心に残る名曲 その四十六 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その二  民謡的色彩

ブラームスの声楽曲はもとより、器楽曲の多くの主題やモチーフの中に民謡的な性格が見いだされると指摘されています。例えばヴァイオリンソナタ第一番ト長調と第二番イ長調に、自作の「雨の歌」、「歌の調べのように」が転用されています。管弦楽曲や室内楽曲が複雑で精緻な構造を持っているにも関わらず、きわめて自然で親しみやすいのは、このような主題やモチーフの有する民謡的、歌曲風な性格に由来しています。

ブラームスの作品の特徴ですが、劇音楽や交響詩が少ないこと、器楽曲と声楽曲が同じ程度なのですが器楽曲では室内楽が圧倒的に多いことです。管弦楽曲でも伝統的な形式を重んじ、重厚で壮大かつ精緻な印象を受けます。

ブラームスの民謡との関わりです。フランス革命とナポレオン(Napoleon Bonaparte)の出現による各国での民族意識の高揚と自国の文化遺産の再発見がその理由といえそうです。ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧します。イタリア・ドイツ西南部諸国・ポーランドはフランス帝国の属国に、そしてドイツ系の残る二大国、オーストリア・プロイセンも従属的な同盟国となります。独裁や圧政から独立を獲得するためには、こうした民族意識は欠かせない要因です。

心に残る名曲 その四十五 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その一ドイツ民謡の精神的風土

ブラームス(Johannes Brahms)といえば、我が国でも非常に人気の高いドイツの作曲家です。その理由は、作品の楽風にあるような気がします。ソナタ、変奏曲、室内楽曲、交響曲などの古典的な形式を蘇生し、復活しようとしたといわれます。

Johannes Brahms
Capriccio, Op. 76, no. 1
Music Deposit 17 (formerly known as Ma21 B73 op.76 no.1)
Page 4
Gilmore Music Library, Yale University

ブラームスは父からヴァイオリンとチェロの手ほどどきを受け、私立学校にはいります。そこで聖書を愛読したといわれます。やがてピアノも学び、バッハやベートーウェンのドイツ古典主義の精神を学んだようです。

中世の「教会旋律」、「ネーデルランド(Netherland)楽派のカノン(Canon)」、「パレストリーナ様式(Palestrina)」、「フーガ(Fuga)」、「パッサカリア’Passacalia)」、「無伴奏モテット(Motteo)」、「コラール(Chorale)」など、遠く中世やルネッサンス時代にまでさかのぼる遺産を復活させた作曲家です。

教会旋律とはグレゴリア聖歌の分類に使われる終止音によって四つに分類されます。終止音から高く上がり下がりします。カノンとは、複数の声部がおなじ旋律を異なる時点からそれぞれ演奏されます。「主よ、人の望の喜びよ」とかパッヘルベル(Pachelbel)のカノンにみられる様式です。パレストリーナ様式とは、滑らかな旋律の流れ、豊かな和音の連続による完璧な和声、厳格な対位法、などルネッサンス音楽の様式のことです。フーガとは模倣対位法といわれ遁走曲といわれます。パッサカリアはスペインとイタリアで盛んになった遅い三拍子の舞曲のことです。モテットとは声楽曲のジャンルの一つです。中世末からルネッサンス音楽にかけて発達しました。

心に残る名曲 その四十三 「エグモント序曲」 Egmont Overture

ベートーヴェン(Ludlich van Beethoven)作曲の劇付随音楽です。現在では序曲(Overture)のみが単独で演奏されることがほとんどです。「エグモント(Egmont )」とはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の戯曲「エグモント」を題材としていて、16世紀のフランドルの軍人で政治家であったラモラール・ファン・エフモント(Lamoraal van Egmont)のことといわれます。

ネーデルラント(Netherland)諸州がスペインに対して反乱を起こしたのが八十年戦争といわれます。その指導者がエフモントでした。これをきっかけに後にオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれています。なおフランドル(Flandern)とは今のオランダの南部、ベルギー西部、そしてフランス西部地域を指します。

エフモントが圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、やがて逮捕され死刑に処せられます。その男の自己犠牲と英雄的な行為に基づいてベートーヴェンが作曲したといわれます。荘厳さ、力強さ、雄渾多感さなど「皇帝」や「英雄」を想起させるような旋律も登場します。

心に残る名曲 その四十三 シューベルトと「シューベルティアーデ(Schubertiade) 」

シューベルト(Franz Peter Schubert)は、早くから楽才を示し、11歳のとき王室礼拝堂の少年聖歌隊に採用されます。その後国立神学校で音楽教育を受けます。その頃から演奏や作曲に腕をふるいます。17歳で交響曲第一番ニ長調を作曲し、1814年には「野薔薇」、「魔王」、「たゆみなき愛」、等のドイツリート(Lied)を作ります。「美しき水車小屋の娘」、ピアノ独奏曲「楽興の時」など、良く歌う旋律、リズム、豊かな音色や鮮やかな転調などによって特色づけられている交響曲、室内楽曲、即興曲やピアノの作品を次々と作ります。

1820年頃には、彼の作品を聴くための芸術的なくつろいだ集まりができます。これはシューベルティアーデ(Schubertiade)と呼ばれました。音楽協会の名誉会員に推挙され、その返礼に作ったのが「未完成交響曲」といわれます。第二楽章で終わる有名な曲です。

確かにシューベルトは歌曲を始め交響曲などをたくさん作ったのですが、教会音楽の作曲家としても忘れてはならないことです。それは教育を受けた神学校においてカトリシズム(Catholicism)の影響を受けたからだろうと容易に考えられます。ミサ曲を6曲も作っています。最初の4曲は、明るい叙情、流麗な旋律で古典派音楽の伝統を踏まえた形式を備えています。ミサ曲第二番のト長調(Mass No. 2 in G Major) は、壮麗さや輝かしさに満ちています。ソプラノの独唱も交じったキリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクトス(Benedictus)、アニュデイ(Agnus Dei)が合唱と共に響きます。

心に残る名曲 その四十二 「ロザムンデ序曲」

中学や高校の音楽室にはなぜか、年代順に歴代の有名な作曲家の絵がかかっていました。シューベルト(Franz Peter Schubert)もそうです。シューベルトは各分野に名曲を残しますが、とりわけドイツ歌曲(Lied)において功績が大きいので「歌曲の王」と呼ばれています。短命の作曲家たちに比べても最も短命でその一生は31年。その間、シューベルトは600曲以上の歌曲作ったといわれます。「野薔薇」、「冬の旅」、「魔王」はなんども歌い、「鱒」はよく聞かされました。ピアノ五重奏曲にも「鱒」というのがあります。

「キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde)作品26はシューベルトが同名のロマン劇のために作曲した劇付随音楽とあります。音楽事典によりますと、劇付随音楽とは劇の台本や進行に合わせ作曲された音楽だそうです。劇や芝居を盛り上げ、様々な効果を作り出すために創作され、序曲、間奏曲、挿入曲などから成るとされます。

ロザムンデ序曲は、アンダンテの序奏と「アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)」という楽曲のハ長調の主部からなり、序奏の部分は少々劇的に暗いのですが、一変して叙情的でロマン的な旋律の美しさへと移ります。アレグロ・ヴィヴァーチェとは「生き生きと」の意味で,快活で速く明確なアクセントをもつ旋律のことです。主部はソナタ形式による単純な形をとっていますが、親しみやすい楽想を有しています。ロマン的とは「ロマンティックな音楽」とでも云えます。やわらかく夢見がちな雰囲気を連想させるような音楽という意味で使われています。

心に残る名曲 その四十一 「ピアノ協奏曲第五番 変ホ長調ー皇帝」

ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の名曲の一つです。骨太で男性的な雰囲気のする旋律で横溢しています。なるほどこの曲には「皇帝」の通称がついています。皇帝とはいったい誰なのかが気になります。まさかナポレオン(Napoleon Bonaparte)ではないでしょうが、、当時のオーストリア皇帝フランツ二世(Franz II)かもしれません。その時代はフランスとオーストリア帝国、ハプスブルク帝国らが盛んに覇権争いをしていました。

ベートーヴェンはバッハ(Johan Sebastian Bach)等と並んで音楽史上幾多の名曲を作ったことで知られています。「楽聖」という称号のようなものが与えられています。晩年は耳が遠くなったということを小学校の音楽の時間にきいたことがあります。

この協奏曲は、全3楽章構成となっており、第2楽章と第3楽章は続けて演奏されます。全曲にわたって雄渾壮大とか威風堂々といった旋律が続きます。管弦楽とピアノのまさに競演が最後まで続きます。ときに第二楽章では幽玄な風情の旋律を弦がおごそかに奏でるのも印象的です。第三楽章はソナタ形式で、同じ主題が何度も弾かれ、ロンド形式の風体を示しています。快活なリズムで始まり、最後はティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲 その四十 「クラリネット協奏曲 イ長調」  K.622

モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が協奏曲のジャンルで残した最後の作品であり、クラリネットのための唯一の協奏曲といわれています。復習ですが協奏曲とは別名コンチェルト(Concerto)、管弦楽団を従えて独奏するような形式です。管弦楽は黒子のような存在なのですが、この協奏曲を聴いているまるでクラリネットと競争するかのような、掛け合いのようなすばらしい協演を聴かせてくれます。

第一楽章はアレグロ(allegro)とあります。音楽用語ですが、イタリア語本来の意味は「陽気な、快活な」だそうですが、まさにそんな感じのする楽章です。歌劇「魔笛」の一部を編曲したような快活な楽章です。色彩豊かな旋律で満ちています。

第二楽章は、アダージョ(adagio)、つまり遅い速度で書かれた楽章です。なんともやるせないというか、切ないというか、なんともとろけるクリームが口のなかに広がるみたいな感じです。

第三楽章はロンド(rondo)とあります。踊り手がまるい輪をつくって踊るかのような雰囲気です。ロンドとは舞踏歌とか輪舞曲ともいわれています。同じ旋律を幾度も繰り返す形式の楽章です。なまめかしく色っぽいさま、男の気をそそるさまを「コケティッシュ(coquetry)」というのだそうですが、この楽章はそんな雰囲気が横溢しています。

心に残る名曲 その三十九  「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中、最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。

 

 

 

 

 

各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式(sonata)です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章(scherzo)です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンド(rondo)とは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンドとは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

第3楽章の主題は、ドヴォルザークがチェコからの移民が多く住んでいたアイオワ州スピルヴィル(Spillville, Iowa)を訪ねたときに、森で聴いた鳥のさえずりを下敷きとしたとされています。Spillvilleの街のサイトへ行きますと、ドヴォルザーク一色の説明や写真がでています。

 

心に残る名曲 その三十八 「魔弾の射手」

ウェーバ(Carl Maria von Weber)といえば、我が国では「魔弾の射手(Der Freischütz)」が最も親しまれているように思われます。ドイツの民話を題材とし、魔の潜む深い森や、封建時代の素朴な中にも良き生活を描いたこの作品序曲は特に有名です。その冒頭部分は讃美歌285番「主よ御手もて引かせ給え」として歌われています。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力し、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)」上演以後、低落していた歌劇を再興させたといわれます。

1817年には、ザクセン(Saxony)の宮廷楽長に任命され、ドレスデン(Dresden)歌劇場に移ります。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ウェーバは自身のドイツ・オペラをひっさげて登場します。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。作曲家だけでなく、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行ったとあります。

魔弾の射手が初演されたのは1821年。ベルリンで大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てのがこの曲です。後に大作曲家となる多くの人物、例えばワーグナー(Richard Wagner)やベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)がこの魔弾の射手を観て作曲家を志したとも言われます。

ともあれ、11歳で初めてオペラを作曲し、魔弾の射手の他に「オベロン(Oberon)」などのオペラのほか、「舞踏への勧誘(Aufforderung zum Tanz)」などの器楽曲も残しています。この曲も日本でも広く演奏されています。指揮棒を初めて用いた作曲家としても知られています。

心に残る名曲 その三十七 「フィンランディア」 Finlandia

フィンランド(Finland)の別名は「スオミ(Suomi)」です。Suomiとはフィンランド語とかフィンランド民族を表す語です。この国の首都はヘルシンキ(Helsinki)。戦後日本が最初のオリンピックに出場したのが1952年にヘルシンキで開かれた第十五回オリンピックです。私がヨーロッパへ最初に行った国もフィンランドでした。

フィンランドは東部のロシアとの国境地方において絶え間ない戦乱に悩まされてきました。17世紀にロシア帝国のピュートル(Pyotr)大帝はフィンランドを幾度もせめたて、女帝のエリザベート(Elizabeth)はロシアの宗主国のもとにフィンランドを別個の国家としたりします。次いでロシア皇帝アレクサンドル1世(Aleksandr I)はフィンランドに侵入し併合します。やがてロシアの宥和政策によりフィンランドは自治を有する大公国として憲法や国会を持つことが許され、フィンランドの民族意識が高まっていきます。

民族意識の高まりを広げた代表はエリアス・リョンロート(Elias Lennrot)の編集する偉大な民族叙事詩「カレワラ(Kalevala)」で、この公刊によって民族精神が高揚されていきます。「Kalevala」とは「英雄の地」の意味です。民間説話からまとめられ、フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つとされます。1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えた文学作品といわれています。

フィンランドを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。1892年にカレワラに基づくクレルボ交響曲(Kullervo)や有名な交響詩フィンランディア(Finlandia)を作曲したことで知られています。特にフィンランディアは8曲からなる管弦楽組曲で、その最終曲を改稿して独立させたものが「フィンランドは目覚める」という曲です。フィンランドの国歌は「我等の地」ですが、それに次ぐ第二の愛国歌として広く歌われています。別名は「フィンランディア賛歌(Finlandia-hymni)」とも呼ばれ、文字通り讃美歌としても世界中で歌われています。

シベリウスの作風は、チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、グリーク(Edvard Grieg)、ドヴォルザーク(Antonín Dvorak)などの国民楽派の影響を受けたといわれます。この辺りの事情は私には勉強不足でよく理解しておりません。

心に残る名曲 その三十六 Robert Shaw ChoraleとChanticleerとNorman Luboff Choir

アメリカの合唱団の話題です。ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)は、1948年から1965年にアメリカを中心に活躍した男声合唱団です。合唱団が歌うレパートリーはバッハから民謡、そしてブロードウエイ(Broadway)で歌われるミュージカルに至る幅広い曲目です。アメリカ国務省(Department of State)主催の文化交流プログラムによって、ヨーロッパ、中東、南アメリカ、ソビエトなどを演奏旅行しています。

合唱団のメンバーの多くはニューヨークにある世界で最も優秀な音楽大学の中の1つ、ジュリアード音楽院 (Juilliard School)や他の音楽大学の卒業生から選ばれました。統一された声量、パート間の調和、優雅な音質や旋律など絶妙なハーモニーで知られました。

次ぎに、チャンティクリア(Chanticleer)というグループです。サンフランシスコに拠点を置く男声アンサンブル(ensemble)グループです。まるで「声楽のオーケストラ(An Orchestra of Voices)」と呼ばれるほど、深く太い和声の響きにほれぼれとします。

1978年に創立され、12名のカウンターテナー(countertenor)からバス(bass)で構成され、中世ルネッサンスの音楽から宗教曲、民謡まで幅広いレパートリーを持つことで知られています。歌う形式は、ほとんどア・カペラ(a cappella)という伴奏をつけない歌い方です。2008年には、Musical Americaという雑誌で、アメリカで最高のアンサンブルグループとして評価されます。

次ぎにノーマン・ルボフ合唱団(Norman Luboff Choir)の紹介です。ルボフはシカゴ生まれ。やがてノーマン・ルボフ合唱団を創立しその指揮者、編曲家とし活躍します。主に1950年代から1970年代にアメリカを中心に、やがて世界中で演奏会を催します。75のアルバムを出版しますが特にクリスマス歌特集は有名で、1961年にはグラミー賞(Grammy Award)を受賞します。

心に残る名曲 その三十五 「ウ・ボイ(U Boj, U Boj!)」

クロアチア(Croatia)の愛国歌といわれる勇壮な男声合唱曲です。意味は「戦へ、戦へ」。ザイツ (Ivan Zajc) によって1866年に書かれました。作詞はマルコヴィッチ (Franjo Markovic)で、1876年に作曲した歌劇の終幕の一節としても歌われてきました。

クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン(Balkans)半島に位置する共和制の国です。この半島でクロアチアは、西にスロベニア(Slovenia)、北にハンガリー(Hungary)、東にボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)、セルビア(Serbia)と国境を接しています。南はアドリア海(Adriatic Sea)に面し対岸はイタリア、東にモンテネグロ(Montenegro)と接しています。首都はザグレブ(Zagreb)です。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた、第一次世界大戦勃発の原因も財政問題と関連したバルカン半島の民族問題にありました。1990年代以降にユーゴスラビア(Jugoslavija)紛争が発生します。その端緒、1991年にクロアチアはそれまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立します。しかし、民族紛争は2001年まで続きます。

ブリタニカ大百科事典によりますと、1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語(Serbia)と同一の言語だったようです。現在のクロアチア語ではもっぱらラテン文字を使用しています。

前置きが長くなりましたが、「ウ・ボイ(U Boj, u boj!)」はザイツが作曲した歌劇にでてきます。1566年頃にハプスブルク帝国(Habsburgisches Reich)に攻め入るトルコ軍と要塞を守るクロアチア太守をめぐるもので,最後に彼と兵士たちがトルコ軍めがけて突撃する場面で歌われたようです。

心に残る名曲 その三十四  「My Old Kentucky Home」

「アメリカ音楽の父」とか「19世紀の最も優れたソングライター」と呼ばれるのがスティーブン・フォスタ(Stephen Foster)です。「スティーブン」という名前は「ステファン」とか「ステパノ」とも呼ばれます。キリスト教会最初の殉教者がステパノで、石打ちの刑にあったことが使徒行伝6章8節にその記述があります。ちょっとした余談です。

フォスタはペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のアテネ(Athens)という小さな町で生まれます。このあたりにはヨーロッパからの移民が定住し、イタリア、スコットランド、アイルランド、ドイツ系の人々がいてフォスタは彼らの歌を聴く機会に恵まれたといわれます。

フォスタが最初に作曲したのは14歳のときです。その曲名は「Tioga Waltz)」、そして発表した曲集は「Open thy Lattic Love」というものです。1844年のことです。フォスタは正式な音楽教育を受けていません。それでもクラリネットやヴァイオリン、ギター、フルート、ピアノなどを弾いていました。作曲活動は、ドイツからきたHenry Kleberという楽譜購入者に師事しています。初期の作品は酒場で歌うような歌をつくります。「Mr & Mrs Brown」というのがそうです。さらにフォスタは教会讃美歌も書きます。「Seek and ye shall find」、「All around is bright and fair, while we work for Jesus」、「Blame not those who weap and sigh」といった曲です。南北戦争に関する曲も書いています。「The Pure, the Bright, the Beautiful」、「Over the River」、「Give Us This Day」、「My wife is a most knowing woman」といった曲です。

フォスタは通常手書きした楽譜をそのまま出版社に渡したようです。出版社はそれをフォスタに戻すとか図書館へ寄贈するのではなく、売り渡してしまったようです。手書きの楽譜は個人のコレクションになったりします。幸いにいくつかの楽譜はアメリカ議会図書館(Library of Congress)に保存されているということです。

一般にフォスタの曲の歌詞や旋律は出版社や演奏家によってアレンジされています。例えば「My Old Kentucky Home」はケンタッキーの州歌となります。「Old Folks at Home」はフロリダ州の歌ともなりました。フォスタ記念財団はこうした変更を承認してきました。フォスタの歌がこうしてさらに広まることになりました。

心に残る名曲 その三十三  「ラプソディー・イン・ブルー」 (Rhapsody in Blue)

ユダヤ系ロシア移民の息子として、ニューヨークのブルックリン(Brooklyn)に生まれたジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)は、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家といわれます。

独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残します。例えば1928年に発表した「パリのアメリカ人」(An American in Paris)、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ の「ポーギーとベス」( Porgy and Bess)などです。この曲は全3幕のオペラです。有名なアリア「サマータイム(Summer Time)」がこの中で歌われます。このオペラは初演時は反響は得られなかったのですが、後日高く評価されることになります。

「ラプソディー・イン・ブルー」 はピアノ協奏曲といってよいのでしょうか。クラリネット(Clarinet)の酔いしれる感じの音が大人っぽく、美しい音色、Jazzというジャンルに入るような曲です。この曲を調べますと、「シンフォニック・ジャズの代表的な成功例」として世界的に評価されるようになります。アメリカ音楽の古典としてその地位を確立します。

ガーシュインが作曲活動に入った20世紀の初期のころは、フランスの作曲家で「ボレロ(Bolero)」を作ったラベル(Maurice Ravel)に影響を受けたといわれます。ラベルもまた「ラプソディー・イン・ブルー」のジャズ風のリズム、メロディに心酔したという記録があります。

「ラプソディー・イン・ブルー」を聴きますと、ジャズとクラシックを両方楽しむような気分になります。最終部に入る前の哀愁的なメロディはグローフェ(Ferde Grofe)の組曲「大峡谷」を思わせるようです。

心に残る名曲 その三十二  ピアノ協奏曲第2番ハ短調 (Piano Concerto No 2 in C minor)

作曲家でピアノ奏者、そして指揮者であるラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)は1873年に生まれ、ペテルスブルグ音楽院やモスクワ音楽院でピアノを学びます。

作品は主情的で色彩的、技法も長短調半音階和声の枠をでない19世紀後期ロマン派の様式や音楽感を温存しています。「チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)にかえれ、」という音楽運動の主導者でもありました。それだけに聴衆に親しみやすく、ピアノの作品にその特徴が現れています。

一時、神経衰弱で創作活動を中断します。家族や友人から心理療法(psychotherapy)や催眠療法(hypnotherapy)を勧められて回復します。1917年にロシア革命が勃発します。ラフマニノフはストックホルムに居を移します。さらにアメリカに渡りピアノと管弦楽のための「パガニーニの主題による狂詩曲」などを作曲します。

「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」は1901年に叔父のシロティ(Siloti conducting)が指揮し、ラフマニノフのピアノ演奏で披露されます。 この曲はラフマニノフの最高傑作の一つといわれ、協奏曲の作曲家として名声を確立したといわれます。

第一楽章は、Moderatoのソナタ形式で、主題に先駆けて、ピアノ独奏がロシア正教の鐘を模してゆっくりとしてクレシェンドし続けながら和音連打を打ち鳴らします。そして導入部が最高潮に達したところで主部へとうつります。

第二楽章は、Adagio sostenutoとあります。「sostenuto」とは「音を十分保持して、速度を抑え気味に弾く」という音楽用語です。神秘的なピアニッシモで始まります。弦楽合奏の序奏は、ハ短調の主和音からクレシェンドしながら4小節でホ長調へ転調しピアノ独奏を呼び入れます。

第三楽章は、Allegro とあります。「scherzando」とは「戯れ気味な演奏」といわれます。イタリア語で「冗談」を意味します。抒情的な第1、第2主題が交互に現れ、後のピアノの自由に即興的な演奏の後に管弦楽とピアノが盛り上がるシーンは圧巻です。

心に残る名曲 その三十九 「ドイツ人の歌」(Das Lied der Deutschen)

現在のドイツの国旗は黒・赤・金から成ります。ドイツの歌詞は、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での自由主義的な統一ドイツをもたらそうとした1848年のドイツ三月革命のシンボルとなったといわれます。ドイツ帝国崩壊後のヴァイマル共和国(Weimarer Republik) 時代に正式に国歌として採用されます。1990年11月のドイツの統一後、歌詞の3番のみをドイツ連邦共和国の国歌とすることが確定しました。作曲したのはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)です。作詞者は、アウグスト・ファラースレーベン(August Heinrich Hoffmann von Fallersleben)で作ったのは1841年です。

この作詞には次のようなエピソードが伝えられています。反体制的な詩集を発行したということで、ファラースレーベンは教鞭をとっていた大学から追放されます。まだ英国領だった北海のヘルゴラント島(Heligoland)へ向かう船に、偶然フランスと英国の軍楽隊が同乗し、英国国歌『女王陛下万歳』(God Save the Queen)とフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』(La Marseillaise)を演奏していたのです。当時ドイツという国はなく、「ドイツ連邦」というものがあるだけで、統一国家も国歌もなかったため、彼は大きなショックを受けたといわれます。

そこで、ファラースレーベンはヘルゴラント島でドイツ民族の統一を願ってこの歌詞を作詞し、その後ハンブルクの出版社フリードリヒ・カンペ(Friedlich Kampe)が初版を出します。題名は、「ドイツの歌」(Das Lied der Deutschen)と云います。

この歌詞の三番にはドイツ民族の統一に対しての展望が書かれています。歌詞の中にある「Einigkeit und Recht und Freiheit; 統一と正義と自由」は、ドイツ連邦共和国の標語となっています。統一とは団結、正義とは法と権利ということです。

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心に残る名曲 その三十八  トランペット協奏曲変ホ長調 (Trumpet Concerto in E flat major)

フランツ・ヨゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、古典派を代表するオーストリア(Austria) の作曲家です。108の交響曲、102の弦楽合奏曲、56のクラヴィア独奏用ソナタを作曲しそれゆえに「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれています。

ハイドンの活躍は、当時のオーストリアやハンガリーの金持ちといわれた伯爵や公爵に召し抱えられたことにもよるようです。例えば、モルツィン伯爵(Karl von Morzin)、エステルハージ公爵(Nikolaus Esterhazy)といった人々です。いずれも宮廷楽長として迎えられるのです。主に管弦楽の指導とか楽譜や楽器の管理、人選などを担当します。当時の管弦楽といえば12〜13名の楽団員で構成されます。

ハイドンは「聖譚曲」と呼ばれるオラトリオ(oratorio)も作曲します。1600年代のバロック音楽を代表する楽曲形式がオラトリオです。「天地創造」がその代表です。

トランペット協奏曲変ホ長調のことです。作曲されたのは1796年。長年の友人でトランペット奏者であった Anton Weidingerの要望に応じて作曲したといわれます。あまたのトランペット協奏曲でも最も選れた曲で、ハイドンの最高傑作ともいわれるほどです。なお1830年代になり、今のようなピストンとかバルブ方式のトランペットができたようです。

この曲は協奏曲のスタイルである三楽章から成ります。第一楽章のAllegro (sonata)は長いオーケストラの前奏に続いてトランペットの独奏、そしてサックスやフルートとの掛け合いが続きます。第二楽章のAndanteは4分の3拍子ワルツの優しいメロディ。オーケストラとの音の受け渡しは絶妙です。第三楽章のAllegro (rondo)は4分の2拍子の溌剌とした曲想で華やかさで満ちます。

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心に残る名曲 その三十七  「Go tell it on the mountain」

この曲もまた、アフリカン・アメリカンのスピリッチュアルソングです。ジョン・ワーク(John Wesley Work)という人が1865年頃に採譜したといわれます。それ以来、ゴスペルシンガーや歌手によって歌われレコーディングもされてきました。この曲は歌詞の内容からしますとキリストの誕生を祝うものですから、クリスマスキャロル(Christmas Carol)というジャンルに入れてよいようです。

Go tell it on the mountain
Over the hills and everywhere
Go tell it on the mountain
That Jesus Christ is born halleluya
The sheppard kept their watchin
All over the sheep
He hold the light from heaven
That shone a holy light, everybody

1963年にはPeter, Paul and Mary(PPM)が “Tell It on the Mountain”と言い換えて歌い始めます。この頃は公民権運動が高まった時代で、出エジプト記(Exodus)にある「Let my people go」 ”我が民を脱出させよ” をもじって黒人の人権回復を叫ぶ歌となります。そしてその主張は広く受け入れらるのです。

宗教学者で公民権歴史の研究家であるCharles Marshという人によれば、公民権運動の指導者の一人、Fannie Lou Hamerが”Tell It on the Mountain”の歌と同じく霊歌である”Go Down Moses”を結びつけ、最後の歌詞にある”Let my people go”を “Go Tell It on the Mountain”に置き換えるように編曲したということです。人々の間で幅広く歌われた音楽であることを物語る話です。

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