心に残る一冊 その40  Intermission  初めての感謝祭

1978年11月26日、高速道路のInterstate-IS-94は冷たい風と小雪が舞う天気でした。留学最初の晩秋です。頂戴していた地図を頼ってマディソン(Madison)からミルウオーキ(Milwaukee)にお住まいのハス元宣教師宅(Rev. LeRoy Hass)に着きました。感謝祭(Thanksgiving) の晩餐にお招きいただいたのです。この先生はドイツ系福音派の方で、代々靴屋を生業としていたそうです。私の靴を見て「新しく良さそうな靴だね」と声をかけてくれました。「これはマディソンのモールで買いました」と説明しました。

ハス師は、日本での伝道に20年あまり従事していたので日本語には全く不自由しません。私も家族もまだ言葉の壁がありましたので、くつろぐことができました。感謝祭の宴はさして豪華ではありませんが、賛美歌を歌い短い奨励という感謝祭の意義を語るハス師の言葉に聞き入りました。そして食事が始まりました。

エプロンをしたハス師自らが七面鳥(Roast turkey)の丸焼きにナイフをいれて、細かくします。肉は白い部分と灰色の部分に分けられます。白いのは鶏肉に似ています。灰色のは少し粘り気があります。皿に盛られた肉が手渡しされてそれを少しずつ自分の大皿に盛りつけます。七面鳥のお腹の中には、スタッフィング(stuffing)という乾燥させた角切りのパン、米、野菜や果物などを混ぜた詰めた中身が入っています。肉からの汁が染みて美味しいものです。

七面鳥の肉にかけるのがグレイビーソース(gravy sauce)。このソースはマッシュポテトにもかけます。そして肉に添えるのが甘酸っぱいクランベリーソース(cranberry sauce)です。さらにサイドディッシュとして、グリーンビーン(green beans)、スクオッシュ(squash)が並びます。食事が終わるとパイやケーキがデザートとしてでます。どれも奥様ルースさん手作りの品です。これにアイスクリームをのっけていただくのが習わしです。

家の中は暖房が効いてお腹もいっぱいになり心地よい気分です。テレビでは感謝祭の日の恒例行事、アメリカンフットボールが放映されています。皆感謝祭の食事をしているので、視聴率が高いのです。その夜はハス師のお宅に家族5人が泊まりました。初めてのアメリカでの感謝祭でした。もうあれから40年が経ちます。ご夫妻は既に召されています。

Hass師の娘のDebbie Madiganさん(右)と友人

心に残る一冊 その39 「若きウェルテルの悩み」

5月4日に始まり、9月10日におわるこの小説の第一部は、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の処女作で、自身がその当時、友人と妹コルネリア(Corneria)にあてて書いた手紙をもとに構成されています。物語られることは、ほんどすべてウェルテル(Werthers) の恋人ロッテ(Charlotte Buff)への愛を中心としています。ウェルテルはそのままゲーテの青春のようなのです。ドイツ語の原題は「Die Leiden des jungen Werthers」となっています。Werthersの発音はドイツ語読みではウェルタ−、 Charlotteの愛称はロッテとなっています。

前半では、ウェルテルが自殺にまで追い込まれるような悲観的な雰囲気がでていないばかりか、むしろ健康的であるということを印象でけています。しかし、不安に絶えきれなくなったウェルテルはロッテの魅力から逃走します。

「ああ、わきたつ血が血管のすべてをかけめぐる、ふとぼくの指が彼女の指にふれ、ぼくたちの足がテーブルの下で出会ったりするときに。火にふれたようにそれをひっこめる。あらゆる感覚が迫ってきてくらくらっとする。」

「承知しました。愛するロッテ。万事取りはからいます。どうかたくさんご用を言いつけてください。どうかなんどでも。一つお願いがあります。ぼくに書いてくださる便箋に、どうか吸い取りの砂をまかないでください。きょう、それをいただいて、いそいでくちびるにもっていきました。おかげで歯がじゃりじゃりになりました。」

第二部は10月20日から12月6日の日記となります。舞台の季節は春から秋に移ります。明るい自然は陰うつな雰囲気にかわります。身辺におこるさまざまな不愉快な事件のために、すっかり憂うつになったウェルテルは、世間的な希望を失い、はてはロッテに対する恋にもまったく希望を持てなくなります。そして自殺の道を選びます。

「人間を幸福にするものが、また人間の不幸のもとになるということは、避けがたいことだったのか?」

著者ゲーテはウェルテルこのように言わしめます。このゲーテの作品は、お涙頂戴の物語ではありません。「恋愛、芸術、思想などどんあ分野であれ、絶対的名ものに人が執着するときの避けられない宿命的な結末が主題である」とブリタニカは記述しています。

日本でゲーテの名を知らしめたのが1913年に森鴎外が「ギョエテ伝」を出版したことだといわれます。それ以来、若者の間で「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」といった駄洒落も流行しました。ゲーテの作品中、日本で最も多く重ねて翻訳されたのがこの「若きウェルテルの悩み」とわれます。

心に残る一冊 その38 「クォ・ヴァディス(Quo Vadis?)」

ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(Henryk Sienkiewicz) の作品です。私が学生のときに手にした小説です。「クォ・ヴァディス(Quo Vadis Domine)」というのはラテン語だそうです。その意味は、「あなたは一体どこへ行こうとしているのですが?」 Quoはどこへ、Vadisは行く、Domineは主人という意味です。

この小説のモチーフはヨハネによる福音書(Gospel according to John) 16章5節 や使徒行伝(Acts)にあるキリストと使徒ペテロとの対話です。ペテロ(Peter)はキリストの逮捕、磔という受難を知らず、「先生、どこへ行かれるのですか?(Quo Vadis, Domine?)」と尋ねます。キリストは言います。「ローマで伝道してくるが、やがて捕らえられるだろう、、」

時代はローマ帝国、ネロ・クローディアス(Emperor Nero Claudias)の治世です。本書はネロ帝治下のローマを舞台です。若いキリスト教徒の娘リギア(Lygia)と、ローマ人マルクス・ウィニキウス(Marcus Vinicius)の間の恋愛をいきいきと描きます。リギアはスラブ系の出身。そんな家系のリギアにローマ軍の大隊長であるマルクスは恋に落ちます。マルクスは彼女がキリスト教徒であることを知りません。当時、キリスト教は禁教ですから、二人の恋の成就は困難かにみえました。しかし、二人の絆は深まります。「リジアのためにその神を信じます」とマルクスは誓います。

ネロによるキリスト教徒の迫害が始まります。ローマで大火が起こりますが、それをキリスト教徒の仕業であるとネロは宣言します。実はローマに放火したのはネロの命令だったのです。やがて二人は逮捕されて闘技場コロセオ(Colosseo)に連れられます。キリスト教徒がライオンの餌食になり、また火あぶりになる様子をリギアやマルクスは見守ります。

コロセオでは奇蹟が起きます。マルクスは群衆に叫びます。「ネロがローマを焼き、多くの人々を殺した。圧制は終わりだ。」 ローマ市民が呼応してネロの圧政に立ち上がります。

心に残る一冊 その37 「主体性:青年と危機」

自分の75歳の過去で一度読み終わり、再度読みたくなる本をランダムに採り上げています。この拙稿のシリーズを始めてから、埃のかかった古本を手にし、かつてメモした筆跡に触れています。

「青年と危機」という本の原題名は「Identity: Youth and Crisis」。その名のとおり、青年が葛藤し追求する主体性とは何かを方向づけてくれる本です。青年期とは、「自分とは一体何なのか」「充実した生活をどうしたらできるか」「どんな職業が自分に向いているのか」といった問いかけをしながら、自分自身を形成していく時期です。著者エリック・エリクソン(Erik Erikson)によれば、「これこそが本当の自分だ」といった印象を実感すること、主体性あるいは自己同一性と呼びます。個人独自の存在であることの証明、それがアイデンティティだというのです。

エリクソンの研究の方法は以下の引用に示されます。
「アイデンティティを論ずる際に、個人的な成長と共同体的な変化とを切り離すことはできない。個人の人生におけるアイデンティティの危機と歴史的な発達における現代との危機とも切り離すこともできない。なぜなら両者は相まって、互いに他を定義し合い、真に相互関連的だからである。

人格心理学や社会心理学には、アイデンティティ、またはアイデンティティの形成という概念としばし同一のものとみなされているいくつかの用語がある。たとえば、一方では自我意識、自画像、自画評価などであり、他方では役割多義性、役割葛藤、役割喪失などと呼ばれている用語である。しかし、そのような用語を使って研究領域をカバーしようとする方法は、人間がどこからどこへ向かって発達するのかを解明しようとする人間発達の理論をいまだに欠如している。」

著者エリクソンは、伝統的な精神分析学的な方法もまたアイデンティティを十分に把握することができないと主張します。どうしてかというと、精神分析学は環境というものを概念化する用語を作り出せなかったからだというのです。心理社会的発達の視点が欠けているからです。

心に残る一冊 その36 「告白教会と世界教会」 告白教会とは

この著作「告白教会と世界教会」はドイツ福音ルーテル派の神学者、ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)によります。ブリタニカ国際大百科事典から引用しながら、「告白教会」の特徴を考えることにします。あまり聞き慣れない教会名のようですが、カトリック教会とかプロテスタント教会というような包括的な名称であると前置きしておきます。

告白教会(Confessing Church)、(Bekennende Kirche)というのは、1933年に政権の座について国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に反対するドイツの福音主義教会に属する牧師、信徒たちがモーセ(Moses)の十戒の第一戒を旗印として結成した組織といわれます。第一戒とは「わたしのほかに神があってはならない」というものです。教会をナチズムのプロパガンダの手段としようとしたヒトラーに抵抗して,ドイツのプロテスタント諸教会内に生れた信仰覚醒運動ともいわれます。

最初、ワイマール共和国(Weimarer Republic)はわずか14年間に21もの内閣が生まれては崩壊するという有様で、諸教会は共和国への反感などからヒトラーに好意的であったといわれます。ナチス支持のドイツ・キリスト者は、1933年結成のルター派(Lutheran Church),改革派(Reformed Church),合同領邦教会(Landes kirche)の連合体であるドイツ福音教会を牛耳り,聖書と宗教改革の信仰告白を脅かします。

これに反対するマーチン・ニーメラー(Martin Niemoller)らの青年改革運動が形成されます。同年 11月緊急牧師連盟を組織してドイツ・キリスト者に対抗し、1934年5月にルール地方のバルメン(Barmen)におけるバルメン会議(Synod of Barmen)の宣言となって積極的にナチズムと対決していきます。この会議は告白大会(Synod of Confession)とも呼ばれています。

こうしてドイツのプロテスタント諸教会は,国家統制下の教会と告白教会に二分されます。 1936年ルター派領邦諸教会は別個の評議会を組織します。改革派,合同派は告白教会内でユダヤ人迫害とか安楽死に積極的に抵抗していきます。しかし結局は地下活動に追いやられ,第2次世界大戦中は,逮捕,徴兵などで組織は大打撃を受けるのです。戦後はドイツ福音教会が再編されるとともに評議会は解散します。

心に残る一冊 その35  「白薔薇は散らず」

162頁のこの本の原題は「Die Weisse Rose」。翻訳の出版社は白水社で定価が150円とあります。第二次大戦下のドイツで国家社会主義政権への抵抗運動を始め、やがて処刑されたハンス・ショル(Hans Scholl)と妹ゾフィー・ショル(Sophie Scholl)の記録です。ヒトラーが政権をとった時、ハンスは15歳、ゾフィーは12歳。そして二人はヒトラー青年団(Hitler Youth)に加入します。この青年団はナチスによる学校放課後における地域の青少年を教化する組織です。第二次世界大戦が始まると、ハンスも戦争に狩り出され、ロシア戦線にも出征します。

ハンスやがて、ドイツ人でユダヤ系の詩人であるハイネ(Heinrich Heine)の詩を禁じられたことなど、ナチスの理念と行動に疑念を抱くようになります。ミュンヘン大学医学部の学生になったハンスは、友人や哲学教授のクルト・フーバー(Kurt Huber)を相談役として、「個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利を」主張していきます。そして反戦運動のメンバーとして会議に参加することとなります。地下での抵抗と反戦を「白薔薇通信」というチラシで密かに訴えます。この運動は、政治的な結社でも武装闘争でもありませんでした。

白薔薇通信には次のような文章で始まります。
「何よりも文化民族にとって相応しからぬ事は、抵抗することもなく、無責任にして盲目的な衝動に駆り立てられた専制の徒に「統治」を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人は皆自らの政府を恥じているのではないか?」

白薔薇通信の最後のビラの一説です。
「言論の自由、信教の自由、そして犯罪者的暴力国家から市民を擁護すること、これが新しきヨーロッパの基礎である。諸君、抵抗運動を支持せよ。このビラを配布されよ!」

「愕然としてわが民族はスターリングラードの人的消耗を眺めている。33万人のドイツ男子は第一次大戦伍長の天才的戦略によって無意味かつ無責任に、死と破滅に駆り立てられた。(略) 我が民族は国家社会主義によるヨーロッパの奴隷化に抗して、進軍を開始せんとする、自由と名誉の新しき信念に身をたぎらせつつ。」

心に残る一冊 その34 「告白教会と世界教会」

今年は宗教改革(Protestant Reformation)500年の記念すべき年です。世界各地で共同の記念行事が開催されました。1517年10月31日にマルチン・ルター(Martin Luther)はローマのカトリック教会に抗議してヴィッテンベルク(Wittenberg)の城内に95ヶ条の提題を掲げたといわれます。これが、一般に宗教改革の始まりとされます。ルターはカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書とされる免罪符 (Indulgence)をはじめ、独断的な教義に疑義を提起したのです。

今回は「告白教会と世界教会」 という本です。著者はドイツ福音ルーテル派の牧師で神学者であるディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)です。本書は、ドイツの福音ルーテル教会がナチズムにおもね、独裁的教会統治に成り下がってしまったこと、それに反対して「告白教会と世界教会」という福音に根ざした統治を叫びます。これは教会闘争といわれます。

1939年にヒトラーの軍隊はポーランドに侵攻し第二次世界大戦が始まります。それに先立ち、ボンヘッファーはラジオ放送でナチスの「指導者原理」を痛烈に批判するのですが、放送は中断されます。ボンヘッファーは若くして、ガンジー(Mohandas Gandhi)から影響を受け、非暴力の抵抗を理想と考えます。しかし、ナチズムという限界状況にあってヒトラー暗殺計画に加わります。殺人は悪であり、神の審きの対象であることを容認しながら、彼は違法な手段を選択します。「隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が今の時代には必要である」とボンヘッファーは考えます。

「我々は国家社会主義者か、それともキリスト者か、という決断を迫られている。恐ろしいことであるが、それが明らかにされねばならない。今や、全き真理と誠実さによってのみ決断への助けが与えられる。」

「ドイツ教会闘争は、教会が真実に教会であるための戦いとして、世界教会の運動の課題に関わるのである。そような課題をドイツにおいて担う教会こと告白教会であり、ここでの告白教会は、ドイツ・キリスト者(独裁的教会統治)の教会と決定的にたもとを分かつのである。」

心に残る一冊 その33 「沈黙」と遠藤周作

狐狸庵先生と称された遠藤周作の作品です。必ずしも正統とはいい難いキリスト教思想の持ち主といわれていました。同時に日本のキリスト教界を代表する文学者ともいわれています。小説以外の形式でも、「私のイエス」「私にとって神とは」などを発表しました。キリスト教の神学者の間でしばしば賛否両論含めた論評の対象になりました。私は素人なのでその根拠はわかりません。言えることはそれだけインパクトのある作品を書いたということでしょう。

「沈黙」のことです。舞台は江戸時代のキリスト教が厳しく禁止されていたころです。そうした中で潜入したロドリゴ神父は、多くの信徒が迫害され殉教していくの目の当たりにします。「神はなぜ応答しないのか、この不可解な沈黙のなかで神を信じる行為とはなにか」。これが「沈黙」のテーマです。

ロドリゴは、長崎奉行所によって捕らえられ、踏み絵を強いられて棄教を迫られます。「このような状況を前に、神はなぜ沈黙されているのか」という大きな疑問を抱き続けます。そしてさらに恐ろしい懐疑がわき上がってきます。「もしかしたら神は存在しないのではないか。」

その間次々と信徒は殉教していきます。殉教という神を信じる行為も神の存在を証明する行為だろうが、それなら殉教という行為が怖くてできない「弱い臆病者」の自分を神は見捨てるのか、自分には救いはないのか、自分は神の存在を信じることができないのか、という問いにロドリゴは苦悩するのです。

踏み絵のキリストが「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声が聞こえてきます。踏みつけた踏み絵を前にして信仰を棄てた自分がそこに立っています。しかし遠藤は、ロドリゴに対して「あなたはイエスの愛を捉え直すことになったのだ。神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたのであり、その神の苦しみを感じたあなたという人がいる」というのです。殉教者の叫びに苦悶したロドリゴ自体が神の存在を語っているというのが「沈黙」の中心テーマです。

心に残る一冊 その32 「深い川」と遠藤周作

日本人の大半は汎神論者であるといわれます。仏教も神道も儒教もキリスト教もすべて受け入れる寛容さがあります。別な視点からすれば「節操のなさ」とか「いい加減さ」があります。特定の宗教に深くは帰依せず、にもかかわらず全てを受け入れるのです。日常は「仏」や「神」や「愛」など深くは考えずに暮らしています。それを美徳とするのです。他方、キリスト教やイスラム教は唯一神であり、他の宗教と友誼の関係を持っても教理においては妥協しないという特徴があります。

遠藤周作のことです。かれはカトリック教徒といわれます。ですが彼の作品を手にすると登場する主人公には、誰もを「そうだ、そうだ」と納得させるような「仏」や「神」や「愛」についての説明があるような気がします。この「深い川」という作品も、ガンジス川の持つすべてを包み込む母のような偉大さをみる遠藤の感性を表しています。この作品は1993年に書き下ろされたものです。「深い川」とは黒人霊歌で出てくるヨルダン川(River Jordan)ではなくガンジス川(Ganges)です。この川とはキリスト教と仏教の考え方を隔てるものと考えられているようです。

主人公磯辺はごく普通の父権的な家庭人であり夫でありました。しかし妻は臨終の間際にうわ言で自分は必ず輪廻転生し、この世界のどこかに生まれ変わる、必ず自分を見つけてほしいと言って亡くなるのです。そこであるインドツアーに参加することにします。ボランティアで妻の死ぬ間際まで介護したのが美津子です。彼女はかつてキリスト教系の大学を卒業しています。学生時代には複数の男性の心を弄びます。その中に神父を志す男子学生の大津がいました。

美津子もまた、旧友との同窓会で大津がガンジス川の近くにある修道院にいるという噂を聞き、大津の持つ自分にない何かを知りにインドツアーに参加します。ガンジス川の水は全てのものを浄化するため、この世の苦しみから解き放たれ、解脱できると考えられています。遺体を燃やして灰にし、ガンジス川に流すことは、ヒンドゥー教徒(Hindu)にとって最大の願いといわれています。大津は、インド中から集まってくる貧しいために葬ってもらえなかった人たちの死体を運び、火葬してガンジスに流す仕事をしています。やがてある日、懐かしい美津子と出会うのです。

心に残る一冊 その31 「秘太刀馬の骨」

藤沢周平の作品をいろいろと読んでいますが、この稿のあとは11月15日までしばらくお休みをいただきます。

  藤沢の小説にでてくる舞台の多くは、山形の海坂藩という架空の外様藩です。小さな藩のゆえに跡継ぎを巡る藩内のお家騒動に焦点があてられます。いろいろな策略や陰謀が巡らされるのですが、それに巻き込まれる若い剣士が登場します。我が身の保身に躍起する派閥に翻弄されつつ信念に基づき折り合いをつけて生きていきます。今の日本の政党のように党内の主導権争いを反映するかのようです。

藤沢の作品には、あまり激しい申し合いや立ち回りは描かれません。ですが「秘太刀馬の骨」という時代小説は、剣の秘業を誰が継ぐのか、どのような秘太刀なのかは読者の興味をそそります。それを求めて剣士は修行するのです。それがこの「秘太刀馬の骨」です。「秘太刀馬の骨」の業とは「相手の懐にもぐりこみ、相手の剣の下をかいくぐりつつ、首の骨を両断し絶命させる剣」といわれます。

家老の小出帯刀より、浅沼半十郎と石橋銀次郎はある任をうけます。それは六年前に家老の望月を暗殺した秘太刀「馬の骨」を探すことでした。帯刀の甥である石橋銀次朗と共に、「馬の骨」を伝承された可能性のある剣士を探し回るのです。そして不伝流矢野道場の道場主と高弟5人に死を賭して立会いを挑むのです。

心に残る一冊 その30 「三屋清左衛門残日録」 早春の光

「三屋清左衛門残日録」の続きです。前髪のころからの友人、大塚平八郎が中風で倒れたのを見舞って清左衛門は家に帰ります。平八と清左と呼び合っていた仲です。
「大塚様のご病気はいかがでしたか」と嫁の里江に問われます。
「思ったより元気だった」 そう答えたとき清左衛門はどういうわけか夥しい疲労感に包まれます。平八郎の状態は暗いのですが、それを嫁に説明するのをためらうのです。

  後日、小料理屋で旧友同士の佐伯熊太と平八を話題にして、次のような会話をします。
清左衛門 「医者はたゆまず修練を積めば、中風の跡も目だたぬほどに歩けるようになろうと申したそうだ。病気そのものは軽いのだ」
熊太 「で、歩いているのか?」
清左衛門 「いやまだだ。床には起き上がっている」
熊太 「そこがあの男のふんぎりの悪いところだで」
熊太 「事にあたってはきわめて慎重、といえば聞こえはいいが、要するに臆病なのだ」
熊太 「万事おっかなびっくり、勇猛心が足らん。わしなら歩けといわれたら、あの辺りの塀につかまっても歩く」
清左衛門 「貴公のようにはいかんさ。ひとにはそれぞれの流儀がある」

老いの現実が清左衛門を疲労感で包みます。再び平八の家へ足を向けるときです。道の遠くに動く人影があるのに気づき立ち止まります。こちらに背を向けて杖をつきながらゆっくり歩いているのは平八です。平八の身体はいまにも転びそうに傾いています。

その動きを眺めて路地に引き返したとき、自分の胸が波打っているのを清左衛門は気づきます。胸が波打つのは平八の歩き始めた姿に鞭打たれた気がしたからです。

心に残る一冊 その28 「獄医立花登手控え」「風雪の檻」

小伝馬町牢は、人生につまずいた者の吹き溜まりです。狡賢い者や正直者もいます。その中に捨蔵という容態が悪い病人がいます。軽い盗みで捕まりもう半年以上も牢に入っています。普通、盗みの程度なら裁きのあとは決まって叩きの刑ぐらいで解き放たれます。しかし、家族や親戚が不明という無宿者の捨蔵は、再犯の可能性が高いという理由で長く勾留されるのです。

余命幾ばくもない捨蔵を「溜」に移した方がよいと獄医立花登は提案します。溜とは養生牢のことで小伝馬牢よりもこぎれいで風通しがよく、住み心地が少しよい所です。囚人も昼夜、煮炊きもできる所です。

捨蔵に登が痛み止めの薬をやると、捨蔵は「ちょっとおねげえがある」というのです。娘と孫を捜して欲しいというのです。
「ずいぶん前に別れて、いまでは行方がわからない、それにいまさら親でございと名乗れる仲ではない。さんざん迷惑をかけてきた。」
「助からない命なら死ぬ前に一度は顔をみてえ。」

登は捨蔵の頼みにほだされて、捨蔵のいう娘と孫を探しだし、その言葉を伝えようとします。

捨蔵がいう娘の名は「おちか」。彼女はかつて種物屋に押し込んで一家三人を殺した犯人を偶然目撃しています。そのため逃走した二人の賊から追われて小さな娘と江戸中を転々としています。散々苦労した結果、登はおちかを探すのですが、その犯人の人相を登が聞き出すと、その男は捨蔵とそっくりなのです。登の調べによって二人の賊の一人が捨蔵だと判明し、もう一人の賊も捕縛するのです。捨蔵に対するじくじたる思いの登ですが、おちかや娘の安堵した表情に充実感も溢れます。

心に残る一冊 その27 「獄医立花登手控え」「春秋の檻」

「獄医立花登手控え」というサブタイトルのつく「春秋の檻」、「風雪の檻」、「愛憎の檻」という藤沢周平の作品を読んでいます。羽後亀田藩の下士に生まれた獄医立花登が難事に挑む時代小説です。羽後とは出羽の別名。亀田藩とは、秋田県南部に位置する日本海に面した由利本荘市にあった藩です。

登は国許の医学校で医学を修め、さらに江戸に赴いて医学を精進すべく、叔父の小牧玄庵の所に居候します。玄庵も浅草で開業する町医者です。酒が好きで酒代を確保するために小伝馬町にある牢屋敷で医者も努めています。医学を志す登は玄庵の腕に失望しながらも、書物を読み玄庵の代診をしながら研鑽していきます。

医師を志しながら、獄舎でつながれる人々の様々な事情と向き合います。起倒流という柔術で危険な人間をやり込めるのです。島送りの流人船を待つ囚人から、ある女に渡るべき十両をやくざから取り戻し、渡して欲しいと依頼されます。渡した十両を取り返そうとするやくざの匕首を躱し当身を打ち込んで倒します。

居候の登の世話をする叔母は、登に酒飲みの叔父の愚痴をいったり、素行の芳しくない娘のことで相談をかけたりして、時に登を身のうちの者のような言い方でもたれてきたりします。日頃はいろいろな用事を言いつける口うるさく杓子定規な女性です。

「登さんも江戸に慣れて、そろそろこの家に住むのがいやになりましたか」というように平気で嫌みを言ったりします。

小伝馬町の牢獄には三人の医師がいて、漢方でいう本道である内科医が二人、外科医が一人となっています。登は内科医という設定となっています。人間として医師として成長を遂げていくさまが描かれています。

叔父の代診で牢屋敷に通うなかで、登は牢獄につながれる人々が、なぜ罪を着せられたか、罪を犯したのかを問うのです。彼らの苦悩に共感しながら、残された人生を懸命に生きようとする姿に寄り添おうとします。

心に残る一冊 その26 Intermission  広辞苑改訂と岩波書店

「広辞苑」の出版元は岩波書店です。岩波書店の本にはいろいろとお世話になりました。大学の教科書に始まり、関連の専門書、そして新書や文庫といった按配です。岩波新書の刊行は1938年というのですから凄いの一語に尽きます。「方法序説」や「広島ノート」、その他「風土」といった本が手許にあります。北海道大学時代は、少々気取って「世界」や「思想」を読んだものです。1960年代ではこうした雑誌を読まないと時代に遅れるという雰囲気がありました。岩波のものであればどれも信頼がおける、という思い込みやこだわりが私にはあります。

創業者の岩波茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身といわれます。「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田舎暮らしを好んだとあります。岩波の刊行物にあるエンブレムにはミレーの種を蒔く人が描かれています。ミレーを引用したのはそんなところにあったのかもしれません。

岩波書店で忘れてはならないのは「図書」という冊子です。「読書家の雑誌」といわれるほど、読書の新しい愉しみを発見できるところです。「古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、旅のときめき体験、味あふれるエッセイの数々、人生への思索などを綴る」とあります。知的好奇心あふれる読者が長く手にしている小冊子です。

岩波書店から出版されるにはどうしたよいか、ということです。恐らく原稿を幾重にも審査されるのでしょう。科学研究費補助金の審査よりも厳しいのではないかと察します。岩波から出版するにはどうしたらよいか、どなたか良い知恵を教えてくださいませんか。

心に残る一冊 その26 Intermission  広辞苑改訂と岩波書店

「広辞苑」の出版元は岩波書店。岩波書店の本にはいろいろとお世話になりました。大学の教科書に始まり、関連の専門書、そして新書や文庫といった按配です。岩波新書の刊行は1938年というのですから凄いの一語に尽きます。「方法序説」や「広島ノート」、その他「風土」といった本が手許にあります。北海道大学時代は、少々気取って「世界」や「思想」を読んだものです。1960年代ではこうした雑誌を読まないと時代に遅れるという雰囲気がありました。岩波のものであればどれも信頼がおける、という思い込みやこだわりが私にはあります。

創業者の岩波茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身といわれます。「労働は神聖である」との考えを強く持ち,晴耕雨読の田舎暮らしを好んだとあります。岩波の刊行物にあるエンブレムにはミレーの種を蒔く人が描かれています。ミレーを引用したのはそんなところにあったのかもしれません。

岩波書店で忘れてはならないのは「図書」という冊子です。「読書家の雑誌」といわれるほど、読書の新しい愉しみを発見できるところです。「古今東西の名著をめぐるとっておきの話やエピソード、旅のときめき体験、味あふれるエッセイの数々、人生への思索などを綴る」とあります。知的好奇心あふれる読者が長く手にしている小冊子です。

岩波書店から出版されるにはどうしたよいか、ということです。恐らく原稿を幾重にも審査されるのでしょう。科学研究費補助金研究費の審査よりも厳しいのではないかと察します。岩波から出版するにはどうしたらよいか、どなたか良い知恵を教えてくださいませんか。

心に残る一冊 その25 Intermission 広辞苑改訂と「はんなり」

このシリーズでちょっと休憩します。先日「10年振りに広辞苑改訂」という記事がありました。毎日のように図書館通いをして大分経ちます。そしてブログの素稿を書くために、きまって新村出氏編集の「広辞苑」を書架から取り出します。調べたい用語や単語を書き写すとすぐ書架に戻します。広辞苑の利用者が多いのです。漢字を調べるときは白川静氏編集の「字通」を借ります。

図書館にある広辞苑は2007年出版の第六版。定価は書いてありません。私が家で使う広辞苑は昭和44年出版の第二版です。定価は3,200円で出版年は西暦を使っていません。初版も昭和30年とあります。

辞書を手にして知りたいことは、その語がどのような意味があるかということです。さらに、語がどのように意味を変えたかを調べるのに辞書は欠かせません。古語や現代語を包括し、学術その他広くゆきわたる語いや事項を含むいわば小百科事典です。語いの多義性とか多様性、実用性を教えてくれるのも辞書です。広辞苑は用例や典拠を豊富に掲げています。語源や語法をみることによって本義や派生語を知ることも望外の楽しみとなります。こうして知的好奇心をかきたててくれます。

広辞苑では、地域語や地域の事情なども選ばれています。たとえば「はんなり」。落ち着いた華やかさを持つさま、上品に明るいさま、とあります。「はんなりとした色合い」というように使うのでしょうか。兼好法師が「今ここで見る顔はまた、はんなりとなつかしう、かわいらしう、恥ずかしう」という具合に引用されています。「花なり」が語源とか。京言葉の代表といわれているようですが、道産子のわたしには「はんなり」という言葉を調べて納得し、なにか京の出になったような気分になります。

同じく岩波書店から出ている「国語辞典」も持っています。こちらは携帯用で、さすがに「はんなり」はありません。固有名詞や外来語を掲載しないのが編集の方針とあります。

心に残る一冊 その24 「たそがれ清兵衛」

「蝉しぐれ」と並ぶ私の愛読書の一冊が「たそがれ清兵衛」です。この小説を読んだのは50代ですが、いつも手元に置いておきたい作品です。庶民や下級武士の悲哀を描いた時代小説にはどこか共感するものがあります。大衆小説の本筋は娯楽色が豊かなこと、という言い方がされますが、私には社会の底辺にいる人々の息づかいを豊かに描く藤沢周平の筆遣いに惹きつけられます。

主人公は下級武士の井口清兵衛。「たそがれ清兵衛」と呼ばれています。病弱な妻の世話や看病のために、同僚との付き合いを断わり、退城の合図とともに黄昏れ時に帰宅するのです。そのため「たそがれ清兵衛」と陰口をたたかれています。

海坂藩の藩主が若くして没し、ほどなく後継者争いが起こります。世継ぎが決まり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まります。粛清されるべき人物の中に一刀流の使い手、余吾善右衛がいました。余吾は切腹を命じられながらもそれを拒絶し、討手の服部某を斬殺し自分の屋敷にたてこもります。海坂藩は清兵衛に新たな討手として命じます。交友があった余吾善右衛に清兵衛は自首をすすめます。

壮絶な果たし合いが終わり清兵衛は、傷だらけで自宅に戻ります。清兵衛を待っていたのは2人の娘と朋江という女性です。清兵衛は幼なじみの朋江を思い続けていたのです。やがて清兵衛は朋江を妻に迎えます。

明治維新とともに勃発した戊辰戦争で賊軍となった海坂藩は、圧倒的な官軍と戦うことになります。清兵衛は官軍の銃弾に倒れます。時代に翻弄される人々の一人にたそがれ清兵衛をみるのです。

心に残る一冊 その23 「三屋清左衛門残日録」 醜女

この時代小説を読んでいますと、なにか自分に思い当たることが描かれていて実に愉快な気分になります。

「さぞのんびり出来るだろうと思っていたのだ。たしかにのんびり出来るが、やることななにもないというのも奇妙なものでな。しばらくはとまどう」 清左衛門はかつての部下であった佐伯熊太にいいます。

「過ぎたるはおよばざるが如しだ。やることがないと、不思議なほどに気持ちが委縮してくる。おのれのもともとの器が小さい証拠だろうが、ともかく平常心が戻るまでしばらくかかった」

熊太は「ひと一人の命がかかっている話」を清左衛門を持ちかけ助けを求めます。おうめという女のことです。彼女は城下の貸家の娘です。行儀見習いのため城の奥御殿に奉公にはいります。あるとき藩主が何の気紛れを起こし、醜女と呼ばれていたおうめに一夜の伽をいいつけるのです。その一夜の出来事のあと、身籠ったらしいという噂で、おうめには暇が出され実家に戻り、藩から三人扶持をもらう身分となります。三人扶持とは3人の家来や奉公人を抱えることができる切米のことです。

あまり公にできないことなので、ほとほと困っている熊太は、手を貸せと清左衛門に頼みます。

「しかし、わしはもやは隠居の身でな。公けのことを手伝うには倅の許しをもらわなくてはならないだろう」
「そのことならさっき、城で又四郎どのに会った話した」 熊太ははぬかりなく言います。又四郎は清左衛門が家督を譲った息子です。

「おやじは退屈しているはずだから、かまわんでしょうと言っておったぞ」

身籠ったのは、相手がわからぬ父なし子というので、殿の威信を損なわないように、おうめを密かに処分してしまえという山根備中という組頭がいうのです。山根は権威主義に忠実な家風で育ったため、言うだけではなく、実際におうめを抹殺しかねない、と清左衛門は考えおうめを助けようと人肌脱ぐのです。

心に残る一冊 その22 「三屋清左衛門残日録」 微変化

一旦、老境の悲哀を感じながら,清左衛門にはわずからながら生活に変化が生じます。藩内に起こる権力を巡る動向に助けを求められるのです。隠居の身のところに、かつての部下がやって難題を持ち込むのです。うっとうしくも感じながら、まだまだ自分の経験や知恵を必要とする人々がまわりにいるのを知り、清左衛門は生活に変化を感じていくのです。「のんびり隠居などしていられない」という姿勢に、自分がまだ平衡感覚を有しているらしいとも感じます。

 

 

 

 

 

 

 

この時代小説は、いくつかのエピソードが登場します。「白い顔」では妻の多美を酔うたびに苛む25歳の藤川金吾に清左衛門は激昂します。実家に逃げ帰って離縁した多美は平松与五郎に嫁ぎます。二人は一バツなのですが、二人の縁を取りもつのが清左衛門です。それを恨んで藤川が清左衛門を待ち伏せます。

「多美を平松に片付けるのに隠居がずいぶんと骨折ったという話を聞いたぞ」
「それが何か?」清左衛門はいくらか無意味な気持ちでこたえます。
「おてまえにはかかわりがござるまい」
「そうはいかぬ。多美はまだおれの女だ」
「だまらっしゃい!」 清左衛門は一喝します。
おれの女という下卑な物言いに腹立つ清左衛門です。相手の不気味さを忘れて憤怒の声がでるのです。

藤川の柄に右手が伸びた瞬間、清左衛門は走り寄って藤川の右腰に身を寄せ、柄を握った相手の手首に気合いもろとも手刀を打ち下ろします。めまぐるしく動いたのに、ほんの僅かだけ息がはずむのです。隠居の身でありながら、道場に再び通っている甲斐があったと清左衛門は感じます。

心に残る一冊 その21 「三屋清左衛門残日録」 寂寥感

「日残りて昏るるに未だ遠し」に始まるこの小説は、生涯の盛りが過ぎ、老いて国元に逼塞するだけだと考えていた主人公三屋清左衛門にいろいろな出来事が起こります。その身にふりかかることは、藩の執政府は紛糾の渦中に巻き込まれるのです。そんな隠居暮らしに葛藤する老いゆく日々の命の輝きが描かれています。まるでいぶし銀にも似たような藤沢周平の筆遣いを感じる一作です。

勤めていたころは、朝目覚めたときにはその日の仕事をどうさばうか、その手順を考えるのに頭を痛めたのに、してみると朝の寝ざめの床の中でまず、その日、一日をどう過ごしたらよいかということから考えなければならなかった。」清左衛門の朝はこのようにして始まります。

藩邸の詰め所にいる時も役宅にくつろいでいる時も公私織り交ぜておとづれる客が絶え間なかったのだが、今は終日一人の客もこなかった。」 客が来なかった日は何の会話もなかったということです。

仕事のからむ一切の雑事から解放された安堵のあとに、強い寂寥感がやってきたのは思いがけないことであった。」 仕事一筋の人生のあとにやってくる自由さの中の複雑な思いです。

こうした感慨は、私も定年退職後に経験したことでした。「今日は何人の人と会話したか?」ということも考えるのです。このフレーズは父親が亡くなったとき整理していた日記から出てきたものです。彼は日記をつける習慣がありました。96歳のとき「かっての友人は一人もいなくなった」ともいっていました。