聖書の中の女性の生き方 その二 「サラ」

Foster_Bible_Pictures_0032-1 tumblr_inline_nvkf8xY6EP1ryni46_400 080624_sarasoju_torinin2004_edited創世記(Book of Genesis)に登場する一人の女性がサラ(Sarah)です。元の名はサライ (Sarai)です。ヘヴル語(Hebrew) で Sarahとは位の高い女性を指し、「プリンセス」とか「高貴な女性」と呼ばれていました。ユダヤ人の間ではSarahは「我等の母サラ」と呼ばれています。

彼女がアブラハム(Abraham)と結婚したのは、まだカルデア地方(Chaldea)のウル(Ur)に住んでいた頃です。カルデアとはメソポタミア (Mesopotamia)南東部に広がる沼沢地域の歴史的な呼称のことです。アブラハムの父であるテラ(Terah)の一族の移住に伴い、故国を離れてカナン(Cannan)の地へと向かいそこで定住していきます。しかし、カナンに大飢饉が起こり、サラとアブラハムはエジプト(Egypt) へ移住します。

創世記 23章1-20節には、サラは90歳で約束の子イサク(Isaac) を生んだとあります。神は、それに10年を加えて、サラは100歳まで生きたと言うのです。加えられた10年は、幼子イサクが立派な少年に育っていく期間で、母親の愛を必要とする大切な10年でありました。

やがて、妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムはサラのために二つのことをしたといいます。一つは、サラのために悲しみ泣いたこと、もう一つはマクペラ(Machpelah)の洞窟に墓を買い、そこにサラを丁重に葬ったことです。「我等の母サラ」に対する別れの仕草です。

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聖書の中の女性の生き方 その一 「ルツ」

title-Henry-Koster-The-Story-of-Ruth-Elana-Eden-DVD-PDVD_001 1876Rooke_Thomas_Matthews_The_Story_Of_Ruth2 images話題を変えて、しばらく大昔の聖書時代に生きた女性をとりあげていきます。誠に女性には苦悩や苦労の多い時代です。女性の地位が危うかった時代でもあります。

旧約聖書にある『ルツ記』(Book of Ruth) は全4章という短い物語です。ルツ(Ruth) はモアブ(Moab)人女性です。モアブは、古代イスラエル(Israel) の東に隣接した地域で今のヨルダン(Jordan)といわれます。

飢饉があって、ベツレヘム (Bethlehem) からモアブ人の地に両親、および弟とともに移住していました。やがてマアフロン (Mahlon) と結婚し、義母のナオミ(Naomi) と暮らします。ですが子供ができぬうちにマアフロンは亡くなります。ナオミの夫と息子も他界します。息子の嫁はオルパ (Orpah) といいました。ナオミはベツレヘムに戻ることを決心します。

ナオミはルツとオルパに対して「自分の故郷に帰って再婚し、幸せをつかんで欲しい」といいます。オルパは別れて故郷へ向かいます。だが、ルツは「あなたを見捨ててあなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所へ行き、お泊まりになる所に止まります。あなたの民はわたし民、あなたの神はわたしの神、あなたが死ぬところはわたしも死ぬところ、そこに埋葬してください」(ルツ記1章8節~17節) といってナオミから離れようとしませんでした。

やがてルツはボアズ (Boaz) と結ばれます。ボアズはナオミの夫の兄弟でした。 旧約聖書の時代では、家族同士が結婚する風習がありました。これを「レビラト婚」 (Levirate marriage) と呼ばれていました。死んだ夫の代わりに、その夫の兄弟が結婚する習慣で、兄弟が寡婦の権利や義務を受け継ぐしきたりです。戦の多い社会では、当然のことながら寡婦が発生しやすかったのです。ルツもその一人でした。

ルツはやがてオベト (Obed) を産みます。オベトの子はエッサイ (Jesse) です。エッサイはイスラエル史上最大の繁栄をもたらし、その子孫は、後世理想の王とたたえられたダビデ (David) へとつながっていきます。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十五 会話にみる人間の生き様

1a07eca re02 d0093936_20573365面白い本に出会うのは誠に眼福の思いがします。「居眠り磐音 江戸双紙」もその一冊です。一冊といっても50巻に及ぶ大作の時代小説です。なんといってもこの小説の魅力は、登場人物の対話にあります。励まし、癒し、笑い、喜び、労り、切なさ、同情、風刺、省察、呆れ、叱責、苦悩、怒り、憎悪、、、父と子の絆、夫婦の愛情、師匠と師弟の信頼、ありとあらゆる感情や挙措が描かれます。そこにしみじみとした余韻が残るのです。是非、お読みいただきたい一作です。

時は江戸も幕末に近い頃。田沼意次が権勢を振るっていた時代です。関前藩の下士、坂崎磐音は藩内の権力争いに巻き込まれ、上意によってかけがえのない友を失い、その一人を殺めることになります。許嫁であった奈緖の兄がその友でした。もはや藩にとどまることができず、江戸に出て長屋に住み鰻割きで生計をたてます。

やがて両替商の今津屋吉右衛門やその大番頭の由蔵から、用心棒として厚い信頼を得ます。佐々木玲圓道場の尚武館で修行し、その人格と剣術の技によって跡継ぎとなります。「居眠り剣法」として名を轟かすようになります。そして今小町と呼ばれた美貌のおこんと結ばれます。

意次らの陰謀により次の将軍となるはずの徳川家基が毒殺されます。家基の護衛の任にあたっていた玲圓はその責任をとって自裁し、玲圓を輔弼していた磐音も深い自責の念に駆られます。道場の尚武館は取り潰されます。

磐音とおこんは江戸を逃れ意次らの刺客に追われながらも、高野山の懐の中で忍びの一派である雑賀衆に助けられなんとか生き延びます。その間に息子の空也が生まれます。塗炭の苦しみを経て江戸に戻り、尚武館を再興するのです。

ざっとですがストーリーを要約してみました。磐音の波瀾万丈ともいえる生き様が描かれているのですが、彼の周りの人物との対話がこの小説の白眉ともいえる部分なのです。皆貧乏でその日その日暮らしをしています。ですがそこに暖かい人情による助け合いがあります。毎日が不安だらけなのですが、懸命に生きようとする知恵と気概があります。

幕藩体制の綱紀が緩み、士農工商というたがは外れてきて、幕府の政治を風刺したり揶揄する余裕が庶民にも生まれます。読売という瓦版、タブロイド紙によって情報が庶民に伝わり、政治にも影響を及ぼすことになります。為政者はメディアを敵に回すことができなくなります。国内だけでなく、密かに海外との交易も盛んになり、情報が大量に出回ります。新しい時代の夜明けが近づきます。

剣の道に生きる磐音もこうした時代の変わり目を感じていきます。ですが、頑なに伝統の剣術を通して道を究めようと、息子の空也や弟子達にその奥義の深さを教えていこうとするのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十四 利次郎と辰平

bushi-04 b0287744_220377 tumblr_nuzqz7vygb1t12pz6o1_500尚武館道場には坂崎磐音の二人の筆頭弟子がいます。磐音が手塩にかけた重富利次郎と松平辰平です。長らく尚武館に住み込み、多くの門下生を指導し、紀伊藩の剣術指南でもある磐音を補佐しています。

磐音は二人が所帯を持ち、暮らしが立つように仕官するのを気にかけています。稽古の後、磐音がなにかを言い出したい思いの二人に問います。

磐音 「どうした、なにか言いたいことがあるのではないか。」
利次郎 「数日前のことです。おこん様より辰平とそれがしに五両ずつ紀伊藩の手伝い料を頂戴いたしました。」
磐音 「ほう、それはよかった。そなたたちの暮らしが立つほどの手当が出せればよいのだが、、」

磐音はおこのんのやりくりの苦労を思った。

利次郎 「辰平もそれがしも思いがけないことで、初めはお断りしました。ですが、おこん様がどうしても亭主どのの気持ちを受け取ってくだされと申され、二人して有り難く頂戴しました。」
磐音 「亭主の気持ちな。相手はこちらの気持ちまで読みおるからのう。」
利次郎 「若先生はご存じないことでしたか、、、」
磐音 「ふっふっふふ、亭主はのう、女房どのの掌で踊らされているくらいが丁度良い。円満ということかのう。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十三 お咲

19map01 pcbe-62674 672福岡藩の「下士」、猪俣平八郎がいます。「下士」とは、江戸時代の武士階級で正規の身分を持った者とはいえ、武士の下層に属し、一応は武士ながら畑仕事に従事するほど、生活が困窮していました。「郷士」とも呼ばれていました。

平八郎の幼なじみにお咲がいます。やがて二人は駆け落ちしようと誓い合います。磐音をそれを手助けしようとします。

お咲 「坂崎様、私のわがままでご迷惑をおかけします。」
磐音 「お咲どの、恋を貫くとはおよそそのようなものであろう。苦労は二人になったときから始まるもじゃ。」
お咲 「猪俣さまと連れ添うのは無謀と申されますか。」
磐音 「そうじゃない。好きな相手と添う以上、苦労は致し方ないものだと言うだけじゃ。」

磐音は、自分と昔の許嫁、奈緖とのもの悲しい過去をお咲にきかせます。そして最後に言います。

磐音 「お咲どの、自ら選んだ道じゃ、苦労もあろうが、共白髪まで添い遂げられよ。祈っており申す。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十二 竹村武左衛門の娘、早苗

1280px-Des_briques_d'acier_au_katana_-_2016-04-19 Japanese_blacksmith d825ee6d9c1e684d38eb8e63c066e20bもと伊勢は津藩の家臣が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と長屋で暮らしています。酒豪と粗野な言動で家族を困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。坂崎磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

娘の早苗は磐音の尚武館道場で住み込み女中として働いています。息子の修太郎は竹村家の嫡男となるはずなのですが、自堕落な性格で遊び仲間に引き込まれ家族を心配させています。母の勢津は息子を仕官させたいとして、尚武館道場に通わせるのですが修太郎の稽古は休みがち、自他とも剣術(ヤットウ)に向いていないことがわかります。

磐音はあるとき、修太郎を連れて鰻屋に連れて行き職人の働きぶりを見せながら食事をします。その足で、御家人にして名人研ぎ師である鵜飼面助のところにも立ち寄るのです。磐音もまた大事な刀を面助に託しています。

やがて修太郎はあちこちの刀鍛冶などを訪ね歩き、面助に師事したい考えるようになります。そして両親に自分も将来研ぎ師になりたいと相談します。しかし、両親と早苗は半信半疑なのですがしぶしぶ修太郎の申し出を受け入れます。

武左衛門と勢津が息子の刀鍛冶への修行を認めたことを知った磐音は、修太郎を連れて面助の研ぎ場を訪ねます。そして弟子入りを頼むのです。磐音の熱意にほだされたのか、面助は断るわけにいきません。磐音は早苗が弟子入り話で心配する尚武館に戻ってきます。そこにおこんの父、金兵衛もいます。

早苗 「若先生、真にありがとうございました。後は修太郎の忍耐と頑張りだけです。」
磐音 「面助様の研ぎを極めるのは並大抵のことではござらぬ。修太郎どのは時に姉の早苗どのに泣き言を言うてくるやもしれぬ。そのときはきつい言葉で追い返すのではのうて、なにか一つ、成長の証を見つけてな、褒めてやりなされ。」
磐音 「自らが望んだ道、われらも気長に見守っていこうではないか。」
金兵衛 「早苗さん、喜べ。姉があれこれ案じた甲斐があったというものだ。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十一 小田平助

jss0 cimg9827 a697佐々木玲圓道場尚武館に小田平助がいます。強い西国訛りで磐音の弟子です。もと西国の大名に仕えた下士だったようです。ゆえあって辞し、諸国を武者修行し、槍折れ術の達人となります。剣にも秀でています。玲圓や磐音に外連味のない真っ直ぐな気質を見込まれ、弟子となります。

尚武館の奥でおこんらを手伝っているのが、武左衛門の娘の早苗です。あるとき早苗は自分も武術の稽古をしてみたいと申し出ます。そこで磐音に稽古をつけてもらうことになります。それを見ていた平助がいうのです。

平助 「大所帯の尚武館、若先生ともなると左団扇かと思うたがくさ、武者修行の者より何倍も働かされるよばい。」
磐音 「小田どの、それがしも深川六間堀の裏長屋に住まいした折りのほうが、自由な時間があったような気がします。」
平助 「若いうちのたい、苦労は買(こ)うちでんせちゅう ばってんくさ、大先生もあれこれ働きなさるたい。若先生も死ぬまで働かんとちがうやろか。」
磐音 「大いにそうかもしれませんね。」
平助 「若先生のよかといえばたい、苦労は苦労と思ちゃらんことたいね。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十 竹村武左衛門

ottosei4 cast03 mqdefault「居眠り磐音 江戸双紙」には、個性的な人物が登場します。江戸下町の舞台に人生の縮図が展開されます。威張りくさる武士から賭け事にはしる坊主、吉原の頂点にある花魁大夫から飯盛り屋の女中、武士の首根っこを押さえる商人から金をせしめようとする浪人などです。たがが外れてきた江戸幕府にあって、皆懸命に生き延びようとしています。

もと伊勢は津藩の家臣といわれるのですが、素性は不明。本所の南割下水にある半欠け長屋に住む貧乏浪人が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と暮らしています。南割下水は今の両国あたりから錦糸公園、そして北十間川を経て隅田川に流れていたようです。

稼いだカネは酒に消え、家族や周りを困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。お金や出世には全く無頓着。磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

そんな武左衛門に対して、品川柳次郎の母、幾代の態度は誠に辛辣です。昔、習ったことがあるという薙刀を振るような勢いで武左衛門の粗野な言動を叱責します。そんな幾代が柳次郎に言います。

幾代 「そなたにあの貧乏神どのさえついておられなければ、もう少し早く出世の道が開けたでしょうに。」

柳次郎 「母上、竹村の旦那がおったればこそ、坂崎さんとも知り合い、今津屋、佐々木先生、速水様方のご親切を受けることと相成ったのでえす。貧乏神と思えばそうかもしれません。ですが、母上、竹村の旦那はわれわれにとってどれほど生きる力を授けてくれたことか。」

柳次郎の仲間思いが、厳しい母親へ精一杯の抵抗に現れています。武左衛門の娘、早苗は磐音の紹介で尚武館に住み込み女中として働くことになります。父親の奔放な性格にハラハラする娘です。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その九 品川柳次郎と母親の幾代

20120330_712041 img_20060414T114114610 img01磐音の用心棒仲間に品川柳次郎がいます。彼は貧乏御家人の次男坊です。江戸時代の御家人の多くは、戦場においては徒士と呼ばれる武士、平時においては勘定所とか普請の勤務、番士もしくは町奉行所の与力や同心としての職務や警備を務めていました。

大都会江戸に住む御家人は、江戸の物価高に悩まされ常に逼迫していたようです。そのため公然と内職をして生計(たっき)を支えることが一般的でありました。本所は北割下水で幕府から拝領していた古い屋敷に住む柳次郎の家も例外ではありません。団扇づくりで家計を助けています。母親の幾代は武家の矜持を失わず品川家を細腕でしっかりと支えています。

ある日、打ちたての蕎麦を土産に、磐音が北割下水の品川宅を訪れます。日がな内職の団扇作りに追われて辟易としていた柳次郎は磐音が用心棒の仕事をもってきたかと期待します。

磐音  「無沙汰の挨拶に寄りました」
柳次郎 「なにかいい仕事はありませんか?」
幾代  「柳次郎!、母と一緒に仕事ができる以上の幸せがありますか」

がっかりする柳次郎に幾代はこのように言いきかせるのです。「母と一緒に仕事ができる、、、」 なんと凜とした仕草でしょうか。

御家人の身分は御家人株と呼ばれるように、家格によって与えられた役ごとに相場がありました。幾代は品川家を存続させようとします。やがて磐音や彼の師匠である佐々木玲圓の剣友、速水左近らの努力で品川家の惣領に柳次郎が決まります。近くに学問所勤番組頭である椎葉家の長女、お有がいます。柳次郎とは幼なじみの仲でした。磐音は、気さくで率直な性格、そして大の母親想いの柳次郎に剣術を教えながら、やがてこの二人の仲をとりもつのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その八 由蔵の嘆き

iwane_kirie o0480064012364289734 7a545c24時代小説「居眠り磐音 江戸双紙」の登場人物の会話に、励ましや諭し、赦しや癒しとなる言葉が見られます。それを取り上げながら、人情の機微や綾などを考えています。坂崎磐音は当代、随一の剣術家ですが、「過激さの持つ剣は瞬間的で一時的なもの、人間は心身ともに癒しの要素を持つものを本質的には受け入れる」のだといいます。そして、剣術の鍛錬に求められるのは安らぎと平穏であることを弟子達に教えます。

両替商行司今津屋の大番頭、由蔵はいつも穏やかなのですが、ときに磐音に呆れることがあります。自分が紹介した湯屋での仕事で磐音に損をさせてしまうのです。探索のために磐音は自分の持ち金二両を使います。そして僅かの報酬を貰います。今津屋支配人、林蔵も対して「坂崎さんを他人に紹介するものでない、あれではなんのための紹介だったか、、」と呟くのです。

由蔵 「一両四百文をもらって得々とするのが、どこの世界にいるというのです。商人はそれでは一日で干上がります。」
磐音 「さあ、、さほどのことをしていませんから、、」
由蔵 「呆れた、これには呆れた、」

林蔵 「いかにも坂崎さんらしいではありませんか」
由蔵 「なにを言っているんですか、笑い事ではありませんよ!」

磐音に、由蔵はあとで湯屋へ出掛け、磐音の働きとして五両を貰ってくるのです。由蔵は磐音の他人のために汗をかく損な性分に呆れながらも、情に厚く頼まれると断れない気質にほだされ、おこんと同じようにその人柄と人望に信頼をおいていきます。

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Intermission:  その四 手書きと「もがり」 と生前退位

08syouwa_07 20101015134213a37 201306100434482dd「もがり」という言葉を生まれて始めて知りました。その漢字と意味がわからず家内にもききましたが、それも無駄でした。そこで「字訓」と「新漢和大字典」 をひらき漢字とその意味とをじっくりと確かめました。「もがり」 のきっかけは、先日の「天皇陛下のお気持ちを表明」 です。まだ 「もがり」の漢字を手書きができないのでひらがなを使うことにします。お気持ちを表明の一部を引用すします。

「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が1年間続きます。」

さて、字訓と新漢和大字典によると「もがり」 という漢字は「殯」とあります。音読みは、「ひん」、訓読みは 「かりもがり」 とあります。「さしおく、むかえる、おくる」 ともあります。字訓では、「かりもがり」 とは、「本葬以前に屍の風化を待つ礼で、板屋に収めてその風化を待つ」とあります。それが「殯礼」と呼ばれ、古く複葬の形式が行われたというのです。新漢和大字典によれは、「歹」は死体のことで、「賓」 は「おそばにおる」という意だそうです。ですから「殯」 とは、「死人をそばにいる客としてしばらく身辺に安置すること」 とあります。

「殯」 とは、古から続く皇室にまつわる葬儀儀礼であることがわかります。死者の最終的な「死」を確認することが「殯」という儀式であることがわかります。「お気持ち表明」には、「個人」という言葉が使われていますが、市井の一個人とは違います。

天皇とは一体どのような存在なのでしょうか。天皇はもはや現人神ではありません。ですが単なる一個人でもありません。選挙権もありません。天皇の人権とはなんなのでしょうか。あらゆることに時があります。区切りがあるのです。私たちは65歳や70歳で定年退職します。天皇陛下がお亡くなりになられるまで、象徴とはいえ皇位を継承するというのは、惨いことではないでしょうか。「天皇の終焉」というお言葉も大胆な表現です。ご自身、「早く自由にさせてくれ、、」という叫びがにじみ出ているように思えてきます。

私は天皇陛下の五年後、生前退位をされ「私」となったお姿を空想するのです。姓をもらい介護保険料を払うお姿です。晴れて選挙権を得て、デイケアセンターに出掛け囲碁を打ち、仲間と風呂に入り政治のことで雑談するお姿です。図書館で調べものをし、疲れたらスタバに入り珈琲を啜り、牛丼屋に入り庶民の暮らしを感じるのお姿です。

識者は生前退位のいろいろな課題を指摘しています。これから長い時間をかけて有識者会議なるものを組織して話し合うとのこと。結論が出る頃、天皇陛下はどうなっているでしょうか。よれよれになっても象徴であられる痛々しいお姿でしょうか。生前退位の規定をできるだけ早急に設けること、そのことこそが天皇陛下のお心を忖度することではないでしょうか。

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Intermission: Can Handwriting Make You Smarter? その三 パソコンと手書きの違い

University_of_Nebraska_seal 1024px-WashUShielding.svg 804px-Princeton_shield.svgパソコンを使い記録することは、記憶という観点からは短期間ならば有効だといわれます。セントルイス(St. Louis) にあるワシントン大学(Washington University in St. Louis) の研究者らが、2012年に学生80人を対象に実施した実験で講義の直後にテストを実施しました。それによりますとパソコンでノートを取っていた学生の方が手書きの学生よりも講義で話された事実を多く思い出し、点数がやや高かったというのです。ただ、こうした優位性は一過的だったということも指摘しています。

他の複数の研究によると、パソコンを使っていた学生は24時間後には記録した内容を忘れてしまうことが多かったというのです。また、大量のノートを見返しても記憶したことを想起するのに有効ではなかったといわれます。記憶が深層にまで及んでいなかったようです。

対照的に、手書きでノートを取った学生は講義内容を長く記憶でき、1週間後でも講義で示された概要をよく覚えていました。この事実について専門家らは、書くというプロセスがより深く情報を記憶に焼き付けると指摘しています。また、手書きのノートはよく整理されているため、復習にもより大きな効果を発揮するといわれます。

心理学者であるプリンストン大学 (Princeton University) のパム・ミュラー(Pam Muller)とUCLAのダニエル・オッペンハイマー(Daniel Oppenheimer)は、2014年に行った3回の実験で、学生にアルゴリズムからコウモリまで幅広い話題を聞かせ、キーボードか手書きでノートを取ってもらいました。学生にはノートを見て復習する機会を与え、講義直後と1週間後に67人にテストを実施しました。

その結果、この二人の研究者は心理科学の専門誌で、手書きでノートをとった学生が記録した単語数は少なかったものの、書く時に題材をより集中して考えたようで、耳にしたことをより深く吸収したようだと述べています。

半面、パソコンを使う学生は機械的にノートを取り、聞いたことを一語一句そのまま打ち込んでいました。問題はパソコンを使う人には逐語的にノートを取る傾向があることです。ネブラスカ大学リンカン校(University of Nebraska-Lincoln)のケン・キウラ (Ken Kiewra) は「皮肉なことに、速く記録することができるのがノートパソコンを使うことの魅力だが、逆にそのことが学習の効果を減らしている」と述べています。

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Intermission: Can Handwriting Make You Smarter? その二 エジプトの書記とパピルス

hPo5jGgpgss eji00273 1117402_42516194Wall Street Journal の記事を紹介することにします。手書きとパソコンによる記録と記憶の比較についてです。

パソコンやスマホ、電子辞書などのおかげで、今や紙や鉛筆は古くなりつつあるかにみえます。しかし、新しい研究はこうした道具を再認識し、手書きすることが学習に非常に効果があることを示唆しています。特に学校や大学では手書きが見直されています。

プリンストン大学 (Princeton University) やカリフォルニア大学ロサンジェルス校 (University of California-Los Angels: UCLA) の研究者は、手書きをする学生のほうが、キーボードをたたく学生より成績が良いと指摘しています。特に、手書きをする学生はキーボードを使う学生に比べて、学習したことを長く記憶し、新しいアイディアを理解するのにたけているというのです。ネブラスカ大学リンカン校 (University of Nebraska, Lincoln) の教育心理学者も「手書きする者は、自分の考えを上手に表現する」ともいっています。

古代エジプトの書記が、パピルスに葦の筆で文字を書き残して以来、手書きは多大な貢献してきました。古代の人々は見聞したことを確かな記録として後生に残し、歴史を今に伝えてきたのです。

大学での実験研究はこぞって脳画像の検査によって、手書きすることは脳の活性化を促すことが判明したとしています。手書きは非常に顕著な情報処理のことであり、講義や授業で得た情報を深く心に刻むことに役立っているとも結論づけています。

手書きといえば、17世紀に作られた鉛筆に始まり、万年筆が1827年に、ポールペンが1888年に、そしてフェルト筆が1910年に作られるという展開になりました。ですがそうした筆記用具の役割は時代を経ても大きな違いがありません。書いて記録にするという点で共通しています。

今日、ほとんどの学生はノートパソコンを持っているので、大学の教室でカタカタとキーボードが響いています。確かにキーボードのほうが手書きよりも多くのことを記録できます。キーボードでは毎分33文字を入力できるのに対して、手書きでは22文字を筆記することがせいぜいです。

しかしです。

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Intermission: Can Handwriting Make You Smarter? その一 手書きの効能

「居眠り磐音 江戸双紙」に少し休憩させていただくことにします。

1 e0253707_15254411 68b0faf8作家、リービ英雄 (Hideo Levy) 氏の必需品は原稿用紙。それをいつも手元に置いていると語っています。「星条旗の聞こえない部屋」とか「ノベンバー」、「仲間」、「千々にくだけて」といった短編小説を書いています。読んでみるとなにか自叙伝か私小説を書いているかのような印象を受けます。18歳まで日本語を手書きできなかったとも回想しています。

私も手元に置いているものがあります。A4版のノートと葉書、そして便箋です。ノートはもう30冊以上になっています。長年、手書きで一日1,000文字以上を書くように心掛けているのでその「集大成?」のような分量です。数字やローマ字を含めての1,000文字です。特に新しい漢字、書けない漢字は手書きによって覚えるようにしています。ワープロでは読める漢字はすぐ打ち出せますが、手書きできないものがたくさんあります。手書きがでないということは、いまだ覚えることができていないということです。

礼状や手紙は必ず手書きで出すようにしています。その際、書けない漢字はひらかなで書くことにしています。それが情けなく悔しいのです。親父が96歳で他界したとき、彼の所蔵品を整理していると日記が出てきました。たかが十数行ですが、毎日起こったこと、出会った人、会話したことなどが記されていました。私は、それ以来手書きを励行しています。

いつも「躊躇」なく、手書きの困難な例として持ち出すのが、「薔薇」という語です。大抵は「バラ」というように表記されのですが、これではRoseの香りと色の深みが伝わりません。「Roseは薔薇」でなければならないのです。

Wall Street Journal の2016年4月4日に掲載された「Can Handwriting Make You Smarter?」という記事を読みました。「手書きは人を賢くするか?」という題です。これを読みながら、手書きを推奨する者として溜飲が下がる思いをしました。なにか爽快な気分です。

新しい漢字や熟語は読めても、手書きで何度も何度も書かないと覚えることができません。書くという行為によって漢字の形や筆順が記憶に深く刻み込まれるのです。手書きによって漢字のパタン画像が脳に残るのです。電車の中や街を歩きながらスマホでなにやらタッチしているのは日常的な光景です。でもこうした人は、難しい漢字は書けっこありません。タッチやキーボードでは筆順が省かれるので、いざ筆で書くとなると困るのです。

外国語の単語を覚える場合も全く同じことがいえるのです。「Serendipity」という単語があります。”偶然に予想外のものを発見すること” とか、” 知らなかった価値を見つける” という意です。何度も繰り返して学ぶことによって「Serendipity」が書けるようになるのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その七 おこんの見合い話

soukan-zu_edo oiran benibana_009おこんの父、金兵衛は一人娘のおこんに内緒でしばしば見合い話を進めようと気をもんでいます。そしてお見合い話のことを磐音に漏らすのです。磐音は素知らぬ顔をします。金兵衛は磐音の気の乗らない態度が気にくわなくいらいらします。

父親がお見合いの段取りをおこんに披露します。
 「犬、猫でもあるまいし、勝手なことをしないで!」
とピシャリと断ります。見合話に見向きもしないのです。金兵衛は大慌てし、そしてしょげてしまいます。

お見合い話の顛末をおこんは磐音に語ります。
 おこん 「いいの、私が見合いをしても?」
 磐音 「それはちと困る、、」
 おこん 「ちと困るだけなの?」
 磐音 「大いに困る、、」

磐音の心も穏やかではありません。ですが磐音はだんだんとおこんのに優しさに惹かれていきます。磐音の心も穏やかではありません。ですが磐音はだんだんとおこんのに優しさに惹かれていきます。おこんもまた、磐音と一緒にいると安らげ、時にはキュンとなるのです。ですが二人はお互いに忙しく、まだ将来の契りを交わす機が熟していないのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その六 お艶と大山詣

20150624000150_233962 oyama_afuri10 624c38a9両替商、今津屋吉右衛門のお内儀がお艶です。あまり体が丈夫でなく子もできません。吉右衛門やおこんは常日頃心配しています。番頭の由蔵には、今津屋の跡継ぎがないことが気掛かりです。

体調が思わしくなり、お艶は大山詣を決意し、夫や磐音、おこんらと出掛けるのです。雨降り山といわれる大山、古くから相模国はもとより関東総鎮護の霊山として崇敬を集めてきた1,250mの山です。そこに阿夫利神社があります。古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれてきた神社です。

磐音は、激しい雨をついて厳しい岩場をお艶を背負って不動堂まで登っていきます。お艶は念願の大山詣を果たし、磐音にいうのです。

「坂崎さま、私は生涯坂崎さまの背の温もりを忘れません。」

その帰り、伊勢原宿の子安村でお艶は病状が進み、もはや江戸に戻ることが難しくなります。お艶の死期が近いことを吉右衛門は知ります。堪らずむせび泣くおこんに吉右衛門はいいます。

「おこん、人はだれも死ぬ。それはこの世に生を受けたときからの理です。なんの哀しいことがありましょうか。そう考えながらお艶のかたわらで、ゆったりした時を過ごしてみようかと考えました。」

死と向き合うのは人の尊厳に満ちあふれる姿といえましょう。背けず、真っ直ぐに生と死を受けとめる姿に神々しさすら感じます。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その五 おきねの死

22d3b1f2 image0-131 toufu_pic坂崎磐音は幼なじみと一緒に江戸で直心影流佐々木玲圓の道場で修行します。共に藩に戻ると陰謀に巻き込まれ、自身の許嫁である小林奈緒の兄を上意によって討ち取ることになってしまいます。傷心の磐音は藩を去り再び長屋暮らしを始めます。

両国東広小路にある楊弓場を経営するのがおきねです。そこに賭け事を挑む男が現れます。五十両を賭けて店をのっとろうとするのです。そこに今津屋の用心棒などで生計をたてる磐音が、相談にのっておきねを次のように励まします。

「勝負は背負っているものが多い者が負ける。なあに相手も人間、失敗することもあろう。勝ち負けは時の運だ」といって勇気づけます。

磐音は、おきねが矢場荒らしからとられた五十両を取り返します。大晦日、おきねは磐音に「休みがとれたらご馳走しましょう」と約束しますが、殺されてしまいます。やり場のない怒りと悲しみにくれた磐音はその仇をうちます。そして磐音はいいます。

「おきね、馳走になりはぐれたぞ、、」

今津屋の大番頭、由蔵は磐音があちこちからの依頼に助勢して飛び回ることに呆れています。
由蔵 「磐音様は今一つ欲がございませぬな」
磐音 「はあ、困ったものです」
由蔵 「ご当人がさようなことでどうなさる」

ですが由蔵は、おこんにも劣らず磐音の情に厚い人格と金銭感覚の淡泊さにぞっこん惚れ込むのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その4 長屋の女衆と金兵衛

10875058 11033830 PDVD_027-14a03金兵衛長屋の木戸に長屋の女達が集まってきます。金兵衛の妻、おのぶは二年前に流行り病で亡くなります。おこんが十三歳のときです。長屋の女衆、金兵衛、そしておこんの対話です。

「おのぶさんが亡くなって二年が過ぎたね。」
「一時、金兵衛さんはがっかりしていたけど、最近また元気を取り戻したようじゃないか。」

付け木売りのおたねが言い出した。
「東広小路の楊弓場の年増のを口説いているって話かい。」
「あら、おたねさんも承知かえ。」

そこに嘘っぽい空咳が響いて金兵衛が現れます。
これこれ、年端のいかない娘にまで、あらぬ噂を立てるんじゃないよ。」
「あら、おなっつあん、私も知っているわよ。」
「こらっ!」
「おめえ、あらぬ噂は信じるんじゃないよ。」
「長屋の噂なんぞ、千に一つもほんとうのことはないからな。」
「相手がいるのなら、後添いを貰ってもいいのよ。」
「気が寒いで元気をなくすより、新しいお嫁さんを貰って若返えれば。」
「おこん、なんてこと言うんだ。私はなにも、、、、」
「あーあ、女と小人は養い難しだ。」

「おこんちゃん、大家さんを屁って心にもないことを言うなんて、娘も苦労するね。」
「あら、おいちおばちゃん、私本心よ。」
「本心だって?」
「私、近々奉公にでるの。だから、お父っつぁんを独り残して行くのが一番気がかりなの。誰かお父っつぁんの所へお嫁がきてくれると安心なんだけどな。」
「おこんちゃん、おまえさんはできた娘だよ。」
「鳶が鷹を生むってこのことだね。」

金兵衛は、娘おこんの前で空威張りをしてはその威厳を保とうとします。ですが、おこんは父親の独り暮らしを心配して、嫁さんをもらっては、とづけづけ言うのです。金兵衛はおこんの言葉にぐさりと響きます。同時におこんの成長に目を細め、やがて婿がきて孫ができることを夢見ています。
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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その3 ちゃきちゃきの深川っ子

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Wooden bridge by Katsushika Hokusai, color woodcut, 1830-1833

Wooden bridge by Katsushika Hokusai, color woodcut, 1830-1833

c65fc1383559e536c1d5777c46df471d財政難に陥っている関前藩のために、磐音は江戸に関前藩直轄の物産所を設け海産物を売りにだすという提案をします。それまで仲買人が中心となって海産物を扱い、賄をもらう一部の武士だけが潤っていたのです。廻船貿易の提案が実行されて、舟で運ばれてきた海産物が江戸で人気が高まり経営は軌道に乗っていきます。

深川っ子おこんは両替商の今津屋で奉公しています。おこんが外出して蕎麦屋で休んでいるとそこに金比羅屋の用心棒が現れます。赤銅色に焼けた水夫達がおこんを見つけ、「酌をしやがれっ!」と迫ります。おこんが断ると「女郎屋に叩き売ろうか!」と罵声を発したときのおこんの啖呵です。

「へん、ふざけっちゃいけないってんだ。こっちは深川六間堀で産湯を使ったちゃきちゃきの深川っ子だ。薄汚いお前なんぞの酌をする今津屋のおこん様に考え違いをしやがったか。背に彫った金比羅様がお泣きになっておいでだよ。明後日出直してきやがれ! 馬鹿野郎!」

こんな啖呵を切り、「あら、いやだ。私としたことが怒りに任せて地を出してしまったね」と慌てて顔を赤らめるのです。

本当に気っ風がよくてすかっとします。でも今津屋では礼儀作法にたけ、人の機微を解し、主人や番頭が絶大な信頼を得て奥の努めを果たしています。彼女は、気が利いて周りの女中にも親切で、普段は決して叱ったり大声を上げることはありません。

おこんが深川や両国界隈を歩くと、男衆が振り返りなんとか近い寄りたいと腕をこまねくのです。おこんは、磐音に首ったけなのですから、そこらの男に媚びを売ることはありません。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その2 金兵衛の娘

149288_30555main 江戸は深川六間堀の通称「金兵衛長屋」の大家がおこんの父、金兵衛です。坂崎磐音もこの長屋に住んでいます。夏でもどてらを着ていて、娘からも「どてらの金兵衛さん」と呼ばれています。連れ添いのおのぶは既に他界しています。口は少々悪いのですが、生来気がよく、店子からも慕われています。「大家と言えば親も同然、店子と言えば子も同然」というのは落語定番の台詞です。

おこんは今小町と呼ばれる別嬪です。「鳶が鷹を生んだ」という評判になるほどの美人です。今津屋に女中として長年奉公し、若いながら奥向きの一切を任されるほどの信頼を得ています。気っ風がいい深川娘です。

金兵衛は浪人暮らしの磐音をかばっています。早く娘が嫁に行き、孫をみたい、みたいと言っています。おこんが密かに磐音に想いを寄せているのを知らず、あれこれと見合いの工作しては、おこんに叱られ見合い計画はおじゃんになりしょんぼりするのです。娘の磐音への想いを父親はまだ存ぜぬのです。
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