペンシルベニアは開拓当初から繁栄していました。最初の入植者は、肥沃な土地と重要な商業的特権を受け取り、その後の入植者と間では確執がありましたが、ペンシルベニアの経済的な機会は、他のどの植民地よりも大きいものとなります。1683年にドイツ人がデラウェア渓谷に移住し、1720年代から30年代にかけてアイルランド人(Irish)とスコットランド系アイルランド人(Scotch-Irish)が大量に流入し続けると、ペンシルベニア州の人口は増加し多様化していきました。平野部の肥沃な土壌は、寛大な政府の土地政策と相まって、18世紀を通して高いレベルで入植者の生活を支えていきました。

 しかし、土地の開拓という執念に燃えるヨーロッパの入植者の願望は、ペンが構想していた先住民族への施策とは対立するものでした。ヨーロッパ人入植者が求めていた経済的機会は、ペンが設立してきたコロニーの土地をめぐって、すでに占有していた先住民族との間で頻繁な混乱や殺戮という行為に現れました。

Amish buggy

「注釈」 ペンシルベニア州や中西部、カナダのオンタリオ州などにやって来たドイツ系移民がアーミッシュ(Amish)と呼ばれる人々です。彼らはペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)とも呼ばれるキリスト教徒の共同体で、移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足の生活をしていることで知られています。ペンシルベニア州はアーミッシュの人口が全米一となっています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その10 ニューアムステルダム

注目

Last Updated on 2024年12月30日 by 成田滋

ニューネーデルラント (New Netherland) は、1624年にオランダ西インド会社(West India Company)によってオレンジ砦(Fort Orange)、現在のアルバニー(Albany) に設立されます。その設立は、17世紀前半のオランダの拡大プログラムの1つにしかすぎませんでした。 1664年、イギリス人はニューネーデルラントの植民地を占領し、チャールズ二世(Charles II)の兄弟であるヨーク公爵(Duke of York)が、ジェームズ(James)という名を改名したニューヨーク(New York)を統治下におきました。毎年、王への贈呈していた40匹のビーバーの毛皮の見返りに、ヨーク公爵と彼の知事理事会は、植民地の支配に強大な裁量が与えられました。

1650年代のニューアムステルダム

 ヨーク公爵への助成金は代議員会では協議しましたが、公爵は代議員会を召集することを法的に義務付けられておらず、実際には1683年まで召集しませんでした。植民地に対する公爵の関心は主に経済的であり、政治的なものではなかったのですが、彼はニューヨークから経済的利益を得るための努力は無駄であることがわかります。先住民族やいろいろな侵入者もどきは、ニューヨークにおいて脱税に成功し、ヨーク公爵や代議員を苛立たせました。実のところオランダ人は、1673年にニューヨークを奪還し1年以上治めるという事態となりました。

 1685年2月、ヨーク公爵は自分自身がニューヨークの所有者であるだけでなく、イングランドの王となっていることも知ります。これにより、ニューヨークの地位は私有化された土地から直轄植民地に変わります。 1688年にニューイングランドとニュージャージーの植民地とともにニューヨークの植民地がニューイングランドの自治権の一部になっていくように、王室による統合化の政策は加速されていきます。 1691年、ロングアイランドに住むドイツの商人であるジェイコブ・ライスラー(Jacob Leisler) は、副知事のフランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)の支配に対する反乱を成功させます。 小さな貴族支配階級のエリートへの不満と、植民地をニューイングランド自治領に統合させようとした政府への嫌悪によって生まれた反乱は、王立支配の崩壊を早めることになります。

New Amsterdam

ヨーロッパ人の入植は、オランダ人の毛皮取引商、ヤン・ロドリゲス(Jan Rodriguez)が1614年にマンハッタン(Manhattan)の南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりとされます。これが後に「ニューアムステルダム」(New Amsterdam)と呼ばれるようになります。

この地図の右方向が北側で、今のニューヨークのマンハッタンのあたりです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その9 ロジャー・ウィリアムズとロードアイランド

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

東海岸(East Coast)とはアメリカの大西洋岸のことです。マサチューセッツ湾植民地の権威主義的な傾向にもかかわらず、そこでは恐らく他の植民地では見られないようなコミュニティの精神が醸成していきました。マサチューセッツ州の住民が清教徒の道徳の真の原則から逸脱していることを隣人に知らしめたように、その精神が、隣人のニーズに添ったものであるように訴えていきました。マサチューセッツ州での生活は、それまでの正統派主義に反対する人々にとっては困難でしたが、社会でゆき渡ってきたコンセンサスの中で生活する人々の賛同や共同体の感覚が次第に浸透していきます。

Rhode Island

 同時に多くのニューイングランド人はマサチューセッツの支配層によって押しつけられる正統派主義の中で生きることを拒否し、コネチカット(Connecticut)とロードアイランド(Rhode Island) が彼らの不満のはけ口として開拓されていきます。 1633年にマサチューセッツ湾に到着したトーマス・フッカー牧師(Rev. Thomas Hooker)は、すぐに教会員の入国に関する植民地の制限政策と植民地の指導者の寡頭的権力が望ましくないと考えます。マサチューセッツの宗教的および政治的施策に対する嫌悪感と新しい土地を開拓したいという願望に動機付けられて、フッカーと彼の仲間は1635年にコネチカット渓谷 (Connecticut Valley)に移動し始めます。そうして1636年までに、ハートフォード(Hartford)、ウィンザー(Windsor)、とウェザーズフォード(Wethersford)の街が造られていきます。 1638年にニューヘブン(New Haven)に別の植民地が設立され、1662年にコネチカットとロードアイランドが1つの憲章の下で合併していきます。

 ロードアイランドの創設に密接に関わったロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)は、植民地で確立されていた正統派主義に服従しないため、マサチューセッツから追放されます。アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)という女性の聖職者もそうでした。ウィリアムズやハッチンソンの見解は、いくつかの重要な点でマサチューセッツの支配層の見解と相対立していました。信仰を告白し、それにより教会の会員になる資格があるという厳格な教義は、最終的に誰もが教会の会員となるということを認めませんでした。

Roger Williams

 ウィリアムズはやがて教会がその会衆の純粋さを保証できないことを認識することになり、彼は純粋さを基準とした会員の認定をやめ、代わりにコミュニティのほぼすべての人教会の会員資格を認めるようにしました。さらに、ウィリアムズは明らかにイギリス国教会からの分離・独立の立場をとり、ピューリタン教会はイングランド国教会内にとどまっている限り、純粋さを達成することはできないと説教します。最も重要なことは、ウィリアムズやハッチンソンは、マサチューセッツの指導者が先住民族から土地を購入せずに、土地を占領することに公然と異議を唱えたことです。

 しかし、ウィリアムズらの主張は受け容れられず、彼は1636年に自ら信じる摂理(Providence)のためにマサチューセッツ湾から撤退することを余儀なくされます。1639年、マサチューセッツの正統派主義の反対者であるウィリアム・コディントン(William Coddington)は、ニューポート (Newport.)に会衆を定住させます。4年後、牧師のサミュエル・ゴートン(Samuel Gorton)も、支配的な寡頭制に異議を唱えたためにマサチューセッツ湾から追放され、シャウーメット(Shawomet)、後にワーウィック(Warwick)と改名される地帯に移住します。1644年、これら3つのコミュニティは、ポーツマスの4番目のコミュニティとして1つの憲章の下で合流し、ナラガンセット湾(Narragansett Bay)のプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)と呼ばれる入植地を形成していきます。

Narragansett Bay

 ニューハンプシャー(New Hampshire)とメイン (Maine)の初期の入植者もマサチューセッツ湾の政府によって支配されていました。ニューハンプシャーは1692年にマサチューセッツから完全に分離されますが、1741年になって初めて独自の王立知事が任命されました。メイン州は1820年までマサチューセッツ州の管轄下に入ります。ロードアイランド州はアメリカでもっとも小さい州で鳥取県より少し小さく、その愛称「リトルローディ」(Little Rhody)は、「良いものの包みは小さい」という諺を表しています。

注釈:ロードアイランド州は静かな海岸線や田園地方でも知られ、州都プロビデンスにはアメリカ名門8大学の総称アイヴィーリーグ(Ivy League)の一つであるブラウン大学(Brown University)があります。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その8 ジョン・ウィンスロップと分離主義の台頭 

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

マサチューセッツ湾植民地のクエーカー(Quaker)教徒は、清教徒と同じように主に宗教的拘束から解放されたいとしてアメリカへ航海しました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー指導者の一人です。クエーカーは、清教徒と異なりイギリス国教会から分離することを望んでいました。彼らはその矜持を示すことによって、教会を改革することを望んでいました。それにもかかわらず、マサチューセッツ湾植民地の指導者たちが何度も直面している問題の1つは、イギリス国教会の汚職疑惑であり、自分たちは国教会から独立したいという独立や分離主義の思想を支持する傾向にありました。

George Fox

 このような正統的な清教徒の教義からの逸脱を示唆する思想が広まるにつれて、分離の考えを支持する人々はすぐに改宗を求められるか、コロニーから追放されました。マサチューセッツ湾企業の指導者たちは、彼らの植民地が新世界における寛容の前哨基地になることを決して意図していませんでした。むしろ、彼らは植民地を「荒野のシオン」(Zion in the wilderness)という純粋さと正統性のモデルとしようと考え、すべての背教者(backsliders)が即座に改宗されるべきだと主張していました。

 植民地の市民による行政は、こうした権威主義的な精神によって統治していきました。マサチューセッツ湾の初代総督であるジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)らは、総督の義務は、彼らの構成員の直接の代表として行動するのではなく、どのような措置が最善の利益になるかを独自に決定することであると信じていました。1629年の当初の憲章は、植民地のすべての権力を会社の少数の株主のみで構成される一般裁判所(general court)に与えました。ヨーロッパからの人々がマサチューセッツに入植すると、入植者は多くの権利が剥奪されることを知りこの規定に抗議し、参政権(franchise) を拡大してすべての信徒を含むように主張します。これらの「自由人」は、知事と評議会のために、年に一度、一般裁判所で投票する権利を与えられました。

John Winthrop

 1629年の憲章は技術的には植民地に影響を与えるすべての問題を決定する権限を一般裁判所に与えましたが、支配階級であるエリートの会員は当初、入植者の数が多いという理由で、一般裁判所の自由人が立法過程に参加することを拒否しました。数によって裁判所の決定を非効率的にするからだと考えたのです。

 1634年、一般裁判所は新しい代表者の選出方法を採択します。これによりそれぞれの植民地の自由な人々から代表者が選出されますが。こうして立法に責任を持つ人々が、一般裁判所の2人または3人の代表者と代理人を選ぶことができるようになります。より小さくより権威のある小グループとより大きな代理人のグループの間には常に緊張が生まれました。1644年、この継続的な緊張を反映し、2つのグループは公式に一般裁判所の別々の部屋で討議し、互いに拒否権を持つようになりました。

イギリス国王チャールズ1世から植民地建設の特許を得た新たな移民が清教徒です。清教徒であることが「自由民」の資格だったのですが、清教徒による統治の厳格な正統性が皆に賛成されていたわけではありません。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その7 清教徒とプリマス・プランテーション 

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

当時、入植者の間には憲章というものはありませんでした。マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)という入植地にプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)が造られます。その創設者らは、ヴァジニア州の創設者と同様に、入植地に資金を提供して利益を追求する支援者からの民間投資に依存していました。プリマスの集落の中核は、オランダのライデン(Leiden)にあるイギリスの入植者が住んでいた飛び地からやってきました。これらのイギリス国教会からの分離を主張する人々は、真の教会は牧師の指導の下での自発的な社会であり、教会の教義の解釈は、個人の考えにあると信じていました。マサチューセッツ湾の入植者とは異なり、こうした清教徒(Puritans)はイギリス国教会を内部から改革するのではなく、国教会から独立することを選択していきます。

Mayflower II

 清教徒はプリマスでは常に少数派でしたが、それでも、入植の最初の40年間は入植地を統治していました。 1620年にメイフラワー号二世号 (Mayflower II)を下船する前に、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)が率いる清教徒の一行は、乗船したすべての成人男性に、ブラッドフォードらによって起草された誓約に服従することの署名を要求しました。このメイフラワーコンパクト(Mayflower Compact)と呼ばれる誓約は、後にアメリカの民主主義を推進する重要な文書として評価されますが、誓約は双方向的な取り決めではなく、清教徒は服従を約束しますが、彼らに希望を約束するものではありませんでした。やがてほぼすべての男性住民が州議会の議員と知事に投票することを認められますが、入植地は、少なくとも最初の40年間、少数の男性による統治化にありました。 1660年以降、プリマスの人々は教徒と市民の両方の立場で、徐々に意識を高め、1691年までにプリマス植民地がマサチューセッツ湾(Massachusetts Bay) に併合されたとき、プリマスの入植者は粛々と規律正しく振る舞いました。

Plymouth Plantation

 プリマスに入植の最初の年1620年に、清教徒であった入植者のほぼ半数が病気で亡くなりました。しかし、それ以来、イギリスの投資家からの支援が減少したにもかかわらず、入植者の健康と経済的地位は改善していきます。清教徒たちはすぐに周囲のほとんどの先住民族とで講和し、入植地を襲撃から守る費用と時間から解放され、強力で安定した経済基盤の構築に時間を費やすことができました。彼らの主要な経済活動である農業、漁業、貿易はどれも彼らに贅沢な生活を約束するものではありませんでしたが、マサチューセッツの清教徒はわずか5年後に自給自足していきます。

「注釈」 プリマス・プランテーションは、ボストンの中心街から、南東方向に約56kmのプリマスに位置します。現在は、野外歴史博物館となっています。1620年にプリマスに入植したピルグリムの人々の当時の生活や文化を再現し紹介しています。スタッフは厳しい訓練を受けて、当時の衣装を身にまとい、当時のように畑を耕し、当時の言語を話すなど歴史的考証によって徹底して入植時代を再現しています。ボストンを旅行するときは、必ずこの歴史的遺産を見学することをお勧めします。


成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その6 メリーランドの入植地 

注目

Last Updated on 2024年12月27日 by 成田滋

ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)で              す。彼は1632年に王室から土地の供与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の供与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。

 カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary‘s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、整備されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず不安定な生活状態でした。

 コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマカトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモア(Baltimore)は、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。ボルチモアは土地政策に執着していましたが、おおむね善良で公正な管理者でした。

Mary II

しかし、ウィリアム三世(William III)とメアリー二世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。

メリーランドという地名の由来は、イングランド王チャールズ二世(Charles II)の母親ヘンリエッタ・マリア(Henrietta Maria of France)にちなんでいます。現在のメリーランド州都はアナポリス(Annapolis)、最大都市はボルティモアです。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その5 ヴァジニアにおける植民地化政策

注目

Last Updated on 2024年12月27日 by 成田滋

ジェイムズタウン(Jamestown)における企業連合に属するヴァジニア会社の経営者は、もともと富裕な貿易商人や武器商人であり、さらなる新しい投資先を探すのに熱心でした。1607年の設立認可によるヴァジニア・コロニー(Virginia Colony) における最初に2年間は、経営が困難な状態でした。それというのは入植者の協力が得られにくかったことと、慢性的な資本の投資や供給不足が原因といわれます。

Virginia Colony

1607年の設立認可は、ヴァジニア会社の投資者を増やしていきます。取締役の努力によって短期的な投資が増えることになります。しかし、大抵の入植者は、その土地の先住民族が自分たちの生活を保障してくれるものと期待しました。先住民族はそれを頑なに拒否したために、会社経営はなんらの利益を生むことなく投資家も衰退していきます。

 イギリス国王は1612年に新たな認可状を発布し、ヴァジニア会社が投資を促すための宝くじの発行を認めます。破産しかかった会社を救うためです。同年、ジョン・ロルフ(John Rolfe)は始めて高い品質の穀物栽培にとりかかり、それがタバコの生産につながっていきます。トマス・デール卿(Sir Thomas Dale)がやってきて、1611年にヴァジニアの初代の総督となります。ヴァジニアは次第に統制がとれて、地域が安定していきます。当然、高い代償を払ってのことでした。

Jamestown

 デール卿は「権威、道徳、規律」(Laws Divine, Morale, and Martial)という法を定め、入植者の生活に規律を求めます。ヴァジニアの住民は子どもも女性も軍の階級が与えられ、それにそった義務を果たさなければならないというものです。こうした規律に反した者には重い罰則が科せられました。首やかかとを縛られること、むち打ち、そして犯罪人を乗せる船での労役でした。入植者はこうした法律に逆らうことは会社への中傷とみなされ、そうした行為は死刑を宣告されるようなものでした。

 デール卿の布告は、ヴァジニアにおける植民地政策に規律をもたらしますが、新しい入植者を増やすことには役立ちませんでした。ヴァジニアに自費でやってくる入植者を惹き付けるために、会社は20ヘクタールの入植地を与えるとします。自費で来られない者には7年後には20ヘクタールの土地を与えることとします。同時に、ヴァジニアの新しい総督となったジョージ・ヤードリー卿(Sir George Yeardley)は、1619年に代表者を選ぶ選挙を施行すると発表し、その議会組織は、ほとんどヴァジニア会社の取締役会に似たようなものでしたが、後にその組織は権限を拡張し、植民地の自治のための原動力になっていきます。


アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その4 イギリスの植民地化政策

注目

Last Updated on 2024年12月27日 by 成田滋

イギリスもスペインやポルトガルの植民地の成功に続こうと新大陸における植民地化を試みます。1497年にイギリスは、ジョン・キャボット(John Cabot)がノヴァ・スコシア(Nova Scotia)へ航海したことを理由に、アメリカ大陸の机上の国有化を宣言するのです。しかし、それを裏付けるような方策や野望はありませんでした。イギリスは新大陸における国土の拡大ではなく、商業や貿易上の展開に関心がありました。1554年にマスコビー社(Muscovy Company)を設立すると、イギリスの航海者、マーチン・フロビシャー(Martin Frobisher)は1576年から三度にわたり北アメリカ大陸の北方を通って極東への航路(Northwest Passage) の発見を試みます。

 1577年にはc(Sir Francis Drake)は、世界一周の航海に出ます。そして南アメリカの西海岸をまわります。一年後イギリス帝国の愛国者であったハンフリー・ギルバート卿(Sir Humphrey Gilbert)はアメリカ大陸の植民地化を目指して活躍します。ギルバートの努力は、限られた成功に終わり1583年には5隻の船と260名の乗組員ともに北大西洋で遭難します。ギルバートの航海の失敗に続き、新しい航海者が現れます。ウオルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)は南アメリカ航路ではなく北アメリカ航路を開拓し新大陸にやってきます。

Sir Francis Drake

 ラレイは今のヴァジニア(Virginia) 沿岸を植民地化する基礎を築き、ロアノーク島(Roanoke Island) を最初の移住地とします。しかし、このコロニー(植民集落)は1587年に原因不明で廃棄されてしまいます。おそらくは疫病のせいだろうと察します。しかし、アメリカ大陸を植民地化しようとする試みは続きます。ロアノーク島でのコロニーに続き、1607年にはジェイムズタウン(Jamestown)にコロニーをつくるやいなや、イギリスの扇動家らは、アメリカ大陸が開拓によって容易に富の増大をもたらすと国民に宣伝していきます。イギリスの地理学者であるリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)さえ、スペインの植民地政策は限定されており、イギリスのアメリカ大陸での植民地は短期間のうちに商業的な反映をもたらすはずだと主張します。

 イギリスは他にも植民地化を進めようとする理由がありました。それはアメリカ大陸から東アジアへのルートが開けるのではないかという予測でした。イギリスの帝国主義者等は新大陸においてスペインの拡大を阻止する必要があると考えます。アメリカを植民地とするのは適当であると考え、イギリス人は宗教的な迫害から人々を解放しようと考えていきます。

大航海時代

 イギリスの中産階級や下層階級の人々は、新大陸は無償、あるいは低価格で土地を獲得し、商業活動を容易に行えるとも考えていきます。宗教からの解放や自由な商業活動という開拓への動機は、確かに歴史学者の関心を集めるのですが、植民地化政策が始まるとともに、なぜかこうした動機は高まることはありませんでした。

  大英帝国の発展は、大航海時代を背景にしてカリブ海地域と北アメリカ植民地がその主体をなし,18世紀のフランスとの植民地争奪戦に勝ってカナダ,インドのベンガル地方(Bengal)へと進出します。一時地球上の土地のほぼ6分の1を自治領や植民地化するというもの凄い勢いでした。


成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その3 ポルトガルやフランスの植民地化政策

注目

Last Updated on 2024年12月27日 by 成田滋

アメリカ大陸におけるイギリスの植民地化政策は、ヨーロッパ人による開拓の序章に過ぎません。1418年にポルトガル人 (Portuguese) が、北アフリカのモロッコ(Morocco)西方、大西洋上にあるポルトサント島 (Porto Santo) へ航海し、それが開拓政策の始まりといわれます。1487年にはポルトガル人は、アフリカの西海岸沿いに位置するモーリタニア(Mauritania)のアルギン(Arguin)、シエラレオ(Sierra Leone)、エルミナ(El Mina)などに交易の拠点をおきます。

1497年にはヴァスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰(Cape of Good Hope)を通り、アフリカの東海岸に到達します。その後、ポルトガルはインドにおける商業圏を築くことになります。1500年には、ペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral )は、ブラジル(Brazil) を経由してインド洋に達します。ポルトガル人はこうして新大陸へも進出していきます。

Vasco da Gama
Jacques Cartier
Pedro Alvares Cabral

 航海や探検におけるポルトガル人の活躍に続いて、コロンブスのアメリカ大陸への航海後、スペイン人も急速に航海を始めていきます。カリブ海(Caribbean Sea)をはじめ、新スペイン(New Spain)やペルー(Peru)などを征服し、ヨーロッパ諸国の新大陸への関心や羨望を大いに高めます。

フランスは、ヨーロッパにおける戦いでは自国の領土を保全していきますが、スペインやポルトガルのように海外への進出は遅れをとっていました。16世紀初頭になると、フランスの船乗りはニューファンドランド(Newfoundland)に拠点をつくります。1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)は、セントローレンス湾(Gulf of St. Lawrence)の探検に乗り出します。1543年までに、フランスは新大陸での植民地化を断念していきます。16世紀の後半になると、フランスはフロリダ(Florida)やブラジルに植民地をつくろうと試みます。しかし、いずれも失敗に終わり16世紀はスペインとポルトガルの二カ国が新大陸における植民地づくりで覇権を握っていきます。

フランスの新大陸における植民地化の足跡は、各地に残るフランス語の町や村の名前で分かります。例えば、ウィスコンシン州(Wisconsin)だけをみてもPortage, Racine, Prairie du Chien, Prairie du Sac, Radisson, Marquette, Nicoletなど沢山の町にフランス語名が付けられています。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その2 先住民族の生活様式と文化

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

先住民族の生活様式は各地域における食糧資源によって決定されます。各地域の物質文化も食料、その他の資源に応じて違いがありました。魚や海の哺乳類は、大陸の沿岸に住む人々の食料となり、どん栗などはカリフォルニア先住民族の定番の食料となりました。アメリカバイソン(bison)やバッファロー(buffalo)等、平原に住む動物はそこに定住する先住民族の食料となりました。狩猟や釣りは中西部や東部の先住民族の暮らしの支えとなり、南西部の先住民族は、主としてトウモロコシを食料とし魚や動物は代用食となりました。こうした食料の調達により、釣りや狩猟、植え付けと果実の採取によって、食料獲得の技術を促していきます。

tepees

食糧や資源はそれぞれの地域の資源という文化に依存します。先住民族は人力や犬ぞり、筏、小舟、カヌーなどで物を運びました。16世紀初頭にスペイン人がもたらした馬は、先住民族もすぐに取り入れ、大平原におけるバッファローの捕獲に活躍します。先住民族の諸文化は家の形によっても識別されます。たとえば、エスキモー(Eskimos)はドーム型の氷の家(igloos) 、大平原やプレーリー(prairie)の先住民族は土や毛皮で造った小屋やテント(tepees)、一部の南西部の先住民族ープエブロ(Pueblo) は平屋根の多層式の家屋(Adobe)、更には衣類、工芸、武器、さらに種族の経済的、社会的、宗教的な習慣も各部族によって異なっていきます。

 先住民族は、通常アメリカ・インディアン(America Indians)とかネイティブ・アメリカン(Native Americans)と呼ばれます。本稿では先住民族とか先住民と表記します。衣食住の形態は、先住民族独特のものがあり民族学や民俗学の興味ある話題となります。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その1 先住民族とクリストファー・コロンブス

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

アメリカ大陸(北米大陸)はクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)の航海以前に何度かにわたって発見されていたようです。コロンブスが上陸した時、彼は「新大陸 (New World)を発見した」と思ったかもしれません。上陸した島は後に命名されたサン・サルバドル島(San Salvador Island)です。ここには先住民のインディオ(Indio)でアラワク族系(Arawak)に属するルカヤン族(Lucayan)が住んでいました。

ルヤカン族

 やがて北米大陸にはアジア系のモンゴロイド(Mongoloid)がアジア大陸からベーリング海峡(Bering Strait)を通って移住してきます。ヨーロッパ人が最初に到達する以前にこうした先住民族は一般にインディアン(Indians)と呼ばれ、大陸の様々な地に定住していました。コロンブス以前からアメリカ大陸に先住民族が定住していたことは動かぬ事実ですから、世界史の上で始めてこの大陸を発見した人物はコロンブスでないことは言うまでもありません。 先住民族らから、「アメリカ大陸の発見はヨーロッパ中心主義に基づいた的外れの見方である」と批判されてきたのも理解できます。

 コロンブスがやって来る前には、現在のアメリカ大陸に1,500万人の先住民族がいたといわれます。先住民族がアメリカの歴史において、どのような役割や影響を及ぼしたかは興味ある話題です。先住民族は多様な部族から成り、その文化や生活においてさまざまな違いがあります。新大陸にやってきたヨーロッパ人がもたらした文明は、やがて先住民族の暮らしや文化によって影響を受けていきます。彼らの食事や香料、物作り、作物作り、戦いの技法、言語、民謡、など民族の独特な文化の注入が、ヨーロッパからの征服者にいろいろな影響を与えていきます。長く続いた白人による西部開拓は、先住民族の激しい抵抗を誘発し、後に合衆国における最も悲劇的な歴史を記すことになります。

成田滋のアバター

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

注目

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

感謝祭と勤労感謝の日

注目

Last Updated on 2024年12月29日 by 成田滋

 1977年11月26日、高速道路(インターステイト−94)は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってウィスコンシン州のマディソンからミルウオーキにお住まいのルロイ・ハスという元宣教師宅に着きました。感謝祭の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

 ハス牧師は、戦前は中国の内陸で、戦後は日本での伝道に20年あまり従事していました。ですから日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ英語の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス牧師の言葉に聞き入りました。それから夕餉が始まりました。

 エプロンをつけたハス牧師自らが七面鳥の丸焼きにナイフをいれて、細かく切り分けます。この役割はご主人が受け持つのが伝統だそうです。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは味が鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィングという乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソースです。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれもミセス・ハス手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

 家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆家族で感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス牧師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから47年が経ちます。ハスご夫妻は既に召されています。

 11月23日が近づきました。勤労感謝の日です。 「勤労を尊び、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」として1948年に制定されました。勤労感謝の日の前身は、古くから日本にある新嘗祭(にいなめさい)という祭りです。これは新米の収穫を神に感謝するための祭りで、おもに皇族が行ってきました。時代を経て、11月23日は神への感謝から労働をするすべての人への感謝の日へとなりました。

 万国に共通することは、実りと収穫という恵みに感謝する行事があることです。収穫へ感謝を示すとは、見えざる手に対して畏敬の念を表すことです。それがどのような神であれ仏であれ、感謝するという行為がなにかの形で現れます。

 なぜ感謝するのかです。それは私たちがなにかに、誰かに支えられていることに気づくからです。仏教では「知恩」という言葉があります。恩を受けていることを知るということです。そこから「布施」という与えることを意味する行為が生まれるといわれます。恩に報いることです。

 「どんなことにも感謝しなさい」という聖句があります。「ありがとう」はわたしたちの生活の土台になるものです。私は、家内にそれを素直に言葉に表わすことができません(..;)。「Thank you」は「Think of you」からきているともいわれます。「あなたのことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるというのです。勤労感謝の日は、大切な人々に心からの「ありがとう」を伝える日です。家族や友人、近所の人たち、働く人たちが私たちを支えてくれることに感謝をする日でもあります。

Turkey
Thanksgiving −The Legend of John Carver

木枯らしの季節 その2 ライデンからプリマスへ

注目

Last Updated on 2024年12月23日 by 成田滋

感謝祭の由来

 北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

 バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。


メイフラワー号

 ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープコッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

MayflowerII

 プリマス開拓地はボストンから車まで一時間のところにあります。ボストンに行かれたときは、是非ともこの自然博物館を訪れることを強くお勧めします。プリマスはPlimothとかPlymouthと綴られます。その違いの理由は分かりません。


木枯らしの季節 その1 山口誓子の詩

注目

Last Updated on 2024年12月23日 by 成田滋

 一段と寒くなってきました。「海に出て木枯らし帰るところなし」 という句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のISと同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

 誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。この句の舞台は、樺太南部の港町、大泊です。明治34年に京都で生まれた誓子は、明治45年に樺太日日新聞社の社長であった祖父の住む樺太へと渡ります。そして、大正6年に大泊中学から京都府立一中に転校するまでの約5年間を樺太で暮らしています。

探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

 私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。誓子が療養中に詠ったのがこの句は、敗戦間近で反戦文学などの流行に警戒していた官憲の検閲にひっかからなかったようです。