ハーヴァード大学男声合唱団と一緒に歌った曲名は黒人霊歌の「This Old Hammer Killed John Henry」といいました。曲の歌詞ですが、黒人奴隷ジョン・ヘンリー(John Henry)は、ウエストヴァージニア州(West Virginia)でハンマーをふるいトンネルの掘削にあたる、「このハンマーは俺を殺すのだ、主よ!」という内容です。その歌詞の一部を紹介してみます。
This old hammer killed John Henry But it won’t kill me, Lord No, it won’t kill me When John Henry was a baby on his mama’s knee He picked up a hammer and steel He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord This hammer’s gonna be the death of me”This old hammer killed John Henry But it won’t kill me, Lord No, it won’t kill me When John Henry was a baby on his mama’s knee He picked up a hammer and steel He said “This hammer’s gonna be the death of me, Lord, Lord This hammer’s gonna be the death of me”
マサチューセッツ州にある有名な単科大学です。ウィリアムズ大学(Williams College)、アムハースト大学、ウェルズリー大学(Wellesley College)、スミス大学(Smith College)、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)、マウントホリヨーク・カレッジ(Mount Holyoke College)があります。大学ランキングで、研究開発型大学40傑に5校(12.5%)、リベラル・アーツ・カレッジ40傑に6校(15%)が入っているのです。マサチューセッツ州の人口は644万です。国内人口の2%に満たない州で、こうした大学の数と質は驚異的なことです。
マサチューセッツ農科大学、現マサチューセッツ大学アムハースト校を長男家族とで訪ねました。長男の家は、マサチューセッツ州西部にあるプリンストン(Princeton)という小さな街にあります。築後70年以上の白い建物で、ベランダをつける等のコロニアルスタイルです。ここから車で一時間くらいのところにアムハースト校があります。ところで、マサチューセッツ州西部には、植民地時代に交易で栄えたスプリングフィールド郡(Springfield Country)とか四季折々の自然が魅力のバークシャー郡Berkshire Countyなどがあります。世界中の音楽ファンが憧れる「タングルウッド音楽祭」(Tanglewood Music Festival)が開催される会場もバークシャーにあります。小澤征爾が指揮したボストン交響楽団の演奏は、タングルウッド音楽祭の主要な催し物でした。
アムハースト校のホームページにリベラル・アーツ教育を次のように謳っています。
A liberal-arts education develops an individual’s potential for understanding possibilities, perceiving consequences, creating novel connections and making life-altering choices. It fosters innovative and critical thinking as well as strong writing and speaking skills. The liberal arts prepare students for many possible careers, meaningful lives and service to society.
北米大陸は大西洋岸のニューイングランド(New England)地方の政治、経済、文化、観光の中心地がマサチューセッツ州(Massachusetts)です。州の第二の都市ウースター(Worcester)近くに長男家族が住んでいます。長男はウースターにあるイエズス会経営の単科大学、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)で物理学を教えています。
マサチューセッツ州の中心都市はボストン(Boston)です。ボストン周辺には、メイフラワー号(Mayflower II)がやってきたプリマス(Plymouth)、独立戦争発端の街レキシントン(Lexington)、捕鯨船に助けられたジョン万次郎ゆかりのフェアへブン(Fairhaven)、19世紀のアメリカ文学界を代表する作家の一人、ヘンリー・ソーロー(Henry David Thoreau) が暮らしたコンコード(Concord)、夏の避暑地ケープコッド(Cape Cod)など興味深い歴史に彩られた所が点在しています。
Johnson Chapell, Amherst College
マサチューセッツ州と北海道の関係といえば、1876年に設立された札幌農学校の初代教頭になったウィリアム・クラーク(Dr. William Clark)を思い起こします。彼はマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)の第三代学長でありました。1863年にボストンの西約90マイルの所にあるアムハースト(Armherst)にて創立された大学です。新島襄や内村鑑三がかつて学んだ大学であることは、すでにこのブログで35回に渡って振り返りました。今は、アムハースト校はマサチューセッツ大学(University of Massachusetts)の旗艦キャンパスとなっています。マサチューセッツ大学はアマースト校を含む5つの大学からなる州立大学システム(UMassシステム)です。
マサチューセッツ州内には121の高等教育機関があります。研究開発型大学の代表としてボストンの郊外ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)とマサチューセッツ工科大学(Massachusette Institute of Technology- IMT)があります。その他USニューズ &ワールド・レポート(US News and World Report)のランキングで常に40位以内にある総合大学として、タフツ大学(Tufts University)、ボストンカレッジ(Boston College)、ユダヤ系のブランダイス大学(Brandeis University)があります。
定説ではコロンブスはイタリアのジェノヴァ(Genoa)の出身です。やがて、彼は積極的にスペイン語やラテン語などの言語や天文学・地理、そして航海術の習得に努めます。仕事の拠点であるリスボン(Lisbon)でパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli)というイタリアの地理学者、天文学者、数学者と知り合う機会を得て、手紙の交換をしています。当時はトスカネッリはすでに地球球体説を主張していました。
コロンブスは、「東方見聞録」の語り手であるマルコ・ポーロ(Marco Polo)の考えを取り入れ、トスカネッリの地球球体説を合わせて、ここに西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出したといわれます。また、現存する最古の地球儀を作ったマルティン・ベハイム(Martin von Behaim)とも交流を持ち意見を交換した説もあります。ベハイムはポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家でした。大航海時代には、ポルトガルが様々な海図を買い漁っていることはよく知られています。従って、ポルトガル王ジョアン2世(Joao II)と親交のあったベハイムが地図や海図を売っていたことも考えられます。これらの収集情報や考察を経てコロンブスは西廻り航海が可能だとする理論的な根拠に行き着くのです。
ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ポルトガル王国の探検家で、熟達した航海術と外交手腕を買われヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人といわれます。こうした探検の先駆者らによって、コロンブスは航海の成功きた期待するとともに、その使命を「神の導き」によるものと信じていました。内村はこの点に強く共鳴し、コロンブスが「神の召命」に従って新世界を発見した人物として評価します。信仰による探検という意気込みに感じるものがあったようです。
この著作は内村が英語で書いたものです。原題は「Reprezentative Men of Japan」といいます。内村の語学力を示す作品です。相当の語学がなければ著すことは出来ません。この著作はもともと「日本及び日本人」(Japan and Japanese)という作品が下敷きとなっています。その後、「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」(How I became a Christian)も著し、ドイツ語やデンマーク語に翻訳され、ヨーロッパ大陸で多くの読者を得たといわれます。
マインツ(Mainz)の大司教、アルベルト・フォン・ブランデンブルク(Albert von Brandenburg)は、大いにこの免罪符の発行に賛成し、自らもその利益に預からんとし、彼の監督管内において広く免罪符を奨励します。アルベルトはドイツの枢機卿(Cardinal)であり選帝侯(Elector)でもあり、長年マクデブルク大司教(Archbishopric of Magdeburg)を務めた人物です。 彼は悪名高い免罪符の販売を通じて、マルティン・ルターの宗教改革のきっかけを作り、その強力な反対者となりました。
免罪符の直接の販売の任に当たったのは、ドイツのドミニコ会修道士(Dominican friar)であり説教者でもあったヨハン・テッツエル(Johan Tetzel)という僧侶でした。彼はローマ教皇庁が約束した50 パーセントの手数料を受けとり、この販売に並々ならぬ関心を抱いていたといわれます。テッツエルはポーランドとザクセン(Saxony) の異端審問官(inquisitor)に任命され、後にドイツにおける免罪符の大弁務官(Grand Commissioner for indulgences)となる人物です。
1921年6月に内村鑑三は、「ルーテル講演集」を発表します。この年を遡る400年前の1521年は、マルティン・ルター(Martin Luther)にとって重要な年となります。その理由は、神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)のヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)がヴォルムスで開かれ、ルターがここで異端として教会から破門された年だからです。ルターの信仰を大帝カール第五世(Karl V)の前において堅く宣言した年とも言われます。このヴォルムス帝国議会では、ルターが1517年の『95か条の論題』(95 Theses)を発表したことに端を発していたといわれます。
Dr. Martin Luther
ヴォルムス帝国議会の開催に先立ち、1519年にはライプツィヒ論争(Leipzig Debate)というの起こります。この論争は、ルターに対して神学者として著名であったヨハン・エック(Johann von Eck)はルターの『95か条の論題』反論するものでした。ルターは、教皇や公会議の権威否定の発言により、教皇レオ十世(Leo X)と決別します。レオ十世は、1517年にサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro in Vaticano) 建設資金のためにドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)、別名「免罪符」の販売を認めます。後に、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになったのがこの免罪符の発行にあったといわれます。
ルターは『95か条の論題』を発表し、宗教改革に乗り出します。その主張は、農民層だけでなく、ドイツの諸侯にも受けいれられて、ルター派の勢力は急速に拡大していきます。それに対して、1519年に神聖ローマ帝国カール五世は、ドイツの各領邦や諸侯、高位のカトリック聖職者の支持を確保するために、問題化しつつあったルター派と教会の対立を調停する必要に迫られます。そこで開かれたのがウォルムス帝国議会です。議会では、新たな帝国の枠組みなどについて話し合った後に、ルターの身の安全を保障してルターを議会に召喚します。カール五世は、宗教改革により帝国が解体することを恐れ、ルターに『95か条の論題』の撤回を求めますが、ルターは自説をまげず、教皇と公会議の権威を認めないことを明言し最後に「ここに我は立つ」(Here I Stand) と宣言したと言われます。
中央講堂での講演内容は多岐にわたり、特に「Boys Be Ambitious!」の講解は興味ある内容です。それは、この言葉はウイリアム・クラークの独作ではなく、当時マサチューセッツ州に広がっていた清教徒主義(ピューリタニズム)の精神として広く知られていたというのです。「 Ambitious!」とは「大志」というよりも「大望」がふさわしいと語ります。そして、「Boys」とは20歳以下の青年を指すのみにならず、「men」「gentlemen」「old men」であってもなんら不思議でないというのです。つまり「アンビションを抱く者」、「前途の希望に邁進する者」であり、自分自身もまだアンビションを持っているから「Boys」であると宣言するのです。この講演の内容は内村鑑三信仰著作全集の20巻に収録されています。
なんという逆説的な言葉でしょうか。内村鑑三は時に矛盾の人、謎の人と不可解視されるのは、こうした人生を超越するのような幸や不幸を意に介しない態度にあったのではないか、、、、超絶的なこの信仰者をどうすれば理解できるかは、深い読み解く力が必要です。このような思想は、かつで内村が学んだマサチューセッツ州(Massachusetts)が生んだ思想家、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)やデビッド・ソロー(Henry David Thoreau)の超絶主義(transcendentalism)の感化を受けたことは容易に理解できます。
旧約聖書(The Old Testament) のミカ書(Book of Micah) の6章8節があります。「人はただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくださって、あなたの神とともに歩むことではないか。」人は信仰に直面するとき、どのように判断し、どのように行動するかを決定するのは、彼の持つ価値体系によらねばなりません。それ以外のもの、外部の権威、信徒批判とか、その他なんであれ、自分自身の内心の確信以外のものによって、動かされるものではありません。内村鑑三の生き方や信仰はそれを示しているように思われます。