アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その82 少数政党と改革の時代

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 この時代、理念政治は大政党ではなく、小政党によって代表されました。反メーソン党(Anti-Mason Party) は、権力者の陰謀とされるものを一掃することを目的としていました。労働者党(Workingmen’s Party)は、「社会正義」を唱えました。ロコフォコ党(Locofocos) は民主党の分派で、1835年から1840年代にあった党です。内外の独占主義者を糾弾し、敵対勢力によって暗くなった会場で最初の会合を開いたときに使ったマッチにちなんで名付けられたといわれます。

 様々な名前の民族主義政党は、群小政党とよばれます。こうした小政党は、異口同音にローマ・カトリック教会のあらゆる悪事を告発し、自由党は、奴隷制の拡大に反対します。これらの政党は、本来の有権者に加え、多くの有権者を惹きつけるような幅広いアピールをすることができなかったため、どれもはかないものとなりました。

 民主党とホイッグ党は、その日和見主義にもかかわらず、また日和見主義であるがゆえに、アメリカの有権者の現実的な精神をよく反映して繁栄して、1828年結成の民主党と1854年結成の共和党となっています。結党当初は民主党が保守派、共和党が進歩派に位置付けられていましたが、20世紀始めに逆転しています。

 1830年から1850年にかけての時代を歴史家は「改革の時代」と呼びました。ドルの追求が熱狂的になり、それを国の真の宗教と呼ぶ人もいた時代です。何万人ものアメリカ人が精神的、世俗的な向上を目指す様々な運動に参加していきました。なぜ、前世紀末に改革運動が起こったのかについては、まだ意見が一致していません。プロテスタント福音主義の暴走、イギリスやアメリカ社会全体を覆う改革精神、啓蒙主義の完璧主義的な教えに対する遅れ、19世紀の資本主義の特徴である世界的な通信革命など、いくつかの説明が挙げられますが、いずれも決定的なものではないようです。

 女性の権利、平和主義、禁酒、刑務所改革、借金による投獄の廃止、死刑廃止、労働者階級の待遇改善、国民皆教育制度、私有財産を捨てた共同体の組織化、精神異常者や先天性障害者の待遇改善、個人の再生などが、この時代の熱狂的な人々を刺激するさまざまな改革運動を北アメリカで同時に盛んにした原因でありました。

 アメリカ人の生活で注目すべきことは、経済的な飢餓と精神的な努力の組み合わせということです。どちらも、未来はコントロールし、改善することができるという確信の上に成り立っていたことです。辺境での生活は過酷だったはずですが、人間が置かれた状態は必ず良い方向に変化するという強い信念があったことです。かつてカルヴァン主義が予言したように、神の意思を個人の意思や行動で左右することはできなく、無条件で救われるという確信です。

 フリーメイソン(Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に結成された友愛結社で「全人類の兄弟愛という理想の実現」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的とすると謳っています。後のロータリークラブ(Rotary Club)やライオンズクラブ(Lion’s Club)の前身といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その81 主要な政党の結成

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この時代の大政党は、手段ではなく人の勝利を得るために作られたといえます。政党が誕生すると、その指導者たちは当然ながら、有権者に理念の優先を納得させようとしました。しかし、国内改善や国立銀行などの問題で対立していた人々がジャクソンの後ろで団結していきます。同時に、時間の経過とともに、各政党はそれぞれ特徴的で対立する政治的な政策と結びつけるようになっていきます。

 1840年代になると、ホイッグ(Whig)とヘンリー・クレイ (Henry Clay)らの人民共和党の下院議員は、対立する者として結集し投票するようになりました。ホイッグスは弱い行政府、新しい合衆国銀行、高い関税、州への土地収入の分配、恐慌の影響を緩和するための救済法、連邦議会の議席再配分などに賛成し、民主党は反対しました。民主党は独立国庫、積極的な外交政策、拡張主義を承認します。これらの問題は、議会で主要政党を二分したように、有権者を二分しうる重要な課題でありました。

 確かに、ジャクソン派が、アフリカ系アメリカ人や奴隷廃止論者に対して懲罰的な措置をとったり、アメリカ先住民の権利を保護する条約を無視して南部のインディアン部族を追放したり、その他の強硬な手段をとろうとしたりしました。しかし、こうした政策上の違いは、民主党とホイッグがイデオロギー的に分裂し、前者だけが無産者の利益を何とか代弁しているということではありませんでした。

 1828年の高率関税に対するサウスカロライナの激しい反対運動で勃発した危機によって、これまでの党派は簡単に崩壊していきました。ジャクソンは、ジョン・カルフーン(John Calhoun)の州が関税などの連邦法を無効化政策する権利については断固反対し、民主党内外で広く支持されていました。この危機に対する「偉大な仲介者」かつ「偉大な調停者」と呼ばれ、ホイッグ党の創設者かつ指導者であったヘンリー・クレイの解決策である妥協関税は、ジャクソンとのイデオロギーの対立ではなく、クレイの調停能力、戦術的な巧みさが功を奏したといわれました。

 ジャクソン派は、第二合衆国銀行との戦いを、西部、債務者農民、貧しい人々一般を抑圧する貴族の怪物との戦いとして考えていました。1832年のジャクソンの大統領再選は、銀行戦争に関する民主党の解釈に民衆が同意したことの表れと理解されました。第二銀行については、多くの西部人、多くの農民、そして民主党の政治家でさえ、主にジャクソンの怒りを買わないために反対したことを認めていましました。

 大きな政府を望まないジャクソンは、かつて政府が設けた第二合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして、これを敵視し、自らの政治生命をかけて廃止に動くのです。ジャクソンは連邦議会が認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動し、それに対して議会は反発します。結局拒否権を覆すのに必要な三分の二の票を反ジャクソン派は確保できず、第二合衆国銀行は連邦の保証を失い破産に追い込まれます。

 どの国も中央銀行の存在は大きいです。アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)とは日本銀行にあたります。金融政策や準備金であるフェデラル・ファンド(Federal Funds-FF)の金利誘導目標を決定しています。連邦準備銀行に預け入れる無利息の準備金が不足している銀行が、余剰の出ている銀行に無担保で資金を借りるときに適用される金利を指します。欧州中央銀行はユーロ圏17カ国の中央銀行のことです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その80 アンドリュ・ジャクソン

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アンドリュ・ジャクソンは、彼の信奉者たちにとっては、人民民主主義の体現者でありました。強い意志と勇気を持った自作自演の男である彼は、多くの市民にとって、一方では自然と摂理の広大な力を感じさせ、他方では人民の威厳を体現した人物であったようです。また、気性が荒いという弱点は、政治的な強みにもなりました。ジャクソンの反対派は、彼に対して財産と秩序の敵であるという烙印を押していました。やがて、ジャクソンは金持ちに対する貧乏人、利権者に対する平民のために立っている、というジャクソンの支持者が主張したことに賛成せざるをえませんでした。

 ジャクソンの味方は、彼の主要な敵対者と同様に、実際には保守的な社会信条を持つ富裕層でありました。彼は多くの書簡の中で、労働について言及することはほとんどありません。大統領に就任する以前、テネシー州で弁護士として、また実務家として、彼は持たざる者ではなく有力者に、債務者ではなく債権者に味方しました。彼の評判は、政党が人民の政党であり、政権の政策が人民の利益のためになるという信念を広めた識者たちによって大きく持ち上げられました。一部の裕福な批評家によってなされた野蛮な攻撃は、ジャクソンらが民主的であると同時に急進的であるという信念を強めることになりました。

 1820年代半ばに誕生した民主党のジャクソン派は、さまざまな人物や利害関係者が、主に現実的なビジョンによって結びついた緩やかな連合体でありました。彼の支援者は、オールド・ヒッコリー(Old Hickory)というニックネームで呼ばれたジャクソンは素晴らしい候補者であり、彼が大統領に選出されれば、人々に利益をもたらすという2つの信念を抱いていました。

 正規の教育を受けていなかったサウスカロライナ州出身のジャクソンは、肉親全てを南北戦争で失くし、自身も英国軍の捕虜になった経験がありました。決して恵まれた環境にありませんでしたが、戦後の混乱期において自らの力だけで這い上がってきた彼にとっては、力こそ正義だという偏ったイデオロギーだけが拠り所だったようです。その強権的な手法には批判も多かったといわれます。

 ジャクソンは、典型的な南部思考の持ち主だったようで、その政策も極端でした。彼の唱える民主主義はあくまで白人に限定としたもので、後に大統領候補者としての特徴は、特に何の政治的理念も持っていないように見えたことだといわれます。奴隷解放運動を否定し、インディアン強制移住法(Indian Removal Act)を提案して物議を醸したのもジャクソンです。大統領選挙では、ジャクソンは敗れ、ジョン・アダムズが大統領に選出されます。

 1825年10月にテネシー州議会は再びにジャクソンを大統領候補に指名します。選挙は戦争の英雄として支持を集めていた民主党所属のジャクソンが勝利し、合衆国第7代の大統領となります。共和党陣営はジャクソンを「ロバ(jackass)」と呼んで揶揄したようです。jackassとは頑固者とか間抜けという意味のスラングです。後に「アメリカの漫画の父」と呼ばれた風刺漫画家のトーマス・ナスト(Thomas Nast)が後にそれを普及させ、ロバは民主党のシンボルとなります。ロバの英語は「donkey」ですが、これも頑固者という意味だそうです。

 イギリスの政党で保守党の前身はトーリー党。イギリス国教会を支持し地方の地主層を基盤としました。片やホイッグ党は自由党と呼ばれ、政策は自由主義に裏打ちされ、資本主義の発達を促すブルジョワジーを優遇し、自由貿易を促進します。この二大政党の影響がアメリカに伝わります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その79 政治制度の民主化

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 1820年代から1830年代にかけて、アメリカの政治はますます民主化されていきます。それまで任命制であった地方や州の役職は、選挙制になります。ほとんどの州で選挙権に対する財産権やその他の制限が緩和されたり廃止されたため、選挙権は拡大します。不動産所有者以外の者の選挙権を奪っていた自由所有権の要件は、1820年までにほぼすべての州で廃止され、納税者の資格も徐々にではありましたが撤廃されます。

 多くの州では、それまでの音声投票に代わって印刷投票が採用され、無記名投票も普及しました。1800年には2つの州だけが大統領選挙人の一般選出を規定していましたが、1832年にはサウスカロライナ州だけが依然として立法府にその決定を委ねていました。党の指名を行う機関として、立法府や議会の党員集会(caucuses)での選挙で選ばれた代議員からなる大会が次第に増えていきました。党員集会における選挙によって、秘密裏に会合する派閥(cliques)よる候補者指名制度は、民主的に選出された団体による公開の候補者指名制度にとって代わられていきます。

 このような民主的な変化は、第七代大統領だったアンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)とその支持者らによって引き起こされたものではありません。かつてはそう信じられていたのですが、、、ニューヨークやミシシッピーなどの州では、ジャクソン派(Jacksonians)の反対を押し切って行われた改革もあります。政治的民主主義の普及を恐れる人々は、どの地域にもいましたが、1830年代にはそのような懸念を公に表明しようとする者はほとんどいなくなりました。

 ジャクソン派は、自分たちだけが民主主義の擁護者であり、上流階級の敵対勢力と死闘を繰り広げているという印象を効果的に定着させようとしました。このようなプロパガンダの正確さは、地域の状況によって異なるものでした。19世紀初頭の大きな政治改革は、実際には、どの派閥や政党によっても構想されませんでした。問題は、こうした改革が本当にアメリカにおける民主主義の勝利を意味するのかということでした。

 小さな派閥や自分たちの立場を固める「集票マシン」が、以前は党員集会を支配していたのですが、やがて民主的に選出された指名大会へと変わっていきます。1830年代には、ヨーロッパ系の一般人がほとんどの州で選挙権を持つようになりますが、指名プロセスは依然として人々の手許に及ばないものでした。さらに重要なことは、各州で競合する派閥や政党が採用する政策は、一般有権者にはほとんど関係のないものでした。

 州政治を実質的に動かしていた代表と連合による立法対策は、主として政党の支持者に応え、政権を維持するために作られたものでした。各州の政党は、州民のためと言いながらも、銀行や交通事業の独占権を利害関係者に与えるような法案を提出するのが特徴でした。アメリカの政党が高邁な政治理念を掲げる組織ではなく、現実的な集票連合となったのは、この時代に制定された別の一連の改革が大きな要因でありました。

 選挙制度の改革は、州内の有力な得票者数で州庁を分割する従来の比例代表制とは対照的に、小選挙区の勝者または複数得票者に報いるもので、「イデオロギー」政党の可能性を阻み、多人数への対応を試みる政党を強化するものとなりました。

 予備選挙は、有権者は投票所に行き、無記名で政党に登録した人だけが参加できます。党員集会は、 各州の政党が開催し、党の指名候補として支持する人物に代わって意見を述べます。組織された支持者を擁する候補者に有利になる傾向があるといわれます。ニューハンプシャー州(New Hampshire)は、大統領選挙の年の1月または2月に全米で最初の予備選挙を行い、その結果は他の州に影響を与えるので注目されます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その78 富と貧困

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著名なフランス人政治思想家で法律家、外務大臣を務めたアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に観察します。そして、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると感じていきます。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを支えていると観察します。

 アメリカの富豪の多くは生まれながらにして貧しかったと考えられており、「成り上がり者」(self-made)という言葉はヘンリー・クレイ(Henry Clay)が広めたといわれます。社会は非常に流動的で、財産の急激な増減が顕著であり、頂点に立つことは最も謙虚な者以外には不可能であるとされていました。成功の機会は誰にでも自由に与えられると考えられ、物質的財産は完全に平等に分配されてはいませんでしたが、理論的には、社会的階層の両端には少数の貧者と少数の富者しか存在しないほど公正に分配されていました。

 しかし、その実態は大きく違っていました。富裕層は当然ながら少ないのですが、1850年までのアメリカには、全ヨーロッパを上回る数の大富豪がいました。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアには、それぞれ10万ドル以上の資産を有する者が1,000人ほどいましたが、当時、富裕層の納税者は自分達の資産の大部分を税務調査官に秘密にしていました。当時は、年収が4,000ドル、5,000ドルあれば、贅沢な暮らしができるのですから、まさに巨万の富を所有していたということです。

 一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、大陸の東北に位置する大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。長年「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われていたのですが、やがて豊かになると、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に暮らしていましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。

 トクヴィルはアメリカで9カ月間の視察旅行をします。このときの体験をもとに書いたのが『アメリカのデモクラシー』(Democracy in America)という本です。「アメリカはデモクラシーの最も発達した国であり、デモクラシーこそ人類の共通の未来である以上、アメリカはフランスの未来である」と書いています。この書物は近代民主主義思想の古典といわれています。「民主主義においては、人々は自分達にふさわしい政府を持つ」とは彼の言葉です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その77 都市の発展と女性の進出

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この時代、都市は新旧ともに繁栄し、その人口増加は国全体の目覚しい成長を上回ります。その重要性と影響力は、そこに住む比較的少数の市民の予想をはるかに超えていきました。都市フロンティア(urban frontier) であれ、旧海岸地域であれ、前世紀末の都市は、その周辺地域の富と政治的影響力の中心となりました。世紀半ばに人口が50万人に達したニューヨーク市は、ニューヨーク州ポキプシー(Poughkeepsie)やニュージャージー州ニューアーク(Newark)のような都市とは桁違いの課題に直面していました。

 しかし、この時代の変化のパタンは、東部都市でも西部都市でも、古い都市でも新しい都市でも、大都市でも小都市でも驚くほど似ています。その生命線は商業にあり、商人、専門職、地主などのエリートが、都市行政に経済性を求める古い理想からかけ離れたものとなります。新たな問題に対処するために増税が行われ、世紀半ばの都市社会が新たなチャンスを手に入れるようになっていきます。港湾の整備、警察の専門化、サービスの拡充、廃棄物の確実な処理、街路の改善、福祉活動の拡大など、これらはすべて改善することが社会的に有益であると確信した資産家たちの政治的手腕の結果でありました。

 都市はまた、教育や知的進歩の中心地ともなりました。比較的財政に恵まれた公的教育制度の出現や、技術革命によって可能になった活気ある低価格の新聞「ペニープレス」(penny press)の出現は、最も重要な発展の一つででありました。拡大するアメリカ社会における女性の役割は、女性解放の考え方によって変化していきます。解放を後押しする要因として、成長する都市では、公立学校で初等教育を受けた少女や若い女性に、事務員や店員として新しい仕事の機会が与えられたことです。

 さらに公立学校の教師が必要とされたことも、女性の自立への道を開いていきました。より高いレベルでは、1837年にマサチューセッツ州サウスハドリー(South Hadley)のマウントホリヨーク(Mount Holyoke College)のような女子大学の設立や、1833年のオハイオ州のオベリン大学(Oberlin College)や1852年のアンティオキア大学(Antioch University)のようなごく少数の男女共学の大学への女性の入学によって、女性の進出が促進されていきます。また、近代最初の女性医師とされるエリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell)や、アメリカ女性で初めて宗派を超えた聖職に就いたオリンピア・ブラウン(Olympia Brown)など、稀に専門職に就く女性もいました。

 他方、伝統的な教育を受けた上品な家庭の女性たちは、依然として柔らかく艶やかな期待に縛られていました。大衆的なメディアで語られる「女性としての義務」には、夫の財産を守ること、子どもや使用人の宗教的・道徳的教育、装飾品や読み物の適切な選択による高い感性の育成などが含まれていました。「真の女性」とは、多忙な男性が市場の厳しい世界で一日の激務を終えた後に、家庭を静寂と休息の場所とすることが期待されました。そうすることで女性は崇拝されながらも、明らかに非競争的な役割に留まっていました。

 エリザベス・ブラックウェルは、イギリス生まれで、マウントホリヨーク大学を卒業し、その後医学校を卒業した最初の女性です。オリンピア・ブラウンは会衆派教会で按手を受けた聖職者で社会改革や女性参政権を主張した最初の女性です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その76  ユートピア移民のコロニー

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次ぎに、新世界に新しい社会を作ろうとした思想家たちのユートピア移民のコロニーにも触れることにします。テネシー州のナショバ(Nashoba)やインディアナ州のニューハーモニー(New Harmony)には、それぞれフランシス・ライト(Frances Wright) とロバート・オーウェン(Robert D. Owen)という2人のイギリス人が入植しました。また、アイオワ州のアマナ(Amana)、テキサス州のニューウルム(New Ulm)やニューブラウンフェルス(New Braunfels)には、ドイツ人が計画した入植地(colony)ができました。

「明白なる運命」(Manifest Destiny) に代表される物質主義と拡張主義の大胆さが、移民によるアメリカ国民の膨張の一因と考えられます。これらのコロニーという共同生活の試みは、アメリカ人の思想を動かしている物質主義的とは違ったものでした。それは、改革の時代における地上の楽園を求めるというパタンに合致するものでもありました。

 北部のアフリカ系アメリカ人のほとんどは、自由以外のものをほとんど持っていませんでした。彼らは、北東部の都市でアイルランドからの競争相手に対して戦いを演じてはいました。この2つの集団の間の闘争は、一時的に醜い暴動に発展します。一般社会が自由なアフリカ系アメリカ人に示した敵意は、それほど激しいものではありませんでしたが、絶え間なくみられました。政治、雇用、教育、住宅、宗教、そして墓地までもが差別され、過酷な抑圧体制のなかに置かれました。奴隷と違って、北部の自由なアフリカ系アメリカ人は、自分たちが支配されることを批判し、また請願することができましたが、自分達の状況が悪化し続けるのを防ぐことが無駄だと理解していきます。

 ほとんどのアメリカ人は田舎や僻地に住んでいました。機械の進歩によって農業生産は拡大し、農業の商業化が進みますが、独立した農業従事者の生活は世紀半ばまでほとんど変化しませんでした。しかし、一部の農家が発行する機関誌には、「自分たちの努力は社会から評価されていない」と書かれていました。農家の実態は複雑で、多くの農民は、労働に明け暮れ、現金は不足し、余暇はほとんどない生活を送っていました。農民の賃金は微々たるもので、農民の多くは、過酷な労働と現金不足、余暇のない生活を強いられていました。しかし、アメリカでは、自分の土地を持つ農家の割合がヨーロッパよりはるかに多く、世紀半ばになると、農業従事者の生活水準やスタイルが着実に向上していることが、さまざまな事実によって明らかになっていきます。

 1850年代には、ジェームズ・ダフ(James C. Duff)というルーテル教会会員に率いられたドイツ人がテキサス州にニューウルム(New Ulm)という町を建設します。ウルム地方からやってきたのです。ニューウルムには6つの商店、5つの鍛冶屋、3つのパン屋ができます。タバコの生産も盛んとなります。ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)に人口4,490人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな町があります。ここにはワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住んでいます。1893年頃にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域でカトリック教会から迫害を受けて、はるばる新大陸にわたり、ヴァルデイズにコロニーをつくったのです。

 (インターミッション) ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

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ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で現在名古屋に住む友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々住む人口4,490人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな町があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。以下はその報告です。

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプスに広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、ワルドーは「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議をとなえること、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて差別が始まります。

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受け、組織的で広範な迫害に直面していきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にアンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690 年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売りことを知った2人のワルドー派の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入しすることに決めるのです。

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な農地への期待を持ちます。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズなのです。ヴァルデイズでは毎年夏に「From This Day Forward」という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活など苦難の歴史を演じる内容です。

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。

以下、本稿の英訳を付けました。Google翻訳アプリを使い編集いたしました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その75  移民と人口の増加

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アメリカ社会は急速に変化していきます。その中でも人口増加率は、ヨーロッパ人にとっては驚くべきものでした。前世紀数十年間のアメリカの人口増加のペースは、10年で30%くらいの増加というのが普通でした。1820年以降、人口増加率は全国一律ではありませんでした。ニューイングランドと南部大西洋岸地域は、人口の増加率は低迷します。ニューイングランドは西部保護地域の優れた農地に入植者を奪われ、南部大西洋岸地域は新参者に提供する経済的場所が少なすぎたからです。

 1830年代から1840年代にかけての人口増加の特徴は、移民によるものでした。19世紀の最初の30年間に到着したヨーロッパ人は約25万人でしたが、1830年から1850年にかけてはその10倍となりました。移民は、アイルランド人(Irish)とドイツ人が圧倒的に多く、彼らは、個人ではなく家族単位で渡航し、豊かな労働、土地、食料、自由、そして兵役のないアメリカ生活の驚くような機会に魅了されたのです。

 移民に関する単なる統計は、南北戦争前のアメリカにおける移民の重要な役割のすべてを語ってはいません。技術や政治情勢の他に偶然性が交錯し、新たな「大移動」が生まれたのです。1840年代には、大西洋での蒸気輸送が始まり、最後の世代のウィンドジャマー(windjammers)と呼ばれた貨物用帆船が帆走速度を向上させたことで、外洋航路はより頻繁に、規則正しく利用されるようになりました。どん欲なヨーロッパ人がアメリカの呼びかけに応じ、農地を占拠し、都市を建設することが容易になっていきます。アイルランド人の移民は、後述しますが1845年から1849年のアイルランドのジャガイモ大飢饉(Potato Famine) によって巨大な本流に変えていきます。

 他方、ヨーロッパでは、民主主義思想の着実な成長が、フランス、イタリア、ハンガリー(Hungary)、ボヘミア(Bohemia)、ドイツにおいて、「1848年革命」を生みます。「1848年革命」とは、ヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命のことです。イタリア、ハンガリー、ドイツ3カ国の革命は無残にも弾圧され、政治難民が続出します。したがって、革命の後に渡航したドイツ人の多くは、自由な理想、専門的な教育、その他の知的資本をアメリカ西部に持ち込んだ難民でした。アメリカの音楽、教育、ビジネスに対するドイツ人の貢献は、数字では測ることはできないほどです。また、アイルランド人の政治家、警察官、神父がアメリカの都市生活に与えた影響や、アイルランド人全般がアメリカのローマ・カトリックに与えた影響も定量化することは難しいといえます。

 アイルランド人とドイツ人の他、1850年代に農業不況のあおりを受けて、まだ開拓されていない大平原に新しい土地を求めて移住した何千人ものノルウェー人とスウェーデン人がいました。さらに1850年代にカリフォルニアに移住した中国人は、苦境を乗り越えて金鉱で新たな機会を得ようとします。これら移民もまた、アメリカの文化に多大な影響を与えていきます。

 移民の最初の中核となったのは、イギリスからの新教徒の移住者で、彼らは後にワスプ–WASP(White Anglo- Saxon Protestant)と言われ、アメリカ社会の中核となります。アイルランドから年間100万単位での移民の契機となったのはジャガイモ飢饉です。19世紀のアイルランド島で主要食物のジャガイモが疫病により枯死したことで起こった大飢饉(Great Hunger) のことです。中国系の移民は苦力(クーリー)と呼ばれ、黒人奴隷制の代替の労働力として急増し、カリフォルニアの金鉱開発や大陸横断鉄道建設の労働力として使役されます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その74 芸術と出版界

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で学ぶ定番のものとなっていきました。

 大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィン(Joseph Baldwin)、ジョンソン・フーパー(Johnson Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネット(James Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。

 ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank Leslie Harper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市で大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』(Leaves of Grass)(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらします。

 ウォルト・ホイットマンは、アメリカ文学において最も影響力の大きい作家の一人で、脚韻 (rhyme) も律格 (meter)のない作品を残し、今も「自由詩の父」と呼ばれています。奴隷制や禁酒運動の賛同者ともいわれます。スティーブン・フォスターは生涯で200曲余りを作り、多くはメロディが親しみやすいものです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その73 産業革命期の文学界

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 1861年から1865年にかけてのアメリカの南北戦争(Civil War)前の数十年間、アメリカの文明は旅行者を惹きつけてやみませんでした。何百人もの旅行者が、新しい社会に魅了され、ヨーロッパの人々にアメリカを紹介するために「伝説の共和国(fabled republic)」のあらゆる面について情報を得ようとしてやってきました。

 旅行者たちが何よりも興味をそそられたのは、アメリカ社会のユニークさでした。旧世界の比較的静的で整然とした文明とは対照的に、アメリカは激動的で、ダイナミックで、絶えず変化し、人々は粗野ですが生命力にあふれ、強烈な野心と楽観、そして独立心に満ちているようにみえました。多くの教養あるヨーロッパ人は、軽い教育を受けたアメリカの庶民の自己肯定感に驚かされたようです。普通のアメリカ人は、地位や階級を理由に誰かに従うことはしないようにみえました。

 1800年代初頭、イギリスの風刺作家が「世界の至るところで、誰がアメリカの本を読むのか」と問いかけたことがあります。もし、そうした風刺作家が「ハイカルチャー」の枠を超えたところに目を向けていたなら、多くの答えが見つかっただろうと思われます。実際、1815年から1860年の間に、ヘンリー・ロングフェロー(Henry Longfellow) やエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の詩、ジェームズ・クーパー(James Cooper)の小説、ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne) の小説、ラルフ・エマーソン(Ralph Emerson)のエッセイなど、今では世界中の英語散文・詩の学習者に知られている伝統的文学作品が溢れんばかりに生み出されたのです。これらはすべて、アメリカらしいテーマを表現し、ナッティ・バンポ (Natty Bumppo)、ヘスター・プリン(Hester Prynne)、エイハブ船長(Captain Ahab)など、今や世界のものとなったアメリカらしい登場人物が描かれています。

 ナティ・バンポは白人の両親の子で、デラウェア・インディアンの間で育ち、モラヴィア派(Moravian)キリスト教徒によって教育を受けます。成人した彼は、多くの武器、特に長銃に熟練した、ほぼ恐れを知らない戦士です。ヘスター・プリンは「緋文字」(Scarlet Letter)の主人公で、婚外子を産んだとして近所の清教徒から非難された女性として描かれます。ヘスターは「アメリカ文学における最初で最も重要な女性主人公の一人」といわれています。エイハブ船長は、自らの片脚を奪った白い巨大なクジラ「モビーディック」(Mobby Dick)を追い求める半ば狂気の男です。

 それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。

 エドガー・アラン・ポーは「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)、「黒猫」(The Black Cat)、「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue)などの推理小説や「黄金虫」(The Gold-Bug)など多数の短編作品を発表します。有能な雑誌編集者であり、文芸批評家であったともいわれます。しかし、アメリカ文学がもともと清教徒の多い北部ニューイングランドで起こったもので彼の作品は不人気だったといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その72 産業革命の黎明期

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経済、社会、文化の歴史を相互に切り離すことはできません。アメリカの「工場システム」の創設は、将来への期待、移民に対する一般的な寛容さ、労働力の不足に関連する豊富な資源、イノベーションに対する前向きな考えなど、いくつかの特徴的なアメリカの国力における相互作用の結果でした。

 たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学(University of RhodeIsland)の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。

 イギリスで使用され始めていた紡績と織機は、厳重に輸出が禁じられていました。やがて、必要な機械の設計についての驚異的な記憶に残した若いイギリスの機械工であるサミュエル・スレーター(Samuel Slater)は、1790年にアメリカに移住してきます。そしてブラウンの野心と彼の機械への関心に気づきます。スレーターはブラウンや他の人々とパートナーシップを結び、重要な設備を再現し、ロードアイランド(RhodeIsland) に大きな織物工場を建設しました。

 時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けます。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助は、大規模ではありませんでしたがアメリカの産業化にとって重要でした。

 1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したのがフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) です。その町は後に彼にちなんでローウェルと名付けられます。父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。

 彼らの道徳的行動は婦人によって監督され、彼ら自身が宗教的、劇的、音楽的、そして学習グループを組織しました。こうしたアイデアは、イギリスやヨーロッパの他の場所の惨めなプロレタリアとは全く異なり、アメリカの新しい労働力となっていきました。

 ローウェルの繊維工場は、国内外から視察にくる訪問者を驚かせました。やがて、業界内の競争力がより大きな作業負荷、長時間労働、低賃金によって、当初のようなの牧歌的な性格を失っていきました。1840年代から1850年代には、ヤンキーの若い女性が当初のような組合を結成してストライキを起こすと、彼らはフランス系カナダ人とアイルランド人の移民に取って代わられます。それでも、初期のニューイングランドにおける産業主義は、アメリカの例外主義(American exceptionalism)を意識したものとなりました。

 アメリカの例外主義とは、「合衆国がその国是、歴史的進化あるいは特色ある政治制度と宗教制度の故に、他の先進国とは質的に異なっているという信条として歴史の中で使われてきた概念」といわれます。フランシス・ローウェルはイギリスを訪問した際、新しい繊維産業を学んだようです。時には変装して、イギリスの多くの工場を訪れ、織機の図面やモデルを記憶に留めていたといわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その71 運河と鉄道

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運河と鉄道は、アメリカが起源ではありませんでした。イギリスとヨーロッパ大陸の18世紀の運河は、かさばる荷物を低速で安価に移動するための単純ではありましたが便利な手段でした。アメリカ人は、流れる川を接続することによって国の水輸送システムを統合していきます。五大湖とオハイオ-ミシシッピ川の谷がある大西洋に向かう水運です。最も有名な導管であるエリー運河 (Erie Canal)は、ハドソン川と五大湖を接続し、西部とニューヨーク市の港を結んでいました。ペンシルベニア州、メリーランド州、オハイオ州の他の主要な運河は、オハイオ川とその支流を経由してフィラデルフィアとボルチモア(Baltimore) に合流しました。

 運河の建設は1820年代から30年代にかけてますます人気が高まり、州や州と民間の努力の組み合わせによって資金が提供されることもありました。しかし、多くの建設された運河も、賢明でない運営の運河プロジェクトは消滅しました。そのような憂き目にあった州は、運河事業に対してより警戒するようになりました。

 運河の開発は、鉄道の成長によって追い抜かれていきました。ミシシッピ川を越えた西部で不可欠な長距離をカバーするのには、鉄道は道路システムに較べてるかに効率的でした。アメリカで最初の鉄道であるボルチモアとオハイオ線の工事は1828年に開始され、爆発的な大規模建設により、1860年までに国の鉄道網はゼロから50,000 kmに達しました。鉄道網は、急成長するシステムの運用の他に、政治的および経済的に大きな影響を及ぼしました。

 ジョン・アダムズ(John Adams))は、「国内海外振興」擁護の最たる政治家でした。連邦政府が支援した高速道路、灯台、浚渫および水路の開墾という作業です。どれも商取引を支援するために必要な開発でした。強力なナショナリストで経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者であったヘンリー・クレイ (Henry Clay) もいました。

 クレイは、国内の改善と関税の賦課を通じて、製造品をアメリカの農業製品と交換する産業部門の成長を促進し、それによって国の各分野に利益をもたらすシステムを提案しました。しかし、クレイらの計画に内在するコストと拡大された連邦支配に対する多くの農本主義者の強い反対は、民主党と共和党の間の長い闘争を生み、南北戦争中の共和党における自由民主派 (Whig) 経済主義の勝利まで続きました。

 五大湖の一つ、エリー湖からニューヨーク州のハドソン川までの約584kmをつないだのが最初の運河です。1817年から1832年に工事が行われ開通します。まだ鉄道網が敷かれる以前です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その70 流通革命

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あらゆる面における工業化進展の鍵である輸送の改善は、アメリカでは特に重要でした。発展途上のアメリカ経済の根本的な課題は、国の地理的広がりと貧弱な道路網の状態でした。五大湖、ミシシッピ渓谷、湾岸と大西洋の海岸を単一の国内市場に組み込むという幅広い課題は、航行可能な河川の豊かなネットワークに蒸気船を投入することによって最初に解決されます。

 1787年、発明家で時計職人であったジョン・フィッチ(John Fitch) は、フィラデルフィアの人々に実用的な蒸気船を公開しました。数年後、彼はニューヨーク市でもその業績は評価されます。しかし、政府の資金援助がないため、蒸気船の発明を完全に実用化するには民間の支援が必要でした。やがて最初の蒸気船の実用化を実現したのはロバート・フルトン(Robert Fulton) でした。

 彼はフランスに滞在していたとき、手動式潜水艦であるノーティラス(Nautilus)を設計してフランス海軍に売り込もうとしました。そのとき駐仏米国公使であったロバート・リビングストン(Robert Livingston)と知り合います。リビングストンの援助を受けて、ハドソン川(Hudson River)の蒸気船を建造することになります。

 フルトンは、1807年に最初にハドソン川を外輪船(paddle wheeler) クレルモン号(Clermon)を試作し、何度も運転しました。内陸では蒸気が王様であり、クレルモン号という最も壮観な船はミシシッピ川の外輪船となります。この船は船長42.8m、船幅4.3m、喫水1.2m、排水量約80トンで、浅い急流の川で航行ことができる設計でした。クレルモン号は海洋技術者のユニークな作品となりました。

 海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川(Mississippi River)流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。1824年のギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争で、マーシャル最高裁長官(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。

 「ギボンズ対オグデン」という裁判事例です。アーロン・オグデン (Aaron Ogden)の会社に、ニューヨーク州は州内の水域における蒸気船の独占航海権を与えていました。ところが、連邦法によって航海の許可を受けていたトーマス・ギボンズ(Thomas Gibbons)は、ニューヨーク州法を無視し、ニュージャージー州からニューヨーク州に蒸気船を航海させるビジネスを始めました。そこでオグデンは訴えを提起しますが敗訴します。

 ロバート・フルトンは、最初の商業的に成功した蒸気船の開発で知られエンジニアです。1807年の頃です。当時の蒸気船はまともに動くものがほとんど無かったために、ハドソン川での試運転までは周囲から「フルトンの愚行」と揶揄されていたようです。またフルトンは、世界初の実用的な潜水艦の1つであるノーチラス(Nautilus)を発明したことでも知られています。「海底二万里」(20000 Leagues Under the Sea)というアメリカ映画の潜水艦名もノーチラスでした。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その69 アメリカ経済の発展

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アメリカ経済は、1812年の米英戦争後の数10年間で驚くべき速度で拡大し成熟しました。西部の急速な成長により、穀物と豚肉の生産のための素晴らしく新しい中心地が生まれ、国のかつての農産物が他の作物に特化できるようになりました。特に繊維製品の新しい製造プロセスは、北東部の「産業革命」を加速させただけでなく、南部の綿花生産のブームによって、北部の原材料市場を大幅に拡大することになりました。

 18世紀半ばまでに、ヨーロッパ系の南部人は、綿花経済が依存していた奴隷制を、以前にシステムを保持していた「必要な悪」ではなく「肯定的な善」と見なすようになります。利益を上げる上で綿花は中心的な役割を果たしていきます。産業労働者は、この期間の早い段階で、国の最初の労働組合、さらには労働者の政党を組織しました。自己資本要件が急増する時代に企業形態は繁栄し、投資資本を引き付けるための古くて単純な形態は時代遅れになりました。商取引はますます専門化され、製品の製造における分業は、生産を特徴づけるようになり、ますます洗練された分業化が進んでいきます。

 成長する経済運営は、新興アメリカの政治的紛争と切り離せないものでした。当初の問題は、簡単な信用の分散型システムを望んでいるジェファソン(Jefferson) の共和党が農本主義者と、金融市場の安定と利益を求めている投資コミュニティの間の対立でした。ハミルトン(Hamilton)と彼のフェデラリストによって擁護されたこの後者のグループは、政府と民間株主が共同所有する1791年の第一合衆国銀行の設立で最初のラウンドを勝ち取りました。

 第一合衆国銀行は政府の財政代理人であり、その本部であるフィラデルフィアに信用システムの重心を置いたのです。信用システムの憲章は1811年に失効し、その後の1812年の米英戦争中に調達と動員を妨げた財政的混乱は、そのような中央集権化の重要性を示しました。したがって、ジェファソンでさえ、1816年にチャーターされた第二合衆国銀行の承認に転換していきます。

 第二合衆国銀行は絶え間ない政治的攻撃に直面しましたが、紛争は農業と商業的利益の間だけでなく、拡大する信用システムの利益へのアクセスを望んでいる地元の銀行家と銀行頭取のような人々の間でも起こりました。第二合衆国銀行総裁のニコラス・ビドル (Nicholas Biddle) は、トップダウンの管理を通じて銀行業務の規則性と予測可能性を高めたいと考えていました。憲法は合衆国に貨幣をコイン化する独占的な権限を与え、通貨としても機能する紙幣を発行することを許可します。さらに各州による銀行の設立も許可します。しばしば政治的な権限を有する国営銀行は、紙幣の価値と同様に、その価値が大きく変動した土地によって通常担保されている危険なローンに対して、それらを調整する保護機能を欠いていました。過剰な憶測、破産、収縮、そしてパニックは避けられない結果でした。

 第二合衆国銀行はフィラデルフィアを本部に、全国の主要都市に支店を構えており、連邦政府が認証し、中央銀行のように運営されていました。1823年から1836年まで第二銀行の総裁を務めたビドルの方針は、アメリカ銀行への政府資金の多額の預金が、それが地元の銀行への主要な貸し手になることを可能にし、その強力な権限によって、不健全な銀行に責任を取らせたり閉鎖させることができることでした。このような方針のビドルに対して、地方の銀行家や政治家は悩まされていきます。この見解の違いは、ビドルとジャクソンの間の古典的な戦いを生み出します。

 ジャクソンにとって第二合衆国銀行による紙幣の発行は受け入れ難いものであり、金と銀の正金だけが流通されるべきものと考えていました。ビドルがアメリカ銀行の再認可を勝ち取ろうとしたこと、ジャクソンの拒否権と政府資金の重要な銀行への移転、そして1837年の恐慌に至りました。ジャクソンはビドルとの対立の結果、第二銀行を潰すのに成功します。ただ、ジェファソン流の批判に直面して国立銀行の効用を擁護したビドルは、連邦財政収入の確保,通貨の安定,インフレの阻止などに成果をあげたことで知られています。財政政策決定の政治化はアメリカ経済史の主要なテーマであり続けました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その68 国民の不和

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アメリカ国民の団結という旗印と一体感というスローガンは、説得力があるようですが異なる方向も示しています。1803年のマーベリー対マディソン裁判(Case of Marbury v. Madison)において、最高裁判所は議会の立法について司法審査を最初に行使しましたが、このような介入は強力な国家政府を支持する人々を喜ばせました。州政府に対する連邦政府の優位を主張する立場は、最も重要な憲法解釈となりました。この判決を下したマーシャルは、後生までも最も著名な連邦最高裁判所長官といわれるようになりました。 同時に反対派を激怒させましたが、マーシャルの最高裁長官の私有財産の権利の擁護は、批評家からは財産保有の原則を裏切るものとして批判はされました。

 1812年の米英戦争中の先住民族の土地の収奪は、西部の人々は、決しての手放しの祝福とは受けたとってはいませんでした。東部の保守派は地価を高く維持しようとしました。投機的な利益を求める人々は、貧しい不法占拠者に有利な政策に反対しました。政治家は、こうのような勢力均衡の変化を危惧していきます。ビジネスマンは彼ら自身とは違った関心を持つ新しい層に警戒していました。ヨーロッパからの訪問者は、いわゆる「好感情の時代(Era of Good Feelings) 」の間でさえ、アメリカ人は、彼ら自身以外の田舎者を軽蔑するという傾向があると指摘しました。

 1819年恐慌(Panic of 1819)という緊急危機と経済的困難は、国民の間に不和を生み出しました。金融危機と不況は銀行と企業に対する民衆の不満を掻き立てます。連邦政府の経済政策に基本的な欠陥があるという考えが広がります。第二合衆国銀行の銀行券に相当する金貨を提供できなかったことで、州認証銀行は貸し付けを行っていた抵当の重い農園や事業用土地に対する取り立てを始めます。この措置によって倒産が広がり、大勢の者が雇用を失ったのです。こうした混乱の中で、権力の獲得や安定を巡って激しい政治党争を繰り広げました。

 国の分裂の最も劇的な兆しは、奴隷制、特に新しい領土への広がりをめぐる政治的闘争でした。1820年のミズーリ妥協(Missouri Compromise)は、少なくとも当面の間、さらなる不和の脅威を和らげることになりました。これにより州間の部分的なバランスは維持されます。ルイジアナ買収は、ミズーリ領土を除いて、奴隷制は36°30’線の南の地域に限定されることになっていました。しかし、この妥協は危機を終わらせることはなく、むしろ延期するだけでした。

 北部と南部の上院議員の議席が互いに拮抗するという状況は、人々がさまざまな大きな地理的部分における相反する利益を有するということを示唆していました。 ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)から10年後は、複雑な国民感情が広がり、モンロー政権のときのような「好感情の時代」ではなかったということです。

 奴隷制の歴史は、今も人種差別という目に見えない姿で残っています。人種のるつぼが抱える宿命のようなものです。しかし、現在は「人種のサラダボウル」に代表される多文化主義とか「文化の連邦体」というマイノリティを尊重するコンセプトが定着しています。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その67 好感情の時代

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1816年のジェームズ・モンロー(James Monroe)と1824年のジョン・アダムス(John Quincy Adams)の大統領選挙までの数年間は、アメリカの歴史で「好感情の時代」(Era of Good Feeling)として長い間知られています。党派抗争が比較的少なかった時代となったからです。このフレーズは、モンローが大統領就任の初めにニューイングランドを訪れたときに、ボストンの編集者によってつけられました。

 モンローは、合衆国はヨーロッパへの干渉を容認しないといういわゆるモンロー主義(Monroe Doctrine)が有名となります。モンローは大統領を続けて輩出してバージニア王朝と言われた時代、および共和主義者世代から大統領になったことでも知られる最後の大統領です。

 その後、様々な学者は、1812年の米英戦争におけるアメリカの戦略と戦術、戦争の具体的な結果、そして知恵にさえ疑問を投げかけます。しかし、米英戦争におけるアメリカ海軍の印象的な勝利とニューオーリンズでのイギリス軍に対するジャクソンの勝利は、モンローが描いた「好感情の時代」を作り出しました。

 ナショナリズムのムードを醸したのは、米英戦争後のアメリカの外交政策でした。アメリカは、1819年にスペインからフロリダを買収しました。その成功は、ジャクソンが外交上の精緻さよりも、外国との国境の不可侵性や、彼を支援する国の明白な準備に無関心であったことによるものでした。モンロー主義は、実際には長い大統領メッセージに挿入されたいくつかのフレーズであり、アメリカはヨーロッパ問題に関与せず、同時に南北アメリカへのヨーロッパの干渉を受け入れないと宣言するものでした。旧世界を新世界から警告するという自信に満ちた口調は、国を席巻したナショナリストのムードをよく反映していました。

 国内では、マッカロック対メリーランド(McCulloch v. Maryland)やギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)などの事件におけるマーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)の下での最高裁判所の判決は、州を後回しにし、議会と国力を強化することによりナショナリズムを促進する内容でした。1816年に第二合衆国銀行を認可するという議会の決定は、1812年の米英戦争によって明白となった国の財政的弱さ、および財政的利益への関心によるものでした。

 南部ジェファソン(Southern Jeffersonians)流民主主義を信奉する厳格な構造主義者が、こうした措置を支持するということは、顕著なナショナリズムの現れといえます。新しい国民の統一感の最も明確な兆候は、勝利した共和党で、圧倒的に再選された旗手となったモンローでした。連邦党の崩壊によりモンローの1期目終わりころには組織立った反対が無く、1820年の再選挙でも何の抵抗も無く選ばれます。対抗馬がいない選挙はジョージ・ワシントン以来のことで、ニューハンプシャー州の選挙人1人のみがジョン・アダムズ(John Adams)に投票するという結果となりました。モンロー主義をはアメリカ外交政策の規範になります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その66 先住民族への対応

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若きアメリカは、先住民族、アメリカインディアンをどのように対処するかの課題を抱えていました。ヨークタウン(Yorktown)での勝利は、先住民族問題が避けることのできない課題となったのは過言ではありませんでした。ヨークタウンの勝利とは、1781年にアメリカとフランス連合軍がイギリス軍を破り、独立戦争を終結させた決定的な記念すべき戦いのことです。この戦では、先住民をはじめ解放された元奴隷も奴隷のままの者も従軍していたのです。

 アメリカ政府は、遠くの大陸にある資源へのアクセスのみを求めてきたヨーロッパの帝国の代表者と取引していました。やがて毎年人口が増え、西部のすべてのエーカーを自分たちのものにしていきました。それは、神と歴史の法則のもとで文化的に統合した民族であるとの確信によるものでした。やがて先住民族との妥協の余地はなくなりました。 1776年以前でさえ、アメリカの独立に向けた政策は、先住民族の将来に対する支配力を低下させるものでした。

 時代を少し遡ります。イギリスと先住民族との間の取り決めに、1763年の布告ライン(The Proclamation Line)というのがあります。この取り決めは、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、先住民族との関係を安定させるものでした。ケンタッキー・フロンティアのダニエル・ブーン(Daniel Boone)はこの取り決めを破って開拓を推進していきます。ペンシルベニア州とニューヨーク州の西部では、1768年のスタンウィックス砦条約(Treaty of Fort Stanwix)による広大な先住民の土地譲歩にもかかわらず、開拓者がオハイオ渓谷と五大湖への前進を続けていきました。

 武力抵抗による成功の望みを持っていた先住民族は、アパラチア山脈からミシシッピ川までのすべての先住民族の団結が必要となりました。この団結は単に達成することができませんでした。ショーニー族(Shawnee)の指導者、テンスクワタワ(Tenskatawa)は、預言者として知られていました。テンスクワタワやその兄テカムセ(Tecumseh)は、ギリス人入植者に対する反乱に関わったポンティアック(Pontiac)が約40年前に行ったように、団結のための運動を試みましたが、成功しませんでした。平和条約に違反して北西部領土に残っているイギリスの貿易商からの武器の形でいくつかの支援を受けましたが、先住民は1811年に起こったティッペカヌークリークの戦い(Battle of Tippecanoe Creek)でアメリカの民兵や兵隊との衝突で勝利を得ることができませんでした。

 他方、1814年、アメリカのアンドリュ・ジャクソン将軍(Andrew Jackson)は、ホースシューベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)で、イギリスが支援した南西部のクリーク族(Creek Indian)を破ります。戦争自体は引き分けで終わり、アメリカの領土は無傷のままでした。その後、小さな例外を除いて、ミシシッピの東では先住民による大きな抵抗はありませんでした。アメリカの輝かしい第1四半期の後、先住民族に開かれていたあらゆる可能性は低くなっていきます。

 アメリカとイギリスが奪い合おうとした土地が、そもそも古くからインディアンの住む土地でありました。インディアン諸部族は自らの生存のために両国と闘わなければならなかったのです。ジャクソンは、民主党所属としては初の大統領で、独立13州以外からの出身の最初の大統領です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その65 マディソン大統領の外交

第4代合衆国大統領となったジェームズ・マディソン(James Madison)は、外交に専念することを余儀なくされます。イギリスとフランスはどちらもアメリカの海運貿易を非難しますが、特にイギリスは非常に激怒します。これは、イギリス海軍の方が優越であり、イギリスの名誉に対するアメリカ人の侮辱に非常に敏感だったからです。フロリダとカナダにおける領土の膨張主義は、戦争を予想すると共に海軍の増強を求めるものとなります。

 マディソン自身の目的は、海洋の自由の原則を維持し、アメリカが自らの利益と市民を保護する能力を主張することでした。ヨーロッパの敵対者と公平に対峙しようと努力している時、彼はイギリスとの戦争に引き込まれます。アメリカは1812年6月に下院で79〜49票、上院で19〜13票の投票で戦争支持が可決されました。強力な連邦主義を唱えるニューイングランドの州では、戦争への支持はほとんどありませんでした。

 米英戦争(War of 1812)は1812年に始まり、皮肉な結果となります。イギリスはすでに枢密院勅令で攻撃命令を撤回していましたが、宣言の時点でそのニュースはアメリカには届いていませんでした。軍事的にアメリカ人はあらゆる面で貧弱な状況にありました。軍備に対するイデオロギー的な反対によって、最小限の海軍力しか持たないためでした。1812年、上院がアメリカ銀行の憲章の更新を拒否したことは、銀行に対するイデオロギー的な異議申し立てが原因でした。企業家の感情は政権に対して敵対的でした。

 このような状況下で、アメリカは2年間の戦争で驚異的な成功を収め、最終的には大西洋、五大湖、シャンプレーン湖(Lake Champlain)での会戦で勝利します。陸上では、イギリスの襲撃隊がワシントンD.C.の公共建築物を燃やし、マディソン大統領は首都から逃げだす有様でした。長期的な影響をもたらしたのは、ニューオーリンズの戦いでアンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)が勝利したことです。1815年2月に勝利してその2週間後、ベルギーにおけるゲント条約(Treaty of Ghent)の調印で平和が達成されます。この戦いによってジャクソンの政治的な評価は大きく高まりました。

 ゲント条約による和平合意の最も重要な点は、カナダ国境の境界委員会を設置するという合意でした。それはイギリスとアメリカとのいがみ合いを終わらすものではありませんでしたが、合意は相互信頼の時代の到来を告げるものでした。アメリカの第二の独立戦争と呼ばれることもある1812年の戦争の終結は、歴史的な繰り返しのようでした。

 この戦争は、イギリスとイギリス国民に対する古い痛みと恨みの感情を和らげることになりました。それでも多くのアメリカ人にとって、イギリスは一種の父方のような感情を持っていたことです。やがてイギリスとの戦の不安から解放されると、アメリカ人は西部の開拓へと向かうことになります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その64 ジェファソンと共和党の進出

注目

アメリカ合衆国の第3代大統領、トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson) は、「アメリカ独立宣言」の起草者の一人としても知られています。大統領就任にあたり、ジェファソンは次のような和解を求める演説をします。すなわち「我々はすべて共和主義者であり、我々はすべて連邦主義者です。」彼には恒久的な二大政党制の計画はありませんでした。彼はまた小さな政府と憲法の厳格な施行に対する強いコミットメントを表明します。これらのすべてのコミットメントは、戦争、外交、および政治的不測の事態の緊急事態によってすぐに試練に立たされることになります。

 ジェファソンはまた、スペインからフロリダを獲得する機会を求め、科学的および政治的な理由から、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)とウィリアム・クラーク(William Clark)を大陸全体の探検隊として派遣しました。ただし、この領土拡大には問題がなかったわけではありません。ニューイングランド連邦主義者によって策定された北軍の計画を含む、さまざまな分離主義運動が頻繁に発生します。1800年にジェファソンによって副大統領に指名されたアーロン・バー(Aaron Burr)はいくつかの西部開拓での謀議を主導しました。バーは1804年に辞して反逆罪に問われますが、1807年に無罪となります。

 最高行政責任者として、ジェファソンは司法のメンバーと衝突しました。その多くはアダムズによる任命者でした。彼の主な反対者の1人は、アダムズが任命したジョン・マーシャル(John Marshall) 裁判長であり、特に1803年のマーベリー対マディソン裁判(Case of Marbury v. Madison)において、最高裁判所は議会の立法について違憲審査を最初に行使します。

 この裁判は、ワシントン特別区の治安判事に任命されようとして、辞令を交付されなかったウイリアム・マーベリー(William Marbury)が、辞令の交付を命じる職務執行令状(writ of mandamus)の発付を求めて、マディソン長官を相手方として合衆国最高裁判所に訴えを起こす有名な裁判です。

 ジェファソンの二期目の任期が始まる頃、ヨーロッパはナポレオン戦争(Napoleonic Wars)に巻き込まれました。アメリカは中立を維持しますが、イギリスとフランスの両方がさまざまな命令を課し、ヨーロッパとのアメリカの貿易を厳しく制限し、新しい規則に違反したとしてアメリカの船舶が没収されます。イギリス、フランスによる海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受け、反英感情が高まっていました。またイギリスのアメリカ船に対する臨検活動も反英感情を強めたといわれます。

 イギリスはまた、アメリカ市民が時々巻き込まれるような事件を起こします。ジェファソンはイギリスとの条約条件に同意できず、アメリカの輸出を全面的に禁輸するイギリスとフランスの両方に「中立的権利」の侵害をやめさせようとします。そして通商禁止法が1807年に議会が制定されます。ニューイングランドでは、禁輸措置が、ニューイングランドの富を破壊するための南部の計画であると指摘します。マディソンが大統領に選出された直後の1809年に、この通商禁止法は廃止されます。

 ジェファソンは、ヴァジニア大学(University of VIrginia)の創設者としても知られています。邸宅モンティチェロ(Monticello)では大勢の奴隷を雇っていた政治家でもあります。奴隷制廃止論者だったのですが、多くの負債を背負っていたために奴隷を雇っていたともいわれます。

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