心に残る一冊 その49 「風土–人間学的考察」

私の小さな本棚に岩波書店からでた「風土–人間学的考察」があります。昭和45年の第37版というものです。いかに世間で読まれてきた本かがわかります。著者は和辻哲郎。題名が示すように、人を取り巻くさまざまな現象の中に自然科学の対象ではない「風土」という概念を持ち込んで、人を風土における「関係」という視点で考察するのがこの本の中心テーマのようです。一般に風土の現象といいますと、人は単に風土に規定されるのみでなく、人は風土に働きかけてそれを変化させると考えられています。

和辻は、風土に関連して子どもと保護者の関係をかなり難解に説いています。ここでは私なりに「人を子どもとし、保護者や家族を風土として置き換えて」考えることにします。子どもは保護者によって完全に規定される存在ではありません。子どもには天賦の才能が備わっています。モンテッソーリ(Maria Montessori)はそれを秩序感と言っています。子どもの才能については様々に言われるのですが、この才能は保護者という風土が育み伸ばすものと考えられます。

子どは保護者の庇護にあり、保護者を変えたりすることができません。ですが、本来の生きることへの志向性があります。それをどのようの伸ばすかは、保護者や家族という風土にあるのではないかと考えられます。ここでの風土とは、時間を経て形成された暗黙のうちに他の時代にも受け入れられる普遍的なものです。

和辻は子どもと保護者という関係から論を進めて、次のように人間、男と女の存在をとらえます。
「人間の第一の規定は個人にして社会であること、すなわち「間柄」における人である。人の「間」とは、アリストテレス(Aristoteles)も指摘したように、男と女との「間」である。男といい女という区別は、すでにこの「間」において把握せられている。すなわち「間」における一つの役目が男であり、他の役目が女である。この役目を持ち得ない「人」はいまだ男にも女にも成っていないのであり、男にも女にも成っていないものをいくら結合させてもそこに「男女の間」は成立しない。」

子どもを育てることは、男女のそれぞれに役目によってなされるのであり、そのことによって、子どももまた個人にして社会であるという「間柄」における存在として大人になるというのです。子どもをどのように育てるかは、もはや一家族のしつけや教育の方針に規定されるのではないというのが和辻の主張であります。

心に残る一冊 その48 「方法序説」 Discourse on the Method

フランスの思想家は日本人に知られ、思想界に広く影響を与えてきたように思えます。その代表といえばジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)、ヴォルテール(Voltaire)、シャルル・モンテスキュー(Charles Montesquieu)などの啓蒙主義を代表する人物です。さらにミッシェル・フーコ(Michel Foucault) 、オーギュスト・コント(Auguste Comte)など多彩な思想家を生んだのがフランスです。

どうしてこうした思想家が輩出したのでしょうか。それはフランスの教育制度にあるような気がします。フランスの学校は基礎知識を徹底的に教え込むのです。そして考える力や文章力をつけるということを指摘したのは「遙かなノートルダム」の作者森有正氏です。「方法序説」の原題はフランス語ですが、英語では「Discourse on the Method」とあります。「方法に関する講話」とでも訳しておきましょう。

デカルト(Rene Descartes)は少しでも疑わしいものは一応真理でないとして退け、まったく白紙から始めようと提案します。これは私にとって非常に興味をかきたてられる言葉です。彼はさらに言います。「違う文化を見るべし」とか「常識を無条件に受け入れるな」と。ところが、どうしても疑えない真理として彼に残ったのは、自分が疑っているという事実であり、疑うところの「わたし」の存在でありました。こうしてデカルトは「わたしは考える。だからわたしは存在する」ということを哲学の第一原理として宣言します。ここにデカルトの偉大な貢献があります。

「方法序説」は、デカルトの哲学を概略的に理解できる格好の書物です。彼の思想的な発展のあとをたどることができ、その考え方は現在にもに通じ応用することができるという意味で、この本の価値は大といえます。そのことを少しだけ解説してみましょう。

デカルトは自分自身の論理は、次の4つに集約されると主張します。
1) 真実だと明白に認識しない限り、真実とは受け取らない。
2) 問題は常に小部分に分解して解決する。
3) 単純なものから、複雑なものに順を追って解決する。
4) 思考に落ち度がないかどうか、確証を得る。

「われわれは嬰児として理性をよく使えないうちから、感覚するものについて真偽さまざまに判断をくだしているし、そうして出来てしまった多くの考えが、いま真理を知るさまたげとなっている。そういう考えからまぬがれるためには、いつか一度、少しでもたしかでないと思われるものは、みんな疑ってみるよりほかに仕方がないように思われる。」

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心に残る一冊 その47  「Transcendentalism」とエマソン

前回、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)の自然の中での簡素な生活の可能性を描いたことを綴りました。私の関心は、なぜ「自然からの崇高な啓示」を受けたのかであります。ソーロは奴隷制に反対し、「支配しない政府が最上の政府である」といった市民としての主権を主張もします。こうした思想の背景には、ハーヴァード大学で学んだこと、学校の教師についた経験があることなどが考えられます。ハーヴァード大学(Harvard University) はもともとは聖職者や指導者を養成する機関でありました。マサチューセッツ州の学校では体罰も容認されていました。こうした教育界の伝統にソーロは疑問を持ちます。

当時、マサチューセッツで文筆をふるっていたのがエマソン(Ralph Emerson) です。ハーヴァード大学の神学部を卒業し、やがてボストンにあったユニテリアン教会(Unitarian church)の副牧師となります。同時に州議会で儀式を執り行うチャプレン(chaplain)ともなります。エマソン父親もユニテリアン派の教職者でした。しかし、エマソンは次第に教会の組織や伝統、しきたりに懐疑的となり、もっと自由な立場で考え行動しようとして聖職を辞任するのです。ユニテリアンの信条は、「個人の思想信仰は権威への服従からではなく追求の結果から生じる」という宗教と哲学の折衷でまとまっています。

エマソンは同士とともに、1836年9月に「超越主義」を標榜する”Transcendental Club”という同好会を結成します。超越主義とは「先験主義」ともいわれ、人々を駆り立てるものは「思慮深い静寂」といった超越の体験(transcendentalism)であるという、ある種神秘的な考え方です。

私たちは、生命を受け継ぎながら、部分や単位に分断された状態で生きている。その一方で、人間の内には、全体としての魂、普遍の美が存在し、どの部分どの単位も一様にそこに繋がって、永遠なる一つを成している。

こうしたニューイングランドを中心に起った理想主義運動は、神を人格的存在とは認めず啓示を否定する理神論,信仰による義認や予定説であるカルビニズム(Calvinism)などに反対します。カルビニズムはフランスの神学者であったJean Calvinの信仰思想のことです。そして認識や知識、真理の性質とかその起源、さらには人が理解できる限界などについて考察する認識論においては直観を重んじます。倫理的には人道主義や個人主義の立場に立ち,宗教的にはユニテリアン派に属する考え方といわれます。どこか汎神論的傾向が感じられます。

心に残る一冊 その46 「ワルデンー森の生活」

ボストン(Boston)から車で北西20キロのところ。独立戦争の口火を切った古戦場の一つ、レキシントン・コンコード(Lexington-Concord)があります。舞台は1775年頃です。このあたりは広大な森が広がり、そのあちこちに湿地や池などが点在します。ニューイングランド(New England)と呼ばれます。1845年、ヘンリー・ソーロ(Henry D. Thoreau)は、教育手段として使われていた笞打ちに反対し教師を辞任し、ここにあるワルデン池 (Walden Pond)のそばに簡素な家を建て、森の中でひとり2年余りの自給自足の生活を始めます。ソーロはアメリカの随筆家です。

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Henry D. Thoreau

1854年に出版されたソーロの「ワルデンー森の生活 (Walden, Life in the Woods)」は、ニューイングランドでの生活の記録です。自然のなかにその身を置いて、自然とともに生きることの意味を語っています。大事だと思われることは、ソーロにとって自然とはワルデン池と周りに広がる森という自然だけではないことです。自分自身が文明化され機械化されつつあるアメリカにあって、より自然体でいきることの意義を探すのです。自然体とは、生活に必要な最低限のものを自力で手に入れて生きることを意味します。ソーロは人間はそれができるのだと訴えます。

「素晴らしい絵を描き、彫像を刻むこと、こうした創造の能力は良いものです。けれど、人が生きて、描き、練り、暮らしを良くする芸術ほど、輝かしい芸術はないでしょう。日々の暮らしの質を高めることこそ最高の芸術ではありませんか。」

文明化した人の人生の目的が、未開の人のそれと比べ、格段の価値があるとはいえないとソーロはいいます。暮らしに必要な物と心地よさを追い求めることで十分だ、というのです。適量の豊かさで良いのではないか、、、このような暮らしをしていて、なぜ人頭税などを払う必要があるのか、とも訴え逮捕されたりします。

ソーロと同じ時期に執筆活動で活躍したアメリカを代表するといわれる文筆家で思想家が、エマソン(Ralph W. Emerson)です。彼もソーロと同じくハーヴァードを卒業し、一時牧師となります。教職を辞してからはコンコードに住むのです。「地としての世界の中に自分の理性に見えるとおりの意味を正直に読み取ろうという自己信頼の思想」を強調します。

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心に残る一冊 その45 「エミール」

架空の「エミール(Emile)」という金持ちの孤児で健康な少年を著者のルソー(Jean-Jacques Rousseau)が育てていくという設定で書かれています。誕生から年令にそって、子どもに何をどう教えるべきか、そして一人前の人間としてどのように育てるかという教育論が語られます。

ルソーはエミールをして、人間は生まれつき善良であることを知り、そのことによって自分自身によって隣人を判断できるのが大事だと説きます。社会がどのように人間を堕落させていくのか、人々の偏見のうちに社会のあらゆる不徳の源がなんであるか、個人の一人ひとりが尊敬を払うことの大切さも説きます。当時の教会を中心とする価値観や伝統などの慣習から解放され、個人の自由を理想とするとことを訴えます。

「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由な者にしたのだ。神は人間にいろいろな能力をあたえ、それを正しくもちいることによってその選択ができるような状態に人間をおいている。」

「学問の研究にふさわしい時期があるのと同様に、世間のしきたりを十分によく理解するのに適当な時期がある。あまりに若い時にそういうしきたりを学ぶ者は、一生のあいだそれに従っていても、選択することもなく、反省することもなく、自信はもっていても、自分がしていることを十分に知ることもない。しかし、それを学び、さらにその理由を知る者は、もっと豊かな見識をもって、それゆえにまた、もっと適切で優美なやり方でそれに従うことになる。」

伝統やしきたりで縛られる不幸な社会に生まれる子どもを、いかに「自然人」として育てあげるか。ルソーは「人間はもともと自由なものとして生まれた」というテーゼから論じています。

ルソーは、「自然による教育、人間による教育、事物による教育」という三つの柱を示しています。自然による教育とは、これは子どもの成長のことです。人間による教育は教師や大人による教育です。事物による教育は外界に関する経験から学ぶということだと主張します。

心に残る一冊 その44 「シートン動物記」–狼王ロボ

イギリス人作家アーネスト・シートン(Ernest T. Seton)の作品はいろいろと読みました。子どもにも大人も動物の不思議な習性や行動、そして家族の絆や群れのつながりを教えてくれる作品です。シートンは長くカナダやアメリカで生活し、アメリカ・インディアンの生活を理想とし、今でいうエコロジー(ecology)と自然主義を基調として著作活動をした作家として知られています。

日本で一般に知られた標題は「狼王ロボ(Lobo, the King of Currumpaw)」。合衆国西南部、ニューメキシコ州北部が舞台です。カランポー(Currumpaw)と呼ばれる地帯です。多くの馬、牛、ヒツジなどが放牧される丘と小川が広がります。そこに一匹の灰色オオカミ「ロボ」がいます。ロボは並み外れた知恵と力を持ち、一族の集団を統率します。その群れは毎日のように牧場を襲い、牛やヒツジを殺します。土地の人びとは、ロボに畏敬の念すら込めて「カランポーの王者、ロボ」と呼びます。

ロボには高額の賞金がかけられ、オオカミ狩りの経験を持つシートンにも捕獲の白羽の矢が立ちます。しかしロボは悪魔のような賢さで、仲間をしとめようとする人間たちの挑戦を退けます。あらゆる術策は尽きたかに見えたとき、シートンはロボとつがいであるブランカ(Blanka)に目を付けます。そして捕えて殺すことに成功します。彼女を失ったロボは狂いブランカの血の臭いにおびき寄せられてシートンの罠にはまってしまいます。

本作のモチーフは、アメリカの大平原で展開されたオオカミと人々の暮らしです。シートンは言うのです。「もともとアメリカでは、先住民のアメリカ・インディアンはオオカミを敬っていた。白人とオオカミとの間に接点はなかった。だが白人が野牛が皆殺しにしたため、オオカミは牧牛を襲うようになり、それに伴いオオカミ狩りが始まったのだ。」

心に残る一冊 その43 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」

ドイツの社会学者テンニェス(Ferdinand Tönnies),が使ったゲマインシャフト(Gemeinschaft)とゲゼルシャフト(Gesellschaft)は、人間の社会関係を分析する概念として今も広く知れわたっています。ドイツ語辞書によりますと、「Gemein」とは市井の人、常民、庶民など、「Geselle」とは相棒、仲間、職人など,「schaft」は名詞・形容詞の語尾について、性質や状態が集まったものをあらわします。例えば、友達Freund にschaftが付くとFreundschaft で友情というわけです。ゲマインシャフトとは共同体組織、ゲゼルシャフトとは利益社会とか機能分化社会のことといわれます。

テンニェスによれば、人間の意志はさまざまな関係を営むとします。そこには肯定的な関係や否定的な関係があるのですが、大事なことは相互的な肯定の関係によって形づくられる集団である提起します。こうした集団はゲマインシャフトとゲゼルシャフトに区別されていきます。

まずゲマインシャフトとは、人間の根源的あるいは、自然的な状態としての人間の意思の完全な統一体であるとします。その例は、地縁、血縁、友情、家族、村落などです。こうした「共同体」は自然発生するというのです。町内会とか郷友会、自治会といった身近で緩やかな組織です。

これに対してゲゼルシャフトとは、平和的な仕方でたがいに生活していながら、本質的に結合しないで、利害関係に基づいて人為的に作られた利益社会を指します。近代社会の特徴はこのゲゼルシャフトの形成と発展にあるといわれます。その例は、大都市、国家、および世界という3つに代表されます。企業、同盟、連合体もそうです。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの分化は、人間関係に及ぼした影響です。関係が疎遠になり「疎外」ということが懸念されました。今ほど地域住民の相互性が強調される時代はありません。地域コミュニティの再形成を示唆したのがテンニェスの功績といえましょう。

心に残る一冊 その42  Intermission  感謝祭とPlimoth Plantation

今日で感謝祭の休暇が終わると、キリスト教会暦の典礼である待降節 (アドベント: advent)がやってきます。クリスマスのシーズンのことです。バッハ(Johann Sebastian Bach)のクリスマスオラトリオ(Christmas Oratorio)やキャロル(Christmas Carol )が聴かれる頃です。「12 Days of Christmas」もいいですね。こうした音楽を聴きながら、1600年代にイングランドやオランダなどからはるばる新大陸にやってきた人々ことを考えます。信仰が長い航海を支えていたとはいえ、さぞかし苦しい旅だったろうと察します。

ボストンから東南に車で一時間のところにメイフラワー号(Mayflower)が大西洋を渡って到着したプリマス(Plymouth)という港町があります。ここにメイフラワー号のレプリカが停泊しています。1620年9月にイングランドの南にあるPlymouthという港町から出航し66日をかけてこの地に到着し、その名がついたようです。そうした人々は巡礼者(Pilgrims)と呼ばれました。102名の乗船者中、最初の冬を越して生き残ったのは53名と半数の乗組員だったとあります。イギリス国教会からの信仰の自由を求めた人々です。1629年には清教徒(Puritans)がプリマスの北にあるセーレム(Salem)にも到着します。どちらもプロテスタントの人々です。

メイフラワー号に乗ってやって人々が作成した誓約書(Mayflower Compact)が残っています。後のアメリカ憲法の下敷きになったものです。この誓約は「アメリカ最初の憲法」という歴史家もいます。誓約書によって人々の暮らしや農場の秩序を保ったのです。

プリマスの郊外にある「Plimoth Plantation」のことです。1624年にイングランドからやってきた人々がこの居住地を開拓したという記録があります。今でいうコロニーです。ここには、住居、鍛冶屋、パン屋、洋服屋、学校、集会所、家畜小屋、倉庫、貯蔵庫、チャペル、そして牢屋もあります。当時は300人くらいが住んでいたようです。農場の柵の外で小麦や大豆、コーンなどを作りました。こうして共同体の生活が営まれました。ここは現在、入植当時の生活を再現した野外博物館となっています。プリマスは「アメリカの故郷」と呼ばれ、歴史的遺産を数多く残す観光地となっています。なぜか”Plimoth”と”Plymouth”は使い分けられています。

心に残る一冊 その41  Intermission  感謝祭と勤労感謝の日

今、アメリカ国民は感謝祭(Thanksgiving) の休暇を楽しんでいます。昨日、家族と友達に電話して祝いの言葉を伝えました。そして、”I miss you all!”と叫びたくなりました。

11月23日勤労感謝の日はかつては新嘗祭とも呼ばれました。五穀の収穫を祝う風習は古から今でも地方では続いています。神事が中心でしたが1947年から国民の祝日となりました。

ついでですがカナダの感謝祭は10月の第2月曜日です。土曜日から月曜日の3連休となります。国によって期日は違いますが、年の収穫に感謝を込め喜びを表し、翌年の豊穣を祈るのはいずこも変わることのない習慣です。

収穫の品を前にして、働きによって自然から受けた恵みに感謝するのがThanksgivingです。感謝祭の由来は、家庭や学校で子どもたちに言い伝えられています。

「空の鳥を見なさい種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」(マタイによる福音書 6:26)

心に残る一冊 その40  Intermission  初めての感謝祭

1978年11月26日、高速道路のInterstate-IS-94は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってマディソン(Madison)からミルウオーキ(Milwaukee)にお住まいのハス元宣教師宅(Rev. LeRoy Hass)に着きました。感謝祭(Thanksgiving) の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

ハス師は、日本での伝道に20年あまり従事していたので日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ言葉の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス師の言葉に聞き入りました。そして食事が始まりました。

エプロンをしたハス師自らが七面鳥(Roast turkey)の丸焼きにナイフをいれて、細かくします。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィング(stuffing)という乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース(gravy sauce)。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソース(cranberry sauce)です。さらにサイドディッシュとして、グリーンビーン(green beans)、スクオッシュ(squash)が並びます。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれも奥様ルースさん手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから40年が経ちます。ご夫妻は既に召されています。

Hass師の娘のDebbie Madiganさん(右)と友人

心に残る一冊 その39 「若きウェルテルの悩み」

5月4日に始まり、9月10日におわるこの小説の第一部は、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の処女作で、自身がその当時、友人と妹コルネリア(Corneria)にあてて書いた手紙をもとに構成されています。物語られることは、ほんどすべてウェルテル(Werthers) の恋人ロッテ(Charlotte Buff)への愛を中心としています。ウェルテルはそのままゲーテの青春のようなのです。ドイツ語の原題は「Die Leiden des jungen Werthers」となっています。Werthersの発音はドイツ語読みではウェルタ−、 Charlotteの愛称はロッテとなっています。

前半では、ウェルテルが自殺にまで追い込まれるような悲観的な雰囲気がでていないばかりか、むしろ健康的であるということを印象でけています。しかし、不安に絶えきれなくなったウェルテルはロッテの魅力から逃走します。

「ああ、わきたつ血が血管のすべてをかけめぐる、ふとぼくの指が彼女の指にふれ、ぼくたちの足がテーブルの下で出会ったりするときに。火にふれたようにそれをひっこめる。あらゆる感覚が迫ってきてくらくらっとする。」

「承知しました。愛するロッテ。万事取りはからいます。どうかたくさんご用を言いつけてください。どうかなんどでも。一つお願いがあります。ぼくに書いてくださる便箋に、どうか吸い取りの砂をまかないでください。きょう、それをいただいて、いそいでくちびるにもっていきました。おかげで歯がじゃりじゃりになりました。」

第二部は10月20日から12月6日の日記となります。舞台の季節は春から秋に移ります。明るい自然は陰うつな雰囲気にかわります。身辺におこるさまざまな不愉快な事件のために、すっかり憂うつになったウェルテルは、世間的な希望を失い、はてはロッテに対する恋にもまったく希望を持てなくなります。そして自殺の道を選びます。

「人間を幸福にするものが、また人間の不幸のもとになるということは、避けがたいことだったのか?」

著者ゲーテはウェルテルこのように言わしめます。このゲーテの作品は、お涙頂戴の物語ではありません。「恋愛、芸術、思想などどんあ分野であれ、絶対的名ものに人が執着するときの避けられない宿命的な結末が主題である」とブリタニカは記述しています。

日本でゲーテの名を知らしめたのが1913年に森鴎外が「ギョエテ伝」を出版したことだといわれます。それ以来、若者の間で「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」といった駄洒落も流行しました。ゲーテの作品中、日本で最も多く重ねて翻訳されたのがこの「若きウェルテルの悩み」とわれます。

心に残る一冊 その38 「クォ・ヴァディス(Quo Vadis?)」

ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(Henryk Sienkiewicz) の作品です。私が学生のときに手にした小説です。「クォ・ヴァディス(Quo Vadis Domine)」というのはラテン語だそうです。その意味は、「あなたは一体どこへ行こうとしているのですが?」 Quoはどこへ、Vadisは行く、Domineは主人という意味です。

この小説のモチーフはヨハネによる福音書(Gospel according to John) 16章5節 や使徒行伝(Acts)にあるキリストと使徒ペテロとの対話です。ペテロ(Peter)はキリストの逮捕、磔という受難を知らず、「先生、どこへ行かれるのですか?(Quo Vadis, Domine?)」と尋ねます。キリストは言います。「ローマで伝道してくるが、やがて捕らえられるだろう、、」

時代はローマ帝国、ネロ・クローディアス(Emperor Nero Claudias)の治世です。本書はネロ帝治下のローマを舞台です。若いキリスト教徒の娘リギア(Lygia)と、ローマ人マルクス・ウィニキウス(Marcus Vinicius)の間の恋愛をいきいきと描きます。リギアはスラブ系の出身。そんな家系のリギアにローマ軍の大隊長であるマルクスは恋に落ちます。マルクスは彼女がキリスト教徒であることを知りません。当時、キリスト教は禁教ですから、二人の恋の成就は困難かにみえました。しかし、二人の絆は深まります。「リジアのためにその神を信じます」とマルクスは誓います。

ネロによるキリスト教徒の迫害が始まります。ローマで大火が起こりますが、それをキリスト教徒の仕業であるとネロは宣言します。実はローマに放火したのはネロの命令だったのです。やがて二人は逮捕されて闘技場コロセオ(Colosseo)に連れられます。キリスト教徒がライオンの餌食になり、また火あぶりになる様子をリギアやマルクスは見守ります。

コロセオでは奇蹟が起きます。マルクスは群衆に叫びます。「ネロがローマを焼き、多くの人々を殺した。圧制は終わりだ。」 ローマ市民が呼応してネロの圧政に立ち上がります。

心に残る一冊 その37 「主体性:青年と危機」

自分の75歳の過去で一度読み終わり、再度読みたくなる本をランダムに採り上げています。この拙稿のシリーズを始めてから、埃のかかった古本を手にし、かつてメモした筆跡に触れています。

「青年と危機」という本の原題名は「Identity: Youth and Crisis」。その名のとおり、青年が葛藤し追求する主体性とは何かを方向づけてくれる本です。青年期とは、「自分とは一体何なのか」「充実した生活をどうしたらできるか」「どんな職業が自分に向いているのか」といった問いかけをしながら、自分自身を形成していく時期です。著者エリック・エリクソン(Erik Erikson)によれば、「これこそが本当の自分だ」といった印象を実感すること、主体性あるいは自己同一性と呼びます。個人独自の存在であることの証明、それがアイデンティティだというのです。

エリクソンの研究の方法は以下の引用に示されます。
「アイデンティティを論ずる際に、個人的な成長と共同体的な変化とを切り離すことはできない。個人の人生におけるアイデンティティの危機と歴史的な発達における現代との危機とも切り離すこともできない。なぜなら両者は相まって、互いに他を定義し合い、真に相互関連的だからである。

人格心理学や社会心理学には、アイデンティティ、またはアイデンティティの形成という概念としばし同一のものとみなされているいくつかの用語がある。たとえば、一方では自我意識、自画像、自画評価などであり、他方では役割多義性、役割葛藤、役割喪失などと呼ばれている用語である。しかし、そのような用語を使って研究領域をカバーしようとする方法は、人間がどこからどこへ向かって発達するのかを解明しようとする人間発達の理論をいまだに欠如している。」

著者エリクソンは、伝統的な精神分析学的な方法もまたアイデンティティを十分に把握することができないと主張します。どうしてかというと、精神分析学は環境というものを概念化する用語を作り出せなかったからだというのです。心理社会的発達の視点が欠けているからです。

心に残る一冊 その36 「告白教会と世界教会」 告白教会とは

この著作「告白教会と世界教会」はドイツ福音ルーテル派の神学者、ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)によります。ブリタニカ国際大百科事典から引用しながら、「告白教会」の特徴を考えることにします。あまり聞き慣れない教会名のようですが、カトリック教会とかプロテスタント教会というような包括的な名称であると前置きしておきます。

告白教会(Confessing Church)、(Bekennende Kirche)というのは、1933年に政権の座について国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に反対するドイツの福音主義教会に属する牧師、信徒たちがモーセ(Moses)の十戒の第一戒を旗印として結成した組織といわれます。第一戒とは「わたしのほかに神があってはならない」というものです。教会をナチズムのプロパガンダの手段としようとしたヒトラーに抵抗して,ドイツのプロテスタント諸教会内に生れた信仰覚醒運動ともいわれます。

最初、ワイマール共和国(Weimarer Republic)はわずか14年間に21もの内閣が生まれては崩壊するという有様で、諸教会は共和国への反感などからヒトラーに好意的であったといわれます。ナチス支持のドイツ・キリスト者は、1933年結成のルター派(Lutheran Church),改革派(Reformed Church),合同領邦教会(Landes kirche)の連合体であるドイツ福音教会を牛耳り,聖書と宗教改革の信仰告白を脅かします。

これに反対するマーチン・ニーメラー(Martin Niemoller)らの青年改革運動が形成されます。同年 11月緊急牧師連盟を組織してドイツ・キリスト者に対抗し、1934年5月にルール地方のバルメン(Barmen)におけるバルメン会議(Synod of Barmen)の宣言となって積極的にナチズムと対決していきます。この会議は告白大会(Synod of Confession)とも呼ばれています。

こうしてドイツのプロテスタント諸教会は,国家統制下の教会と告白教会に二分されます。 1936年ルター派領邦諸教会は別個の評議会を組織します。改革派,合同派は告白教会内でユダヤ人迫害とか安楽死に積極的に抵抗していきます。しかし結局は地下活動に追いやられ,第2次世界大戦中は,逮捕,徴兵などで組織は大打撃を受けるのです。戦後はドイツ福音教会が再編されるとともに評議会は解散します。

心に残る一冊 その35  「白薔薇は散らず」

162頁のこの本の原題は「Die Weisse Rose」。翻訳の出版社は白水社で定価が150円とあります。第二次大戦下のドイツで国家社会主義政権への抵抗運動を始め、やがて処刑されたハンス・ショル(Hans Scholl)と妹ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の記録です。ヒトラーが政権をとった時、ハンスは15歳、ゾフィーは12歳。そして二人はヒトラー青年団(Hitler Youth)に加入します。この青年団はナチスによる学校放課後における地域の青少年を教化する組織です。第二次世界大戦が始まると、ハンスも戦争に狩り出され、ロシア戦線にも出征します。

ハンスやがて、ドイツ人でユダヤ系の詩人であるハイネ(Heinrich Heine)の詩を禁じられたことなど、ナチスの理念と行動に疑念を抱くようになります。ミュンヘン大学医学部の学生になったハンスは、友人や哲学教授のクルト・フーバー(Kurt Huber)を相談役として、「個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利を」主張していきます。そして反戦運動のメンバーとして会議に参加することとなります。地下での抵抗と反戦を「白薔薇通信」というチラシで密かに訴えます。この運動は、政治的な結社でも武装闘争でもありませんでした。

白薔薇通信には次のような文章で始まります。
「何よりも文化民族にとって相応しからぬ事は、抵抗することもなく、無責任にして盲目的な衝動に駆り立てられた専制の徒に「統治」を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人は皆自らの政府を恥じているのではないか?」

白薔薇通信の最後のビラの一説です。
「言論の自由、信教の自由、そして犯罪者的暴力国家から市民を擁護すること、これが新しきヨーロッパの基礎である。諸君、抵抗運動を支持せよ。このビラを配布されよ!」

「愕然としてわが民族はスターリングラードの人的消耗を眺めている。33万人のドイツ男子は第一次大戦伍長の天才的戦略によって無意味かつ無責任に、死と破滅に駆り立てられた。(略) 我が民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。」

心に残る一冊 その34 「告白教会と世界教会」

今年は宗教改革(Protestant Reformation)500年の記念すべき年です。世界各地で共同の記念行事が開催されました。1517年10月31日にマルチン・ルター(Martin Luther)はローマのカトリック教会に抗議してヴィッテンベルク(Wittenberg)の城内に95ヶ条の提題を掲げたといわれます。これが、一般に宗教改革の始まりとされます。ルターはカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書とされる免罪符 (Indulgence)をはじめ、独断的な教義に疑義を提起したのです。

今回は「告白教会と世界教会」 という本です。著者はドイツ福音ルーテル派の牧師で神学者であるディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)です。本書は、ドイツの福音ルーテル教会がナチズムにおもね、独裁的教会統治に成り下がってしまったこと、それに反対して「告白教会と世界教会」という福音に根ざした統治を叫びます。これは教会闘争といわれます。

1939年にヒトラーの軍隊はポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。それに先立ち、ボンヘッファーはラジオ放送でナチスの「指導者原理」を痛烈に批判するのですが、放送は中断されます。ボンヘッファーは若くして、ガンジー(Mohandas Gandhi)から影響を受け、非暴力の抵抗を理想と考えます。しかし、ナチズムという限界状況にあってヒトラー暗殺計画に加わります。殺人は悪であり、神の審きの対象であることを容認しながら、彼は違法な手段を選択します。「隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が今の時代には必要である」とボンヘッファーは考えます。

「我々は国家社会主義者か、それともキリスト者か、という決断を迫られている。恐ろしいことであるが、それが明らかにされねばならない。今や、全き真理と誠実さによってのみ決断への助けが与えられる。」

「ドイツ教会闘争は、教会が真実に教会であるための戦いとして、世界教会の運動の課題に関わるのである。そような課題をドイツにおいて担う教会こと告白教会であり、ここでの告白教会は、ドイツ・キリスト者(独裁的教会統治)の教会と決定的にたもとを分かつのである。」

心に残る一冊 その33 「沈黙」と遠藤周作

狐狸庵先生と称された遠藤周作の作品です。必ずしも正統とはいい難いキリスト教思想の持ち主といわれていました。同時に日本のキリスト教界を代表する文学者ともいわれています。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しました。キリスト教の神学者の間でしばしば賛否両論含めた論評の対象になりました。私は素人なのでその根拠はわかりません。言えることはそれだけインパクトのある作品を書いたということでしょう。

「沈黙」のことです。舞台は江戸時代のキリスト教が厳しく禁止されていたころです。そうした中で潜入したロドリゴ神父は、多くの信徒が迫害され殉教していくの目の当たりにします。「神はなぜ応答しないのか、この不可解な沈黙のなかで神を信じる行為とはなにか」。これが「沈黙」のテーマです。

ロドリゴは、長崎奉行所によって捕らえられ、踏み絵を強いられて棄教を迫られます。「このような状況を前に、神はなぜ沈黙されているのか」という大きな疑問を抱き続けます。そしてさらに恐ろしい懐疑がわき上がってきます。「もしかしたら神は存在しないのではないか。」

その間次々と信徒は殉教していきます。殉教という神を信じる行為も神の存在を証明する行為だろうが、それなら殉教という行為が怖くてできない「弱い臆病者」の自分を神は見捨てるのか、自分には救いはないのか、自分は神の存在を信じることができないのか、という問いにロドリゴは苦悩するのです。

踏み絵のキリストが「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声が聞こえてきます。踏みつけた踏み絵を前にして信仰を棄てた自分がそこに立っています。しかし遠藤は、ロドリゴに対して「あなたはイエスの愛を捉え直すことになったのだ。神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのであり、その神の苦しみを感じたあなたという人がいる」というのです。殉教者の叫びに苦悶したロドリゴ自体が神の存在を語っているというのが「沈黙」の中心テーマです。

心に残る一冊 その32 「深い川」と遠藤周作

日本人の大半は汎神論者であるといわれます。仏教も神道も儒教もキリスト教もすべて受け入れる寛容さがあります。別な視点からすれば「節操のなさ」とか「いい加減さ」があります。特定の宗教に深くは帰依せず、にもかかわらず全てを受け入れるのです。日常は「仏」や「神」や「愛」など深くは考えずに暮らしています。それを美徳とするのです。他方、キリスト教やイスラム教は唯一神であり、他の宗教と友誼の関係を持っても教理においては妥協しないという特徴があります。

遠藤周作のことです。かれはカトリック教徒といわれます。ですが彼の作品を手にすると登場する主人公には、誰もを「そうだ、そうだ」と納得させるような「仏」や「神」や「愛」についての説明があるような気がします。この「深い川」という作品も、ガンジス川の持つすべてを包み込む母のような偉大さをみる遠藤の感性を表しています。この作品は1993年に書き下ろされたものです。「深い川」とは黒人霊歌で出てくるヨルダン川(River Jordan)ではなくガンジス川(Ganges)です。この川とはキリスト教と仏教の考え方を隔てるものと考えられているようです。

主人公磯辺はごく普通の父権的な家庭人であり夫でありました。しかし妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言って亡くなるのです。そこであるインドツアーに参加することにします。ボランティアで妻の死ぬ間際まで介護したのが美津子です。彼女はかつてキリスト教系の大学を卒業しています。学生時代には複数の男性の心を弄びます。その中に神父を志す男子学生の大津がいました。

美津子もまた、旧友との同窓会で大津がガンジス川の近くにある修道院にいるという噂を聞き、大津の持つ自分にない何かを知りにインドツアーに参加します。ガンジス川の水は全てのものを浄化するため、この世の苦しみから解き放たれ、解脱できると考えられています。遺体を燃やして灰にし、ガンジス川に流すことは、ヒンドゥー教徒(Hindu)にとって最大の願いといわれています。大津は、インド中から集まってくる貧しいために葬ってもらえなかった人たちの死体を運び、火葬してガンジスに流す仕事をしています。やがてある日、懐かしい美津子と出会うのです。

心に残る一冊 その31 「秘太刀馬の骨」

藤沢周平の作品をいろいろと読んでいますが、この稿のあとは11月15日までしばらくお休みをいただきます。

  藤沢の小説にでてくる舞台の多くは、山形の海坂藩という架空の外様藩です。小さな藩のゆえに跡継ぎを巡る藩内のお家騒動に焦点があてられます。いろいろな策略や陰謀が巡らされるのですが、それに巻き込まれる若い剣士が登場します。我が身の保身に躍起する派閥に翻弄されつつ信念に基づき折り合いをつけて生きていきます。今の日本の政党のように党内の主導権争いを反映するかのようです。

藤沢の作品には、あまり激しい申し合いや立ち回りは描かれません。ですが「秘太刀馬の骨」という時代小説は、剣の秘業を誰が継ぐのか、どのような秘太刀なのかは読者の興味をそそります。それを求めて剣士は修行するのです。それがこの「秘太刀馬の骨」です。「秘太刀馬の骨」の業とは「相手の懐にもぐりこみ、相手の剣の下をかいくぐりつつ、首の骨を両断し絶命させる剣」といわれます。

家老の小出帯刀より、浅沼半十郎と石橋銀次郎はある任をうけます。それは六年前に家老の望月を暗殺した秘太刀「馬の骨」を探すことでした。帯刀の甥である石橋銀次朗と共に、「馬の骨」を伝承された可能性のある剣士を探し回るのです。そして不伝流矢野道場の道場主と高弟5人に死を賭して立会いを挑むのです。

心に残る一冊 その30 「三屋清左衛門残日録」 早春の光

「三屋清左衛門残日録」の続きです。前髪のころからの友人、大塚平八郎が中風で倒れたのを見舞って清左衛門は家に帰ります。平八と清左と呼び合っていた仲です。
「大塚様のご病気はいかがでしたか」と嫁の里江に問われます。
「思ったより元気だった」 そう答えたとき清左衛門はどういうわけか夥しい疲労感に包まれます。平八郎の状態は暗いのですが、それを嫁に説明するのをためらうのです。

  後日、小料理屋で旧友同士の佐伯熊太と平八を話題にして、次のような会話をします。
清左衛門 「医者はたゆまず修練を積めば、中風の跡も目だたぬほどに歩けるようになろうと申したそうだ。病気そのものは軽いのだ」
熊太 「で、歩いているのか?」
清左衛門 「いやまだだ。床には起き上がっている」
熊太 「そこがあの男のふんぎりの悪いところだで」
熊太 「事にあたってはきわめて慎重、といえば聞こえはいいが、要するに臆病なのだ」
熊太 「万事おっかなびっくり、勇猛心が足らん。わしなら歩けといわれたら、あの辺りの塀につかまっても歩く」
清左衛門 「貴公のようにはいかんさ。ひとにはそれぞれの流儀がある」

老いの現実が清左衛門を疲労感で包みます。再び平八の家へ足を向けるときです。道の遠くに動く人影があるのに気づき立ち止まります。こちらに背を向けて杖をつきながらゆっくり歩いているのは平八です。平八の身体はいまにも転びそうに傾いています。

その動きを眺めて路地に引き返したとき、自分の胸が波打っているのを清左衛門は気づきます。胸が波打つのは平八の歩き始めた姿に鞭打たれた気がしたからです。