心に残る名曲  その百五十九 ベンジャミン・ブリトゥン 「青少年のための管弦楽入門」

ブリトゥン、ベンジャミン(Edward Benjamin Britten)は1913年生まれのイギリスの作曲家・指揮者・ピアニストです。17世紀バロック期のヘンリー・パーセル(Henry Purcell)以来の傑出したオペラを作った作曲家といわれます。

12歳で作曲を始めた経歴があります。作品としてオペラ「ピーター・グライムズ」(Peter Grimes)や「シンプル・シンフォニー」(Simple Symphony)、代表作としては、死者のためのミサ曲「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)はよく知られています。

「青少年のための管弦楽入門」は「アブデラザール」のアンサンブルからなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成されています。題名からわかるように、親しみやすいメロディを前面に出した平明な音楽となっているのが特徴です。

心に残る名曲  その百五十八 グスタフ・ホルスト 「惑星」

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)は1874年生まれのイギリスの作曲家です。スウェーデン・バルト系(Swedish-Baltic)移民の家系の出で、十代のころからすでに作曲を試みていたという記録があります。1893年、ロンドンの王立音楽院(Royal Academy of Music)に入学して正式にスタンフォード(Charles Stanford)に作曲法を学びます。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたようです。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)と知り合います。

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1905年にロンドンのセントポール女学院(St Paul’s School)の音楽科主任として生涯その職に留まります。若い頃からヒンズー(Hinduism)の文学や哲学に興味を抱き、やがて翻訳では満足できずにロンドン大学でサンスクリット語(Sanskrit)を学び、自ら解釈したといわれます。そのためか、彼の書く作品は東洋的な雰囲気やイングランド各地の民謡の色彩が濃いことが特徴とされます。

ホルストの最も知られた作品は、管弦楽のための組曲「惑星」(The Planets) 作品32です。それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられています。総じて合唱のための曲を多く残しています。オペラや歌曲・ピアノ曲なども多数作っていますが、主に管弦楽曲や吹奏楽曲、弦楽合奏曲が広く知られています。また、吹奏楽曲などでも知られている作曲家です。イギリス人たちからは “パーセル(Henry Purcell)の再来” と評価された作曲家です。 

組曲「惑星」は 7楽章から成る大編成の管弦楽のために書かれた組曲です。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われます。“I Vow to Thee, My Country”もお楽しみください。

心に残る名曲 その百五十七 ジョン・フィールド 「ノクターン」

大英帝国の音楽家というと日本ではあまり馴染みがない、と勘違いをしておりました。調べてみると多士済々なのです。その一人、ジョン・フィールド(John Field)はアイルランド(Irland)の作曲家でピアニストです。生まれは1782年。音楽家の家に生まれ、初めは祖父に音楽を学びます。9歳でジョルダーニ(Tommaso Giordani)に師事します。1793年にロンドンに移り、クレメンティ(Muzio Clementi)に師事しウィーンを経てロシアへ赴きます。

1812年から1836年に書いた18曲の夜想曲といわれるノクターン(nocturne)は古典的な形式を離れ、流麗な旋律と自由な伴奏の考え方により、ノクターンというジャンルの先駆的な手法を示したといわれます。ほかに7つのピアノ協奏曲や幻想曲、ポロネーズがあります。

フィールドの活動は夜想曲の発展に貢献し、後のショパン(Frederic Chopin)に影響を与えたことです。ロシアでの演奏が好評で各地で演奏します。グリンカ(Mikhail Glinka)を指導するなどロシア音楽の発展に大きく寄与したともいわれます。

心に残る名曲  その百五十六 エドワード・エルガー 「Lux Christi」

並み居る英国の作曲家の中でエドワード・エルガー(Edward Elgar)が最もポピュラーではないでしょうか。なんといっても「Pomp & Circumstance Marchi in D Major」は誰もが一度や二度は聴いたことがある曲です。父はオルガン奏者で楽譜の販売業者であったといわれます。エルガーは15歳のとき学校をやめて法律事務所で働きます。しかし、バスーン(bassoon)をやヴァイオリンを弾くという才能の持ち主でした。正式な音楽教育を受けたことがないのも珍しい経歴です

カトリック信者であったエルガーはやがて教会のオルガン奏者となったり軍楽隊長となります。その頃から作曲活動をはじめ、オラトリオ(oratorio)のなかの合唱曲「Lux Christi」、「Dream of Gerontinus」とか「Enigma Variations」という管弦楽曲を作曲します。さらに宗教オラトリオの「The Kingdom」、「The Apostles」などによって作曲家としの地位を確立していきます。バーミンガム大学(University of Birmingham)の初代音楽教授となり、その間チェロ協奏曲(Cello Concerto E minor)、ヴァイオリン協奏曲(Violin Concerto)などを作曲し1924年には王立音楽長となり男爵(Sir)の称号を受けます。

ところでプロムス(The Proms)はBBCが主催する「史上最大のクラシック音楽演奏会」と云われます。誰もが安い料金で音楽を楽しむ機会として、毎年夏に8週間にわたり開催されます。会場は、ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)やそれに隣接する公園です。入場料は700円から14,000円くらいです。Promsとは「聴衆がブラブラ歩くこと(promenading)」とか「そぞろ歩き」(promenade)という単語に由来します。プロムナードという単語も生まれています。

心に残る名曲  その百五十五 ヴォーン・ウィリアムズ 「海の歌」

英国音楽のルネッサンスを築き上げたといわれる音楽家です。ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)は1872年生まれ。1890年に王立音楽大学(Royal College of Music)に入り、1899年までそこで学びます。その後ケンブリッジ大学(University of Cambridge)でも音楽を研究します。修業期間中はフランスのラヴェル(Maurice Ravel)にも師事しています。修業年限が長かった理由はわかりません。オルガン奏者やトロンボーン奏者としても活躍します。

やがてイギリス讃美歌集(The English Hymnals)を編集したりしながら、30歳の頃から歌曲の作曲活動を始めます。さらにアメリカの詩人、ホイットマン(Walter Whitman)のテキストから交響曲第一番「海の交響曲」や第二番「ロンドン交響曲」を作ります。「海の歌」、トマスタリス(Thomas Tallis)による「ファンタジア」とか「ヒバリの飛翔」(The Lark Ascending)なども世に送り出します。シェイクスピア(William Shakespeare)に基づく「恋するジョン卿」(Sir John in Love)も知られています。オペラはどれも注目されなかったのですが「仮面舞踏」(Job, A Masque for Dancing)はしばしば演奏されたといわれます。

第一次大戦後は、彼は王立音楽大学の初代の音楽教師として任命されます。1934年には論文、国民的音楽(National Music and Other Essays)のなかで ”芸術は慈悲と同じく家庭から出発すべき” といった論調を展開します。音楽の形式は多様で、交響曲、歌曲、オペラ、合唱曲などに及びます。

心に残る名曲  その百五十四 ヒューバート・パリー 「Jerusalem」

ヒューバート・パリー(Charles Hubert Parry)の作曲活動は1880年代に始まります。合唱曲をはじめ5つの交響曲,交響組曲などで知られたイギリスの作曲家です。リヒヤルト・ワーグナー(Richalt Wagner)と個人的に親しく、ロンドンにおけるワーグナーの再来とも云われていたようです。しかし作曲家としては、バッハ(Johann Bach)やブラームス(Johannes Brahms)に傾倒していた作風がでているようです。それはブラームスの明快な和声、構成を基にしつつも、力強く全音階を満ちているからです。

その旋律様式は、エルガー(Edward Elgar)やヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)に大きな影響を及ぼしたようです。オックスフォード大学(University of Oxford)の音楽学部の教授として1900年から1908年まで務めます。 教師や学校管理者としてあまりの激務のために、その間の作曲活動は妨げられようです。

1916年3月にパリーは「Jerusalem」という合唱曲を作ります。この曲は、詩人で画家であったブレーク(William Blake)の歌詞に付けたものです。事実上のイングランドの国歌として現在のイギリスでは非常によく知られています。その才能、エネルギーとカリスマ性によって、イギリスの文化的生活の中心に音楽を据えることに大きな貢献をなしたといわれます。
「Jerusalem」は次のような歌詞で始まります。
「And did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green, and was the holy Lamb of God n Englands pleasant pastures seen!」

心に残る名曲  その百五十三 スタンフォード 「イーブニング・サーヴィス 」

チャールズ・スタンフォード(Charles Stanford)は、1852年生まれのアイルランドの作曲家です。幼いときから作曲し、その才能はすでに開花していたといわれます。

ケンブリッジ(Cambridge)のトリニティ・カレッジ(Trinity College)で学びます。1873から92年まで同カレッジのオルガン奏者や大学音楽協会の指揮者となります。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任します。その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとります。1887年からはケンブリッジ大学(University of Cambridge)の音楽科教授も兼任します。

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)やリーフ・ヴォーンウイリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのすぐれた弟子を育てます。イギリス音楽の再興を果たし、ナイトの称号を与えられます。「イーブニング・サーヴィス」「闇を照らせ」「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という曲をお楽しみください。

作品はドイツロマン派の様式を備えています。職人的ともいえる作曲技法で、アイルランドやイングランドの民族的な色彩を反映する曲を作ります。作品は交響曲、協奏曲、宗教曲、歌曲などにまたがります。

心に残る名曲  その百五十二  ヘンリー・パーセル 「Fairest Isle」

近世から現代にいたる英国の作曲家の音楽をしばらく取り上げることにします。最初はヘンリー・パーセル(Henry Purcell)です。生まれたのは1659年ですから、ピューリタン革命(Puritan Revolution)に引き続く王政復古の時代にあたります。チューダー王朝(Tudor dynasty)といわれる時代です。フランスの絶対王政、ドイツは30年戦争の直後の疲弊のまっただ中という状況にあって、イギリスは大陸の疲弊をよそに近代化へと発展していく時期です。

パーセルはイタリアやフランス音楽の影響を受けつつ、バロック時代における独自の音楽を生み出した最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として評価されています。若くして才能をあらわし、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)のオルガン奏者、王室礼拝堂のオルガン奏者などを歴任していきます。パーセルは、作曲家としての初期には宗教音楽家として数多くの宗教的声楽曲を作曲していきます。特にイギリス国教会の聖歌であるアンセム(Anthem)とよばれる形式で多くの独唱曲や合唱曲を作曲します。こうして宗教的声楽曲というジャンルにまで高めていきます。「Come, Ye Sons of Art (Ode for Queen Mary)」とか「Fairest Isle」という器楽と声楽の演奏はそうです。

パーセルの音楽に影響を与えた背景には、文豪シェークスピア(William Shakespeare)、哲学者ベーコン(Francis Bacon)などの活躍により、イギリスの人文科学が一つの頂点を迎えたことがあるといわれます。演劇という表現形式が開花した時代で、音楽が劇と融合していきます。劇音楽、とくにオペラの分野との競演が進みます。こうした演劇の上演は、イギリスにおいては「劇伴」としての器楽曲の隆盛につながっていきます。リュート(Lute)、ヴィオラ・ダ・ガンバ(viol)、リコーダー(recorder)といった楽器の合奏による室内楽や舞曲が広く演奏されるようになります。「組曲2番プレリュード」はその一つです。

パーセルは持ち味である繊細な和音づけをたくみに利用して、力強さ、華やかさといった表現に加えて不安や悲しみといった複雑な感情までも音楽で細部に描き出していきます。

心に残る名曲 その百五十一  ヘンデル オラトリオ(Oratorio)

英国国教会(Churchi of England)のための教会音楽は、私的な礼拝のためだけでなく、イギリスの国家的行事のための式典用のがあります。こうした音楽はウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)やセントポール大聖堂(St Paul’s Cathedral)で演奏される教会音楽であると同時に、公的な音楽としての性格を強く持つということです。

もともとヘンデルはルーテル教会の信徒でした。ヘンデルの教会音楽は、ローマカトリック教会、ルーテル教会、英国国教会に共通しています。その特徴は、総じて壮大、華麗、重厚さをあわせ持ち、情緒に偏ることのない普遍的なエートスを反映するものとして位置づけられます。これがオペラや受難曲(passion)といった教会音楽とは異なる点です。

バッハやモーツアルトの受難曲はドイツの敬虔主義による情動的なイメージが強いといわれます。詩の語りに重点をおいた叙唱、レチタティーボ(recitativo)を用いたり,抒情的表現の独唱、アリア(aria)、さらにドイツ語の歌詞と単純な旋律の宗教歌、コラール(choral)が使われます。

心に残る名曲 その百五十 ヘンデル メサイア (Messiah HWV 56)

メサイア(Messiah)は1741 年にヘンデル(George Frideric Handel)によって作られた英語によるオラトリオ(Oratorio)です。通常「Messiah (HWV 56)」と呼ばれています。「Messiah」とは救世主という意味です。この曲の基となったのは、英国国教会(Church of England)およびピューリタン(Puritan)の両者で翻訳されたキングジェームズ版聖書(King James Version)と旧訳聖書の詩篇を基にした合同祈祷書(Book of Common Prayers)からチャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens)という作詞家が要約したテキストです。

1712年以来ロンドンで生活したヘンデルは、イタリア歌劇小作品によって作曲家としての名声を得ていきます。1730年代になり、時代の変化とともにイギリス・オラトリオの作品を作っていきます。メサイアは1742年にダブリン(Dublin)で初演されます。翌年、ロンドンでも演奏されます。評価は高くはなかったのですが徐々に認められて、やがて世界的に知られるようになり、最も著名な曲としての地位を得ることになります。

オラトリオは歌劇とは似てはいますが、劇的な筋書きとか登場人物の独唱やせりふはありません。ジェネンズは、メサイアの構成を福音書から引用します。第一部は預言者イザヤ(Isaiah)や羊飼いの告知などからなります。第二部はキリスト(Christ)の受難を語り、はりつけ、そして「神をほめたたえよ」というハレルヤ・コーラス(Hallelujah Chorus)に続きます。そして第三部は死からの蘇りと救世主のもたらした救いと永遠の命を讃える歌詞となっています

心に残る名曲  その百四十九 アルカデルト 「 Ave Maria」

ジャック・アルカデルト(Jacques Arcadelt)という作曲家と作品の紹介です。生まれは今のベルギーといわれますが、生地や経歴が不明なことが多い作曲家です。アルカデルトは若くしてイタリアに赴き、フィレンツェ(Florence)やローマ(Rome)で活動します。フィレンツェではメディチ家(Medici)と親交をもったようです。1531年に最初の曲であるモテット(motet)やマドリガル(madorigal)をドイツにて出版します。1540年にパウロ三世(Paul III)の治世下、ローマのシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊の隊員となり,同地でミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)と親交を結びます。その後フランスに移り,フランス国王の宮廷礼拝堂などで活躍します。

アルカデルトの本領は世俗歌曲–マドリガルやシャンソンにあります。同時代のフランドル楽派(Flemish school)の作曲家たちと同じく,作品は活動地イタリアの地域性を反映させるものとなります。宗教作品も多いのですが,世俗的な声楽作品を得意とし,充実した和声感に満たされた模倣書法を示す200曲のマドリガルやその様式に類似した120曲のシャンソンを作っています。

同時代のイタリア人作曲であるフェスタ(Costanzo Festa)やヴェルデロット(Philippe Verdelot)とともにイタリアの世俗音楽の発展に寄与します。その影響を受けたひとりがパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)といわれます。 有名な「アヴェ・マリア」(Ave Maria)をお聴きください。

心に残る名曲  その百四十八 モンテヴェルディ 「聖母マリアの夕べの祈り」

中世期、北イタリアのクレモナ(Cremona)に生まれたクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)の作品について触れます。幼少期はクレモナ大聖堂(Cremona Cathedral)の楽長であったマルカントニオ・インジェネリ(Marcantonio Ingegneri)の元で学びます。

インジェネリという音楽家は、世俗的な精神を込めた教会音楽を作るとともにマドリガル(madrigals)作品で知られています。モンテヴェルディはその薫陶を受け、1582年と1583年に最初の出版譜としてモテット(Motet)と宗教マドリガルを何曲か出しています。1587年には世俗マドリガルの最初の曲集を出版します。

1590年に、マントヴァ(Mantua)のヴィンチェンツォ1世 (Vincenzo I )のゴンザーガ宮廷(Gonzaga Court)にて歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者(Viola da gamba)として仕えはじめ、1602年には宮廷楽長となります。その後40歳まで主にマドリガルの作曲に従事し9巻の曲集を出版します。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられています。その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されるくらいです。後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。オペラの最初期の作品の一つ「オルフェオ」(The Fable of Orpheus Mantuaz)は、20・21世紀にも頻繁に演奏される最初期のオペラ作品となります。

「オルフェオ」の画期的な点は、その劇的な力と管弦楽器を用いて演奏されたことです。当時ルネサンス音楽の対位法の伝統的なポリフォニーを使った優れた作曲家として出発しますが、やがてモノディ(monody)という新しい弾き語りのスタイルを音楽を取り入れていきます。モノディとは、16世紀終わりにフィレンツェやローマを中心に生まれた音楽様式です。

1632年、モンテヴェルディはカトリック教会の司祭に任命されます。詩篇121の「聖母マリアの夕べの祈り」(Vespro della Beata Vergine)は素晴らしい響きの曲です。

心に残る名曲  その百四十七 ルカ・マレンツィオと宗教マドリガル

イタリア後期ルネサンス音楽の作曲家、ルカ・マレンツィオ(Luca Marenzio)を取り上げます。マドリガルの後期の発展段階において、後日紹介するクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)による初期バロック音楽への過渡期に先駆けて、おそらく最もすぐれた実践例を残したといわれる作曲家です。甘美な抒情性を漂わせた作風から、アルカデルト(Jacques Arcadelt)のモテット、マドリガル(madrigal)、シャンソン(chanson)になぞらえて、「崇高で優美な白鳥」と評されるほどです。

マレンツィオの経歴に触れることにします。マレンツィオは生まれ故郷のブレシア(Brescia)で聖歌隊員として訓練を受けます。やがてローマにて、ルイギエステ枢機卿(Cardinal Luigi d’Este)に仕えます。1588年にフィレンツェ(Florence)に行き、そこでジョバンニ・バーディ(Giovanni de’ Bardi)という作曲家、作家と一緒に音楽家や詩人の集まりに参加します。

ところでマドリガルは、イタリア発祥の歌唱形式の名称です。マドリガルには、時代も形式も異なった 中世マドリガルとルネサンス・マドリガルがあります。私たちが通常呼んでいるのはルネサンス・マドリガルを指します。マレンツィオは、多くのマドリガルを作曲します。マレンツィオ16世紀を代表する最も著名なイタリアのマドリガル作曲家の一人です。ついでですが、シャンソンは中世からルネサンスにかけて作られたフランス語の歌曲のことです。宗教マドリガルの「Solo e pensoso」「Concerto Vocale」をお聴きください

心に残る名曲  その百四十六  バンショワ 「Cantigas de Santa Maria」

ネーデルラント(Netherland)の作曲家でブルゴーニュ楽派(Burgundian school)初期の一人であったジル・バンショワ(Gilles de Binchois)のことです。前回取り上げたギヨーム・デュファイ(Guillaume du Fay)と同年代の作曲家で、15世紀初頭で最も有名な音楽家の一人といわれます。

バンショワは、15世紀の最も優れた旋律家と評価されてきたのは、作り出された旋律線が歌いやすくて、すこぶる覚えやすいという特徴があるからです。彼の編み出した旋律は、その後も模倣され続け、しミサ曲において素材として後代の作曲家に流用されていきます。バンショワ作品のほとんどは、輪郭が単純明快でしかも福音的なメッセージを伝えるものです。「 日は昇る」(A solis ortus cardine)という中世ルネッサンス アカペラ混声や「聖母マリア頌歌集」(Cantigas de Santa Maria)にもそれが表れています。

中世ルネッサンス アカペラ混声
あなたの非常に柔らかい表情
「悲しい喜びと痛い喜び」 (Triste plaisir et douloureuse joye)

心に残る名曲  その百四十五 ギヨーム・デュファイ 「ミサ ロムアルム」

デュファイ(Guillaume du Fay)はベルギー(Belgium)の首都ブラッセル(Breersels )生まれ。15世紀、ルネサンス期(Renaissance)に活躍したブルゴーニュ楽派 (Burgundian School )の作曲家、音楽家です。音楽の形式および楽想の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠といわれます。

デュファイの音楽的な才能は、地元の教会から注目されていたようです。聖歌隊員となり教会は彼の才能を育てていきます。16歳のときカンブレー(Cambrai)近郊のサンジェリー教会(St.Géry Cathedral)で副助祭(benefice)として働き始めます。1426年にイタリアのボローニア(Bologna)に戻り、ローマ教皇特使であるアルマン枢機卿(Cardinal Louis Aleman)の元で仕えます。やがて執事となり1428年に司祭として叙任されます。

聖職者でありましたが、デュファイは旺盛な作曲活動をします。楽風は中世的要素を備え、やがてルネサンス音楽へと成熟しブルゴーニュ楽派の中心的人物となります。ブルゴーニュ楽派とは、ブルゴーニュ公国で活躍した作曲家達のことで、その精華は世俗歌曲にあり、通例3声のポリフォニーが声と楽器で優美に演奏されます。その後期の作品には、ルネサンス音楽の次の時代となるヨーロッパ普遍の音楽様式を確立するフランドル楽派(Flemish school)に通じる要素も見られます。各声部に均衡のとれた 4声ポリフォニー手法を特色とします。「ミサ ロムアルム」(Missa Lohomme)が知られています。後に「ルネサンス音楽におけるバッハ」というように15世紀最大の巨匠とも評価されるほどです。

心に残る名曲  その百四十四 ソルティとシカゴ交響楽団

ギオルグ・ソルティ(Georg Solti)のことです。1912年ハンガリー生まれのイギリス人指揮者でピアニストでもあります。20世紀を代表する指揮者の一人と称されてSirの爵位を有しています。

音楽歴ですが、ブタペスト(Budapest)のリスト音楽院(Liszt Academy of Music)に入学します。もちろん同じ、ハンガリー生まれのフランツ・リスト(Franz Liszt)にちなんだ音楽学校です。

第二次大戦が勃発すると迫害を避けてスイスのツーリッヒ(Zürich)に逃れます。彼自身はユダヤ人だったからです。人種差別から指揮者としての仕事を見つけるのが難しかったようです。それでも1942年にはジュネーブ(Geneva)での国際ピアノコンクールで優勝します。戦後は、ミュンヘン(Munich)にあったババリア州歌劇(Bavarian State Opera)、フランクフルト歌劇場(Frankfurt Opera)、イギリスのコベントガーデンの王立歌劇場(Royal Opera)の指揮者となります。

華々しい活躍の最たることとして、ソルティの業績はシカゴ交響楽団を世界的なオーケストラに育てたことがあります。1969年から22年間にわたり指揮をするのです。1972年にイギリスに帰化しSirの爵位を授けられます。その他、1972年からはパリ管弦楽団(Orchestra of Paris)、パリ歌劇場(Paris Opéra)、ロンドン・フィルハーモニー(London Philharmonic Orchestra)の音楽総監督などを歴任します。

心に残る名曲  その百四十二 フランシスコ・タレガ 「アルハンブラの思い出」

アルハンブラの思い出で知られるスペインの作曲家・ギター奏者がフランシスコ・タレガ(Francisco Tarrega)です。ギターの達人「ヴィルトゥオーソ」(virtuoso)として名を馳せます。ヴィルトゥオーソとはイタリア語の博識とか達人を意味する言葉です。「ギターのサラサーテ(Pablo Sarasate)」との異名も付けられています。二人ともスペイン人であるからです。

「アルハンブラの思い出」(Memories of Alhambra)は、高度なテクニックで演奏されます。この技法は「トレモロ奏法」(tremolo)と呼ばれ、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏します。親指はバス声部と伴奏の分散和音を弾くのです。単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する技法が「トレモロ奏法」です。この奏法によって噴水の流れなどが表現されています。

1874年にマドリッド音楽院(Madrid Conservatory)に進学。豪商の援助のもとに、作曲をエミリオ・アリエータ(Emilio Arrieta)に師事し1870年代末までにギター教師となります。

心に残る名曲  その百四十一 ハチャトリアン 「仮面舞踏会」

アラム・ハチャトゥリアン(Aram Il’ich Khachaturyan)は1903年にロシア帝国支配下にあったグルジア、現在のジョージア(Georgia)生まれの作曲家です。故郷の民族音楽を素材としたリズム感のある作品で有名です。アゼルバイジャン(Azerbaijan)やジョージアなどコーカサス(Caucasus)地方の民族音楽の影響がうかがわれます。代表的な作品に「仮面舞踏会」(Masquerade)やバレエ音楽「ガイーヌ」(Gayne)などがあります。

モスクワで音楽を学び、やがてレーニン賞など多数の賞を受け、自作の指揮者としても活躍します。映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞したこともあるようです。作品の中でも「ガイーヌ」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中でも「剣の舞」(Sarbere Dance)が、アンコールピースとしてしばしば演奏されます。民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた楽風で、作品が異色の光彩を放っています。

「仮面舞踏会」は後に、ハチャトゥリアン自身の手によって、ワルツ、夜想曲(nocturne)、マズルカ(mazurka)、ロマンス(romance)、ギャロップ(gallop)の5曲を選んでオーケストラ向けの組曲となりました。中でも情熱的でダイナミックスな「ワルツ」は単独でも演奏されることも多い作品です。

アラム・ハチャトリアン

心に残る名曲  その百四十 シベリウス 「トゥオネラの白鳥」

Suomiを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。Suomiとはフィンランド別名です。民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala)に基づいた交響詩集「レンミンカイネン組曲」(4つの伝説曲)は有名です。 

この組曲は、「レンミンカイネンとサーリの娘たち」、「トゥオネラの白鳥」、「トゥオネラのレンミンカイネン」、「レンミンカイネンの帰郷」の4曲から構成されています。組曲といっても便宜上のもので、各曲は別個に出版されました。中でも「トゥオネラの白鳥」(The Swan of Tuonela)は独立して演奏される機会が多いようです。物語の筋を追うのではなく、もっぱら黄泉の国のトゥオネラ川を泳ぐ白鳥のイメージを描いています。

私はフィンランド語(Finnish)は学んでおりませんが、「レンミンカイネン組曲」は以下のように表記するようです。
「レンミンカイネンと島の娘たち」(Lemminkäinen ja Saaren neidot)
「トゥオネラの白鳥」(Tuonelan joutsen)
「トゥオネラのレンミンカイネン」(Lemminkäinen Tuonelassa)
「レンミンカイネンの帰郷」(Lemminkäinen palaa kotienoille)

心に残る名曲  その百三十九 コダイ その2 「ハーリ・ヤーノシュ」

コダイが作曲した管弦楽組曲に「ハーリ・ヤーノシュ」(Hary Janos)があります。同じハンガリー人のガライ・ヤーノシュ(Garay Janos)によって書かれた物語詩「老兵」の主人公の名となっています。

コダイの代表曲といわれる「ハーリ・ヤーノシュ」のことです。ヤーノシュは実在した陶工ですが、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーで、農民兵の一典型として、伝説的人物として描かれています。老いた退役兵ハーリ・ヤーノシュは、故郷の居酒屋で若者たちを相手に兵役時代の話をほらを交えて語るのです。ナポレオンと戦って勝って捕虜にしたとか、オーストリア帝国の皇帝フランツの妃にひと目ぼれされ求婚されたたという話、七つ頭の竜を組み伏せた話などハーリ・ヤーノシュのほら話を楽劇として作曲したといわれます。

「ハーリ・ヤーノシュ」の初演は1926年で後に、ハンガリーのドン・キホーテ(Don Quixote)物語ともいわれます。