心に残る一冊 その142 「若き日の摂津守」 その一 町奉行日記

「壬戌の年、正月七日
本日、新任奉行職の通達があった。江戸邸の望月小平太どのという、年寄り役武右衛門どのの長男で年は二十六才ながら小姓頭から上意によって町奉行に仰せつけられたということである、着任まで佐藤どのの代理に変わりはない」 このような当番書役の日記でこの小説が始まります。

国許では今か今かと新奉行、小平太の到着を待っていますが、なかなか着任しません。小平太は江戸邸で悪評の高い人物だといわれていました。武芸には長じているのですが、行状は放埒を極め、着流しなんとやらという仇名もつくほどです。家中の一部には新奉行の人事に反感を抱く者があり、特に徒士組の激派にはその動きが強いのです。徒士組とは将軍や藩主身辺の警固とか、行列に先駆して沿道の整備についたり、通常は玄関や中の口に詰めていました。いわば親衛隊といったような集団です。

城中大書院にて城代家老の今村掃部や他の家老が集まり、小平太の赴任披露を兼ねた重職評定が開かれます。小平太は末席から挨拶をします。
「私が町奉行に仰せつけられた仔細について、これから申し述べたいことがございざいます」
小平太は用意した調書をおいてもう一度重職を見渡します。
「おそれながら、、、故智光院さまのご他界によって、」この間諸般のご改革をすすめられましたが、お国表における壕外の問題だけが、こんにちなお放任されたままになっております」
「放任と言う言葉は承服できない」 一人の重職が云います。

この城下町の東端に船着き場があり、一方が海、他の三方は掘割りでかこまれ、港橋という橋一つで町とつながっています。この区域は町から隔絶していることと、船の出入りが多い港であることから「壕外」と呼ばれ、以前から悪徳の巣のようになっていました。宿屋はそのまま遊郭のようなありさまで、港外は抜け荷の売買が公然と行われ、そのため遠近から遊興にくる者、凶状持ち、浮浪者などがうろうろしていました。壕外には三人の親方がとりしきっていました。大河岸の灘八、継町の才兵衛、大橋の太十です。喧嘩盗賊のことから年貢運上の割府まであつかっています。
「御墨付です」小平太は云います。その書状を抜いて「上意」と云います。
「このたび、望月小平太に申しつけ候役目の儀は、藩家にとってゆるがせならぬ大事なれば、同人の望むことはすなわち余の望むところと心得べく、たとえ順序規律に違うがごときことありしとも、決して異議不服をとなえざるよう、屹と申し達するものなり」

小平太は墨付きを裏返しにして持ち、列座の人々に示します。
「御墨付けにはゆゆしき大事のように、仰せられてあったではないか」森島和兵衛という重職が訊ねます。
「町奉行のほかに特命がないなら、どうして御墨付けなのを下されたのか?」
「一口に申せば、壕外の処置がいかにむずかしいか、ということをご承知だからだとおもいます」
「壕外の処置とはという意味だ?」
「あの区域全体の掃除です」
「壕外は悪徒の巣窟です」
「抜け荷船が自由に出入りし、賭博場は大きいもので三箇所あり、宿屋は遊郭にひとしく、隠し売り女も野放しです」
「その取り締まりには三名の親方なる者が預かっており、外からの門渉をまったく受け付けない」
「こんな状態と続けていることは藩全体の恥辱です」

心に残る一冊 その141 「若き日の摂津守」 その二 君辱められるれば臣死す

「若き日の摂津守」の二回目です。光辰は十人ばかりの供をつれて遠乗りにでかけます。そのとき鹿を見つけます。光辰は馬を乗り捨てて、ただもう鹿に気を奪われて、斜面をすばやくのぼります。供のことはすっかり忘れるのです。一刻近く歩くと小屋の集落があり、一人の老人が土を掘っては埋めています。そこにいた老女に「喉が渇いた、」と云います。光辰は老人のことをきくと、「あれは市兵衛さんといって、気が狂ってるんですよ」
「川辺が鴨狩りのお止場になって、土地を追われて気が狂ったんです」
「ああやってなにもならない土を掘っては埋めしているんです」
「どうして、自分の田や畑がなくなったんだ」

お止場は重臣たちの直轄となり、郡奉行の支配となり、許しをえなければ立ち入ることが出来なくなります。お止場とは狩り場のことです。土地を追われた者たちは、ここに掘っ立て小屋を建て、その日暮らしの生活をしているというのです。お止場は鴨だけでなく鮎釣り場にも及び、土地の者は追い立てられたというのです。

数日の後の夜、一綴りの書類が寝所に届けられます。おたきはそこに置いてある書類を取って戻ってきます。
「いまこれを宿直の間から入れた者がございます」おたきは云います。
書類の内容は、藩主を敬して遠ざけたうえに、世襲の重臣たちが交代で政治を支配し、年々一万石以上にあたる横領を続けてきたその例がくわしく列記してあります。お止場も一例として挙げてあります。鴨は狩りごとに二万羽ちかく捕れます。名物として知られているため、高い値段でさばくことができました。

古くから、鴨も鮎も古くから湖畔の住民たちの生計を支えるものでした。お止場を指定して住民を立ち退かせ、郡奉行の支配に移し、とれた鴨や鮎を御勝手入りとして売るのです。売った代銀も藩主のものになるという名目ですが、実際は重臣達が分け取りをしています。住民は窮乏しているのです。

「重大夫!」、と光辰云います。
「他の者も聞け、侍の心得として、君辱められるれば臣死す、ということがあるそうだ、知っているか」
「殿、、、」と重大夫がするどく戒めます。
「知っているか!」
「図書はどうだ、古大夫はどうだ、知っているかいないか、民部、そのほうだどうだ?」
「おそれながら、侍としてその心得を知らぬ者はないと存じます」永井民部が云います。
「よし、」と光辰は頷きます。
「、、、ここでは家臣が領主を辱めている、重大夫、もっと寄れ!」
「お口が過ぎますぞ、殿、御座にお戻りあそばせ」重大夫が云います。

すると光辰は槍の鞘をとります。静かな手つきで鞘をとると、槍を持ち直し「無礼者!」と叫んで重大夫の胸を刺します。動作は緩慢でしたが、槍を持ち直してからの素早さは水際たっています。それまでの光辰のぼうっとした表情は消えて、凜とした姿勢です。重臣達は度肝を抜かれ、口をあいたまま声を出す者がいません。そして周りの重臣たちに光辰は叫びます。
「重大夫の罪は死にあたると思うが、一命は助けてやる、江戸に帰ったら父上に申し上げ、改めてその罪の詮議をしよう、医者を呼んで手当をしてやれ!」
「民部帰るぞ、」 

永井民部は案内にたちながら、低い声ですばやく囁きます、
「いましがた城中から使者がありました。お部屋さまには御懐妊とのことでございます。」

心に残る一冊 その その140 「若き日の摂津守」 その一 若き日の摂津守

山本周五郎の作品には、白痴とか唖者を装って主君に仕えるとか、家臣を欺くといった場面が登場します。既にこのシリーズで取り上げた「小説日本婦道記」に収録される「「二十三年」という短編に「おかや」という女性がいました。二十三年もの間、口が利けず白痴のふりをして新沼靭負に仕え、その息子の牧二郎の養育にあたるのでした。若き日の摂津守光辰も白痴のふりをして藩を牛耳る家老や重臣を一掃する物語です。

摂津守光辰は「うまれつき英明果断にして俊敏」ということが藩の正史にありました。けれども別の藩の記録には次のような記述もありました。
「幼少のころから知恵づくことがおくれ、体は健康であったが、意力が弱く、人の助けがなければ何一つできなかった。つねに涎をながしながら、みずから拭くすべを知らなかったし、側近のものが怠ると失禁されることも稀ではなかった」

光辰は家督相続をして摂津守に任じられ、二十一歳のとき初めて国入りをします。二の丸御殿で祝宴がひらかれます。家臣が宴に列席します。光辰は上段に座っているだけで、しもぐくれのおっとりした顔立ちで、上背のあるいい体格だが、眼つきや口許にしまったところがなく、疲れたような、寝不足なような、とらえどころのない、ぼうっとした表情をしています。後ろに小姓頭がときどきみをかがめて光辰になにごとか注意します。すると光辰はでかかっていた欠伸を半分でやめたり、袖でゆっくりと口の周りを拭きます。家老や年寄らの重臣が光辰をみる眼には憐れみと軽蔑の色があらわれています。

光辰と正室の間にはまだ子がおりません。年が違いすぎるのか体質があわないのか、結婚してからもう五年もなるので、家臣たちは国許の健康な娘を側室にあげるということに決まります。酒宴の席上給仕にでたのは側室の候補なのですが、家老の浅利重大夫から光辰に告げてあったのですが、光辰はてんで娘達を見ようとしません
「殿、、お気に召した者がございますか?」
「おれは誰でもいい」光辰は途方にくれたような顔でこころぼそくそう云います。

「民部、、」光辰は助けるように小姓頭の永井民部に訊きます。
「このおれは、誰だ」
「おそれながら、、当松城五万六千石の御領主、摂津守光辰さまであらせられます」

「だめだな、、こちらで選ぶよりしかあるまい」と家老の浜岡図書が云います。その夜、重臣達が集まり、側室の選考をします。そして吉田屋という藩の御用商人の娘を選びます。商人の娘なら、たとえ世継ぎを生んだとしても親が藩政の邪魔になるような怖れはないという理由です。年は十七歳、容貌はまず十人並みですが、体はよく発達して健康そうです。この娘はおたきといいました。

おたきは寝所にあがります。白小袖に白の帯をしめた姿で褥の上へあがります。
「いいか、」光辰が囁きます。
「はい、」
光辰は妻戸をあけ、一冊の書物を出してくると、畳のうえにじかに座ったまま読み始めます。それはおたきが伽にあがって七日めの晩から、一夜も欠かしたことのない習慣です。
「黙っていてくれるか、、」
初めての夜、光辰はおたきに云います。家臣達に知られると困る、黙っていてくれるかと云うと、小滝は黙っていると約束します。おたきはやがて、殿様はばかをよそおっているのではないかと思うのです。光辰は、おたきに触れようとしないのですが、「決して嫌いではない、お前がすきなのだ、、それまで待ってくれ、」とおたきに云います。おたきは光辰の言葉には真実を感じるのです。

心に残る一冊 その139 「若き日の摂津守」 その一 逃亡記

山本周五郎の作品にもどります。「若き日の摂津守」に収録されている作品を取り上げます。今回は「逃亡記」です。

溝口掃部は城代家老で禄は3,200石です。あつみ、みさをという18才と17才の二人の娘がいます。横江半四郎は長女のあつみと結婚することになっています。城代家老の片山主水正と一代交代の定まりなので、半四郎が溝口家を継いでも城代にはなれません。

  横江家は代々江戸邸の年寄り役で禄は1,520石。半四郎の兄文四郎が横江の家督を継ぎます。あつみとの祝言をあげるために、江戸から国許についた半四郎は掃部の屋敷で草鞋を脱ぎます。掃部は、新しい国絵図を作る仕事をしています。
「そこで早速だが、そこもとに国絵図の支配をやってもらう、、」掃部は半四郎に云います。

話がややこしくなるわけは、半四郎はもともと横江の子ではなく、長門守祐永が侍女に生ませた子だということです。長門守祐永の世子である与五郎祐刻が病弱のうえに暗愚というので、一藩の主たる資質がありません。そこで半四郎を世子にしようという計画が生まれます。この計画を現老職が探知し半四郎を亡き者にしようとします。表面は溝口の婿という触れだしで城下に連れ出し、ここで暗殺するという手筈です。

この謀殺計画を知った溝口では、半四郎を逃がそうとします。その助けの案内をするのが溝口家の奥に仕えるさとという女です。

国絵図を作る理由は、領地を接している諸侯の間に境界の争いが起こるからです。まだ測量が不十分であり、各藩の国絵図なども明確ではなかったのです。通常、分限帳といって郷村の草木や川魚の運上金などを記したものがあります。これには藩の勘定奉行の署名があれば、どの藩の所領かがわかるのです。

半四郎らが逃げている途中、領内でも指折りの豪農の屋敷にやってきます。当主は殿島八右衛門といい藩主の長門守から特別の待遇をうけています。そこの屋敷で半四郎は年貢や運上の分限帳のうち、八右衛門署名の文書を見つけます。長門守と八右衛門との結託を示すのが分限帳なのです。吉岡郷は隣藩の領分だったのですが、境論が表沙汰になった場合、この分限帳がなければ松井藩の言い分がとおるかもしれない、半四郎はそう推測します。半四郎やさとが分限帳を抱えて立ち去ると間もなく、分限帳の存在を消そうとして殿島はこの館に火を放ちます。

殿島と松井藩とが通牒していることを知ったのも、分限帳を手にいれることができたのもさとのお陰で逃げ回ったからです。半四郎は、分限帳によって松井藩の企みを潰すことに確実に勝目算があると見通します。

半四郎はさとに「嫁になるのはいやか」と申し込みます。そして、さとが実は溝口家の妹、みさをであることを半四郎は知ってびっくりします。半四郎はもともと、あつみと許嫁だったのです。あつみとみさをは、こうしたいきさつを可笑しく会話しています。そして半四郎は分限帳をもって松井藩に掛け合いにいきます。

心に残る一冊 その138 Intermission 「遙かなノートル・ダム」

「遙かなノートル・ダム」の作者はフランス文学者の森有正です。呼び捨てにするのをためらうのですが、、氏の人となり、生き方、思索の方法が織り込まれていて、私の考え方の一つの道標になっているかけがえのない一冊です。森は明治の外交官、政治家、初代文部大臣であった森有礼の孫にあたります。森有礼が英語の国語化を提唱したのは有名です。

森有正は小さい時からフランス語を学び、やがて大学などで教えながらパリに滞在し、そこが著作の場となります。パリでの生活にあって、その間数々の随想や紀行などを著します。自然や人々の息づかいが伝わるような濃密な文体で知られています。読みこなすのは容易ではありません。晩年は哲学的なエッセイを多数執筆して没します。森有正全集全14巻の第4巻が「遙かなノートル・ダム」です。

著者はフランスの教育に深い関心を示します。著者の経験と思索の中には、いつもフランスの教育が陰を落としています。フランスの教育に触れる箇所があります。

「フランスにおいては、自国の言葉の学習に大きい努力が払われている。小学校に入る6歳くらいから、大学に入る18歳くらいで行われるバカロレア(Baccalaureate)という国家試験まで、12年間にわたり緻密に行われる。その目的は単に本を読むことを学ぶだけでなく、作文すなわち表現力を涵養するために行われる。漠然と感想を綴ることではなく、読解、文法、語彙、読み方にわたって教育が行われ、その総合的は把握が作文によってためされるのである。文法にしても、しかじかの規則を覚えることではなく、その規則の適用である短い文章を書くことが無数に練習され、理解はすなわち実際に間違いのない文章を書くことによって実証される」

教育の中心課題が知識の組織的蓄積であって、そこから自分の発想を磨くという眼目を忘れてはならないと説きます。近年は問題解決学習とかアクティブ・ラーニング(AL)ということが話題となっています。ALとは、学習者が能動的(アクティブ)に学習(ラーニング)に参加する学習法の総称です。しかし、その基礎になるのは知識や語いの集積です。これが不足していてはどうにも学習は成立しません。

心に残る一冊 その137 「虚空遍歴」 その八 中藤冲也と山本周五郎

山本周五郎は多くの短編小説を当時の月刊誌、たとえば婦人倶楽部、主婦之友、小説新潮、オール読物、講談雑誌、キング、さらに週刊朝日などいった大衆色の強い雑誌や週刊誌に発表します。どれも珠玉のような作品だと思います。山本が大衆小説作家であるかどうかは別として、多くの読者に感銘を与えています。

他方、「虚空遍歴」や「樅ノ木は残った」という二つの大作は山本の小説家としての地位や名声を確立したものといえるのではないでしょうか。主人公の中藤冲也や原田甲斐は、なにを達成したかではなく、なにを成し遂げようとする志を抱いて生きてきたかが描かれる作品です。それは芸の理想とか主君への忠義をどう実現するかということです。

そうした生き様を示す箇所が随所にあります。例えば「虚空遍歴」では死に瀕する冲也の呟きです。
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

山本は冲也に次のように云わせる箇所もあります。
「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

原田甲斐もまた、「樅ノ木は残った」のなかで自らの命を藩に捧げるという忠義を貫きます。
「私です、私が逆上のあまり、、これは甲斐めの仕業です、久世候、、」
「こやつの非で伊達藩に累が及ばぬようお頼み申し上げます、」

ここでの古い芸とは純文学、新しい芸は大衆文学のことのようです。師匠とは当時の文壇の大御所のことかもしれません。山本は痛烈に文壇に一石を投じていきます。1943年に『日本婦道記』で直木賞に推薦されますが、これを辞退ことに山本の矜持が示されています。自分の作品が文壇から認められなくとも大衆が認めてくれるはずだ、という主張です。その後も毎日出版文化賞や文藝春秋読者賞を辞退するのは、文壇に対する一種の挑戦状のようなものだったのです。

最後に、冲也は江戸でたいそう人気のあった端唄の名人としてもてはやされ、そのまま端唄で名声を確立できたほどの名手です。しかし、冲也が目指す高みは端唄の確立ではなく、浄瑠璃作品を作ることでした。端唄が大衆小説であれば、浄瑠璃は純文学作品にあたるのかもしれません。

山本は文学に大衆文学も純文学もないといいます。「小説にはいい小説と悪い小説があるだけ」とはいいながら、純文学作品を目指していたのではないか、そんなことを考えるのです。

心に残る一冊 その136 「虚空遍歴」 その七 おけいとお京との対面

雪の北陸路、今庄という小さな町の旅籠で冲也は、病床から呟きます。

「おれは浄瑠璃で生きる決心をし、一生を賭けても自分の浄瑠璃を仕上げようと、そのことにぜんぶを打ち込んでやって来た、これからも、生きている限りやりぬいてゆくだろう、――だが、この道には師もなければ知己もない、師にまなび、知己に囲まれているようにみえても、つきつめたところは自分ひとりだ、誰の助力も、どんな支えも役には立たない、しんそこ自分ひとりなんだ」

「おれは自分にできる限りのことをした」と冲也はまた云います。
「自分の力でできる精いっぱいのことをした、それがこんなことになってしまった、こんなみじめなざまに、――どうしてだ、どこで間違ったんだ、おれのどこがいけなかったんだ」

「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害があっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

おけいは江戸にいるお京へ急飛脚をの手紙を出します。冲也の容態が非常に悪くなってきたからです。夜半ごろ、おけいがまだ寝床へ入る前に、名を呼ばれたように思います。いってみると、冲也は眼を大きくみはり口を開けて囁いています。
「なにかおっしゃって、」
「ああ、」といって眼が一点に向けられたまま動かなくなります。

冲也が亡くなって三日目、お京と冲也の弟子、常磐津由太夫が遺骸を引き取りにやってきます。その宿でお京とおけいが対面します。おけいは冲也の浄瑠璃に対する凄まじい執念と意志、どんなことであろうと本気でやろうとしたこと、人のおもわくなんぞ気にせず生き抜いてきた冲也を尊敬してきました。
「苦労したのね」
「できないことだわ、あたしなんかその半分もできやしないわ、、」お京がおけいに云います。
「なにか遺言のようなものはなかったかしら、、」
おけいはちょっと考えて、立ち上がって三味線をとり、調子をあわせながら遺言というのではないが、と断ってから唄いだします。
「いい唄だわ、」
「、、でもこうなってみると、しょせんうちの人は端唄作者だったのね」
おけいは口をあけ、眼をみはります。
「失礼ですが、、」とおけいは感情を抑えます。

お京は長旅で疲れたと云って宿に戻ります。おけいは遺骸に向かった座り直します。
「、、、いまのお京さんの云ったことをお聞きになりましたか、しょせんあなたは端唄作者だって、」
「ひどい、あんまりだわ、あなた、あんまりじゃありませんか」
冲也の死顔の目尻から涙のようなものが一筋、糸をひいたようにしたたり落ちます。

心に残る一冊 その135 「虚空遍歴」 その六 自分の浄瑠璃に絶望したことはない

江戸における興業の後ろ盾になろうとした妻、お京の親の援助も退けて、作品の価値だけで認められる自立した浄瑠璃作家になることを目指す中藤冲也です。依怙地なくらいに作品の独自性を求め、江戸を離れて大坂、金沢と、各地を転々とします。さすらう女「おけい」の献身的な介護があります。どこの土地でも認められることのない遍歴を続けます。

大坂にでて片岡仁左衛門という役者から、金沢でなら冲也の江戸浄瑠璃を上演してくれるのではと言われます。そして口入れ屋の仲山新平という者へのことづけての手紙を受取り金沢に向かいます。苦難の末、冲也は単身、金沢に着きます。口入れ屋仲山新平に会おうとします。何日も待たされて冲也は不安にかられ、四日間酒を飲み続けます。新平に会う当日はろれつさえ回らず、からだの自由さえききません。設けられた席でも、ろくに三味線も弾けず皆の笑いものになって玄関から放り出されてしまうありさまです。

そこへおけいが追ってきて、大坂に帰ろうと勧めます。だがもう彼には帰る場所はない状態です。ですが二人で雪の北陸路を大坂に向かいますが、途中で冲也は今庄という小さな町の旅籠で病に倒れます。それを介抱したのはおけいです。おけいは江戸から一緒についてきたもと芸妓です。冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をして冲也の芸に傾倒し、兄妹のように尽くすのです。宿では別々に寝て、食事ではお京の陰膳をすえるような女でありました。

冲也は自分を鼓舞するかのように、自分の遍歴や放蕩じみた旅を次のように振り返ります。
「たいていの人間が、一生にいちどは放蕩にとらわれるものだ。同時に、その大部分の者がそこからぬけだし、ちょうど病気の恢復したあと、しばしば以前よりも健康になる例があるように、放蕩の経験のない者よりもはるかにしっかりした、堅実な人間になる場合が少なくない」

おけいの看病を受けながら大坂に戻ろうとしますが、病床で冲也は呟きます。
「こうしてはいられない」
「おれはこんなことをしてはいられないんだ」

暫くして、また冲也は囁きます。
「このままでは死にきれないんだがなあ」
「男が自分の仕事にいのちを賭けるということは、他人の仕事を否定することではなく、どんな障害にあっても屈せず、また、そのときの流行に支配されることなく、自分の信じた道を守りとおしてゆくことなんだ」

心に残る一冊 その134 「虚空遍歴」 その六 おけい

あるとき、冲也は箱根の気賀湯という湯治場にでかけ仕事をしようとします。そこにある藤屋という宿に泊まります。藤屋は大きな構えで平屋造ながら座敷も多い宿です。母屋と離れがあり、その庭に山から引いた水が溢れています。

宿にあがって三味線を取り出し調子を合わせ、静かに爪だきでふしをたどり始めます。五節ほどひいて、あとへ戻りまた初めからやり直します。今度は六節まで進み、その六節目を弾き直したのでまた元からやり直します。五節から六節めにかかると手がぴたりと停まってしまいます。
「くそっ、、」

そのとき、外で口三味線が聞こえます。彼は全身を硬くし、眼をつむったまま外からきこえてくるその口三味線の声に耳をすませます。自分の中の扉が開き、そこから広く伸びる自由な空間が見えるように感じます。彼は注意深く、そのふしを頭の中でためしてから三味線の糸に当ててみます。
「これだ、、」彼は昂奮します。
「これだ、これだ、これが捜していたふしだ、これで間違いなく伸びるぞ、、、」

冲也は三味線を下に置いて立ち窓の所へ行って障子をあけます。
庭には一人の女が立っています。
「失礼ですが、」冲也は窓から呼びかけます。
「いまの口三味線はあなたでしか、、」
女は傘の中でそっと頭を下げます。

「いまそちらへゆきます」と冲也は云います。
「ここで詳しいことは申せませんが、、いまのあなたの口三味線でひじょうに助かりました」
「失礼ですがあれはなにかの唄にあるふしですか、」
「ええ、、」
「綾瀬の月という端唄のかえ手です」
「綾瀬の月、、、端唄ですって、」

「あなたの三味線を聞いているうちに思い出して、つい知らず口から出てしまったんです」
「ご堪忍して下さいまし、」

この女は「おけい」という芸妓で、さる老旗本の囲い者のようです。おけいは芸者の頃から江戸で冲也節に惹かれていた女でした。箱根での出会いは運命的なものと冲也も感じたのですが、旗本に嫉妬されて、その家来から冲也は執拗に命を狙われることになります。

心に残る一冊 その133 「虚空遍歴」 その五 ”書物からまなぶ学問ではなく”

「虚空遍歴」の五回目です。浄瑠璃の台本作者、中島酒竹が冲也の家に夜遅くやってきます。酒竹は冲也のために台本を創作しています。二人は仕事仲間であり、ずけずけとものを言い合える仲です。
「このうちはあたたかすぎる」酒竹が云います。
「すきま風もはいらない、あたたかくて、穏やかで、いつも平穏無事で、心配事や不安などのかけらもない」
「酔っぱらいのくだを聞く暇もないぜ」
「ご新造さん、酒をたのみます」
酒竹は持っていた空の徳利を、トンと膳の上におき、冲也の顔を不審そうにみます。

  襖をあけてお京がはいってきます。勘徳利が二本、つまみものをいれた小さな鉢が皿にのっています。お京はいつものおっとりした笑顔で主が酒を飲まないため、接待がちぐはぐになって申し訳ない、と挨拶します。
「おかしなやつだ、」と冲也は云います。
「おまえは酒さえあればなんにもいらないようだな、もっとしごとに必要な勉強をしなくてはだめじゃないか」

「私に必要なのは」と酒竹は云います。
「書物からまなぶ学問ではなく、生きた人間と、その生活です」
「人間と生活と、それをとり巻く世間それが私の勉強の対象ですよ」

「人間のぶつかる悲劇や喜劇は、なまのままでは役にたたない、それを一度分解し、どこにしんの問題があるかをみきわめて、正しく組み直すことが必要だし、それにはまず学問をして、謝りのない観察眼や判断力を養わなければならないだろう」冲也は云います。

「私は誤ることを怖れませんね、悲劇も喜劇もなまのままで受け入れます」酒竹は手酌で飲みながら云います。
「いくら学問に精を出し、博学多識になったところで、人間の観察眼や判断力なんぞたかが知れたもんです」
「たとえば、ここである男が盗みをはたらいたとしますね」
「それを理性あるあたまで多くの判例を比較参照し、法律や常識論から詳しく検討して、その罪を裁くことはできるでしょうが、その男の内部を理解することはできない、、私が知りたいのは、その男の盗みがいかなる罪に値するかではなく、どうして盗みをしなければならなかったか、盗みをする気持ちはどんなだったか、ということです」
「これには学問も理性もいらない」酒竹はすぐ続けます。
「、、、ただその男といっしょに酒を飲む、いっしょに酔っぱらえばいいんですよ」