アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その66 『Harley-Davidson』とウィスコンシン

ミルウォーキには、ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)の本社があります。いわずとしれたオートバイメーカーです。1903年に設立され、歴史的なライバルであるインディアンモーターサイクル(Indian Motor Cycle)と共に世界恐慌を生き延びたアメリカの2大オートバイメーカーの1つです。数々の所有形態、子会社の手配、経済的健全性や製品品質の低下した時期、激しいグローバル競争を乗り越え、世界最大のオートバイメーカーの1つになり、忠実なファンによって広く知られているアイコン的ブランドとなりました。こよなくモーターを愛するファンによって広く知られた象徴的なブランドとなっています。世界各地にオーナークラブやイベントがあります。会社主催のブランドに特化した博物館もあるほどです。

Harley Davidson

ハーレー・ダビッドソンは、チョッパーモーターサイクル(chopper motor cycle)というスタイルを生み出したカスタマイズのスタイルで知られています。チョッパーモーターとは、元々ついているハンドルなどのパーツを切って加工したり、取り除いたりしたバイクのことです。同社は伝統的に700cc以上の排気量を持つ重量級空冷クルーザーモーターサイクルを販売していましたが、より現代的なVRSC型、およびミドルウェイトのストリートプラットフォームを含む提供の幅を広げてきています。ハーレーダビッドソン社製オートバイ最大の特徴は、大排気量空冷OHV、V型ツインエンジンがもたらす独特の鼓動感と外観であり、これに魅せられた多くのファンがいいます。大きく横に張り出したケースも外見上の特徴です。

Harley Davidson Emblem

ハーレー・ダビッドソンはミルウォーキの他にペンシルベニア州ヨーク、ミズーリ州カンザスシティ、ブラジルのマナウス(Manaus)、そしてタイのラヨーン県(Rayong)でオートバイを製造しています。このように、世界中で製品を販売するとともに、ハーレー・ダビッドソンブランドによる商品、例えばアパレル、家庭装飾品、アクセサリー、おもちゃ、オートバイのスケールモデル、ビデオゲームなどのライセンス販売をしています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その65 『マッカーシズム』とウィスコンシン

ウィスコンシンは酪農が主たる産業です。その理由は気候と土壌にあります。五大湖の西部に位置するウィスコンシンは、厳しい冬と快適な夏が特徴です。ここは氷河が土壌の大半をえぐり、排水を妨げ多数の湖と広い湿地を形成してきました。冷涼で湿気の多い気候のため、土壌や痩せて作物の成育には適さないのです。南部だけが飼料作物と酪農に適し、北部はジャガイモやライ麦の生育に限られています。ですから理想的な酪農地域を形成しています。クローバーやアルファルファ(alfalfa)という牧草がとれます。これらの飼料作物の貯蔵用の大きなサイロと巨大な畜舎によって、家畜は長い冬を越すことができます。

このような酪農が盛んなことは、共和党員のジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)がなぜウィスコンシンから生まれたかを説明できそうです。ゲルマン系の人々やカトリック系の信者が定住し酪農を発展させてきました。こうした人々は伝統的な考え方を持ち、共和党支持の人々です。これがマッカーシズム(McCarthyism)の底流にあるというのが通説です。

Sen. Joseph McCarthy

マッカーシズムの勃興を促した短期的な理由も指摘されています。ニューディール(New Deal)以降、万年野党の地位に置かれた共和党の党派的な憤まんや、冷戦下の国際緊張の高まり、朝鮮戦争の勃発といった情勢です。ソ連の核開発、中国共産党政権の樹立、ヒス事件(Alger Hiss)やローゼンバーグ事件(Julius and Ethel Rosenberg)といったスパイ事件の相次ぐ摘発で、苛立つ国民の心理に強く訴えます。1952年にマッカーシが再選され、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権が成立すると、マッカーシは、審査委員会の委員長に就任し、CIA、Voice of America(VOA)、陸軍にいたる政府機関まで赤狩りの手を広げていきます。反共目的とした政敵攻撃を進めたのがマッカーシズムという恐ろしい手法です。

Rosenbergs

伝統的に共和党には、反ラディカリズム(Anti-Radicalism)やアメリカ社会の内的一体性を前提として生まれる排外主義的傾向があります。このことは排外主義を煽る「America First」というトランプ現象に現れました。こうした背景がマッカーシズム勃興の根底にあった考える歴史家もいます。アメリカは、今も民主主義や人権の規範について独善的なダブルスタンダード(二重基準)の問題を抱えています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その64  『Badger』とマディソン

Badger(アナグマ) というニックネームは、ウィスコンシン州の豊かな鉛鉱山発掘の歴史に由来します。ホーチャンク(Ho-Chunk)をはじめとする先住民族は、数百年前からウィスコンシン州南西部で鉛を採掘していたのです。ウィスコンシン州の歴史での最も古い領土紛争のいくつかは、植民地化したアメリカ人とヨーロッパ人入植者がこの地域に移り住み始めたときに、この鉱物の豊富な領土をめぐって発生したといわれます。1850年頃にアメリカの鉛消費量の半分以上を採掘していたことから、鉛鉱山周辺では坑道に人が住んでいた時代もありました。それは、初期の鉱夫たちが、貧しかったか、忙しかったか、あるいはその両方であったために、鉛の採掘場に家を建てることができなかったからです。ウィスコンシンの厳しい冬を乗り切るために、彼らは鉱山の中で生活していたのです。地中に穴を掘って動物のように暮らす彼らのことを、人々はアナグマ(Badger) と呼んで嘲笑したようです。

Science Hall

マディソンは1960年代から1970年代にかけてカウンター・カルチャー(Counter Culture)の街としても知られました。カウンター・カルチャーとは、ある時代または社会の主流となっている文化に対し、それを否定する人々によって作り出された反主流の文化のことです。この文化運動は、マディソン市内のダウンタウンにあるミフリン通り(Mifflin St)とバセット通り(Basset St)の周辺に集中し、「ミフランド」(Miffland)と呼ばれていました。この地域には学生やカウンター・カルチャーの若者たちが住み、壁画を描き、共同食料品店などを運営していました。ベトナム反戦活動も盛んになり、ミフリン・ストリート・ブロック・パーティー(Mifflin Street Block Party)という反戦抗議集会が常態化します。しかし、共和党のビル・ダイク(Bill Dyke)市長は、ベトナム戦争に抗議する地元の抗議活動を弾圧したため、学生たちから敵対者とみなされました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、何千人もの学生や市民が反ベトナム戦争の行進やデモに参加し、次のような暴力的な事件も起きて、マディソンとカリフォルニア大学バークレー(University of California -Berkley)キャンパスは全米の注目を浴びることになりました。
 ・1967年 ダウ・ケミカル社(Dow Chemical Company)に対する学生の抗議行動で74人が負傷
 ・1969年 アフリカ系アメリカ人の学生と教職員の代表権と権利を確保しようとするストライキで、ウィスコンシン州兵が出動
 ・1970年 ウィスコンシン大学エーモリー体育館(Armory Gymnasium)内にあった陸軍ROTC本部が被害を受けた火災発生
 ・1970年 同大スターリング・ホール(Sterling Hall)の陸軍数学研究センター(Army Mathematics Research Center)で起きた爆弾事件でポストドク研究員が殺害

Red Gym

ミフリン・ストリート・ブロック・パーティーの鎮圧のために3日間もかかったことがあり、何百人もの警官の残業代が必要となり、近くの学生寮を含む学生コミュニティを巻き込むことになります。こうした騒動で、当時市会議員だった学生運動家のポール・ソグリン(Paul Soglin)は2度逮捕されます。やがてソグリンはマディソン市長に選ばれ3期にわたり努めます。

ウィスコンシンは社会改良の革新的な政治でも知られています。それはニューディール政策の先駆となるウィスコンシン理念(Wisconsin Idea)の発祥地です。ウィスコンシン理念の提唱や実践について、上院議員であったロバート・ラフォレ(Robert LaFollette)とその一族が果たした役割は大きいものがありました。しかし、彼のあとに上院議員となったのはマッカーシズム(McCarthyism)で悪名高いジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)でした。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その63 『キッコーマン』とウィスコンシン州

ウィスコンシンの土壌と水は農業に最適な環境を作り出していますが、世界最高の乳製品を生産するためには素晴らしい土地や酪農家の献身、酪農の研究と開発などが基礎となっています。ウィスコンシンでつくられる多くの製品は、ウィスコンシン大学などでの研究成果を反映しています。

ウィスコンシン州はアメリカのチーズの約4分の1を生産し、チーズ生産量では全米一位です。牛乳生産量ではカリフォルニア州に次いで第二位、一人当たりの牛乳生産量ではカリフォルニア州とバーモント州に続いて第三位。バター生産では全米の約4分の1を生産し第二位です。トウモロコシ、クランベリー、朝鮮人参、スナップインゲン、加工用豆などの生産で全国一位となっています。ウィスコンシン州の農産物生産の重要性は、ウィスコンシン州の四半期デザインに描かれたホルスタイン牛、トウモロコシの穂、チーズの輪に象徴されています。 州は毎年「酪農の国のアリス」(Alice in Dairyland)を選出し、州の農産物を世界に宣伝しています。

Kikkoman

大豆の生産が盛んなのもウィスコンシン州です。1973年に同州のウォルワース(Walworth)にキッコーマンは初の海外工場を建設し、“Made in USA”の醤油が初出荷されます。工場建設にあたっては、地域社会との共存共栄をめざし、現地社員の登用も積極的に行いました。日本で培われた技術で、現地の力で醤油を作り、“世界に通用する味”としました。通用する味とは、経営の現地化を土台にして育まれた恒久的な定着を意味しています。1998年には、カリフォルニア州フォルサム(Folsom)にアメリカ第二工場もオープンし、醤油の出荷量も順調に成長を続けています。

Kikkoman in Hokkaido

キッコーマンは、ソイソースに代わるいわば代名詞として、アメリカでも定着しています。ただ、キッコーマンのアクセントは「キッコマン」と発音されています。ステーキのために無くてはならないのがソースです。醤油と肉の組み合わせをより容易にするために生まれたのが「テリヤキソース」というわけです。キッコーマンは、1961年にその生産を始めてから現在まで高い人気を維持しており、「TERIYAKI」は、いまではウェブスター(Webster)の辞書にも載っています。大豆のお陰で醤油や豆腐、その他の日本食品が、アメリカ料理の主流に加わりつつあるといっても過言ではありません。

「TERIYAKI」は英語で「glaze-broiled」で「艶を出しの焼き方」という意味です。照り焼きソースはいろいろな種類があるようですが、最近は減塩もの、韓国風のもの、味噌でつくったものなどに人気があるようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『ビール』とウィスコンシン州

ウィスコンシン州は、シカゴの西、五大湖の左にある州です。最大の街はミルウォーキ(Milwaukee)ときけば、ウィスコンシンという州が少しはイメージが湧くかもしれません。1960年代にビールのコマーシャルで「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキ」というキャッチコピーがありました。ミルウォーキは、世界三大ビール生産地としてミュンヘン、札幌と肩を並べています。

Silo in Wisconsin

2018年現在、ウィスコンシン州の総人口は約579万人です。第二次世界大戦が終わった1945年以降、常に人口が増え続けています。州名のウィスコンシンはインディアン部族オジブワ族(Ojibwa)の言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされています。州都のマディソン(Madison)は5つの湖の間にある美しい街としてアメリカ国内では有名であり、極めて優れた都市計画のもとに作られています。カリフォルニア大学(University of California)の本校のあるバークリー(Berkley)と比較してリトル・バークリー(Little Berkley)とも呼ばれる大学町です。ウィスコンシン大学マディソン校は生物化学などが有名であり、大学院ランキングブックで社会学部門1位など州立大学としては国内トップクラスとなっています。

Leinenkugel beer

ウィスコンシン州の最大の産業は酪農業です。広大な土地と州内を巡る綺麗な水は酪農に適しており、牛乳やチーズは全米でトップの生産量を誇ります。開拓時代にスイスから移り住んだ人たちによって酪農が始まり、とくにチーズは本場スイス顔負けの品質と言われています。この酪農に対する思い入れは非常に強く、NFLの強豪チームであるグリーンベイ・パッカーズ(Green Bay Packers)のファンはチーズの形をした帽子(cheese head)を被って応援するほどです。州の愛称は「America’s Dairyland」。アメリカの酪農地帯と呼ばれています。

ウィスコンシン州では酪農以外にも水に関連する産業が充実しています。豊富な水資源はミシガン湖(Lake Michigan)、スウペリオル湖(Lake Superior)、ミシシッピ川(Mississippi River)、ウィスコンシン川(Wisconsin River)などを通じて州内を巡っています。同州はこの水資源を生かしたビールの生産が盛んなことは前述しました。小麦の生産が盛んなこと、涼しい気候がビールの醸造に好適なためです。他にもウィスコンシン州は小麦と水に恵まれていると同時に、ドイツ系の移民が開拓したことが関係しています。1800年代にドイツ系移民によって伝統的なビール作りが始まり、同州には次々にビール工場が作られました。同州にミラー(Miller)やシュリッツ(Schlitz)などのドイツ系の名前のメーカーが拠点を構えていました。ミラーはクアーズ(Coors)と合併してから本社がなくなりました。

Milwaukee Tool

ミルウォーキには「Milwaukee Tool」という世界シェアNo. 2の建設工具メーカーがあります。プロユーザー向けの高耐久性の電動工具、アクセサリー、手工具を製造する業界屈指の企業となっています。ドイツ系住民がもたらした機械の職人技が現れています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『The Badger State』とウィスコンシン州

合衆国を巡り巡ってようやくウィスコンシン(Wisconsin)にやってきました。7回にわたりこの州を紹介いたします。多くの読者の方々には、「一体ウィスコンシンってどこにあるの?」と問われるでしょう。私はこの質問を何度もきいてきました。確かにウィスコンシン州の知名度はいまいちの感があります。ニューヨークやカリフォルニアは思い浮かべることができても、ウィスコンシンの位置を言い当てるのは難しいようです。スイスやオランダなどからの移民やニューヨーク州からの移住者が酪農の技術を身につけてやってきた州です、といってもぴんとこないかもしれません。

Map of Wisconsin

ウィスコンシンとは、インディアン語で〈川の集まる所〉という意味だそうです。五大湖とミシシッピ川(Mississippi River)に挟まれたウィスコンシン州には、さまざまな地形があります。州内は5つの地域に分かれています。北はスペリオル湖に沿って広がるスペリオル湖(Lake Superior)低地。南側のノーザンハイランド(Northern Highland)には、150万エーカー(6,100km2)のチェカメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む広葉樹と針葉樹の混合林、何千もの氷河湖、州の最高地点であるティムズ・ヒル(Timms Hill)があります。湖は洪積世の大陸氷河によるものです。州中央部の中央平原には、豊かな農地に加え、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩の地層があります。南東部の東部稜線と低地地域には、ウィスコンシン州の大都市が多くあります。

Corn field and Silo

南西部のウェスタン・アップランド(Western Upland)は、森林と農地が混在する起伏に富んだ地形で、ミシシッピ川に面した断崖絶壁も多く見られます。この地域は、アイオワ、イリノイ、ミネソタの一部も含むドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部です。この地域は、最も新しい氷河期であるウィスコンシン氷河期に氷河に覆われることはなかった処です。全体として、ウィスコンシン州の国土の46%は森林に覆われています。氷河の影響は州全体に残っています。その最も顕著なのは、氷河で削り取られた跡です。氷河が谷を削りながら時間をかけて流れる時、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように堆積します。これはモレーン(moraine)と呼ばれます。でずから稲作などには適さなく、牧草などを植えて酪農が盛んとなったのです。

One Day in Wisconsin

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その61 『Mountain State』とウェスト・ヴァジニア州

ジョン・デンバー(John Denver)やオリビア・ニュートンジョン(Olivia Newtonjohn)が歌う「カントリーロード」(Country Road)は、ウェスト・ヴァジニア州(West Virginia)を車で通ったときの風景を歌ったものといわれます。1971年に発売され音楽週刊誌のビルボード(Billboard)で全米2位を記録した大ヒット曲です。歌詞(Lyrics)の最初にでてくる”Almost Heaven, West Virginia”はウェスト・ヴァジニア州自慢の人たちが使う言葉のようで、「まるで天国のようなところ」といった按配です。この曲は2014年に州議会により州歌として認定されています。

ウェスト・ヴァジニア州はアパラチア山脈(Appalachian Mountains)に位置し、国内で最も森に包まれる地形が広がっています。州内全域に広がる起伏の多い山々と丘や渓谷に囲まれていることから、山の州(Mountain State)という愛称がついています。「カントリーロード」の歌詞にある「ブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains)」はアパラチア山脈に含まれ、州の東部からはその姿を眺めることができます。シェナンドー川(Shenandoah River)も一部流れています。

Country Road by John Denver

アパラチア山脈の全域に硝酸カリウムの採れる洞窟があり、弾薬用に開発されます。ヴァジニア州との州境には「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩は政府に買い上げられました。石灰岩は有益な採石産業も生んでいきます。この石灰は農業と建設用に使われます。そして19世紀後半、瀝青炭という貴重な資源が見つかります。これが国内の産業革命を加速させ、世界中の海軍の蒸気船に使われていきます。現在も多くの他州で発電するためにウェスト・ヴァジニア州の石炭が使われています。このようにウェスト・ヴァジニア州の主要産業は石炭産業です。国内ではワイオミング州に次ぐ第2位の石炭生産州で、国内全生産量の15パーセントを占めています。「カントリーロード」の歌詞にも「Miner’s lady(炭鉱夫の淑女)」という言葉がでてきます。

州都で最大都市はチャールストン(Charleston)となっています。州第4の都市、モーガンタウン(Morgantown)という治安のよい小都市に、州立総合大学であるウェスト・ヴァジニア大学があります。モーガンタウンはベスト・カレッジタウン(best college town)にランクインしており、生活費や犯罪率が低いエリアとして知られています。

Morgantown, WV

カントリーロードの歌詞の一部です。
Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountain
Growing like a breeze

Country roads, take me home
To the place I belong
West Virginia, mountain mamma
Take me home, country roads

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その60 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その2)

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー (Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

Snow Falling on Cedars

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

殺人容疑の裁判

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その59 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その1)

ワシントン州のとある島を舞台とした『ヒマラヤ杉に降る雪』(Snow Falling on Cedars)という作品を2回にわたって紹介します。ワシントン州は、戦前多くの日本人が移住したところです。この小説は、1995年に第15回 ペン/フォークナー賞(PEN/Faulkner Awards)を受賞したデイヴィッド・グターソン(David Guterson)のベストセラー作品です。日系アメリカ人への厳しい偏見と差別が主題となっています。ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

Snow Falling on Cedars

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

Carl and Hatsue

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その58 『Evergreen State』とワシントン州

ワシントン州(Washington)の気候は変化に富んでいます。オリンピック半島(Olympic Peninsula)の深い森林は世界の中でも雨が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林に囲まれています。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので『Evergreen State』という州の愛称はぴたりといえましょう。 他方、カスケード山脈(Casucade Mountains)以東の半砂漠地域では樹木は稀です。

ワシントン州の州都オリンピア(Olympia) という人口は5万人弱の街で、最大都市シアトル(Seattle)の南西約100キロにあます。かつて住んでいた兵庫県の加東市はオリンピアと姉妹提携するという不釣り合いな関係を持っています。念のため、ワシントン州とワシントンD.C.(Disctrict of Columbia)は互いにアメリカ大陸の反対側に位置しています。

Leavenworth, WA

人口構成白人は約64%、ヒスパニック約14%、アフリカ系アメリカ人は全米でも少なく、アジア人が多い州である。日本人はアジア人全体の0.5%といわれますが、シアトルには全米一の日系企業があり、カリフォルニア、ハワイ、ニューヨークに続き4番目に日本人の数が多い州で、駐在員や家族が多く住んでいます。

ワシントン州の一番高い山、レーニア山(Mount Rainier)はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の氷河に覆われています。1980年5月18日、セントヘレンズ山(Mount St.Helens)の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆いのは記憶に新しいところです。

Mt. Rainier


ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット航空機の設計および製造会社のボーイング(Bowing)、マイクロソフト(Microsoft)、アマゾン(Amazon)、任天堂米国法人,スターバックス(Starbucks)、コストコ(Costco)、大型百貨店のノードストローム(Nordstrom)などが本社を置いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その57 『Mother of Presidents』とヴァジニア州

ヴァジニア州(Virginia)はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)と大西洋に面し、山麓はピードモンド台地(Piedmont Plateau)が広がります。歴史上特に重要な州です。1607年にイギリスが最初に建設したのがジェームズタウン(Jamestown)、ウイリアムスバーグ(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)など開拓初期から独立革命にかけての史跡が極めて多いのが特徴です。

Colonial Williamsburg

北東部は首都ワシントンDCに隣接し、ジョージ・ワシントン(George Washington)ゆかりの史跡、マウントヴァーノン(Mount Vernon)があります。モンティチェロ(Monticello)は、ヴァジニア州シャーロッツビル(Charlottesville)にあり、独立宣言の起草委員および合衆国第3代大統領を務めた、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)の邸宅と歴史的なプランテーションがあったところです。

Village in Virginia

初代大統領はじめ8名の大統領を輩出したので、この州の愛称は「Mother of Presidents」と呼ばれるほどです。州都はリッチモンド(Richmond)です。それまでヴァジニアの主都であったウイリアムスバーグに代わって1779年にヴァジニアの州都となります。リッチモンドは、南北戦争当時は南部連合の首都となりますが、激戦のために市街の大部分は破壊されます。リッチモンドは、化学、食品加工などが盛んで、煙草の集散地でもありフィリップ・モリス(Philip Morris)の工場があります。

Map of Virginia

ヴァジニアは自然にも恵まれた州です。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカメガロポリス(American Megalopolis)からの利用者で賑わう公園です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その56 『Green Mountain State』とヴァマント州

北はカナダ国境に接するのがヴァマント州(Vermont)です。かつで私は家族と車で州都モントピリア(Montpelier)を訪れたことを思い出します。カナダのモントリオール(Montreal)からの帰りのことです。独立革命のとき、1775年にニューヨーク州ハドソン川峡谷にあったイギリスのタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を攻略したのがイーサン・アレン(Ethan Allen)率いる植民地軍「グリーン・マウンテン・ボーイズ」(Green Mountain Boys)です。その活躍が名高く記録されています。その軍名が州の愛称となっています。

Vermont walk

誠に小さな州都で人口は約8千人と、全米の州都の人口の中で最も少ないところです。しかし、歴史的な建築物が並び、絵本に出てくるような街並みが保たれているのが特徴です。小さな街には風情があります。最大の都市はバーリントン(Burlington)ですが、それでも人口は5万に満たないところです。

Berlington

ヴァマント州の名前は,「緑の山地」を意味するフランス語 les Verts Monts から派生したといわれます。州内にグリーン山地があり、州の多くは山岳と森林で占められているので「Green Mountain State」とも呼ばれる所以です。メープルシロップ(Maple syrup)の生産が盛んで、アメリカの35%のシェアを誇り全米一となっています。モース・ファーム(Morse Family Farm)では無料のメープルシロップの試食ができる他、農場と博物館も併設されています。秋に州全体で素晴らしい楓–メープルの紅葉が見られるところとしても有名です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その55  クレオールと小泉八雲とケージャン

あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった按配の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

前稿では、フランスの植民地であるカリブ海に浮かぶマルティニク島でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建設にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた。」
「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

小泉八雲記念館

クレオールと小泉八雲(Lafcadio Hearn)との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国で働き、やがて西インド諸島の仏領マルティニク島に住み着いたことがあります。マルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。それが〈クレオール物語〉〈仏領西インド諸島の二年間〉といった著作です。彼は西洋文明の社会に疑問を抱き、「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

Lafcadio Hearn

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。そして同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その54 ルイジアナとクレオール

クレオール(creole)とは、スペイン語でクリオーリョ(creollo)と呼ばれ、その原義は〈良く育てられた〉といわれます。16世紀にはアメリカ新大陸生まれの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられました。その後、拡大解釈され、ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人、とくにスペイン人の子孫に用いられました。アフリカから連れてこられた黒人と区別するために、新大陸生まれの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあったようです。

クレオールは、アメリカ合衆国では、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者を指します。ニューオーリンズを建設した奴隷労働力の上に優美なフランス的文化を育てた人々がクレオールと呼称されています。クレオールという言葉はしばしば誤用されてきたようです。フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。

Creole

アメリカ南部のルイジアナ州はもとはフランスの植民地でした。そこに黒人奴隷がサトウキビ農園で働き、白人地主と黒人奴隷との間の、あるいは黒人奴隷の間のコミュニケーションのための言葉が生まれました。それがクレオール語と呼ばれるようになりました。アフリカのさまざまな地域から連れてこられた黒人奴隷は、多くの異なった言語集団に属していたため、彼ら自身の共通の言語を持たなかったのです。そして子ども達はクレオール語を習得していきます。しかし、クレオール語は奴隷の言葉として差別の対象ともなります。クレオール語とは特定のものがあるわけではなく、全世界の旧植民地に広く存在するといわれます。

Creoles

植民地においては、そこで生まれのあらゆるもの、たとえば人、物、習慣、文化などすべてがクレオールと呼ばれるようになっていきます。やがて奴隷解放の機運や運動が起こります。それを促したのはフランス人権思想の影響といわれます。こうしてフランス植民地による奴隷制は、フランス自身の思想によって衰退することになります。そのためアフリカからの労働力を期待できなくなります。やがてアジアの植民地であったインド、中国、レバノンなどから貧しい人々が安い労働力として連れてこられます。こうしていっそう、さまざまな文化要素の混交が起こります。これをクレオール化(Creolization)と呼ばれます。クレオール化を提唱したのは、フランスの植民地の1つ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に位置するマルティニク島(Martinique)生まれの詩人・作家・思想家のエドアール・グリッサン(Edouard Glissant)で、彼のコンセプトは言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象を指します。

State Park, Louisiana

フランス領マルティニクの首都はフォール・ド・フランス(Fort-de-France)です。この島にもフランス本国と同様に人権の理念が及んでいきます。知識人の間だけでなく、一般市民レベルでもクレオール語は差別の対象となり、フランス語崇拝が広まっていきます。しかし、フランスへの文化的同化現象は起こりませんでした。1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニクは同化されるべき植民地の扱いから脱することが出来ず、現在も植民地のままです。自治権が与えられていきますが、独立の問題を先送りにされています。今でも小・中学校ではクレオール語による教育は排除されています。マルティニク島は、アジアやアフリカの植民地に比べ、人口の大部分が他からの移住から成り立っているため、民族主義的地盤が弱いといわれています。フランスへの人口流失が続き、現地の産業は弱小で、フランスへの経済的な依存が続いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その53 『Creole State』とルイジアナ州

ルイジアナ州(Louisiana)は、アフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ(Haiti)、ヨーロッパ(Europe)など、いくつもの文化が絶妙に混ざり合い、それらが結合して南部のこの州でしか見られない特別な風土や文化を生み出しています。州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川(Mississippi River)が流れています。ミシシッピ河口部の三角地帯-デルタを中心とした低平な州で湿地帯が多いところです。ルイジアナ州を3回にわたり紹介することにします。

Map of Louisiana

スペインの探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がこの地に入ったのが1541年。その後1682年にフランス人ラ・サール(La Salle)がフランス領と宣言し、1714年にフランス人集落を作ります。1803年に1500万ドルでアメリカがフランスより購入します。ルイジアナという地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV)に由来します。この州では、他州で用いられるカウンティ(郡–county)ではなく、キリスト教会の小教区を意味するパリッシュ(parish)を使うという珍しい州です。ルイジアナの州都はバトンルージュ(Baton Rouge)、最大都市はニューオーリンズ(New Orleans)です。

ルイジアナ州の特徴として、クレオール文化(Creolization)に触れなければなりません。この文化は、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた融合文化であるとされます。クレオール文化は白人クレオールと黒人クレオール両方に属しています。当初クレオールという言葉はフランスまたはスペイン人の子孫で、現地で生まれた白人を指していました。それが後には白人男性が黒人女性との子孫も指すようになり現在に至っています。植民地社会では、ヨーロッパの諸語が正統言語であり、クレオール語は奴隷の「粗野で崩れた方言」とみなされたののもうなずけます。しかし、1970年代以降の地域ナショナリズムの高まりによって、フランス語系クレオール語を中心にクレオール語・クレオール文化復権運動が起こってきます。クレオール語を認知することで多重言語状況を肯定し、それを将来への遺産へつなげようとする運動です。

Southern Cuisine

クレオール文化に並んで、ルイジアナ州の南西部地方に見られるのがケイジャン(Cajun)文化です。ケイジャン文化は、もともとフランス系移民、アメリカ先住民のアタカパス族(Atakapa)、カナダのアカディア(Arcadia)から逃れてきた人々によって形成されます。ラファイエット(Lafayette)という田舎街などに、ケイジャン文化のコミュニティーを見ることができます。人々は湿地の沿岸地帯での漁業や大草原での牧畜で生計を立てています。ケイジャン文化は、素朴な料理とフランス語を話す歴史を特徴としています。

世界的に名が知られるニューオーリンズのことです。「ビッグイージー(Big Easy)」とも呼ばれるこの街は、歴史が豊かで魅力に溢れています。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そしてもちろん世界的に知られたマーディ・グラ・フェスティバル(Mardi Gras Festival)で有名です。カーニバルのお祭りにおいては、マーディ・グラの右に出るものはないといわれます。ところで、なぜこの街が「ビッグイージー」と呼ばれたかです。20世紀初めには、演奏会場の数が多かったたために、ジャズやブルースのミュージシャンのための開催場所として全国的に認められたからであるという説です。 公園での演奏やストリートでのパーティなどで、ビッグイージーは、常に演奏のための憧れのミュージシャンの渇きを受け入れたオープンで支持的な都市、それがニューオーリンズであるというのです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その52 『Beehive State』とユタ州

ソルトレイク(Salt Lake)国際空港に近づきますと、地表は真っ白の塩で覆われています。19世紀初頭から、スペイン人探検家、ニュー・メキシコの罠猟師や交易業者が西海岸への近道を探す過程でこの地を踏査します、その結果有名な貿易街道である「オールド・スパニッシュ・トレイル」(Old Spanish Trail)が生れます。この街道は、後の開拓者がカリフォルニアやオレゴンに向かう際に通ったところです。州名は、先住インディアン部族、ユテ族(Ute)の「山の民」に因んでいます。

1847年に中西部における宗教上の対立から逃れ、ブリガム・ヤング(Brigham Young)に率いられ安住の地を求めるモルモン教徒(Mormons)達がこの地に辿り着きます。現在も州人口の64%がモルモン教徒といわれ、その総本山は州都であるソルトレイクシティ市にあります。1880年代に一夫多妻制を違法とする法律が成立し、モルモン教会は1890年の綱領で一夫多妻を禁止します。

Salt Lake

モルモン教会、別名末日聖徒イエス・キリスト教会の教徒が多数を占めることから、同州に根づいている踊りや演劇は元来、モルモン青年の教会活動の一環として生まれたものといわれます。音楽では特にタバナクル聖歌隊(Mormon Tabernacle Choir)は世界で最古, 最大の聖歌隊の一つです。大聖堂のオルガンのパイプは11,623本もあります。私は、ユタ州立大学(Utah State University)を訪ねたついでに木曜日夜の聖歌隊リハーサルを楽しみました。練習後、見学者のQ&Aも良かったです。Tabernacleとは、日本では「幕屋-テント」と訳されています。

Mormon Tabernacle Choir

ユタ州の主な鉱物資源は、銅、金、モリブデン及びマグネシウムです。ユタ州は豊富な鉱物資源に恵まれており、ソルトレイクシティ市周辺には、金・銀・銅・鉛などの鉱床があり、ゴールドラッシュ以降、ユタ州は鉱山開発に伴って発展します。特に銅鉱石はユタ州の鉱物生産の中でも最も多い生産高を有しています。

ユタ州の名産に蜂蜜があります。養蜂が盛んなのです。蜂は州の昆虫となっているので『Beehive State』(蜂の巣州)と呼ばれています。また、アメリカにおける航空宇宙産業の中心地としても知られており、近年ではIT産業も大きく発展しています。ユタは、2002年に冬季オリンピックがソルトレイクシティで開催されたことで日本でも広く知られるようになりました。5つの国立公園にはさまざまな自然の不思議があり、「レッドロックのワンダーランド」(Red Rock Wonderland)と呼ばれるアーチーズ国立公園(Arches National Park)には、その名が示すように2,000以上の自然のアーチ状の造形物があるといわれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その51 『Lone Star State』とテキサス州

アラスカ州に次いで全米第2位の広さのがテキサス州(Texas)で、日本の面積の約2倍にあたります。1836年から1845年までの間、テキサス共和国(Republic of Texas)という独立した国家でもありました。その時代から使用されていた白い星を一つあしらった州旗から「ローン・スター・ステイト (Lone Star State) 」という愛称もよく知られています。人口ではヒューストン(Houston)が州内で最大で、他にサンアントニオで(San Antonio)が州内第2位、ダラス・フォートワース(Dallas Fort Worth) などの大都市があり、州都はオースティン(Austin)となっています。

River Walk, San Antonio

テキサス州は西部開拓時代の雰囲気をも色濃く残しています。南北戦争後のテキサス州を繁栄させた産業は牛の牧畜でした。牧畜業の長い歴史があるためにテキサスは、カウボーイのイメージと結び付けられることが多いようです。Ten Gallon Hat と呼ばれるカーボーイが被る帽子があります。広大で多様性に富むテキサス州は、事実、テキサス州の風景は、不毛の荒れ地から海水浴ができる海岸線、緑が生い茂る山々、広大な草原まで多岐に渡ります。

サンアントニオには、数百年の歴史を持つスペインの伝道所、アラモ(the Alamo)があります。アラモは 1800 年代に長きに渡り決戦の舞台となりました。1836年にテキサス共和国として一方的に独立を宣言しますが、同年メキシコ軍の進軍により入植者がたてこもっていたサンアントニオのアラモ伝道所の砦が陥落し、守備隊は全滅します。かの有名な「アラモの戦い」です。サンアントニオには人気が高いリバー・ウォーク(River Walk)などがあり、年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても発展しています。

The Alamo

アメリカ航空宇宙局 (NASA) の宇宙センターであるジョンソン宇宙センター(Johnson Space Center)はヒューストンにあります。有人宇宙飛行の訓練、研究および飛行管制を行っています。テキサスでは今日、フォーチュン500に入る企業の数では50以上で全米のどの州よりも多くなっています。フォートワースは、20世紀初頭、石油が噴出し始め、1970年代終盤に再び噴出し、運送業、商取引の中心地となります。

20世紀半ばには大学に大きな投資をしたこともあり、多くのハイテク企業を含む多様な経済に発展します。テキサス大学オースティン校(University of Texas, Austin)とテキサスA&M大学(Texas A&M University)はテキサス州の旗艦大学となっています。どちらもテキサス州憲法で設立され、多額の恒久的大学基金の枠を持っています。フォートワースにあるテキサス・クリスチャン大学(Texas Christian University:TCU)も教育や研究で有名です。ライス大学(Rice University)も名門私立総合大学で試験や成績で最難関校となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その50 『Volunteer State』とテネシー州

テネシー州(Tennessee)は「志願兵の州(Volunteer State」というニックネームがついています。米英戦争(War of 1812)のとき、特に1815年のニューオーリンズの戦いで、テネシー州の志願兵が傑出した働きをしたことから名付けられます。 「バターナッツの州」(Butternut State)とも呼ばれています。米英戦争とは、イギリスの植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族とアメリカ合衆国との間で行われた戦争です。

テネシー州は全米の中でも音楽の都として知られています。合衆国造幣局50州25セントは、3つの星とギター、トランペット、バイオリンが描かれているコインです。3つの星は、楽器はそれぞれの地域の異なった音楽スタイルの楽器です。バイオリンは、テネシー州東部のアパラチア(Appalachian)地方の音楽、トランペットは、有名なメンフィス(Memphis)があるテネシー州西部のブルースを代表するもの、そしてギターは、テネシー州の中央部、カントリーミュージックの故郷であるナッシュビル(Nashville)の象徴とされます。ハンク・ウイリアムズ(Hank Williams)の “Hey, Good Lookin’は明るくリズムのきいた曲です。メンフィスは「ブルースの本拠地」(Home of the Blues)、「ロックンロールの発祥地」(Birthplace of Rock’n Roll)ナッシュビルは「ミュージック・シティ」(Music City)と呼ばれるほどです。

Great Smoky Mountains National Park

また州東部にはグレートスモーキーマウンテン(Great Smoky Mountains)どの国立公園などもあり、公園内には全長 約 1,300 キロのハイキングトレイルが整備されています。山々と鬱蒼たる森林が広がっています。車、徒歩、自転車で巡ることができます。 この公園には標高1,800 メートルを超える山が 16 峰もあります。穏やかな気候と変化に富んだ地形のおかげで、エルク(Elk)、アメリカクロクマ(American black bear)、鹿(dear)などが生息しています。

テネシー州南東部に位置する商工業、及び観光都市がチャタヌーガ(Chattanooga)です。チャタヌーガ(Chattanooga)とは原住民の言葉で「岩が迫りくる場所」という意味があり、その名の通り、ルックアウトマウンテン(Lookout Mountainsw)を中心にダイナミックな岩がひしめき合う土地があります。原住民族であったチェロキー族が強制移住を余儀なくされた歴史や、かつて南北戦争の激戦区ひとつとともなりました。

1930年代の世界恐慌(Great Depression) のときに失業者の就労を生み出す必要性がでてきます。そこで生まれたのが大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が、世界恐慌の対策として実施したニューディール政策(New Deal Policy)です。田園部を電化する要望や、テネシー川が毎年春に洪水を起こしていたのを制御する必要性などです。こうして1933年にテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority: TVA)が設立されます。そして32個の多目的ダムなどが建設され、その総合開発によりテネシー州は急速に国内でも最大の電力供給州となります。

Tennessee Valley

ヴァンダビルト大学(Vanderbilt University)は、ナッシュビル市に本部を置く有名な私立大学です。1873年大学設置され、当時としては巨額の100万ドルを大学創立のために寄付した船舶や鉄道の大実業家であるコーネリアス・ヴァンダビルト(Cornelius Vanderbilt)にちなんで名付けられます。教育学部、法学部、経済学部、医学部等が有名で、私も二度この大学の教育学部で調査したことがあります。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その49 『Mount Rushmore State』とサウスダコタ州 

サウスダコタ州(South Dakota) はアメリカ中西部のグレートプレーンズ(Great Plains)と呼ばれる大平原にあり、州の面積の約90%が草原という緑豊かな土地です。南西部はハイプレーンズ(High Plains)という標高の高い平原地帯でもあります。ロッキー山脈(Rocky Mountains)から流れ出る河川によって形成された多くの堆積平野の総称といわれます。州の名前である「ダコタ」はアメリカ先住民族のスー族(Sioux)の言葉、ダコタ(仲間)に由来します。

州都は州のほぼ中央に位置するピエル(Pierre)ですが、最大都市は州の東側に位置するスーフォールズ(Sioux Falls)です。スーフォールズ一帯には州民の大半が住んでいます。他方、州の西側は牧畜業が盛んな地域で、特にブラックヒルズ(Blackhills)と呼ばれる低木の松におおわれた山地は、スー族が聖地としてあがめた場所でもあります。1870年代後半に聖地を守ろうとするスー族と白人との間で激しい戦いが繰り広げられたブラックヒルズは、「壮烈第7騎兵隊」(They Died with their Boots on)や「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)など多くの映画の舞台にもなっています。そのブラックヒルズ一帯で最も有名な観光スポットが、4人の大統領の顔が彫られたマウント・ラッシュモア国立メモリアル(Mount Rushmore National Memorial Park)です。

Dances with Wolves

ブラックヒルズのマウント・ラッシュモア山(Mount Rushmor)には、刻まれた有名な18 メートルの石の顔を見ることができます。4 人のアメリカ大統領はジョージ・ワシントン(George Washington)、トマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)、エイブラハム・リンカン(Abraham Lincoln) です。この巨大な彫刻は14年の歳月をかけ1941年に完成します。州の愛称は、「ラシュモア山の州」(Mount Rushmore State)とか「コヨーテの州」(Coyote State) となっています。

Crazy Horse

マウント・ラッシュモアが民主主義の象徴とされるのに対し、アメリカ先住民族のシンボルがクレイジー・ホース(Crazy Horse)です。侵入者に対して勇敢に立ち向かったスー族の戦士、クレージーホースを讃えた記念碑(Crazy Horse Memorial)です。マウント・ラッシュモアの彫刻に携わった一人の彫刻家、コーチャック・ジオルコウスキー(Korczak Ziolkowski)が彫り始めました。1982年に彼が亡くなった後は、彼の家族がその意志を引き継いでクレージーホースを彫り続けています。完成すると高さ169メートル、幅192メートル、顔の大きさだけでも27メートルとなります。マウント・ラッシュモアの数十倍の世界最大の彫刻になります。民間からの寄付のみで支えられている現在進行中のプロジェクトです。1959年のアルフレッド・ヒッチコック(Alfred J. Hitchcock)監督映画作品『北北西に進路を取れ』(North by Northwest)のクライマックスシーンでは同記念公園の彫刻が舞台となりました。

マウント・ラッシュモアのあたりはゴールドラッシュ期に白人とアメリカ・インディアンとの激しい抗争が繰り返された地で、ラシュモア山を含むブラックヒルズは、古くよりアメリカ・インディアンの聖地とされていました。「グレート・スー・ネイション(偉大なスーの国)(Great Sioux Nation)」として、西部で最大最強の狩猟民族、スー族が領土としていた所です。現在も、同地で保留地(Reservation)を領有するインディアン部族はスー族のみです。クレイジー・ホース(Crazy Horse)はスー族の勇猛果敢な戦士で、しばしば白人と戦い、1876年にはカスター将軍(General Custer)の騎兵隊を全滅させたことは良く知られています。

Powwow

アメリカ先住民が住むサウスダコタ州では、さまざまな先住民族の文化に親しむことができます。実際の文化を見るには、パウワウ(Powwow)に参加することです。パウワウは「ワチピ」(Wachipi)とも呼ばれるアメリカ先住民の伝統的な祭典で、毎年サウスダコタ州の各地で開催されています。活気あるドラム演奏や歌、手の込んだ伝統衣装の踊り手が呼びものとなっています。とりわけ、最も歴史あるパウワウは、シセトン・ウォーペトン・オヤテ・ワチピ(Sisseton Wahpeton Oyate Wacipi)で、通常 7 月に開催され、アメリカ国内でも屈指の歴史を誇るパウワウといわれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その48 『Palmetto State』とサウスカロライナ州

サウスカロライナ州(South Carolina)の位置ですが、北はノースカロライナ州、サヴァナ川(Savannah River)を挟んで南と西をジョージア州、東は大西洋に接しています。この州の成立過程から本稿を始めます。1540年、スペイン人探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がこの地にやってきます。これがこの地における開拓の始まりといわれていますが、本格的な入植はその100年以上後になります。1670年、イギリスの植民地であったカリブ海西インド諸島のバルバドス(Barbados)から移民が訪れ本格的な開拓が始まります。この地は正式にイギリスの植民地となりますが、南部と北部に統治に関する意見の相違が生じ、南北の二つの地域に分けられることとなりました。

Map of South Carolina

1729年、この地はノースカロライナ植民地とサウスカロライナ植民地に分離され、その後独立戦争を経て1788年5月に合衆国憲法を批准、サウスカロライナは8番目の州として制定されます。近年では積極的に海外企業の誘致をしたり、大規模な商工業都市コロンビア(Columbia)、貿易の拠点である大きな港チャールストン(Charleston)なども持っており、経済発展を遂げる州としても知られています。 また、17世紀に持ち込まれたコメにより、ノースカロライナは大きな米作地となりました。これは、アフリカからこの地に連れてこられた奴隷たちが、元来米作の技術に長けていたことが大きな要因だったそうです。 州のニックネーム「パルメヤシの州」(The Palmetto State)となっています。

Charleston

州都はコロンビア(Columbia)、最大の人口を抱える都市はチャールストン(Charleston)であす。チャールストンでは、サウスカロライナ州の大西洋に面し、古くから貿易港として栄えてきた街です。古き良き時代の南部建築が軒を連ねるこの街は、”アメリカ人の誇りと心のふるさと”と言われています。

State House(Capitol)

南カロライナは州の沿岸の地域であるローカントリー(Lowcountry)の肥沃さと後のチャールストンなど良港があることで繁栄します。地域はその文化と歴史を共有していて、セントヘレナ島(St. Helena Island)のガラ人(Gullah)、ビューフォート(Beaufort)近くの初期のヨーロッパの入植地の影響は今も残っているといわれます。開拓地が広がり、鹿皮、木材、牛肉の交易が繁盛します。米を生産していたアフリカの地域から輸入した奴隷の技能と技術を使って、大規模な米の栽培が行われたことで知られています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その47 『Little Rhody』とロードアイランド州

全米50州の中で面積が最小の州であり、神奈川県と同じくらいの面積の州です。そのため、州の愛称が「Little Rhody」となっています。1636年に神学者ロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)が「慈悲深き摂理(Providence)」によって、この土地を見出したときに名づけたと記録されています。ウィリアムズらは、ナラガンセット族(Narragansett Tribe)から贈られた土地にコロニーを設立します。ウィリアムスはマサチューセッツ州でピューリタンに追放されてロードアイランド(Rhode Island)に到ったのです。1647年、ロードアイランドの植民地はプロビデンス(Providence)と合併し一つの政府となり、良心の自由が改めて宣言されます。この地域はその信条のために迫害された人々にとって安全な天国となり、バプテスト(Baptists)、クエーカー(Quakers)、ユダヤ教徒(Jewish)その他が平和と安全の良心に従ってこの地にやってきたのです。

Pawtuxet Village, Rhode Island.

ウィリアムズはナラガンセット湾(Narragansett Bay)にある他の島々にも美徳に関した名前とします。たとえば、ペイシャンス島(Patience Island)(忍耐)、プルーデンス島(Prudence Island)(分別)、ホープ島(Hope Island)(希望)といった島々です。仲間の開拓者達と「公共の事項」における多数決原則と「良心の自由」を定めた平等主義的憲法で合意を形成した神学者です。政教分離という国家と宗教団体の分離の原則を貫く神学者でもありました。

Cliff Walk, Rhode Island

ロードアイランドでは1652年5月18日に北アメリカで初めて奴隷制度を違法とする法律を可決したことで知られています。また債務による収監や極刑を廃止する法律を成立させ、さらに1652年3月に、黒人および白人双方の資産としての奴隷制を廃止したことでも知られています。

アメリカ合衆国の州を巡る その46『要石の州』とペンシルヴァニア州

ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)は、独立戦争時代の史跡、フィラデルフィア(Philadelphia)やピッツバーグ(Pittsburgh)のような大都市、アーミッシュ (Amish) によって占められているいくつかの農業地域やかつての強力な産業史で有名な州です。

ヨーロッパ人として最初にペンシルヴァニアに入ってきたのはスウェーデンやオランダの入植者でした。ペンシルヴァニアと命名したのは、イングランド王チャールズ2世(Charles II)。やがてクエーカー教徒(Quaker)でイギリス人のウィリアム・ペン(William Penn)がペンシルヴァニア州を整備し「シルヴァニア(Sylvania)」と名付けたものをウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン卿に敬意を表して改称しPennsylvaniaとなりました。ペンシルヴァニア州は、アメリカ合衆国において最も歴史のある州の一つとなりました。そのため、州の愛称は「要石の州」(Keystone State)と呼ばれます。 「Quaker State」クエーカー教の州とも呼ばれます。

Pennsylvania Dutch

ペンシルヴァニアは、18世紀中頃アパラチア(Appalachian)炭田,19世紀中頃には油田が発見され,五大湖周辺の鉄鉱石の利用,運河,鉄道などの発達に伴い,ピッツバーグやベスレヘム(Bethlehem)を中心にアメリカ有数の鉄鋼業地域となりました。ペンシルヴァニアといえば、フィラデルフィアを取り上げなければなりません。ニューヨークとワシントンDCの間に位置するこの街は、独立宣言がなされた地であり、合衆国憲法が立案された場所でもあります。独立歴史公園では独立宣言のときに打ち鳴らされた自由の鐘(Liberty Bell)を見ることができます。ピッツバーグはかつて鉄鋼業の中心地として栄えた都市です。

Robert Lee

州南東部のランカスター(Lancaster)を中心とする田園地帯には、ペンシルヴァニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれる人々の集落があります。入植・建国当時の佇まいを多く残しています。その暮らしぶりは、「プレーン」(Plain)と表現されることがあります。何も飾らず、何も付け加えない、あるがままの暮らしをしているといわれます。17世紀から18世紀にかけてドイツ語圏から合衆国に移住したゲルマン系ドイツ系の子孫や言語がペンシルヴァニア・ダッチです。英語の”Dutch”はドイツ語の”Deutsch”に由来し、古くはオランダ人ではなくドイツ人のことを指します。アーミッシュ(Amish)やメノナイト(Mennonite)といったクエーカー教徒の社会では第一言語として話されています。

Gettysburg

南北戦争の転換点となったといわれるゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)の古戦場があります。ここが激戦地となったのは、鉄道や主要道路が集まる交差点であり、そこを確保できれば戦争を有利に進められるからだったのです。つまりゲティスバーグは補給と部隊増強の要所だったといえるでしょう。3日間の激戦で北軍は南軍を撃退し、それによって北軍は南部への侵攻ルートを確保することができたといわれます。その戦いの4ヶ月後の1863年11月1日に行われた戦没者墓地奉献式で、合衆国大統領リンカンが演説を行います。それが「ゲティスバーグ演説 」(Gettysburg Address)です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その45『ビーバーの州』とオレゴン州

太平洋岸のこの州は、戦前多くの日本人が移住したところです。州の名前と同じ名のついた「オレゴン・トレイル」(Oregon Trail)は、西部開拓時代に先駆者たちを「西へ」と掻き立てる道でした。シミュレーションゲームにも「オレゴン・トレイル(街道)」があります。1846年を舞台にプレイヤーは幌馬車で移動する開拓者のリーダーとなって、西部を目指すという内容です。過酷で危険な旅程で知られる街道を辿り、西部開拓の歴史を学ぶ目的で開発されます。その名のように、オレゴン州 4 つの国立歴史トレイルがあります。

Oregon Trail

州都はセイラム(Salem)で人口最大の都市はポートランド(Portland)です。セイラムといえば、映画「カッコーの巣の上で」(One Flew Over the Cuckoo’s Nest)が撮影されたところです。1960年代の精神病院を舞台に、当時のアメリカの社会体制の中で抗う男の姿を描いたこの映画の荒筋を少し紹介します。刑務所に収監されていた38歳のランドル・マクマーフィー(Randle McMurphy)は刑務所での強制労働を逃れるため、精神疾患を装って精神病棟にやってきます。そこでは看護婦長ラチェッド(Ratched)の厳しい規律のもと、管理された患者たちがいます。マーフィーは、持ち前の社交性を活かして、そんな環境に置かれた患者たちの中に生きる気力を与えていくというストーリーです。主演はジャック・ニコルソン(Jack Nicholson)でした。

アメリカでは珍しく全米で5つの消費税がない州の一つがオレゴン州です。それには、州のさまざまな産業が盛んなことがあげられます。ヘーゼルナッツ(hazelnut)の生産では世界の4大生産地域の1つであり、国内の95%を生産していまう。ワインの生産は禁酒法時代以前に遡り、1970年代には重要な産業となります。2005年には300以上のワイン醸造所を数え その数は国内第3位です。フランスのアルザス(Alsace)やブルゴーニュ(burgundy)地方と気候や土壌が似ていることから、同じような品種のブドウが栽培できるといわれます。南部海岸地域ではクランベリー(cranberry)も栽培されています。

Map of Oregon Trail

広大な森林に恵まれ、国内最大級の製材業と林業があるのがオレゴン州です。豊かな森林資源によって、多くの動物も生息し、その中で知られるのがビーバー(Beaver State)です。州はサケの漁獲では世界最大級である他、海洋漁業も盛んです。1970年代以降、ハイテク開発とサービス業が主要な産業となっています。インテルが幾つかの主要な設を建設し拡張します。ナイキ(Niki)の本社がビーバートン(Beaverton)にあります。

オレゴン州民は1988年以降のアメリカ合衆国大統領選挙で民主党候補者を選んでいます。2004年と2006年には民主党が州上院と下院を制し、カリフォルニア州やワシントン州とならんで、民主党の牙城のような州です。私はこの州を二度訪ねています。一度目は、ユージン(Eugen)にあるオレゴン大学(University of Oregon)の先生にインタビューをしたとき、二度目はポートランド(Portland)でのインテル社(Intel)主催の教育会議に招待されて出席したときです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その44 『早い者勝ち』とオクラホマ州

オクラホマ州(Oklahoma)は、アメリカのほぼ中央に位置し、西部開拓時代の歴史、アメリカ先住民文化などが融合し南部の魅力を示しているといわれます。州名は農耕民族のチョクトー族(Choctaw)インディアンの言葉で「okla」 と 「humma」を合わせたものとされます。チョクトー族は、白人の文化を積極的に採り入れ、「文明化五部族」 (Five Civilized Tribes) と呼ばれています。ジャガイモ飢饉の間、飢饉の救援を提供したことによる寛大さも讃えられています。州都で最大都市は「オクラホマシティ」(Oklahoma City)です。

Map of Oklahoma

オクラホマは、アメリカ先住民の人口が最も多い州です。その理由ですが、この州のインディアン部族のほとんどは、19世紀にアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領の「インディアン移住法」(Indian Removal Act)によって、インディアン部族のほとんどを強制移住させられたのです。現在、州内には39 の部族が本部を置いています。毎年 6 月に開催されるレッド・アース・ネイティブ・アメリカン文化フェスティバル(Red Earth Native American Cultural Festival)が有名です。インディアン部族のお祭りが「パウワウ」(Powwow)です。もともと戦いの勝利を祝う踊りの場とされていたのですが、今はお祭りスタイルになったようです。インディアンの精神復興と権利回復運動の高まりの産物ともいわれます。

Oklahoma

ランドラッシュ(Land Run)と呼ばれる、決められた時刻に特定の土地が開拓者に開放され、待ちかねた開拓者が一斉に駆け出すような仕組みが1800年代に何度か行われました。公式の解放時刻以前に境界を越えるという規則破りは「抜け駆け」(Sooner)と呼ばれました。別名「早者勝ち」という言葉がオクラホマ州の公式ニックネーム(Sooner State)にもなっています。

Musical, Oklahoma

オクラホマは温暖な地域にありますが、春先から晩夏にかけて、この地域特有の気候条件により雷雨が発生しやすいといわれます。州の大半は竜巻街道と称される地域にあり、年間平均54個もの竜巻が発生するといわれます。オクラホマ州は天然ガス生産量で全米第3位、原油では第5位となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その43『 Swing State』とオハイオ州

「オハイオ」(Ohio)とは先住民族イロコイ族(Iroquois)の言葉で「美しい、偉大な川」を指すといわれます。この川はオハイオ川(Ohio River)のことです。西へ流れるこの大きな川は、17世紀の入植者たちの開拓へも大きな影響を及ぼします。というのは、後に開拓者たちはこの川を使って、西へ西へと開拓を進めてゆくことになるからです。

Map of Ohio

18世紀になりこの地にイギリスが進出し、ペンシルヴァニアやヴァジニアからやってきた人々により開拓が進められていきます。この地の領有権を巡ってはイギリスとフランスが対立し、フレンチ・インディアン戦争(French-Indian War)が起こります。戦いはイギリスが勝利し、1763年に締結されたパリ条約によりフランスはこの地を手放し、事実上北アメリカ大陸から撤退することになります。

州都はコロンバス(Columbus) で州の愛称は「トチノキの州」(The Buckeye State)となっています。州内には工業都市が多く、製造業は全米トップレベルです。中でも一番盛んなのは自動車関連産業です。ホンダも進出しています。プロクター・アンド・ギャンブル(Procter & Gamble: P&G)、ウェンディーズ (Wendy’s)、グッドイヤー(Good Year)などが本社を置いています。

Columbus, Ohio

ドイツからの移住者が作ったコミュニティであるジャーマンビレッジ(German Village)や、合衆国内最大のアーミッシュの共同体がある州でもあります。南北戦争の時代にはオハイオ南部は黒人奴隷廃止運動の拠点となります。かつて、オハイオ川の北側のオハイオは黒人にとって自由州、南側にあったケンタッキーは奴隷州であったため、南部の黒人を北部に逃すアンダーグラウンド・レイルロード(Underground Railroad)という地下組織がひそかに活動していました。奴隷反対派・賛成派が激しくぶつかる土地がオハイオ州です。

German Village, Columbus

大統領選の時などは宗教、人種、文化的背景があることによって、民主か共和かほぼ半々で最後まで州全体の投票の行方が分かりづらい州と呼ばれ、そのため「 Swing State」と呼ばれています。候補者からはキャンペーンの要として、選挙の結果の中継では国民全体が最後まで行方を注目する州の一つです。1964年から2016年までオハイオ州で勝利した者が大統領に当選しており、「オハイオ州を制するものが大統領選を制す」と呼ばれる所以です。ただ、ジョン・ケネディ(John F. Kennedy)とジョー・バイデン(Joe Biden)の二人は、オハイオ州で破れながらも当選した大統領です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その42 『ノルスク・ホストフェスト』とノースダコタ州

ノースダコタ(North Dakota)の州都はビスマーク市(Bismarck)です。市名はドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルク(Otto von BIsmarck)にちなんでいます。人口最大の都市はファーゴ市(Fargo)となっています。ノースダコタの「ダコタ」という名前は、アメリカ・インディアンのダコタ族の「仲間」「友人」に由来しています。

1870年頃、ノルウェーから多くの移民が州北東隅、特にノースダコタのレッド川(Red River)近くに入植します。カナダからはアイスランド人が入ってきます。多くのノルウェー人が入り、家族で農場を営んでいきます。彼らはルーテル派の教会や学校を造り、この地域では他の民族よりも圧倒的に多くなりました。ノルウェー系住民はマイノット市(Minot)人口の3分の1に近く、州全体でも30.8%となっています。

Norsk Høstfestと衣装

ノースダコタ州は複数の作物の生産で全国一となっています。パスタ用に使われる小麦(wheat)は全米の58%、赤色春小麦は全米の48%、、各種コムギを合わせた量では全米の15%、、オオムギ(barley)は全米の36%、エンバク(Oat)は全米の17%、その他菜種油のキャノーラ(canola)、大豆、ヒマワリ、および亜麻は州の至る所で生産されています。オオムギはビールなどの醸造用や味噌の需要が多く、エンバクはオートミールとして食用になっています。

Fight of Vikings

州内に観光客を呼ぶ定例行事としては、マイノット市で開かれる「ノルスク・ホストフェスト」(Norsk Høstfest)があり、北アメリカでは最大のスカンジナヴィア系(Scandinavian)祭とされています。スカンジナビア地方からやってきた人々の文化や歴史を祝う集いです。デンマーク、アイスランド、フィンランド、ノルウェー、スウェーデンからの移民の伝統を受け継いでいます。2023年は9月27日から30日まで開かれます。民族がこのように固まってコミュニティを形成し、文化や伝統を大切にするのはアメリカという国の一つの特徴といえましょう。

Scandinavian Folk Dance

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その41『ライト兄弟』とノースカロライナ州

イギリスから独立したアメリカ合衆国当初13州のうちの1つがノースカロライナ州(North Carolina)です。イングランド国王チャールズ2世(Charles II)が、1660年に王位に就いたときに、すでに定住していたイギリス人がの貴族集団や植民地領主にこの植民地を与えたといわれます。この新植民地「カロライナ」は国王チャールズ1世の栄誉を称えて名付けられたようです。南北戦争では南部連合側(Confederate)に最後に参入した州です。

Smoky Mountains

伝統や歴が交差するのが州都のラレイ(Raleigh)です。現在はシャーロット(Charlotte)やラレイ、ダーラム(Durham)、チャペルヒル(Chapel Hill)のリサーチ・トライアングル地区(Research Triangle)を中心として経済的に大躍進を示し、州人口も急速に伸びています。ノースカロライナ州は農業、金融サービス、及び産業で成長しています。この州の産業製品、主に織物、化学工業、電気機器、紙及び紙製品はアメリカ合衆国内でも有力な地位を占めてきました。タバコの生産も盛んで地元経済にとって活力を与え続けています。

大西洋の海岸からグレートスモーキー山脈(Great Smoky Mountains)まで広がる美しい自然の風景は他州から多くの観光客を惹き付けています。忘れてはならないのは、ノースカロライナ州といえば、ライト兄弟による初の動力飛行が行われた場所です。ライト兄弟メモリアル(Wright Brothers National Memorial)を記念する施設がキル・デビル・ヒルズ(Kill Devil Hills)にあります。

First Flight in NC

ノースカロライナ州のニックネームは「タールがついたかかとの州」(Tar Heel State)といいます。「Tar」とはタール、 「Heel」はかかとという単語です。ノースカロライナ州は松の木が豊富に獲れるところです。タールやテレピン油といったネバネバした液がでます。南北戦争の際、南軍兵士は北軍に対峙してかかとにタールが塗ってあるように、一歩も引くことがなかったという面白い挿話があります。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その40 『コロンビア大学』とニューヨーク

ニューヨーク州にはいろいろな顔があります。たとば上質のワインを製造していることもそうです。ワイン畑が五大湖、大西洋、フィンガー・レイクス(Finger Lakes)、ハドソン・リバー(Hudson River)といった水の近くに位置します。夏は涼しい風が吹き込み、冬は寒さや霜からの被害のリスクが緩和されているようです。ワイン生産量はカリフォルニア州、ワシントン州に続いて全米第三位です。州には328のワイナリーがあり、ほとんどは家族経営の小規模ワイナリーです。

タイムズスクエア(Times Square)の賑わいと輝くネオンに浸った後に鑑賞するブロードウェイの豪華なショーは、ニューヨーク市だからこそ味わえる素晴らしい体験ですセントラルパーク(Central Park)は、芝生、アーチ、彫像に彩られ、ランニングコースや遊び場も備える3南北4km、東西0.8kmの広さで、東京ドームでいえば73個にあたる都会のオアシスです。

New York University(NYU)

ニューヨーク州には、日本人に馴染みのある大学がいくつかあります。コロンビア大学(Columbia University)は、全米屈指の名門校でアイビーリーグの1校に数えられています。イギリス植民地時代の1754年にキングズ・カレッジ(King’s College)として創立され、全米で5番目に古い大学です。ノーベル賞受賞者数は、1901年以降の累計で2022年現在100名に達するというのですから、学術的な質の高さを容易に推し量ることができます。次ぎにコーネル大学(Cornell University)も全米屈指の名門校です。ニューヨーク州のイサカ(Ithaca)という静かな街にある超難関大学です。

Columbia University


ニューヨーク大学(New York University)は、ニューヨーク市マンハッタン区(Manhattan)にある全米有数の大規模な私立総合大学です。学部では2022年入学生の合格率は12.2% という超難関の大学といえましょう。

ジュリアード音楽院(Juilliard School)は、音楽部門、舞踊部門、演劇部門から成り立ち、学部生・大学院生を含めて約850名の学生が学んでいます。カリキュラムが優れており、世界で最も優秀な音楽大学の中の1つとされています。合格率は7.6%というこれまた超難関大学でもあります。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その39 『Empire State』とニューヨーク州

ニューヨーク州(New York)の歴史です。現在の「金融の聖地」、ウォール街を含むマンハッタン島(Manhattan)の一部は先住民族から購入され、1600年代にオランダ人によって開拓、植民地化されていきました。1625年にアムステルダム砦が造られ、オランダのアムステルダムをもじってニュー・アムステルダム(New Amsterdam)と名づけられました。やがてイギリス人が統治するようになってからは当時の国王の弟であるヨーク公の名をとって「ニューヨーク」になりました。州都はアルバニー(Albany)、そしてアメリカ最大の都市がニューヨークです。州の愛称は「帝国の州」(Empire State)となっています。

マンハッタンを含むニューヨーク市を離れると自然が広がり、約4,000にも及ぶ湖や150の州立公園、27の国立自然公園があります。広大な保護森林もあります。酪農も盛んです。州の中部から西部にかけてはアルゲイニー山脈(Allegheny Mountains)の台地が広がり、カナダと五大湖、そしてエリー湖(Lake Erie)からオンタリオ湖(Lake Ontario)に流れるナイアガラ川にある滝「世界の七不思議」の1つともいわれるナイアガラの滝(Niagara Falls)に接しています。滝の浸食スピードは年間3センチメートルといわれています。カナダのトロント(Tronto)から車で2時間のところにあり、私も一度ヘリコプターで15分間の滝の上空を楽しみました。

Metropolitan Museum

世界の誰もが知っている摩天楼と、ここをわが街と呼ぶ840 万の人々。ニューヨーク市は多様性と刺激に満ちた街です。テレビや映画でおなじみの名所から、まだあまり知られていないとっておきのスポットまで魅力は尽きません。ブロンクス(Bronx)、ブルックリン(Brooklyn)、マンハッタン、クイーンズ(Queens)、スタテンアイランド(Staten Island)の5区それぞれに独特のカラーがあり、各地区にもその場所ならではの個性があります。

金融の聖地ウォール街、国際連合本部ビルなど、世界の政治経済に重要な影響を与えるものから、自由の女神像、エンパイアステート・ビルディング、世界三大美術館の1つであるメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum)や近代美術館、ブロードウェイ(Broadway)、タイムズスクエア(Time Square)、カーネギーホール(Carnegie Hall)など、世界的に有名な観光名所を並べたらきりがありません。特にセントラルパーク(Central Park)にほど近いメトロポリタン美術館は、世界五大美術館の1つです。300万点を超える収蔵品があり、エジプト、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、アジアなど世界中から集まった非常に貴重な芸術品や絵画などが展示されています。また、エジプトの神殿、中国の陶磁器、ギリシャの彫刻、ヨーロッパの絵画などの数えきれない程の重要な美術品も置かれています。

Central Park

19世紀後半から60年余りの間にヨーロッパからの移民が必ず上陸したのがエリス島(Ellis Island)です。この島からアメリカへ入国します。移民たちによって『希望の島』(Island of Hope)または『嘆きの島』(Island of Tears)と呼ばれてきました。約1200万人から1700万人にのぼる移民がエリス島を通過し、アメリカ人の5人に2人がエリス島を通ってきた移民を祖先に持つと言われています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その38 『Land of Enchantment』とニューメキシコ州

ニューメキシコ州(New Mexico)は、美しい景観から『魅惑の土地』(Land of Enchantment)という愛称で呼ばれています。先住するインディアン部族は、「プエブロ族」(Pueblo) のような定住農耕民と「アパッチ族」(Apache)のような移動狩猟民とが混在しています。プエブロはトウモロコシの栽培を中心とした定住農耕生活を代々営んでいます。工芸品に秀でた文化を持ち、陶芸品や銀加工、インディアン宝石などは観光客に人気が高いです。

Adobe

州都はサンタフェ(Santa Fe)でスペイン語で「聖なる信仰」という意味です。「アメリカの宝石」と呼ばれ、歴史的な街並みや建築物を残し、独特の食文化を持つ観光都市として賑わっています。また、同市は芸術家が多く住み、美術品にあふれ、音楽祭や工芸祭が開かれ芸術の町としても知られています。サンタフェはやその周辺は自然景観や動植物などの自然美に富んでいることから、多くの芸術家を惹きつけてきました。

サンタフェには、ウィスコンシン州出身のジョージア・オキーフ(Georgia O’Keeffe)や協働したアーティスト、関連するテーマの作品を展示するジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。オキーフは70年にも及ぶ長い画歴のなかで、ほとんど風景、花、そして動物の骨だけをテーマとして描き続けた独特の画家です。なかでも画面いっぱいに拡大して花の絵を描いた作品群や牛の頭蓋骨に威厳を込めて描いた作品群が、オキーフの名を一躍有名にしたことはつとに知られています。

Georgia OKeeffe

学会発表のため、私はニューメキシコを訪れたことがあります。最大の人口を抱える都市はアルバカーキ(Albuquerque)にはスペイン文化を色濃く残すオールドタウンが観光客を招き、一帯には多くの文化施設やカフェ、土産物店が軒を並べる近郊にはアメリカン・インディアンのアドビ(Adobe)呼ばれる日干しレンガによる積層集落が点在しています。アルバカーキはマイクロソフト(Microsoft) の創業者ビル・ゲイツ(Bill Gates) がBASICのインタープリタ(Interpreter)を開発し、はじめてのパソコンと言われるアルテア(Altair)用に移植したことでも知られています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その37 『Garden State』とニュージャージ州

ニュージャージー州(New Jersey)は、ニューヨークとフィラデルフィア(Philadelphia)からほど近い距離にあることは知られています。州の北東はハドソン川(Hudson River)を境としてニューヨーク州に接しています。州都はトレントン(Trenton)で、最大の都市はニューアーク(Newark)です。

Ellis Island

ジャージーショア(Jersey Shore)には砂浜と静かな街が連なっていますが、賑やかなアトランティックシティ(Atlantic City)もあります。ニュージャージー州は「庭園の州」(Garden State)という愛称で知られています。世界でもトップレベルで超難関のプリンストン大学(Princeton University)もここにあります。でもちろんアイビーリーグ」(Ivy League) に属しています。ジョージ・ワシントン(George Washington)が率いる独立戦争の本部があったモリスタウン国立歴史公園(Morristown National Historical Park)で建国の歴史を学ぶことができます。ニューヨークからほど近くにあるメドウランズ地区(Meadowlands District)には、265 種類以上の野鳥が生息し,人々の憩いの場所となっています。

Thomas Edison

発明家トマス・エジソン(Thomas Edison)はニュージャージー州で働きながら発明し、産業革命期の重要人物であり、蓄音器、白熱電球[3]、活動写真など1,093の特許を取得します。現在のゼネラル・エレクトリック:GE)の会社を設立した人物です。エジソンは柔軟な思考の持ち主だったようです。「天才は1%のひらめきと99%の努力」(Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.)とエジソンは語ったといわれますが、1%のひらめきがないと何も生まれないという意味にもとれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その36 『Live Free or Die』とニューハンプシャー州

ニューハンプシャー州(New Hampshire)は、アメリカ北東部のニューイングランド地域に位置します。面積としては小さい州ですが、河川峡谷や北東部で最も高いワシントン山(Mt. Washington) など多様な地形により、自然のバラエティに富んだ州です。合衆国独立当時の13州の1つで、州のモットーは「自由に生きる、然らずんば死を」(Live Free or Die)」であり、州の標章や自動車のナンバープレートにも表示されています。史跡もあちこちに残っています。今日も独立と自治の精神が強い州として知られています。

Dartmouth College


この州は、合衆国大統領の予備選挙が最初に行われる州で、州での投票結果は大統領選の結果を占うものとして大きく報道されます。そのため、大統領選挙のある年やその前年は、報道番組はニューハンプシャー州の話題でもちきりになります。州都のコンコード(Concord)の人口は5万人に満たず、最大都市のマンチェスター(Manchester)でも10万人ほどです。ニューハンプシャー州の経済を支えているのは観光業、そして乳製品、リンゴなどの農業、コンピュータ製品などの電気機器などとさまざまです。森林資源を利用した木材・家具・紙等、皮革、繊維といった産業も盛んです。ニューハンプシャー州はアメリカで唯一、所得税と消費税がない州です。これが観光業が盛んな理由の1つにもなっています。

University of New Hampshire

代表する大学といえば、まず挙げられるのが1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)です。「アイビーリーグ」(Ivy League) に名を連ね、アメリカ屈指の名門大学です。ダートマス大学は、学士課程の教養学部に加え、医学・工学・経済といった分野のみならず、18分野もの文系・理系の大学院課程を有しています。従ってアメリカでは総合大学(university)なのですが、9つあるアメリカ独立戦争以前に創立された「コロニアル・カレッジ」(Colonial College)の1つであるという伝統を守っています。莫大な基金を所有しており全米でも最も裕福な大学の1つといわれます。

ニューハンプシャー州にあるポーツマス (Portsmouth)の隣街に長男の嫁の親が住んでいたので数回訪ねました。ポーツマスは、合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介により、1905年9月5日にポーツマス条約が調印された港街です。日露講和条約とも称されています。条約締結の交渉資料や写真は、市内の図書館で展示されています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その35 『Silver State』とネヴァダ州

ネヴァダ州(Nevada)はアメリカ本土で最も山がちな州です。アウトドアがお勧めです。レッド・ロック・キャニオン国立保護区(Red Rock Canyon National Conservation Area)などが知られています。州の愛称は「銀の州」(Silver State)となっています。

Red Rock Canyon

州名は近くにあるシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)から採られています。シエラネバダとは「雪に覆われた山脈」を意味するスペイン語です。最大都市はラスベガス市(Las Vegas)で、世界有数のカジノ街として名高い所です。ラスベガス1820年代後半にソルトレイクシティ(Salt Lake City)からカリフォルニアを目指すモルモン教徒によって発見されました。ネヴァダ砂漠の中にあってこの付近は窪んだ地形となっています。ベガとはスペイン語で「肥沃な土地」を意味する女性名詞で、ベガスはその複数形です。これに女性定冠詞を付けてラスベガスとなっています。

Valley of Fire

アメリカ最大の山岳湖であるタホ湖(Lake Tahoe)を過ぎると、シエラネバダ山脈のふもとにある州都のカーソンシティ(Carson City)があります。昔地理で学んだのがフーバーダム(Hoover Dam)です。このダムは1936年に造られた多目的ダムで第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)によるニューディール(New Deal)政策の一環失業者対策や景気回復を目論んだ公共事業といわれます。ダム湖はミード湖(Lake Mead)と呼ばれ、アメリカ最大の規模であり、型式は重力式アーチダムで堤高は221.3メートルとなっています。ダムの完成により、広大な乾燥地で灌漑農業を行うことが可能となりました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その34 『Cornhusker State』とネブラスカ州

ネブラスカ(Nebraska)はいろいろな思い出があります。 ネブラスカ大学の友人を訪ねたときのことです。デトロイト国際空港の入国審査場で審査官が家内におきまりの「どこへ行くのか?」と尋ねます。家内は「ネブラスカへ、、、」審査官「ネブラスカでなにをするのか?」、家内「観光です」、審査官は首を傾げて「ネブラスカへ観光へ行く日本人は初めてだ、、」というのです。どうも審査官はネブラスカは田舎か僻地だと思っていたらしいのです。

Corn Husker

州の東側には広大な草原、西側には壮大な崖や峰、東西間には砂丘など、どこへ行っても素晴らしい景色を堪能できます。ロデオ発祥の地であり、開拓者時代のランドマークがあり、西部開拓時代に入植者たちが通った歴史的な脇道が交差する州です。州都はリンカーン(Lincoln)で、最大の都市は州の東端にあるオマハ市(Omaha)です。広大な平原は、トウモロコシ畑が広がっています。州の愛称はコーンハスカー(トウモロコシの皮をむく人)『Cornhusker State』となっています。

Coach Tom Osborn

リンカーンにあるネブラスカ大学(University of Nebraska-Lincoln)にある自然史博物館(University of Nebraska, Morrill Hall) は恐竜の化石や開拓時代の道具、ネブラスカのインディアンの生活などを紹介するところで必見です。この博物館は、主に子ども達が社会見学で学べるような設備を用意しています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その33 『Big Sky Country』とモンタナ州

私はこの州を訪ねたことがありません。モンタナ州(Montana)といえば、マイケル(マイク)・マンスフィールド(Michael Mansfield)というモンタナ州選出の上院議員が忘れられません。1961年から1977年までの16年間は多数党であった民主党の院内総務(Senate Majority Leader)として活躍しました。この16年という任期はアメリカ史上最長です。また知日派としても知られ、1977年から1989年までの長期にわたって駐日大使を務めました。

Mike Mansfield

「モンタナ」という州名はスペイン語で山、あるいは山の国を意味する「Montana」に由来します。州都はヘレナ市(Helena)は、19世紀後半のゴールドラッシュによって人が集まってできた町です。モンタナ州北にグレイシャー国立公園(Glacier National Park)、南にイエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)という2 つの国立公園があります。この 2 つの公園の間に無限とも思われる大自然の驚異、すなわち、55の州立公園、15の自然保護区、多数の国有林や州有林が広がっており、モンタナ州は冒険と発見にあふれる驚くべきフロンティアとなっています。州の愛称は、「 蒼空の州」(Big Sky Country)で、自然溢れる州に誠に相応しい名です。

Big Sky Country

州の人口動態です。全体ではドイツ系の祖先を持つ人々が最も多く、次いでアイルランド系が第2位、イングランド系が第3位になっています。スカンディナヴィア系は北部と東部の平原地帯で農業が主体となっている所に多く居住しています。近隣のノースダコタ州やミネソタ州と同じような状態です。

州内には、ネイティブアメリカン(インディアン)の居留地(Indian Reservation) が7つあります。この居留地には言語による分類で20以上の部族が住んでいるといわれます。合衆国の他州よりもインディアン人口が多く構成比が高くなっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その32 『Show Me State』とミズーリ州

ミシシッピ川の西、アメリカ中西部にある内陸の州がミズーリ州(Missouri)です。州名の由来は、ミズーリ州はミズーリ川(Missouri River)にちなんで名付けられました。”Missouri” を「ミズラ」と発音することもあります。「ミズーリ」はスー族(Sioux)インディアンの部族名。かつてこの地は、フランス領ルイジアナとして統治されていました。ちなみにこのフランス領ルイジアナは、ミシシッピ川の流域をほとんど含んでおり、北は五大湖、南はメキシコ湾、東はアパラチア山脈から西のロッキー山脈までという広大な領地でした。隣同士、多くの州と接している珍しい州でもあります。

Gateway Arch

ちなみに州の愛称は「ショウミーステート」(Show Me State)で、「証拠をみせよ」といった意味で、簡単には信じないぞ、といった感じです。ミシシッピ川とミーズリ川が合流する地点にあるのがセントルイス(St. Louis)です、毛皮の交易所として発展してきた街。19世紀には西部への開拓者達の出発地点として賑わってきて、ゲートウエイ・アーチ(Gateway Arch)がその面影を残しています。ここは国立公園となっていて高さ192メートルのモニュメントの一番高い所にのぼることができます。ミズーリ州最大の都市はカンザスシティ(Kansas City)です。伝統的に畜産業が盛んな地域のために、名物料理はカンザスシティ・スタイルのバーベキュー(BBQ)で、100軒以上のバーベキューレストランがひしめくといわれます。BBQはウッドスモークの香りが漂い低温でじっくり焼き上げるのです。

Route-66

歴史あるルート66(Route 66)は 、マザーロード(Mother Road)と呼ばれる伝説のハイウエイです。ミズーリ州を 480 キロメートル以上に渡り走っていました。大陸を横断するこの道はアメリカ西部の発展を促進した重要な国道であり、映画や小説、音楽などの中に多く登場しました。中でも代表的なのは1960年から1964年にかけてCBS系列で放送された『ルート66』です。日本では1962年から122回にわたった放映され大人気でした。ドラマ中、シボレー・コベット(Chevrolet Corvette)に乗ったイ2人のエール大学(Yale University)に通う若者が冒険を求めてアメリカ中のハイウェイを走っていくというストーリーでした。しかし、州間高速道路(Interstate)の開線で今は通勤道路となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その31 『Magnolia State』とミシシッピ州

ミシシッピ州(Mississippi)の成立過程です。16世紀初頭にチカソー族(Chickasaw Tribe)やチョクトー族(Choctaw Tribe)などの先住民が暮らすこの地にヨーロッパ人がやってきました。スペインの探検家でコンキスタドール(Conquistador)、征服者と呼ばれたエルナンデ・ソト(Hernandez Soto)らです。彼らは金を目指しフロリダを出発したのですが、その途中にこの土地を訪れます。ミシシッピの地は、他の州と同様にヌーベルフランス(New France)と呼ばれるフランスの植民地でした。フランスは先住民族たちと友好な関係を築きながら植民地を広げています。

Magnolia

その後1755年に起こるフレンチ・インディアン戦争では、フランスはインディアンと組んで、イギリス相手に戦うことになるのです。結局、1760年にフランスが降伏して戦争は終わり、1763年のパリ条約によってミシシッピ川から東側に位置するこの地はイギリスへと割譲されまます。

現在の州の経済の柱は農業です。主な農産物は綿花や大豆です。綿花栽培は古くから行われていて、綿花で財を成した白人大富豪も多かったようです。この成功の裏には黒人奴隷労働者の存在がありました。今でも、ミシシッピ川の広大なデルタ地帯では綿花の栽培が盛んです。他にもキャットフィッシュ(catfish)の養殖、養鶏なども主要な産業で、ミシシッピ州は養殖や農業州であるといえます。

Map of Mississippi

ミシシッピは歴史的にみても、黒人解放運動の活発な地域でもあります。19世紀後半のジム・クロウ法(Jim Crow laws)および1890年の新憲法の成立によって、ミシシッピ州はディープサウス(Deep South)に典型的な形で、事実上黒人の選挙権を取り上げるのです。ジム・クロウ法とは、「黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限した法律」を総称したものです。ジム・クロウは黒人隔離を指す言葉としても使われるようになりました。過剰な投票税を課すなどして、黒人が投票するのを防止しようとしたのもこの法律です。

Elvis Presley’s Birthplace

州都および最大都市はジャクソン市(Jackson)です。州のニックネーム『Magnolia State』(木蓮の州)。木蓮は中国原産の植物ですが、温暖な気候であるアメリカ南部でも親しまれています。日産自動車が2003年、同州のキャントン(Canton) に工場を建設し、トヨタ自動車が2010年にブルー・スプリングス(Blue Springs)で生産を開始したのもミシシッピです。労働力に恵まれていることが建設の条件だったようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その30 『Land of 10,000 Lakes』とミネソタ州

私がミネソタ(Minnesota)という地名を知ったのは「ミネソタの卵売り」という流行歌です。1950年代の頃で歌っていたのは暁テル子という歌手です。この曲名の由来を調べましたがよくわかりません。ミネソタに卵売りという職業があるのかも定かではありません。ミネソタは養鶏で盛んであるというのもきいたことがありません。寒いので養鶏には向かないはずです。

Map of Minnesota

もう一つのミネソタのエピソードです。元札幌ルーテル教会の宣教師とご家族をミネアポリスに訪ねたときです。外に立っているとひどく蚊が多いのです。大小無数の湖が点在するために蚊が発生するのです。人々は蚊のことを「州の鳥」(State Bird)といって笑っていました。州の愛称は「一万の湖がある州」(Land of 10,000 Lakes) と呼ばれています。こうした湖は最終氷河が後退した跡に残したものです。もう一つの愛称は「ジリスの州(Gopher State)」という可愛い野生動物にちなんだ呼び名です。

Downtown Minneapolis

中西部では、イリノイ州シカゴとミシガン州デトロイトに続いて大きい都市が、ミネソタ州のミネアポリス(Minneapolis)になります。ミネアポリスは州都セントポール(Saint Paul)の西に位置する隣りの街です。ミシシッピ河を挟んで発展してきた二つの大都市が隣同士にあり、2つの都市を合わせて双子の街、ツインシティー(Twin Cities)とも呼ばれています。ミネアポリスは次々と再開発が進み、新しい施設などが建ち並ぶ経済の中心です。それに対してセントポールは、ヨーロッパの都市に似て旧市街地区があり、ビクトリア期後期のような数多い建築が保存状態良く、残っています。少し古いですが2015年の調査によると、ミネアポリスとセントポールは最も識字能力が高い人々が暮らす街であるといわれます。

Mall of America

ミネソタ州は古くから農業、鉱業が盛んな州でしたが、近年はハイテク産業の進出などもめざましいようです。ミネアポリス・セントポール国際空港 (MSP) の近くに位置する「モール・オブ・アメリカ」(Mall of America)は、全米最大級のショッピングモールです。4つのデパート、50のレストラン、520の専門店が巨大なモールの中に集合しています。ちょうど中心に、遊園地があるのですから、その大きさが分かります。キッズテーマパーク「レゴランド(Lego Land)も楽しいです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その29 『Great Lake State』とミシガン州

ミシガン州(Michigan)の成立過程です。17世紀にアルゴンキン語族(Algonquian)などの先住民族が暮らすこの地に、初のヨーロッパ人がやってきます。それはヌーベルフランス(New France) と名付けられたこの新大陸にやってきたフランス人です。もともと毛皮交易を進めながら、この地を開拓していきます。当然フランスの植民地となった地ですが、後のフレンチ・インディアン戦争(French-Indian War)により、イギリスに支配されるようになります。

Map of Michigan

地理ですがミシガン州(Michigan)は、北と東はカナダに、南はインディアナ州(Indiana)とオハイオ州(Ohio)に、西はミシガン湖を挟んでウィスコンシン州に接しています。五大湖で知られ、その湖とは、Huron(ヒューロン湖)、Ontario(オンタリオ湖)、Michigan(ミシガン湖)、Erie(エリー湖)、Superior(スペリオル湖)です。そのため、ミシガン州は「グレート・レイク・ステイト」(Great Lake State)とも呼ばれています。「ミシガン」という名前も、先住民族の言葉で「大きな湖」を意味するのだそうです。「クロアナグマの州」(Wolverine State)とも呼ばれています。別名はクズリです。

Light House

デトロイト(Detroit)を中心に発達する自動車産業を抜きにこの州は語れません。ちなみにこのデトロイトを作ったのは、フランス人貴族、アントワーヌ・ド・ラ・モス・キャデラック(Antoine de la Mothe Cadillac)といわれています。あの高級車の名前の由来というわけです。今も多くの大統領専用車となっています。オバマ大統領の「キャデラック・ワン」が有名です。車体前方についている月桂冠で形どったエンブレムのデザインは何度も変更されています。

ミシガン州と言えば、なんといってもフォード(Ford)、GM、クライスラー(Chrysler)のビッグ3の本社があることです。その他化粧品のアムウェイ (Amway)化学工業のダウ・ケミカル (Dow Chemical)、ドミノ・ピザ(Domino Pizza)、食品製造のケロッグ(Kellogg)などの本社もあります。

Downtown of Bay City

ミシガン州は農業州でもあります。州内では多くの種類の穀類、果物、野菜が栽培されており、その多様さではカリフォルニア州に次いで第2位となっています。主要作物としては、トウモロコシ、大豆、花卉、小麦、テンサイ、ジャガイモがあります。ミシガン湖の温暖化効果と肥沃な土壌のお陰で、ブルーベリー、サクランボ、リンゴ、ブドウ、モモなどの栽培も盛んです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その28 『ヘンリー・ソロー』とマサチューセッツ

『Pine Tree State』とメイン州の紹介では、「The Maine Woods」(メイン州の森)という作品を著した随筆家で思想家のヘンリー・ソローに触れました。自然をこよなく愛したいわばナチュラリストです。19世紀中頃、ニューイングランド(New England)で観念論哲学運動が起こります。アメリカの思想家、詩人であるエマソン(Ralph W. Emerson)らが唱道したニューイングランド超絶主義(transcendentalism) という運動です。この教義を故郷のコンコード(Concord)の村において徹底的に実践した作家がソローです。超絶主義とか超越主義とは、「神という超越的存在を個人の中に見る自立した自己の精神」という考え方です。自己の内なる何か絶対的な価値(神性)を直感によって掴み取るというのです。

“どこに住み、何のために生きてきたか”

超絶主義とは「transcendent」という形容詞から由来し、超越するとか乗り越えるという意味で使われます。客観的な経験論よりも主観的な直感を強調し、その中核は人間に内在する善と自然への信頼に置くという考え方です。人知では到底計り知ることができないような経験知といってもよいかもしれません。この主張が、後に自己啓発運動や自己啓発書に大きな影響を与えていきます。

ソローの作品から、彼はニューイングランドの自然環境を通して人間の叡智や可能性を探ることを最大の関心事としていたことが伝わります。ソローは、すべての人々は独自の生活様式を追求し、その生活を詩とし、生きること自体を芸術作品とする自由を持つべきと主張します。世の中の流れに疑問を抱き、自分の感性を磨いて忠実に生きるという精神です。彼の作品から言えることは、ニューイングランドの風景を人間的な連想で豊かにするだけでなく、想像力をもって自然に向き合い、自然を破壊せずに自然を大切にし、それと共に生活するという態度です。

コッド岬

ソローは、メキシコ戦争が起こったとき、マサチューセッツ州が課する人頭税(poll tax)の支払いを拒否し投獄されます。ソローはその顛末を、最も有名と評価されたエッセイ「市民の反抗」(Civil Disobedience)の作品で描きます。この中では、多数決という便宜主義に異議を唱え、個人の良心を擁護して納税を拒否するのです。こうした態度は、マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)やキング牧師(Rev. Martin L. King)の非暴力による公民権運動の思想的な先駆けでとなります。

Old Harvard Square

前述のエッセイ「メインの森」や「カナダのヤンキー」(A Yankee in Canada)、「コッド岬」(Cape Cod)のような旅行記は、彼の精神を支えてきたアメリカの原始的自然環境の素晴らしさや大切さを再認識したことの表れといわれます。ニューイングランド一帯やコンコードの自宅周辺にあるウオルデン(Walden)湖畔や山野を歩き回り、「散歩」(Walking)というエッセイも書いています。彼の聖地は山野にあり、歩くことは彼の精神的な運動でありました。そこには精神の自由があり、文明と人間を育んできた「野性の世界」であったようです。ソローが人間と環境との生態学を論じたことが、アメリカ社会やその後の各国における環境保護運動を触発したことは特筆すべきことです。