ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

注目

ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十三 ワシントン州 「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)

この小説の作家はグッターソン(David Guterson)というアメリカ人です。これを今回は紹介します。小説の舞台はワシントン州北西部の小さな湾のジュアン・デ・フカ(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶ、人口5千の移民の島サンペデロ島(San Piedro)です。1954年12月、日系アメリカ人漁師のカブオ・ミヤモトは、同僚カール・ハイン(Carl Heine)を殺害したとして第一級殺人容疑で罪に問われます。カールは強い絆で結ばれる人々の中で慕われていた漁師でありました。カールの死体は漁網の中で発見され、彼の腕時計は午後1時47分を指していました。島全体を包む吹雪の中、戦争後の反日感情が広がっている時代です。

Ishmael & Hatsue

裁判を取材するのは、元海兵隊軍人であるイシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は、地元新聞サンペデロレビュー紙(San Piedro Review)の記者です。戦争中は激戦地タラワ島(Tarawa Island)で同胞の死に遭遇しています。幼い頃、イシュマエルは、高校時代にハツエという日系女性と同級で、ヒマラヤ杉の洞で愛を育くみます。青い目のイシュマエルと黒髪の美しいハツエは、密かに情を交わす関係にあったのです。しかし、二人の関係は太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれてしまいます。

検察側は、刑事のモーガン(Art Moran)と検察官のフックス(Alvin Hooks)です。カブオを擁護するのはグッダモドソン(Nels Gudmondsson)という老練弁護士です。何人かの証人の中でカブオが犯人であると主張するのがカールの母親のエッタ(Etta) で、人種差別や偏見の強い人物です。

裁判では、他に検死官(coroner)のワリー(Horace Whaley)やカールにイチゴを売る老人のジャーゲンセン(Ole Jurgensen)らです。裁判ではイチゴ畑が争点ともなります。この畑はもともとカールが持ち主でした。この土地に住んでいたのはミヤモトという一家で、ハイン家の人々にイチゴを売っていました。カブオとカールは幼馴染みでした。カブオの父親は、広いイチゴ畑を購入したいとハイン家に持ちかけます。しかし、エッタは反対しますが、カールは売ることに賛成します。支払いは10年間払いというものでした。最後の支払いが近づいた頃、真珠湾攻撃により大戦が勃発します。島に住んでいた日系人は強制収容所行きとなります。

Snow Falling on Cedars

1944年、カールの父親は心臓麻痺で亡くなります。エッタはジャーゲンセンにいちご畑を売却します。カブオが収容所から解放されて帰ると、エッタが土地を他人に売ったことを知り、酷く怒ります。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れると、カブオが土地を買い戻そうとする前に、カールは土地を購入したいと申し出ていたのです。裁判ではこうした土地を巡る家族や住民の間の確執が、カブオに対する殺人の容疑の背景となります

記者のイシュマエルは、カブオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。しかし、カブオの妻であり彼自身の幼馴染のハツエとの間の過去の恋愛関係に対する感傷の想いが断ち切れないでいます。また、日系アメリカ人への厳しい偏見と大戦という厳しい出来事によって、成就できなかった自分達の関係についてイシュマエル自身は心が整理できないでいます。彼がつかんだカブオが犯人でないという証拠をどのように扱うべきかで悩んでいたのです。

イシュマエルはポイントホワイト (Point White) という灯台付近で、午前1時42分頃、カールが釣りをしていたこと、丁度その頃、付近に大きな貨物船が通りかかったことをつかみます。カールの時計が指していたのは1時47分でした。カールの小舟が貨物船の航跡を受けて沈没したことを知ったのです。カールは小舟のマストに登り、灯を降ろそうとしたとき、貨物船の波で倒れてきたマストに頭を打ち、海に投げ出されたことも判明します。幼馴染のハツエにふられたイシュマエルは、カブオへの容疑が晴れる証拠をつかんでいたのです。

カブオは無罪として釈放されます。カブオと結婚していたハツエは、昔の恋人だったイシュマエルに、無実の証言をしてくれたことに感謝するのです。イシュマエルは、自分の不可解な感情が無神論者であったためだと考えるのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その三十三 ハワイ州–Aloha State

大抵の日本人なら一度は旅するところがハワイ州(Hawaii)です。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

ハワイ固有の文化はポリネシア系(Polynesia)です。ポリネシアとは「多くの島々」の意味だそうです。音楽、舞踊、服装、料理などがそうです。1778年にイギリスの探検家、ジェームス・クック(James Cook)によって世界に紹介されます。州として合衆国に編入されたのは1959年。カメハメハ大王(King Kamehameha the Great)の統治が長く続きました。その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島(Oahu)やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。今も琉球の名前を持つ人々が大勢住んでいます。

マウイ島

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し陸軍の大隊に入ります。この部隊は日系人だけで組織されていたようです。やがてアメリカ本土の日系人部隊と合流し442連隊 (442nd Regimental Combat Team) となりヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館や戦艦ミズリー号などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島やカウアイ島(Kauai Island)、モロカイ島(Molokai Island) などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には代々の天皇の「写真」が飾ってあります。驚くなかれ神武天皇の写真もあります。日本に対する深い想いがこめられているのを感じます。

ハレアカラ火山

ハワイ島のマウナケア(Mauna Kea)山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。一行にいた理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。バラク・オバマ大統領が卒業したプナホウは人気が高くなりました。マウイ島にあるハレアカラ火山の標高は3,000メートルを超え、世界一大きな火口を持つことでも有名です。「2001年宇宙の旅」の火星モデルにもなったようで、荒涼、索漠たる光景がひろがります。この世ではない遠い世界のような感じがします。ほとんど頂上近くまで車であがることができます。

ウィスコンシンで会った人々 その120 囲碁噺 「笠碁」

昔の道楽といえば、「呑む」「買う」「うつ」。その内最もタチの悪いのが「うつ」、博打である。身代を持ち崩し、家族が崩壊することが多かったようだ。道楽ならぬ「道落」といわれる所以である。現代の「打つ」の代表は囲碁や将棋といえよう。

囲碁は筆者の趣味の一つ。毎週二回は囲碁例会の会場予約や親睦のお世話をしている。囲碁にはいろいろな人物や話題が登場する。いくつかの囲碁にまつわる演目があるが、大抵はヘボ碁やザル碁を笑うもので、どれも江戸時代が舞台となる。

「笠碁」という演目がある。竹馬の友で碁敵の美濃屋の隠居とある旦那の噺。この二人、今日も「待ったなし」という約束で打ち始める。中盤までスラスラと何事もなく進むのだが、途中、旦那のいつもの癖がでる。「済まん、待ったさせてくれ!」どちらも棋力は二級から初段くらいのようだ。

美濃屋の隠居は「約束は約束!」とどうしても引き下がらない。そのうち旦那は、三年前の借金の話を引き合いにして、返済を待ったしてやったという。だが、隠居は「お金はお金、囲碁は囲碁」と一蹴する。そのうち、売り言葉に買い言葉になって対局はおじゃんとなる。

隠居 「借金の恩義があるから大晦日には、手伝いに行ってやれば蕎麦一杯も出さねえ、このしみったれのヘボ野郎」
旦那 「帰れ、帰れ、このザル野郎め!」
隠居 「金輪際、来るもんか!」

翌日から旦那は孫を連れて上野界隈をブラブラするのだが、退屈でしようがない。「碁敵は憎さも憎し懐かし、」。喧嘩で啖呵を切ったことを悔やむ。それを見かねた番頭が云う。

番頭 「旦那様、碁会所でも行ってはいかがですか?」
旦那 「あんなとこ行ったかて相手はいない、、」
番頭 「相手が。え? 相手が弱すぎて?」
旦那 「強すぎるんや、皆目歯が立たんのや」

美濃屋の隠居もとうとう退屈さに耐えかねたのか、旦那の店の前をウロウロし始める。丁度雨の日。それを旦那が呼び止める。

旦那 「やいやい、ザル野郎!」
隠居 「なに、どっちがザルだ、このヘボ野郎!」
旦那 「ヘボかヘボでねえか、一番やるか!!」

こうして目出度く仲直りをし再び碁盤を囲む。果たして「待った」が飛び出すのか、出さないか。サゲは「笠碁」を聴いてのお楽しみ。

 

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Memorial Union © UW-Madison News & Public Affairs  608/262-0067 Photo by:  Jeff Miller Date: 1995     File#: color slide

Memorial Union
© UW-Madison News & Public Affairs 608/262-0067
Photo by: Jeff Miller
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ウィスコンシンで会った人々 その119 へべれけ噺 「替り目」

徹宵して、ぐでんぐでんに酔っぱらった亭主が、女房が寝てしまったと思って「女房は生きた弁天様だ」とか言いながら帰ってくる。人力車を頼むがそこは自宅の前。それを起きていた女房に聞かれてしまった。弁天様だが、七福神の中で唯一の女性の福の神。また歌舞音曲を司る女性の守り神ともされる。

女房は車夫に謝り亭主を入れると、亭主はまた寝酒といって所望する。そのうち、肴がないかとねだるが残り物がない。丁度おでん屋が近くにあるので、女房におでんを注文させる。女房はなにを見繕ってくるかと訊く。

亭主 「俺の好きなものは”焼き”」
女房 「焼きって何ぃ?」
亭主 「焼き豆腐のことだ。や・き・ど・う・ふ、と言っていたら舌を噛む」
亭主 「江戸っ子は”焼き”と言えば焼き豆腐だとピンとくるんだ」
女房 「それから?」
亭主 「”がん”だ」
女房 「鳥の雁だね」
亭主 「間抜け、ガンモドキだ」

女房 「それなら”ペン”もいい?」
亭主 「”ペン”ってなんだ?」
亭主 「ハンペンのことよ、、」
女房 「ついでに”ジ”もどお?、」
亭主 「なんだ、ジって、、」
女房 「スジのことよ、、」
女房 「”ブ”もいい?」
亭主 「”ブ”ってなんだ、」
女房 「昆布だよ、お前さんの好きな、」
亭主 「変な詰め方するな、早く買ってきな!」

おでんを買いに行った留守にうどん屋が家の前を通りかかる。亭主はうどん屋を呼び止めて、冷や酒の徳利を出してお燗をしてもらったが、うどんは嫌いだからとかいって、うどん屋を追い払ってしまう。女房が帰ってくるとお燗があるのできくと、うどん屋に燗してもらったが、うどんを注文しなかったという。女房、うどん屋が可愛そうだから、何か注文しようとうどん屋を呼んだ。ところがうどん屋は知らん顔。近くにいた客が、呼んでいるよと教えると、「だめだよ。丁度今がお銚子の替わり目だ」。

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ウィスコンシンで会った人々 その118  富くじと火事噺 「富久」 

目蒲線目黒駅のそばに急な坂がある。有名な行人坂である。なぜ有名かというと坂の途中に大円寺があるからである。この寺は明和9年(1772年)の大火の火元となり、江戸八百八町のうち、六百三十町をなめ尽くした。火事は日本橋あたりまで延焼し、多数の死者も出たという記録がある。大円寺はお咎めを受けて、その後70年間再建が禁止されたという。

大火によって多くの寺社仏閣が焼失した。その復興のために、寺社奉行は富くじを認め、復興資金集めを許した。富くじ興業はその後、娘を売ったり人を殺めて金を工面するなど、射幸心を煽るという理由で次第に自粛され中止となっていく。「富久」は火事と酒、そして宝クジにまわつる演目である。

日本橋の花柳界に久蔵という太鼓持ちー男芸者がいた。いわゆる幇間である。性格はよく如才ないのだが酒を呑むと喧嘩をふっかける。酒乱が元ですっかり客がつかなくなり仕事にあぶれ、こ汚い長屋に住んでいる。そこに湯島天神の富くじを売って歩く男がやってきて、残り物のくじを一本を買わされる。それを大事に大神宮のお宮にしまう。

半鐘の音で起こされた久蔵、火事場にかけつけて手伝うように差配の旦那に言われる。急いで消火を手伝い、その甲斐あって用意された酒を徹宵して飲てみ寝込む。その夜、また半鐘が鳴る。なんでも自分の長屋のあたりから出火したと言われる。かけつけると長屋はすっかり焼け落ちている。とぼとぼと旦那の所に戻る途中、大勢の人だかり。その日は湯島天神の境内で富の開帳があるという。

やがて、目隠しをした坊主が富の番号を読み上げる。

坊主 「鶴の1555番! 鶴の1555番!」
聴衆 「あっ残念、もうちょっとの違いだ、、」
別な聴衆 「2,3番の違いか?」
聴衆 「500番違いだ、、」

久蔵 「あ、たった、、あ、たった、、、、」 と久蔵は座ってしまう。
聴衆 「富の開帳には、こんな男が必ず出てくるんだ、、、」

千両と引き換えに富札を求められた久蔵だが、火事で札が無くなったことに気づきガックリ。だが、近所の者が大神宮の神棚を持ち出してくれていたので富札は無事久蔵のもとにかえり千両を手にするという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その117  人情噺 「火事息子」 その2 火事と喧嘩

さて、本題の火事と喧嘩である。神田は質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎。なぜか小さいときから火事が好きでしょうがない。いってみれば火事道楽である。やがて町火消しになろうとして町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られる。藤三郎は体中に刺青をしたりして素行がよくないので、家からは勘当されている。

鳶頭は町火消という民間の消防団の頭もしていた。藤三郎は別の町火消のところへ行っても、すでに鳶頭から回状がまわっていて断られる。火消しになるためには厳しい条件があった。藤三郎はそれに合わず、仕方なく火消屋敷の人足になる。

ある北風が強く日。伊勢屋の近くから火事が出た。質蔵の目塗りをしようと左官の親方に頼むが、手が回らないという。さいわい質蔵は風上であるが、それでも、質蔵に火が入っては一大事と質蔵に目塗りをすることになった。主人は高い所を怖がる番頭を蔵の屋根へ上げ、丁稚の定吉に土をこねさせ屋根へ放り上げる。だが番頭は片手で半てんを押さえている。怖がって土を上手く受けとめれない。顔に土が当たって顔に目塗りをしている有様だ。

これを遠くから見ていた一人の火消しのような者が屋根から屋根を伝わってきてくる。そして番頭の帯を折れ釘に結ぶ。これで番頭は両手が使えるようになる。ようやくのことで目塗りが終わる。幸い風が止んで鎮火。そこに火事見舞いの人たちが入れ替わり立ち替わり伊勢屋にやってくる。火事見舞いではササが振る舞われる。

火事見舞いだが、紀伊国屋からは風邪をひいた旦那の代わりに倅もやって来た。伊勢屋は自分の息子と比べ羨ましく、思わず自分の息子の愚痴も出る。そこへ番頭がさっき手伝ってくれた火消しが旦那に会いたいと言っていると取り次ぐ。旦那は店に質物でも置いてあるのだろうと思い質物を返すようにと言うが、番頭は口ごもってはっきりしない。

よくよく聞いてみると火消しは勘当した倅だというのだ。もう赤の他人なんだから会う必要はないという旦那を、番頭は「他人ならお礼を言うのが人の道ではないか」と諭され、それも道理と一目会って礼を言おうと台所へ行く。

かまどの脇に短い役半てん一枚で、体の刺青をだした息子の藤三郎がいる。お互いに他人行儀のあいさつを交わすが、息子の刺青を見て、折角大事に育てた親の顔へ泥を塗るような姿だと嘆く。

旦那 「お引取りを、、」
藤三郎 「それではこれでお暇を」
と言うが二人を番頭が引きとめ、おかみさんを呼ぶ。奥から猫を抱いたおかみさんが出てくる。火に怯えずっと抱いたままだという。

番頭 「若旦那がお見えでございます」 
おかみさん「猫なんか焼け死んだって構やしない」

と猫を放り出す。せがれの寒そうななりを見たおかみさん、蔵にしまってある結城の着物を持たせてやりたいと涙ぐむ。

旦那 「こんな奴にやるくらいならうっちゃってしまったほうがいい」
おかみさん 「捨てるぐらいならこの子におやりなさい」
旦那 「だから捨てればいい、わからねえな、捨てれば拾って行くから」
おかみさん 「よく言っておくんなさった。捨てます、捨てます、たんすごと捨てます」

おかみさん 「この子は粋な身装も似合いましたが、黒の紋付もよく似合いました」
おかみさん 「この子に黒羽二重の紋付の着物に仙台平の袴をはかして、小僧を伴につけてやりとうございます」
旦那 「こんなヤクザな奴にそんな身装をさしてどうするんだ」
おかみさん 「火事のおかげで会えたから、火元に礼にやりましょう」

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ウィスコンシンで会った人々 その116  人情噺 「火事息子」 その1 江戸の華

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた時代があったようである。江戸は大火が多く、火消しの働きぶりが華々しかったともいわれる。江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったらしい。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりで腑はなし」という言葉すらある。

当時はどの家屋も木造。一端火事が起きると、材木や大工、左官、鳶職人などの建築に従事するものの仕事が増えた。中には火事の発生を「待望する」者もいた。火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やそうと、強い風を利用し、「継火」という他の家屋などに延焼させる犯罪行為をする者も現れた。

こうした江戸に町人による火消の組織ができる。「町火消」である。今の消防団である。幕府の直轄の火消しとして「定火消」ができる。旗本がその役にあたる。今の消防署である。火の見櫓を備えた商家や武家屋敷も江戸の生活を描いたものに見られる。

現在も東京には「上野広小路」、名古屋や京都には「広小路」通」などの地名が残っている。札幌の大通り公園も広小路である。広小路は大火事から生まれたものである。延焼を防ぐための広場や空地である火除地なのだ。

火除地や広小路ができる前に、そこに住んでいた者達は移住を命じられ江戸の外縁部や埋立地が与えられる。隅田川をはさんだ右側、東西の流れる北十間川、北東に伸びている曳舟川付近が移住先として選ばれた。こうして江戸は街が拡大し発展していく。歌川広重の「名所江戸百景」にも火の見櫓や火除地が描かれ広々とした空間が特徴となっている。

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ウィスコンシンで会った人々 その115 幽霊噺  「お化け長屋」

肝試しやお化けが話題となる季節は去った。秋のお彼岸も終わり、霊も幽霊も暫く静かな時を過ごしているのではないか。だが幽霊やお化けは人間にとって永遠の話題である。なぜなら、皆等しく幽霊になる可能性があるからだ。祭りなどで「ひょっとこ」や「おかめ」が登場したり、縁日でお面をかぶる姿は、ハロウィーン(Halloween)の仮装とも合い通じるものがある。死んでから自分に似せた面をカメの前に架けておけば、家が富み栄えるという昔話もある。人はあるものに変身したいという潜在的な憧れがあるようだ。

ある長屋に一軒の空き家がある。そこを長屋の連中は、物干しにしたり物置として使っている。家主はこの物置を空き部屋として貸そうとする。長屋に古くから住んでいる通称、古狸の杢兵衛が物置が無くなると大変だと一計を案じる。借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手を脅して空き家に借り手がつくのを防ごうという算段だ。

早速、借り手が杢兵衛のところへ来る。杢兵衛は怪談じみた話を始める。3年程前に空き家に住んでいた美人の後家さんのところへ泥棒が入り、あいくちで刺され後家さんは殺された。空き家はすぐに借り手がつくが、皆すぐに出て行ってしまうという。後家さんの幽霊が出るという話を借り手に披露する。

借り手が恐がりなのを見透かした杢兵衛は、身振り手振りを加え怪談話をする。恐がってもうわかったから止めてくれという借り手の顔を、幽霊の冷たい手が撫でるように濡れ雑巾で撫でると借り手は大声を出して飛び出して行ってしまう。大成功だ。借り手の坐っていたところを見るとがま口が忘れてある。成功、成功と拾ったがま口を持って仲間と寿司を食いにいく。

次に来たのが威勢のいい職人風の男。前の男を恐がらせて追い返した杢兵衛、自信たっぷりで怪談話を始めるが、こんどの男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れて混ぜっ返す始末だ。困った杢兵衛さん、最後に濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまう。男はすぐに引越して来るから掃除をしておけと言い残して帰ってしまう。そこへ長屋の住人が様子を聞きに来る。

杢兵衛 「あいつはだめだ、全然恐がらねえ、家賃なんかいらないって言ってしまったからお前と二人で出そう」
長屋の住人 「冗談じゃねえ、がま口なんか、置いて行かなかったのか?」
杢兵衛(あたりを探して) 「さっきのがま口持って行っちゃった、あの野郎!」

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ウィスコンシンで会った人々 その114  読み書き噺 「七の字」

江戸時代には読み書きできる者はかなりいたらしい。それは寺子屋の普及にあるようである。寺子屋は読み書きソロバンなど基礎的なことを教えていた民間の施設である。道徳なども教えていたとWilipediaにある。寺子屋が一般庶民の間に定着し、それによって識字率がかなり高くなったようである。

街頭で読み上げながら売り歩いた「読売」を競って買い求める庶民が多かった。「読売」は瓦版ともいわれ、かなり娯楽志向のガセネタもあったようだ。文字通り「人騒ガセのネタ」だ。タブロイド紙である。裏を返せば、読み書きができる庶民が多かったということである。苗字帯刀がご法度の頃である。

「読売」についてもう一つ。佐伯泰英の時代小説「酔いどれ小籐次留書」や「吉原裏同心」、「古着屋総兵衛」などでは、犯人の動きを探ったりおびき寄せるために、意図的にガセネタを「読売」で流す。現代も政治や経済の世界ではもこうした手法は使われる。

さて、演目「七の字」である。貧乏長屋の紙屑屋、七兵衞は「くず七」というあだ名で知られていた。家族がいなかった叔父が亡くなり、くず七は財産を相続してたちまち金持ちになる。そこで長屋を引き払い、一軒家に移って悠々と暮し始めた。それまで仲良くしていた住人との付き合いをぷっつりやめる。長屋の住人には歯牙にも掛けず、尊大な振る舞いで周りの者を呆れさせる。性格がすっかり変わってしまった。

ある日、くず七が床屋の前を通りかかると、床屋にたむろしていた長屋の太助と源兵衛がくず七を見付ける。二人が呼び入れて見ると、くず七は腰に筆と筆壺の矢立を差しているので、二人は問い詰める。

太助 「くず七、てめえ矢立なんぞ腰にさして、、長屋にいた頃は、自分の字も書けなかったはずだ」
くず七 「いいや、長屋にいた頃はあえて書かなかっただけだ。叔父が死んでから書き始めた」
源兵衛 「じゃ、ここで自分の名前の七って字を書いてみろ」
くず七 「書けたらいくら出すか?」
太助 「いやなこというな、、いくらでもやるよ。一文でも二文でも」
くず七 「さすが貧乏人だ。付き合いたくないな。一両出すなら書いてやら、、」
源兵衛 「今は一両を持ってねぇから、これから集めてくる。昼過ぎにここへこい!」

一両の工面に太助と源兵衛は床屋を飛び出す。他方、くず七は「さて、さて誰に字を教わろうか」と町内の手習いの師匠の所へやってくる。師匠の女房がいて教わることになった。「わかりやすく、この火箸を使い横に一本、縦に一本置いて、かかしにします。足を右に折って曲げれば七になります」と教わり、くず七もなんとかやってみて納得する。

くず七は勇んで床屋に戻ってきた。源兵衛と太助も一両集めてきて待っていた。くず七はもどかし気に、横に一本、縦に一本置いてかかしをつくる。二人は「こりゃ書けそうだ。一両取られる」と驚いて頭を下げて謝った。

太助 「勘弁してけれ。確かに書けるようだ。謝るからこの一両はなかったことにしてくれ」
くず七 「いいや。そうはいかない。この足を…………」
源兵衛 「わかったよ。右に曲げるんだろう?」
くず七 「いいや。左に曲げるのさ」

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