心に残る名曲  その百十八 Steinway & Sons

「Steinway & Sons」はドイツ系アメリカのピアノの製作会社です。高品質のピアノの生産で世界の80%のシェアを誇っています。創業者は、Heinrich Englehard Steinwegです。Steinwegは1835年に妻Julianeへ結婚記念として四角いピアノを製作します。1836年にドイツ中央部にあるゼーセン(Seesen)という街の自宅台所で始めてグランドピアノを製作します。そのことで、このピアノは後に「kitchen piano」と呼ばれました。ギルド(Guild)制度が厳しく、自分の工場を持つことが難しかったので自宅で製作したということです。

ギルドとは徒弟制度と称されます。中世のドイツでは厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人や徒弟を指導するのです。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていました。工場でしか物を作ることができなかったのです。

三月革命と呼ばれた1848年のドイツ革命は、政治や経済の不安定化をもたらし、ギルドに属さない者の仕事が困難となります。ドイツでの製作や販売が困難になることを予想し、1850年に妻と8人の息子とともにニューヨークにやってきます。1864年にSteinwegは名前を英語風に「Steinway」と変えます。ドイツ語で「weg」は道という意味です。

ニューヨークのマンハッタン(Manhattan)に最初の工場を立ち上げます。それ以来、製造したピアノは高い品質で評判を呼びクイーンズ(Queens)に工場を移します。大多数の従業員はドイツからの移民だったといわれます。Steinwayは高価格のピアノと低価格のピアノを製造しています。後者のピアノのブランドは「Boston」と「Essex」と呼ばれています。現在は、ニューヨークの他にドイツのハンブルグ(Hamburg)にも工場を持っています。ニューヨークからのピアノは主に国内向け、ハンブルグからのピアノは海外に輸出されています。
Steinway & Sonsは創業以来、Steinway一族で経営してきました。しかし、1972年に経営上の問題からCBSに経営権を譲ります。

心に残る名曲  その百十七 モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」

ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)は、「ロシア五人組」といわれた作曲家の一人です。6歳から母にピアノを習い、7歳でリストの作品を弾くほど上達したようです。ペテルスブルグ(St. Petersburg)の近衛連隊に入り、軍医で作曲家であったボロディン(Alexander Borodin)と会います。同時にバラキレフ(Mily Balakirev)、キュイ(Cesarius Cui)らの音楽家と会い作曲への意欲に駆り立てられます。

1853年のクリミア戦争(Crimean War)で連合国に敗北後、ロシアの内政は不安定となります。1861年、農奴解放令によってムソルグスキーも経済的な打撃を受け、運輸省に下級官吏として就職します。長続きせず解雇された後、ある音楽好きの貴族に庇護されます。その頃作ったのがオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov)です。ロシア国家の公称であったロシア・ツァーリ国の皇帝です。

 ムソルグスキーは、ロシア国民楽派の作曲家と言われています。ロシアの民謡の伝統に忠実で、史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いたからです。初期の交響詩の代表的傑作といわれる管弦楽曲「禿山の一夜」も書きます。

「展覧会の絵」(Pictures at an exhibition)は1874年に作曲されます。友人の画家ハルトマン(Viktor Hartmann)の遺作展で見た10枚の絵画の印象をもとに作られます。ロシア、フランス、イタリア、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれています。「展覧会の絵」の第2、3、5、7曲の前に前奏や間奏にあたる「プロムナード」が添えられています。それは絵と絵との間を歩く情景を表しているといわれています。楽曲は「小人」、「古城」、「卵の殻をつけたひなどりのバレエ」、「鶏の足の上に建っている小屋」、などという構成になっています。

心に残る名曲  その百十六 モーリス・ラヴェル 「ボレロ」

モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel )は、バスク(Euskara)地方の生まれのフランス人作曲家です。好楽家の父の理解で7歳からピアノを学びます。14歳でパリ音楽院(Conservatoire national suprrieur de musique)のピアノ予備科に入学します。1897年にはフォーレ(Gabriel Faure)に師事して作曲法や対位法を学びます。やがて「水の戯れ」というピアノ曲を作ります。この作品からラヴェルは、同じくフランスの大作曲家ドビッシー(Calude Debussy)が作曲した「牧神の午後の前奏曲」からの影響を強く受けていたことがわかります。ピアノ曲として画期的な手法を盛り込んでいたのです。

「水の戯れ」を聴くと上品で典雅、都会的ながら控えめ、どことなく憂愁さが感じられる楽節の組み立てを感じます。そしてリズムも水の流れのように規則的です。1928年にはバレエ曲を作ります。これが代表曲となる「ボレロ(Bolero)」です。「ボレロ」とはスペインの民族舞踏のことです。セビリアのとある酒場で一人の踊り手が舞台で足を鳴らしています。やがて興が乗ってきて、客達も次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出すのです。バレエ音楽でそれを基にした同名の管弦楽組曲「ダフニスとクロエ」(Daphnis et Chloe)も作曲しています。

「ボレロ」には三つの特徴があります。第一は、同一リズムが保持されることです。第二は最初から終わりまで一つのだんだんと強くなるクレッシェンド(crescendo)のみであることです。第三は旋律は二つのパタンのみであることです。

以上のような特徴からの印象では、単調な曲のように感じます。しかし、非常に豊かな色彩溢れる音楽なのです。しかも異なった楽器構成でメロディが奏でられます。小太鼓の音で始まり、オーボエ、クラリネット、フルート、サキソフォーンが同じ旋律を順々に演奏していきます。ヴァイオリンはピッチカートの演奏で終始します。演奏形態としては珍しいことです。

心に残る名曲  その百十五 ヘンデル 「Lascia Chio Pianga」

このアリアのオリジナルの旋律は、ヘンデル(Georg Friedrich Handel)の1705年のオペラ「アルミーラ」(Almira)の第3幕にサラバンド(Sarabanda)として使用されたのが最初です。ヘンデル19歳のときに書かれた最初のオペラといわれます。サラバンドとは三拍子の荘重な舞曲です。

 1711年にヘンデルはこの旋律の再使用します。それがオペラ「リナルド」(Rinaldo)第2幕に登場する有名なアリア(Aria)「私を泣かせてください」 (Lascia ch’io pianga)です。劇中で、エルサレムのイスラム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナ(Almirena)が、敵軍の王に求愛されるのですが、愛する十字軍の将軍リナルドへの貞節を守るため「苛酷な運命に涙を流しましょう」と歌うアリアです。恋人を想って自分の悲運を嘆くシーンで歌われます。「抱かせてください、自由の憧れを」と歌っています。アリアとは、オーケストラの伴奏で独唱する叙情的な歌、詠唱のことです。

「リナルド」は11世紀のエルサレム(Jerusalem)を舞台にした叙事詩「解放されたエルサレム」に基づいています。このオペラは大成功をおさめます。

 

心に残る名曲  その百十四 サミュエル・バーバー  「弦楽のためのアダージョ」

アメリカの作曲家にサミュエル・バーバー(Samuel Barber)がいます。1910年3月、ペンシルバニア州(Commonwealth of Pennsylvania)ウェスト・チェスター(West Chester)で生まれます。地元の作曲家だった叔父や歌手だった叔母に激励され,7才から作曲したといわれます。14才で創設後間もないカーティス音楽院(Curtis Institute of Music)へ進み,ピアノ,歌唱法、作曲法を学びます。同院の創設者メアリー・ボック(Mary Bok)から認められ,支援を得て1934年にヨーロッパに渡ります。ロマン派音楽に触れ,ウィーンで指揮法と歌唱法を学びます。

 1935年から1937年にはアメリカ芸術科学アカデミー(American Academy of Arts and Sciences)で学び,1939年から1942年までカーティス音楽院でも教鞭を執ります。自作のヴァイオリン・ソナタ(1928)と「スクール・フォー・スキャンダル」(School for Scandal)(1931)がベアルン(Bearns)賞を受賞したのを受け,バリトン歌手として活動しながら,本格的な作曲活動に入ります。

やがて「交響曲」が,ザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)で史上初めての米国人作品として初演され,1938年には「管弦楽のためのエッセイ」(Essay No. 2 for Orchestra)と「弦楽のためのアダージョ」(Adagio for Strings)が、20世紀前半を代表する指揮者トスカニーニ(Arturo Toscanini)からも認められて,国際的な評価を受けます。

 

心に残る名曲 その百十三 レスピーギ 「ローマの松」

長男家族と始めてローマ(Rome)に行ったときです。車で郊外にでると林立する木がそこここに目だちました。長男が松の木だと云いました。そのとき、「ああ、これか、、」と思い当たりました。レスピーギ(Ottorino Respighi)の「ローマの松」のことです。

 イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者がオットリーノ・レスピーギです。ボローニャ(Bologna)出身で、小さい頃から、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受けます。1913年からはローマに出て教育者としても活動したようです。ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動しますが、やがて作曲に転向します。サンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio di Musica Santa Cecilia)の作曲科教授に任命され、1923年には同学院の院長に就任して作曲活動を続けます。

近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩「ローマの噴水(Fontane di Roma)」、「ローマの松(Pini di Roma)」、「ローマの祭り( Feste Romane)」が広く知られています。

 

心に残る名曲  その百十二  リムスキーコルサコフ 「シェーラザード」

リムスキーコルサコフ (Nikolai Rimsky-Korsakov)は、ロシアの作曲家です。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残しています。五人組とは、ミリイ・バラキレフ(Mily Balakirev)、ツェーザリ・キュイ(Cesarius Cui)、モデスト・ムソルグスキー(Modest Mussorgsky) 、アレクサンドル・ボロディン(Alexander Borodin)、そしてリムスキー=コルサコフといった音楽家のことです。

 リムスキーコルサコフは軍人貴族の家庭に生まれます。小さい時より楽才を顕しますが、12歳でサンクトペテルブルク(St Petersburg)の海軍兵学校に入学し、ロシア海軍の艦隊による海外遠征も体験したと記録されています。

ロシアの民謡や文学を題材としながら、華やで簡潔な作風が特徴と言われます。海軍士官としての経験から海の描写を得意としたことでも有名です。交響組曲「シェヘラザード」(Scheherazade)の第1楽章「海とシンドバッドの船」部分では荒れ狂う海と航海の場面が音で描かれています。管弦楽法の大家として知られ、管弦楽の実践理論に関する著作も残すほどの音楽家です。

「シェーラザード」(Scheherazade)とは「千夜一夜物語」、別名「アラビアンナイト」(Arabian Nights)に登場する語り手となる女性の名です。ササン朝(Sassanid)ペルシャのシャフリヤール王(Shahryar)の王妃であり、毎夜、命がけで王に物語を語るという展開となっています。 ササン朝ペルシア(Persia)の文化は、メソポタミア(Mesopotamia)文化、ヘレニズム(Hellenism)文化を吸収したパルティア(Parthian)の文化を継承します。そして古代西アジア文化を形成していきます。さらにイスラーム文化 (Islamic culture)や東、西ヨーロッパ、中国にも大きな影響を与えたといわれます。

心に残る名曲 その百十一 アントニオ・ヴィヴァルディ 「四季」

1723年に作曲されたバロック(Baroque)音楽の傑作と云われます。アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi)のこの「四季」(Four Seasons) は、彼の最も有名な曲です。バロックとは、もともと過剰な装飾を持つ建築を批判する用語だったようですが、やがて彫刻や絵画と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とする音楽と呼ばれるようになります。

 ヴィヴァルディの生い立ちです。父は水の都、ヴェネツィア(Venezia)において理髪業兼音楽家で、後に聖マルコ大聖堂(St. Mark Cathedral)のヴァイオリン奏者となります。ヴィヴァルディもまたこうした恵まれた環境で育ちます。15歳のとき、聖職の道に入り21歳で副助祭、25歳で司祭に任じられます。1703年、ヴェネツィアの女子慈善院ピエタ(Ospedale della Pieta)に勤め、ヴァイオリン、作曲、合奏を教えます。女子生徒たちで組織する合唱団とオーケストラは日曜・祭日には必ず演奏会を開き、その優れた演奏の評判は外国にも知られるほどだったといわれます。

ヴェネツィアの風景画家マルコ・リッチ(Marco Ricci)に感化されたようです。リッチはヴェネツィア風景画法の創始者とももいわれています。「四季」はその影響を受けています。音で絵画を作るのです。ヴェニス育ちのヴィヴァルディからは、イタリアのさんさんとした光陽を思い浮かべるかもしれません。かならずしもそうではありません。「冬」の場合は銀色のようなピッチカート(pizzicato)がヴァイオリンで凍りそうな雨が奏でられます。「夏」の最終章では嵐と雷鳴が響き渡るという塩梅です。

ヴィヴァルディの曲は音色の美しさ、リズムの躍動性、劇的な要素の巧みな構成で知られます。ヴェネツィア音楽の特徴は、ローマの様式が荘重であったのに対し、旋律的で色彩的であり、ヴェネツィア人の気質とされる陽気さが加わります。ヴィヴァルディの作品にはそれが横溢しています。

ヴィヴァルディの曲のテーマは、主要三和音か主音の連続するものが多いのですが、新鮮なリズムが聴衆に印象づけます。彼の影響を最も受けたのがバッハ(J. S. Bach)といわれます。バッハはヴィヴァルディの作品を手本として10曲ほどを編曲しています。そこから新しい協奏曲の形式を学んだといわれます。

心に残る名曲  その百十 トマス・ルイス・デ・ビクトリア 「アヴェマリア」

トマス・ルイス・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria)は1548年の生まれ。黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人です。パレストリーナやラッソらと並ぶルネッサンス宗教音楽の大家の一人です。

 少年時代にマドリッド郊外にあるアビラ(Avila)大聖堂の聖歌隊に入ります。フェリペ二世(Felipe II)の奨学金を得てローマに行きイエズス会(Society of Jesus)の会士となります。神学、音楽、ラテン語などを学び、その間パレストリーナの知遇を得たといわれます。イエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、1575年に司祭として叙階されます。

1586年にスペインに帰国し、マドリッド(Madrid)のデスカルサス・レアレス女子修道会(Monasterio de las Descalzas Reales)の一員となります。ビクトリアは終生、この修道会にとどまり、司祭・作曲家・歌手・合唱指揮者・オルガニストなどの役割を務めます。

ビクトリアは後期ルネサンス においては最もすぐれた宗教音楽の作曲家といわれます。数多くの評者がビクトリア作品に、「神秘的な烈しさと直接に感情に訴えかけてくるものがある」と云っています。これらの特徴は、ビクトリアの偉大な同時代のイタリア人作曲家、パレストリーナの作品には見当たらないようです。

様式的にみるとビクトリア作品は、多くの同時代の作曲家と同様の凝った対位法は遠ざけて、単純な旋律とホモフォニックな楽想を好んでいるようですが、それでもなお多種多彩なリズムの変化や、驚くほどの明暗の対比を表現しています。旋律の構成や不協和音の使い方はパレストリーナよりもずっと自由のような印象を受けます。

ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが「死者のためのミサ曲」です。この作品は、皇太后マリアの葬礼のために作曲されたとあります。1編の世俗曲を手懸けなかったほど、独自の作風を備えた楽曲は特筆されます。

心に残る名曲  その百九 グレゴリオ・アレグリ 「ミゼレーレ」

アレグリ(Gregorio Allegri)は1582年生まれのイタリアの司祭、歌手、そして作曲家です。聖歌隊の一員として音楽を学びます。やがて誓願をたててアドリア海に面するフェルモ大聖堂(Duomo di Fermo)より聖職禄にあずかります。誓願とは、神に清貧、貞潔、従順の三つの誓いをたて聖職に就くことです。フェルモにおいて数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲します。やがてヴァティカン(Vatican)のシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊にコントラルト(contralto)歌手の地位を得て1629年から没するまでその地位に就きました。コントラルトとはテノールよりも高い音域のことです。

 彼の作品には、5声のための教会コンチェルト、6声のためのモテット集、声のシンフォニア、その他ミサ曲や預言者エレミア(Jeremiah)の哀歌、さらに没後発表された沢山のモテットがあります。教会コンチェルトとは、オルガン伴奏などの楽器伴奏による宗教的声楽曲のことです。モテットは、イタリア初期バロック音楽の影響のもとで通奏低音を伴い、少人数での歌唱で歌われます。

アレグリは弦楽合奏のための作品を作曲した初期の作曲家の一人といわれます。また弦楽四重奏曲の初期における重要な作曲者とも考えられています。システィーナ礼拝堂聖歌隊のために書いた声楽作品は、パレストリーナ様式を受け継いではいますが、単純な様式とはいえ一切の装飾が排除されています。

群を抜いて有名なのが「ミゼレーレ(Miserere mei Deus)」です。アレグリの傑作といわれます。「神よ我を憐れみたまえ」という旧約聖書の詩篇第51篇(Psalm)から採られています。「ミゼレーレ」では、合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のために作曲されています。合唱団の片方が聖歌の「ミゼレーレ」の原曲を歌うと、離れたところに位置するもう一つの隊員が、それに合わせて装飾音型で聖句の「講解」を歌います。

 

心に残る名曲 その百八 ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ 「教皇マルチェルスのミサ曲」

16世紀後半、最大の教会音楽家がパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)です。パレストリーナは北ヨーロッパのポリフォニー様式の影響下にあった音楽家の世代に属します。イタリアにおけるルネサンスの時期、音楽は今のオランダやベルギー、北フランスのフランドル(Flandre)が中心でありました。ローマ教皇庁の音楽隊にもフランドルの音楽家を招くという有様でもありました。ところが、パレストリーナはイタリア人音楽家として大きな名声を得て教皇庁も無視できない存在となります。やがて、イタリアでポリフォニー様式が支配的地位を得ていく理由は、前述した作曲家ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の影響によるところが多いといわれます。

 パレストリーナ作品の大部分をなす教会音楽は、均整のとれた構成、静かに流れるおおらかな旋律、荘重で厳粛な典礼性を有しています。グレゴリオ聖歌に次ぐ典礼音楽の模範となっています。作品はミサ曲105曲、モテット375曲、マニフィカート35曲、宗教的マドリガル50曲、世俗的マドリガル90曲に及びます。ほとんどの作品が無伴奏合唱音楽の形態を持ち、4〜5声部が一般的です。

初期の作品は、一般にフランドル楽派の技巧的対位法を駆使しています。中期には歌詞の理解、楽曲の構成に高い統一がみられます。これがパレストリーナの独自の形式となります。後期になるとマドリガルの適用で2重唱の技法が輝かしい響きとなり、ラッソのような主観的で激情的な表現をしません。

パレストリーナの音楽の基礎は、ルネッサンス期の声楽ポリフォニーにおける模倣対位法の技法です。自然に流れる全音階的な美しさで知られます。旋律はきわめて厳格な声部進行の原則を保っています。跳躍も長・短3度、完全4度、5度、8度までとなっています。数多くの教会音楽を作曲し、中でも「教皇マルチェルスのミサ曲」(Missa Papae Marcelli)は彼の代表作とされています。

一種の抑制された静観的な雰囲気は、彼の言葉に対する信仰から発していると思われます。新しい表現の分野や様式を開拓するのではなく、あくまで伝統的な技法によって声楽ポリフォニーの理想を追い求めているかのようです。

心に残る名曲 その百七 ジョスカン・デ・プレ 「祝福されし聖処女のミサ」

ルネサンス最盛期のフランスの作曲家、声楽家がジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez) です。フランドル楽派の音楽形式を確立し、ヨーロッパ中に広げた功績があります。


 デ・プレは1474~79年までミラノのスフォルツァ公(Ludovico Maria Sforza)の聖歌隊の歌手を務めたのち,1486~94年頃までローマ教皇礼拝堂の聖歌隊員となります。1489年にノートル・ダム教会(Notre-Dame)及びサント・メール( Saint Omer)教会、サン・ギラン(Saint Ghislain)教会、1493年にはバス・イトル(Basse Yttre) 教会及びエノーのフラーヌ(Frasnes)教会 、1494年には、カンブレのサン・ゲリ( Saint Gery) 教会の聖職禄を認められており、1494年にはカンブレで実際に聖職に就いた記録が残されています。

1503年にはパトロンであったフェララ (Ferrara)のエステ公エルコレ1世(Ercole I d’Este)の楽長に任ぜられ,その後ハプスブルク家(Haus Habsburg)の皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)の保護を受け,経済的に保障され作曲活動の晩年を送ります。

ミサ曲,モテト,シャンソンなど多くの作品を残しますが,ミサ曲「祝福されし聖処女のミサ」(Missa de beata virgine)、「パンジェ・リングァ」(Pange Lingua)、「平安を与えたまえ」,「ミゼレーレ」(Miserere mei Deus)などが特に有名です。

心に残る名曲 その百六 オルランド・ディ・ラッソ その2 「マトナの君よ」

ラッソの作品約1,200曲の中の一つが「マトナの君よ」(Matona, mia cara)です。フランドル楽派(Flemish School)の伝統である対位法を基礎にとしながら劇的な情緒表現がこの作品に顕著にみられます。フランドル楽派とは、15〜16世紀のルネッサンス期(Renaissance)にヨーロッパで活躍した楽派です。フランドルとは、今のオランダ、ベルギー、そして北フランスを含む低地地方です。この楽派はモテット(Motet)やミサ(Mass)などの教会音楽、さらにシャンソン、マドリガルなどの世俗的な音楽の分野で活躍し、主として声楽ポリフォニー様式によっています。


 モテットはラッソの作品中でもっとも重要なジャンルとなっています。彼の音楽語法のすべてが示されているといわれます。モテットの語源ですが、言葉を意味するフランス語の「Mot」に由来します。モテットは、中世およびルネッサンス時代の最も重要な楽曲形式です。16世紀に完成した「通模倣様式」(through-imitation style)による多声部分による教会用ポリフォニー、いわゆる多声唱曲がモテットです。

 通模倣様式とは、ルネサンス音楽期における作曲技法です。 各声部がまったく均等な関係で模倣を行う多声作曲様式のことです。いずれかの声部が定った旋律を保持し,他の声部がそれに対位する定旋律を歌います。ルネッサンス期のモテットは4声部が一般的ですが、ラテン語による典礼歌詞では4〜6声部の合唱曲が主流となります。ラテン語の宗教詩とフランス語の恋愛詩が一緒になり、宗教的要素と世俗的要素が共存していきます。

 ラッソは、当時のルネッサンス人文主義の影響を受けたようです。ルネッサンスとはギリシアやローマの文化を復興しようとする文化運動で、14世紀頃にイタリアに始まりヨーロッパに広がります。「文芸復興」とも呼ばれます。人文主義運動とも云われます。音楽と言葉の結びつきに強い関心を示し、歌詞に対する絵画的な、あるいは劇的な感情表現を強く打ち出したのがラッソです。「マトナの君よ」は、田舎者の兵士がマドンナをくどく歌です。強弱のメリハリがきき、主旋律が4回繰り返され、毎回どこかの音を変えている複雑な音程です。

心に残る名曲 その百五 オルランド・ラッソ その1 「シビュラの予言」

少し時代を遡って、中世のヨーロッパに転じます。15世紀から16世紀の時代です。後期フランドル楽派(Flemish School)最大の作曲家といわれるのがラッソ(Orlando di Lasso)です。ラッスス(Orlandus Lassus)とも表記されます。後述するパレストリーナ(Giovanni Palestrina)と共に、後期ルネッサンスを代表する巨匠といわれます。

 後期ルネサンスでは最も多作な世界的作曲家であったのがラッソといわれます。全部でゆうに1,200あまりの作品を書き、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の声楽曲があらゆるジャンルにわたって作曲しています。その内訳は、4曲の受難曲(Passion)、540曲のモテット(Motet)、100曲の聖務日課のための曲、200曲のマドリガル(Madrigal)とヴィッラネッラ(Villanella)、150曲のシャンソン(Chanson)、90曲のリート(Lead)です。ラッソ作の器楽曲が存在するかは厳密には分かっておりません。

マドリガルとはイタリアの世俗声楽曲で 5 声部無伴奏の合唱のことです。ヴィッラネッラも同じくイタリアの田舎風の声楽曲で3声部から成ります。ラッソの代表作の一つに「シビュラの予言」(Prophetiae Sibyllarum)があります。半音階的手法などの大胆な和声的工夫によって、劇的な表現力が見事に発揮されています。

心に残る名曲 その百三 サラサーテ その8 「ツィゴイネルワイゼン」

スペイン生まれのヴァイオリニストでもあったサラサーテ(Pablo Martín de Sarasate)が作曲したものです。「ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)」は非常に知られた管弦楽伴奏付きのヴァイオリン独奏曲です。別名は「Gypsy Airs」とも呼ばれています。ツィゴイネル(Zigeuner)がドイツ語で「ジプシー」、 ワイゼン(Weisen)は 「歌とか旋律」という意味です。

 スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込む曲風で、国民楽派の音楽家と呼ばれるのがサラサーテです。その代表的な作品がロマ(Roma) 、別称ジプシー(gypsy) 民謡による「ツィゴイネルワイゼン」です。作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽もしくはピアノのための作品です。

サラサーテは、8歳のときに初めて公演し、10歳のときにスペイン女王イサベル2世(Isabel II) の前で演奏を披露したといわれます。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得ます。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、やがて知己となったサン=サーンス(Charles Camille Saint-Saens)と演奏旅行をします。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」を献呈しています。サラサーテはまた、ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo)の「スペイン交響曲」、ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch)の「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者であり献呈先でもあります。サラサーテの華麗な名人芸は、ブラームス(Johannes Brahms)やチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の作曲活動に影響を与えたといわれます。

 

心に残る名曲 その百二 ベートーヴェン その7 「月光ソナタ」

ベートーヴェンの作品で最もポピュラーな曲がこのピアノソナタ第14番嬰ハ短調です。別名「月光ソナタ」(Moonlight Sonata)です。ベートーヴェンが30代のときの作品です。

 「月光ソナタ」という名称は、ドイツの音楽史家で詩人であったレルシュタープ(Ludwig Rellstab)のコメントからつけられています。1832年といえばベートーヴェンの死後5年が経過した年です。レルシュタープはこの曲の第1楽章の印象を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と語ったことに由来しています。

ピアノソナタ第14番は三楽章からなります。第一楽章は、「Adagio sostenuto」といってアダージョより少しテンポを抑え気味にという調子です。第二楽章は「Allegretto」という少し速い速度で演奏されます。第三楽章は、「Presto agitato」とあるように、極めて速く興奮気味に演奏されます。嵐のような情景が浮かびます。

心に残る名曲 その百一 ベートーヴェン その6 「フィデリオ」

ベートーヴェン唯一の歌劇がフィデリオ(Fidelio) です。完全に聴覚を失った1816年に作られたようです。この歌劇は、主人公レオノーレ(Leonore)がフィデリオという名で男性に変装し、牢獄に潜入し、政治犯として拘留されている夫フロレスタン(Florestan)を救出する物語です。 ベートーヴェンは「フィデリオ」への序曲を作曲するにあたり、何度も推敲を重ねたようです。そして「フィデリオ序曲」とか「レオノーレ序曲」などs4曲を書いています。ベートーヴェン自身は自由主義思想への強い共感を抱いていて、英雄を崇拝するような作風が強く反映されているといわれます。男声合唱による政治犯達の自由を謳う力強い囚人の合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにやってきて救出する場面、そしてフィナーレの合唱は第九番の合唱を思い起こすほどです。

心に残る名曲 その百 ベートーヴェン その5 交響曲第三番、交響曲第五番、交響曲第六番

「楽聖」と呼ばれるベートーヴェンの作品で、交響曲は作品の華といえるものです。
交響曲第三番変ホ長調についてです。1804年、ナポレオン(Napoleon Bonaparte) はフランス帝国の皇帝であることを宣言します。ベートーヴェンは皇帝への畏敬を表しながらも複雑な思いでこの曲を作ります。自分より一歳年上のナポレオンの超人的な指導力に恐れと敬意を抱いたようです。やがてナポレオンへの独裁政治に幻滅を感じながら、「英雄(Eroica)」を作曲します。交響曲の中でも最も壮大にして華麗な曲です。第二楽章は「葬送行進曲」(Funneral March on the Death of Eroica)とよばれ、演奏者たちはこれまで聴いたことのない曲にいかに演奏するかで、数週間のリハーサルで戸惑ったといわれます。後世の評論家は、「最も独創的、荘厳、かつ深遠な響きの音楽」と讃えています。

 次ぎに、交響曲第五番ハ短調です。ベートーヴェンの作品で最も知られた曲です。冒頭、半拍を置くシンコペーションによって曲が始まります。出だしの四つの音符が、この曲の類い希な人気を示しています。第一楽章の「Allegro con brio」は輝きをもって速く、第二楽章の「Andante con moto」は歩くような速さでしかも躍動感を示し、第三楽章の「Allegro」は陽気でしかも快活に、そして第四楽章の「Allegro – Presto」快速さという構成となっています。作曲したのは、1805年頃といわれますが、1808に第六番と一緒にウィーンで初演奏されたというエピソードがあります。通称「運命」と呼ばれています。

第五番とともに双璧といわれる交響曲第六番ヘ長調は、1808年に作られます。ベートーヴェンは自然と親しみ、ウィーンにいたとき田舎を長い時間をかけて散歩したといわれます。ベートーヴェン自身が、絵画的な描写というよりも感情の表現をあらわす曲であるといっています。古典派交響曲としては異例の五楽章で構成されています。第一楽章の「Allegro ma non troppo」はなはだしくなく速く、印象的な旋律です。第二楽章の「Andante molto moto」は、散歩する情景を表します。鳥の鳴き声も聞こえます。第三−四楽章の「Allegro」は文字通り嵐の描写です。そして第四楽章の「Allegretto」は嵐の後の喜ばしい感謝の気持ちの牧歌となり、聴く者をしてあたかも「田園」を散策しているかのように誘います。

心に残る名曲 その九十九 ベートーヴェン その4 ソナタ形式を飛躍的に発展

ベートーヴェンはファイファー(Tobias F. Pheiffer)という宮廷オルガン奏者に師事します。彼の指導によってクラヴィアやオーボエの奏者としても長足の進歩を遂げたようです。宮廷での仕事の中でボンのオペラ劇場の通奏低音奏者となります。1787年にウィーンのボヘミヤ系貴族、ヴァルトシュタイン伯(Ferdinand von Waldstein)と出会います。彼はベートーヴェンの演奏を聴いて献身的なパトロンとなります。ヴァルトシュタインは、ベートーヴェンをモーツアルトの後継者という触れ込みで道をつけていきます。ベートーヴェンは、こうしてウィーンの貴族社会に受けいれられていきます。1790年にはハイドンがロンドンに向かう途中、ボンに立ち寄り、ベートーヴェンの楽譜を見せられ、それが印象に残ったといわれます。後にベートーヴェンはピアノソナタ第21番ハ長調をヴァルトシュタイン伯に献呈したほどです。この曲は「ヴァルトシュタイン」という通称でも知られています。

 聖ステファン大聖堂(St. Stephan Cathedral)のオルガン奏者、ヨハン・アルブレヒベルガー(Johan Albrechtberger)に師事します。アルブレヒベルガーは、古い流儀の対位法に造詣が深く、ベートーヴェンは求めていた幅広い技術を身につけていきます。1795年にウィーンでピアニストとしてデビューします。自作のピアノ協奏曲第二番とモーツアルトの曲を弾きます。1800年には大がかりな公開演奏会を開きます。ピアノ協奏曲第一番、七重奏曲、交響曲第四番などを演奏します。

ベートーヴェンの作品と業績についてです。それまで声楽より劣るとされていた器楽を高い水準に引き上げたのがベートーヴェンです。感情の激しさと曲の構造の精緻さが結合したといわれます。先達から引き継いだ対位法とかソナタ形式を飛躍的に発展させ、特に交響曲と弦楽四重奏曲にその楽曲が顕著に示されているといわれます。

 

心に残る名曲 その九十八 ベートーヴェン その3 「交響曲第三番変ホ長調 英雄」

ベートーヴェンの創作を三つの時期に分類したのがロシアのウィルヘルム・レンツ(Wilhelm von Lenz)という著作家です。ベートーヴェンの作曲活動を知るうえで非常に興味ある話題なので取り上げることにします。

 第一期は、1794年の3つの第一期はピアノトリオを(Piano trio)完成し、1800年の交響曲第一番と七重奏曲を作った時期です。この期の作品は、ベートーヴェンが得意とするピアノによる曲が目だつようです。そこには、2つの特徴である対照的なダイナミックさを個性的に使用することや、クレッシエンドから突然ピアニッシモになるといった工夫がみられることです。これは即興演奏からの技法が次第に入り込んでくるためといわれます。

 

 

 

 

 

 

 

第二期は1801年から1814年頃で、嬰ヘ短調ソナタ「月光」、ピアノ三重奏曲第7番(大公)、交響曲第三番「英雄」(Eroica)やピアノ協奏曲第四番、即興的素材の使用が目立つ時期といわれます。和声は基本的に単純で和声が基本的な拍数との関係で使われます。ストレスとアクセントを使います。その結果、ベートーヴェンの曲はあらゆる作曲家の中で、同じ旋律を繰り返すことが最も少ないといわれます。

第三期は1814年から没年の1827年の時期です。ベートーヴェンはヘンデルに傾倒し、より対位法を本格的に使用するようになります。「英雄」がそうです。第一楽章は複数の主題、緩徐章と呼ばれる第二楽章の展開部は比較的短く叙情的で、第三楽章はスケルツォ(scherzo)、メヌエット(minuet)など舞踏的な性質が特徴で、終楽章の第四楽章は以前よりずっと重要視され、特に主要楽章となり、活気のある優雅さが特徴といわれます。