「幸せとはなにか」 その15 「キロギ・アパ」

ハングルで”기러기”とは雁、”아빠”はお父さんという意味である。お隣韓国の教育熱は我が国でも知られている。かつての我が国における受験戦争の比ではない。

韓国では、子息に英語での意思疎通能力を身につけさせようと懸命になっている。そのために子どもと妻を海外に送り出し、自国にて一人で働きながら生活する父親が沢山いる。こうした父親のことを「キロギ・アパ」「雁のようなお父さん」と呼ぶそうである。雁は渡り鳥で、父親が海外と国内を行き来することからこのようにいわれる。学歴社会を背景とする過度な教育熱と、孤独になった父親の精神的な負担などが社会的な問題となって久しいようである。

海外で学び仕事の経験を積むことが大事だと韓国人は日本人以上に考えているのは確かだ。現在アメリカの大学には韓国人が日本人の50倍はいるはずである。そして自国より住み心地が良いと感じているに違いない。

キロギ・アパといえば、筆者もその一人である。子どもたちをアメリカで教育し、彼らと別れて日本で長く生活している。子どもたちは教育を受け、仕事に就き、結婚し子育てに忙しい。「学歴社会を背景とする過度な教育熱」に毒されたのではなく、子どもが自分の進路を選んだのである。

米国というところは、長く住めば住むほど永住したくなるような不思議な魅力を持っている。それを海外からやってくる者は一種の幻覚のように感じるのだ。幸せを実現してくれるといった目眩のようなものである。そういう感覚を筆者も体験したことがある。

「幸せとはなにか」 その14 星野冨弘氏のうたから

星野冨弘氏のことである。中学校の体育教師をしているとき部活での指導中、頸髄を損傷し手足の自由をなくしてしまう。その後は、筆を口にくわえて草花を描き、言葉を添える詩人となって「愛、深き淵より」など多くの作品を残している。

車椅子の上で描いた絵や詩からは、星野氏の想像の世界が広がっている。それは、手足の自由を失った者ならではの情感に溢れている。草花をじっくり観察し、その特徴を見逃さないでペンや絵筆に乗せている。やさしい言葉が並ぶ。

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喜びが集まったよりも、悲しみが集まった方がしあわせに近いような気がする。
 強いものが集まったよりも、弱いものが集まった方が真実に近いような気がする。
 しあわせが集まったよりも、ふしあわせが集まった方が愛に近いような気がする。

○言葉に深い意味が伝わってくる。これほど言葉と思想が一体となる詩歌はあまり読んでいなかった。「強い」とか「弱い」というのはなにか。

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辛いという字がある
  もう少しで
   幸せになれそうな字である

○「土」を上に付け加えると「幸」になるとは、、。地面に足をつけてもう少し踏ん張ることの大事さを歌っているようだ。

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「人生が二度あれば」とは、
   今の人生を諦めてしまうから
    出てくる言葉です。

○いつも悔いの残る毎日である。もう少しできたのだが、ということを繰り返して生きている。「明日ありと思う心の仇桜、、、、、」

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神様がたった一度だけ
  この腕を動かしてくださるとしたら
   母の肩をたたかせてもらおう。

○眼の不自由な人が、一度だけ母親の顔を見たいといっていた。深い愛を伝えるのに言葉は誠に不十分だが、それ意外に伝える手段がない。それにしても母親の存在はなににも代え難い。今日は1月17日。

「幸せとはなにか」 その13  二十四の瞳から

作家壺井栄は、香川県小豆島の出身である。この島は瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積となっている。寒霞渓を始めとする渓谷などの自然が瀬戸内海国立公園に指定されている。大阪城修復の際には小豆島より多くの石が採られ運ばれた。今も石切場の跡が残っている。島独特の手延べそうめんで知られ、またオリーブの生産が盛んである。

さて話柄は「二十四の瞳」である。1952年の壺井の原作をもとにして、木下惠介が監督で1954年に公開された映画である。もちろん小豆島の小学校の分教場が舞台である。担任は新任の大石先生。彼女のクラスは12名。こののどかな島で皆成長する。

やがて戦争の影が小さな島にも忍びより、暗い世相が訪れる。不況、飢饉、満州事変、上海事変と続く戦争に島も家族もほんろうされる。教師も戦時教育を強いられる。12人の生徒たちはそれぞれの運命を歩む。戦地へ赴く教え子や自分の子に「名誉の戦死などない、必ず生きて戻るように」と諭す。戦争に疑問を抱く大石先生は教え子たちの卒業とともに教師を辞める。

戦争が終わる。大石先生も船乗りの夫や息子を戦地で亡くす。かつての教え子の呼びかけで、大石先生と同窓会が開かれる。そこで12名の消息がわかる。席上、皆波乱の人生を余儀なくされたことを知る。戦場で負傷し失明した教え子が、昔12名で撮った写真を指差して「これは誰、こちらは、、、」といって恩師に説明する。

戦争は多くの尊い命を奪った。家族を、恋人を、学徒を、子供を不幸に巻き込んだ。大勢の敵兵や占領下の現地の人々も亡くなった。太平洋戦争では、日本だけで200万人以上の戦闘員、非戦闘員が命を落とした。筆者も叔父が二人シベリアで亡くなった。

「幸せとは」 その12 マルセリーノと汚れなき悪戯

「汚れなき悪戯」(Miracle of Marcelino)という映画は1955年にスペインで製作された作品である。スペイン語の題名は、「Marcelino Pan y Vino」で「マルセリーノのパンとワイン」となる。

この物語である。フランシスコ会修道院の門前に赤子が捨てられていた。修道士たちは里親を捜すのだが、結局見つからず自分たちで育てることになる。そして赤子をマルセリーノ(Marcelino)と名付ける。

マルセリーノは修道院でいろいろなことを学ぶ。修道院での学校生活である。保育係となったフランシスコ修道士(Father Francisco)は、マルセリーノに屋根裏部屋には決して入らないように言いつける。

好奇心の旺盛なマルセリーノは屋根裏部屋にこっそり忍び込のである。そこで大きな十字架のキリスト像と出会う。そしてキリストにパンを与える毎日が始まる。これが「汚れなき悪戯」として描かれる。やがて、みなしごマルセリーノはキリスト像に「天国の母に会いたい」と嘆願する。

像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて座って少年と話し、また飲み食いするようになる。像は特にパンと葡萄酒を喜んだので、マルセリーノは毎日それらを盗む。それに気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。

いつものようにパンと葡萄酒を持っていったマルセリーノに対し、像は「良い子だから願いをかなえよう」と申し出る。迷わずマルセリーノは「母に会いたい、そしてそのあとあなたの母にも会いたい」と言うのである。「今すぐにか」という問には「今すぐ」と答える。ドアの割れ目から覗くフランシスコ修道士の前で像は少年を膝に抱き眠らせた。

駆けつけた修道士たちは空の十字架を見、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。マルセリーノは椅子の上で微笑みを浮かべて永遠の眠りに就いていた。
https://www.youtube.com/watch?v=bqKFXlg1h6s

「幸せとはなにか」 その11 チャーリー・ブラウンの仲間たち

チャールズ・シュルツ(Charles M. Schulz)の漫画に登場するのがピーナッツ(Peanuts)の仲間である。この漫画は、1950年に新聞に掲載されるようになり、やがて全世界で読まれるようになる。子供はもちろん、大人にも読者が広がる。筆者もピーナッツの本で英語を学んだ。特に、会話のなかにでてくる俗語や表現は、後に米国で生活していて役だったものだ。

ピーナッツは別名「Good Ol’ Charlie Brown」とか「Charlie Brown」と呼ばれる。ビーグル犬のスヌーピー(Snoopy)の飼い主がチャーリー・ブラウン(Charlie Brown)。やさしくてまじめで憎めない。友達想いは人一倍深い。チャレンジ精神も旺盛である。特技はビー玉で趣味は野球。彼は選手兼任監督を務める。そのチームは負けてばかりだ。いつも肝心なところでポロリをやって仲間からひどく野次られる。皮肉にも彼がプレイしない試合は勝つ。

チャーリーの仲間だが、スヌーピーは、スポーツ万能で趣味は小説を書くこと。小屋に寝そべって瞑想するのが好きな犬だ。ルーシー(Lucy)は、チャーリーが蹴ろうとする瞬間にボールを引っ込めてしまうちょっとお茶目な女の子。ライナス(Linus)はルーシーの弟で、仲間うちきっての知性派。トレードマークは「安心毛布」である。サリー(Sally)はチャーリーの妹でちゃっかり者だが、ライナスに夢中。シュローダー(Schroder)は、ベートーベンの曲を弾く小さな音楽家。ピアノに寝そべって聴くのがスヌーピの得意なポーズである。

作家、シュルツの眼差しは、子どもと動物にとても暖かい。小さな者、弱い者の側からピーナッツは大人の世界を見つめる。子どものできない、困ったという心の悩み、葛藤をどう乗り越えるかを一貫したテーマとしている。大事な仲間の喜び、哀しみ、不満をスヌーピーと共に味わうチャーリー・ブラウンである。

「幸せとはなにか」を考える その10 「芝浜」から

古典落語の傑作の一つに「芝浜」がある。名人で三代目桂三木助が演じた屈指の人情噺といわれる。この話は、魚の行商を生業とする酒好きな勝五郎とそのお上さんの物語である。

舞台は今のJR田町駅から浜松町駅のあたり。江戸時代は砂浜が続いていたといわれる。江戸前といわれた魚が水揚げされて雑魚場と呼ばれていた。勝五郎は、この雑魚場に朝早く仕入れに出掛け、暇つぶしをしているうちに大金の入った財布を拾うことからこの落語は展開する。

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ある朝、お上さんにせっつかれて、グズグズしながら魚の買い出しにいく。それまで勝五郎は半月も休んでいたのである。出かけて浜辺で煙草を吸っていると、ひもがついた革の財布が浮いているのをみつける。拾ってみると小判が入っている。

驚いて家に戻り、お上さんに訳を話す。財布と開くと八十二両という大金である。「これでぜい沢ができる、いい着物を買って、温泉でも行こう」とお上さんを誘う。あげくは、仲間を引っ込み「目出度い、目出度い」とドンチャン騒ぎをする。その夜はぐでんぐえんに酔っぱらって眠りこける。

翌朝、お上さんにたたき起こされる。
「さあ、さあ、魚の仕入れに行っておくれ」
「なに言っとるんだ、八十二両あるんじゃないか、」
「なに寝ぼけたことをいってるの、どこにもそんなお金なんかありゃしないよ、なにか夢でも見たんじゃないの?さあ、さあ仕事にいっておくれ」
「確かお前に八十二両預けたじゃないか、、」
「酔っぱらっているからそんなお金の夢をみるのよ」
「おかしいな、確かにお金を拾ったんだが、、、」
「、、、ん、夢か。子供のときからやけにはっきりした夢をみることがあったな、、」
「酒を飲んだのは本当で、財布を拾ったのは夢だったのか、、、ああ情けない。」

こんな会話を交わし、それから勝五郎はプッツリと酒を断ち、元の腕の立つ仲買人となる。それから三年目の暮れのこと。湯屋から戻った勝五郎にお上さんは、打ち明けるのである。

「実は、この財布に見覚えがない?」
「??????」
「これはお前さんが三年前に芝の浜で拾ったという財布なんだけど。」
「あれは夢じゃなかったんか?」
「あたいは、お前さんに嘘をついたの」
「もし、その時この小判を使い込むようなことになれば、お上にいろいろと訊かれ、天下の小判を届けなかった罪で牢屋にでもいれられたろうに」
「あんたが酔っぱらって眠っているとき、大家に相談し奉行所に届けた」
「三年後、落とし主が見つからないのでこの財布はこのとおり帰ってきたんだよ、嘘偽りをいったのは悪かった、どうかあたいを打つなりぶつなりしてしておくれ」
「ああ、そうだったのか、、。お前をぶったりしたら、この腕が曲がってしまう。俺も馬鹿だったなあ、、」
「赦してくれるのかい、、ありがとう」
「静かな大晦日だね、お前さん、三年間酒を一滴も呑まなかったね」
「今夜くらい一杯やったらどう?」
「そうだな、もうらおうか、、ああ、いい匂いだ、口からお出迎えといくか」
「、、、、ん、やっぱり酒はやめておこう。また夢になるといけね!」

自堕落な亭主を更正させる女房。「文句なしに素晴らしいお上さんだ」という立場と、「わざわざ嘘をついて立ち直らせるのなんて、鼻につく女房だ、」という声もある。だがこの人情噺はとてもよくできていると感じる。夫婦愛と人情の機微が噺家から伝わる。それは、庶民のつつましい生活が長屋、酒、夢、女房、行商などに展開されている。皆、その日その日に生きることで精一杯だが、偽りや権威と向き合いながら、懸命にそして誠実に生きる姿が共感を呼ぶ。

「幸せとはなにか」を考える その9  夜間中学から

高度経済成長の一断面を描いた映画「学校」には、懸命に学ぶ若者からお年寄りまでが登場する。製作されたのは1993年である。舞台は夜間中学校。そこに勤める教師の黒井は、古狸と呼ばれるくらい長く生徒と付き合っている。「そろそろ異動、、」との校長の肩たたきに見向きもしない。生徒は皆、学習に苦戦するものばかりである。

読み書きに苦労する日雇い労働者で酒好きのイノさん、焼肉屋の働き者で在日韓国人のオモニ、清掃業の肉体労働に励む勉強嫌いのチャラチャラ少年のカズ、鑑別所から出てきた派手でヤンキー風のみどり、言葉の不自由なおさむ、不登校になったえり子、社会に馴染めない中国人の張さんなど、一癖も二癖もある生徒だ。

孤独に生きてきて初めて「学校」という和の中で生活することになるのがイノさんがこの物語の主人公である。字が書けることの喜びを実感し、女性教師に初恋をし、修学旅行でクラスメートとはしゃぐ。誰もがとっくに経験している学校生活を50代になってからようやく体験する。

この映画のクライマックスはイノさんの死である。イノさんははたして幸せだったのか、不幸だったのか、幸福とは何なのか?ということを授業で皆で話し合う。生徒は皆それぞれ違う境遇から、ユニークな発言をする。「そんなこと難しくてわかんない」、「お金じゃないか、、」、そして友情などの話題に発展する。

少なくとも学校に通っている時のイノさんは幸せそうだったことは皆が納得する。だがイノさんが幸せか不幸かなんていうのは他人が決めることではなく、イノさん自身で決めることではないか、という結論のようなことになって生徒は夜道を帰っていく。

「幸せとはなにか」を考える その8 暖かい愛情を受けること

全般的に次のようなことがボストンでの調査から判明した。ハーヴァード大学卒の者は貧しい環境に育った者よりも長生きし、疾病率も低いことである。おおよそ10歳位の違いがある。貧しかった人の26%は65歳で亡くなり22%が障がい者となった。他方、大卒の人の27%が75歳で亡くなり、14%が障がい者となった。

70歳以上になると人が処することができない外的な要因は健康な生活にとって重要でなくなる。むしろ自分で処することができることを実践することが有用である。50歳前に幸せな結婚生活をおくる者は、健康を保ち、その後の生活を自分で高めることができる。人生の悩みに対応できるか否かで、人生は大きく変わる。

20歳から50歳にかけて、成熟性とか適応能力を身につけるものは、順調に心理的な齢を重ねていくことができる。50歳以前では、幸せな人生をおくる2/3が、そして悲嘆や病気の人の1/10が成熟した防衛機制(defence mechanism)を有していた。

ユーモアの感覚を身につけ、自分と他人に尽くし、自分より若い友達との関係を作り、新しいことを学び、愉快な生活をすることに心掛けるべきである。

他方、未成熟な防衛機制は悲しむべき結果をもたらしがちである。自分の問題に関して、他人を非難しないこと、自分が問題を抱えることを否定してはならないことだ。勝手な推測をすることは、解決するどころか、より大きな問題を抱えることになる。むしろ気を紛らす方策を考えるほうが得策である。

繰り返すが、幸せに年をとりながら健康のうちに過ごすには、個人ができることを心掛けることである。例えば、自分の体重に注意したり、運動を欠かさずしたり、学びを続けたり、禁煙を励行し、適度に酒をたしなむといった習慣である。

アルコール中毒は人生に最も大きな破壊力となる。離婚の原因がそうである。神経症やうつ病はアルコール中毒をもたらす。禁煙行為もそうである。初期の病的状態や死亡の最たる原因ともなっている。

調査の主査であるDr. Vaillantが曰く。最も相関の高いのは、配偶者との暖かい関係と健康・幸せである。この関係に疑問を呈する者もいる。だが、健康を維持するには夫婦の関係が最も重要であると確信を持って言えるというのだ。

調査の結論だが、それはジグムント・フロイド(Sigmund Freud)が喜びそうなことである。すなわち母親からの愛情を受ける子供時代は、成人してからも影響を及ぼすということである。暖かい母親の愛情のもとで育った者は、そうした愛情を受けなかった者よりも職業生活でも成功し収入が多かった。不幸な関係で育った者は、年齢を重ねるうちにそうでなかった者に比べて痴呆になる確率が高かったという。

「幸せとはなにか」を考える その7 「良き人生とは」についての調査

ハーヴァード大学で行われた調査の続きである。

「幸せな」人生といっても、個々人がどうしても直面しなければならない要因もある。それは自分が制御できないことである。親の社会的なステータス、家族の絆の度合い、祖先の寿命歴、子供の性格などである。これらはいかようにも抗うことができない。だが、こうした要因はもはや重要ではなくなった。50代になる前の高いコレステロール値も70代になると重要性が下がる。むしろ50代の体の健康や神経衰弱とかうつ状態が、その後の人生に影響する。

調査によると50代の大学卒の人で健康な66名は、教育、飲酒、喫煙、安定した結婚、運動、体重、問題解決力といったことにはあまり関心がなかった。しかし80代になると66名中50名は悲嘆や病気に襲われ、未成熟ながら死んだような状態になっていた。一人として幸せな状態の者はいなかった。

他方、自分で処することのできる要因に向き合ったいた44名の大学卒の中で、25名は幸せで健康であるということが判明した。44名中たった一人が悲嘆や病気の状態であった。恵まれない環境で育った若者もハーヴァード大学卒と同じような傾向を示した。自分で処することができることを実践することが幸せで健康さを維持するのに重要であることを物語っている。

人は、自分のホームドクターと定期的に相談することによって、あるいは自分ができることを心掛けることによって、幸せで豊かに齢を重ねることができることが判明している。齢を重ねるにつれ、こうした「メインテナンス」といった日常の心掛けは遺伝子よりも重要なのである。

Dr. Vaillantはハーヴァード大学での卒業式辞で次のように訴える。
「幸せな人生をおくるには、50歳前で幸せな結婚をし、知恵のある問題解決能力を身につけ、利他的な(altruistic)行動に喜びを感じ、禁煙を励行し、運動を欠かさず、体重を管理する。そして絶えず学び続け、退職後も創造的な生活や新しいことへ挑戦していくことが大事である。」

「幸せとはなにか」を考える その6 「良き人生とは」についての調査

ボストン郊外にあるハーヴァード大学(Harvard University)で75年余りをかけた「良き人生とはなにか」に関する研究がある。1930年代に大学にやってきた268名の男子学生とボストンに在住する社会的に恵まれない環境にいた若者332名を被験者とした調査である。その間、戦争があり、職業を得て、結婚や離婚し、子育てをし、孫が生まれて退職し高齢化していった。半数以上が80代となっているそうだ。

いろいろな質問紙や心理検査を受けてもらい、面談によって心身の健康状態を長期的に調査してきた。そのために約20億円の費用をかけたというのである。気が遠くなりそうだ。この調査の主査はDr. George Vaillantというハーヴァード大学の精神病理学者である。

こうした調査にはDr. Vaillantがハーヴァード大学のメンタルヘルスセンター(Mental Health Center)での何人もの精神病患者との出会いがきっかけのようである。この間、人々の健康、疾病、そして死の原因などを調べてきた。Dr. Vaillant調査に携わり次のような言葉を残している。

「豊かに齢を重ねるということは、矛盾語法ではない。年齢を重ねるのではなく、生きることを加えることである。」

50歳に達してからの健康法で、一人ひとりができることに7つのことがある。それが70代、80代へと繋がるというのである。よくいわれる煙草を吸わないこと、適度な運動をすること、適度にお酒ををたしなむこと等々であるという。それらはさておき、Dr. Vaillantは「教育」こそがお金や社会的地位を凌駕し、健康や幸せにむすびつくのだと主張する。

社会的に恵まれない環境にいて、貧困で育ち学力テストも低く、厳しい就労を経験してきた者の中で高等教育を受けた者は、ハーヴァード大学をでた若者と遜色ない健康状態を維持しているということに現れている。

人々が健康を維持するために自らが心掛けることができることは、教育に加えて、前述した適度な飲酒、禁煙、安定した結婚、運動、体重管理、そして問題解決力であるという。

「幸せとはなにか」を考える その5 「Blessed are , , , 」

新約聖書、マタイによる福音書5章1節〜12節(Gospel of Matthew)の中には興味ある言葉が登場する。それは「幸い」とか「貧しい」という言葉である。そこから話を進めていきたい。

この箇所は「山上の垂訓」(The Sermon on the Mount)と呼ばれ、キリストが弟子と群衆に教えを伝える場面である。

“Blessed are the poor in spirit,
for theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn,
for they will be comforted.”

日本語聖書の翻訳は次のようになっている。

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものだからである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められるからである。

「貧しい」ということだが、基本的には「困窮している」という意味合いである。誰もが富んでいるほうがよいと考える。だがここで使われている”Spirit”というのは心というよりはむしろ「霊」とか「精神」、といった意味としておく。「霊において貧しい」、「霊に関して貧しい」という状態と考えのである。

「貧しい」という単語のギリシャ語(Greek)は「プトーコス」(ptochos)という。辞書で調べると、絶望している(helpless) 、無力な(powerless to accomplish)、貧窮した(destitute)などとある。神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿、それが貧しい人ということになる。

しかし、喜ぶべきことは、「霊において貧しい者」は救いの対象となるということである。これが”Blessed”という言葉である。「祝福されている」「恵まれている」ということをあらわす。自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いな存在だというのである。それをギリシャ語ではマカリオス(Makarios)といい、「至高の幸い」とか「至福の」(supremely blessed)という意味で使われる。1970年代後半にキプロス共和国大統領で宗教家であったマカリオス大主教という人がいた。

ついでだがヘブル語(Hebrew)ではアシュレイ(ashrei )とか、それが変化したエシェル(esher)が、幸いなるかな、という意味で使われる。詩篇40章4節(Psalm 40:4, 41:1)などで見られる言葉である。

言葉の語源を調べると昔の人の知恵や英知が伝承されていて、今にその意味を問いかけているようだ。

「幸せとはなにか」を考える その4 国民総幸福量

1972年頃の話である。ヒマラヤ近くにあるブータン王国(Buhtan)の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck)が国民総幸福量(Gross National Happiness, GNH)という考え方を提唱して話題となった。どうしてかというと、これまでのような経済的な指標を用いた国の発展の度合いや国民の生活を、全く別の方向から比較・評価する指標を提案したからである。これは思いも寄らないような見方であった。

「国民全体の幸福度」は、なぜ注目されたか。国の社会全体の経済的生産及び物質主義的な側面での「豊かさ」を数値化したのが、これまでの豊かさの基準であった。国民総生産(Gross National Product, GNP) や国内総生産 (Gross Domestic Product, GDP) は「金額」として計算されてきた。

国民総幸福量という概念は、きわめて数値化しにくい指標である。しかし、それを提唱した人々の英知に感じ入るものがある。なぜならこれまで比較対象するために用いてきた物差しを全く別な目盛りのついた物差しを使ったからだ。

国民総幸福量では、繁栄と幸福が強調されている。だが幸福の方がより大切だとされて宣言している。人間社会の発展とは、物質的な発展と精神的な発展が共存することだという。

だが、この「幸福」とか「幸せ」ということはまだ不確かさに満ちている。それは、個人のものか、共通な資産なのかがはっきりしないからだ。

幸せとはなにか」を考える その3 脳腫瘍と闘う友人

友人や家族から送られてくるクリスマスカードやメールでのニュース、そして写真などを見ながら考えることである。それは「幸せとは」とか「生きるとは」ということである。

長男家族からは「今年一年」のアルバムが送られて来た。孫たちの成長する姿が写っている。一緒にスペインはバルセロナを旅した。山深い僧院のMontserratやAntoni GaudiのSagrada Familiaを満喫した。孫娘らとディズニーランドへも一緒に行った。しかし、旅や再会が終わると興奮と寂しさの落差が伝わってくる。夢だったのか、という感慨である。

親しい友人のDr. Carl Selle師からは、脳腫瘍と共に生きるさまが二週間毎に伝えられてくる。留学生への支援と伝道に携わる牧師である。病と向き合う心の動揺と周りの支えに感謝している内容である。無力な存在ながら、医療スタッフや家族の支えによって生かされていることを書いている。一緒にガンと闘う心持ちとなり、こちらが励まされる。

そこで自分の心境にかえるのだが、年金生活をしながら、思い描いていた生活水準が維持できるのかとか、身体の衰えと病、死を予期する精神的な不安などを考えることが多い。年齢を重ねると幸せの度合いが低くなる可能性は理解できる。だが、老年なるほど幸せを感じるのが欧米人だという。30代を底にU字型に幸福度は上がっていくといわれる。不思議である。なぜだろうか。

このような「幸せ」とか「不幸」ということの捉え方の原点はどこにあるのか、それがこのブログの出発点である。

「幸せとはなにか」を考える その2 不幸だと考える社会は、、

若い世代からみると、高年齢の人の生活水準は高く見えるらしい。一握りの人は、そうかもしれないが大概の高齢者はそんなことはない。友人が飲みながら「あなたは人生の勝ち組だ」といったのが妙にひっかかっている。「どうして?」ときくと、公務員だったので年金がきちんともらえるからだという。公務員といってもピンからキリまである。筆者のように人生を徘徊し遠回りしてきた者の年金額は生活保護費のようなものだ。

調査によると、ある程度の資産を持っている中高年すら幸せを感じられなくなっているようだ。恐らくがむしゃらに働き、もしかしたら趣味を広げるとか、スポーツを楽しむとか、ボランティアをするとか、人脈作りをすることを忘れたせいかもしれない。退職すると特に付き合いというつながりはガクンと減る。中高年が不幸だ、と感じる社会はどこか変だ。

我々はどうしても、周りが豊かで幸せな生活をしているのではないかと感じる。そして「自分は惨めだ」という気分に襲われがちになる。周りの人の生活水準を意識するから不幸感がやってくるのである。クリスマスや正月の時期が最も自殺率が高いのはその現れである。

「幸せ」とか「不幸」ということは一体なにか。物質的な生活とか、友達関係とか、高齢化とか、仕事の安定さとか家族の絆とか、、そうした周りの状況に左右されがちだ、ということは理解できる。だがそれでは本題のテーゼに迫ることが難しいような気がする。


「幸せとはなにか」を考える その1 ”I did it my way.”

恭賀新年。

筆者にも沢山の愛唱歌がある。その一つが「My Way」である。フランク・シナトラ(Frank Sinatra)がよく歌った。作曲者はクロード・フランソワ(Claude Francois)、作詞者は歌手としても知られたポール・アンカ(Paul Anka)である。音楽のジャンルでいうとポピュラー・ソングで、1960年代の後半に風靡した。

歌詞の最初の部分を引用してみる。それを読むと、「人生、悔いなし」(I did it my way)というメッセージが染みいるように伝わってくる。その内容を引き立てているのが、修辞法でいう韻を踏んでいることだ。たとえば、nearとclear、次にcurtainとcertain、highwayとmy way、mentionとexemptionといった具合である。

こうした修辞以上にこの歌を世界中に知らしめているのは、この歌詞から、我々一人ひとりが「生きてきて良かった」といえる生き方をしたいと感じることである。それは「自己実現」とか「達成感」といった感慨を抱ける時がくるかということでもある。

And now, the end is near;
And so I face the final curtain.
My friend, I’ll say it clear,
I’ll state my case, of which I’m certain.

I’ve lived a life that’s full.
I’ve traveled each and ev’ry highway;
And more, much more than this,
I did it my way.

Regrets, I’ve had a few;
But then again, too few to mention.
I did what I had to do
And saw it through without exemption.

I planned each charted course;
Each careful step along the byway,
And more, much more than this,
I did it my way.

以下、「My Way」の作詞者の意図を汲みつつ、筆者の訳を紹介して「幸せとはなにか」の初稿とする。
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さて、今や人生の終わりが近づいている
遠からず人生の終幕を迎える自分だが、
君たちに確信を持っていえることがある

精一杯生きてきたということだ
いろいろな道のりがあったが、
もっと確かな道を歩むことができた

後悔することは山ほどあった
いまさら言うまでもないのだが、
すべきことはやってきた
この目でそれは確かめてきた

いろいろと考え計画してきた
遠回りもしたが慎重に歩んできた、
いろいろな道のりがあったが
もっと確かな道を歩むことができた。

Yatsu2013 Yatsu_11八ッ岳

クリスマス・アドベント その26 Intermission ネットワークとLearning Management System

学校の管理職は、それぞれの部門がどのように機能しているかを把握すること、適切な指示を出すことだ。教員は部門の目標にそって自分が行っていることを報告することが要求される。いわゆる「ほうれんそう」だが、これもグループウェアで実現できる。管理職には実に便利なツールだ。

2000年代になると大学でもグループウェアが頻繁に使われていく。学生と教員との意思の疎通、スケジュール管理、課題や試験の管理、成績管理などに使われるのである。映像、音声、教材コンテンツが遠隔でも利用されるようになった。

筆者も指導する大学院生、学部生との連絡に、そして授業科目のシラバス、受講生との連絡、授業予定、課題の指示と評価にグループウェアが必要だと考えた。

いくつかの汎用のグループウェアに刺激されて、オープンソースも登場する。こうしたソースは通常、Learning Management System, LMS と呼ばれて、いわゆるe-Learningを後押しすることになった。兵庫教育大学では始めてこれを利用した。アメリカとカナダで開発された大学用のグループウェアを購入して使い始めた。院生らとでそのグループウェアの開発会社が主催した集会にも参加し、大学におけるLMSの事例をつぶさに観察した。

LMSの活用はアメリカの大学や教育委員会、そして現場の学校視察から得た知見が役立った。

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クリスマス・アドベント その25 Intermission ネットワークが学校に

米国での話。中位以上の市には教育情報センターがある。教員の研修や講習会、ネットワークの管理や維持、教材開発、他機関や企業からのサンプル教材や教育情報の調査などが主たる業務のようである。学校での利用にふさわしいとあれば、それをリソースセンター(図書館)を通して学校へ提供する。ネットワークが張られるからできることだ。

1980年代後半になると、どの教室にも端末が置かれる。教師も教育委員会からメールアドレスをもらうようになる。こうして教師は、自分の教室で教育委員会や学校長からの連絡はで直接読むことになる。毎日のメールや連絡事項、スケジュールをいやがおうでも読まなければならない時代がやってきたのである。こうしてネットワークにつながるコンピュータが登場すると学校内の連絡網は一変する。

学校の規模が大きくなると、全員が集まって意思の疎通をはかることが困難になる。組織が部門毎に小単位で動くようになる。部門や個人を結びつけ、それぞれがなにを行っているかを把握する仕掛けがグループウェアだ。

校長からの連絡などは、各自のコンピュータ上に流れてくる。教職員のスケジュールを管理する機能も使われる。誰がどこへいつ出張するのか、どのような会議が予定されているのかがわかる。設備備品の貸し出しなどの予約、会議室の予約状況を管理できる。こうした機能は学校全体のスケジュールに連動することが多い。また、会議に参加するメンバーを指定し、必要な書類を登録しておいて各自がそれを持参する仕組みもできる。議事録を保存し欠席した者が過去の会議記録を参照することができる。参照するか否かはわからないが、、、

文書などもいちいちコピーして配るのではなく、各自が画面で確認したりプリントできるなど、校務の効率化を計ることができるようになる。グループウェアは、皆がきちんと毎日目を通したり、書き込みをすることでその役割と機能が増加する。使うことを怠ると組織にも個人にも被害が及ぶ。「知ななかった」とか「連絡を受けていなかった」という言い訳はできなくなる。

やがて個別の指導計画(IEP)作成や指導に関する情報もネットワークで管理されるようになる。

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クリスマス・アドベント その24 Intermission ITと電子黒板

12月21日の産経の記事には驚く。インターネットをはじめ情報通信技術(IT)の開発や普及が進む中、教育現場でもIT活用が広まっているというのである。国は2020年までに、学校に1人1台のタブレット端末の整備を目指しているそうである。それに呼応するかのように、教科書会社などでもさまざまデジタル教材を開発しているときく。

こんな記事を読むと、まるで1990年代に戻ったかのような錯覚にとらわれる。教師側の習熟不足で“宝の持ち腐れ”になるなどの課題が懸念されている。さらに生徒が自分のタブレットを落としたり紛失しやしないか、他のタブレットにアクセスしてデータを書き換えたりしないか、ゲームに夢中になりすぎやしないかという心配である。

コンピュータが学校に導入された頃の話である。ある業者が「学校というところは実に甘い汁を吸えるところだ」といっていた。どうしてかというと、「一旦学校に納入した機器はメインテナンスフリーだ」というのである。機器は使われないので故障もなく、やがて3、4年で機器の更新がやってきてまたいい思いをする、というのである。その例が教室にある電子黒板である。

会計検査院は今年10月、国の補助金で学校に配備された電子黒板のうち、多くが活用されていないとして、文科省に是正を求める意見を求めたそうである。2009年度の補助金で学校に配備した7,838台の電子黒板の活用状況を調査したところ、半数以上の4,215台は毎月の平均利用率が10%未満であるというのである。そのうち1,732台はDVD教材を流すだけなど、電子黒板特有の機能が生かされていなかった。

活用していない理由を教師に聞いたところ、▽「操作方法が難解」17.4%▽「活用のイメージが持てない」12.7%▽「研修などが不足」12.5%など、教師側の習熟不足にかかわる理由が4割以上を占めたという。これは、教師の研修が盛んに叫ばれた1990年代に聞いた話ではないか。

現在、次の学習指導要領の主役として「アクティブ・ラーニング」が取り沙汰されている。「能動的学習」と訳されているようだ。わざわざこのように呼ばなくても「自主的学習」でいいと思うのだが。文科省では「課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習」ということらしい。「能動的学習」は観察や実験を通じて現象を確認し、「自分の考えを図に整理し、それを教師がタブレットPCで撮影し、いくつかの案を電子黒板に映して共有、学級全体の考えを分類し自分の考えと比較する」というのだ。新しいことといえば「タブレットPCで撮影し」くらい。「総合的な学習の時間」は舞台から去るのだろう。

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クリスマス・アドベント その23 Intermission ITとOSの悩み

医療界から教育界に目を向けて情報通信技術:ITの活用を考える。1987年にハイパーカード(HyperCard)という商用アプリケーションが爆発的に市場にでまわり、それが学校にも浸透し始めた。Machintosh上でカードを用い、カードとカードをつなぐリンクとしてはボタンを用いる。カードの上にはボタンの他にテキストや画像を配置することができた。プログラムを記述するにはHyperTalkと呼ばれる言語を用いる。「デスクトップ」、「メニュー」、「ボタン」、「アイコン」などを使うので、操作性に優れ、直感的な操作が可能となった。こうした環境はGUI(グラフィカルユーザインタフェース)と呼ばれた。

HyperCardでは、プログラムを直接記述しなくても教材を作ることができた。こうして、HyperCardはマルチメディアオーサリングツールといわれた。教師も親も簡単な教材が作れたのでHyperCardは一大文化のようなものを形成した。現在のKeynoteやPowerPointを見ていると、27年前に登場したHyperCard以来、進歩してきたとはさぼど思われない。

次から次へと新しいOSが登場し、そのたびにこれまで作成してきた教材が動作するのかはいつも話題となった。懸念したとおりHyperCardで作った教材はOSの変化ですっかりお蔵入りとなっている。IT時代とはいえ、OSとアプリケーションの互換性、そして機器の性能にはいつも悩ませられる。

初等中等教育は特にITの影響を受けやすい。上手に使えることができれば教育効果も高いはずである。だが、絶えず新しいITを追いかける習性があるのか、あるいは教師のIT活用技術が低いせいか、IT機器や教材は使われずじまいとなる傾向がある。
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クリスマス・アドベント その22 Intermission ガン研究とガン治療

以前、このブログで書いたことの続きと回想である。四半世紀以上も前、沖縄へ旅していたとき家内の胸部にしこりが見つかった。急ぎマディソンに戻り、ウィスコンシン大学病院へ入院し診断の数日後手術を受けた。

主治医のDr. George Bryan教授から手術の経過を聞くと、胸の周りにある12のリンパ腺に既にガン細胞が広がっていて全て除去したとのことだった。手術の経過を二人できいた。説明によれば最悪のガンの一つで、術後一年内に死亡するのは50%だという。この数字は全米の大学病院や総合病院をつなぐネットワーク上のデータベースによってわかるというのである。ガンの種類、人種、年齢、治療法などを組み合わせることによって、患者の生存率がわかるということだった。

化学療法(chemotherapy)による抗ガン剤にはたくさんの種類があり、それを組み合わせて治療すること、投与後の患者の様態をみながら薬の配合を変えるなどとのことだった。これを多剤併用療法という。こうした多剤併用による治療の効果は、ネットワーク上のデータベースによってわかるのだという。

一つのエピソードだが、Bryan教授は私が苦学生であることを知っていたので、高い入院や治療費のことを心配してくれ、自分が受ける報酬を返上してくださった。幸い私は家族の保険に入っていたので、診断から治療まで保険でカバーされた。一セントも払わなかった。

ガン研究とガン治療もネットワークのデータベースによって後押しされていることを実感した。33年も前のことである。

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クリスマス・アドベント その21 ”Ave Maria”

教会暦では降誕祭ともいわれるクリスマスは1月6日まで続く。ケーキやサンタクロースで浮かれたクリスマスは店じまいとなり、しめ縄飾りに切り替えるのはどうも節操がないような気がする。

筆者はどんな音楽にもこだわりなく楽しめる性分である。残念ながらというか仕方がないというか、どのような教会の所属するかによって、演奏したり歌ったりする音楽とそうでない音楽がある。カトリック教会から訣別したゆえに、ルーテル教会には決して演奏することのない音楽というか曲がある。「アヴェ・マリア」(ラテン語でAve Maria)という曲がそうだ。カトリック教会もマルチン・ルターが作曲した賛美歌「神はわが櫓」を歌うことはない。

これまでアヴェ・マリアはいろいろな作曲家が作ってきた。カトリック教会ではイエスの母、マリアを聖母として崇めている。アヴェ・マリアはマリアへの祈祷を指す。直訳すると受胎告知されたマリアに対して「恵まれた女よ、おめでとう」と呼びかける言葉である。ルカによる福音書(Gospel of Luke)1章26-38節の記述にある。

グレゴリオ聖歌などのミサ曲にも登場する。その他、祈祷のための教会音楽や祈祷文を歌詞にしたものなどさまざまな楽曲が存在する。16世紀スペインの作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomas Luis de Victoria)やジョヴァンニ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)、19世紀フランスの作曲家グノー(Charles Gounod)、同じく19世紀イタリアのロッシーニ(Gioachino Rossini)など多くの作曲家がアヴェ・マリアを残している。
https://www.youtube.com/watch?v=zDGMJsVzWNg

シューベルト(Franz P. Schubert)の晩年の歌曲「エレンの歌第3番」がアヴェ・マリアとして知られている。この曲はもともと宗教曲ではなかった。だが誰かがこの旋律にアヴェ・マリアの歌詞を付けて曲にしたとされる。このようにラテン語による典礼文を載せて歌うことは現代でもしばしばある。前述のグノーがバッハの「平均律クラヴィーア(Clavier)曲集 第1巻」の「前奏曲 第1番」の旋律にアヴェ・マリアをつけて完成させた声楽曲もそうだ。読者も必ずどこかで聴いたことがあるはずである。なおクラヴィーアとはオルガンを含む鍵盤を有する弦楽器のことである。
https://www.youtube.com/watch?v=mz7-6hC4tUs

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クリスマス・アドベント その20 ”The First Noel”

今日は12月25日。降臨節(Advent)の4週間目、礼拝堂では日曜日の礼拝毎にローソクが1本ずつ増え4本目に点火される。

ChristmasのMasはもともとはMassであり、礼拝とかミサを表す。従ってChristmasは「キリストの礼拝」となる。古事によるとChristmasは、元々12世紀頃の古英語ではCristesmassと綴られていたそうである。

ベブル語(Hebrew)の聖書にはMessiah(メシア、またはメサイア)が登場する。Messiahとは王様とか聖職者を意味する。王様はやがてキリストがMessiah=救世主として崇められるようになる。Messiahは特別に油や香料をそそがれたもの(anointed)、それが「救いをもたらす者」となった。

Christmasは別名、ラテン語(Latin)から派生した誕生(Christ Natalis)ともいわれる。スカンディナビア半島では11世紀頃からChristmasの祝いが始まったとされている。その誕生祝いのことを「Old Norse Jol」と呼んでいた。Scandinavian Peopleという意味だそうである。

時代がくだり、14世紀になると古いフランス語でノエル(Noël、英語ではNoel、または Nael)がChristmasとして使われる。Noelとはもともとは誕生という意味である。18世紀になるとこれが「The First Noel」という讃美歌に登場し世界中で親しまれるようになる。

The first Noel, the angels say
To Bethlehem’s shepherds as they lay.
At midnight watch, when keeping sheep,
The winter wild, the light snow deep.
Noel, Noel, Noel, Noel
Born is the King of Israel. (American version)
https://www.youtube.com/watch?v=ANUV9vD1zg8

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クリスマス・アドベント その19 ”Ave Verum Corpus”

”Ave Verum Corpus”は、アヴェ・ベルム・コルプスという題名がつく。モーツアルト(Wolfgangus Amadeus Mozart)から オーストリアの都市バーデン(Baden)教区教会のオルガニストで聖歌隊指揮者であったマートン・シュトル(Marton Schutol)への贈り物といわれる。シュトルはモーツアルトの崇拝者で、彼の曲を聖歌隊ではしばしば歌っていたといわれる。カトリック教会で用いられる聖体賛美歌といわれるが、

この曲はモテット(Mottetto)といわれる楽曲で、中世からルネッサンスにかけて成立したミサ曲以外の世俗的なポリフォニー(polyphony)といわれる多声部の宗教曲である。モテットとカンタータ(Cantata)の違いだが、モテットは短い曲で器楽が独奏する部分がなく、絶えず伴奏として演奏される。他方カンタータは主題にそって長い演奏が続き、独立した器楽の声部が合唱や朗唱に混じって随所に登場する。

”Ave Verum Corpus”とは「めでたし、乙女マリアより生まれ給いしまことの御身体」という意味である。最初はニ長調で始まり、途中でへ長調、そしてニ短調へと変わり、最後はニ長調へと転調される。たった四行のラテン語の歌詞、しかも46小節という短い曲ではあるが、その旋律は信仰が純化されるような味わいの響きを持つ。

https://www.youtube.com/watch?v=HXjn6srhAlY

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クリスマス・アドベント その18 ”The Twelve Days of Christmas”

この曲のタイトルにある12日間とはクリスマスの12月25日から1月6日までの降誕節のことである。この6日は顕現祭(Epiphany)と呼ばれ、イエス・キリストが神性を人々の前で表したことを記念するキリスト教の祭日を指す。ルーテル教会でも、伝統的にこの日が祝われてきた。すでに取り上げてきたバッハのクリスマス・オラトリオ(Christ Oratorio)の第6部が、この日の讃美の音楽である。

“The Twelve Days of Christmas”は、ヨーロッパに16世紀頃から伝わるクリスマス・キャロルの一つである。1780年にイングランドで作られた詩がもととなり、やがて1909年に民謡であった旋律にイギリスの作曲家フレデリック・オースチン(Frederic Austin)が編曲した。曲の特徴としては、12番までの歌詞が付けられた一種の童謡歌であことだ。一定の韻律をもった2行以上からなる詩の単位(stanza)が歌い上げられ、それと共に1番ごとに累積的な歌詞(cumulative song)となって長くなる。

Cumulative songsはグループで歌うときが多い。韻律によってstanzaは決まっており、歌詞も覚えやすいので子供たちが好んで歌う。

12番のうちの1番、2番、3番だけの歌詞(Lyrics)を紹介しておく。歌詞の最後の部分は、贈り物として捧げる品が増えていくことがわかる。歌詞でいう12日の最初は日は12月25日である。そして1月5日の夜をもって待降節–アドベントクリスマスは終わりとなる。

▼1番 On the first day of Christmas, my true love sent to me
A partridge in a pear tree.

▼2番 On the second day of Christmas my true love sent to me
Two turtle doves and a partridge in a pear tree.

▼3番 On the third day of Christmas, my true love sent to me
Three french hens, two turtle doves and a partridge in a pear tree.

https://www.youtube.com/watch?v=QpinzLXXp14

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クリスマス・アドベント その17 Intermission 医療とデータベース

IT時代になって久しいといわれる。近年のスマートフォンやタブレット端末の普及は子供からお年寄りに及ぶ。電車やバスに乗っていても、歩いていても、はては自転車に乗りながらも画面を見ている。歩行者にも本人にも誠に危うく、はた迷惑で虫酸がでる気分である。

会社から家庭へ、そして個人に行き届いたITであるが、いまだにガラパゴスのような状態は教育や福祉、医療の世界に取り残されたように展開している。筆者もITと教育に関してはかつて苦い思いをしたことがある。

最近、医療機関の間で患者のデータがクラウド化されようと動き始めているようである。過去の病歴、アレルギーの有無、検査結果、診断、手術内容、CTやMRI画像、服用する薬剤などがネットワークを介して医師の手元に届くといった動きである。患者が別の病院に行っても、過去のデータによって診断が正確になり検査や薬の重複もなくなる。結果として検査や治療の時間が短縮され、医療費の軽減につながる。厚生省もクラウド化を推奨している。

毎年同じ病院で定期検査を受けるたびに、また別な病院でも問診票に記入させられるのは砂をかむような気分である。「ゆりかごから墓場まで」というフレーズは一人一人の健康や病気の情報が継承され活用されることを指すのではないか。ITとはこのフレーズを実現してくれるものだと思うのである。ITを使った情報の活用によって、現在のような病院や福祉機関ごとの閉じた医療福祉サービスを繋いで欲しいものだ。

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クリスマス・アドベント その16 グレゴリオ聖歌(Gregorian Chants)

グレゴリオ聖歌は、主に9世紀から10世紀にかけて、西ヨーロッパから東ヨーロッパで発展し、受け継がれてきた宗教音楽である。ローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I)が編さんしたことからグレゴリオ聖歌といわれる。

もともと西方教会における単旋律聖歌(plain chants)を軸とする無伴奏の宗教音楽である。聖歌は伝統的には男声に限られ、元来はミサや聖書日課の祈りにおいては、
僧侶など聖職者によって歌われていた。

歴史的には修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は唱えられてきた。ローマカトリック教会の公式な聖歌として、典礼(litergy)に基づくミサや会堂(カテドラル)の中で録画されたグレゴリオ聖歌がよく知られている。

聖歌は通常、斉唱(unison)で歌われたが、やがて聖歌に歌詞や音を追加したり即興的にオクターブである8度音程、5度、4度、3度の和声を重ねる技法が使われるようになった。メロディの中心は朗誦音(リサイティング・トーン: reciting tone)と呼ばれる。

通常、ミサでは次の6つの聖歌が歌われる。キリエ(Kyrie)、グロリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトゥス(Sanctus)、ベネディクトゥス(Benedictus)、およびアニュス・デイ(Agnus Dei)はどのミサでも同じテキストを使用する。

キリエ(憐れみの賛歌)は「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)の三唱、「クリステ・エレイソン」(キリストよ、憐れみたまえ)の三唱、再度「キリエ・エレイソン」の三唱からなる。グロリア(栄光の賛歌)は大栄頌を唱えるもので、クレド(信条告白)はニケア信条(Nicene Creed)を唱える。これらの典礼文は長い。そのため聖歌では歌詞の切れ目に対応した構造をもっている。

サンクトゥス(聖なるかな)とアニュス・デイ(神の子羊)は、キリエと同様、典礼文に繰り返しが多く、音楽的にも繰り返し構造をとるものとなっている。
https://www.youtube.com/watch?v=Lljfmr8pHpE

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クリスマス・アドベント その15 ”O come, O come, Emmanuel”

紀元前586年頃、古代イスラエルの民にバビロン(Babylon)幽囚が始やってくる。首都エルサレム(Jerusalem)がネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって占領されたためである。バビロンはメソポタミア(Mesopotamia)地方の古代都市であった。やがて故国に帰れるというユダヤ人の希望は幻となり、50年に渡ってバビロニアに居住する苦しみを強いられた。それゆえに「救い主(メサイア)Messiah」待望の信仰が生まれた。旧約聖書のイザヤ書第7章14節には次のような預言がある。

“見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ぶ。”
Behold, the virgin shall conceive and bear a son, and shall call his name Immanuel.
Immanuelとは「主がともにいる」という意味である。”bear a son” は”give birth to a son”ともいえる。

この讃美歌は、「久しく待ちにし主よとく来たりて」として訳されている。元々8世紀のラテン語聖歌である。7つの詩から成っていた。夕礼拝や祈り会のときに交互に歌うしきたりであった。その後13世紀になると5つの詩が加えられた。1851年に讃美歌の作詞者であるジョン・ニール(John M. Neale)がラテン語歌詞を英訳した。

捕囚の中に光を求める讃美歌であり、救い主を待ち望む歌でもある。このように原曲が中世のグレゴリオ聖歌(Gregorian chant)であるためか、旋律も和声も静かで厳かな雰囲気を醸し出している。単旋律でも、編曲されて合唱としても歌われている。
https://www.youtube.com/watch?v=7xtpJ4Q_Q-4

O come, O come, Emmanuel
And ransom captive Israel
That mourns in lonely exile here
Until the Son of God appear
Rejoice! Rejoice! Emmanuel
Shall come to thee, O Israel.

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アドベント・クリスマス その14 ”Lo, How a Rose E’er Blooming”

日本語題名は「エッサイの根より」と付けられている賛美歌である。古くからカトリック教会で歌われた。詩も曲も15世紀頃からドイツのライン(Rhine)地方に伝わるキャロルがもとになっている。もともとは、23節から成るマリア賛歌であった。 待降節の期間に歌われる。

古代イスラエル(Ancient Israel)王国第2代王ダビデ(David)の父がエッサイ(Jesse)とわれる。その出典箇所は有名な預言書イザヤ書である。この11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」とある。ユダ族のダビデの子孫からキリストが出ることを教えている。そのことはマタイによる福音書(Gospel of Matthew)の冒頭には「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」が書かれてある。キリストの系図がダビデを通じエッサイに由来することを語っている。

時代は下り19世紀以降、プロテスタントの歌集に収録されるようになった。二番目の歌詞ではマリヤから幼児イエスが生まれることに置き換えられている。ドイツから英米にも伝わり世界的なアドベントの歌になった。

歌詞の冒頭にある”Lo”は古英語で「見よ」といった驚きを表す単語である。”Behold”という単語にあたる。
———————————————-
エッサイの根より 生いいでたる、
預言によりて 伝えられし
薔薇は咲きぬ。
静かに寒き 冬の夜に。

Lo, how a Rose e’er blooming from tender stem hath sprung!
Of Jesse’s lineage coming, as men of old have sung.
It came, a floweret bright, amid the cold of winter,
When half spent was the night.

Isaiah ‘twas foretold it, the Rose I have in mind;
Mary we behold it, the Virgin Mother kind.
To show God’s love aright, she bore to us a Savior,
When half spent was the night.

アドベント・クリスマス その13 ”O Tannenbaum”

アドベントリース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われることを既に述べてきた。樅の木は冬のさなかでも緑色を保つマツ科。それ故”Christmas Tree”とも呼ばれる。だが樅の木はドイツ語での響きがもっとよいような心持ちがする。”Tannenbaum”がそうである。

クリスマス・キャロルの一つで世界中で歌われる曲にO Tannenbaumがある。現在の歌詞はライプチッヒ(Leipzig)のオルガン奏者で教師、そして作曲家であったアーネスト・アンシュッツ(Ernest Anschutz)が1824年に付けたといわれる。

この歌詞をみると曲は必ずしも来る済ますや飾りがつけられたクリスマスの木のことを歌っているのではないことがわかる。だがマツ科の常緑樹は不偏さとか信仰ということのシンボルと謂われている。

アンシュッツが書き下ろした歌詞は16世紀のシレジア(Silesian)民謡からの哀しい恋の曲が元となっている。シレジアとは今のドイツ、ポーランド、チェコのあたりを指す地域である。メルクワイア・フランク(Melchoir Frank)という人が歌った”Ach Tannenbaum”という曲に依拠している。ヤヒム・ザーナック(Joachim Zarnack)が1819年に、信仰心に欠けた恋人と信仰に溢れるような常緑樹と対比させた。

19世紀になると待降節にはクリスマスの木が飾られるようになる。そしてクリスマス・キャロルも作曲され歌われていく。アンシュッツの歌詞にある”treu”とは信仰深いという意味である。歌詞の二番目は “treu” が “grun”(緑)となっている。20世紀になってこの歌がクリスマス・キャロルとして歌われるとともに変わっていったようである。

O Tannenbaum, o Tannenbaum,
wie treu sind deine Bl?tter!
Du gr?nst nicht nur
zur Sommerzeit,
Nein auch im Winter, wenn es schneit.
O Tannenbaum, o Tannenbaum,
wie treu sind deine Bl?tter!
https://www.youtube.com/watch?v=IrFqDzPPGE8

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クリスマス・アドベント その12 ”O Holy Night”

作曲者はアドルフ・アダン(Adolphe C. Adam)というフランス人である。1800年の中盤に活躍し多くの曲を作ったといわれる。中でもこの”O Holy Night” (Cantique de Noel–クリスマス賛歌)というクリスマス・キャロルは特に知られている。当時、この曲はラジオで放送され広く人々に口ずさまれるようになったという。アダンはバレー音楽(ballet)であるジゼル(Giselle)をはじめ39ものオペラも作曲した。

“O Holy Night”であるが、作曲は1847年。フランス南部の街、Roquemaureにある教会のオルガンが修復され、その祝いとして教区の司祭が詩人プラシド・カポー(Placide Cappeau)にクリスマスの詩を依頼した。カポーは”Midnight, Christians”という題を付け、それにアダンが旋律をつけたのである。

その後、”O Holy Night”はソプラノやテノールで歌われることが多くなった。それは当時、ユニテリアン教会の牧師であったジョン・ドワイト(John S. Dwight)がカポーの原詩”Cantique de Noel”をもとにして、フランス語と英語でイエスの誕生と救いについて親しみのある歌詞をつけたからだといわれる。

曲は静かな音程で始まり、やがて次第に興奮が高まるような音階となり、最後は極めて高い音階で歌われ誕生劇が”聖なる夜かな”という歌詞と共に最高潮に達する。荘厳な曲でもある。”Divine”とは厳粛な、厳かな、神々しい、という意味で使われる。

この曲は多くの人気歌手によって歌われている。例えばマライア・キャリ(Mariah Carey)、ビング・クロスビ(Bing Crosby)、ホットニ・ヒューストン(Whitney Houston)、マハリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)である。

O holy night! The stars are brightly shining,
It is the night of our dear Saviour’s birth.
Long lay the world in sin and error pining,
‘Til He appear’d and the soul felt its worth.
A thrill of hope the weary world rejoices,
For yonder breaks a new and glorious morn.
Fall on your knees! O hear the angel voices!
O night divine, O night when Christ was born;
O night divine, O night, O night Divine.

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クリススマス・アドベント その11  “Little Drummer Boy”

「誕生」はすべての人にとって喜ばしい時。老いも若きもその時を祝う。数あるクリスマスの歌には古く伝統的なものから現代的(contempolary)なものまでいろいろとある。今回、紹介するのは一人の少年が太鼓を叩きながら、イエスの誕生の喜びに加わるという曲である。「The Little Drummer Boy」という。別名は「Carol of the Drum」。

作曲したのはキャサリン・デーヴィス(Katherine Davis)。作曲家であり教師であった。作られたのは1941年。曲の由来はチェコスロバキア(Czechoslovakia)に伝わる古い民謡である。1950年代、この曲を収録したレコードはアメリカで大ヒットしたそうだ。歌詞の内容は次のようなものだ。

”さあ行こう。一人の王様が生まれたぞ”と大人が僕に声をかけた。
”大切な贈り物をこの王様のところに届けよう。”

だが、僕はお金がないので、なにも持っていくものがない。

”マリアさん、お祝いとしてこの太鼓を叩いていいですか。”

マリアさんは優しく頷いてくださった。牛や羊はじっとしていた。
僕は一生懸命、赤ちゃんのために太鼓を叩いた。
タタタッタ、タタタッタ、、、、
赤ちゃんは僕と太鼓に微笑んでくれた。

Little Drummer Boy

Come they told me pa ra pa pam pam
a newborn King to see pa ra” pa pam pam
Our finest gifts we bring pa ra pa pam pam
to lay before the King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
So to honor him pa ra pa pam pam when we come
Little baby pa ra pa pam pam
I am a poor boy too pa ra pa pam pam
I have no gift to bring pa ra pa pam pam
that’s fit to give our King pa ra pa pam pam
Ra pa pam pam ra pa pam pam
Shall I play for you pa ra pa pam pam on my drum
Marry nodded pa ra pa pam pam
the ox and lamb kept time pa ra pa pam pam
I played my drum for him pa ra pa pam pam
I played my best for him ra pa pam pam
Then he smiled at me pa ra pa pam pam me and my drum

https://www.youtube.com/watch?v=qJ_MGWio-vc

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クリスマス・アドベント その10 ”Jesu, Joy of Man’s Desiring”

前回紹介したカンタータ第147番のことである。我が国では、「主よ、人の望みの喜びよ」”Jesu, joy of man’s desiring”として知られている。バッハ(Johann Sebastian Bach)がオーケストラを伴った合唱楽章、いわゆるカンタータ(Cantata, Kantate)として作曲したものである。Cantataとは「歌われるもの」ということのようだ。バッハは、教会の毎週の礼拝のために通奏低音による声楽作品を作曲していた。通奏低音は、バロック音楽において行われる伴奏の形式で、楽譜上では低音部の旋律のみが示され、奏者はそれに適切な和音を付けて演奏する。オルガン、チェンバロなどの鍵盤楽器やチェロ、コントラバスの弦楽器が使われる。

“Jesu, joy of man’s desiring”は1723年7月の礼拝のために作られたという。いわゆるコラール(Choral)である。その後、このコラールは同じく第147番の「心と口と行いと生きざまもて」の中で取り入れられる。18世紀前半のドイツでは、コラールを取り入れたものが、一般に「教会カンタータ」と呼ばれる。その後は、小編成の器楽で演奏される「世俗カンタータ」が数多く作曲されている。例えばカンタータ第211番の「珈琲カンタータ」(BWV 211)もそうだ。

ルカによる福音書1章26節〜38節に処女懐胎の記述がある。懐妊を告げられたマリア(Mary)が親戚のエリサベト(Elisabeth)を訪ねたことを記念する「マリア訪問の日」といわれる喜ばしい雰囲気に満ちた祝日がある。そのとき、ルカによるとマリアが「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」と訊くマリアに対して、天使が「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう」と言って去って行く。これがマリアの讃歌、マニフィカト(Magnificat)である。

この教会カンタータ第147番は全部で10曲から成り、その6番目の曲のコラール(合唱)が”Jesu, joy of man’s desiring”である。誠にもって心に染み入るメロディである。

Jesu, joy of man’s desiring,
Holy Wisdom, Love most bright;
Drawn by Thee, our souls aspiring
Soar to uncreated light.
Word of God, our flesh that fashioned,
With the fire of life impassioned,
Striving still to truth unknown,
Soaring, dying round Thy throne.

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クリスマス・アドベント その9 カンタータ第147番

カンタータ(Cantata)第147番はバッハの作品でBWV147という目録番号がつけられている。「心と口と行いと生きざまもて(Herz und Mund und Tat und Leben)」と訳されている。前回の第140番と並んで人々に知られる教会カンタータである。この曲を広く知らしめているのが「主よ、人の望みの喜びよ」の名で親しまれているコラール(Coral)で、ドイツ語では”Jesus bleibet meine Freude”という曲名となっている。

カンタータ第147番は、新約聖書ルカによる福音書(Gospel of Luke) 1章46〜55節に依拠している。礼拝での聖書日課は「マリアのエリザベート訪問の祝日」となっていて、マリアが神を賛美した詩「マニフィカト(Magnificat)」が朗読される。マニフィカトとは、聖歌の一つ、「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主なる神を讃える」という詩である。全部で10曲から構成されるカンタータ第147番の一部を紹介する。

冒頭の合唱は、”Herz und Mund und Tat und Leben”というトランペットが吹かれる快活な曲で気持ちの良い合唱フーガ(Fuga)である。フーガとは対立法という手法を中心とする楽曲である。同じ旋律(主唱)が複数の声部によって順々に現れる。この時、5度下げたり、4度上げて歌う。これを応唱ともいう。少し遅れて応唱と共に別の旋律が演奏される。これを対唱と呼ぶ。

次のレシタティーヴォも、オーボエなど弦楽合奏を伴うしみじみした響きで演奏される。第3曲のアリアは、オーボエ・ダモーレ(oboe d’amore)というオーボエとイングリッシュホルンに似た楽器の伴奏がつく。少々暗い響きだが雰囲気が醸し出される。これにバスのレシタティーヴォが続く。第5曲のアリアは、独奏ヴァイオリンの美しさが際立つ。ソプラノの響きも美しい。

そして第6曲がご存知、「主よ、人の望みの喜びよ」のコラール。英語では「Jesus, Joy of Man’s Desiring」。いつ何度聞いても慰められる名高い曲である。今、ウィスコンシンの北部の街Stevens Pointで、脳腫瘍を煩い化学療法を受けている親友である牧師にこの曲を捧げつつ、快復を祈っている。

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クリスマス・アドベント その8 カンタータ第140番

カンタータ(Cantata)第140番は「コラール・カンタータ」(BWV140)と呼ばれる楽曲によっている。カンタータの基礎となっているのは合唱、コラール(Choral)である。教会暦によると、聖霊降臨の1週間後は三位一体節と呼ばれる。教会では、全ての日曜日礼拝には拝読される福音書の章句が決められている。三位一体節から数えて第27日曜日の福音書聖句が、マタイによる福音書(Gospel of Matthew)25章1節から13節となっている。この箇所では、花婿の到着を待つ花嫁の譬えを用いて、神の国の到来への備えを説く。それをふまえ真夜中に物見らの声に先導されたイエスの到着、待ちこがれる魂との喜ばしい婚姻へと至る情景を描いている。

カンタータ140番は「目覚めよと呼ぶ声あり」英語では”Wake, Arise,” ドイツ語では”Wachet auf, ruft uns die Stimme”として知られる名高い曲である。カンタータに配置される独唱はレシタティーヴォ(recitative)といわれる。レシタティーヴォは前回少し説明したが、概して大規模な組曲形式の作品の中に現れる歌唱様式である。叙唱、朗唱とも呼ばれる。楽器はホルンの他、木管と弦楽器、そしてチェンバロが使われる。

バッハは三位一体節後第27主日の礼拝に合わせてカンタータ140番を作曲したといわる。カンタータ140番は次の7曲から構成されている。

・第1曲 コラール  目覚めよと呼ぶ声あり
弦楽器とオーボエが付点リズムでもって演奏され、それに行進曲風の合唱が続く。晴れやかな喜びに満ちた曲である。
・第2曲 レチタティーヴォ 彼は来る、まことに来る
イエスの姿を伝えるテノールの語りかける場面となっている。
・第3曲 二重唱  いつ来ますや
わが救いの魂(ソプラノ)とイエス(バス)の間で交わされる愛の二重唱。
・第4曲 コラール  シオンは物見らの歌うの聞けり
テノールの歌うコラールは、ユニゾンの弦が晴れやかな落ち着きのある有名な曲である。物見の呼び声が夜のしじまを破って響く冒頭の合唱曲とシオンの娘の喜びを歌うテノールのこの曲は特に名高い。
・第5曲 レチタティーヴォ
さらばわがもとへ入れといって花嫁が登場する。
・第6曲 二重唱  わが愛するものはわが属となれり
再び魂とイエスとの二重唱となる。
・第7曲 コラール  グローリアの頌め歌、汝に上がれ
簡潔ながら力強い4声部によるコラールで終わる。

筆者がカンタータ140番を歌ったのはマディソンにいた頃のルーテル教会である。聖歌隊員はみな音感も良く声量があった。オルガンの音も会堂に響き心地よい時であった。バッハの音楽は世界の宝だと思えるのである。

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クリスマス・アドベント その7 クリスマス・オラトリオ

古今、幾多の曲が作られてきた。特にクリスマスは宗教的でも世俗的でも目出度い出来事なので曲の種類も多い。これから数回にわたりアドベントやクリスマスを祝う音楽を紹介する。

「クリスマス・オラトリオ(Christmas Oratorio)」は特に演奏される曲である。この作品はヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が作曲したものだ。ルカによる福音書2章10節〜11節、マタイによる福音書2章1節〜2節にある聖句を基としている。あまりにも有名な曲である。

オラトリオとは、17世紀にイタリアで起こった楽曲といわれる。バロック(baroque)音楽を代表するものである。バロックとはイタリアで起こった芸術文化といわれる。バロック音楽もその一環であり、ローマカトリック教会の音楽といわれる。

オラトリオはオペラ(opera)と較べると分かりやすい。演技を伴うことはなく、また台詞もない。大きな装置も使わない。独唱、合唱、そしてオーケストラによる演奏である。新約聖書を台本としているので、歌詞は聖句が使われる。オラトリオは大規模なミュージカルのような楽曲ともいえる。叙唱とか重唱はレシタティーヴォ(recitatives)と呼ばれる。個人的な感情とか状況を描写する歌唱様式といわれる。レシタティーヴォだが、通奏低音という伴奏では、オルガン、リュート、チェンバロ、オーボエ、チェロなどが使われる。オラトリオは礼拝や典礼では使われるのではなく、教会堂やコンサートホールでの演奏が普通である。

クリスマス・オラトリオは全部で64曲からなるカンタータ集(cantate)である。17世紀後半にイタリアで作曲された「レシタティーヴォと詠唱アリア(aria)からなる通奏低音のための歌曲」がカンタータといわれる。18世紀になると、主にドイツではコラール(choral)を取り入れた「教会カンタータ」とか器楽を伴った世俗的なカンターが作られるようになる。

バッハはオラトリオを3曲作っている。その1つはがクリスマス・オラトリオである。12月25日のクリスマスから1月6日の顕現節(Epiphany)までの祝日のために作曲したといわれる。64曲の最初の曲は「歓びの声をあげよ」という合唱付きのオーケストラである。

バッハの作品には番号がつけられている。クリスマス・オラトリオは 「BWV(Bach Werke Verzeichnis)248」となっている。残る2つは復活祭のための「復活祭オラトリオ(Easter Oratorio)」BWV249と昇天祭のための「昇天祭オラトリオ(Ascension Oratorio)」BWV11である。ついでだがモーツァルト(Wolfgang A. Mozart)の作品番号にはKoechelが使われている。

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クリスマス・アドベント その6 Intermission  ロゴスと言葉

いくら世界中の人々がクリスマスを祝うといえど、聖霊によるマリアへの受胎告知やイエスの誕生に納得できない人々がいるはずである。その後のキリストの受難と昇天、そして復活もそうであろう。キリスト教徒でない人々の中には聖書の中味を、「作り話」、「ファンタジ」、「空想」として捉えるから、受胎告知や復活といった奇跡にさしたる抵抗は感じない。だからクリスマスも、わだかまりもなく子供や家族と楽しむことができる。今回はその先のことを考えたいのである。

復活とか蘇りという出来事は、考えてみれば宗教の世界で通用する現象である。キリスト教徒は、そうした「出来事」にかつては困惑したり懐疑したことはあったにせよ、それを「吹っ切って」洗礼を受け信徒になったのである。こうした転機は奇跡といえることかもしれない。

「人知では到底計り知れない」ことは世の中にはいくらでもある。高い教育を受け、自然科学に触れ、進化論を知ったにせよ、こうした宗教上の現象は、この世界とは次元の越えた現象として受け容れるのである。そこには吹っ切れたという個人的な省察のような体験があったからだろうと察するほかはないのである。恐らく当人もこの内的な決断を言葉では説明できないだろう。理性には限界があるということでもある。

人の使う言葉には限界がある。愛するものの死に接したとき、哀しみを表現する言葉が浮かばない。どんな慰めの言葉も癒しにならない時がある。人間の言葉とはそいうものなのだ。語いが足りないではすまない。あまりにも表層過ぎるのである。

ヨハネによる福音書1章1節に「始めにことばありき」という章句がある。ここでの言葉は神のことばーロゴス(logos)ということである。この世界の根源として神が存在するという意味とされる。「ロゴスは世界の根幹となる概念であり、世界を定める理」とEncyclopaedia Britannicaにある。

幸いにして我々は死の哀しみの淵から立ち上がることができる。「世界を定める理」にある与えられた命を感じ、支えられていることを経験し、生きることの価値を「我と汝」との関係に見いだすことができる存在だからである。

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クリスマス・アドベント その5 クリスマスの謂われ

クリスマス(Christmas)は、ChristとMassの連語である。「キリストの誕生を祝うミサ礼拝」ということである。クリスマスの歴史は比較的新しい。

さてクリスマスの謂われであるが、もともと”Yule time”と呼ばれ、特にゲルマン(Germanic)の”jul”やアングロサクソン(Anglo Saxson)の”geol”からきたのだという。YuleとかYuletide(Yule time)というのは冬至の日を意味した。最も昼の時間が短い冬至。昔、冬至がくると人々はその日を祝うのが習慣だったようである。ヨーロッパの人にとっては日がだんだん長くなることを待望して祝ったのである。Encyclopaedia Britannicaによれば、Yuleは非宗教的な祭りだったのがいつのまにかChristmasに吸収されていったとある。

北欧のスウェーデン、デンマーク、ノールウエイでいまもクリスマスをYuleと呼ぶ。フィンランドはJouluと呼ぶ。クリスマスを意味するYuletideという英単語のことである。”tide”とは期間とか時間という意味である。Yuletideは12月24日から1月6日までの期間を指す。クリスマスの期間ということを指す。だがこのYuleは今は古英語になってしまった。冬至は英語でWinter Solsticeと呼ばれる。

ラテン語で誕生は”natalis”である。クリスマスを意味する言葉だが、このラテン語からクリスマスの言葉が生まれた。イタリア語はNatale、スペイン語はNavidad、フランス語はノエル(Noel)である。そしてドイツ語はWeihnachtenである。Weihは”聖なるかな”、そしてnachtenは”夜”という意味である。”Heilige Nacht”も同じ意味である。

クリスマスとは世俗的な祝いや祭りから発生したことをいいたかった。
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クリスマス・アドベント その4 イザヤ書とイマヌエル

さてイザヤ書(The Book of Isaiah)は、預言者イザヤ(Isaiah)の名によって残される旧約聖書中最大の書である。その成立は複数の者によるとされ,内容からみて2部に分けられる。

第1部1〜39章は、紀元前8世紀頃おもに預言者イザヤによって書かれたとされる。主の懲らしめと裁きが中心に描かれている。40章で「慰めよ。慰めよ」という言葉がある。40章から66章は、慰めと回復のメッセージといわれる。具体的には、ユダ(Judea)とエルサレム(Jerusalem)に対するメッセージとなる。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には赦され救われるという展開になっている。

北イスラエル王国(Northeran Israel)はアッシリア(Assyria)の攻撃を目前に控えていただけでなく、南ユダ王国(South Judea)も崩壊するのは時間の問題だった。そうした緊迫した情勢を背景に、イスラエル(Israel)の民の多くは一国も早く国大へ脱出することを望んでいた。アッシリア帝国による侵略の脅威に曝される中、神のみ告を信じていた。

イザヤは「神が我らとともにおられる」を意味するイマヌエル(Emmanuel)という言葉で語る。イマヌエルとは驚くべき指導者、力ある神の象徴でありイスラエルが救われて平和の道を歩むことができると説かれる。

イザヤは、「救いは主のもの」、あるいは「ヤハウェ(Yahweh、Jehovah)は救いなり」という意味とされる。人間が救われるのは、人からでも行いからでも富からでもなく、主からなのだ、ということを最初から最後に至るまで一貫して教えている。イザヤ書は読み応えのある重たい内容である。

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クリスマス・アドベント その3 ユダヤ教とタルムード

筆者のロータリークラブ(Rotary International Club)奨学金のスポンサーにロバート・ジェイコブ(Dr. Robert Jacob)という医師がいる。日本語読みではさしずめヤコブ氏となろう。今もミルウオーキーの郊外で開業している。専門は脚の整形外科。熱心なユダヤ教徒でもある。いつも住まいの側にある会堂シナゴーグ(synagogue)で長老として活躍されている。

これまでご子息らの成人の儀式、バー・ミツヴァ(Bar Mitzvah)の案内、9月には新年ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashana)の祝いを頂戴している。一度、ジェイコブ氏に連れられてシナゴーグを見学させていただいたことがある。シナゴーグとはユダヤ教の聖堂のことである。キリスト教の教会の前身といえる。礼拝はもちろん祈りの場であり、結婚や教育の場、さらに文化行事などを行うユダヤ人コミュニティの中心的存在である。もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であった。会堂に入るときは、男子はキッパ(kippa)とかヤマカ(yarmulke)と呼ばれる帽子を頭に載せる。

ユダヤ教徒はタルムード(Talmud)と呼ばれる教典を学び行動するように教えられる。タルムードは生活や信仰の基となっている。家庭では父親の存在が重要とされる。率先して子供に勉強させタルムードなどを教える。子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。筆者がシナゴーグに案内されていたとき、成人のタルムード勉強会が開かれていた。

ユダヤ教では、イエスキリストや聖霊に神性を認めない。であるからイエスは信仰対象ではない。クリスマスという概念もない。ユダヤ教でいう聖書は旧約聖書のことである。キリスト教では人類の救いを告げる聖書は旧約と新約聖書となる。

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クリスマス・アドベント その2 樅の木

アドベントリース(Advent wreath)には樅の木の枝が使われる。しなやかなので丸いリースを作りやすい。樅の木は、「Christmas Tree」とも呼ばれる。クリスマスのデコレーションに使う木である。有名なのは、ニューヨーク市のロックフェラーセンター(Rockefeller Center)前に立てられものだ。毎年その点火がニュースとなる。今年は本日12月3日に点火式が開かれるという。このセンター前の広場ではさまざまな催し物が演じれる。

樅の木に戻る。この常緑樹は強い生命力の象徴とされる。また「知恵の樹」とも呼ばれる。沢山の種類の飾り物がとりつけられる。子供たちの楽しみでもある。もともとはリンゴとかナッツなどの食べ物が枝にくくられたそうだ。そしてろうそくとなり今は豆電球で飾られる。ベツレヘムの星(Bethlehem)やガブリエルの天使(Gabriel)の飾りも目立つ。

樅の木がクリスマスの木として使われるようになったのは15世紀頃といわれる。ドイツ、Selestatにある St. George’s Churchがその起源とか。ブリタニカ百科事典(Encyclopedia Britannica)によると, 樅の木は常緑樹(evergreen trees)として、エジプト人や中国人、ヘブル人などが永遠の命を象徴する木として崇めていた。こうした信仰はヨーロッパの非キリスト教徒(pagan)らにも広まり、やがてスカンジナビアや西ヨーロッパに広まり、家々や納屋に立てられた樅の木は魔除けとしても、また鳥の止まり木としても飾られるようになったという。

樅の木の代わりに”Paradise Tree”という常緑樹もクリスマスでは飾られたといわれる。中世のミステリ劇に登場する。それによると12月24日はアダムとイブ(Adam & Eva)と命名された日として祝われる。そこに飾られる木には禁断の実とされたリンゴが供えられた。さらに、種なしの薄焼きパンーワッフル(wafer)も付けられた。ワッフルには聖餐(Eucharist)とか贖罪、救済(Redemption)の意味があった。

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