心に残る名曲  その百三十八 コダイ その1 民族音楽の重要さ

ゾルタン・コダイ(Kodaly Zoltan)は1882年生まれのハンガリーの作曲家です。民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者でもあります。両親は熱心なアマチュア音楽家で、父はヴァイオリンを、母はピアノを弾いていたそうです。コダイは子どもの頃からヴァイオリンの学習を始め、聖歌隊で歌いますが、系統的な音楽教育を受けることはありませんでした。
 1900年、コダイは現代語を学ぶためにブダペスト大学(Budapest University) に入学し、同時にブダペストのフランツ・リスト音楽院(Franz Liszt Akademie)で音楽を学び始めます。そこでドイツ人でブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家といわれたハンス・ケスラー(Hans Koessler)に作曲について師事します。
 1905年からコダイは、ハンガリーの北西部の辺境で民謡の収集を始めます。その結果をハンガリー民族学会で発表します。民謡について真摯に取り組んだ初期の研究者として、ハンガリーにおける民俗音楽学の分野における重要人物と称されるようになります。さらに1907年にはフランツ・リスト音楽院の教授に就任します。

ゾルタン・コダイ

心に残る名曲  その百三十七 アルビノーニ 「弦楽とオルガンのためのアダージョ」ニ短調

アルビノーニ(Tomaso Albinoni) ヴェネツィア (Venezia)生まれのバロック音楽の作曲家です。生前はオペラ作曲家として著名だったといわれますが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶されています。音楽事典によりますと、アルビノーニの作曲家としての生前の地位のほかには、裕福なヴェネツィア貴族の家系に生まれたということ以外、ほとんど分かっていないようです。

 アルビノーニの系統立った作品目録を作成したのが、イタリアの音楽学者ジャゾット(Remo Giazotto)です。ジャゾットは、ザクセン国立図書館(Sachsische Landesbibliothek)から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲し、「ト短調のアダージョ」を出版します。これが「アルビノーニのアダージョ」として親しまれるようになり、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になります。

 アルビノーニは50曲ほどのオペラを作曲し、そのうち20曲が1723年から1740年にかけて上演されたが、こんにちでは器楽曲、とりわけオーボエ協奏曲が最も知られているようです。

心に残る名曲  その百三十六 スメタナ 「わが祖国」

スメタナ(Bedrich Smetana)のことについては、「心に残る名曲 その二十四」で少し触れました。彼はチェコ(Czecho)のボヘミア(Bohemia)地方で生まれます。チェコは長らくオーストリア帝国(Austrian Empire)の支配下に置かれていました。スメタナは、チェコの民族主義と独立への願望をかき立て国民楽派という音楽運動を発展させた先駆者です。それ故にチェコ音楽の祖とみなされています。

BEDRICH SMETANA Bedrich Smetana 2 March 1824 – 12 May 1884 Czech composer Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

スメタナは1856年から1861年まで、ボヘミアを離れてスウェーデン(Sweeden)のヨーテボリ(Gothenburg)でピアニストおよび指揮者として活動します。やがて代表作となる「わが祖国」(My Country)を1874年から1879年にかけて作曲します。この曲は6つの交響詩です。第1曲「ヴィシェフラド」(Vysehrad)、そして第2曲「モルダウ」(The Moldau)が特に著名です。ヴィシェフラドは、プラハ(Prague)にある丘の城跡のことです。モルダウ川は源流からプラハ市内へと続く重要な川です。上流から下流への情景やプラハの風景が鮮明に描写されています。

  「モルダウ」の印象です。山奥深い水源から雪が溶けて水が集まっていき、森を抜け、そして角笛が響き渡り、村の結婚式の傍を行き過ぎていきます。徐々に水量が増えていき、プラハ市内を悠然と流れ、カレル橋(Karel)のたもとにきます。勇壮な古城を讃えるように華やかな演奏が続きます。親しみやすい旋律が12分間も続きます。チェコの指揮者、ラファエル・クーベリク(Rafael Kubelík)のチェコ・フィルによる演奏は聞き応えがあります。スメタナはオペラ「売られた花嫁」、「弦楽四重奏曲第1番 」などでも知られています。





心に残る名曲  その百三十五 オッフェンバック 「天国と地獄」序曲 

オッフェンバック(Jacques Offenbach)によって作曲されたオペレッタ(Operetta)「地獄のオルフェ」(Overture From Orpheus in the Underworld)の別題が「天国と地獄」(Heaven and Hell)です。オペレッタは喜歌劇とも呼ばれています。

 オッフェンバックは1819年、プロイセン王国(Kingdom of Prussia)のラインラント州(Rheinland)ケルン(Kolon)に生まれます。1833年に、チェロを学ぶためフランスのパリへ出ます。1848年の二月革命を避けドイツに一時帰国しますが、まもなく戻りその後は終生パリで生活したといわれます。

 演奏の傍ら作曲活動を続け、美しいメロディーを次々と生み出すことから、ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)はオッフェンバックを“シャンゼリゼのモーツァルト(Mozart of Champs-Elysees)と評したといわれます。「天国と地獄」やプロローグとエピローグをもつ3幕のオペラ歌劇「ホフマン物語」は、第二帝政期フランスを代表する文化の一つとして、歴史的にも作品的にも高い評価を得ている作品といわれます。「ホフマン物語」(The Tales of Hoffmann)の中の「ホフマンの舟歌」(Barcarola)は知られています。

心に残る名曲  その百三十四  パッヘルベル 「カノン」

ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel)はドイツのオルガン奏者で作曲家です。1773年〜77年までウィーンの聖ステファン大聖堂(St. Stephen’s Cathedral)の次席オルガン奏者となります。その頃、大バッハの父などと知己を得ます。

 

 

 

 

 

作品は多岐にわたっています。コラール変奏曲集(Chorale Variations)、コラール前奏曲(Chorale prelude)をはじめ、70曲に近いコラール曲を作ります。三声の「カノンとジグ」(Kanon und Gigue)ニ長調などの室内楽、トッカータ(Toccata)ホ短調、その他モテット、ミサ、マニフィカートなどの宗教声楽曲もよく知られています。中でも最も親しまれているのがカノン ニ長調(Canon in D Major)でしょう。

パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)のような大胆な和声法も用いず、「旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法」を好んで用いているといわれます。カノン ニ長調を聴くとなるほどと頷くことができます。

心に残る名曲  その百三十三 リヒテル 「ピアノ協奏曲第一番」

再度、ピアノ協奏曲第一番を取り上げます。演奏者はスヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav  Richter)です。ドイツ人を父にウクライナ(Ukrayina)で生まれ、主にロシアで活躍したピアニストです。在留ドイツ人として扱われたといわれます。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された人です。

 ドイツ人の父の家は代々ドイツルーテル教会に属する商家でした。幼いころに一家はオデッサ(Odessa)に移住します。父親は同地におけてルーテル派の教会である聖パウロ教会で合唱団長や、オルガン奏者を務めていました。また、音楽学校で教師をも務めたようです。
20世紀の最も偉大な巨匠の1人で、おそらくリヒテルの名前を知らないクラシック音楽愛好家はまずいないでしょう。しかし、その圧倒的な知名度にもかかわらず、彼は神秘のヴェールに包まれた謎の多いピアニストだったようです。当時の社会主義国家ソ連のイデオロギーの只中にいた彼は、出国を許されず、鉄のカーテンの西側の地方では、すごいピアニストがいるらしいともっぱら噂だったといいます。
その彼が西側に登場してセンセーショナルな話題を 呼び、衝撃を与えたのが1960年のことです。当時の録音によると、ラフマニノフの代表的な交響曲第一番は、彼が知性と感性と強靭な技巧を併せ持った、稀に見るピアニストであることを示していたという評価がされます。
リヒテルは日本にも何度も訪れて演奏しています。その静と動、強と弱、剛と柔の対比を極端につけた演奏は多くの人の魂を揺さぶり、 強い説得力を持って聴く人に迫ってきたと評価されています。
彼は非常に大きな手の持ち主で、一説によると、鍵盤の12度を上から悠々つかめるほどの、いわば「化け物の手」 を持っていたといわれています。超人伝説を語るエピソードになっています。
チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第一番 変ロ短調」

心に残る名曲  その百三十二 チャイコフスキー  「ピアノ協奏曲第一番」

このピアノ協奏曲(Piano Concerto No. 1)は、雄大な序奏と変則的なソナタ形式の主部からなります。非常によく知られた序奏は、シンフォニックで壮麗で、第二楽章は華麗で優美な構成、第四楽章はロシアの民族音楽を随所に入れています。

 チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)は当初友人だったルビンシテイン(Nikolai Rubinshtein)を初演者と考え、彼に献呈しようとして1874年のクリスマスにこの作品の草稿をルビンシテインともう2人の楽友に聞かせたとあります。その後、器楽部が完成した後で、ドイツ人ピアニストで指揮者のハンス・フォン・ビューロー(Hans von Bülow)へ献呈します。ビューローは高く評価し「独創的で高貴」と賛辞をおくったといわれます。1875年10月にビューローのピアノでボストンにて世界初演され大成功を収めます。

ボストンでの初演の1週間後、ロシア初演はサンクトペテルブルク(St. Petersburg)において、ロシア人ピアニストのグスタフ・コス(Gustav Koss)とチェコ人指揮者のナプラヴニーク(Eduard Napravnik)によって行われます。モスクワ初演はルビンシテインの指揮、タネーエフ(Sergei Taneyev)のピアノによって行われます。いずれも大成功の演奏で終わったといわれます。ルビンシテイン自身、その後何度も独奏ピアノを受け持ち、このピアノ協奏曲第一番を世に知らしめる役割を果たした功績者です。

心に残る名曲  その百三十一 バーンスタイン 「シンフォニック・ダンス」

レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)は、1918年生まれのアメリカ人の作曲家で指揮者です。ピアニストとしても知られ、カラヤン(Herbert von Karajan)やショルティ(Georg Solti)、ワルター(Bruno Walter)などとともに、20世紀後半の古典音楽界をリードしてきた指揮者であり作曲家です。存命していれば今年は100歳です。

 バーンスタインは、ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州(Massachusetts)に生まれます。父親は敬虔なユダヤ教徒。父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志します。ボストン・ラテン・スクール(Boston Latin School)というアメリカでは最初の公立高校で現存する最古の学校を経て、ハーヴァード大学(Harvard University)やカーティス音楽院(Curtis Institute of Music)で学びます。

彼が指揮者を志したのはミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos)というギリシャ人の指揮者の影響です。指揮ではライナー(Fritz Reiner)やクーセヴィツキー(Serge Koussevitzky)に師事し、作曲はピストン(Walter Piston)に師事します。カーティス音楽院を卒業後、しばらく仕事を得られない時期があったようです。1943年夏にニューヨーク・フィルハーモニック(New York Philharmonic)の副指揮者に就任します。1943年11月、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役として突然ニューヨーク・フィルを指揮します。なにせ本番の数時間前に決まったようです。リハーサルはなし、しかもコンサートはラジオで全国放送されたのです。

1958年、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任します。バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、以降11年間に渡るニューヨーク・フィルとの蜜月は数々の名演を残し、やがてニューヨーク・フィルは全盛期を迎えます。「ウエスト・サイド・ストーリ」の「シンフォニック・ダンス」(Symphonic Dances from West Side Story)を作曲するという音楽家でもあります。

心に残る名曲  その百三十 パガニーニ 「ヴァイオリン協奏曲1番ニ長調」

ニコロ・パガニーニ(Nicolo Paganini)は1782年10月生まれです。イタリアのヴァイオリニスト、ギタリストであり、作曲家です。特にヴァイオリンの超絶技巧奏者として世界的に知られています。
 ナポレオン1世の妹エリザ(Eliza)に招かれて宮廷オペラの指揮者となり、その後自作の演奏会をイタリアの各都市で開いたようです。 1828年はウィーン、1831年のパリとロンドンでの演奏会は空前の成功を収めます。奔放な性格で知られ,名人芸的演奏効果と強烈な表現でも有名です。
パガニーニは得意のヴァイオリン曲を多数残します。複数の弦を同時に押さえる奏法と呼ばれるダブルストップ(double stop)、左手で弦を指ではじくピチカート(pizzicato)、フラジョレット奏法(flagioletto)など、どれも高度な技術を必要とする難曲として知られています。フラジョレット奏法とは、「ハーモニクス」ともいわれ、「特定の倍音が浮き立つように発生させ、それを基音のように聞かせる特殊な奏法」といわれています。弦を抑えるのではなく、軽く触れて音を出します。

 

ヴァイオリン協奏曲1番ニ長調

心に残る名曲  その百二十九 プロコフィエフ 「ピーターと狼」

プロコフィエフ(Sergei Sergeevich Prokofiev)は、帝政期ロシアのウクライナ(Ukrain)に生まれた作曲家です。サンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory)で作曲・ピアノを学びます。ロシア革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5度もわたり、そこを拠点として作曲家やピアニストとして活躍します。さらにパリに居を移して作曲活動に専念します。20年近い海外生活の後、1936年に家族とともにソビエト連邦へ定住します。
 ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)やハチャトゥリアン(Aram Khachaturian)、カバレフスキー(Dmitri Kabalevsky)らと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家といわれるようになります。しかし、スターリン(Joseph Stalin)の後継者とみられていたジダーノフ(Andrei Zhdanov)からの批判を受けるなど、厳しい作曲家生活時代もあります。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されています。「ピーターと狼」(Peter and the Wolf) や「ロミオとジュリエット」(Romeo & Juliet)など、演奏頻度が高い傑作もあります。自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品も作曲しています。

 

心に残る名曲  その百二十八 ファリャ 「三角帽子」

スペインやフランスの作曲家を取り上げています。マヌエル・デ・ (Manuel de Falla y Matheu)は1876年生まれで、20世紀のスペインが生んだ音楽家、作曲家です。カタルーニャ(Catalunya)出身の作曲家・音楽学者・音楽理論家であったサバテー(Felipe Pedrell Sabaté)に師事します。サバテーは音楽教師として名高く、ファリャやアルベニス(Isaac Albéniz)などのスペイン人作曲家を育て上げたことから、「スペイン国民楽派の父」とも呼ばれています。

ファリャにスペイン民族音楽への興味を植え付けたファリャはサバテーですが、アンダルシア(Andalucía)のフラメンコ(flamenco)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示しているといわれます。管弦楽曲で有名な作品に「三角帽子」があります。その第2幕 「粉屋の踊り」の終幕は素晴らしいものです。その他バレエ音楽「恋は魔術師」もあります。晩年にスペイン内戦(Spanish Civil War)でフランコが政権に就くとアルゼンチンに亡命して作曲活動をします。

 

心に残る名曲  その百二十七 シャブリエ  「スペイン狂詩曲」

1882年生まれのシャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier)は、幼い頃からピアノや作曲に興味を示し、特にピアノの腕前は天才といわれるほどであったといわれます。しかし、父親が弁護士だったので、パリの後期中等教育機関リセ(lycée)で法律を学び、内務省に就職し公務員生活を送ります。傍らポーランド生まれの作曲家でヴァイオリニストであったタノスキ(Alexander Tarnowski)に音楽理論や作曲法を学びます。


シャブリエの前半生は公務員であり、作曲家としての活動期間は14年と短く、発表された作品数は限られています。1882年にスペインを訪れ、そこで、「スペイン狂詩曲」(Espana Rhapsody for Orchestra)を作ります。この曲はシャブリエの代表曲です。管弦楽作品やオペレッタなどの作品があり、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせてくれます。シャブリエの楽風は、後の作曲家に大きな影響を与えたといわれます。

シャブリエは、フランスの印象派画家モネ(Claude Monet)やマネ(Edouard Manet)と親交があったようで、彼らの絵を所有していたといわれます。楽風も絵画のような華やかさを感じます。

 

心に残る名曲  その百二十六 ラロ 「スペイン交響曲」

ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo)は1823年生まれ。フランス人作曲家なのですが、もともとはスペインのバスク(Euskara)の家系であったようです。ラロの作品を聴くと随所にスペイン的な主題が使われていることが分かります。ラロはヴァイオリンおよびヴィオラ奏者でもありました。

 ラロが1874年に作ったヴァイオリン協奏曲第2番にあたる「スペイン交響曲」(Symphonie espagnole)ニ短調は特に有名です。今日では全曲が上演されることなくなりましたが、その序曲はフランス歌劇の序曲集といった盤などにも収められているといわれます。「スペイン交響曲」は彼の代表作と見なされています。

この曲は交響曲といわれていますが、ヴァイオリン独奏と管弦楽のために作曲されたので、交響的協奏曲とも呼ばれます。フランスにおけるスペイン趣味の流行の前触れを告げた作品といわれるほど、スペイン舞踏の旋律とリズムが横溢しています。

 

心に残る名曲  その百二十五 ロドリーゴ 「アランフエス協奏曲」

ホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo)は幼少の時ジフテリアにかかり視力を失います。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始めます。パリのエコール・ノルマル音楽院(École Normale de Musique de Paris)で、作曲家のデュカス(Paul Abraham Dukas)に師事し、音楽学をモーリス・エマニュエル(Maurice Emmanuel)に師事して、才能を開花していきます。

ロドリーゴ代表作の「アランフェス協奏曲」(Concierto de Aranjuez) は、1939年にパリにおいてクラシック・ギターの独奏と管弦楽のために作曲されます。1940年11月にバルセロナ・フィルハーモニー管弦楽団(Barcelona Philharmonic Orchestra)によりバルセロナにて初演されたといわれます。

この曲の中間楽章「アダージョ」(Adajo)は、その哀愁をたたえ、親しみやすい20世紀のクラシック音楽としては最も有名な楽曲となっています。第二楽章Adagioはギターはもちろんですが、オーボエの独奏も響きます。https://www.youtube.com/watch?v=oVSsnlENCGg

心に残る名曲  その百二十四 アルベニス 「スペイン組曲」

アルベニス(Isaac Albeniz)はスペインのカタルーニャ州(Cataluna)で生まれます。カタルーニャはスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えます。独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有しているといわれます。中心はバルセロナ(Barcelona)です

 4歳の時にピアノ演奏をするほどの天才児だったといわれます。後にライプツィヒの音楽院で短期間学んだ後、1876年にブリュッセル王立音楽院で学びます。1883年、「スペイン国民楽派の父」と呼ばれ教師で作曲家のフェリペ・ペドレル・サバテー(Felipe Pedrell Sabate)に会い、「スペイン組曲 作品47」などのスペイン音楽の作曲を勧められます。1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲します。1905年から1909年の間に、最も良く知られた作品であるピアノによる印象を描いた12曲からなるスペイン組曲 第1集 カタルーニャ作品47-2番、グラナダ(Granada)作品47-1番は良く知られています。

心に残る名曲  その百二十三 マスネ その2 オペラ「タイス」

マスネ(Jules Emile Massenet)はフランスのロワール県(Loire)の辺鄙な村で生まれます。1848年、家族とともにパリに移り住みます。幼いころから楽才を示し1853年には11歳でパリ国立高等音楽院(Conservatoire national supérieur de musique)へ入学します。

 1862年、カンタータ「ダヴィッド・リッツィオ」(David Rizzio)でローマ賞を受賞し3年をローマで過ごします。マスネは普仏戦争に従軍し、その間作曲活動を中断しますが、1871年に戦争が終わると創作活動に復帰します。長編小説「マノン・レスコー」(Manon Lescaut)に基づく「マノン」(Manon)というオペラを、そして、代表作といわれるオペラ「タイス」(Thaïs)を作曲します。

「タイス」の舞台は、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)統治下のエジプト。ローマ神話の愛と美の女神ヴィーナス(Venus)の巫女であるタイス(Thais)と、キリスト教の修道僧アタナエル(Athanael))が主人公です。厳格な禁欲主義者のアタナエルは、妖艶なタイスの存在に心をかき乱されています。彼はタイスをキリスト教に改宗させよう試みます。「タイスの瞑想曲」は、彼の説得をタイスが心の中で瞑想するときの曲です。第二幕・第1場と第2場の間で演奏される余りにも有名な間奏曲です。本来はオーケストラと独奏楽器向けなのですが、室内楽に編曲されてもしばしば演奏されます。

心に残る名曲  その百二十二 マスネ その1 国民音楽協会

戦争と平和が音楽や作曲活動にどのような影響を与えてきたかは、興味ある話題です。先日紹介したチャイコフスキーの「序曲1812」はナポレオン軍を破ったロシアの戦勝祝いの曲です。

 フランスは1870年7月から1871年5月までプロイセン(Prussia)とで戦争をします。いわゆる普仏戦争 (Deutsch-Franzosischer Krieg)です。ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck)が率いるプロイセンがフランスを破ります。フランスはドイツに賠償金 50億フランを支払い,アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)の大部分を割譲するのです。ビスマルクは、それまで小国に分かれていたドイツの統一宣言をベルサイユ宮殿(Versailles)で行います。フランスにとって屈辱的な出来事です。この敗戦を機にフランスの音楽界は変化していきます。

19世紀前半のフランスの音楽界はオペラやバレエが盛んでした。交響曲などの器楽は低調で、多くの作曲家はドイツの音楽を学ぶ姿勢は持っていましたが、敗戦を契機としてフランスの伝統へと回帰することになります。それが1871年のサンサーンス(Charles Camille Saint-Saens)らによる国民音楽協会(Société Nationale de Musique)の設立です。

ナショナリズムの高揚を背景にした「フランスの芸術」を旗印に掲げていくこの運動は、アルス・ガリカ(Ars gallica)とも呼ばれています。「牧神の午後への前奏曲」を作ったドビュッシー(Claude Achille Debussy)やマスネ(Jules Emile Frédéric Massenet)もこの運動に加わり、フランス音楽界に大きなうねりを起こしていきます。

 

心に残る名曲  その百二十一  ボロディン 「イーゴリ公」

ロシアの作曲家ボロディン(Aleksandr Porfir’evich Borodin)は、化学者でもあり薬学者という珍しい経歴を有しています。ペテルブルグ薬科外科アカデミーで薬学と化学を学び,1858年薬学博士号を取得します。1856年にムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)の知遇を得て,1862年バラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev)を知ったことから,五人組といわれたロシア国民楽派に参加、本格的な作曲活動に入ったようです。

 1864年には母校教授となり教育や研究活動をしながら「ピアノ五重奏曲」などの初期秀作を経て1867年に最初の大曲「交響曲第1番」を完成します。後に知り合ったリスト(Franz Liszt)の紹介により,その作品は早くからヨーロッパでも評価を得ます。代表作として、ロシアの民族叙事詩「イーゴリ軍記」による未完のオペラ「イーゴリ公」(Prince Igor)があり、その中の「ダッタン人の踊り」がつとに有名です。https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI

心に残る名曲  その百二十  チャイコフスキー 「序曲1812年」

「序曲1812年」はナポレオン(Napoleon Bonaparte)率いるフランス軍の侵略とそれに抵抗するロシア軍、そしてフランス軍を退けたロシアの人民の歓びを表した曲です。作曲者はチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)。1880年に作曲した演奏会用の序曲です。

 ロシアのアレクサンドル1世(Alexander I))が、ナポレオン1世の出した大陸封鎖令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けます。それに対する制裁として、1812年ナポレオンは40万の軍を率いて行ったモスクワへ遠征します。ロシアの文豪トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和」の題材となった史実です。

この曲名は大序曲「1812年」、荘厳序曲「1812年」、または祝典序曲「1812年」などと呼ばれることもあります。歴史的事件を描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに親しまれる作品となります。曲の中では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)の旋律をトランペットやホルンで演奏されます。

終章では、鐘の音が響きます。ロシアの勝利を人民に知らせる鐘、神への感謝を表す鐘の音です。全楽器強奏で始まり、ロシア帝国国歌がバスーン、ホルン、トロンボーン、チューバ、低音弦楽器で演奏され大砲も轟きます。

 

心に残る名曲  その百十九 グリンカ 「ルスランとリュドミラ」

グリンカ(Mikhail Ivanovich Glinka)は、国外で広い名声を得た最初のウクライナ系(Ukrain)ロシア人作曲家といわれます。「近代ロシア音楽の父」とか「ロシア国民音楽の父」と呼ばれています。ロシアの民族的基盤に立った音楽の創造を提唱し,チャイコフスキー(P. Tchaikovsky)に深い影響を与えたといわれています。

 グリンカは富裕な貴族で地主の家庭に第生まれ、子ども時代から音楽に興味を持っていたようです。少年のころに体験したナポレオンとの祖国戦争とロシア社会の近代化のための農奴解放令が、彼に民族意識を植えつけていきます。民謡に接することにより、成長してからの彼の音楽に影響を与えたといわれます。

1830年イタリアに行き,オペラの作曲家ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)などから音楽理論を学びます。帰国後,ロシア国民音楽の創造に全力を注ぎ,1836年にオペラ「イワン・スサーニン」(Ivan Susanin)を作曲します。ロマノフ王朝の祖、皇帝ミハイル・ロマノフ(Mikhail Feodorovich Romanov)をポーランドの干渉軍から守るため、農夫のイヴァン・スサーニンが自身を犠牲にするという伝説的なエピソードを描いたものです。

1842年にはプーシキン (Sergei Pushkin)の叙事詩によるオペラ第2作「ルスランとリュドミラ」(Ruslan and Ludmilla)を作曲します。全5幕8場から成るオペラです。キエフ(Kiev)大公国大公の娘・リュドミラ姫と騎士・ルスランの婚礼の宴席の途中、魔術師が現われ、リュドミラをさらっていきます。大公は、ルスラン、およびその場にいた姫に恋している若者らに、娘を無事に取り戻した者に娘を与えると宣言するという筋書きです。流れるような旋律が聴衆の記憶に容易に残るような序曲です。