初めに言葉があった その40 デフレからの脱却  その2 「自閉症」

英国の精神医学者であるラター (Michael Rutter) は1972年頃に自閉症の発症率は10,000人に3〜4人 (.03%)だと主張しました。当時、自閉症は、虐待など母親の愛情が不足であったり、母親と分離したことが原因で発症するとされていました。

自閉症研究者として名が知られていたベッテルハイム (Bruno Bettelheim) が著書「自閉症・うつろな砦」(The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self) 等の著作で「冷蔵庫マザー説」 (refrigerator mother) を説き、養育者の態度などの後天的な理由で発症するということを強調します。ジョン・ボウルビィ (John Bowlby) という英国の精神科医も同様に「母性的養育の剥奪」(deprivation of maternal cares) といった愛着行動の不足が自閉症の根底にある課題だと主張します。こうした子供を取り巻く環境説が広く社会一般に信じられますが、やがて誤りであるとして否定されます。

おさらいですが、自閉症とは、1人遊びが多く、 特定の物に強いこだわりを示し、コミュニケーションのための言葉がでないといった状態です。関わろうとするとパニックになったりもします。前述したラターは、自閉症は兄弟間での出現率は.2%と発表し、遺伝ではないかという仮説をたてます。アメリカの発達心理学者、リムランド (Bernard Rimland) は自閉症は神経発達の不全により障害であると主張します。

リムランドは、アメリカ自閉症協会 (Autism Society of America)の設立に尽力します。この協会もアメリカ精神医学会 (APA) も自閉症は先天性の脳機能障害であるという立場にたっています。次回は「診断のインフレ」について考えます。

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Bruno Bettelheim
Michael Rutter
Bernard Rimland

初めに言葉があった その39 デフレからの脱却  その1 「診断のインフレ」

インフレーション (inflation)とは望ましい現象なのかを考えています。普通、インレーションとかインフレとかは、物価が上昇し通貨の価値が継続的に下がる現象といわれます。日銀券を大量に印刷すると物の値段が上がる、というように理解すればよいでしょうか。その逆がデフレーション (deflation) です。一体市場にどの位の貨幣を適量に流通させればよいかは、貨幣論者にお任せすることにします。

インフレは経済社会だけに見られる現象ではありません。精神医学の世界にもあるのです。アメリカ精神医学会 (American Psychiatric Association: APA)という学会があります。その創立は1844年とあるように伝統のある学会です。この学会が発行する本に「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-DSM) があります。DSMは日本でも翻訳されています。DSMの出版は厳格な著作権が管理され、年間500万ドルという収入を上げています。世界各国での翻訳や出版から得られる収入です。

このマニュアルの初版が出たのは1952年です。その後1968年、1974年、1980年、1987年、1994年、2000年と順次改訂が加えられ、2013年に出たのが現在のDSM-5です。一般的にアメリカでは病院やクリニック、さらに保険会社は患者を治療するためにDSMの診断を要求しています。このようにDSMは臨床面では広く用いられ、また研究目的のために患者の状態をカテゴリ化して診断基準が検討され改訂されています。

幾たびとマニュアルの改訂が続く歴史は何を物語るのかが私たちの関心をひきます。DSM-5は良くまとめられているという評価がある一方で、なお多くの懸念すべきことも多いといわれています。それは診断の基準が、なにが最も信頼性や妥当性を有するのかについて主観的な判断に頼っているといわるのです。診断の不一致をいかに収束するかということがマニュアルの改訂に現れていると思うのです。

私たちの心の発達にはいろいろな要因があります。生育史、両親との関係、心的外傷 (psychological trauma) 、人間関係のストレス、過労、睡眠不足などが発達に影響してきます。素人考えなのですが、精神的な疾患というのは、人間社会の規範にあった振る舞いや発言をしているかとか、日常生活に支障をきたすことがないといったことを手本として診断されるようです。多くの精神科の医師も発達の研究者も、個々人の心の発達の基底にあるものが多様なために診断に悩まされているのは容易に想像できます。そこで「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」といったものが広く出回るとことになります。

「デフレからの脱却」は、精神障害の現状になにをもたらしているかを数回にわたり取り上げます。

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初めに言葉があった その38  「思うようにならない」

昨日、親戚の七回忌法要にでかけた。僅かになった親戚縁者に会うのが楽しみであった。お寺は港区青山にある。寺名は徳川家康以来の家臣であった老中の側室の法名から名付けられたという曰わく付きのお寺である。

さて法要であるが、長い日本人の伝統というか文化に法る宗教行事であるのはわかるのだが、どうにも落ち着かない。その理由は有り難いはずのお経の意味がさっぱりわからないからである。サンスクリット語で読み上げられているようである。最初と最後のあたりで故人の戒名が読み上げられるのだが、あとはただ、じっと我慢して聴いている。こんな不遜な態度でいいのかと反省はするが猛省はしない。意味を知ろうと努力せよ、という声が聞こえてきそうだ。

お経は釈迦の教えを信者達に説くための「教典」とある。一体、この拙い記事を読んでいただく方で、お経の意味をどれくらいの人が理解され納得されておられるだろうか。こうしたお経を静かに我慢しながら聴くのは、恐らくは全く知らない外国語で演説や祈りを聴いているのと同じような気がする。意味がわからないことほど辛いことはない。時間の浪費ではないかとさえ思ってしまう。

さてお経が終わると法話となる。これはお経の時と違って、お坊さんとの対面の時である。法話の話題は「四苦八苦とは」ということであった。仏教における「苦」の分類によると、「思うようにならない」ということを意味するのだという。大変な苦しみということではなさそうである。人知ではどうにもならない現象のこと、それが「四苦」だそうである。あとの四つの苦とは、を知りたかったのだが、法話の時間が長くなったせいか、「愛別離苦」とかを簡単に触れただけで終わった。

思うようにならない「八苦」のうち、五つまで分かった。残りの三つは家で調べようと考えながら、法会から功徳を頂戴した気分で帰ってきた。

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初めに言葉があった その37 主観性と世界の理解 「間主観性とは」

ようやく、「間主観性」(intersubjectivity) とか「間主観 」というところにやってきました。英語の表記のほうは意味が伝わってきやすい用語です。自分と他者、自我と他我、主観と主観の関係性といった響きです。ブリタニカ国際大百科事典には「intersubjectivity」を「共同主観性」「相互主観性」と表記しています。

「間主観性」とは、前稿ででてきたフッサール ( Edmund Husserl) が使った用語のようです。どのようなことかといいますと、主観がそれぞれ単独で働いて外界に向かうのではなく、主観同士が互いに交錯しあいながら働き、「共に」機能し、共通な世界を成り立たせる、ということがらを言い表す用語のようです。間主観性という概念は、こうして、「単独の主観が信用を失い、客観性という概念が疑われる場面で登場する」という意味で使われます。

自我とか主観性が私の内面にある、私だけのものという考えを捨てない限り、「他我をいかに認識ないし経験できるのか」という行き詰まりは解決できない、そう考えてフッッサールは、主観性とか自我は私の内面にあるのではなく、私と他人、人間と人間の中間にあるのではないかと考えて「間主観性」という概念に至ったということです。そのようなわけで「間主観性」は「共同主観性」ともいわれます。

自我とか主観性は人間と人間の間にあるということは、それが人間関係に由来する、関係概念だということです。フッサールは人間と人間の間に間主観性があり、私とか他人の心はその間主観性の枝分かれしたもの、それを分かち持ったものと考えられるようになりました。

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や源泉を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や思考を留保することを提案します。このような判断や思考を留保することをエポケー (suspension of judgment)と呼び、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱します。

周りの世界にあるいろいろな命題を「括弧に入れる」ことを意味するのが「エポケー」というのです。すなわち世界の外的現実についての自信の信念をいったん停止するのです。ただしこれは外界の存在を疑うという意味ではないとフッサールはいいます。

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初めに言葉があった その36 主観性と世界の理解 「科学的とか実証的とか」

主観に関して行動ということを話題としてみます。私たちの行動は、まだ幼い子供は別ですが、外在物や刺激によって直接引き起こされるのではなく、私たち自身がそれをいかに経験し知覚するかによって規定されています。

前回錯視を例にあげて、私たちが世界をどう見るかを考えました。「私にとっての見える世界と他者にとっての見える世界は同じ世界なのか? それとも二つの世界はまったく違う世界なのか?」という疑問を錯視の現象は問いかけています。ですがこの問いに誰もが納得する説明を下すことが困難なことも事実です。

この世界は、私にとってさまざまに絡み合って存在しています。世界のうちのある物事、たとえば一定の色や特定の音が独立しながら存在していることや、色が見えることと音が聞こえるということは、それぞれに「意味」をもっているともいえます。人によって視覚や音感が異なるからです。好みや嫌いという感覚もあります。

従って個人の行動の意味と原因を理解するためには、外的な要因を分析するだけでは不十分なのです。どういうことかといいますと、高齢者の徘徊も子供のいじめもガン患者の死への恐怖も、当事者が大事だと考えている状態、言い換えれば内的な準拠枠とは何だろうかということを理解する態度が必要なのです。年寄りだから徘徊は仕方ないと考えるのではなく、もしかして徘徊を楽しんでいるのではないかと考えてみるのです。自宅を出て電車に乗ってある駅で保護された認知症の人がいます。これは目的的な行動であり、徘徊といえるかどうかです。広辞苑によると徘徊とは「どこともなく歩きまわること」とあります。これは徘徊という行為を一面的にとらえた説明です。

エドムント・フッサール (Edmund Husserl) という哲学者が興味あることを曰っています。「19世紀の後半に近代人の世界観がもっぱら実証的学問によって規定され、その学問に負う繁栄によって眩惑され、他者による知覚や言動によって客観的世界の実在性を確信させ、世界に現実感を与えていることは明らかだ」というのです。徘徊という行為にも他者による知覚や言動によって規定され、本人は登場していないのが気になるのです。フッサールが言いたいことは、この世界があまりに客観的とか実証的といった「科学的態度」に価値を置きすぎているせいか、人間はそれを自明のこととしているということです。

フッサールはまた、日常的に私たちは、自分の存在や世界の存在をなぜ疑ったりはしないのか問いかけます。私たちは自分が「存在する」ことを意識しており、私の周りの世界もそこに存在していることを疑いません。フッサールは、この人間の自然な態度を以下の3点から批判します。

1 認識の対象の意味合いとか存在すること自体を自明としていること
2 客観的な世界の存在を不断から確信し、そうした関心の枠組みを暗黙の前提としていること
3 世界へ関心を向けることによって、意識の本来的機能である我を忘れるということが起こっていること

このフッサールが指摘した人間の態度は、ナチズムに心酔した指導者にも、現代の私たちにももしかして当てはまっているかのようです。

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初めに言葉があった その35 主観性と世界の理解 「錯視は知覚の多様性?」

私は先天赤緑色覚異常です。小学校低学年の時に色覚検査でそれがわかりました。当時は色盲検査と呼んでいたはずです。検査用紙の中に数枚判読できな数字があるのです。教師は驚いていたのを覚えています。これがもとで現在は差別用語である「カタワ」と呼ばれた経験もあります。将来就くことができない職業があるともいわれました。当時としては諍えない事実でした。現在、色覚異常で不便なことといえば、夕方西に向かって運転するとき信号機の色が弁別しづらいことがあります。幸い青色LEDの実用化で信号機が改善されてきています。

私は、色が満ちあふれるこの世界で大多数の人が見える現象が見えないことが多いのです。この見えないという現象は私にとって主観的であり客観的なのです。私には他の色は見えるという意味ある現象であり、私が意味を見いだしている世界ともいえます。検査する人が、私に向かって「この文字や数字が読めないのか?」というのは、検査者本人にとって意味あるものだけを自分の基本的な信念に合致するように認知しているからです。

こうした言動は外界の認知だけではなく、記憶についてもいえることです。私たちが想起する過去は、私たちの信念体系にとって意味あるものだけが選択され、しかも歪曲されています。個人は、往々にして自分が中心であるところの経験の世界に存在し、そうした場面で知覚するままに反応します。ですから色覚を検査する者は、「なぜ見えないのか、お前はおかしい」と呟いてしまうのです。

主観と客観の説明で用いられる目の錯視とか錯覚を取り上げみましょう。英語では「visual illusion」ですが、illusionとはいえ画像は迫真的なリアリティを有しています。錯視画像は数々あります。形をグラデーションや動きで変えると客観的世界の実在性に疑問を確信させ、目の前の世界に現実感を与えてくるのがわかります。物差しで測ってみて同じ長さであっても、私たちの目には長短があることが迫ってきます。見方によっては若い女性の横顔が年老いた女性にも見える錯視画像があります。100人が画像を見て、全員が若い女性というフラッグを上げ、全員が年寄り女性だというフラッグもあげることができるのです。ある壺には二人が向き合うように見えるのもあります。この事実はもはや「illusion」ではなく実在ではないでしょうか。これが「純粋な知覚や意識」といってよいのかもしれません。

錯視は錯覚はどう違うかはわかりませんが、錯視から言えること。それは個人に経験される世界は客観的で絶対的な実在の世界ではなく、各人によってさまざまに知覚される私的な現象的場 (phenomenal field) であるということです。どのように知覚されようと正しいとか誤りではないという世界があるのです。
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初めに言葉があった その34 主観性と世界の理解 「地球は平らか、」

私たちの日常には、不思議なことで満ちています。今暮らす地球のことから話を進めます。文字通り地球は丸いのですから、人が北極に立つとすれば南極では逆立ちしているはずです。ですがこの地球上で暮らしながら逆さまに立っているなんて想像することはまず好事家以外はありません。

地球が球体であることは紀元前にすでに信じられていたようです。宗教界では地球中心説が定着していました。中世期、地球中心説に対して太陽中心説を唱えたコペルニクス (Nicolaus Copernicus) 、地動説を称えたガリレオ (Galileo Galilei) 、天体の運行は楕円であると主張したケプラー(Johannes Kepler) など、地球は丸いと主張します。それまでは地球は平面だと誰もが教えられていました。地球平面説です。

少しくどくなりますが、誰かが「君はこの地球は丸く見えるか?」と、尋ねてみれば、相手は「あたり前じゃないか、ここ地球は丸くなくて何だと言うんだ」と、訝かりながら目の前の地球儀を指さすに違いありません。実際にそんな質問をしないにしても、私も他者も丸い地球が実在していることを自明なものとして把握している面があります。そういわれても、地平線は文字通り平らだという気がします。

逆に相手の人が「地球は丸いなら、地球の裏側では人は逆さまじゃないの?」などと言い始めたなら、あるいはあたかも逆さまに立っているかのような錯覚に陥っていると主張し始めたとしたら、知覚や本質の直観から地球は丸いと確信していたとしても、その確信はたちまち疑わしいものになります。そして球体性という理解は揺らいでしまうのではないでしょうか。このように他者の振る舞いというのは、地球の平面性にリアリティを与えていきます。

地球は丸いが逆さまに立っているなんて誰もが感じられないはずです。このように少し考えてみると、私たちの行動を促したり決定するものは、「客観的な世界」そのものではなく、「客観的な世界」を主観的にどのように認知するかである、という考えに立つということです。
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初めに言葉があった その33 「われは満ち足れり」

一体、誰がこのように宣言ができるのでしょうか。私たち一人ひとりはそれぞれの家族に生まれ、育てられ、教育を受け、生きています。「満ちたれる」とは一体どのような有り様なのでしょうか。自分を振り返るとき、恐らく誰もが反省とか後悔とかが先に立つのではないでしょうか。私たちはなんらかの理想を目指し、それを求めて懸命に努力し歩んでいます。しかし、その理想は高みにそびえ、その何合目かにいます。人知では到底計り知れない境地が先にあることを知らされています。

バッハ (Johann Sebastian Bach) の作品でもよく知られるのがカンタータ (Cantata) です。その第82番(バッハ作品番号ーBWV82)は「われは満ち足れり」(Ich habe genug) (I have now enough) と名付けられています。バッハのカンタータの中でも純粋な器楽伴奏付きのバス独唱の作品の一つとされています。この独唱とか朗唱は「レシタティーヴォ」(Recitativo) と呼ばれ、組曲形式の作品の中に現れる歌唱の一様式となっています。チェンバロやリコーダが伴奏となり、柔らかい雰囲気や感情などを静かに表現していきます。詠唱 (aria) などの旋律的な曲と組み合わせられます。

さて、「われは満ち足れり」です。この舞台は、「ルカによる福音書第2章第25節」(Gospel according to Luke 2: 25) です。エルサレム (Jerusalem) にシメオン (Simeon) という名の人がいました。この人は信仰深い人でイスラエル (Israel) が慰められるのを待ち望んでいました。彼には聖霊が彼に宿っていたとされ、「預言者シメオン (Prophet Simeon)」、「聖シメオン (Holy Simeon)」、「老シメオン (Old Simeon)」といわれていました。

救世主を待望していたシメオンは、イエスの誕生をきいてかけつけ幼子を抱きかかえ「われは満ち足れり」と言ったことがルカによる福音書に記述されています。この場面から、シメオンは「抱神者シメオン」(Simeon the Godbearer) とも呼ばれるようになりました。「自身の行いではなく、恵みによって満たされた」と宣言する言葉です。

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初めに言葉があった その32 Bernard Sanders

サンダース上院議員(Senator Bernard Sanders)はヴァモント(Vermont)という小さな州の出身です。1941年生まれ。大統領候補としては年配です。健康状態はどうなのでしょうか。次の予備選挙はニュー・ハンプシャー州(New Hampshire)で明日2月9日です。ヴァモントはニュー・ハンプシャーの北隣の州ですから当然、サンダース候補が優位といわれます。ニュー・ハンプシャーの南はマサチューセッツ州です。クリントン候補はニュー・ハンプシャー州の予備選挙のあとのマサチューセッツ州での選挙運動に力をいれることになります。

サンダース候補の経歴は興味があります。若い頃から公民権運動にかかわり、非暴力主義に心酔し人種平等にも賛同してきたようです。彼の選挙公約は、主として経済政策、特に収入や富の不平等に関心があります。最低賃金の上昇、公立大学の授業料の無償化、投機的取引への課税、所得が250,000ドル以上の収入者に対する課税、企業に対する家族休暇、育児や病気の休暇の保障などヨーロッパ諸国の休暇制度の導入をうたっています。シリアからの難民の引き受けも支持しています。ウオール街 (Wall Street) など一部の富裕層と政治の癒着を問題視して有権者を取り込もうとしています。若者や中間層を意識した公約です。

なんとなく大衆から受けそうな政策なのですが、合衆国の人々は自分は中間層の上の人間だという自負が高いのです。低所得者を支えているのだという自負も持っています。ですからサンダース候補の主張に賛同はするが投票は別、という気分なのです。経済や政治において国が強くならなければ市民生活に保障はないと考えるのです。アメリカの財政赤字は今も多額です。2014会計年度の財政赤字は最悪期の3分の1に減少したとはいえ、Sanders候補が公約する国民皆保険制度を導入できるほど税収入の増加が見込まれるのか、という悲観的な意見もあります。
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Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria's President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria’s President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)

初めに言葉があった その30 「Clinton won, but did she?」

アイオワ州での党員集会(Causus)の結果は、激戦であったことを物語ります。とりわけ民主党のクリントン候補(Hillary Clinton)はサンダース候補( Bernard Sanders)にたったの.2%という僅差で勝利したといわれます。New York Timesの見出しに「Clinton won, but did she?」というのがありました。「.2%は誤差ではないか」と勝利?を揶揄するフレーズです。

こうした大統領選挙の運動で興味あることは、2月から7月にかけて順に党員集会が開かれるということです。民主、共和両党とも候補者を1人に絞るのが党員集会で予備選挙とも呼ばれます。緒戦で勝利した候補はその後の党員集会で有利になるはずです。党員集会の最大のヤマ場は「スーパーチューズデー」(Super Tuesday)と呼ばれる3月第1週の火曜日です。今年は11州で党員集会が開かれます。その結果によって、ほぼ候補者が一本化されることが予想されます。

大衆は勝ち馬に乗る傾向があります。この6か月の間、候補者を絞っていくというのが、いわばアメリカの草の根の選挙運動です。両党の全国党大会は8月末から9月の上旬に開かれます。そこで大統領候補者が決まることになっています。

同じ月の同じ日に党員集会をやらないところに特徴があります。この時間のづれは11月の本選挙でも見られます。合衆国の本土には、四つの時間帯があります。東から順に東部時間、中部時間、山岳部時間、太平洋時間です。投票は東部から始まり、一時間遅れて順に続きます。開票も同じです。ですから東海岸で開票結果が出始めても、西海岸ではまだ投票が続くのです。人々は開票結果を見ながらどちらに投票するかということになります。
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