心に残る名曲 その三十五  ゴスペル音楽 「Oh Happy Day」 「Amazing Grace」 「Stand by Me」

ゴスペル音楽の起源は、キリスト教の誕生に遡ることができます。その音楽の創造、意義、そして定義は文化や社会の状況によって変容してきました。ゴスペル音楽は審美的な好みや宗教的な行事、そして演奏や出版に関わる興行から生まれてきました。ゴスペル音楽は通常は、ボーカルによる合唱を強調しキリスト教の歌詞があてられて発展してきました。

ゴスペル音楽の発展は17世紀に遡ることができます。黒人の歌いの伝統から生まれます。讃美歌や聖歌はしばしば先導と応唱との繰り返しが特徴です。リズムをとるきは、手を叩いたり足で床をタップして調子を求めます。たいていの場合、歌はアカペラで歌われました。

「ゴスペルソング」が最初に世の中に広まったのは1874年のことといわれます。もともとのゴスペルソングは、ルート(George F. Root)、ブリス(Philip Bliss)、ガブリエル(Charles H. Gabriel)、ドアン(William Howard Doane)、そしてクロスビー(Fanny Crosby)といった人々によって作曲されます。

やがてゴスペル音楽の出版社が各地にできます。1920年代にラジオが普及するとゴスペル音楽は急激に愛好家を増やします。第二次大戦後ゴスペル音楽は大劇場で歌われるようになり、コンサートも洗練されていきます。

ゴスペル音楽は多種多様なものがあります。ゴスペルブルース(Gospel Bruce)も生まれてきます。ゴスペル音楽がブルース調となりギターと福音的な歌詞の組み合わせとなります。南部のゴスペルは男性によって歌われ、テノール二人、バリトン、バスのカルテットで演奏されます。カントリーゴスペル音楽といわれるクリスチャンカントリー音楽は、もともとカントリーミュージックの感覚を伴ったゴスペル音楽から生まれてもので、1960年代に大ヒットをします。

ブルーグラス・ゴスペル音楽(Bluegrass gospel music)のことです。アメリカのアパラチア山脈地帯(Appalachian Mountains)で歌われた音楽を基にして生まれたジャンルです。ケルト・ゴスペル音楽(Celtic gospel music)もあります。ケルト文化の要素を濃厚に反映する音楽でアイルランドで非常に人気があります。「Amazing Grace」は世界中で歌われるケルトの音楽です。英国のブラックゴスペル音楽(British black gospel) も有名です。 散らされたアフリカの人々(diaspora)から生まれた音楽です。先日の英国ローヤルウエディングで歌われた「Stand by Me」はその代表といえましょう。

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心に残る名曲 その三十四 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その2 ゴスペルソング

この歌は奴隷であった人々が自由を渇望して、約束の地、カナン(Canaan)にやってきたイスラエル人と重ね合わせて歌う内容となっています。

黒人霊歌の題材は主として旧約聖書からとられ、哀愁を帯びたものが多いといわれます。リズムは欧米の民謡と異なり、シンコペーション(syncopation)が多いのが特徴です。シンコペーションとは、拍節の強拍と弱拍のパターンを変えてリズムに変化を与える手法です。民俗音楽の研究から、アメリカの黒人は、彼らの音楽に対する嗜好を新大陸に移ってから得た宗教的な素材と結びつけていった、というのが一般的といわれます
旋律自体の構成は比較的短く、一つか二つの音節の単純な繰り返しが多いのですが、あまり長いものではありません。この曲もそのような構成となっています。

奴隷解放後は黒人の意識が変化するにつれ、次第にスピリチュアルは影がうすくなります。スピリチュアルは南部の保守的な教会に残るのですが、都市の会衆の間では次第に廃れ、それに代わって黒人の新しい意識を反映したゴスペルソング(Gospel Songs)が優勢となります。

心に残る名曲 その三十三 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その一 ヨシュア

この曲もまた19世紀アメリカで生まれた伝統的なスピリチュアルソングです。作曲したのは奴隷の人々だったと云われています。歌の下敷きになっているのは旧約聖書のヨシュア記(Book of Joshua)です。

エジプト脱出(Exodus)のあと、モーゼ(Moses)とその一行は、「乳と蜜の流れる地」(Land flowing with milk and honey), カナン(Cannan)を目指します。しかし、その旅は難航をきわめ、イスラエルの民は40年間荒野を彷徨います。(Joshua 6:15-21)

モーゼの後継者となったヨシュア(Joshua)はさらにカナンを目指します。難関はヨルダン川を渡ることでした。エリコ(Jericho)という街の近くまでやってきます。エリコは当時、世界で最も古い街の一つといわれていました。幸い水のない河床を渡り城壁に囲まれたエリコを望みます。神がエリコに指示した占領方法は奇妙なものでした。イスラエルの兵士全員がエリコの城壁の周りを七周するように命じられたことです。エリコらは指示に従うと城壁は崩れるのです。

多神教の国エジプトでは奴隷の身分であり、今は同じく多神教のカナンに定住しようとするイスラエルの民にとって偶像礼拝は強い魅力だったようです。主なる神に加えて他の神々を崇拝していた人々と大勢いました。ですがヨシュアは民の前で「わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言するのです。(Joshua 24:15)

エリコを探るためにヨシュアは二人の斥候をだします。街の衛兵がやってきたとき、ラハブ(Rahab)という娼婦と家族は斥候を亜麻の束の中に入れてかくまいます。やがてヨシュアはラハブと結婚し、エレミヤ(Jeremiah)、デボラ(Deborah)などの有名な預言者の先祖となります。

この唄の歌詞は次のようなものです。

They tell me, great God that Joshua’s spear
Was well nigh twelve feet long
And upon his hip was a double edged sword
And his mouth was a gospel horn
Yet bold and brave he stood
Salvation in his hand
Go blow them ram horns Joshua cried
‘Cause the devil can’t do you no harm

イスラエルの民は云う、ヨシュアは長い槍を構え
腰には二本の刀を携え、その口からは福音の音が響く
勇猛果敢に立ち向かい、神の救いはヨシュアの手にある
さあ、羊の角笛を吹きならせ
ヨシュアは叫ぶ 「悪魔は民に危害を加えることはできない」

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心に残る名曲 その三十二「Swing Low, Sweet Chariot」

このスピリッチュアルは、テネシー州(Tennessee)ナッシュビル(Nashville)のフィスク大学(Fisk University)で1870年代に活動していたアフリカ系アメリカ人グループ「ジュビリー・シンガーズ(Jubilee Singers)」によってアメリカ各地に広められた霊歌です。「Jubilee 」とは祝祭とか記念祭という意味です。

アメリカ南北戦争(Civil War)後に米国南東部のミシシッピ州(Mississippi)、アラバマ州(Alabama)、ルイジアナ州(Louisiana)にいた先住民チョクトー族(Choctaw)の奴隷が歌っていたのを採譜されたといわれます。作詞・作曲者は不明ですが、素晴らしい内容の歌です。

題名にはチャリオット(Chariot)とあります。チャリオットとは、兵士を乗せ馬に引かせる戦闘用馬車を指します。太古の時代、シュメール(Sumerian)、ヒッタイト(Hittite)、アッシリア(Assyrian、古代エジプト、ローマ、ペルシア(Persia)、古代中国、古代インドなどで戦闘用に使用されました。

Chariotに乗って天国へ昇る描写が旧約聖書にあります。列王記(Books of Kings)21章27-29節に登場するユダヤ人の預言者エリヤ(Prophet Elijah)が火の馬が曳く日の戦車に乗って天に昇っていく、という記述です。

なお、19世紀初頭のアメリカで南部州から黒人奴隷を北部州に逃亡させる活動をしていた秘密組織「地下鉄道(Underground Railroad)」を「チャリオット=北部州への亡命」という意味で使われたと指摘する説もあります。

心に残る名曲 その三十一 「深い河」「Deep River」

黒人霊歌『深い河』(Deep River)の歌詞に登場するヨルダン川(Jordan River)は、洗礼者ヨハネ(John the Baptist,) がイエス・キリストに洗礼を授けた場所をいわれます。新約聖書に記述されていて神聖な川とされます。マタイによる福音書(Matthew)1:13-16に、ヨルダン川にて洗礼を授けるヨハネとイエスとの会話があります。

ヨルダン川はイスラエル(Israel)、レバノン(Lebanon)、シリア(Syria)の国境が接するゴラン高原(Golan Heights)やアンチレバノン山脈(Anti Lebanon Mountains)周辺を水源とし、北から南へ流れ、イスラエル北部のガリラヤ湖(Sea of Galilee)を経て死海(Dead Sea)へ注いでいます。

ところでアメリカ東海岸にあるノースカロライナ州(State of North Carolina)のギルフォード郡(Guilford County)には、黒人霊歌『深い河』のタイトルと同じくその名も「Deep River」という川があります。黒人霊歌『深い河』との関係が気になります。

この川と黒人霊歌『深い河』との関係については明らかではありませんが次のような説もあります。19世紀のギルフォード郡周辺には奴隷解放運動を推進していたクエーカー教徒(Quaker)がいました。「地下鉄道(Underground Railroad」と呼ばれた奴隷逃亡の幇助組織を支えた人々です。郡民の多くは奴隷制度に反対だったようです。ギルフォード郡の鉄道の設立者の一人、リーヴァイ・コッフィン(Levi Coffin)は奴隷廃止論者として、南北戦争前に2,000人以上の奴隷を逃亡させ自由を与えたといわれます。

このようにクエーカー教徒や関係者によって黒人霊歌『深い河』が作曲されたのではないかとも考えられています。

Deep river, my home is over Jordan,
Deep river, Lord, I want to cross over into camp-ground.
Oh, don’t you want to go to that gospel feast,
That promised land where all is peace?
Oh deep river, Lord, I want to cross over into camp-ground.

心に残る名曲 その三十 「黒人霊歌」 その2 Spiritual Song

アフリカ系アメリカ人(African American)の民族音楽といえば、彼らの教会から生まれた宗教的霊感に満ちた黒人霊歌(Spiritual Song)、アフリカの伝統と解釈される労働歌、第一次大戦後、南部農業地帯から北部の都市に移動したアフリカ系アメリカ人が歌ったブルース(Bruce)などがあります。

黒人霊歌には、悲しみ、落胆、絶望、喜び、信頼、失敗、勝利の感情表現があります。神とその正義を信頼する歌なので、憎しみの表現はありません。これは驚くべきことです。労働歌は共同の農作業、道路工事などに従事する黒人が歌ったものです。

アフリカ系アメリカ人はポピュラー音楽にも強い影響を与えてきました。数え切れないほどの歌手やグループが活躍します。ゴスペル音楽はアフリカ系アメリカ人の間で愛好され、マリアン・アンダーソン(Marian Anderson)のような歌手によって最高の形式に高められたといわれます。彼女の深い響きを持つ低声は、力強さを感じさせ劇的な表現力を持った名実ともにアメリカを代表するアルト歌手といわれました。1960年代にはアメリカポピュラー音楽の本流と混合し「ソウル(soul)」と呼ばれる新しいロックスタイルを生みだしていきます。

アメリカの霊歌「Spiritual」には奥深い歴史があります。霊歌という言葉は霊魂の歌「Spiritual Song」を縮めたものです。既存の讃美歌や聖歌と形式や内容も違います。霊歌はアフリカ系アメリカ人と結びついています。綿花畑(Plantation)で働く奴隷の信仰復活運動の讃美歌で、アフリカの答唱歌の伝統に基づいています。先唱者がいて、会衆がそれに答えて一行一行歌うのです。集会や礼拝で霊歌をきく人々は、心が自然と高ぶり、あたかも霊に動かされるように一緒にハレルヤ、アーメンと歌い出したり叫んだりします。

19世紀後半になると、フィスク大学(Fisk University)大学で生まれたアフリカ系アメリカ人のア・カペラ(a cappella)アンサンブル、フィスク・ジュビリー・シンガーズ(Fisk Jubilee Singers)が古い聖歌を蒐集して編集し、多くの霊歌が広まります。

心に残る名曲 その二十九 「黒人霊歌」 その1 奴隷制度の廃止

アメリカにおける「黒人」の呼び方は時代によって変わってきました。奴隷解放後は南部の白人は「カラード(colored)」と呼びました。次いで「ニグロ(negro)」となっていきます。1960年代になると、黒人自らが「ブラックアメリカン(Black American)」とか「アフロアメリカン(Afro American)」と呼ぶようになります。やがて二グロは学術的にも一般的にも差別用語とされ使われなくなります。

「アフロアメリカン」とか「アフリカンアメリカン」という表現は、アフリカが黒人の祖先の出身地としてばかりでなく、文化的出自、文化的アイデンティティを与えるものとして見直されてきます。時代は下り1990年代になると黒人が最も好ましい呼称として選ぶのは「Black American」とか「African American」です。「Japanese American」, 「Chinese American」というように出自を明確にしている点が共通しています。

アメリカの黒人が、アフリカのどの部族にルーツをたどれるかははっきりわかりません。しかし、大部分の奴隷がアフリカ西海岸の西サハラからアンゴラに至る地帯だと推測されます。1619年にヴァージニア州(Common Welth of Virginia)のジェームスタウン(Jamestown)に最初の黒人が上陸します。最初は年季奉公人(Indentuared Servants)と呼ばれました。18世紀になると黒人を奴隷とすることに反対する人々や組織が生まれます。その中心がクエーカー教徒(Quaker)であります。このことは前回述べました。

独立戦争では奴隷制度に反対する世論が高まります。フィラデルフィア(Philadelphia)では、指導的な市民によって「黒人を救済する会( Pennsylvania Abolition Society (PAS) 」が生まれます。それに続いてマサチューセッツ州は1780年に奴隷制度を撤廃する憲法を施行します。ペンシルヴァニア州が奴隷制度を廃止するのは1820年です。ニューヨーク州(New York)、ニュージャージ州(New Jersey)などがそれに続きます。

南北戦争中である1862年9月にエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が、連邦軍と戦っていた南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じます。そして合衆国憲法の修正第13条が承認され、アメリカ合衆国全体で法的に奴隷制が廃止されたのは1865年のことです。あくまで法制上の廃止です。

心に残る名曲 その二十八 「シェナンド」Shenandoah

「シェナンド」は19世紀から歌われている合衆国の民謡で、歌詞から「オー・シェナンド」(Oh, Shenandoah)とか「広大なミズーリ川を越えて」(Across the Wide Missouri)とも呼ばれています。シェナンドは西部へ渡った人がヴァージニア州のシェナンド川またはシェナンド・バレー(Shenandoah Valley)を懐かしんで歌ったとも、そこに住む恋人のネイティブ・アメリカンの娘を焦がれる唄ともいわれます。歌詞からそのことが伺われます。

Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away you rolling river.
Oh, Shenandoah, I long to see you,
Away, we’re bound away
‘Cross the wide Missouri

Oh, Shenandoah, I love your daughter,
Away, you rolling river.
For her I’d cross your roaming waters,
Away, I’m bound away
‘Cross the wide Missouri.

19世紀に至るまで、富を求めビーバーを捕獲する冒険家や交易商人がミズリー川の西に進出していました。多くはカナダからの毛皮商人です。孤独な旅をしながら時に原住民の女性と仲良くなったり結婚したりします。こうして恋の唄が作られます。

イロコイ・インディアン(Iroquiois)に「Shenandoah」と呼ばれた酋長いました。この酋長の娘と恋に落ちた旅人が歌ったのが「シェナンド」というのが本筋です。この曲を作ったのは、恐らくカナダ人で歌の上手な探検家ではなかったかという説があります。当時の交易手段は河川や運河を漕いでいくことです。そこで荷物を積み運ぶ商人はボートマン(boatman)と呼ばれ、非常に重宝されたようです。

「Shenandoah」はアメリカ史では、アメリカインディアンとして有名な酋長です。そのせいでしょうか、彼の名をつけた街があちこちにあります。この歌は海の上でも歌われ「Sea Shanties」とも呼ばれます。荷役をする人々、錨を上げ下げする人々の舟唄、労働歌のことです。

心に残る名曲 その二十七 Jerusalem(聖歌)

18世紀イギリスの詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake)の詩に、同国の作曲家チャールズ・パリー(Sir Charles Hubert Hastings Parry)が1916年にオルガン伴奏による合唱曲を作ったのが「Jerusalem」です。後にエドワード・エルガー(Edward William Elgar)によって編曲され管弦楽伴奏版も作られました。毎年夏にロンドンで開催されるBBC主催の音楽祭「プロムス(Proms)」の最終夜に、国歌「女王陛下万歳」や第二の国歌とも呼ばれるエルガーの「希望と栄光の国」と共に必ず演奏されます。

「Jerusalem」は事実上のイングランドの国歌といわれています。1981年に作られた映画「炎のランナー(Chariots of Fire)」でもこの聖歌が歌われました。「Jerusalem」の歌詞は次のような内容です。私なりに訳してみました。

And did those feet in ancient time
 Walk upon England’s mountains green?
 And was the holy lamb of God
 On England’s pleasant pastures seen?
 And did the Countenance Divine,
 Shine forth upon our clouded hills?
 And was Jerusalem builded here,
 Among these dark Satanic Mills?

いにしえの時に人々が
 イングランドの緑なす山並を歩いたのか?
  神の子羊もイングランドの心地良い牧ばに顕れたのか?
 雲立ち込める丘に神のみ顔が輝き出でたというのか?
 かつてのエルサレムが存在したのか?
 陰うつで邪なる粉ひき小屋の間に

毎年全世界に向けて放映されて数えきれない視聴者が目にするポピュラー音楽の祭典、プロムス最終夜にオーケストラに合わせて参加者全員が歌います。

心に残る名曲 その二十六 「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」とボヘミアの国民的作曲家

ヨーロッパの中心に位置するチェコですが、チェコ人音楽家は作曲家としてよりも演奏家として評価されていたといわれます。スメタナらはそのことを意識していたようです。親友であったハンガリー人のフランツ・リスト(Franz Liszt)が創始した交響詩(symphonic poem)をスメタナも書き始めます。交響詩とは管弦楽によって詩的、絵画的内容を描写し表現する一楽章の音楽形式のことです。チェコ人としての音楽作りという一種のナショナリズムが生まれたといわれます。

それ以降はスメタナオペラに目を向け、オペラ「リブシェ(Libuse)」を書き、交響詩「我が祖国」はチェコ民族を賛美するという意図で書かれた作品です。モルダウ(Moldau)は余りにも有名な旋律です。こうした作品と書いた時期は彼の愛国的な情熱が絶頂に達した頃のようです。その後、「売られた花嫁」などでチェコ固有の音楽形式を作り出していきます。

スメタナがボヘミア音楽の先駆者とすれば、ドボルジャークは最初の国民的大作曲家といえそうです。文化や風俗を反映する主題を駆使し、新しい音楽の独自性と独創性を世界に問い直したといえましょう。八つのオペラ、多くの交響詩に祖国の伝説や歴史、英雄、風景さらに思想を取り入れ、他のいかなる国民的作曲家の追随を許しません。

「弦楽四重奏ヘ長調、アメリカ」はドボルジャークの傑作の一つといわれています。アイオワ州北東部にあったチェコ人コミュニティとの交わりからできた作品です。いくつかの主題には五音階に傾いています。断然素晴らしいのは第二楽章のゆるやかなレント(lento)。哀愁をたたえはじけるようなヴァイオリンの旋律、他の楽章にも行き渡る活気をあらわしています。
特定の形式や拍子テンポに縛られないスケルツオ(scherzo)は楽章はアイオワ州の森林地帯できいた鳥の鳴き声をメモし、作曲に利用したとあります。

第四楽章には、原始的な特徴、ネイティブアメリカンの歌の断片を取り入れています。ナショナル音楽院のハリーパリー(Harry Parry)という学生の黒人霊歌を聴き、深い関心をいだいたといわれます。その影響を感じさせる曲です。

心に残る名曲 その二十五 チェロ協奏曲ロ短調 (Dvorak Cello Concerto B minor)

ドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作です。ボヘミアの民族音楽と新大陸アメリカの土着の音楽を融和させたといわれるチェロ協奏曲にはいくつかの特徴があります。「ロンド(rondo)」と呼ばれる異なる旋律をはさみながら、同じ主題の旋律をなんども繰り返す形式をとっています。大辞泉ではロンドを「輪舞曲」と名付けていて、Aという主題の旋律が、繰り返し演奏されます。「A B A C A D A」という具合です。さらに、管弦楽の部分が劇的と思われるほど響き渡ります。

第一楽章では早めのアレグロ(Allegro)に始まり、次ぎにまどろむような第1副主題、親しみやすい旋律が流れます。第二楽章では、緩やかに遅く(Adagio, ma non troppo)、民謡風の第2副主題といずれも美しい主題がロンドの形式にそって演奏されます。木管楽器は抒情に溢れた響きを放ちます。ホルンの音も穏やかに流れます。もちろん独奏チェロの技巧性が遺憾なく発揮されます。最終楽章は、第1楽章の第1主題が回想され最高潮に達して全曲が閉じます。

作曲家がチェロ協奏曲を書くのは、それなりの理由があるといわれます。チェリストであったハタッシュ・ヴィハンという友人からの作曲要請があったようです。ですがドヴォルザークにはチェロを協奏曲の独奏楽器としてはあまり効果的でないと考えていたようです。しかし、この曲を聴いていると管弦楽とチェロのバランス、音の混ぜ合わせなどは、彼自身ヴィオラの奏者であったことも伏線にあったような気がします。

この作品は、親しみやすい旋律に満ちていることから、その主題が先住民インディアンや南部の黒人の歌謡から採られたという説があります。この説はともあれ、ボヘミアの民俗舞曲であるポルカ風のリズムも感じられます。チェロ協奏曲の範疇にとどまらず協奏曲という形式でも最高傑作の一つとして評価される作品です。

心に残る名曲 その二十四 ドヴォルザークとスメタナ

交響曲第9番「新世界より(New World)」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ(America)」と並ぶドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作の一つといわれるのが、チェロ(Cello)協奏曲です。協奏曲とは複数の独奏楽器と管弦楽で演奏される多楽章形式の曲です。

ドヴォルザークの故郷はボヘミア(Bohemia)。ボヘミアはとは現在のチェコ(Czech)の西中部地方を指す地名です。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指したようです。首都はプラハ(Prague)です。

1892年9月にドヴォルザークはニューヨークにやってきます。そしてナショナル音楽院(National Conservatory)の院長に迎えられ、講義や作曲に没頭します。ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を調べ、それを自身の作品に反映させたのが「新世界より」とか「アメリカ」です。

ドヴォルザークはスメタナ(Bedrich Smetana)とともに、民族性や地域性と国際的水準との両立を目指した作曲家や音楽家の総称であるボヘミア楽派(Bohemian school)と呼ばれます。特にスメタナは、チェコの独立、チェコ民族主義と密接に関連する国民楽派を発展させた先駆者といわれます。その代表曲が「わが祖国」といわれ、チェコの歴史や伝説、風景を描写した作品といわれます。

心に残る名曲 その二十三 「アンヴィル・コーラス」 イル・トロヴァトーレから

ヴェルディ(Giuseppe Verdi) 歌劇、イル・トロヴァトーレ(IL Trovatore)の合唱は「アンヴィル・コーラス」(Anvil chorus)として知られています。ジブシー(gypsy)の男たちが鍛冶仕事で金床(Anvil )をリズムよくハンマーで叩きながら歌うので、「鍛冶屋の合唱」とも呼ばれています。ジブシーは、かつてヨーロッパ各地にいた移動型の民族のことですが、今はこの言葉は使われません。

イル・トロヴァトーレは、中世の騎士物語ともいわれ、美女をめぐって生き別れになった兄弟の公爵と吟遊詩人の争い、ジプシー女の呪い、母娘二代にわたる復讐といった複雑な舞台劇です。

このオペラは華やかな旋律が歌手たちの声や合唱、管弦楽で満ちています。オペラ史上最大級の作曲家と呼ばれるヴェルディの作品のなかでも、これほど輝かしくも悲劇にふさわしく翳りあるメロディが展開するオペラはそうはないと「Encyclopaedia Britannica」でいわれます。

「鍛冶屋の合唱」は、ジプシーたちが夜明けに歌うことから別名『Coro di Zingari ジプシーの合唱』とも呼ばれています。次のような歌詞となっています。
”Singing the praises of hard work, good wine, and Gypsy women.His lovely Gypsy maid!”

心に残る名曲 その二十三 リヒアルト・ワーグナー

ワーグナー(Richard Wagner)はバッハが活躍したライプツイッヒで育ちます。幼少期から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽で身を立てていきます。ワーグナーは、ライプツィヒ大学(Universität Leipzig)で学び、音楽を学んでからはドレスデン(Dresden)の宮廷楽長とし迎えられます。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバー(Carl von Weber)から強い影響を受けたといわれます。

「ローエングリン(Lohengrin)」、「トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)」といった楽劇(Musikdrama)のほかに、「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer)」という神罰によって、現世と煉獄の間をさまよい続けているオランダ人の幽霊船が喜望峰で遠望されるという物語の曲もあります。神話や伝説に題材にして求め、人間は女性の愛によって救われるという考え方が以上の作品に貫かれています。

自由を圧迫するドイツ社会への失望し、1849年にドレスデンの革命に参加し、ロシアの革命家のバクーニン(Mikhail Bakunin)と交流するなどで指名手配されます。そしてスイスに亡命します。追放は1862年に解除されバイエルン国王の保護で宮廷楽長となります。

ワーグナーは、いくつかの特徴的な旋律で劇中の人物を表現するという手法をとりいれ、巨大な管弦楽法によって分厚い和音や半音階的進行、無限に流れる旋律などを曲に盛り込みます。これが楽劇という形式です。それまでの歌唱とかアリア偏重のオペラに対して,音楽と劇の進行を密にし融合を図った音楽形式といわれます。その形式を確立したワーグナーは「楽劇王」と呼ばれるようになります。

心に残る名曲 その二十二 「兵士の合唱」 ファウストから

フランスの作曲家、シャルル・グノー(Charles Gounod)の作品にドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の劇詩「ファウスト(Faust)」第1部に基づく同名のオペラがあります。

老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆きます。そして服毒自殺を図るのですが思いとどまります。そこに悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が現れ、 ファウストの望みを聞くというストーリーです。このオペラで歌われるのが「兵士の合唱」です。

グノーの作品に合唱曲として「賛歌と教皇の行進曲」があります。バチカンの国歌(National Hymn of Vatican)ともいわれます。彼の作品は、優雅でやさしい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った音楽といわれます。フランス近代歌曲の父とも呼ばれ、は今日も広く愛されています。バッハのクラヴィアを援用した「アベ・マリア」の作曲でも知られています。

心に残る名曲 その二十一 「巡礼の合唱」 タンボイザー WWV70から

「タンホイザー」(Tannhäuser WWV.70)ワーグナー(Richard Wagner)が作曲した全3幕のオペラです。正式な名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sangerkrieg auf Wartburg)といいます。このオペラで良く知られているのは序曲(Overture)、第2幕のエリザベート(Elizabeth)のアリア(Aria)、「大行進曲」などで個別でもよく演奏されています

ところで、ワーグナー作品目録は、Wagner-Werke-Verzeichnis(WWV) といわれています。作品目録は1番から113番までの番号が付されています。バッハの作品の目録である「BWV」と同じです。

「巡礼の合唱」(Pilgrim’s Chorus)ですが、中世のドイツでは、騎士たちの中で吟遊詩人(Minstrel)となって歌う習慣があったといわれます。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲン(Thüringen)の領主の親族にあたるエリザベート(Elizabeth)と清き愛で結ばれていたのですが、ふとしたことから官能の愛を求めるようになります。

我に返ったタンホイザーは自分の行為を悔やみますが、領主はタンホイザーを追放します。そして領主はタンホイザーにローマに巡礼に行き教皇の赦しが得られれば戻ってきてよいと云います。彼は巡礼に加わりヴァルトブルク(Waltburg)城を去ります。

ヴァルトブルク城近くの谷。タンホイザーが旅立ってから月日がたちます。エリザベートは、タンホイザーが赦しを得て戻ってくるようにと毎日祈り続けます。やがてローマから巡礼の一行が戻ってきます。エリザベートはその中にタンホイザーを探すのですが、彼はいません。このとき歌われるのが「巡礼の合唱」です。

心に残る名曲 その二十 グレゴリオ聖歌 その2 その特徴

グレゴリオ聖歌のように歌を典礼に導入する形式は、元をたどればユダヤ教のシナゴーグ音楽(synagogue music)に由来します。ユダヤ教の礼拝儀式ではヘブライ語(Hebrew)による宗教歌が歌われます。それらは旧約聖書の朗唱,祈祷歌,賛歌などでいずれも無伴奏です。ヒンズー教(Hindu)も 同じような形式の歌を礼拝でとりいれています。

グレゴリオ聖歌の特徴としては次のことが挙げられます。
1)無伴奏のユニゾンによって歌われる、一本の単純な旋律なのでプレインソング(plainsong)とも呼ばれる
2)全音階のみを使ってすべての旋律を表現する方法でできている
3)2拍子、3拍子といった拍節がない
4)歌の終り感がない
5)歌詞はラテン語

ミサで歌われる祈りのグレゴリオ聖歌はキリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクタス(Benedictus)、アニュスデイ(Agnus Dei)からなります。

Kyrieとは、「主」を意味し、「Kyrie eleison)」「主よ憐れみ給え」と三度唱和します。7世紀になるとGloriaが加わります「栄光」という意味で、もともと詩篇(Psalm)にある歌詞が引用されます。11世紀頃、Credoが採用され「信条」「信仰」として歌われます。Sanctusは「聖なる」、Benedictusは「恵みある」で初期のキリスト教時代である使徒時代(Apostolic Time)に作られたようです。Agnus Deiは「神の子羊」とされ7世紀の東方教会のミサで歌われ定着しました。

心に残る名曲 その十九 グレゴリオ聖歌 その1 名前の由来

グレゴリオ聖歌(Gregorian chant)は単旋律(monophonic)でユニゾン(unsion)によるローマカトリック教会の典礼音楽です。ミサの中で歌詞に旋律が付けられたものです。590年から604年までローマ教皇であったグレゴリウス1世(Gregorius)にちなみ、770年頃からグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)と呼ばれるようになります。グレゴリウスは聖歌をいわば公認したというわけです。「Chant」とは聖句を詠唱するとか単調な旋律で繰り返し歌う、という意味です。もともとはフランス語です。

フランク王国(Frank)のカール大帝(Charlemagne)らによる古典復興といわれるカロリング・ルネッサンス(Carolingian Renaissance)が起こる800年頃の文化隆盛期に聖歌は大きく育ったといわれます。それは、フランク王国がキリスト教を受容し、グレゴリオ聖歌をミサで使い、王国の運営にも教会の聖職者たちが多くを担ったこともあります。やがて聖歌は西方全域へと波及し、ローマカトリック教会もこれを採用します。

キリスト教の伝統的な聖歌には二種類あります。一つは東方教会で使われるビザンティン聖歌(Byzantine Chant)です。ギリシャ正教会の奉神礼で用いられる歌でギリシャ語世界に存在する聖歌です。西方教会を代表するのがグレゴリオ聖歌です。

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心に残る名曲 その十八 バッハと三つの時代

バッハが特に影響を受けた作曲家の一人がブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)であることを既に述べました。ブリタニカ国際大事典によりますと、1705年に北ドイツにあるルーベック(Leubeck)を訪ね、ブクステフーデの壮麗な演奏と作品に触れたことが彼の音楽的成長に大きな役割を及ぼしたとあります。「トッカータとフーガ 二短調 BWV 565」はその代表です。1708年にワイマール(Weimar)公の宮廷に礼拝堂オルガニスト、兼オーケストラのヴァイオリニストとして迎えられます。「トッカータ、アダージョとフーガBWV564」やコラール前奏曲、「オルガン小曲集BWV599-644」などから、ワイマール時代がバッハの「オルガン曲の時代」と呼ばれる所以です。

しかし、ワイマール公爵家の内紛や楽長の死後、その後任に選ばれなかったことの理由からバッハはワイマールを辞します。そしてハインリッヒ・ケーテン公(Heinrich von Anhalt-Köthen)に招かれます。そこでは世俗的な器楽の作曲と演奏が主な職務となります。有名な「無伴奏チェロ組曲BWV1007」、「ブランデンブルグ協奏曲BWV1046-51」などを完成させます。さらに「平均律クラビーア曲集BWV846-69」「インヴェンション BWV772-80」など多くのクラヴィア曲を作ります。ケーテンでの六年間はバッハにとって「世俗器楽曲の時代」と呼ばれました。

さらに1723年からライプツイッヒ(Leipzig)に移り、聖トーマス教会(St. Thomas)と聖ニコライ(St. Nicholas)教会の音楽監督(カントル)として作曲にも注ぎます。そして「ヨハネ受難曲 BWV145」、「マタイ受難曲 BWV244」、「クリスマスオラトリオ BWV248」、「ロ短調ミサ曲 BWV232」といった「四大教会音楽」を残す活躍を示します。そうした作曲活動からライプツイッヒ時代は「教会声楽曲の時代」と呼ばれるくらいです。