「アルファ碁」(AlphaGo) その十三 呉清源九段と定石

超一流の棋士は自分だけの「悟り」があるといわれます。その一つが「いかに打つか?」と自問することだといいます。自らこの疑問を抱かないと創造力が生まれないというのです。「悟り」とは個性から生まれるのかもしれません。

「いかに?」という質問をするのが大切だという常套句は誰にもあてはまる格言です。興味とか関心は「いかに?」という問いが育むものです。碁に関していえば、ただ強い人の手を真似ても強くなれないし、勝つことは難しいのです。碁で上手になるための敵は自らの固定観念に捕らわれることだ、とよくいわれます。自分の形に執着し、その殻から抜け出せないということです。相手は、こちらが覚えている形とか定石にそって打ってはくれないのです。定石の変化を勉強していないと、間違った手を打ちがちです。

呉清源九段は、昭和の日本の棋界を風靡した偉大な棋士といわれています。氏曰く「定石は50覚えれば十分」といった名句を残しています。陰陽思想を取り入れ、「碁盤全体を見て打つ」ことを提唱します。「森羅万象のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる」というのです。陰は黒石、陽は白石を表します。

定石という知識はいわば碁でいえば常識です。定石を増やすことによって、打ち方の対応が柔軟にできるのです。しかし、定石という知識は浅いとすぐ失われます。新しい定石にとって代わられる可能性があるのです。定石はしっかりと学んでさらに進化した定石を勉強することです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十二 碁の心理と「コウ」

囲碁の高等戦術は「コウ」でしょう。コウは漢字では「劫」と書きます。大辞林によれば劫とは、もともとインド哲学の用語で、「極めて長い宇宙論的な時間の単位」、あるいは日本大百科全書では、サンスクリット語で「非常に長い時間」といわれています。「未来永劫」という四文字熟語があります。

囲碁では、相手と自分とが互いに一目の石を取ったり取られたりすること場面が劫です。取られたあとすぐに取り返せない約束となっています。一手、他の方面の急所に打つことを劫立てといい、それに相手が応じたあと、一目を取り返して劫争いが起こります。劫は碁を複雑で面白いものにします。たまに三劫ができて双方が譲らないときがあります。その場合は引き分け、無勝負となります。

自分が不利な形勢のときや、双方の石の死活に関わる時に仕掛けるぎりぎりの手段がコウです。時にコウは起死回生の戦術ともなります。その時コウを解消することを振り替わりといいます。自分も損はするが相手も損をします。その時どちらが損の具合が大きいかを目算してコウを続けるか解消するかを決めます。

コウは最初の段階では、つぐことによって解消してはならないといいます。コウが続くと段々コウ材が少なくなりますが、石の形がきまり安定はするものです。碁は段々と打つ場所が減ってきて必ず終局するという原理があります。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十一 碁の心理とヤキモチ

碁でも「ヤキモチ」はしばしば登場します。相手の地が大きく見えたりしてついつい深入りするのです。土足で他人様の庭に侵入するようなものです。少しは遠慮がちに入ったらどうかと、観戦者はハラハラします。

この言葉で思い出すのは先の戦争で米軍がとった作戦です。日本軍は北はアッツ島から南はニューギニアまで大東亜共栄圏を拡大していました。米軍は輸送船を攻撃し兵站を絶ちながら防衛戦の弱いところからじわりじわりと攻略していきます。そして最後は沖縄に上陸します。深入りはせずじっくりと戦機を待っていたのです。

囲碁は戦争と同じく戦術の勝負です。あせることなくじっくり攻めては守るという繰り返しです。ところが、大模様の布石には必ず弱い所があるのです。腰が伸びた所といってもよいでしょう。こうした箇所からじわじわ攻められると必ずといってよいほど破綻して、大きく囲ったはずの箇所がぼろぼろになるのです。

「ヤキモチ」は相手の陣内に深入りすることです。応援が続かず七転八倒して逃げ回るか、大石が召し捕られることさえあります。囲碁の四文字熟語の一つに「入界宣緩」というがあります。これは相手が強い所「界」には「宣」しく「緩」かに入りなさいという意味だそうです。深入りを慎むべきなのです。「ここはあなたの地としても結構です。その代わり私はこちらの地をいただきます。」という気分で打つことが大切なのです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十 碁の心理と「ハレ」

アマチュアの実戦心理の続きです。話題は「ヤキモチ」です。正月は餅ををいただきました。焼き餅は香ばしいものです。ところで文化人類学の用語に「ハレ」と「ケ」があります。「ハレ」は非日常、「ケ」は日常という意味です。昔は、「ハレ」の日には普段食べない餅や赤飯を食べました。私も戦後間もなく、正月には「白米」を食べてその香りと甘さに驚きました。この頃は「銀飯」と呼んでいました。新しい食器、服装などで気持ちを新たにしていたようです。晴れ着、晴れ舞台、晴れ晴れなどの言葉の由来が「ハレ」です。

「ケ」ですが、気枯れというように病気とか死を表す日常生活の「ケガレ」のことです。「ケジメ」をつけて「ハレ」を迎えるために清めとか祓いをする風習が残りました。秋田のなまはげもそうです。「誰にも生活の中に光と影の部分があります。「ハレ」と「ケ」はワンセットです。この概念を提起したのは柳田国男といわれます。

さてお隣、韓国の大学修学能力試験(修能ー수능)は11月にあります。この時期になると、街頭に合格祈願グッズが出回ります。餅や飴などの粘り気があって張り付くものが目だちます。「付く」という意味の韓国語「붙다」には「合格する」とか「志望校に受かる」という縁起が込められています。「ゲンがいい」のが餅なのです。「ハレ」の習俗は韓国でも同じです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その九 碁の心理とキキ筋

アマチュアの実戦心理にはいろいろありまして、私の苦い経験といいますか、癖がでがちな「利かし」と、高段者が楽しみにする「フクミ」についてお話します。アマチュアの癖がでるのが利かしです。例えば、ノゾキとかアテなどです。むやみにアタリをかけたりノゾキやアテを打つことで相手の石を強め、固めるという場面です。こんな手を打っていると、後ほど説明する「コウ」が発生したとき劫材がないといったことになります。

「利かし」とは、もともとは先手で打てる手で、しかもなんらかのプラスにこそなれ損のない手です。先手であることは大事なのです。相手はそれを手抜きすることができないからです。「利かし」を打つことで何らかの利益が見込まれることが期待されます。ただ先手で打てるのですが、将来の利益や手段を失うマイナスの方が大きい場合もあります。このような利かしのことを「味消し」といいいます。

次に「フクミ」(含み)です。「フクミ」とは将来いろいろな味があって狙いを含んでいる状態のことです。「アヤ」ともいわれ、ほとんどの場合、こちらに有利に展開する可能性のある石の形です。高段者はこの「フクミ」を睨みながら打ちます。低段者はそのことに気がつかないことが多いのです。そして、局地戦が一段落すると「フクミ」に対して手を付け地を少しずつ広げてはヨセていきます。「フクミ」とは「キキ筋」といって自分のほうに少しは有利に働く石の形です。例えば石を取る手といったことです。「キキ筋」に対して、俗な手を打つとなんの儲けにもなりません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その八 碁の心理と目算

碁の楽しみの一つに目算があります。対局の中盤や後半で自分は優勢か劣勢かを振り返るときです。自分と相手の地を数えて形勢判断することです。転じて、目論見や見込み、計画を立てることが目算です。

アマチュアには目算することが好きな人と全く目算には無頓着な人の二つのタイプがあります。私は後者に近いようです。原則、私は目算はしないことにしています。特に、自分のほうに弱い石がなく、相手を攻めているときです。攻めながら自分の地を稼ぐのですからこんなに気持ちの良いことはありません。明らかに優勢な場面となっています。

目算とは、強い石か弱い石を抱えるかによって必要かどうかが決まるのです。弱い石を抱えると逃げる一方で、一向に地は増えないのです。こうした形勢では目算は不用です。もっとたちの悪いのは、大勢がほとんど決まっているのに、目算をする人がいることです。弱い石を二つも抱えているとか、種石を取られているとか、あちこちに味の悪い箇所を持っているとかの場面です。味悪とは相手に付けいられる可能性を残している状態のことで、将来どんどん侵入されたり荒らされたりする危険があります。

目算は、自分を楽観視したり悲観視する場合にしばしば起こる心理でもあります。楽観視しすると打ち手が緩むことが往々にして起こります。逆に悲観視すると勝負手を放ったりしがちです。勝負手とは形勢を挽回しようとする無理がちな手のことです。

形勢がどうであれ、その場その場で最善の手を探すことがよいようです。これは大変難しいのですが、無理をせずじっと我慢してヨセで追いすがることが肝要といえるでしょうか。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その七 英語の囲碁用語

チェス(chess)からきた用語を囲碁でも使います。例えば、チェック (check) があります。自分の駒を利かせて取ろうとする手のことです。囲碁では「アタリ」にあたります。

「打って返し」という技があります。これは「snap back」といいます。打って返しとは、駄目が詰まってしまい、逆に即とられることをいいます。こんなポカをしてはいけません。ちなみにポカの英語は「blunter」といいます。もともと「鈍い」という単語がからきています。

何度も出てきた「定石」のフレーズは 「a set of sequence」。両者が最善を尽くして打ってできる形、という用語が sequenceです。取れた石、「アゲハマ」の単語は「prisoner」。文字通り捕虜です。終局なると、「アゲハマ」を相手の陣地に埋めて小さくすることができます。「アゲハマ」を沢山持つと有利です。囲碁には「味」とか「味悪」という用語があります。相手を攻める余地がある、あるいは攻められそうな余地があることです。「味」は英語で「potential」、「味悪」は「bad potential」といいます。なにか危険な兆候があるという意味です。

「ナダレ」という戦術があります。これは、盤上の中央を重視し相手の石を隅に封じ込める定石です。これを英語では「small avalanche」大ナダレ、とか「large avalanche」小ナダレと呼びます。ところで「avalanche」とは雪崩のことです。中央を重視する戦術は宇宙流といわれますが、中央をまとめるのはとても難しいことではあります。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その六 「詰め碁」と「手筋」

碁の能力は棋力と言われます。棋力をいかにつけるかはいろいろな本で指南されています。中でも「詰め碁」を解く練習は、囲碁の上達には欠かせない挑戦といわれます。

「詰め碁」とは石の死活を調べることです。詰め将棋と同じです。どのように打てば自分の石を活きにもちこめるか、または相手の石を殺すことができるか、すなわち死活を考えるものです。黒番で黒の石を活かす場面は「黒番、白死」という問題です。逆にいいますと「白番、白活き」ということです。パタンを覚えれば、実戦に類似した形が生じた場合に短時間で活き死に対応できるようになります。また、読みの力を養う絶好のトレーニングにもなるともいわれます。

次に「手筋」です。本には「接近戦において石の効率が最もっとも良よい打ち方、最善手のこと」とありますが、わかりやすくいいますと、「魔法のような手」のことです。死活に関係なく、局所的ながら得を図るような手といってもよいでしょう。「ゲタ」や「オイオトシ」などの比較的わかりやすい手から、「サガリやオキ」、「二目にして捨てる」、「鶴の巣ごもり」…などの高度な ”魔法の手筋” へと進んでいきます。手筋は、別名「筋」とか「形」ともいわれます。手筋を知り、実戦で使いこなしていければ、より高次元の碁の面白さを体験できます。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その五 囲碁とチェス

囲碁は世界中で楽しまれています。最近はヨーロッパでも盛んになっています。チェス (chess) が広まっている欧米では囲碁の普及はさほど障壁とはならないようです。というのも、チェスは「スポーツ」とか「芸術」、「科学」と呼ばれることもあります。囲碁も頭のスポーツであり芸術であります。

囲碁とチェスはどう違うかです。囲碁は黒と白の石だけであり、種石となったり捨て石となったりして固定した役割はありません。他方チェスや将棋は駒にそれぞれの役割があり、それは変わりません。

両者が類似する点の一つに中央志向があります。盤面の中央を支配することによって陣地が広がるのです。地よりも中央での展開を重視した大模様作戦は、「宇宙流」と呼ばれます。この独特の感覚からの打ち方を編み出したのが武宮正樹九段です。

「大局観」または戦略(Strategy) とは、局面を正しく評価すること、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことでです。「手筋」または戦術(Tactics)とは、より短期的な数手程度の作戦のことで、優位に立とうする打ち方です。

囲碁では原則的にどこへ石を置いても構いません。もちろん石を働かせるためや地を確保するためには、石を打つ箇所が決まってきます。高段者は石の効率を考えるのに秀でているので、無駄な所に石を持っていくようなことはしません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その四 人間と介護ロボット

今、介護ロボットの開発が急がれています。人工知能 (AI) を備えたロボットです。近い将来、人間の介添えをしたり相談相手になることが期待されています。どうしてかというと、感情や心理を読み取る能力を有するようになると予想されるからです。こうしたロボットは人の悩みの相談相手になれるはずです。相当な精度で言葉を理解し、対話の間合いや空気を読み、適切な言葉を返してくるようになるかもしれません。

カウンセリングは、悩みを訴える人の相談に応じて助言や指導をすることです。日常生活や職場生活において、心にため込んでしまった気持ちを誰かに聴いてもらいたい、誰かに自分を理解してもらいたい、寂しいので誰かと会話をしたいという場面が生まれます。愚痴を聞いてもらいたいときもあります。カウンセラーは悩める人の側に立ち、聴き手になったり伴奏者となったりして、悩みの解決へと導きます。

もし、人工知能を備えたロボットが人の心理や感情を理解することできるようになれば、介護ロボットとして人間の代用をすることは十分に考えられます。カウンセラーとして最善の対応ができるようになるかもしれません。このように、人工知能を備えたロボットがさまざまな分野で登場することが予想されます。自動運転もそうです。ですが人間が介護ロボットにとってすべて代わられるような事態にならないように、人間もまた進化しなければなりません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その三 人間の対戦心理

私は数字の裏に隠された事実を探すことを研究の対象としてきました。調査や測定の結果を分析することです。このとき統計の技法を使います。統計には記述統計と推測統計の二種類があります。記述統計は、収集したデータの平均や分散などから分布を明らかにすることです。例えば子供の習熟度についての傾向や性質を知るものです。他方、推測統計は採取した標本データから全体の母集団の性質とか将来の傾向などを確率によって推測するものです。投票所前での投票調査による結果の予測もその一例です。

「アルファ碁」という本によりますと、アルファ碁が打ち手を決めるのは膨大な過去の対戦棋譜に基づくデータであるとあります。この棋譜が多ければ多いほど、どのような手を打つのが最善なのかを確率的に予想するのです。

アルファ碁は、過去の棋譜から学んだことを復習するのです。復習するのは、覚えるためではなく新しい新しい手を発見するというか予測するためです。棋士もまた「定石を覚えたら忘れて」新しい定石を探す努力を続けているはずです。アルファ碁が世界のトップ棋士に勝利しているのは、棋譜というデータの集積を分析する能力に長けているからです。その能力は疲れを知らないというとてつもない性能から生まれています。

人間の人間たる所以は、勢いに乗ることができることです。勢いがつくと自信がでてきて普段の力よりさらに良い方向へ引き上げてくれます。学習すれするほど知識が増して、試験の結果がよくなり、自信がついてきます。このときは、まだ疲れを知らない状態です。しかし、逆に追い詰められると心理的に打撃を受けて自信がぐらつきます。碁でいえば対戦心理とやらでポカをしたり一手パスをしてしまう状態です。今のアルファ碁には勢いとか自信とかはないはず。ポーカーフェイスとか冷静なのです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その二 人間の実戦心理

人工知能囲碁プログラム「アルファ碁」(AlphaGo)の登場には棋界が驚きました。韓国の一流の棋士を四勝一敗で破って一躍注目を浴びました。今年は、井山裕太本因坊が挑戦するようです。「アルファ碁」が本因坊に挑戦するようです。済みません、間違えました。

「アルファ碁」は、一手を打つのに平均30秒から2分間の考慮時間を使うそうです。その間、過去の膨大な棋譜に基づくデータから最善の手を探すといわれます。最善の手を打てばアルファ碁が勝つ確率は53%とか次の最善の手は48%ということになるそうです。アルファ碁はたった僅かの時間内での計算によって、こうした確率をだすのです。まさに「電子計算機」の真骨頂が盤上に示されるといえます。アルファ碁の着手は確率、つまり「偶然性を持つある現象について、その現象が現れることが期待される割合」です。凄いことです。

理論的にいいますと、計算によって着手が決まっているので人間の考える着手とは無関係といえます。ところがです。人間は着手をあれこれ考えるうちに疲れるのです。ところが人工知能は疲れという概念は存在しません。実戦の心理状態という概念もありません。人間は疲れるから人間の価値がでてくるのです。感情があるから人間なのです。もし人工知能が感情や心理を有するようになると、人間と同じように間違って手を打つことが考えられます。より人間に近い「存在」となるはずです。そうなれば、碁を打ちながらミスも生まれるでしょう。感情や心理を持たないから棋士に勝てるのが人工知能なのです。人工知能の研究者にはジレンマに陥るような未来の対局の姿です。
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「アルファ碁」(AlphaGo) その一 定石と固定観念

今年最初のブログです。本年もまたお付き合いの程お願いいたします。昨年から少々暖めていた人工知能囲碁プログラム「アルファ碁」(AlphaGo)にまつわる話題を取り上げてまいります。

私の「道落」の一つが囲碁。強いとはとてもいえないのですが、碁の深さや難しさに魅了されつつ、毎日練習するのを日課としています。囲碁には「定石」といわれる昔から度重なる研究と実践によって生まれた石の形があります。定石とは対戦者が最善を尽くして「部分的」に互角に分かれる石の形のことです。どちらかが有利なら、それは定石とはいいません。私も定石を何度も練習しています。ですがいざ実戦となるとその手順を間違えることがしばしばあります。対戦相手は定石にないような手を打ってきます。高段者は新しい定石を学び低段者を翻弄します。

1954年製作の「十二人の怒れる男」というアメリカ映画がありました。ある裁判で一人の陪審員が他の十一人の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを提案します。やがて少数意見が多数意見となり無罪評決となるというストーリーでした。イスラエルでは会議をするとき、もし出席者七人のうち六人が賛成する発言をしたとき、七人目の人は無条件に反対意見を述べなければならないというのです。多数とは違う少数意見はそれ自体に価値があるというのです。

この陪審員の評決に関するエピソードを囲碁に当てはめてみますと、固定観念を捨てるとき思わぬ妙手が生まれるときある、ということかもしれません。最近は定石の考え方が変わって、新しい定石が生まれています。こうした変化には、固定観念から離れて新しい手を考えて打とうという姿勢があるからです。そういえば「定石を覚えて二目弱くなり」という定石信奉者を皮肉った川柳があります。イスラエルの格言にもう一つ。「何も打つ手がないときにも、ひとつだけ必ず打つ手がある。それは勇気を持つことである。」 私には後学のために役立ちそうな含蓄のある言葉です。
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北方領土を考える その十三 アイヌ語と美幌とレーション

はじめに。今年最後のブログ記事となりました。来年もどうぞお付き合いください。

子供時代の北海道のことを回想しながら、今年一年のブログも終わりとします。私は昭和20年、樺太から引き揚げて落ち着いたところが美幌です。親戚を頼って着の身、着のままやってきました。母と兄弟の四人でした。父は樺太で抑留されました。

美幌とはアイヌ語の「ピ・ポロ」。響きが素敵です。”水多く大いなる所ところ”という意味だそうです。生活し始めた美幌の家は長屋でした。風呂もなく週一度は街の銭湯へ歩いていきました。帰りは手ぬぐいがかちかちに凍るのです。板のように平べったくなります。布団の襟が吐く息でうっすらと凍り付いていたことを覚えています。

近年、市町村合併が進展し新しい名前を冠するところもあります。「つくば市」とか「さいたま市」です。これではいけません。美幌に新しい名前をつけるとすれば、「ピ・ポロ」とか「ピリカ」がふさわしいようです。私が町長になれば必ずそうするでしょう。地域の伝統と歴史を伝えるのが地名です。

美幌には色々な思い出があるのですが、その一つは昭和20年の秋に駐留軍が元の海軍航空隊施設にやってきたことです。チョコレートやチューインガムを兵隊がトラックからばらまいていました。ガキの私もそれをもらい、なんと甘いものかとむしゃぶりつきました。それとともにパイナップルの缶詰も珍しいものでした。レーション (ration) もそうです。携帯食品ともいえるでしょうか、乾パンから粉の珈琲、タバコまで入っていました。摂取すべきカロリーが計算されていたというのですから驚きです。

レーションを思い出すと、日米の彼我の差を感じざるをえません。戦争に負けて当然だったのです。戦争の唯一の楽しみは食事です。食事を通して命を大事にするかしないかが勝敗の分かれ目です。武士道精神だけでは足りないのです。旧海軍航空隊基地は、今は陸上自衛隊美幌駐屯地となっています。
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北方領土を考える その十二 松前藩と「シャクシャイン」

昔の北海道は稲作が不可能でした。人々はせいぜい馬鈴薯や小麦、トウキビによって生計をたてていました。漁業や狩猟の他、牛や馬、羊を飼っていました。細々と砂金とりも行ったいたようです。和人とは交易によって、獣皮や鮭、鷹羽や昆布などを鉄製品や漆器、米や木綿などと交換していました。

今でこそ北海道の米の生産量は作付面積とともに全国一位です。その中心は石狩、空知、上川といった平野です。しかし、この姿を明治の時代、誰が予測しえたでしょうか。 米作の先駆者に中山久蔵という人がいました。明治四年に広島から札幌郡広島村に入植した中山は、地米の「赤毛」と「白髭」を水田に植えます。これが米作の開始となります。その後改良を加えて日本一の生産量を誇るまでとなります。

少し遡って江戸時代の松前藩の歴史に触れます。江戸幕府は松前藩に蝦夷に対する交易独占権を認めた黒印状を慶長9年 (1604年)に発給したといわれます。黒印状とは墨を用いた印判を押した武家文書です。ブリタニカ国際大百科事典によると、朱肉を用いた朱印状が将軍の発行した文書に限られたのに対して,黒印は旗本や大名の発行するものに用いられた、とあります。

江戸時代の初期までは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていました。松前城下や津軽や南部方面まで交易舟を出してぶつぶつ交換していました。しかし、幕藩体制が進むにつれ幕府の黒印状により対アイヌ交易権は松前藩が独占して他の大名には禁じられることとなります。アイヌ民族にとっては対和人交易の相手が松前藩のみとなり、自由な交易が妨げられることとなります。

さらに、不利な交換条件を嫌い交易を拒否するアイヌに対し和人が無理やり交易を強要し、アイヌには和人への不満が広がっていきます。 不利な取引きや搾取が深刻化するにつれ、アイヌ惣大将同士による地域集団の争いが起こります。日高地方の静内川流域の領分や和人による砂金採取の保護を巡る争いです。やがて多数のアイヌ民族集団による対松前藩蜂起へと発展していきます。1669年6月に「シブチャリ」の英傑といわれた「シャクシャイン」を中心として起きた松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起です。シブチャリとは、北海道は日高にある新ひだか町付近の地名です。
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北方領土を考える その十一 松前藩と蝦夷

樺太生まれで北海道育ちの私には、北方諸島の話題をどうしても回顧したい気持ちに駆られます。父方の成田家、母方の吉田家はこの地で働き生計(たっき)をたててきました。戦後、抑留や引き揚げというヨレヨレの姿から平成に至るまでしぶとく生きてきました。引き揚げ以来、両親や親戚が島に一度も踏み入れる機会がなかった無念さのような心持ちを、ここで代わって回想しております。

古代のエミシは,主として奥羽地方以北の住人を指した語で,アイヌそれ自体を指した語ではないという説もあります。ただし、アイヌ人は奥羽地方にも散開してしていたはずですから、エミシはアイヌ人といってよいでしょう。

さて、室町時代になり津軽の豪族、安東氏を引き継いだのが渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏です。蝦夷地の総代官となります。渡島半島は道南部の松前や渡島、檜山地方のあたりです。1599年には蠣崎氏は支配地にちなんで松前氏と改名します。徳川幕府により、蝦夷全島の行政や交易に関する支配権を与えられ、松前藩となります。松前藩は石高による格付けを持たない例外的な藩となります。そしてエゾと和人との貿易を政治的に支配するのが松前藩です。

松前藩の行政権では、エゾの自由な往来や交易権の保障が規定されていたようです。それは「夷人に対する非文の儀」というもので、道理にはずれたこと、分不相応な対応をしてはならぬというものです。エゾは昆布や馬、毛皮や羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりにエゾは米や布、鉄を得ていました。

そのためエゾは松前藩主からも賓客扱いされ、それまでの「ウイマム」という朝貢貿易を続けることができました。しかし、蝦夷地の奥地に入り込んだ和人の貿易商らの悪辣な搾取が積み重なるとともに東蝦夷における小さな反乱が起こります。廻船業者で海商である高田屋嘉兵衛らが箱館を拠点として活躍する少し前の時代です。淡路島出身の嘉兵衛は地元で酒や塩などを仕入れて酒田に運びます。酒田では米を購入し箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るのです。嘉兵衛は稀代の商人です。詳しくは「菜の花の沖」でどうぞ。
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北方領土を考える その十 蝦夷の歴史

今、蝦夷開拓の歴史をアイヌの人々の生き方をとおして調べています。アイヌの古称は「エミシ」とか「エビス」と呼ばれていたことは既に述べました。エミシはもともと「勇者」の意味です。同時に「東の抵抗する勇者」ともされていました。「あらぶる人たち」、「まつろわぬ者たち」とされたエミシは「あずまびと」への賤称でありました。

国語辞典に「夷」はヒナともあります。漢字は「鄙」とも書けます。「鄙」とは卑しいとか田舎という意味です。「あずま」もヒナ=辺鄙ということになります。エミシは「ヒナ人」とされました。エミシは中央に従わない無法や無道と民とされていました。律令国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れなかったのです。体制側からすれば、政治的、文化的異民族で未開で野蛮な人たちであります。けだし人種上の異民族であったかどうかは議論されるところです。

平安時代の末、東北の人たちによって「夷」とは最北部の人たちだけについて呼ばれていました。北海道は「奥夷」の「胡国」でありました。ちなみに「胡国」とは野蛮な国という意味です。奥夷の島、夷狄の島、夷島が蝦夷でした。東北にとっては蝦夷は全くの外国です。

近世になるとアイヌの人々、エゾは「ウイマム」と称するいわば御朱印船で朝貢貿易を行っていました。中国は元や明王朝の頃です。その頃は、朝鮮は中国の支配下にありました。「ウイマム」とは「お目見え」という日本語に由来するようです。エゾには「ニシバ」と呼ばれる首長がいて、その中国からさまざまな貢物を受け、その品を下賜してその物資で交易します。この交易形態によって、「シャモ」と呼ばれた和人はエゾの支配を始め、それを継承していきます。シャモとは、海を渡ってきた新参者のことです。エゾはやがて和人領主と交易を巡って争いを起こします。

鎌倉時代、蝦夷地は流刑地とされていました。渡島半島南部は「渡党」と呼ばれ、その後の松前藩の中心となっていきます。鎌倉幕府は蝦夷地を津軽の土豪、安東氏に支配させます。安東氏の城下は津軽十三湊で、夷船や京船が集まって賑わったといわれます。この湊は今の五所川原市です。

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北方領土を考える その九 単冠湾と山本五十六

通常ならばとても「ひとかっぷわん」とは読めない地名が単冠湾です。択捉島の太平洋に面しています。湾口の幅は約10kmといわれ、天然の良港といわれます。ヒトカップとはアイヌ語で「山葡萄の樹皮」を意味します。hat(山葡萄)とkap(樹皮)の合成地名です。

1941年11月23日に大日本帝国海軍第一航空艦隊という機動部隊が密かにこの湾に集結し、同26日に真珠湾攻撃のため部隊がハワイへ向け出港した場所として知られています。当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六らが練りに練った戦術が真珠湾攻撃という先制攻撃です。

山本五十六のことです。1918年から、当時から世界的に流布していたナショナル・ジオグラフィック(National Geographic)を購読していたというのですから並の軍人ではありません。1919年4月に35歳の若さでアメリカ駐在を命じられ、ハーヴァード大学(Harvard University)に留学します。アメリカ滞在中は各地を見聞し、多くの油田、大規模な自動車産業や飛行機産業など、彼我の物量の圧倒的な差にショックを受けたといわれます。アメリカの国力を知ることとなった留学経験がアメリカとの戦争に反対するきっかけとなります。

1929年11月には海軍少将に昇進し、ロンドン軍縮会議(Conference of the Limitation of Armament, London)に次席随員として参加し、軍縮案に強硬に反対するような気骨ある軍人だったようです。軍縮案の採択によってアメリカと日本の軍備力や国力の差が開くことを予見していたはずです。

帝国海軍の劣勢とアメリカ海軍の優秀さを知っていた山本は、もしアメリカ戦うとしたら、空襲による先制攻撃をし、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出るほか勝ち目はないと考えていたといわれます。戦争が長引けば圧倒的な国力の違いで日本は負けると見通していたのです。こうした正確な判断によって、山本の慧眼さはやがて各国から賞賛されることになります。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊(Baltic Fleet) を迎え敵前回頭と丁字戦法を考えた秋山真之参謀らの活躍も思い出されます。

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北方領土を考える その八 アイヌと北海道旧土人保護法

北方領土や北海道をもっと知るためには、どうしてもアイヌ語やアイヌ文化を知る必要があると考えています。北海道の市町村の名前はおよそ八割がアイヌ語に基づくといわれます。現在の地名は、アイヌ語で呼ばれていた地名がカタカナなどで記録され、類似する音の漢字が当てはめられたものです。

アイヌ社会においてはアイヌ語を文字表記しなかったようです。現在では北海道アイヌ協会が教科書で使用したラテン文字表記がある程度知られています。カタカナ表記はラテン文字の近似的な発音を表したものです。

道央の白老町にアイヌ民族博物館があります。ここにはアイヌ民族の歴史が伝えられています。アイヌの社会の特徴の一つとして、活発な交易を行っていたことが、近年明らかにされつつあります。13世紀後半の中国の資料には、黒竜江、アムール川下流域に勢力を伸ばしてきた「元」と、交易上のトラブルが原因で交戦したと記録されています。17世紀初頭のキリスト教宣教師の記録にも、北千島産の高価なラッコ皮をもたらす道東のアイヌや、中国製の絹織物を運ぶ天塩のアイヌの来航により、松前が繁栄している様子が記されています。また津軽海峡を渡って、自由に和人社会との交易も行われていました。

北海道旧土人保護法というのがありました。この法律は「貧困にあえぐアイヌの保護」が目的とあります。和人(シャモ)の進出や開拓政策のためにその生活圏を侵食され,窮迫するアイヌの人々に対し,土地の確保と農耕の奨励,教育の普及などを目的として制定された法律です。旧土人とは1878年の開拓使の達しによって統一されたアイヌに対する呼称です。農業に従事するアイヌに対して1万5000坪以内の土地を無償で払い下げること,土地の売買や譲渡、質入れを禁止することが規定されます。アイヌの集落には小学校を設置すること,などが法律の骨子ですが、結果的に次のようなことも強いられます。
・アイヌ固有の習慣や風習の禁止
・日本語使用の義務
・日本風氏名への改名による戸籍への編入

 

北方領土を考える その七 「蝦夷」とは

「蝦夷」とはアイヌの古称と言われます。白川静氏の「字通」にこの記述があります。もともと「エビス」、「エミン」又は「エミシ」とも言われます。「蝦」はエビという漢字です。ブリタニカ国際大百科事典によりますと「夷」は「エミシ」と呼ばれ、本来勇気ある者を指し、多く男性の美称として用いられたとあります。このように「蝦夷」とは東北北部から北海道、千島方面にかけての先住民に限られた使い方です。もともともは地名ではないのです。

「夷」についてもう少し触れます。この漢字の構成からして、「夷」は「弓人」の意味ではないかという説があります。弓と大との組み合わせで、大は人の意味。「大に従い、弓に従う」という意ともなります。ですから「夷」、「エミシ」は勇者となるというのです。

昔は「毛人」という用字がありました。古代「エゾ」は本来は「毛人」と書かれていました。このことは中国の史書である「宋書」にあるそうです。「蝦夷」という文字の日本語読みとしては「エミン」というのは古い使い方で、「エゾ」というのは新しい用字だったようです。日本書紀にも唐帝に蝦夷の男女二人が使節の中に随員として同行していたという記述があるそうです。やがて日本では、「毛人」 が 「蝦夷」という言い表し方をするようになります。

「蝦夷」についての中華思想は興味あります。「世界民族問題事典」(平凡社)によれば、中国では「夷」は狭い意味があって、「勇武な蛮族についてのみ用いられる」というのです。古代の蛮夷思想によれば、「蝦夷」という人々は政治的、文化的に「蛮族」の観念とされます。政治的に中央の権力に奉じない、文化的にも「華風」になじまないというのです。そのような理由で蛮族は「化外の民」として扱われてきました。「化外」と「辺境」が蛮民の住むところと考えられてきました。

「化外」の民は本州にもいました。東国の古名「あずま」は、「田舎」とか「辺鄙」の意味です。東北の古名は「道奥」で文字通り「道の奥」であり、政治や文化の外、「化外」の意味となります。東国、道奥の人々は古代の辺民、蛮族を代表することとなり、「エミシ」といえばそれは東夷、特に奥夷を意味し「蝦夷」となったという説です。

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