Delwyn Harnisch 追悼 その二 アメリカ研修から

visit_union USA_ne_UNLlogo 573f94dcce68c.image2007年2月17日〜26日にネブラスカ、カンザス、アリゾナの学校を視察しました。教育委員会から派遣されていた現役の教員7名を引率した視察旅行です。私は毎年、海外の学校を調べるために院生に呼びかけて参加を促してきました。こうした旅行を快適にし充実させるのは、海外の人脈を頼ることでした。人脈は海外の学会で会った研究者、友人の紹介、ロータリークラブ、フルブライト交流事業の研修で知り合った教育関係者などです。

訪問する学校を事前に決めるには、こうした人脈を使い相手に訪問目的などを伝えます。ほとんどの場合受け入れてくれます。こうした人脈は「Old boy connection」というのですが、アメリカもコネが強いところですからこれを使わないといけません。門前払いを避けるためです。予定していた学校の訪問がキャンセルされたとき、飛び込みで学校を訪問したこともあります。訪問の理由を伝えると校長は「どうぞ、どうぞ」といってくれます。

以下は、今から10年前にDelwyn Harnisch教授がお世話してくれたネブラスカやカンザスの学校を訪問したとき、事前に院生に配布した旅行メモです。今から考えると少々くどいかという印象です。

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1 持ち物の確認
・パスポートは死んでも忘れない。パスポートの期限を確認すること。
・大きなスーツケースを避けて、スポーツバッグなどにする。
・バッグに名札と目印となるリボンなどをつける。
・英文の名刺を持参する。
・ホテルにスリッパや寝間着はないので持参する。
・学校訪問用の上着とネクタイ
・服装は冬姿 仙台-札幌くらいの寒さと考えれば良い。

2 集合時間と場所
・2月17日午後3時、集合場所は関西空港3階出発ロビーのUnitedのチェックイン周辺
・便に遅れそうになったら、必ずUnitedの係員に連絡すること。万一遅れた時は翌日の便でくること。

3 現地での万一の連絡先–以下の受け入れ者、あるいはホテルに電話すること。
リンカン市 Delwyn L Harnischさん 日本滞在2年
住所 1635 S. 84th St. Lincoln,
自宅電話 (402) 488 xxxx

キャンザスシティ市 Jim Wieseさん 日本滞在25年
住所 5021 NW  66th St. Kansas City,
自宅電話 (816) 746 xxxx

4 ホテル名 なにかあったらメッセージを残すこと。
Chase Suite Hotel  リンカン市
200 S 68th Street Pl, Lincoln, NE
(402) 483-4900

Econo Lodge Kansas City Airport キャンザスシティ市
11300 Northwest Prairieview Road, Kansas City
(816) 464-2816

Comfort Suites Tempe, フェニックス市
1625 S. 52nd St., Tempe, AZ
(480) 446-8080

5 旅行予定
2月17日
午後3時 関西空港3階出発ロビー
午後7時頃 オマハ空港着 レンタカー 約1時間でリンカン市へ
午後9時頃 リンカン市内Chase Suite Hotel着

2月18日
午前9時15分 ルーテル教会のバイブルスタディと礼拝
午後1時 市内中華レストランで旧正月ブランチ
午後 ネブラスカ大学恐竜博物館見学

2月19日
午前中 ネブラスカ大学特殊教育講座の教官と協議
午後  未定
夕食 日本食レストラン

2月20日
午前 リンカン市内小学校
午後 リンカン市内中学校
午後4時 キャンザスシティへ出発、約3時間
午後8時 キャンザスシティ Econo Lodge Hotelにチェックイン

2月21日
午前 キャンザスシティ市内小学校
午後 キャンザスシティ市内中学校

2月22日
午前9時 レンタカー返却 10時54分キャンザスシティ発 デンバー経由
午後15時23分 フェニックス着 レンタカーで Comfort Suite Airport Hotelチェックイン

2月23日
午前 テンペ市内小学校
午後 テンペ市内中学校(高校の可能性もある)

2月24日
休養 グランドキャニオン見学

2月25日
フェニックス発 サンフランシスコ経由 山本さんとシスコでお別れ
2月26日 関西空港

6 航空便名
2月17日 KIXSFO UA886 (16:55-09:20)
2月17日 SFODEN UA862 (10:42-14:04)
2月17日 DENOMA UA1240(15:55-18:16)
2月22日 MICDEN UA5325(10:54-11:41)
2月22日 DENPHX UA1455(13:30-15:23)
2月25日 PHXSFO UA1651(07:25-08:29)
2月25日 SFOKIX UA885 (11:24- 2/26 16:20)
2月26日 関空着  (16:20)

7  その他
1 コミュニケーションのマナーです。
・大きな声でゆっくり尋ねたり答えたりします。発音は気にしない。(松田さんを見習うと良い(^^)
・相手の目をみて、動作は少々きざでも堂々と振る舞いましょう。
・答えははっきり、微笑は控えめに。
・質問を絶えず用意しましょう。
・沈黙は無関心とか無能力者と受け取られます。絶えず質問する姿勢を。

2 運転上のマナーです。
・歩行者がどんな場合でも絶対の優先であることを肝に銘じる。
・譲られたときは、決してthank you のクラクションを鳴らしてはいけない。ましてやハザードランプをつけることも全く不用である。そんな習慣やアメリカにない。
・信号のない交差点で横断しようとする人や歩行者を見たら必ず停まる。
・雨の時や午後3時以降は必ずライトをつける。
・夜交差点で一時停止するとき、ライトは決して消してはいけない。
・右折の場合だけ、歩行者がいないときや左から車が来ないときは赤信号でも右折できる。
・万が一事故の時は、警察がくるのを待つ。交通事故や違反のときだけは絶対に自分の非を認めたり、謝ったりしてはいけない。警察と保険会社が処理してくれる。
・制限速度は必ず守る。パトロールカーが多いので注意すること。
・駐車は必ず頭から停める。バックで決して停めないこと。
・レンタカーの契約書に記載された者以外は運転してはならない。
・お年寄りの運転が多いので、ゆっくり後をついて運転すること。追い越しは禁物。
・ハイウエイでは右側を運転する。追い越し車線は左側である。
・万が一パトカーに捕まったら、「アメリカで始めての運転であること」、「スピードメータがマイルでなくキロだと思った」、「アメ車はすごく運転しやすい」、「日本の道路と違って幅広くついスピードがでた」などと英語をたどたどしく操り、うまくとぼけると許される場合がある。この場合は、相当な演技力を要求される。もし、この演技がばれたら大変なことになる。
・バス停にバスがとまって乗客が乗り降りしていたら、決して追い越してはいけない。特に駐車中の黄色のスクールバスは厳重にこの規則を守ること。
・信号が黄色に変わったなら直進してはならない。
・オールストップの交差点(Yieldの標識がある)に信号はない。この交差点に来たら、必ず停止する。そして最初に交差点に入った車から順に発信する。
・最後に、日本でのマナーは通用しないと思って間違いない。周りの運転手のマナーを見ながら運転すること。

以上です。

Delwyn Harnisch 追悼 その一

57CX3747 57CX3750 57CX3733昨日の朝、メールを開くとネブラスカ大学の友人が亡くなったとありました。彼の名前はDelwyn Harnisch。ドイツ系移民の名前の持ち主です。子供四人にもドイツ系の名前をつけていました。小さいときはネブラスカのど田舎にある複式学級で勉強したようです。その後、努力してイリノイ大学の基幹キャンパスであるアーバナ・シャンパン校(University of Illinois at Urbana Champaign) の教授となります。教育測定評価の専門です。日本には1998年にNECの研究所に招かれてS-P表というテストの結果の評価法を広めます。私が彼を知ったのはこの評価法です。その後、私は研究費に応募して彼を兵庫教育大学の客員研究員として3カ月招くことができました。

やがてDelwyn Harnischはネブラスカ大学リンカーン校 (University of Nebraska at Lincoln) から招聘状を貰います。アメリカの大学では、欲しい研究者の収入などを調べているので、現在の待遇以上の条件を提示します。例えば1.5倍の給料をだすとか、これこれしかじかの研究環境を用意するなどです。招聘状をもらう研究者は、提示された待遇、大学の研究設備、同僚となるスタッフの研究状況、子どもの教育環境などを調べ、自分の研究にも家族のためにもプラスになるかなどを考慮します。

Delwyn Harnischは、招聘状をもらったときイリノイ大学に残りたかったそうです。なぜならシカゴやニューヨークなどに近く研究環境として恵まれていたからです。そこで、学部長に会い「1.5倍の給料でネブラスカ大学からオファーがきているが、もしイリノイ大学が今の給料を上げてくれれば、残りたい、」と交渉したというのです。

ところが学部長は「残念ながら予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」と言ったのでネブラスカ大学へ移ることにしたのだそうです。このように、さばさばと交渉できるのがアメリカの大学の面白いところです。また学部長も予算やスタッフの給料を決める権限があるのは興味深いことです。

Delwyn Harnischは地元のルーテル教会の熱心な信徒でもありました。公私にわたっていろいろお世話してもらいました。例えば、教員として派遣されている兵庫教育大学の院生を引率してネブラスカのリンカーン市の学校を視察したり、友人を紹介してもらい一緒に研究することができたこと、日本からの研究者を暖かく引き受けてくれたことなどです。その間いろいろなエピソードもあります。次回はそれを紹介します。

リベラルアーツ教育  その15 リベラルアーツと技の基本

140124428837240382226 soukan-zu_edo img20090912204543227中世ヨーロッパの学問の科目や16世紀の日本におけるイエズス会のセミナリオで実践された宣教師養成のカリキュラムから、リベラルアーツの源流や発展の足跡を辿ってきました。世界のどの国でも人材の養成には、基礎となる学問をきちんと課していたことがうかがえます。

学問の世界だけでなく、武芸を磨くことでも共通した鍛錬方法があることが解ります。佐伯泰英の時代小説の中で「居眠り磐音ー江戸双紙」を第一巻の「陽炎の辻」から最終巻の「旅立ノ朝」まで読んだのですが、そのなかに剣術と精神の集中の奥深さが随所にでてきます。主人公は坂崎磐音という剣術家です。彼は江戸での修業を終えて豊後関前藩に戻ると罠にはまり、上意によって朋輩をやむなく斬り、関前藩を後にして再度江戸で暮らし始めます。やがて直心影流佐々木道場で佐々木玲圓という師匠のもとで術を磨きます。玲圓が不運の死を遂げると磐音が道場の師範となります。

佐々木道場に槍折れの使い手である小田平助が客分としてやってきます。道場の門番を務めるながら、下半身を鍛えるための槍折れを特技としています。槍折れとは犯罪者を捕縛するための棒を使った捕手術で足腰を鍛えるのです。磐音はこの槍折れを剣術に必要な体力作りの基礎として取り入れるのです。

しかし、道場にやってくる門弟、特に武士は棒折れなどを下士の武芸と蔑み、決して棒術に手をだしません。平助は、棒折れの稽古を弛まず続けると足腰がしっかりしとして、剣術の基となる体の線がぴたりと決まりると手本を示しながら教えをつけるのです。磐音の一人息子、空也も7歳のときから平助に棒折れを学び、13歳でようやく道場入りを認められます。そこから本格的に剣術を学ぶことが許されます。

司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノもまた、セミナリオに入学を認められやってくる若者に規則正しい日課や団体生活をとおして、日本語とラテン語の読み書き、日本の古典の知識、歌唱や器楽演奏を教えるのです。教授陣には禅宗の考え方を規範として教導していきます。宣教活動の基本は日本人の習俗や文化、振る舞い方や態度の理解に始まるという考え方を徹底していきます。ヴァリニャーノの考えが正鵠を射るのは、「将来の専門分野を見定めるための準備とする教育」リベラルアーツをしっかりと身につけていたからといえましょう。

リベラルアーツ教育  その14 ヴァリニャーノの偉大な貢献

20151007062203 kakured Ganjin_wajyo_portrait司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) の九州や京都、大阪における宣教活動を「日本巡察記」という著作から振り返っています。ポルトガルやイタリアから大西洋を南下し、喜望峰からインド洋を通り、マラッカ海峡から北上して島原半島に上陸するのです。その航海は「波涛千里洋々と、東にうねり西に寄せ日出ずる国へ」の旅だったろうと察します。バルチック艦隊のようですが、いかんせん帆船で風まかせです。時に遭難しそうになり、港に戻るということもあったようです。

そうした困難を克服して、アジアの東端日本にやってくるのですから、宣教師らの心意気が伝わります。もちろん貿易上の利権争いや植民地化などの覇権争いが陰にはあったろうと察しますが、命がけの航海は重大な使命感がなければなし得ない事業であったはずです。

私がこの著作に惹かれるのは、ヴァリニャーノがいかに日本伝道で苦心し、日本人の会衆を導いていったかということです。異境の地での伝道は冒険です。文化も言語も全く異なる世界で、いかに人々を改宗させるか、その戦略を考えるとき、禅宗の教えに宣教の鍵を見いだすという彼の非凡さには驚くほどです。

日本には、古くから海外から渡来した人々によって文化や宗教がもたらされました。たとえば、百済からやってきて千字文と論語を伝えたとされる王仁、奈良時代に日本への渡海を5回にわたり試み、日本における律宗の開祖とされ、やがて唐招提寺を建立する鑑真、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル (Francisco Xavier) など国の制度の確立や民族の精神性や文化の発展に寄与した人々がいました。

ヴァリニャーノの「日本巡察記」は、江戸幕府によってキリスト教徒がやがて禁教や迫害など、辛い時代を迎えることを予見する比類のない資料価値を有する著作であり、安土桃山時代と江戸時代を研究するうえで不可欠な資料であるのは間違いありません。

リベラルアーツ教育  その13 セミナリオでの日課とラテン語の学習

img_0 15eu102_3143 800px-Pcs34560_IMG_1985安土桃山時代、司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) は、イエズス会によって日本に最高監督者として派遣されます。巡察師という職命を受けたヴァリニャーノは、日本伝道という使命を果たすためには、同僚のイエズス会宣教師の態度や行動が極めて大切であることを理解していきます。そして日本人と親交を結ぶにはどのような心得が必要なのかと腐心するのです。やがて、行動の規範とすべき基は禅宗であることにゆき着きます。

さて、ヨーロッパからの宣教師によって指導される若き日本人はセミナリオやコレジオでどのように学んでいたかです。夏の間は4時半に起床し、祈祷してからミサ聖祭に参加します。その後、座敷の清掃です。6時から7時半までは学科の勉強。年少の者は教師の指示でラテン語の単語を学びます。暗誦したかどうかは、読み聞かせによって確認し、宿題も点検されます。年長者は年少者の学習を点検したりします。

9時から11時までは食事と休養です。11時から2時までは日本語の読み書きをし、すでに習得している者は日本文の書状を認めたりします。2時から3時までは唱歌や楽器の演奏を学び、その後休養です。3時から5時までは生徒は再びラテン語の勉強にはいり、文章を書いたり朗読したりします。5時から7時までに夕食をとり休息します。7時から8時まで再びラテン語を復習し、年少者は日本の古典を学びます。8時には夕べの祈りをし就寝となります。

土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語や日本語の読み書きなどの復習にあてられ、その後は自由時間となり散髪、入浴、告白の時間となります。日曜日や祝日は別荘か野外で休養したり自由時間を楽しみます。団体生活は規律に従って行われていたことがわかります。

やがてミナリオを修了した者から、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノが選ばれ、ヴァリニャーノらに率いられて1582年にローマ教皇、スペインとポルトガル両王に謁見することになります。彼らは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代でありました。これが天正遣欧少年使節です。

リベラルアーツ教育  その11 「日本巡察記」と日本人の宗教的素質

A-Valignano worldheritage u01-1ローマイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」の二回目です。この書物はイエズス会が日本に最高監督者として派遣したヴァリニャーノのイエズス会総長にあてた日本伝道に関する報告書です。時代は1580年代です。

ヴァリニャーノは、当時の日本人の宗教に対する素質や宗教的な生活を立派に続けていく素質を疑っていません。日本人が宣教師と必要な素養を三つあげます。第一は天分、第二は堅固な根気強さ、第三は徳操と学問です。ヴァリニャーノはこの三つの素養が日本人に備わっていると断言します。短い滞在ながらその観察眼には驚かされるほどです。

特に取り上げたいのは学問についてです。セミナリオやカレジオではラテン語が重視されます。ローマの公用語であり学問で必須の科目でありました。聖書がラテン語で書かれていたからです。日本人にとって極めて新しい言語で、用語が日本語にないこと、文法が日本語とは異なることなど、習得にがはなはだ困難であったにもかかわらず、日本人は非常に鋭敏かつ懸命で思慮深く、よく学ぶ態度に驚嘆した、とヴァリニャーノは記します。子供でも大人と同様に3、4時間も席から離れず熱心に勉強する姿勢にも心がうたれたようです。

日本語の習得が難しいのと同様にラテン語を日本文字で書いて習得し、楽器を奏でたり歌うことを学び、意味が分からなくても容易に暗誦するとも記しています。ヴァリニャーノは、こうした日本人の天性や根気強さ、学問の高い吸収力などを観察しながら、ラテン語文法が日本語で説明され、将来辞書や参考書が作られれば、ラテン語を短期間で習得するのは間違いないとさえ断言しています。

それと同時に、イエズス会の修道士や教会の奉仕する人々とは通訳を介して話をしなければならず、ポルトガル語を話したり理解できる者がいないことを嘆いていました。そこで、ヨーロッパからの司祭達が日本語を学べるようにすることの必要性を感じます。そうした動機によって日本文典と日本とポルトガル語 (葡萄牙) 辞典を作製します。

リベラルアーツ教育  その10 「日本巡察記」とヴァリニャーノ

135_201511292200473fd 20090821164253 02_1photo02現在、1579年から三度に渡り来日したイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」を読んでいます。この書物はイエズス会が日本に派遣した最高監督者であったヴァリニャーノが、ローマのイエズス会総長にあてた機密に属する報告書です。

本書は、当時の日本のキリスト教内部の深刻な諸事情や宣教師達の想像を超える苦悩、解決を迫られる日本とヨーロッパの風俗や習慣、文化の違いにいかに順応しなければならなかったという問題、日本人宣教師の養成とその難しさなど、宗教学的にも文化史的にも極めて興味ある日本の切支丹史の内面を描いています。

三度に渡って来日し、巡察師としての職命を帯びるということは、日本が宣教の地として可能性を秘めながらも困難な異教の地であることを知っていたからだと考えられます。巡察師というのは、布教先における宣教師や会衆を指導し、布教事情を調査し報告するために派遣される職名です。ローマと極東の間の通信や連絡は容易なものではなく、報告を作りその回答をローマから得るには数年かかったと思われます。そのために、巡察師の使命は強大な権限が与えられていました。

日本イエズス会布教区の責任者はフランシスコ・カブラル (Francisco Cabral) という司祭でした。日本人の性格について偏見に満ちた見解を持ち、日本文化に対して一貫して否定的であり差別的でありました。やがて日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができていきます。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなかったとされます。しかし、巡察師ヴァリニャーノは、日本文化の尊重という姿勢をとり、外国人宣教師が日本語と日本人の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘し、カブラルを強く批判して、やがて布教長のカブラルを解任します。

日本のイエズス会は、早くからマカオにあったイエズス会に報告書を送っていたといわれます。ヴァリニャーノ は、大友宗麟、有馬晴信らの切支丹大名や織田信長、豊臣秀吉らに謁見しています。その後、本能寺の変以降、豊臣秀吉の統治下になると日本の教会が不安定な状態に置かれるようになることを察知していきます。それゆえ、重要な文書を国内に留め置くことを避け、マカオで保存する措置をとったことが記録されています。「日本巡察記」はヴァリニャーノが書いた「日本諸事要録」といった報告書の一部であり、将来の布教の方針を決める際の重要な資料となっていきます。

リベラルアーツ教育  その9 セミナリオから学制へ

a0123372_8283463 DSC_0310 meiji1500年代のヨーロッパは人文主義 (Humanism) と文芸復興 (Renaissance) の時代といわれます。「普遍的な教養や知識によって、それまでの世界観とされた非人間的な抑圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした運動」といわれます。セミナリヨやカレジオでの教育内容も古典教育に力が入れられていました。それはラテン語で書かれた古典と日本の古典を学ぶことでした。「日本キリスト教文化事典」 (原書房) によりますと、1579年、日本にやってきたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、日本独自の風習が障壁となり布教の難しさを痛感したといわれます。

そこでヴァリニャーノは、日本で宣教師を養成するためには、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、日本独自の文化を尊重しながら布教する方針を示したようです。例えば、日本文学を学ぶことが必須と考え平家物語などをテキストにして古典を学ばせたといわれます。

日野江城下に開設された有馬のセミナリヨでは、ポルトガルからきた宣教師が、ラテン語などの語学、基督教、天文学 (地理学) などルネサンス期の西欧学問が教えられていたといわれます。

ラテン語は当時のカトリック教会の公用語です。ラテン語は学問のための言語であったので、セミナリヨやコレジヨでは必ず教えられました。音楽と体育も科目となりました。音楽はフルート、オルガンなどの器楽、およびグレゴリオ聖歌 (Gregorian Chant) などポリフォニー (polyphony)やモノフォニ(monophony) などの練習がありました。夏は水泳が奨励され、体力を培ったという記録もあります。

セミナリヨやコレジヨで行われていた教育は、宣教師の養成ではありましたが、日本の近代教育の先取りともいえるものではなかったかと思えるほどです。リベラルアーツ教育そのものです。明治以降、日本がとりいれた西欧式の教育システムはセミナリヨから始まった、といえます。それを示すのが明治五年の「学制」の公布です。その学事奨励書には、法律、政治、天文、医療の言葉がでてきます。

リベラルアーツ教育 その7 「合理的配慮」の「reasonable」

o0531041110285641187 url Disability_symbols一般に詩や哲学などの古典、ラテン語 (Lain) やギリシャ語(Greek)などの語学、歴史を学ぶことも教養といわれているようです。誠に雑ぱくな定義でありますが、、こうした分野における知識を蓄積しても日常生活や仕事にはじかに役立つということはありませんが、専門誌や雑誌にでてくる用語を吟味することには、自分の疑問を解くのに大いに参考になります。

この拙いブログでは外来語がでてくるときは、特に英語やドイツ語、ラテン語の綴りを付記することにしています。そのほうが、日本語の意味をより深く知ることの助けになると思うからです。また日本語であっても意味がいろいろと違います。それを外国語、特に英語の場合はラテン語やギリシャ語から由来するものが多数あるので、日本語となっている単語の理解に役立つことが多いのです。同時に日本語訳がはたして確かなのかを考える機会となります。

一体、「合理的配慮」という用語をあてたのは厚生労働省や文部科学省の官僚なのか、あるいは英語学者なのかは分かりません。いずれにせよ、英語のフレーズと日本語訳とを対比しながらその意味を考えていくと、「深く合理的な配慮の意味を伝えない」用語であることに気がつきます。私の疑問が深まるばかりです。

まずは「reasonable」という単語です。辞書を調べると、「reasonable」はラテン語の「ratio」とか「rationabilis」に由来し、その同義語として「mediocris」、「prudent」などとあります。ともあれ「ratio」からrationalという英語が生まれたことが容易に理解できます。「rationabilis」や「justus」からは、適正なという「legitimate」、公平なという「equitable」、細心なという「prudent」という単語もこれにあてはまります。

他方、注意すべきことは、「rationabilis」から、「並の」とか「平凡な」という意味の「mediocris」という派生語もあることです。これは、凡庸なとか平均的なといった「average」、さらにいい加減なとか手頃なといった「tolerable」という単語につながるのです。

このように「合理的ーreasonable」という単語は意味が深いのです。その使い方は日常の事象にあてはめると次の三つにわけられそうです。

1) 〈思考・行動などが〉
適正な,  当然な,  正当な,  筋の通った,  尤も至極な,  妥当な,   応分な,  順当な,  道理をわきまえた,  分別のある
2)  〈物事が〉
無理のない,  手ごろな,  穏当な,  当り前の
3) 〈値段などが〉
いい加減な,  あたぼう,  聞き分けのよい,  話のわかる,  手頃な,  格安な

さて、「reasonable accommodation」を「合理的配慮」としたのは果たして妥当なのかという疑問です。「道理をわきまえ筋の通った」内容か、はたまた「いい加減な聞き分けのよい」内容かどうかです。

リベラルアーツ教育 その6 「自由七科」

georg-wilhelm-friedrich-hegel-03 curse-magic-graffiti-eyecatch-01-620x377 73ce447c「Liberal Arts」ということの続きです。「専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や、人間としての在り方や生き方に関する深い洞察、現実を正しく理解する力」というのが平成14年2月に中央教育審議会が答申した教養ということの定義です。「専門性につなげる、あるいは専門性にとらわれない幅広い教養や知識」といった人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本のこととあります。

定義はさておき、中世の西欧において必須とされたのが「自由七科」(septem artes liberales) というものです。その内訳ですが、主に言語にかかわる3科目の「三学」(trivium)と数学に関わる4科目の「四科」(quadrivium)の2つに分けられます。三学は文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽と規定されていました。幾何学は図形の学問であり、天文とは円運動についての学問で現在の地理学に近いと考えられます。ラテン語で「tri」とは三、「quad」とは四、「septem」は七を意味します。この接頭語がついた英語は沢山あります。

哲学(Philosophia)ですが、以上の自由七科を統合しその上位に位置すると考えられました。ギリシャ語(Greek)で英知を意味する「sophia」、愛することを意味する「philo」から成ります。一切の思想的前提を立てない理性の学といわれる哲学は、弁証法によって思考を深めることを教えるものとされました。弁証法とはギリシア語でいう対話「dialektike」です。

哲学はさらに神学の予備学とされたというのですから、なんだかこんがらがってきます。神学は「理性によっては演繹不可能な信仰の保持および神の存在を前提とする」というのです。どうも神学が中世の学問の中心であったようです。ここまで思索してくるとヘーゲル(Georg Hegel) の「弁証法的論理学」とか「止揚」ということの内容、そしてなによりも神学の神髄を学ぶ必要を感じます。