アメリカ合衆国とニックネームの由来 その15 The Hoosier State

インディアナ州(State of Indiana)は、ミシガン湖とオハイオ川の間に南北に延び、南東部を中心に丘陵があり、全体としては平野が広がっています。トウモロコシや大豆の産地で全米で第三位となっています。

「戦没将兵追悼記念日」であるメモリアルデー(Memorial Day)の前日の日曜日に開かれるのがインディ500(Indianapolis 500)。州都であるインディアナポリス(Indianapolis)でこの自動車レースが開催されます。北西部にUSスチール社(U.S. Steel)で知られるゲーリー(Gary)があります。隣州内のシカゴの衛星都市としての性格があります。

ニックネーム「Hoosier」のいわれには諸説があります。有力なのがイギリスのカンバーランド(Cumberland)地方の方言で「高地人」を指す「Hooser」が語源であるという説です。転じて「奥地の人」、「開拓民」を意味するそうです。合衆国南部はアップランドサウス地域(Upland South)と呼ばれますが、そこで生活する野卑な田舎者を指す蔑称であるという説もあります。そういう訳で1830年代から州民を「Hoosier」と呼ぶようになりました。自分たちをこのように揶揄するところに可笑味を感じませんか?

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その14 The Prairie State

アメリカの穀倉地帯といえばミッドウエスト(Midwest)と呼ばれる中西部。その中心に位置するのがイリノイ州(State of Illinois)です。州都はスプリングフィールド(Springfield)で、最大の都市はシカゴ(Chicago)です。この州からはリンカーン(Abraham Lincoln)、グラント(Ulysses Grant)、レーガン(Ronald Reagan)、オバマ(Barack Obama)らの大統領を生んだ州としても知られています。

1837年に創設され今や世界最大の農業機械メーカーであるジョン・ディア(John Deere) がイリノイにあります。籾殻をとる鉄製鋤を発明したことで州中部の肥沃な平原(Prairie)を世界で最も生産力があり貴重な農地に変えたといわれます。さらに鉄道が開通しドイツやスウェーデンからの移民農業者を惹きつけ発展します。州のニックネームは「The Prairie State」となっています。

イリノイのもう一つのニックネームは「The Land of Lincoln」です。リンカーンは弁護士、イリノイ州議員、上院議員で活躍し1861年3月に第16代合衆国大統領に就任ます。「Land of Lincoln」にはリンカーンが残した遺産の重要さを強調しています。このフレーズは車のライセンスプレートにも表示されています。

イリノイ-Illinoisは、同州に先住していたインディアン部族のイリニ族(Illini) にフランス人宣教師や探検家がつけた名前を現代風に綴ったものといわれます。北米に広く居住していたインディアンのアルゴンキン族(Algonquian)の言葉で「Illini」は「完全な人」という意味があるという説もあります。

アメリカ全体に影響を与える事件の舞台がイリノイでもありました。1832年に合衆国北西部のインディアン部族から領土を奪い、植民地とするために起こしたブラック・ホーク戦争(Black Hawk War)がありました。これはインディアン戦争ともいわれます。1886年5月にシカゴで起こったヘイマーケット事件(Haymarket affair)は、8時間労働制を求める労働者のストライキとデモです。1929年2月には、聖バレンタインデーの虐殺(St. Valentine’s Day Massacre)という血で血を洗うギャングの抗争が起こります。アル・カポネ(Al Capone)がその中心にいたといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その13 The Gem State

ひょんなことから合衆国の州を覚えることになったのがアイダホ州(State of Idaho) です。本土復帰前の1971年、沖縄に行ったとき那覇市内の公設市場で巨大なポテト(ジャガイモ)を目にしました。ポテトの入った袋には「Idaho」とありました。私がこの州を知ったきっかけです。ゴーヤも始めて食べたのを思い出します。夏の沖縄は野菜が不足がちですがゴーヤやポテトがそれを補っています。ゴーヤチャンプルは美味しいです。

本題のアイダホ州ですが、州の大部分は山岳地帯であり、東海岸のニューイングランド(New England)の面積よりも広いといわれます。州都はボイジ(Boise)。農業と共に林業、鉱業が盛んです。全米でジャガイモの13%近くを生産する重要な農業州です。その他の産物は、大豆、レンズマメ、小麦及び大麦です。他に酪農製品も豊かです。近年は自然を活かした観光業なども州の大きな収入源になっています。

Wikipediaによりますと「Idaho」という名前は平原アパッチ族(Apache)の「敵」を意味する 「ídaahe」から由来するといわれます。コマンチェ族(Comanche)はこの言葉をアイダホ準州を呼ぶときに使ったともいわれています。別な説ですが「Idaho」はショショーニ族(Shoshone)が使った感嘆詞の一つとされます。彼らの発音は「Ee-dah-how」であり、「注意せよ!太陽が山から降りてくる!」と意味とされています。

最初のヨーロッパ人の入植は1860年といわれます。大分遅い感じがします。フランクリン(Flankline)という街に集落をつくり農業に従事したのがモルモン教徒(Mormonism)です。その年、金が発見されます。入植者が増加し、南部にあるスネーク川平原(Snake River Plain)は潅漑が進んだ大農業地帯となっています。

アイダホのニックネームは「The Gem State」。宝石の州というわけです。金、銀、銅、鉛、コバルト、ジャスパー、トパーズ、オパール、ヒスイ、金剛石などが産出するのでこの名がつけられました。残念ながら私はこの州を訪れたことがありません。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その12 The Aloha State

ハワイ(Hawaii)がヨーロッパに知られたのは、1778年にイギリスの海軍士官であったジェームズ・クック(Captain James Cook)がハワイ島を訪れた航海だと伝えられています。

ハワイで最大の島はハワイ島(Island of Hawaii)です。この島を紹介することにします。ハワイ諸島で最大の島であることから「Big Island」という愛称で知られています。今も噴火を続ける4,100Mのマウアロア山(Mauna Loa)があり、一体は国立ハワイ火山公園(Hawaii Volcanoes National Park)となっています。壮大な火山地帯をハイキングできます。4,200Mのマウナケア山(Mauna Kea)の頂上付近には、世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を建設しています。三鷹にある国立天文台が設置したすばる電波望遠鏡もあります。

次ぎにマウイ島(Island of Maui)も観光はハイキングを存分に楽しめます。女性の頭と胸部の形をした島です。島中央部には、ハレアカラ山(Haleakala)があり、周囲32キロのカルデラで知られています。月面のクレーターのようで多くのハイカーを呼んでいます。島中西部の港町ラハイナ (Lahaina)は、かつてハワイ王朝(Kingdom of Hawaii)の首都だった古都でもあります。

ハワイと日本との関係は大変興味あることです。 日本人のハワイへの移民は1868年を嚆矢としています。1884年から5年間で65,000人が移住し農業に従事します。多くの移民は沖縄出身で、サトウキビ、パイナップル、さらに珈琲の栽培にも及びます。

ハワイで忘れてはならないのが、第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)の活躍です。主にハワイの日系アメリカ人で編成され、ヨーロッパ戦線に投入されます。この部隊のモットーは「当たって砕けろ!」「Go for broke!」というのです。

まだまだハワイについては沢山のエピソードなどがありますが、ハワイのニックネームは1959年に制定された「The Aloha State」です。Alohaの響きは軽やかで、「おはよう、こんにちは、ようこそ、お元気ですか、さようなら」などいろいろに使われます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その11 The Peach State

ジョージア(State of Georgia)は想い出の州です。私と家族が建国二百年(Bicentennial)の翌年、1977年6月に始めてアメリカに渡ったとき、三か月ではありましたが暮らしたところです。ステイトボロ(Stateboro)という小さな街です。国際ローターリー財団から奨学金を得て、英語の研修でこの街にあるGeorgia Southern Collegeで学びました。

財団はこの小さなリベラルアーツの大学を50名の奨学生の研修場所として指定したのです。当時の大統領はジョージア出身の民主党員であったジミー・カーター(James Earl “Jimmy” Carter)でした。まだ建国二百年の余波が感じられた頃です。

温暖な州で、午後3時頃になると決まって雷雨(thunderstorm)がやってきました。ラグビーボールのようなスイカやメロン、そして桃(peach)がトラックで売りに来ます。 後にこの州のニックネームが「桃の州, The Peach State」であることを知りました。「南部のおもてなし」(Southern Hospitality)は母音を強調する喋り方でスローな話し方に表れ、独特な長閑さを感じたものです。

ジョージアの桃の話題です。日本の桃のようにヤワではありません。選果工場ではリンゴのように機械で洗浄され選別され箱詰めされて出荷されます。一口かじるとかなりの歯ごたえがあります。スーパーマーケットでは山のように積まれて売られています。州を代表する果物と指定されています。

ジョージアのもう一つのニックネームは「The Goober State」です。Gooberとはなんのことはない「ピーナツ(peanut)」の古めかしい言葉です。ピーナツはジョージア州の公式な農産物となっています。

ステイトボロから東に一時間走るとサバンナ市(Savannah)があります。昔は綿花の輸出港であり、奴隷貿易の拠点でありました。歴史的な町並みや建築物が再生され、観光都市としても栄えています。ステイトボロから北西に向かうとオーガスタ(Augusta)があります。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament)が開催される街でもあります。毎年4月2週目の日曜日が最終日です。ジャック・ニクラス(Jack Nicklaus)は最多優勝の六回、US Openで四回優勝し、「帝王(the great)」の名に相応しい活躍をしました。The World Golf Hall of Fame & Museumには次のようなニクラスを讃えるフレーズがあります。

Nicklaus completed the ultimate champion’s profile by being a gracious loser. He finished second 19 times in majors, but always gave credit to the winner. Win or lose, Jack Nicklaus was the greatest.

アメリカ合衆国とニックネームの由来 Intermission 「親睦会とパトラック」

今は、都市では高低層マンションで生活するのが当たり前となりました。若い人は駅に近い所を選び、高齢者は持ち家の維持や買い物が大変なのでマンションに移りがちになります。このような住環境の変化によって、「向こう三軒両隣」というフレーズは聞かれなくなりました。住民の横の繋がりは疎遠になりがちになっています。

私は昨年、長屋のように40世帯が暮らす自分のアパートで始めて親睦会をお世話しました。この集まりのために幹事のわたしたちがしたことは管理会社から飲み物を提供してもらうこと、組合の管理費から数万円を支出して焼き肉の材料の買い出しをしたり、住居内の全ての子供へお土産を用意することでした。町内会の自主防災組織からは椅子と長テーブルを借りました。

親睦会に参加する世帯は6人分の一品を持参するというものでした。20世帯が参加したので20の料理を楽しむことになりました。いわばバフェスタイルの親睦会です。このような持ち寄りの食事会はパトラック(potluck)と呼ばれます。ポトラックは準備が楽でしかも住民が膳を持ち寄ることで会話がはずむのです。potluckには「あり合わせのもの」という意味もあります。

佐伯泰英の小説「酔いどれ小籐次」にもポトラックの光景が登場します。短く紹介しましょう。江戸は鎌倉河岸の大店から角樽と初鰹が新兵衛長屋に住む主人公の小籐次に届けられます。小籐次が大きな働きをしたそのお礼です。小籐次が近所にお裾分けをしようと鰹をさばいていると、長屋の住人勝五郎が声をかけます。

勝五郎 「酔いどれの旦那、井戸端に長屋中の膳を持ち出して、全員で涼みながら酒を飲むってのはどうだ」
小籐次 「悪くない趣向じゃな、」

新兵衛長屋の空き地に筵が敷かれると、住人が夕餉に用意していた膳を銘々抱えて筵の上に並べ、あちこらこちらに行灯が置かれて蚊遣りが焚かれます。

長屋の住人 「お祭りの縁日のようだな」

そこにすっかり惚けて子供にかえった住人の一人、新兵衛が娘のお麻に連れられてきます。

お麻 「お父っちゃん、鰹よ!
新兵衛 「ととか、ととじゃな、、、、このととうまい、」

無垢の赤子のような新兵衛も長屋のみんなに囲まれて初鰹と酒の相伴に預かるのです。「とと」とは幼児語で魚のことです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その10 The Sunshine State

日本でも馴染みのある州の一つがフロリダ州です。ニックネームは「The Sunshine State」。一般のアメリカ人にとっても一種、憧れの地です。引退した多くの人々が余生をおくりたいと願う州でもあります。オーランド(Orlando)にあるディスニー・ワールド(Disney World)、ケネディ宇宙センター、デイトナ・ビーチ(Datona Beach)などが有名です。ところが、大西洋とメキシコ湾(Gulf of Mexico)に面するフロリダはしばしばハリケーン(hurricane)にも襲われるところです。

ここ20年位に州を襲ったハリケーンのことです。2004年にフロリダ州は4つの記録的なハリケーンに襲われます。8月のハリケーン・チャーリー(Hurricane Charlie)、9月のハリケーン・フランシス(Hurricane Francis)、同じく9月のハリケーン・アイバン(Hurricane Ivan)および9月25日から26日のハリケーン・ジャンヌ(Hurricane Jeanne)です。この4つのハリケーンによる被災額は450億ドルちといわれました。

さらに、2005年7月のハリケーン・デニス(Hurricane Dennis)は11か月の間で5番目のものとなり、8月のハリケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)はルイジアナ州全域とフロリダ州南部を通過し、9月のハリケーン・リタ(Hurricane Rita)はフロリダ全体を襲います。10月のハリケーン・ウィルマ)Hurricane Wilma)は、被害届出窓口を5年間設けたというほど甚大な被害を及ぼします。観測史上最も強烈なハリケーンの一つとして、フロリダ州の歴史でも2番目に損害額の大きなハリケーンになります。なお、アメリカでは従来はハリケーンに女性の名をつけていましたが、最近では男性名と交互に用いるようになっています。

フロリダの経済は前述しましたが、観光産業、農業、交通産業などです。オレンジ、トマト、いちご、サトウキビが主要な作物となっています。フロリダには先住民族としてティムクワン族(Timucuan)やセミノール族 (Seminole)がジョージア(Georgia)やアラバマ(Alabama)から移住し、湿地帯に定住しています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その9 The First State

アメリカ建国に関わった13の植民地のうちで、合衆国憲法を1787年12月に最初に批准したのがデラウェア州(The State of Delaware)です。それでこの州のニックネームは「First State」として知られています。その面積はロードアイランド州に次いで全米で二番目に小さい州です。

デラウェア州のもともとの住民はレナペ族(Lenape)ですが、ヨーロッパから植民してきた人々からデラウェア族と呼ばれていたようです。イギリス植民地総督デラウェア(De La Warr)にちなむという説もあります。州都はドーバー(Dover)です。1683年にクエーカー(Quaker)教徒のウィリアム・ペン(William Penn)らの信徒とともに建設した町であり、クエーカー教徒の大規模なコミュニティが存在していたといわれます。州都はドーバー(Dover)です。クエーカーはキリスト友会(Society of Friends)ともいわれ、「信仰的証し」を主要な信念としています。証しには平和や男女・民族の平等、質素な生活、誠実な個人を強調します。

デラウェア州の会社法は極めて著名です。他州に比べ、会社の設立や解散が容易で、多くの判例があるため裁判が予測可能などといった特徴を持ちます。ニューヨーク証券取引所(New York Stock Exchange)で上場している会社の半数以上、フォーチュン500(Fortune 500)に載る会社の63%がデラウェア州の会社法に準拠して設立されていると言われています。例えば、2015年12月にダウ・ケミカル (Dow Chemical )との合併を発表し世界最大の化学製造会社となったデュポン・ヌムール(Pont de Nemours)など機械、繊維、食品加工などの生産業の集積が見られます。その他、IBM、AIU保険会社など多くの有名企業が本社をここにおいています。デラウェアは租税回避地(tax haven)なのです。

州鳥はニワトリ(Blue hen chicken)でブロイラーの生産が盛んです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その8 The Constitution State

合衆国北東部はニューイングランド地方(New England) と呼ばれています。コネティカット州(State of Connecticut) はその南部に位置する小さな州です。州都はハートフォード (Hartford)。もともとはオランダ人が最初に入植した地といわれます。

「コネチカット」という地名は、テームズ川(Thames River)流域で居住していた先住民族のモヘガン族(Mohegan) の言葉で、「長い川が流れる土地(Quinnehtukqut–long tidal river)」から由来するといわれます。

州の正式なニックネームが作られたのは1959年の議会です。イギリスからの独立を目指し、憲法草案は1638年の「The Fundamental Orders」と呼ばれたコネティカットの立法を基にして作られたといわれます。独立の138年前です。それでニックネームを「The Constitution State」としたというわけです。

コネチカット州の別のニックネームとして「The Nutmeg State」というのがあります「Nutmeg」とは「ナツメグ」のことです。 種子を粉末にして香辛料として使われています。植民地時代から、船員は長い航海のときに、現地より香辛料を運んできたといわれます。胡椒もそうです。「ナツメグ」はコネチカットでも移民によって栽培されヨーロッパに輸出されていたことがわかります。そうした歴史が新しいニックネームを生み出したといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その7 The Centennial State

コロラド州は「The Centennial State」というニックネームを持っています。アメリカの独立宣言が発布された1776年から100年経った1876年に州として昇格します。それを記念してつけられたのです。「Centennial」とは百年を意味します。「Bicentennial」は二百年。1976年は建国を盛大に祝った年でした。

「Colorado」とはスペイン語で「赤茶けた」という意味です。スペイン人の開拓者がRío Colorado(コロラド川)を「ruddy」、「赤ずんだ川」と呼んでからだそうです。

州の北西端には恐竜の発掘地である国立恐竜モニュメント(Dinosaurs National Monument)があります。州の東には大平原(Great Plain)が広がり、肉牛、羊、鶏の飼育が盛んでトウモロコシ、小麦、牧草、果樹の大規模栽培も行われています。中央から西部にかけて、ロッキー山脈(Rocky Mountains)が南北に走っています。

州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるデンバー(Denver)です。デンバーの高度は、約1,600メートルとなっているので「Mile-High City」と呼ばれています

コロラド州のニックネームとして、「Colorful Colorado」というのもあります。州全体が美しい景色に彩られているからです。山は勿論、川や平原の美は観光客を魅了してやみません。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その6 The Golden State

日本人にとって最も親しみのある州の一つがカリフォルニア(State of California)です。1846年に勃発したアメリカ-メキシコ戦争 (Mexican-American War)の後、1848年にメキシコはこの地域をアメリカに譲渡します。この戦争によって、さらにメキシコは、ネバダ(Nevada)、ユタ(Utah)と、アリゾナ(Arizona)、ニューメキシコ(New Mexico)、ワイオミング(Wyoming)、コロラド(Colorado)の大半の管理権をアメリカに与えます。アメリカはこれに対し1,500万ドルと債務放棄325万ドルを支払います。こうした措置によってメキシコは国土の 1/3 を失うことになります。

  1848年にカリフォルニアやアイダホ(Idaho)で金が発見されると、ゴールドラッシュ(Gold Rush)が始まります。1848年から1952年にかけて約25万人が押し寄せたという統計があります。さらに1882年頃からは中国人や日本人の移住が始まります。従事したのは主に農業です。日本人は主にロスアンジェルス郡(Los Angeles County)、オレンジ郡(Orange County)、サンタクララ郡(Santa Clara County)に移住します。

1913年頃になりますとカリフォルニア州は、排日土地法を制定し日系1世は土地所有が制限されます。さらに公立学校への日本人学童の入学が拒否され日本人排斥運動が起こります。石川好の「カリフォルニア・ストーリー」や「ストロベリー・ロード」などのノンフィクション小説では人種差別にまつわる日米移民史や日米関係が記されています。

本題のニックネームですが、ゴールドラッシュに始まる人口の増大や農業や鉱業の発展は「The Golden State」を揺るぎないものとしています。州の色は金色、州の鉱石はもちろん金となっています。カリフォルニアの経済は、国と比較したほうがよいほど巨大です。個人所得は合衆国全体を上回り、1965年には工業製品の輸出ではニューヨーク州にとってかわります。航空機、農業、ワイン醸造、映画などの娯楽産業の発展はよく知られているところです。一つの大きな国家のような体をなすのがカリフォルニアです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その5 The Grand Canyon State

アリゾナといえば大峡谷(Grand Canyon)で知られています。コロラド川(Colorado River)が600万年をかけて削りとった峡谷です。南北に363キロ、東西に6キロから29キロの幅で深さは1.6キロという大地溝帯です。20億年といわれる地球の歴史を雄弁に物語っているようです。毎年500万人の観光客を魅了してやみません。

アリゾナの州都フェニックス(Phoenix)から北へ車で2時間くらいの所にあるセドーナ(Sedona)を訪れたことがあります。セドナは、素晴らしい景観で有名なオーク・クリーク・キャニオン(Oak Creek Canyon) の入り口にあたり、乾燥した砂漠地帯の多いアリゾナ州の中で木々が生い茂る水辺の景色を楽しむこともできます。オーク・クリーク・キャニオンを通り抜ける約20 kmの州道はアリゾナ州最初の「シーニック・ハイウェイ(scenic highway–美しき景観のハイウェイ)」として認定されています。

あたりは赤茶けた岩山が取り囲み、レッドロックの山道を登って行き着くとネイティブ・アメリカンのハバスパイ族(Havaspai)の遺跡が点在しています。彼らはオーク・クリーク・キャニオンで灌漑農耕に従事していた先住民族です。エネルギーや波動を受けとれるところとして先祖から聖地として崇めてきた所です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その4 The Natural State

アーカンソー州(State of Arkansas)はアメリカ内陸高原を構成するオザク高原(Ozark Mountains)やウォシタ山地 (Ouachita Mountains))のある山岳地帯から、東部のミシシッピ川(Mississippi River)やアーカンソー・デルタ(Arkansas Delta)のある低地帯まで多様な地形を有しています。州都でかつ人口最大の都市は、州中央部に位置するリトルロック市(Little Rock)です。元大統領ビル・クリントン(William “Bill” Clinton)の出身地です。州名の由来ですが、スー族(Sioux)の言葉で「南風の人々」を意味する「アカカズ」(akakaze)からきたという説です。

アーカンソー州で使われる言葉に「オザク(Ozark)があります。 Ozarkという言葉は、Encyclopædia Britannicaによれば、フランス人狩猟業者の拠点であった「Aux Arc」から由来したといわれます。その後「Ozark」は高原に住む人々の特徴ある文化、建築および方言にも呼称として使われています。1700年代にフランス人開拓者に続いて、19世紀以来、多くのスコットランド=アイルランド系(Scottish-Irish)の子孫がこの地域に居住してきます。

この地域の人々は周辺の州の人々よりも互いに共通点が多といわれます。 Ozarkの文化はアパラチア山脈(Appalachian Mountains)や「ディープサウス(Deep South)」あるいはアップランド・サウス(Upland South)の文化に似ているといわれます。 Ozarkの宗教は保守的であり、あるいは個人主義的なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド(Assemblies of God)、南部バプテスト連盟(Southern Baptist)、および他のプロテスタント系ペンテコステ運動(Pentecost)が活発だといわれます。通常こうした宗教の考え方は純福音主義(Full Gospel) と呼ばれます。

アーカンソー州のニックネームは「The Natural State」。自然あふれる州といわれます。湖、河川、森に恵まれ、各種の野生動物が5つの国立公園、3つの国立森林公園、52もある州立公園に生息しています。Ozark Mountainsは最初の国立自然保護地域として知られています。

「The Natural State」についてのエピソードがあります。リトルロック市の郊外に世界最大のスーパーマーケットチェーンであり、売上額で世界最大の企業であるウォルマート(Wal-Mart)があります。世界15か国に進出し、日本では西友を子会社化しています。ウォルマートのもう一つの顔は、自然保護地域のために多額の寄附をしていることです。ウォルマートが有する土地の大きさに対して寄附するという行為です。その規模は、コネチカット州(Conneticutte)、ロードアイランド州(Rohde Island)、デラウエア州(Delaware)の大きさに匹敵するといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その3 The Last Frontier

1960年代まで、アメリカやヨーロッパに行くときは給油するためにアラスカ(Alaska)の アンカレッジ空港(Anchorage)に立ち寄ったものです。航空機の発達により現在はシベリア経由に変更され、アンカレッジ経由の北回りヨーロッパ線は1991年で廃止されます。アラスカの州都はジュノー(Juneau)です。

Alaskaという地名の由来です。アラスカとカムチャツカ(Kamchatka)の間にあるアリューシャン列島(Aleutian Islands)の先住民族、アレウト族(Aleut)、イヌイット(Inuit)、あるいはエスキモー(Eskimo)が使っていた「半島」を意味する「Alakshak」からきているという説です。

1867年3月にアメリカは、ロシア帝国よりアラスカを購入します。当時アラスカ購入の交渉にあたったのは、国務長官であったウィリアム・スワード(William H. Seward)です。720万ドル、今でいう8億円をロシアに支払ったといわれます。アラスカの購入は、議会ではスワードの愚行(Secretary Seward’s folly)と揶揄されたのですが、その後、豊富な天然資源が見つかったり、旧ソ連に対する国防上重要な役割を果たすことが証明され、スワードの業績は高く評価されるようになります。スワードはその後もハワイ(Hawaii)やサモア(Samoa)、グアム(Guam)、プエルトリコ(Puerto Rico)、パナマ(Panama)、フィリピン(Philippines)などの併合を提案していきます。

アラスカは他の地域から遠く離れ、気候や地理が厳しく、合衆国領となってからも開発や人の移住が進みませんでした。そのような理由で、公式なニックネームは「最後のフロンティア(The Last Frontier)」となっています。「The Great Land」とか「The Land of the Midnight Sun」という呼び名もあります。

漁業では鮭が主要な漁獲物で、オヒョウ、鰊、銀だら、蟹なども豊富に獲れます。大きな鮭缶工場もあります。鉱業では石油、天然ガス、銀、銅などで知られ、石油の産出はテキサス州に次いで二番目となっています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その2 The Cotton State

合衆国の州につけられたニックネームをアルファベット順に紹介することにします。アラバマ州(Alabama) といえばなにを想い浮かべるでしょうか。「公民権運動(Civil Right)」、と答えられる人は相当なアメリカ通です。アラバマ州都はモンゴメリー(Montgomery)。その他の大きな都市と言えばハンツビル(Huntsville)です。NASAの中枢的存在であるマーシャル宇宙飛行センター(Marshall Space Flight Center)で知られています。

Alabamaという名称の由来は、チョクトー族(Choctaw)が使っていたAlabayamule(茂みを切り開く)からきています。州の大半はアラバマ川流域で、北端部にはテネシー川(Tennessee River)が、東端部はチャタフーチ川(Chatahoochee River)が流れています。

温湿暖気候に恵まれ、松などの森林が多く生育しています。南部の中心に位置するので「Heart of Dixie」とも呼ばれています。Dixieとは「南」とか「南部」という意味です。そうです。Dixie Land Jazzの生まれた所です。

州都のモンゴメリーはかつて南北戦争(Civil War)当時、南部連合(Confederate States)の首都でありました。黒人の比率が高く、州全体の26%を占めています。かつてアラバマの中央部は綿花地帯(Cotton Belt)と呼ばれました。そのようなわけで州のニックネームは 「The Cotton State」。ただし、このニックネームは州公認ではありません。その他のニックネームとして「The Yellowhammer State」というのもあります。「Yellowhammer」とはキアオジというホオジロ科の鳥で、文字通り黄色い羽で知られています。南北戦争当時、兵士達の軍服には黄色い線が入っていたといわれます。

もう一つのニックネームに「Stars Fell on Alabama」というのがあります。これは1833年11月12日から13日にかけて巨大な流星群がアラバマ州で目撃されたからです。2002年のライセンスプレートにもこのフレーズが印字されます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その1 「合州国」

誠に些細なことから始めます。私の小さな誇りは沢山のアメリカの学校を見て回わり、そのお陰で沢山の友人や知人ができたことです。今もクリスマスカードを交換したり、時折メールやフェイスブックで消息を確かめ合っています。中には、お互いに齢を重ねているので、いざ会うとなると果たしてその面影を思い出せるかどうか少々心配ともなります。

三人の子供も結婚し、子育てに仕事に忙しくしています。長男はマサチューセッツ(Commonwealth of Massachusetts)州都のボストン(Boston)の近くで二人の息子を育てています。長女と次女はウィスコンシン(State of Wisconsin)州都のマディソン(Madison)で、それぞれ二人の娘と一人の息子を育てています。そのような訳でアメリカに友人や知人、そして親戚ができたのです。

出張や私的な旅行で沢山の州を訪ねることができました。州といってもほんの一部の町や村を訪れただけです。とても一つひとつの州を理解したとはいえません。手許にアメリカでの生活で手に入れた古いライセンスプレート(license plate)があります。私の趣味の一つはプレートの蒐集です。アメリカでは、プレートの期限が切れるとそれを所有してよいのです。それを一枚一枚手に取ると、各州の特徴や売りがわかります。州のニックネームがついているのが多くデザインも結構凝っているのが面白いところです。

アメリカはその名のとおり州が集まる合衆国です。「合州国」という名称のほうがわかりやすいようです。州は自分の憲法を持ち、最高裁判所があり、連邦政府が出す大統領令に異議を唱えることができます。最近では3月6日にイスラム教徒が大多数を占める7カ国の市民を対象にした入国禁止令に大統領が署名しました。それに対してニューヨーク(New York)やマサチューセッツ、カリフォルニア(California)、ミシガン(Michigan)、ヴァジニア(Virginia)、ハワイ(Hawaii)、ワシントン(Washington)などの州が異議をとなえました。州は、このように自治権を有し、あたかも国のような統治形態をとっているのです。教育行政ももちろん州に責任があります。それだけに、「アメリカの教育は、、、」といった問いに答えるのは至難の業となります。連邦政府の役割とは軍事、外交、そして通貨制度です。

これから数ヶ月にわたり、アメリカ「合州国」のニックネームを辿り、そのいわれや州の歴史を振り返ることにします。

ユダヤ人と私 その41 悪意のこもったジョーク

強制収容所にいた監視者であるカポー(Kapo)や厨房係はユダヤ人の少数者でありました。収容所内では彼らは出世組といわれていたようです。彼らの振る舞いに対して、恨みや妬みに凝り固まっていた多数者である非収容者は、さまざまなガス抜きという心理的反応で応じていたといわれます。それは時に悪意のこもったジョークだったります。例えばこんなジョークが作られたといわれます。

二人の非収容者がおしゃべりをしていて、話題がある男に及びます。男はまさに出世組といわれるカポーでありました。一人が言うのです。

「俺はあの男を知っているぜ。あいつは市で一番大きな銀行の頭取だったんだ。なのにここではカポー風を吹かしやがっている。」

実のところカポーや厨房係は一見、出世組に見えたようですが、親衛隊は定期的に出世組を交代させ、新たな出世組に替えたといいます。収容所の秘密が漏れるのを防ぐために、それまでの出世組は消されていったということです。

女性のカポーもまた仲間から憎まれます。収容所内で親衛隊員に体を与えてまで生きようとします。こうして親衛隊に忠誠を尽くして衣食住の面で特権を与えられ、つかの間の待遇を楽しんだカポーもまた多くのユダヤ人と同じ運命を辿っていきます。よしんば行きながらえたとしても、過酷な仕打ち、たとえば髪を刈り上げられるとか、見せしめに合うといった行為が待っていました。

「ユダヤ人と私」のシリーズはこれで一応お終いとします。

ユダヤ人と私 その40 「スープは底のほうから、、」

強制収容所生活のつかの間の楽しみは誠に貧しいながら,パンと水のようなスープにありつくときだったようです。スープの鍋底には僅かなジャガイモや豆が残っています。時には、ソーセージの切れ端もあったようです。作業現場では親衛隊の下部組織であったカポー(kapo)と呼ばれるユダヤ人の監督が囚人の指揮をとっていました。同じくユダヤ人の非収容者である厨房係がパンきれを渡し、スープを鍋からすくっていたのです。その収容者は「底のほうからお願いします」と懇願したそうです。数粒の豆が皿に入るからです。

Majdenak

フランクルは前回の外科医との笑いの他に、仲間達と他愛のない滑稽な未来図を描いてみせています。誰しも解放されて、ふるさとに残した家族との再会を想い浮かべるという設定です。ふるさとに帰り、あるとき友人宅での夕食に招かれたとします。スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに作業現場でカポーに言うように「底のほうからお願いします」といってしまうんじゃないかって、、、」

「こうしたユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ」というようにフランクルは自虐的らしくいいます。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということを踏まえたとすると、生きるためにはこのような姿勢もあり得るのだ、とフランクは言います。

「こんな悲惨な状況の中では、誰もが人間性を失ってもおかしくはない。だが極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。」

フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるのです。そして深刻な時ほど笑いが必要だというのです。ユーモアの題材を探し出すことで、現状打破の突破口があるとも言うのです。フランクルは、作曲家マーラー(Gustav Mahler)に心酔していたようです。

「ユーモアは人間だけに与えられた、神的といってもいいほどの崇高な能力である。」

ユダヤ人と私 その39 ヴィクトール・フランクルとユーモア

フランクルの強制収容所の体験記「夜と霧」には生き残った人々、亡くなっていった人々の心理と行動が克明に記されています。その中に人々に生きる力を与えた3つのことが書かれています。 それは日々祈る人、音楽を愛する人、そしてユーモアのセンスを持っているということです。

World War II. Auschwitz concentration camp: pile of glasses.

「部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しかもたないもであったが、、」

「わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!」

「やけくそのユーモアの他もう一つ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。…ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。苦しみの大小は問題でないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。」

「ひとりの気心の知れた外科医の仲間と建築現場で働いていたとき、わたしはこの仲間に少しずつユーモアを吹き込んだ。毎日、義務として最低ひとつは笑い話を作ろうと。それもいつか解放されふるさとに帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろうと。」

「前もって言っておかねばならないが、作業現場では現場監督がやってくると監視兵はあわてて作業スピードを上げさせようとして、動け、動け、と怒鳴って労働者をせきたてた。さて私の話はこうだ。」
「あるときみは昔のようにオペ室で長丁場の胃の手術をしている。突然、オペ室のスタッフが叫びながら飛び込んでくる。「動け、動け、外科医長が来たぞ!」

ユダヤ人と私 その38 ヴィクトール・フランクルと現象学

フランクルの思想の形成には、初期現象学派のマックス・シェーラー(Max Scheler)やブレンターノ(Franz Brentano)といった哲学者の影響があることを前回述べました。この「現象学(phenomenology)」という学問のことです。ブリタニカ国際大百科事典から現象学の定義を引用してみます。

現象学とは、意識のうちで経験されるものとしての諸現象を直接的に探求し記述することで、それら諸現象の因果的説明に関する諸理論は抜きにして、できる限り未吟味の先入見や前提から自由になることである。

なかなか理解するのが手強い考え方です。

フライブルク大学(University of Freiburg)で教鞭をとっていたドイツの哲学者フッサール(Edmund Husserl)は現象学を次のように主張します。

現象学は意識の本質的な諸構造に関する学問であるが、このような現象を展開するためには、諸現象から経験的な科学によって研究される一切の単に事実的な諸事象を一掃することである。さらに、一切の構成的な諸解釈を捨て去ってこれを純粋化するのである。

シェーラーやブレンターノ、そしてフッサールらはドイツ観念論のような思弁による概念構成の哲学を退けます。そして経験的立場からの哲学を主張するのです。さらに、現象を心的現象と物的現象とに分け、この心的現象の根本的な特徴として「志向性Intentionalität)」という概念を導入して、「対象への関係」についての意識の働きに注目します。

いろいろな人々が空間や時間の問題、生活と科学との関係、他者や共同社会、歴史の問題に関して諸々の提言をしています。そのとき大事なのが、事実そのものを先入見なしに、ありのまま見つめ直すことが現象学の考えです。人間の体験の意味を問い直す現象学の根本精神は、現代における人間科学の方法として今日も定着しているといえます。