アメリカ合衆国とニックネームの由来 その3 The Last Frontier

1960年代まで、アメリカやヨーロッパに行くときは給油するためにアラスカ(Alaska)の アンカレッジ空港(Anchorage)に立ち寄ったものです。航空機の発達により現在はシベリア経由に変更され、アンカレッジ経由の北回りヨーロッパ線は1991年で廃止されます。アラスカの州都はジュノー(Juneau)です。

Alaskaという地名の由来です。アラスカとカムチャツカ(Kamchatka)の間にあるアリューシャン列島(Aleutian Islands)の先住民族、アレウト族(Aleut)、イヌイット(Inuit)、あるいはエスキモー(Eskimo)が使っていた「半島」を意味する「Alakshak」からきているという説です。

1867年3月にアメリカは、ロシア帝国よりアラスカを購入します。当時アラスカ購入の交渉にあたったのは、国務長官であったウィリアム・スワード(William H. Seward)です。720万ドル、今でいう8億円をロシアに支払ったといわれます。アラスカの購入は、議会ではスワードの愚行(Secretary Seward’s folly)と揶揄されたのですが、その後、豊富な天然資源が見つかったり、旧ソ連に対する国防上重要な役割を果たすことが証明され、スワードの業績は高く評価されるようになります。スワードはその後もハワイ(Hawaii)やサモア(Samoa)、グアム(Guam)、プエルトリコ(Puerto Rico)、パナマ(Panama)、フィリピン(Philippines)などの併合を提案していきます。

アラスカは他の地域から遠く離れ、気候や地理が厳しく、合衆国領となってからも開発や人の移住が進みませんでした。そのような理由で、公式なニックネームは「最後のフロンティア(The Last Frontier)」となっています。「The Great Land」とか「The Land of the Midnight Sun」という呼び名もあります。

漁業では鮭が主要な漁獲物で、オヒョウ、鰊、銀だら、蟹なども豊富に獲れます。大きな鮭缶工場もあります。鉱業では石油、天然ガス、銀、銅などで知られ、石油の産出はテキサス州に次いで二番目となっています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その2 The Cotton State

合衆国の州につけられたニックネームをアルファベット順に紹介することにします。アラバマ州(Alabama) といえばなにを想い浮かべるでしょうか。「公民権運動(Civil Right)」、と答えられる人は相当なアメリカ通です。アラバマ州都はモンゴメリー(Montgomery)。その他の大きな都市と言えばハンツビル(Huntsville)です。NASAの中枢的存在であるマーシャル宇宙飛行センター(Marshall Space Flight Center)で知られています。

Alabamaという名称の由来は、チョクトー族(Choctaw)が使っていたAlabayamule(茂みを切り開く)からきています。州の大半はアラバマ川流域で、北端部にはテネシー川(Tennessee River)が、東端部はチャタフーチ川(Chatahoochee River)が流れています。

温湿暖気候に恵まれ、松などの森林が多く生育しています。南部の中心に位置するので「Heart of Dixie」とも呼ばれています。Dixieとは「南」とか「南部」という意味です。そうです。Dixie Land Jazzの生まれた所です。

州都のモンゴメリーはかつて南北戦争(Civil War)当時、南部連合(Confederate States)の首都でありました。黒人の比率が高く、州全体の26%を占めています。かつてアラバマの中央部は綿花地帯(Cotton Belt)と呼ばれました。そのようなわけで州のニックネームは 「The Cotton State」。ただし、このニックネームは州公認ではありません。その他のニックネームとして「The Yellowhammer State」というのもあります。「Yellowhammer」とはキアオジというホオジロ科の鳥で、文字通り黄色い羽で知られています。南北戦争当時、兵士達の軍服には黄色い線が入っていたといわれます。

もう一つのニックネームに「Stars Fell on Alabama」というのがあります。これは1833年11月12日から13日にかけて巨大な流星群がアラバマ州で目撃されたからです。2002年のライセンスプレートにもこのフレーズが印字されます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その1 「合州国」

誠に些細なことから始めます。私の小さな誇りは沢山のアメリカの学校を見て回わり、そのお陰で沢山の友人や知人ができたことです。今もクリスマスカードを交換したり、時折メールやフェイスブックで消息を確かめ合っています。中には、お互いに齢を重ねているので、いざ会うとなると果たしてその面影を思い出せるかどうか少々心配ともなります。

三人の子供も結婚し、子育てに仕事に忙しくしています。長男はマサチューセッツ(Commonwealth of Massachusetts)州都のボストン(Boston)の近くで二人の息子を育てています。長女と次女はウィスコンシン(State of Wisconsin)州都のマディソン(Madison)で、それぞれ二人の娘と一人の息子を育てています。そのような訳でアメリカに友人や知人、そして親戚ができたのです。

出張や私的な旅行で沢山の州を訪ねることができました。州といってもほんの一部の町や村を訪れただけです。とても一つひとつの州を理解したとはいえません。手許にアメリカでの生活で手に入れた古いライセンスプレート(license plate)があります。私の趣味の一つはプレートの蒐集です。アメリカでは、プレートの期限が切れるとそれを所有してよいのです。それを一枚一枚手に取ると、各州の特徴や売りがわかります。州のニックネームがついているのが多くデザインも結構凝っているのが面白いところです。

アメリカはその名のとおり州が集まる合衆国です。「合州国」という名称のほうがわかりやすいようです。州は自分の憲法を持ち、最高裁判所があり、連邦政府が出す大統領令に異議を唱えることができます。最近では3月6日にイスラム教徒が大多数を占める7カ国の市民を対象にした入国禁止令に大統領が署名しました。それに対してニューヨーク(New York)やマサチューセッツ、カリフォルニア(California)、ミシガン(Michigan)、ヴァジニア(Virginia)、ハワイ(Hawaii)、ワシントン(Washington)などの州が異議をとなえました。州は、このように自治権を有し、あたかも国のような統治形態をとっているのです。教育行政ももちろん州に責任があります。それだけに、「アメリカの教育は、、、」といった問いに答えるのは至難の業となります。連邦政府の役割とは軍事、外交、そして通貨制度です。

これから数ヶ月にわたり、アメリカ「合州国」のニックネームを辿り、そのいわれや州の歴史を振り返ることにします。

ユダヤ人と私 その41 悪意のこもったジョーク

強制収容所にいた監視者であるカポー(Kapo)や厨房係はユダヤ人の少数者でありました。収容所内では彼らは出世組といわれていたようです。彼らの振る舞いに対して、恨みや妬みに凝り固まっていた多数者である非収容者は、さまざまなガス抜きという心理的反応で応じていたといわれます。それは時に悪意のこもったジョークだったります。例えばこんなジョークが作られたといわれます。

二人の非収容者がおしゃべりをしていて、話題がある男に及びます。男はまさに出世組といわれるカポーでありました。一人が言うのです。

「俺はあの男を知っているぜ。あいつは市で一番大きな銀行の頭取だったんだ。なのにここではカポー風を吹かしやがっている。」

実のところカポーや厨房係は一見、出世組に見えたようですが、親衛隊は定期的に出世組を交代させ、新たな出世組に替えたといいます。収容所の秘密が漏れるのを防ぐために、それまでの出世組は消されていったということです。

女性のカポーもまた仲間から憎まれます。収容所内で親衛隊員に体を与えてまで生きようとします。こうして親衛隊に忠誠を尽くして衣食住の面で特権を与えられ、つかの間の待遇を楽しんだカポーもまた多くのユダヤ人と同じ運命を辿っていきます。よしんば行きながらえたとしても、過酷な仕打ち、たとえば髪を刈り上げられるとか、見せしめに合うといった行為が待っていました。

「ユダヤ人と私」のシリーズはこれで一応お終いとします。

ユダヤ人と私 その40 「スープは底のほうから、、」

強制収容所生活のつかの間の楽しみは誠に貧しいながら,パンと水のようなスープにありつくときだったようです。スープの鍋底には僅かなジャガイモや豆が残っています。時には、ソーセージの切れ端もあったようです。作業現場では親衛隊の下部組織であったカポー(kapo)と呼ばれるユダヤ人の監督が囚人の指揮をとっていました。同じくユダヤ人の非収容者である厨房係がパンきれを渡し、スープを鍋からすくっていたのです。その収容者は「底のほうからお願いします」と懇願したそうです。数粒の豆が皿に入るからです。

Majdenak

フランクルは前回の外科医との笑いの他に、仲間達と他愛のない滑稽な未来図を描いてみせています。誰しも解放されて、ふるさとに残した家族との再会を想い浮かべるという設定です。ふるさとに帰り、あるとき友人宅での夕食に招かれたとします。スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに作業現場でカポーに言うように「底のほうからお願いします」といってしまうんじゃないかって、、、」

「こうしたユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ」というようにフランクルは自虐的らしくいいます。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということを踏まえたとすると、生きるためにはこのような姿勢もあり得るのだ、とフランクは言います。

「こんな悲惨な状況の中では、誰もが人間性を失ってもおかしくはない。だが極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。」

フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるのです。そして深刻な時ほど笑いが必要だというのです。ユーモアの題材を探し出すことで、現状打破の突破口があるとも言うのです。フランクルは、作曲家マーラー(Gustav Mahler)に心酔していたようです。

「ユーモアは人間だけに与えられた、神的といってもいいほどの崇高な能力である。」

ユダヤ人と私 その39 ヴィクトール・フランクルとユーモア

フランクルの強制収容所の体験記「夜と霧」には生き残った人々、亡くなっていった人々の心理と行動が克明に記されています。その中に人々に生きる力を与えた3つのことが書かれています。 それは日々祈る人、音楽を愛する人、そしてユーモアのセンスを持っているということです。

World War II. Auschwitz concentration camp: pile of glasses.

「部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しかもたないもであったが、、」

「わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!」

「やけくそのユーモアの他もう一つ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。…ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。苦しみの大小は問題でないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。」

「ひとりの気心の知れた外科医の仲間と建築現場で働いていたとき、わたしはこの仲間に少しずつユーモアを吹き込んだ。毎日、義務として最低ひとつは笑い話を作ろうと。それもいつか解放されふるさとに帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろうと。」

「前もって言っておかねばならないが、作業現場では現場監督がやってくると監視兵はあわてて作業スピードを上げさせようとして、動け、動け、と怒鳴って労働者をせきたてた。さて私の話はこうだ。」
「あるときみは昔のようにオペ室で長丁場の胃の手術をしている。突然、オペ室のスタッフが叫びながら飛び込んでくる。「動け、動け、外科医長が来たぞ!」

ユダヤ人と私 その38 ヴィクトール・フランクルと現象学

フランクルの思想の形成には、初期現象学派のマックス・シェーラー(Max Scheler)やブレンターノ(Franz Brentano)といった哲学者の影響があることを前回述べました。この「現象学(phenomenology)」という学問のことです。ブリタニカ国際大百科事典から現象学の定義を引用してみます。

現象学とは、意識のうちで経験されるものとしての諸現象を直接的に探求し記述することで、それら諸現象の因果的説明に関する諸理論は抜きにして、できる限り未吟味の先入見や前提から自由になることである。

なかなか理解するのが手強い考え方です。

フライブルク大学(University of Freiburg)で教鞭をとっていたドイツの哲学者フッサール(Edmund Husserl)は現象学を次のように主張します。

現象学は意識の本質的な諸構造に関する学問であるが、このような現象を展開するためには、諸現象から経験的な科学によって研究される一切の単に事実的な諸事象を一掃することである。さらに、一切の構成的な諸解釈を捨て去ってこれを純粋化するのである。

シェーラーやブレンターノ、そしてフッサールらはドイツ観念論のような思弁による概念構成の哲学を退けます。そして経験的立場からの哲学を主張するのです。さらに、現象を心的現象と物的現象とに分け、この心的現象の根本的な特徴として「志向性Intentionalität)」という概念を導入して、「対象への関係」についての意識の働きに注目します。

いろいろな人々が空間や時間の問題、生活と科学との関係、他者や共同社会、歴史の問題に関して諸々の提言をしています。そのとき大事なのが、事実そのものを先入見なしに、ありのまま見つめ直すことが現象学の考えです。人間の体験の意味を問い直す現象学の根本精神は、現代における人間科学の方法として今日も定着しているといえます。

ユダヤ人と私 その37 ヴィクトール・フランクルとユーモア

1946年に出版されたナチス強制収容所での体験記が「夜と霧」(Man’s Search for Meaning)です。著者はヴィクトール・フランクル(Viktor E.Frankl)。アウシュヴィッツ–ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)から奇跡的に生還したユダヤ人の精神科医師です。
この著書の題名は、「Trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」。日本語訳すると『それでも人生に然りと言う: 一人の心理学者、強制収容所を体験する』となります。1956年にみすず書房から霜山徳爾氏によって翻訳されます。本邦で出版された題名は原題とは異なります。「夜と霧」という題名はナチスが出していた特別命令に由来します。夜陰に乗じ霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人が神隠しのように消えて行く歴史的事実を表現する言い回しだ、といわれています。この著作にもユーモアが登場します。

フランクルの思想の基底は実は、収容所体験以前に培われています。それは高校時代に既にフロイト(Sigmund Freud)への手紙に論文を添付して読んで欲しいと依頼したというエピソードがあります。その原稿は2年後に国際精神分析学会誌に掲載されたというのです。それだけでもフランクの碩学さがうかがえるというものです。

フランクルはウィーン大学(Universität Wien)でアドラー(Alfred Adler)、初期現象学派の一人シェーラー(Max Scheler)、ブレンターノ(Franz Brentano)らの思想に触れていたことです。こうした著名な人々との交流の影響を受け、やがてフランクルは独自の理論を構築していきます。24歳のとき抑うつ症状のある若者のために「青少年相談所」を開設し学生や失業者の相談に応じます。

ウィーン大学病院での臨床体験を経て32歳のとき、ウィーン市内に精神科のクリニックを開業します。1941年にナチスから出頭命令がきますが、一年間の執行猶予がでます。そしてユダヤ人病院の精神科に勤務します。その間、それまで積み上げてきた事例とそれを基にして新しい理論をまとめます。それが後年に出版した「死と愛」という本です。これがデビュー作品といわれます。

ユダヤ人と私 その36 口をふさぐことを知らない人間

ユダヤ人は議論やディベートが好きな民族といわれます。一を語るのに十を言う癖があるといわれます。そのために饒舌を戒める諺が多いようです。討論は一種の芸術であるという人もいますが、饒舌には辟易するものです。

・人はしゃべることは生まれてすぐ覚えるが、黙することはなかなか覚えられない。

沈黙も言葉なのです。この言葉を学ぶと多くの語彙を増やすことができるといわれます。耳を傾けることによって学ぶことが多いということです。黙することは、喋ることよりも苦しいことです。黙することを教えられてこなかったからでしょう。

・口をふさぐことを知らない人間は戸が閉まらない家と変わらない。

口についての警句がユダヤ人の格言に多いのが目だちます。関連して思うのは、都議選中の防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」という放言です。公人意識が完全に不足しています。さらに選挙結果の後、安倍首相は次のように語っていました。

「今後、国政に関しては一時の停滞も許されない。内外に課題は山積している。反省すべき点はしっかりと反省しながら、謙虚に丁寧にしかし、やるべきことはしっかりと前に進めていかなければならない。」

このような殊勝な言葉を並べ、批判をかわそうとする姿勢は情けないことです。反省はいつも口先だけってことを多くの国民は嫌というほど知っています。なぜ敗北したのか、その分析を国民は知りたいのです。心から反省しないから、国政の課題に転嫁するのです。「戸が閉まらない家」というのは、心に隙があり、必ず誰かにかき回されるということです。

黙すること、口をふさぐことは、自分の立場をわきまえる人です。

ユダヤ人と私 その35 ユダヤ人の笑いと知恵の世界

具体的な小咄のことがジョーク(joke)、自虐的で単純な言葉遊びが駄洒落(pun)、人を和ませるような可笑味のことがユーモア(humour)といわれます。こうした笑いを誘う言葉の定義が本題ではありません。ユダヤ人の中で知られている笑いのフレーズから、人間の本質のようなことを考えてみたいのです。

日本語に「諧謔 」があります。ブリタニカ国際大百科事典で調べてみますと、「おもしろさと共感とが混り合った状況を描写すること」とあります。これはユーモアといってよいのだろうと思われます。ユダヤ人が創作したフレーズにもユーモアと才気とか精神といわれるエスプリ(esprit)がたっぷり込められています。

・理想のない教育は、未来のない現在と変わらない。

神が人間をつくり、人間の手に世界を委ねられたときに世界をより良いものにする責任を課せられたと教えられます。ユダヤ教では教えを守るだけでなく、つくりださねばならないといも教えられています。正義が行われる世界をつくるということです。

・エルサレムが滅びたのは教育が悪かったからである。

西暦70年、ローマ軍により市街のほか聖地であるエルサレム神殿も破壊されます。敗退とか滅びとは通常軍事力を指します。このユダヤ人の教えは、力ではなく民の力が不十分であったという反省が込められています。滅びは道徳や倫理の退廃、生活の奢侈や乱れなどもあったようです。すべて民の教育が体を成していなかったという教訓です。

・口よりも耳を高い地位につけよ。

人間は口によって滅びることはありますが、耳によって滅びた者はいません。昨今の国会議員の言動もすべて口による災いと報いです。口は自分を主張します。耳は人々の主張を聞きます。動物に耳や目が二つあり、口は一つであることは敵の攻撃に備え、狩りの時に大事なものはなにかを示唆しています。

ユダヤ人と私  その34 ユダヤ人と笑い

「ヘブル(Hebrew)」の語源を調べると、「ユーラテス川(River Euphrates)の向こうからきた人々」、「一方の側に立つ人」とあります。もともと難民のような者でした。こうした国籍を持たない民族は国家の保護が求められなかったはずです。居住地を求め仕事を得ることは困難を極め、自らの才覚によって生きる術を探さなければなりません。「Hebrew」といわれた人々は、こうして知識と知恵を必要とし学ぶことを尊ぶ民族であることも暗示しています。いろいろな経験をし、いろいろな見方を編みだし生きてきた人々であったはずです。

知識と知恵の源はなんといってもこれはタルムード(Talmud)といえます。タルムードには宗教や法律、哲学や道徳など人生と生活のあらゆる事柄について書かれている、いわばユダヤの知恵の宝庫といわれます。全部で二十巻におよび、12,000ページに及びます。タルムードはラビたちの教えがつまっていて、様々な議論や解説も書かれているといわれます。ラビには権威があるのです。同時に、実は書かれている言葉よりも、その書かれているものをどう考えるかということで、けんけんがくがくと議論することこそがユダヤ人の優秀さの下地になっているともいわれます。

中でもユダヤ人で特徴的な事の一つが、笑い、ユーモア(humour)好きでジョーク好きであることです。明治大学の鈴木健氏によるとユーモアには3つの理論ともいえるものがあります。第一が「優越理論」で余裕を見せる笑いといわれます。他人を笑うのはもちろん、自分自身も笑うという余裕すらあるといわれます。他人を笑うのは易しことです。自分を笑うことによって向上しようとする気概も感じさせてくれるのですから不思議です。社会や制度、政治を笑いによって矯正する働きもあります。

第二は「解消理論」です。これには心的な緊張緩和を促す笑いがあります。ユーモアによって対話を盛り上げたり、その場の緊張と解くことができます。綾小路きみまろの毒舌漫談がそうです。中高年世代の悲哀をユーモラスに語ります。「笑う門には福来る」もそうです。

第三が「不調和理論」は驚きを生みだす笑いとえます。97歳の年寄りと医師との会話です。
医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「死なないことだな。」

 医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「タバコを吸わないこと。」
 医師 「いつタバコを止めたのですか?」
 年寄り「去年だったかな、、」

医師が期待する答えが裏切られ、驚きに中にユーモアを感じるのです。惚けた話で可笑味が伝わります。

ユダヤ人と私  その33 ユダヤ人への誤解と偏見

ユダヤ人が他の民族にはみられない迫害を受けてきたことは既に述べました。そのような過酷な状況に耐えて、なおユダヤ人であることの矜持を保ってきたことは興味ある話題です。

生命の危機や財産の没収、改宗の強制、そして追放などに耐えるためには大きな知恵を必要としたようです。別な見方をするならば、こうした試練に耐えられたユダヤ人が生き残り陶冶されたわけです。まさに知的に優れた者が生き残ったともいえそうです。ユダヤ教が崇高にして絶対であるという信念が、ユダヤ人としての揺るぎない誇りと文化を継承してきたといえます。

しかし、ユダヤ人の独自性、例えば安息日を忠実に守る、安息日には乗りものを使わない、火を使わない、料理も作らない、食事の戒律を守るなど厳しい掟は他の民族からすれば奇異に映ることもあります。ユダヤ人のこうした生き様は、ユダヤ人が世界の他の民族とは異なるものであり、ユダヤの世界対他の世界というように考えていることから生まれまています。ですがこうした考え方は、多民族と対立したり排斥したりするということではありません。

厳しい戒律を実践するユダヤ人は狂信的な集団であるという偏見が長く続きました。これは明らかな間違いです。ユダヤ人は適度を尊ぶ民族だからです。禁欲、清廉、隠遁といった習慣はありません。ラビもまた妻帯することができます。独身は人間を創造し性を与えた神に背く行為であると考えるのです。金銭も同様です。お金が貯まるときは、慈善(charity)を施すことを強調します。

ユダヤ社会には「ツェダカ」(Tzedakah) 」と呼ばれる貧しいものに手を差し伸べる教えがあります。
寄付の習慣があります。収入の10%と定められています。キリスト教会が奨励している「十分の一献金」はユダヤ教から由来します。寄附するときの順序は、遠くの人より近くの人、近くの人よりも肉親、親族、遠くの肉親よりも同居の肉親という順序で寄付をするべきであるとされています。ヘブル語で「Tzedakah」は正義とか平等、公正という意味です。ツェダカは興味ある思想です。

ユダヤ人と私  その32 ユダヤ教とハヌカとマガベウスと感謝祭

どの国にも収穫を感謝し、お祝いをする習慣があります。我が国でも古くから五穀の収穫を祝う風習があります。「新嘗祭」といって宮中祭祀の一つで今も続いています。その年の収穫物はそれからの一年を養う大切な蓄えとなります。勤労感謝の祝日はその年の五穀豊穣と来るべき年の豊作を祈願する日でもあります。

ユダヤ人には、ハヌカ(Hanukah)という祝いの儀式があります。「奉献の祭り」とか「宮清めの祭り」と呼ばれています。この儀式と祭りには次のような背景があります。紀元前165年、ユダ・マガベウス(Judas Maccabeus)という指導者に率いられたユダヤ人がマカバイ戦争(Maccabean Revolt)を指導し、エルサレムの神殿からシリアの支配下にあった異教の祭壇を撤去し神殿を清めて再びヤハウェ神(Yahweh)に神殿の奉納を行ったとされています。神殿の燭台(menorah)に汚されていない油壺が一つだけ見つかったそうです。それを灯して奉納を祝ったことから、ハヌカは別名「光の祭り」といわれています。今年のハヌカは11月27日の日没から12月5日の日没までの8日間です。

ハヌカが広く知られるようになったのには、ヘンデル(George F. Handel)が作曲した聖譚曲、オラトリオ(Oratorio)に「Judas Macabeo」があります。この曲に「見よ、征服の勇者は帰る(See, the Conquring Hero Comes!) 」という管弦楽付きの合唱曲があります。スポーツ大会の表彰式でしばしば演奏されるものです。勇者とはマガベウスのことです。このように宗教的な歴史を取り上げた中世の典礼劇がオラトリオで、バロック(Baroque)音楽を代表する楽曲形式の一つといわれます。

話題をより一般的な祝いに戻しますと感謝祭(Thanksgiving)に触れなければなりません。アメリカこの祭りが始まったのは清教徒たちがプリマス(Plymouth)の地で1621年に始めたともいわれます。この地で干ばつが続きようやく雨が降った1623年が本格的な感謝祭の始まりだという説もあります。同時に、感謝祭ではマサチューセッツ(Massachusetts)のプリマスにあるPlymouth Rockという記念碑の前では、ネイティブ・アメリカンであるワンパンゴ部族(Wampanoag)による感謝祭に対する反対の集会もひらかれます。この日を追悼日(National Day of Mourning)として民族の差別を覚える日としている。アメリカ・インディアン民族遺産日(American Indian Heritage Day)とする人々もいます。

ユダヤ人と私 その31 ユダヤ教の主な儀礼  過越しの祭

奴隷状態にあったユダヤ民族のエジプト脱出を記念するのが「過越しの祭(Passover)」です。旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)12章に記述されています。それによりますと、エジプトに避難していたイスラエル人は奴隷として虐げられていました。神は、指導者モーセ(Moses)に対して民を約束の地カナン(Cannan)へと導くようにいいます。エジプト君主のファラオ(Pharaoh)がこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して災いを臨ませます。

その災いとは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものでありました。神は、門口に仔羊の血が塗らねていない家にその災いを臨ませることをモーセに伝えます。このように、仔羊の血が門口にあったユダヤ人の家だけは悪霊が過越したという故事にちなむのです。 悪霊が通り過ぎるのを願ったのです。

聖書の命令に従って、ユダヤ教では今日でも過越祭を守り行っています。 このユダヤ暦によれば春分の日の後の最初の満月の日からの一週間はペサハ (Pesach)と呼ばれるユダヤ教の祭りのひとつです。過越しの祭では、マッツァ(Matzah)と呼ばれる酵母なしのパンを食します。酵母を混ぜて膨らむのを待つだけの時間の余裕がなかったのでパンをそのまま食べたといわれます。3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは、エジプトを脱出した時の記憶を忘れないように酵母でふくらませたパンを食べないのです。過越祭のことを除酵祭とも呼ばれています。

ユダヤ人と私  その30 ユダヤ教の主な儀礼 安息日と割礼

ユダヤ人にとって最も大事な儀式は、シャバト(Shabato)と呼ばれる安息日をまもることです。正確には金曜日の日没から安息日が始まります。土曜日はいかなる労働も行わないことを求められます。「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という教えです。このフレーズは旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)20章8節にあります。3世紀頃から安息日を花嫁と呼ぶ習慣もあります。金曜日は日が落ちる頃、ラビは戸外に出て安息日の正装をし「花嫁よ、来たれ」と言ったそうです。なお、「Shabato」は 英語では「Sabbath」で安息という意味です。

シャバトのいわれは創世記(Genesis)にあり、神が6日かけて世界を作った後、7日目に休んだことに由来します。これが現在世界中で使われるカレンダーが週で区切られ、特定の日を休みとする習慣が広がったいわれです。ユダヤ人のコミュニティでは、学校や職場は金曜日は午前中までで、日没後は商店などを閉め公共の交通機関も止まってしまいます。家事をすることもできません。主婦は安息日のため金曜日に週末の食事を用意するので忙しく振る舞うことになります。

もう一つの儀式は、生後8日目の男子に施される割礼(circumcision)です。男性器の包皮を切りとる儀式です。これはヘブル名の命名式も兼ねていて、家族や親戚、友人などを沢山招いた中で盛大に祝います。割礼の記録は、創世記(Book of Genesis)17章9-14節にあり、アブラハム(Abraham)と神の永遠の契約として割礼を行うことが定められています。Wikipediaによりますとキリスト教圏、例えばアメリカでは5割の子供が割礼をするとあります。衛生上の理由などで割礼が行われているようですが、さほど一般的ではないようです。

ユダヤ人と私  その29 ユダヤ教の主な儀礼 バア・ミツヴァ

ユダヤ教にはいくつかの教派があります。ユダヤ教保守派(Conservative Judaism)‎、ユダヤ教正統派‎(Orthodox Judaism)、ユダヤ教改革派(Reform Judaism‎)などです。ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々です。ですから日本人もロシア人もアメリカ人もユダヤ教で信仰告白をすればユダヤ人となります。ユダヤ人とは多民族、他文化、多言語の人々の集まりです。こうした教派に共通な人生の節目に行う主な儀礼について述べることにします。私が私淑し尊敬する外科医師、Dr. Robert Jacobs氏から伺ったことがある儀式です。

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 実は、かつてJacobs氏からご子息の成人の祝いの案内を頂戴したことがあります。ユダヤ教徒には、男子が13歳、女子が12歳になるとそれぞれバア・ミツヴァ(Bar Mitzvah)、バト・ミツヴァ(Bat Mitzvah)という儀式があります。ヘブル語でBarは息子、Batは娘という意味です。男女ともこの儀式によって、ユダヤ法に従う宗教的で社会的な責任があるとみなされます。ちなみにプロテスタントのキリスト教会では堅信礼(confirmation)とか成人祝福式といわれます。日本における元服にあたります。

男子はこの年齢になるまでに、ヘデル(cheyder)という寺子屋のような学校でヘブル語(Hebrew)やモーセ五書といわれるトーラー(Torah)、さらにユダヤ教徒の生活や信仰の基となるタルムード(Talmud)を勉強します。こうしてバア・ミツヴァ儀式で祈祷の朗誦ができるようになるのです。

この儀式を経るとユダヤ社会では大人として認められ、それまで免除されていた断食を初めとするすべての戒律の順守、倫理観に基づいた生活習慣の実践、責任ある行動などが要求されます。コミュニティの一員として儀式や礼拝への参加も正式に認められます。

ユダヤ人と私 その28 ユダヤ教とメンデルスゾーン

前回、ユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)に触れました。長い間、ユダヤ人はドイツに背を向け思想的に閉ざしていたとわれます。メンデルスゾーンはユダヤ人にドイツの文化を理解し交流を深めることを推奨し、それと同時にドイツ人に対してユダヤ人の文化も理解してもらおうと努力した人です。ドイツの社会を受け入れ、それにユダヤ人も同化していこうという姿勢でありました。

メンデルスゾーンは、ユダヤ人の思想的な解放の先頭に立ち、ユダヤ人啓蒙のためにドイツ語教育学校を興し、同時にユダヤの伝統文化や遺産の継承を重視します。さらにユダヤ教内部における近代ヨーロッパ文化の影響とそれに対する啓蒙主義運動であるハスカーラー(Haskalah)を提唱します。キリスト教社会に広く流布していたユダヤ教への偏見やユダヤ人への理由なき誹謗や中傷など反ユダヤ主義(Antisemitism)の修正を求めることにも腐心します。ユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させたといわれます。

ドイツもスペインもユダヤ人に改宗を迫った歴史があります。 こうして反ユダヤ主義も高まり、社会の抱えている問題をすべてユダヤ人に押し付けてしまう風潮も起こります。その例が、ユダヤは世界を征服しようとしているといったユダヤ陰謀説(Jewish plot)という荒唐無稽な風潮です。

他方でメンデルスゾーンらの同化思想は根本的な問題を生み出します。同化を推し進めることによってユダヤ人のアイデンティティとはなにかという問いが盛んになったのです。ユダヤ教という中核的な教えがあり、そうした要因にがユダヤ人の心の拠りどころとなっています。それがやがて伝統的なユダヤ教や宗教シオニズム運動(Zionism)を促進することになります。

モーゼの律法はユダヤ人たちのアイデンティティを維持する強固な役割を果たしてきました。同時に世俗に照らしてそれは遵守されるべき法ではありますが、徐々に人間の内的精神が自発的に従うべき道徳的基準に過ぎなくもなりました。つまり人間としての権利を獲得し義務を遂行できるためには、「国家と宗教」という市民的秩序、「世俗のことと教会のこと」という社会説という支柱を相互に対置させ均衡がとれるようにすることをメンデルスゾーンは叫ぶのです。

もう1人のユダヤ人哲学者にハーマン・コーエン(Hermann Cohen)がいます。メンデルスゾーンと同様に同化思想を唱道します。パレスチナにユダヤ人国家を建設しようというユダヤ民族運動にも反対します。ユダヤ主義とは本質的に歴史発展または伝統とは無関係であり、霊的で道徳的な使命を帯びているのであって、民族国家の建設を超越した思想であると主張します。偏狭になりがちな民族運動にくぎを刺したのがコーエンです。

ユダヤ人と私 その27 ユダヤの哲学について

ユダヤ人は古代ギリシャ人のような厳密な意味での哲学の概念を持っていたのか、というのが本文のテーマです。相当難しい課題です。

ギリシャ哲学は、百科事典などによりますと非常に大雑把にいって自然や宇宙、万有がいかにして生じ、なにを原理として成り立っているか、人間の道徳と実践という知に対する尊厳を追求します。古代ギリシャの哲学者は人間にとって「徳」とはなんであるかよりも、魂や精神の卓越性を知として追求してきたようです。ロゴス(logos)が世界原理であるとした哲学者はヘラクレイトス(Herakleitos)といわれます。ロゴスとは概念、理論、論理、理由、思想などの意味です。

本題のユダヤ人の哲学観についてです。旧約聖書には、神、人間、自然などについての哲学的関心を示す多くの思想が見いだされます。その目的は諸概念を知的対象として究明するのではなく、むしろそこに啓示されたモーゼの律法を絶対的なものとして受けとめ、それをいかにして具体化するか、という信仰的な実践の問題であったようです。ユダヤ人が哲学に対する関心を示したのは、異質な外来思想と接触し、彼らの伝統的な教えとの矛盾を感じ、それらについて懐疑し始めたからだといわれます。この外来思想とはギリシャ思想であり、近代の啓蒙哲学です。

ギリシャ思想とユダヤ思想との調和という課題をとりあげた最初のユダヤ人哲学者にフィロン(Philon Alexandrinus)がいます。フィロンは紀元前30年頃活躍したようです。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて援用したことで知られています。フィロンはロゴスに新しい観念を与えます。それは、この世に実在するのは、可知の世界といわれるイディア(Idea)であり、イディアの創造を行うのは神の精神であるというのです。旧約聖書の神の愛ついては、「我々の心の平和のなかに神を見いだすためには身体や感覚、あるいは語るということからさえ離れて、魂のなかにのみ生きることを学ばねばならない」とします。ロゴスが神の言葉であるという思想は、後にキリスト教において、イエスが天地の創造に先立って存在したというの思想と結びついていきます。

しかし、ユダヤ教の内部でいかにしてモーゼの律法を彼らの現実社会に適用するという課題が論議されます。これをまとめたのがタルムード(Talmud)と呼ばれる口伝です。別名口伝律法といわれ、五世紀頃までに編集されます。しかし、フィロンの思想は伝統的なユダヤ教の人々からは受け入れられませんでした。

近世になり、ユダヤ人はヨーロッパのキリスト教国に居住し、その国々の文化に同化するようになります。ユダヤ思想もまた、近代の啓蒙哲学の影響を受け新たな局面を迎えます。ユダヤ教の特徴を抑えて普遍的な理性原理の上で確立することが提唱されていきます。その代表的なユダヤ人哲学者がモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)とハーマン・コーエン(Hermann Cohen)です。

ユダヤ人と私  その26 アメリカの大学とユダヤ系

アメリカの大学の発展、とくに超一流大学といわれる大学経営の充実にはユダヤ系の資産家が深く関わっています。多くの総合大学にはヒレル・インターナショナル(Hillel International)という団体があります。ユダヤ系の学生や留学生を支援しています。 Hillel とは1世紀頃のパレスチナにおけるユダヤ議会(The Jewish Sanhedrin)の議長であり霊的指導者の名前です。

Hillel Internationalが設立されたのは1923年で、イリノイ大学アーバナ・シャンペン校(University of Illinois, Urbana-Champaign)です。創立したのはバーナイ・ブリス(Bnai Brith)という資産家です。翌年、ウィスコンシン大学のノーマン・ナサク(Norman De Nosaquo)という学生がHillel Internationalに手紙を書き、それがきっかけでUW-Madison内にヒレルの組織ができます。

1937年にリー・レビンジ(Lee Levinge)というユダヤ人の研究者が「The Jewish Student in America」という論文を書き、その中で1,400の大学でユダヤ人が学んでいることを報告しています。1939年になるとHillel Internationalは全米の12大学で財団を組織し、その他18大学に支部組織をつくります。その後、オハイオ州立大学(Ohio State University)、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University) などにその組織が広がっていきます。

今や、ほとんどの大学でユダヤ系アメリカ人が学んでいます。一流大学の1/4がユダヤ人で、1/5がアジア系の学生が占めるといわれています。こうした学生は学費の全額を払うので、私立大学では大いに歓迎されています。学費の納入が困難な学生を救うために、州立大学ではアファーマティブ・アクション(Affirmative action)があって黒人やヒスパニックの学生を優先的に受け入れる枠を設けています。

大学教官の採用でもアファーマティブ・アクションが働いています。適度な資質又は研究成果があったとしても、マイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁があるといわれてきました。特に女性のキャリアを阻む障壁のメタファー(metaphor)が「ガラスの天井(glass ceiling)」といわれるものです。「ガラスの天井」は男女を問わずマイノリティの地位向上を阻む壁としても用いられるようになりました。ただ大学の研究と教育の質を維持するために、アファーマティブ・アクションに対して疑問視する人々が大勢いるのも事実です。

一流大学の学長や理事にはユダヤ人が多くいます。特に第二次大戦後はそうです。この現象は、ロックフェラー(Rockefeller)、JPモルガン(J.P. Morgan)、ハリマン(Brown Brothers Harriman)、メロン(Andrew Carnegie)、ロスチャイルド(Rothschild)といった資産家がこぞって大学に多額の寄附ををすることに現れます。大学は財団をつくり、大学経営の財源とするのです。このように大学経営には資産家からの寄附が欠かせません。そのために理事会(Board of Regents)は資産家や銀行家などで組織し、学長(president)選びなどで巨大な権限を有するようになりました。現職の教職員は理事にはなれません。アメリカの大学で一番偉いのは学長ではなく理事会なのです。これがアメリカの大学のガバナンスです。

ユダヤ人と私  その25 アメリカのインターネットと金融界とユダヤ系人

ンターネット関連の業界をみると、オラクル(Oracle)の創始者ラリー・エリソン(Larry Ellison) 、フィイスブック(Facebook)の創始者マーク・サッカーバーガー(Mark Zuckerberg)、デル(Dell)のマイケル・デル(Michael Dell)、グーグル(Google)のラリー・ペイジ(Larry Page)など蒼々たる人材がユダヤ系です。恐らくこうした起業家は多くの投資をユダヤ人から受けたのではないでしょうか。例えば投機家であり投資家であるジョージ・ソロス(George Soros)。彼もユダヤ系アメリカ人です。世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の創始者はマーカス・ゴールドマン(Markas Goldman)。彼もユダヤ系です。

リーマンブラザーズ(Lehman Brothers)の創業者は、ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emmanuel)、マイヤー(Myer)のリーマン兄弟(Lehman Brothers)です。1850年に創立されアメリカで第4位の規模を持つ巨大証券会社でした。2008年9月に破産し、その影響は「リーマンクラッシュ(Lehman Crash)」と呼ばれました。 財閥のロスチャイルド家(Rothschild)もアシュケナジムです。

しかし、ユダヤ系の人々が世界の金融や資本を支配しているというのは言い過ぎです。世界経済のほんの一握りの影響です。なぜかユダヤ人の活躍が話題となりがちですが、それはたまたま彼らの家庭環境や受けてきた教育、所属していたコミュニティの影響が大きいと思われます。金融界どの人物にも共通するのが、超一流の大学で高等教育を受けてきたことです。そして全員上昇志向であるのは頷けます。「成功の半分は忍耐だ」というユダヤ人の格言もあります。

現在のニューヨーク・タイムズ(New York Times)の社主はアーサー・サルツバーガー(Arthur Sulzberger Jr.)でユダヤ系です。この新聞の伝統はリベラルな論調で知られています。多くのユダヤ人はこの新聞を読んでいます。議論好きだからだでしょうか。