アメリカの学校は今  その十三 タマス・プリンス学校 (Thomas Prince School)

bragghall town_common_princeton_ma mamap今回はアメリカの田舎の学校です。マサチューセッツ州(Massachusetts)の州都ボストン(Boston)から西へ車で90分のところにあるプリンストン(Princeton)という小さな町の学校です。すぐ近くには広大なワチューセッッツ(Wachusette)州立公園があり、夏はハイキングやキャンピングで人々が憩い、スキー場が隣接していて冬の週末はたいそうな賑わいです。

プリンストンの人口3,700人。アメリカによくある田舎町です。プリンストンは豊かな森林資源を誇り、製材業、家具製作などで栄えた歴史があります。1800年代には鉄道も開通し、材木や製品の運搬に使われました。商人や旅行客も押し寄せホテルも繁盛しました。ですがこうした賑わいは戦後の自動車の普及ですっかり終わり、いまは静かな町となりました。農業は小麦が中心です。ブルーベリーやブラックベリー、リンゴなどのフルーツ農園があちこちに点在しています。

左上の写真は町役場の建物です。誠にもって風情のある姿です。このような規模の町ですから、学校や図書館は近隣の4つの町と一緒に運営しています。この学校区教育委員会はWachusett Regional School Districtと呼ばれ、二つの小中学校と一つの高校があります。Thomas Prince Schoolの学校名は、赴任してきた初代キリスト教会牧師の名前です。地域発展の黎明期は、多くの場合教会活動が活発な頃です。

Thomas Princeには、幼児から中学生までたったの150名くらいの子どもしかいません。ですが、言語治療士、障害児教育教師、発達障害教育教師、リソースルーム教師、図書館司書が常駐しています。私事ですが、二人の孫息子がこの学校に通い、発音の不規則さを指摘されて治療を受けました。校長は、自ら面接して教師を採用します。野外の運動場はすべて芝生。野球とサッカーが別々にできる広さがあります。芝の手入れはすべて機械でやります。数日毎に芝刈りをするのです。週末は試合があって保護者はチームの応援に駆けつけます。コーチは上手な子ども苦手な子どもも試合に出れるように配慮しています。お年寄りも折りたたみの椅子に座り、長閑に夕方の時間を過ごします。そして孫達の走り回る姿に目を細めます。

アメリカの学校は今  その十二 メディアセンターの充実ぶり

zentai2 kakari-mori1 02b0a2_f2f7a0b34192483393810bfbe55d1c65-jpg_srz_278_185_85_22_0-50_1-20_0アメリカの図書館は学校の華。学習の場として大きな役割を果たすのが図書館です。多くの学校は図書館を「メディアセンター(Media Education Center)」と呼んでいます。インターネットでつながった図書館は、印刷された本だけでなく電子情報で一杯なのです。メディアセンターはネットワークにつながるパソコンで満ちています。

メディアセンターには必ず図書館司書(librarian) が常駐しています。司書は教師と一緒になって授業もします。本の読み聞かせなどもするのです。小中学校のメディアセンターはいつも生徒で賑やかです。センターの入り口は沢山の飾り付けがあり、「なにか楽しいことがありそうだ、、」という雰囲気です。学校で一番行きたくなるところ、と宣伝するのがメディアセンターなのです。高校のメディアセンターは大学以上の設備を誇るところもあります。

情報を集めそれを活用することの大切さを知っているのはアメリカの学校です。そのせいか、図書館に多額の予算を付け、充実させる伝統があります。司書の能力の高さはそれを証明しています。いつか機会がありましたら、一度図書館に足を運んでみてください。その内部の底抜けの明るさと司書らの専門的な対応に驚きます。
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アメリカの学校は今  その十一 教育委員と学校長

692433ebd961fda36d1ffadc3d9758b1 school-budget-vote superintendent_sign-1067x600アメリカでは高校は義務教育です。学校はどのようにして支えられているかをご存じでしょうか。アメリカの学校の大半は市町村立か私立です。市民の税金が学校を支えています。州立高校というのはありません。

小さな町や村は、郡単位となって学校を運営します。人々の税金によって学校の建物を維持し教師を雇っています。もし、中途退学者が増えようものなら、市民は「学校は一体なにをやっているのか、教育長 (superintendent)や校長を代えよ、」と叫ぶのです。こうした記事は地方の新聞でよく見られます。市民には税金の使いみちと教育の成果は最も関心の高い話題の一つです。教育委員は公選です。教育委員会を統括するのですから、教育長や校長は教育委員会の下で教育行政に従事しなければなりません。教育長は教育委員が選ぶ仕組みとなっています。振り返って、日本では教育委員長(board of directors) や教育委員はなんの権限もなく、教育長の下に位置するという体たらくです。

学校税(school tax)というのがあって、自分たちの税がどのように使われているかがガラス張りとなっています。校長は、「スクールカウンセラーを雇いたい、PCを買い換えたい」などの提案を市民集会(Town Meeting)で説明します。ビジョンを持つ校長は市民にたいして、もう少し学校税を負担して欲しい、必ず教育の質を高める、と訴えるのです。

それでも資金が不足すると、校長は学校債権(school bond)の発行を提案して市民に学校への支援をとりつけます。債権ですから満期になると元金と利息を市民に返します。教育委員会から予算を獲得できるかが、校長の能力なのです。さらにロータリークラブ(Rotary Club)やキワニスクラブ(Kiwanis  Club)といった地域の経営者団体や福祉団体から寄付を集めるのも校長の仕事なのです。校長は地元の営業マン、ウーマンです。校長の権限と責任は大きいこと、市民の期待が高いのがアメリカの学校なのです。

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アメリカの学校は今 その十 人種のるつぼと公民権回復運動

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KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

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rosaparks_bus 11002062932一歩高校の建物に入りますと、そこは人種のるつぼといわれるほどいろいろな肌の色の生徒が闊歩しています。このような光景を見るには50年以上もかかったのです。

今週、南部のオクラホマ州(Oklahoma)で白人警察官が黒人男性を銃で撃って死亡させた事件が起こりました。「合理的な理由のない発砲」だったとして、女性警察官が過失致死の疑いで訴追されるという有様です。ノースカロライナ州(North Carolina)でも黒人の男性が警察官に銃で撃たれて死亡したことに対して激しい抗議行動が続いています。黒人や他のマイノリティの人権が未だに無視される傾向があるのを知ると過去の歴史的な出来事を思い出します。

かって黒人と白人の生徒は別々なバスに乗り別々な学校へ通っていました。1960年代、公民権運動やヴェトナム戦争が続くころです。運動の指導者はマーティン・ルーサー。キング牧師(Rev. Martin Luther King Jr.)でした。人種差別は憲法に違反するという主張を貫いたのです。アメリカでは今も非常に高い尊敬を受け、その功績を称えて一月の第三月曜日は祝祭日となっています。ジョージア州(Georgia) アトランタ (Atlanta)にあるMartin Luther King Jr. National Historic Siteは是非訪ねて欲しい歴史地区です。そこにキングセンター(King Center)があって公民権運動の歴史がわかりやすく展示されています。

キング牧師の提唱した公民権回復運動の思想は「非暴力主義」(Nonviolence) といわれています。インド独立の父、マハトマ・ガンディ(Mohandas Gandhi) の教えを受け継ぎました。この運動は1963年の首都ワシントンD.C.にあるリンカーン記念堂 (Lincoln Memorial) の前でおこなった“I Have a Dream”(私には夢がある)という演説で最高潮に達します。人種差別の撤廃と異なる人種の協和という高い理想を易しい言葉で訴え、広く共感を呼びました。今もこの演説は中学や高校の教科書でも取り上げられています。

「公民権運動の母」と呼ばれたのがローザ・パークス (Rosa Parks) です。彼女は白人専用のバスに乗り込みます。すぐに運転手に引きづり出されるのですが、これをきっかけにバス・ボイコット運動が始まります。やがて連邦最高裁判所からバス車内での人種分離は違憲であるという判決を勝ち取ります。

とまれ、話は先に人権の回復運動に及んでしまいました。折しも、9月24日に国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館 (National Museum of African American History and Culture) がワシントンDCの「ナショナル・モール」(National Mall) の一画にオープンしました。スミソニアン協会 (Smithsonian Institution) の19番目の博物館です。奴隷制度や公民権運動、著名なアフリカ系米国人にまつわる3万7000点の品々が展示されます。

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アメリカの学校は今 その九 卒業パーティ:プロム

89acd8b9ae6e71604fd9af7e71ff361c prom 13fff370-e618-0133-2423-0e1b1c96d76b高校の卒業が近づくと4年生には大きな行事が待っています。卒業パーティ:プロム(Prom)というものです。プロムナード(promenade)、舞踏会パーティですから、男子生徒は同伴するパートナーを探します。誰を誘おうか、どんな服装にしようかと思案します。シニア・プロム(Senior prom)とも呼ばれています。

プロムでは男子生徒が自分で選んだ女性と一緒にでかけます。この時、保護者もまた緊張します。「息子の相手は誰か」、「娘を誘ってくれる生徒はいるだろうか」。服装ですが、男子生徒はタキシード、女子生徒はドレスにコサージが一般的です。

プロムの内容はダンスや食事、会話です。飾り付けをした学校の体育館とかホテルを会場にします。ロックバンドやDJが登場してパーティを盛り上げます。プロムで誘った友だち同士は、大抵は一時のデート相手です。結婚相手はまだまだ先の話なのです。

プロムが終わると皆進学、就職に向けて準備します。遠く西海岸や東海岸、あるいは南部の大学などに向かいます。やがて楽しくも厳しい4年間のカレッジライフが始まります。

ついでですが、ロンドンの夏の音楽祭、BBC PROMSはPromenadeの複数短縮形です。Promenade Concertというものでしょう。2カ月にわたって開かれるというのですから豪華です。

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アメリカの学校は今  その八 パラプロフェッショナルの存在

fit%e5%89%8d pttp_paraprofessional-teacher-training-program c0156996_431298今回は高校の教職者陣についてです。アメリカの高校には、各教科担当の教師の他に特別支援教育の教師がいます。その他に、進路相談を担当する「ガイダンス・カウンセラー(Guidance Counselor)」、心理や学力検査を担当する「スクール・サイコロジスト(School Psychologist)」、貧しい家庭の保護者のカウンセリングを担当する「ソーシャル・ワーカー(Social Worker)」、職業実習を担当する「ジョブ・コーチ(Job Coach)」、言葉の遅れを指導する「言語治療士(Speech Therapist)」もいます。看護師ももちろんいます。こうした人々は教員免許状を持っていません。教師以外の者は「パラプロフェッショナル(Paraprofessional)」といいます。給与も教師とは違う体系となっています。学校は教師だけの集団ではないのが日本とは違うところです。パラプロフェッショナルを認定するのは、資格要件を規定する民間の認定機構です。

こうした教職員の業務は分業であるということです。自分の専門分野のことを仕事としているのです。例えば生徒の非行があるとすると、教科担当や担任がそれを受け持つのではなく、ソーシャル・ワーカーかスクール・サイコロジストです。原則、教師は専門分野以外のことができない仕組みなのです。

教員もパラプロフェッショナルも必ずといってよいほど修士号を持っています。特にパラプロフェッショナルというの資格要件がそうだからです。教師もまた大学院へいって勉強し、教える知識や技術を高めると給与が高くなるのです。博士号をもつともっと給料が上がります。アメリカの教職員の待遇としては、定期昇給だけでは不十分なのです。

アメリカの学校がこのように様々な専門家から成るのは、生徒のニーズが幅広いということです。その源は貧困とか家庭環境の悪さなどにあります。特に大都市の街中にある高校は問題行動の生徒が多いといわれています。時には校内に警官が巡回するのはこのような理由によります。大都会の真ん中にある学校で教職者は厳しい環境で仕事をしています。

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アメリカの学校は今  その七 保護者の責任で団体旅行

fig_international_1 p1170137 as20160619002080_commlアメリカの学校には修学旅行という行事はありません。基本的に団体旅行というのないといってよいでしょう。例外とすれば、保護者が自主的に組織してスポーツのイベントや見学旅行を計画する場合があります。あくまで保護者が主体です。州内のカウンティのスポーツ大会や音楽会に参加するのがせいぜいのところです。この場合、教師が引率することはありません。保護者が生徒を引率します。

修学旅行ですが、かって人々が貧しいときに児童生徒が遠方へ行く機会が持てなかったため、学校が主催して「見聞を広めさせること」が修学旅行の大きな目的とされていました。しかし、生活の向上とともに、見聞を広めさせるという趣旨から大きくはずれて、テーマパークを楽しむことが多いです。

今年の初夏、孫娘がバスで首都のワシントンD.C.へ団体で旅行しました。保護者と貸し切りバス会社が企画したようです。こうした企画で教師が職務で参加することはありません。学校がそのような企画をたてるとすると保護者から「余計なお世話だ、、、」といいわれるのがおちです。自分のことは自分でするのが大事だと考えているのです。教師もまた、「そんな無聊な業務は契約にない」と一蹴するはずです。学校は旅行などを企画するところでないのです。

最近、国内では教育課程の上で特別活動の1つとして修学旅行で外国に出かける学校があります。お隣の韓国や中国へ行くのも聞きます。いろいろな違いとともに似たような生活習慣があることを学ぶ機会となるでしょうが、国外への修学旅行を学校の宣伝材料としている場合も多いと聞いています。誰のための旅行なのかと頭を傾げてしまいます。「修学旅行で国際感覚を養う」といううたい文句はどんなものでしょうか。

日本ほど全国大会と銘打ったイベントを企画する国は知りません。野球や俳句の甲子園大会、少年サッカーや囲碁の全国大会、駅伝大会など素晴らしいものです。ですが学校や教師への負担も考えなければならないでしょう。スポーツでは生徒の能力を高めるために倶楽部チームでの専門家による指導が欠かせないように思われます。
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アメリカの学校は今  その六 プナホウ・スクール (Punahou School)

punahou_logo_thumb obama_ss5 punahou-copyハワイの私立学校の双璧はカメハメスクール、もう一つがプナホウ・スクール(Punahou School)です。プナホウ・スクールの創立は1841年。ミッションスクールとして会衆派 (Congregational church)と呼ばれるプロテスタントの教会が運営しています。今もキャンパスの一角には1851年に建てられた校舎の一部が残っています。「Punahou」とは現地語で「泉」という意味だそうです。

この学校は、ハワイ大学の基幹キャンパスであるマノア校(University of Hawaii, Manoa) のすぐ近くにあり、閑静な住宅地を控え実に良い環境にあります。一歩校内に入ると、そこは大学にいるかのような雰囲気です。バラク・オバマ(Barack Obama)大統領が卒業したことがこの学校を一層世の中に知らしめました。そのほか、全米一位となったゴルフのミッシェル・ウィ(Michelle Wie)もこの学校を卒業したことで知られています。幼稚園から高校までの生徒数は3,750名、高校(Academy)は1,750名です。授業料は年間平均して22,950ドル。日本円で230万円くらいです。

カメハメハ・スクールはハワイの原住民を優先的に入学させますが、プナホウ・スクールは誰でも入学することができます。ミッションスクールの伝統を引き継ぎ、礼拝や聖書の勉強が課せられています。日本語教育もしっかり行われています。多民族の子どもが学ぶせいか、グローバール教育(国際理解教育)が盛んで、アメリカ本土の大学へ進学する者も多いことで知られています。

この学校のスポーツ活動は全米で知られています。初等科には空手部もあります。最も読まれているスポーツ雑誌、Sport Illustrateは2008ー2009年度の全米ナンバーワン学校としてとプナホウ・スクールを評価しています。21のスポーツの種類、参加する生徒数、そして州や全米の大会実績などが評価されています。ハワイの政治や経済、文化、教育の分野に多くの人材を送り出している学校です。

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アメリカの学校は今 その五 カメハメハ・スクールズ(Kamehameha Schools)

bishop-memorial-chapel-old-kamehameha-schools-campus-1 untold_story_pic_1_1 kamlogo 28025-slq_0「アメリカの学校は今」という話題になりますと、大学の予備校でもある高校の姿をとりあげたくなります。最初はハワイ(Hawaii) はホノルル(Honolulu)にある由緒のある学校です。ハワイは1959年に合衆国としての最後の州となりました。50番目です。州都はホノルル。ハワイは先住民がハワイアンと言われています。他に日系、中国系の人々が大勢住んでいます。先住民は州内人口の民族構成で3位になっています。

1885年2月に最初の日本人集団153名がハワイにやってきます(Japanese settlement in Hawaii)。1868年以降、労働者として日本からハワイへ移住していった人びとはサトウキビ労働に従事します。サトウキビ労働者の70%が日本人で、その規模は27,000人といわれます。移住といっても、当初は出稼ぎ労働者だったようです。契約期間が終わり沢山の人がハワイに残りました。

日系アメリカ人の活躍がハワイの政治や経済を支えています。政治の面では、ハワイ州選出でアメリカ初の連邦上下院議員となったダニエル・イノウエ(Daniel  Inouye)とかアメリカ全土の州知事で最初のアジア系知事となったジョージ・アリヨシ(George Ariyoshi) らが有名です。日本の文化は、仏教徒の比率が高いこと、寺院や神社が州内のあちこちでみられることにあらわれています。

ハワイの学校で目立つのは、私立学校が非常に人気があることとです。その代表がカメハメハ・スクールズ(Kamehameha Schools)です。1887年に創立といいますから歴史は古いです。かってハワイを治めていたカメハメハ一世(Kamehameha I) の直系の子孫であるバーニス・ビショップ (Bernice Pauahi Bishop) という人が設立した学校です。この学校には、先住ハワイアンの血筋を引く者が優先的に入学できるようになっています。

カメハメハ・スクールズの創立は1887年。学校はハワイ全土で展開し、早期教育から高校教育までの課程に5,416名の子どもが学んでいます。単独の学校としては全米一の生徒数を誇っています。カメハメハ・スクールズはカメハメハ一世の遺産を継承して、豊かな資金を誇っています。そのため施設はもちろん、教育内容がきわめて充実しているという評判です。ホノルル市街の丘陵にメインのキャンパスがあります。メディア教育センター(Media Education Center) の充実は特に目を奪われるほどです。予約をすれば見学ができます。

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アメリカの学校は今 その四  奨学金にはROTCかPell GrantかGI Billを

rfdfdr-sfspan images rotc-image2「どこの大学で勉強しようか」と思案するのは高校生には一つの関門であり特権でもあります。大学能力評価試験であるSAT、またはACTの成績が良い生徒は99%、志望するところへ入ることができます。高校には進路相談の専門員、Guidance Counselorが必ずいます。自分の学力と大学の評価基準を秤にかけ大学を推薦してくれます。

多くの生徒は地元の州立大学へ行くのが普通です。授業料が比較的安いからです。私立大学も人気があります。自分の家系の宗旨によって決めるのです。例えば、カトリック系、ルーテル系、バプテスト系、モルモン系などの大学です。こうした大学の多くは4年間勉強する単科大学(college)となっています。カリキュラムは、よくいわれるリベラルアーツ(Liberal Arts)です。学生数でいえば1,500人から2,000人くらいの規模です。

宗教系の大学には家庭が裕福な高校生が進学するのが多いです。4年間のカリキュラムがしっかりし、個別の指導が徹底し、規律のよい大学生活が魅力のようです。カレッジを卒業すると総合大学の大学院へ進むのが一般的です。私立の大学も高校も、人々から高い評価を受けるのがアメリカです。

州立でも私立でも成績がよいと奨学金を貰ったりローンを組んで勉強します。アメリカの大学は、資産 (endowment) が公表されています。多くは企業や地元からの寄付や同窓会からの支援金、教会信徒からの献金のことです。奨学金はこうした資産が基となっています。有名大学ほど資産が多いのは当然です。

ほとんどの大学には、陸海空軍および海兵隊の将校を養成する予備役将校訓練課程 (Reserve Officers’ Training Corps: ROTC)もあります。在学中は学費の一部か全額が支給され、加えて数百ドルの奨学金が与えられます。こうした学生は軍服姿で校内を歩いています。ただ卒業後は2年間の兵役義務があります。経済的に貧しい学生や将校となりたい学生は、兵役と引き替えにROTCプログラムで勉強するのです。日本政府もROTCを参考にした仕組みを作ろうとしたことがありますが実現しませんでした。韓国ではソウル大学など全国16大学でROTCプログラムを導入しています。

「Pell Grant」という連邦政府が支出する学部学生向けの返還不要の奨学金もあります。最高限度額は5,815ドルとなっています。「GI Bill」という一種の奨学金もあります。一定期間以上兵役について退役すると大学や職業学校の授業料や生活費として貰える資金のことです。なお「GI Bill」とは「復員軍人再復帰法」 (Servicemen’s Readjustment Act)という法律のことです。

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アメリカの学校は今  その三 国際バカロレアとは

img_0212-250 images eb国際バカロレア(International Baccalaureate: IB)の歴史です。創立は1968年というのですから、意外と歴史は浅いです。この組織はスイス民法典に基づく財団法人国際バカロレア事務局で、スイス(Switzerland)のジュネーヴ (Geneva) にあります。

IBとは、本質的には単なる大学への入学資格をとるものでも、教育プログラムでもありません。「教育を通してよりよき世界を創造することにある」と謳っています。創設以来、世界共通の大学入学資格として広まり資格認定書であるディプロマ(Diploma)を使って、若者へ海外の大学へ進学することの門戸を広げてきました。現在、IBプログラムを有する高校は世界で4,527校、IBプログラムの種類は5,865に及んでいます。日本は今なお、たったの28校という寂しさです。

IBプログラムの分布を地理的にみれば高校の61%が、IBプログラムの57%が南北アメリカ大陸にあります。その大半は北米にあるといわれ、そのせいでしょうかアメリカやカナダの大学は、IB-Diplomaを受験生の選抜に使っています。

次に、「Baccalaureate」の意味です。もともとは、17世紀にフランスで始まった国家公務員になるための行政学院の最終試験のことです。今は、フランスの大学入学資格および試験のことを指します。Baccalaureateはフランス語では「学士」という意味です。ラテン語の「baccalureatus」が語源で、学士ーbachelorというように使われました。ちなみに、「laureate」とは知的で創造的な業績に対する賞を意味します。ノーベル賞受賞者(Nobel Laureates)はその代表です。Baccalaureateのもう一つの意味は、卒業式直前の日曜日に挙行される卒業記念礼拝ということです。

IBディプロマを取得するためには以下の3つの分野での単位が要求されます。
1  課題論文 (Extended Essay)
2  知識の理論 (Theory of Knowledge)
3  創造性・活動・奉仕 (Creativity, Action, Service)

ディプロマの試験で、「個人と社会」のうちの「歴史」の問題の一例を紹介します。これを英語で回答するのには、日頃の時事問題の理解と英語力、特に修辞が要求されます。

●What were the most frequent causes of persecution of minorities? Support your answer with specific examples.
(少数民族を迫害する最も多くの原因はなにかを、いくつかの具体的な例を挙げて答えてください。)

さて、ディプロマの試験45点満点で24点以上をとるとディプロマを取得することができます。志望するアメリカの大学に受験申し込みをするには、ディプロマの他にTOEFLなどの英語能力試験の結果を添えなければなりません。

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アメリカの学校は今  その二 新しい教育プログラムと留学

images-1 images 2012-03-21-staibworldschoolpageimage現在、新しい教育プログラムを提供する高校が日本で増えています。それは国際バカロレア・プログラム (International Baccalaureate: IB)です。16歳から19歳を対象としたプログラムであり、二年間の所定のカリキュラムを履修し、最終試験にて一定程度の成績を収めると、国際的に認められる大学受験資格 (国際バカロレア資格)が得られるというものです。

今、国内には28の高校がこのプログラムを提供しています。我が国でIBプログラムが始まったのは1979年。多くは私立の進学校、大学附属校、国際高校などです。こうした高校は国際バカロレア認定書(Diploma)を取得させることをうたい文句にして、生徒を集め海外の大学への進学を促進しようとしています。

世界中の多くの大学が、 IB取得を入学選考の対象にしています。アメリカのほとんどの州立大学や私立大学、イギリスのケンブリッジ大学、オックスフォード大学もそうです。日本でもすでに多くの大学が、 IB資格の点数を推薦入試に利用しています。国際基督教大学、上智大学、早稲田大学、筑波大学、慶應大学、東京大学、北海道大学など306校が海外のIB取得者に入学の門戸を開きました。

先日のUS Education Fairで、ウィスコンシン大学のブースにやってきた高校生が、どの位のIB得点が必要だろうかと問い合わせてきました。ウィスコンシン大学システムにある13のキャンパスはすべてIB取得を選考の基準の一つに含めています。大学によってIB資格の点数は異なりますが、超一流大学では45点満点中、35点から40点以上は必要といわれています。

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アメリカの学校は今 その1 海外留学の説明会

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An aerial view from a helicopter highlights the central portion of the UW-Madison campus including the historic Bascom Hill area during a sunny autumn day on Oct. 7, 2006. Clockwise from lower left is Music Hall, the Law Building, South Hall, Bascom Hall, North Hall, the Education Building and Science Hall. In the background is Picnic Point and the Lake Mendota shoreline. ©UW-Madison University Communications 608/262-0067 Photo by: Jeff Miller Date: 10/06    File#:   D200 digital camera frame 1178

An aerial view from a helicopter highlights the central portion of the UW-Madison campus including the historic Bascom Hill area during a sunny autumn day on Oct. 7, 2006. Clockwise from lower left is Music Hall, the Law Building, South Hall, Bascom Hall, North Hall, the Education Building and Science Hall. In the background is Picnic Point and the Lake Mendota shoreline.
©UW-Madison University Communications 608/262-0067
Photo by: Jeff Miller
Date: 10/06 File#: D200 digital camera frame 1178

img_0572今回から暫く海外留学を巡る大学や高校教育の内容を、アメリカに焦点をあてて紹介することにします。

今やどの大学も学生の募集に躍起となっています。人口の減少とか貧困の蔓延などによって大学進学者が減少傾向にあることが起因しているようです。

先日、在日アメリカ大使館主催のUS Education Fairという留学説明会に参加しました。説明会に出展する多くは私立の単科大学(College)やコミュニティカレッジ(Community College)です。出展する中には、州立大学もあります。私は昨年に続き東京と大阪の説明会にボランティアとしてでかけました。アメリカの大学も海外からの留学生の獲得に奔走しています。世界中にある同窓会組織を通して大学のPRに努めているのです。

留学生集めに忙しいのは単科大学(College)だけではありません。ハーヴァード大学(Harvard University)、プリンストン大学(Princeton University)、コロンビア大学Columbia University、スタンフォード大学(Stanford University)、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology:MIT)も積極的です。以上の超一流の大学は私立大学です。ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)は州立ですが、留学生募集活動に積極的なのは例外ではありません。

海外からの優秀な学生や院生、研究者を取り込み、教育や研究の質を高めようとしているのが大学の実情です。留学生の能力が高いことは大学関係者なら皆知っています。ですからこうした頭脳を一人でも集めたいのです。

今回、東京大学でアメリカ史を研究しているという博士課程の院生がウィスコンシン大学のブースにやってきました。東大で博士号を取得するか、ウィスコンシン大学で取得するかで迷っているという贅沢な志望の女性でした。既にウィスコンシン大学の歴史学の研究内容や師事したい教授を調べていて留学の動機は極めて高い人です。多くの論文も読んでいることが十分に伝わってきました。

私の助言は、推薦状やレジメ、志望動機のエッセイをきちんと作ることくらいでした。英文での修辞に注意を払うように伝えました。こうした志望生がブースに立ち寄ってくれるときは、こちらもついつい熱がはいります。同時に気楽でもあります。

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聖書の中の女性の生き方 その二十 「シオニズム」

pic2 palestine3 02b 202471_a_palestinian_child_sits_above_the_ruins_of_his_ruined_home1時代を経て、イスラエルの地に故郷を再建しユダヤ教を中心としたイスラエル文化の復興という近代的運動が起こります。これがシオニズム (Zionism)です。この運動を最初に唱道したのはモーゼス・ヘス (Moses Hess)というユダヤ系のドイツ人哲学者です。

ヘスは、歴史を次のように把握します。すなわち、歴史とは民族の囲み合いであり国家間の闘争であるというのです。1800年代になるとイタリアで民族主義が台頭しドイツもまたそうした主義に呼応していきます。

イタリアの中部を旅行しますと城塞都市があちこちに見られます。中世以降、イタリアは都市を中心とした小国に分裂していたことが分かります。こうした小さな国家はオーストリアやスペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていた歴史があります。こうしてイタリアの統一と独立の機運が起こるのです。これがイタリアの民族主義運動です。さらにドイツを中心にに反ユダヤ主義 (anti-semitism)も勃興します。Anti-semitismとはユダヤ人に対する敵視、偏見、差別意識のことです。歴史学者のハインリヒ・トライチュケ(Heinrich Treitschke) がユダヤ人、社会主義、普通選挙などを強く排撃します。反ユダヤの言動は後年のナチスによって継承されます。とまれ話はいささか進み過ぎました。

少し時代を戻します。ユダヤ人の同化主義(assimilationism) が広まります。ヘスはこうした同化主義に対して、1862年に「ローマとエルサレム」(Rome and Jerusalem)という本の中で「ドイツ社会はユダヤ人に対して寛容ではない。ユダヤ人は自分の民族性を否定することによって他の民族の軽蔑を招いている、反ユダヤ主義には、パレスチナ地にユダヤ人社会主義共和国(Jewish socialist commonwealth)を建設することで対抗すべきだ」と主張します。ヘスはナチズム(Nazism)をすでに予言していたといえます。

Encyclopedia Britannicaによりますと、ヘスは1897年の8月にスイスのベーゼル(Basel, Switzerland) においてシオニスト世界会議(World Congress of Zionists)を主宰し、世界シオニスト機構 (World Zionist Organization) の初代会長となります。イスラエルが独立を宣言したのが1948年です。ヘスは独立の40年前に他界します。

失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動の活動家の一人にセオドア・ハーツル(Theodor Herzl) がいます。ジャーナリストや作家として1895年に「The State of the Jews」という本をあらわします。ハーツルはヘスを高く評価し、 ユダヤ系オランダ人の哲学者、スピノザ (Baruch Spinoza) を凌ぐ哲学者であると書いています。ハーツルもまた後に世界シオニズム機構で活躍します。

ユダヤ人は1948年5月にイスラエル独立を宣言します。これに対しアラブ諸国はパレスチナ人を支援するためパレスチナに侵攻、第一次中東戦争が勃発します。国連の仲介により両陣営は6月11日から4週間の停戦に至ります。これ以来四度にわたる中東戦争が続きます。

1956年10月、エジプトのナセル大統領 (Gamal Nasser)のスエズ運河(Suez Canal)国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が起こります。イスラエルはゴラン高原 (Golan Heights)やエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸(West Bank)を占領します。さらに1967年5月に6日間の第三次中東戦争、そして1973年10月にはエジプトとシリアによるイスラエルの奇襲、いわゆる第四次中東戦争へと続きます。

1978年9月にイスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意がなります。これが「キャンプ・デービッド合意」(Camp David Accords) です。この合意によりシナイ半島(Sinai Peninsula)はエジプトに返還されますが、パレスチナの自治については協議は決裂します。その後パレスチナ人の統治について協議を開始しますが、今もパレスチナ問題は根強く続いています。

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聖書の中の女性の生き方 その十九 「イスラエル」

michelangelo_buonarroti_020 10145224957 sadat_carter_begin_handshake_cropped_-_usnwrイスラエル(Israel) は中東のパレスチナに位置し、東はヨルダン (Jordan)、北東はシリア (Syria)、北はレバノン(Lebanon)、西は地中海に、南はエジプト(Egypt) と紅海に接しています。ガザ地区(Gaza)とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)(Palestinian National Authority) とは南西および東で接しています。首都はエルサレムです。

イスラエル(Israel) という国名ですが、アブラハム(Abraham)の孫にあたるヤコブ(Jacob)の別名である「イスラエル」に由来するといわれます。ヤコブが神と組み合った際に与えられた「神に勝つ者」を意味する名前が「イスラエル」です(創世記32:23-33)。ヤコブは古代イスラエルの王の祖先であり、伝統的にはユダヤ人の祖先と考えられています。

古代イスラエルはカナン (Cannan) の地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいました。この地は肥沃な三日月地帯であり、ユダヤ人の祖先となるヘブライ人(Hebrew)も移住してきます。ですが、飢饉などが襲い子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となります。長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人は、イスラエルを征服し紀元前11世紀頃イスラエル王国をつくります。いわゆるダヴィデ王 (David)やソロモン王(Solomon)の時代です。古代イスラエルの最盛期といわれます(サムエル記, 列王記)。

イスラエル王国はアッシリア(Assyria)に滅ぼされます。アッシリアは今のイラク(Iraq)といわれます。さらに南のユダ王国(Judea)は新バビロニア(Babylon)に滅ぼされます。新バビロニアもペルシア帝国(Persian)に滅ぼされ、その後パレスチナの地はアレクサンドロス大王(Alexander the Great) の東方遠征により征服されます。さらにローマ帝国によってユダヤ属州となります。総督の一人がポンティウス・ピラトゥス(Pontius Pilatus)です。

このような戦乱は多くのユダヤ人を海外に離散させる結果となります。いわゆる離散ユダヤ人(ディアスポラーdiaspora) です。Diasporaとは「散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉です。世界中にユダヤ人は「蒔き散らされ」ます。

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聖書の中の女性の生き方 その十八 「エジプト」

135704553148913115823_kaidokuhyou pyramid_by_flucid-dah6yq9 pyramiddatepalms古代では、所有物扱いをされていたのが女性です。人質、側女、女郎、、、性の奴隷といえます。誠に女性には生きにくかった時代だろうと察します。ですが当時の文化や風習を乗り越えるほどの意志が強い女性がいたのも事実です。その舞台となった二つの国、エジプト (Egypt) とイスラエル (Israel)の歴史を振り返ることにします。

エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成していたというのですから驚きです。ピラミッド (Pyramid) や岩窟墓群である王家の谷、聖刻文字と呼ばれるヒエログリフ(hieroglyph)などを通じて、人類の文明史の歴史観でいわれる世界四大文明発祥の一つとして発展してきました。教科書にはメソポタミア文明 (Mesopotamia)、インダス文明 (Indus)、黄河文明 (Yellow River)、そしてエジプト文明 (Egypt) とあります。すべて大河の流域で発展したところです。

エジプトとイスラエルの歴史はなかなか複雑です。多くの争いの渦中にあって人々はしぶとく生きてきた歴史があります。旧約の時代、アブラム(Abram)とサライ(Sarai)はユダヤの地が飢饉におそわれたとき、一族と家畜を連れてエジプトへ逃れたことがあります(創世記12章)。

エジプトの国力の基礎はナイル川(Nile) 流域とデルタ広がる豊かな穀倉地帯です。経済的な豊さと政治的な安定は世界中から人々の移住をもたらしたといわれます。何世代にもわたってエジプトに移住したイスラエル人も多く、古代イスラエルの民族指導者といわれたモーセ (Moses) に率いられたユダヤ人がファラオ(Pharaoh)が王のとき、エジプトを脱出したこと(Exodus)も出エジプト記で知られています(出エジプト記13-14章)。後に、ヨセフとマリアもイエスと連れてヘロデ王(Herod)の迫害を避けて一時エジプトへ避難したこともあります。

エジプトはその経済的な豊かなのゆえに、周りの国々からの侵攻を受けます。リビア (Libya) 、アッシリア (Assyria) 、スキタイ (Skythai)といった古代国家です。そのため北アフリカやアジアに対する支配力の弱体化を招きます。新興国であるバビロン (Babylon)の攻撃、そしてペルシャ (Persian)帝国による占領と属国化など幾多の変遷を辿ります。当時最も豊かであった国も他国の侵略には抗することができない時代がやってきます。

その後のエジプトの近代と現代は、植民地主義という国家主権の対外的拡大と富の収奪に翻弄される歴史です。

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聖書の中の女性の生き方 その十七 「万人祭司」

106154 theprieshoodofallbelievers 111355旧約聖書の時代の女性は、男性優位の伝統と文化にあって辛い地位にありました。その中でも男性に伍して傑出した指導者や預言者、そして家長のように家族をとりしきった女性がいたことを既に紹介しました。エリザベート(Elizabeth)、レベカ(Rebekah)、デボラ(Deborah)などの女性です。あたかも祭司のような役割を担った女性です。そうした女性の存在は今に至るまで宗教の世界にも及んでいます。

あまり聞き慣れない言葉かもしれません。それが「万人祭司」(the priesthood of all believers) です。「万人祭司」とは、プロテスタント教会の根本的な教義の一つのことです。その原典は新約聖書の聖句にあり、すべてのキリスト者が祭司であるというキリスト教の教えのことです。

宗教改革者(Ecclesiastical reformer)といわれたマルティン・ルター(Martin Luther)は、1520年その著書「ドイツのキリスト者貴族に与える書」 (To the Christian Nobility of the German Nation) の中で、神の目からみれば、キリスト者がすべて「祭司ーPriest」であると主張したのです。

ルターが「万人祭司」の考え方の根拠とした聖句は、「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の庇護にある民です(第一ペテロ2:9) 」です。
‘You are a chosen people, a royal priesthood, a holy nation, God’s special possession.

さらに、「私たちの神のために、この人々を王国とし祭司とされました。彼らは地上を治めるのです(黙示録5:10)」という箇所も「万人祭司」とか「全信徒祭司」という考え方の根拠となっています。

ルターがなぜ「万人祭司」ということ主張したかには理由があります。中世カトリック教会には、ローマ教皇によって叙任された「聖職者」が神とつながり、一般の信徒は聖職者を通してのみ神につながると考えられていたことです。さらに「霊的」(Spiritual) と「世俗的」(Secular)という二つのグループにキリスト者が分けられていると考えていたのがカトリック教会でした。彼はこうした教条的なあり方を批判します。

「祭司」ですが、初代キリスト教会では長老(Elder、Presbyter)、監督教会や聖公会では司祭(Priest  Clergyman)、メソジスト(Methodist)やバプテスト(Baptist)教会では牧師(Pastor, Minister) という名称を使います。

宗教改革後のプロテスタント諸派には「聖職者」との呼称や役割は存在しないとして、祭司は、教役者とか教職者としての意味で使われ、教会の指導にあたるとされます。

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聖書の中の女性の生き方 その十六 「エバ」

139 b0140046_42382 adam_and_eve_expelled_from_paradiseまたの名をイブ(Eve)。彼女は旧約聖書の最初の書、創世記 (Book of Genesis) に出てきます。 創造という神話のような世界ですが、最初に登場する女性がエバです。イスラムの世界では、彼女はアダム (Adam) の妻とされます。Eveという名は、生きもの (living one)とか 命の源(source of life)という意味です。ヘブル語の「Eve」 とはアラビア語の蛇(snake)に類似するというのですから興味あることです。

創世記によりますと、神は最初の人間アダムを土の塵から造ったとあります。アダムとはヘブル語の「Adama」、「土」という意味です。最初の男女の一組を「神にかたどって創造した」というのです(創世記1:27)。「神にかたどって」とはどのような生きものも大切な存在であり、神の豊かさを現す必要があるということです。これが聖書の人間観です。他方、バビロニア人 (Babylonians)は、人間は神の奴隷であると考えます。聖書では人間は被造物の支配者として描かれます。

神はエデンの園(Garden of Eden)でアダムを眠らせそのあばら骨から女を作ります(創世記2:22)。神はアダムとその妻エバに「産めよ、増やせよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地に動く生き物をすべて治めるよ」と命じます(創世記2:28 )。エデンの園には命の木と善悪の知識の木という特別な木が生えています。不幸にもアダムは蛇の嘘を信じたエバから禁断の実(Forbbiden fruit)をもらいそれを口にします(創世記3:6 )。ために子孫は死すべき運命を背負うとされます。これが原罪 (Original sin)で、やがて人間は原罪で苦しめられていきます。

エバを誘惑した蛇を断罪した神は次にエバに対して二つの罰を科します。出産の際に苦しむこと、夫によって支配されることです。アダムもまた死すべき運命と、報われない厳しい肉体労働を宣告されます(創世記3:16-19 )。

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聖書の中の女性の生き方 その十五 「サラ」のその後

michelangelo_buonarroti_020 images noahペルシャ湾 (Persian Gulf) の近くのウル(Ur)で生まれたアブラハムはノアの方舟(Noah’s Ark) で知られるノアの子孫です。異母兄弟であったサライ(Sarai)と結婚します。やがて「サラ(Sarah)」と呼ばれることについては以前述べてきました。

創世記12:1には「わたしが示す地に行きなさい」とあります。この地とはパレスチナ(Palestine)のカナン(Cannan)でありました。こうして神はアブラハムにパレスチナを与えると、富、名声、子孫を約束します(創世記12:3)。

アブラハムとサラは高齢になりますが、子供が生まれません。当時の習慣にそって僕に家を継がせようとします。サラの意見に従ってアブラハムは、サラのエジプト(Egypt) 人女奴隷であるハガル(Hagar)を側女に迎えます。そしてイシュマエル(Ishmael)が産まれます。神はアブラハムに対してイシュマエルは約束した子孫でないと告げます。やがて高齢のサラも妊娠しイサク(Isaac)を産みます(創世記21:2-3)。

サラが跡取り息子のイサクを産んだので、アブラハムにハガルとイシュマエルを一族から追放するよう願い出ます。そのときアブラハムは86歳でした。その後、アブラハムは神からの試練を受けます。イサクを捧げ物とするようにアブラハムに命じますが、最後の瞬間に止めさせ、代わりに雄羊を捧げさせます(創世記22:12-14)。

サラが127歳で亡くなると、アブラハムは再婚しイサク以外に妻や側女との間に子を儲けます。彼が亡くなったのは175歳とあります(創世記25:7)。

後年、サラの側女ハガルに対する扱いが虐待のようであったという説があります。またサラは自立した女性としても描かれています。一般にサラの性質を象徴する言葉として豊穣、忍耐、寛容があげられています。

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聖書の中の女性の生き方 その十四 「レベカ」

rebekah-isaac rebecca 65761_rbkah_welcm_mdアブラハム(Abraham)とサラ(Sarah) の息子イサク(Isaac)は40歳になっても一度も結婚していませんでした。そこでアブラハムは故郷の親戚から嫁を探すために、僕のエリエゼル(Eliezel)を送り出します。

彼はある町の近くまでくると次のように神に祈ります。

町に住む女達が井戸で水を汲みにやってきたとき、その内の一人の娘に、「水瓶を傾けて飲ませてください」と頼みます。彼女が 「どうかお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」 と答えればあなたが、あなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによって、わたしはあなたが私に慈みを示されたのを知るでしょう。(創世記24:14)。

井戸にやってきた娘は、祈りの条件を全て満たします。これがレベカ(Rebekah)です。エリエゼルは高価な装飾品や金貨をその場でレベカに渡します。そして、一夜の宿を提供してくれるようレベカの頼みます。レベカはエリエゼルを自宅に招待し、エリエゼルはレベカの家族に自分がやってきた目的を語るのです。

レベカがイサクとの結婚に乗り気なのがわかると、エリエゼルと共に家族はレベカをイサクのもとに送り出します。やがてレベカは野原でイサクと出会います。始めてイサクを目にしたレベカはらくだを下りて、ベールを被るのです。

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聖書の中の女性の生き方 その十三 「デボラ」

Prophetess-Deborah-Judges-Women-of-the-Bible-e1349912955179 judges-910x390 053.Deborah_Praises_Jael箴言(Proverbs)31章10節にはデボラ (Deborah) は高貴な妻であり、士師記 (Judges)章5節には、ララピドス (Lappidoth)の妻であり預言者であると記されています。デボラはカナン(Cannan) の王ヤビン(Jabin)がイスラエルを統治していた頃の士師であるともいわれます。

あるとき、デボラはイスラエルの将軍バラク(Barak)に神がバラクがナフタリ(Naftali)とゼブルン(Zebulun)の部族を率いてセビンの軍隊を撃つように求めていると告げます。そして次のように言います 「セビンの将軍シセラ(Sisera)をおびきだすので、バラクは待ち伏せすればよい」(士師記4:6-10)。

士師記5章7-10節には次のように記されています。
「イスラエルには農民が絶え、かれらは絶え果てたが、デボラよ、ついにあなたは立ちあがり、立ってイスラエルの母となった。人々が新しい神々を選んだとき、戦いは門に及んだ。わたしの心は民のうちの喜び勇んで進み出たイスラエルのつかさたちと共にある。主を賛美せよ。」

そしてデボラはいいます。
「どのような知恵もどのような叡智も勧めも主の御前には無に等しい。戦いの日のためには馬が備えられるが、救いは主による。」

箴言の最終章である31章で、作者はデボラを次のような詩で飾ります。

高潔な妻、(Virtuous wife)、宝石以上の尊い女性、(Her worth is far above rubies)、貧しい者への慈悲(She stretches out her hand to the poor)、知恵ある言葉の持ち主(She opens her mouth with wisdom)、家事をとりしきる妻(She looks well to the ways of her household)。

デボラは「蜂蜜」という意味で、聖書には「イスラエルの母」と記されています。建国の父とか中興の祖と同じように尊敬の念がこめられています。

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聖書の中の女性の生き方 その十二 「エリザベト」

elizabeth Bowyer_Bible_artists_image_9_of_10._the_visitation_of_Mary_to_Elizabeth._Bonvicino%5B1%5D maxresdefaultエリザベト(Elizabeth)は洗礼者ヨハネの母として知られています。イエスの母、マリアの従姉妹でもあります。夫は祭司であるザカリア(Zacharias)です。

Elizabethという名前はポピュラーです。Elisabethともいわれます。Wikipediaによりますと、Elizabethはもともとヘブライ(Hebrew)語名のエリシェバ (Elisheba) がギリシア語に転じたものでエリシェバのエリ(Eli)はヘブライ語で「わが神–My God」、シェバ(sheba) は「誓い–sworn」を意味し、エリシェバとは「わが神はわが誓い」と解説されています。

エリザベトがヨハネを身ごもったとき、従姉妹のマリアが訪ねてきます。そのとき、エリザベトの「胎内の子がおどった」とあります(ルカ1:41)。エリザベトは聖霊に満たされマリアに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と告げます。(ルカ1:42−45)

彼女はローマカトリック教会や東方正教会(Eastern Orthodox Church)、聖公会(Anglican Church)では聖人として崇敬されている女性です。また、妊婦の守護聖人ともされています。東方正教会は9月5日、ローマカトリック教会は11月5日を祝祭日としているくらいです。

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聖書の中の女性の生き方 その十一 「サロメ」

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新約聖書の中には、悪女とみなされる女性も登場します。サロメ(Salome)です。サロメはヘロデ・アンティパス(Herod Antipas) 王の継娘です。イザベル(Jezebel)という女性もそうです。彼女はイスラエル王国のアハブ王(King Ahab)の王妃です。イスラエルの神、支配者としてバール(Baal)を信仰した女性です。Jezebelとはヘヴル語で「不貞」とか「糞の山」という意味だそうです。

さて、紀元前37年頃から、パレスティナ・ユダヤ(Palestine-Judea)地区に成立された国家はヘロデ一家による支配によるもので、ヘロデ朝(Herodian Dynasty)と呼ばれます。ヘロデの孫娘にヘロディア(Herodias)がいました。彼女は最初は王位継承者であるヘロデ二世のポエトス(Poetos)と結婚しますが、ポエトスは暗殺されます。そして叔父であるヘロデ・フィリポ(Herod Philip)と結ばれます。その間に生まれたのがサロメです。

このように姻戚結婚を繰り返すヘロディアに対して洗礼者ヨハネ(John the baptist) はモーセ(Moses) の律法に反するとして非難するのです。ヨハネは民衆に人気があり、ヘロデは不人気でした。そこで反乱を恐れたヘロデはヨハネ投獄するのです。

ヘロデの誕生祝いの席で、ヘロデはサロメに列席者の前で踊りをさせます。喜んだヘロデは、酔ったあげくサロメが望むものならなんでも与えると叫びます。サロメの母、ヘロディアは、盆に載せたヨハネの首を求めるようにサロメにいいます。衆人の前で宣言したヘロデは約束を破るわけにいかず、ヨハネの首をはねるように命じるのです。この様子はマタイによる福音書14章(Matthew 14)に記述されています。

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聖書の中の女性の生き方 その十 女性の執事の「プリスキラ」と夫のアクラ

RH-PaulMakingTents_DSC_0050 aquilabella2taglioultralight AandPパウロ(St. Paul) が始めた教会では、女性にいろいろな役目があって、教会の前でみ言葉を取り次ぐ役目さえも女性が果たしていました(第一コリント11章5節-1 Corinthians 11:5))。この教会の中には、寡婦と年とった女性に、特別なディアコニア(diaconia)という奉仕や介護がありました。伝道師アクラ(Aquila) の妻プリスキラ (Priscilla)はパウロの同労者であり、友達でもありました(ローマ書16章3節-Romans 16:3)。この女性はまた、すぐれた執事でもあったようです

まずローマ書16章に出てくるプリスキラとアクラの二人についてです。パウロは、最初にこの二人に会ったのはコリントの教会でした。テモテへの手紙第一(1 Timothy)にもでてきます。やがてこの二人がローマの教会で働き、パウロを助けるのです。新約聖書の中で何度も出てくるのがこの夫婦です。使徒行伝18章2節(Acts 18:2) には、アクラはポント(Pond)生まれのユダヤ人で職業は天幕作りであったと記されています。プリスカもおそらくユダヤ人でしょう。パウロもまた天幕を作る仕事をしていた。天幕は山羊の皮と毛で作られました。プリスキラとアクラと一緒に天幕で暮らしていたと思われます。

ローマ書16章3節の言葉です。
「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」

その他の女性の執事に関する記述ですが、ピリピ人への手紙4章(Philippians 4:2-4)では、ユウオデヤ (Euodia)とスントケ(Syntyche) という女性の同労者の名前が出てきます。この女性たちは福音を広めるためにパウロと協力して戦った、とまで書いてあります。伝道のわざに励んだ女性だったことがうかがわせます。

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聖書の中の女性の生き方 その九 男性優位の社会

76c700313538d1588f0d706f1972dfa4-400x400 e0011664_21492687 1852556-神聖な聖書勉強の女性聖書は登場する人物が描かれた書といわれます。時間を軸とした歴史書のような記述ではありません。よく知られた人物もいれば、なにをしたかがはっきりしない人々も登場します。

旧約時代も新約時代も共通することですが、女性は男性優位の社会にあって時に虐げられ、産みの苦しみを経ても、いつも家族を形成する中心でした。生きることのしたたかさや力強さを伝える存在でもあります。このブログで女性を取り上げている理由は、私たちの興味をかきたてるに十分な特徴と魅力を持った存在であることです。

こうした女性は後世の人々の想像の世界で生き続けただけでなく、芸術という創造のうちに生き続ける存在でもあります。フレスコ画や音楽に、彫刻やステンドグラスに、散文や韻文に残されています。こうした芸術作品が私たちの女性についてのイメージを豊かにしています。

ここで取り上げている女性は人名事典ではなく、人名の索引を少し膨らませた私の「好み」によって選ばれています。聖女といわれるマリア(Maria)もいれば、悪女といわれるサロメ(Salome) もいます。共通することは、どの女性も個性的であり真摯な生き方をしていたということです。

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聖書の中の女性の生き方 その八 女性の按手

Anglicancanada.rel ordinationhands ORD38T按手 (Ordination) はキリスト教会で行われる儀式の一つです。教役者・教職者を任命するとき、司教や監督などが牧者としての権能や必要な賜物を志願者へ授与しその継承を神に誓うことです。もちろん他の宗教も同様な儀式を執り行い、新しい霊的な指導者の出発を祝います。

多くのキリスト教会はいまだに女性の教職を認めていません。この伝統は長らく議論されてきました。その根拠は聖書のいくつかの箇所にある言葉によります。例えば、パウロの手紙は言います。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」 (エペソ人への手紙5章21節) さらに「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい」。キリスト教徒は、皆が互いに従わなくてはなりませんが、男性は女性のかしらとされています。女性は特に男性に従わなければならない、といった言葉です。

なにか男女の序列を聖書は主張しているようですが、そうではありません。かしらの頂点には神があり、人間はその下で秩序を形成しているというのです。戸籍にある筆頭者と考えればよいでしょう。あるいは世帯主ともいってよいでしょう。この両者には違いがありますが、、、教会の大事な役割や仕事を女性に任せることはできないという考えは聖書にはありません。

性別に関係なく「全ての人が生ける石となって祭司とする」と教えられています(ペテロの手紙第一2章5節)。既述してきましたが、旧約聖書や新約聖書の他の箇所でも女性が教会の中で活躍しており、教職者への召命は全ての人に臨む可能性があるということから、女性も教職者として召されると考えるべきであるという考えが浸透していきました。

1853年にイングランド(England) において女性が初めて按手礼を受け、遅れること1933年には日本基督教会が女性の牧師を誕生させます。スウェーデンルーテル教会(Swedish Lutheran Church)は、1958年に女性牧師を按手します。1989年にはマサーチューセッツ(Massachusetts)の聖公会(Anglican Church) が最初の女性主教として按手されます。イングランド国教会(Church of England) では、1994年に女性司祭の叙任が認められ、その後数百人の女性司祭が誕生しています。イングランド国教会は聖公会のことです。

旧約聖書時代では、女性は祭司になれませんでしたが、キリストを信じる者は男女を問わず万人祭司 (Priesthood of all believers)とされます。女性も洗礼を受けることができるようになりました。男尊女卑を撤廃したのは、長い神学論争がありましたが、最後は聖書の教えである神と人間との秩序が、女性に自由と平等をもたらしたといえます。

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聖書の中の女性の生き方 その六 女性の執事「フィベ」

Deaconess-Ministry--element60 3382718003_1623cf6c00 deacon-and-deaconess-clipart-1新約聖書の中に、次のような神と人との順序に関する記述があります。「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である」(第一コリント人への手紙11章3節)。この手紙はパウロ(St. Paul) がコリント(Corinthian) の人々に送ったものです。

コリントは、紀元前5世紀頃にはギリシアの三大都市国家といわれました。アテネ(Athens)やスパルタ(Sparta) と並ぶ古い港湾都市です。今回は、コリント地方のケンクレヤ(Cenchrea)にあった教会の働き人で、女性の執事 (deaconess)  であったフィベ (Phoebe)を取り上げます。ケンクレヤはギリシャのコリントの南東にある町です。

「女のかしらは男であり」というフレーズは、いろいろな議論や誤解を生んできました。旧約や新約聖書の時代には、こうした男女の関係が存在して秩序が保たれていたように思われます。後年、男女平等とかウーマンリブにも影響を与えました。神とキリストに上下関係がないのと同じように、男と女の上下関係を決定するものではなく、役割を示唆した言葉ということを示唆しています。

教会には司祭とか牧師といった聖職者あるいは教職者がいます。神学教育を受けて按手(ordained)された人です。按手とは、教職者の権能や役割を志願者へ授与し、教職者として任命する儀式のことです。聖書の講解、結婚式や葬儀などの式典を担う人です。こうした人は、聖書の神と人の順序の記述にあるように、男性に限られてきました。

教会は教職者だけでなく、それを補佐する者、教会教育や音楽、書記を担当する者などから構成されます。この教職者を補佐する者は「執事」(deacon) と呼ばれています。女性もまた執事(deaconess) として奉仕します。「執事」という言葉は「しもべ」(servant) 、「仕えるもの」を意味するギリシャ語の「diakonos」から由来しています。

ローマ人への手紙やピリピ人への手紙には、パウロが教会で働く女性にあいさつの言葉を送っています。特に、ケンクレアの女性執事、フィベを歓迎するようにということをローマのキリスト教徒に頼んでいます。パウロにとって助けになったとさえ書いてあります(ローマ書16章1節)。

パウロはいいます。「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください。この人は多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」

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聖書の中の女性の生き方 その五 マリアの賛歌

pontius_pilate Pontius-Pilate 0カトリックであれプロテスタントであれ、最も見られる名前はマリア(Maria)とかメアリー(Mary)でしょう。Mariaという名前はラテン語から由来するといわれます。ギリシャ語ではMariam、ヘヴル語ではMiryamというように使われます。いずれもMariaの類似語です。イングランドでは12世紀以来、Maryの名が最も使われ、その最盛期は16世紀といわれます。

男性の名前でもMariaは大きな影響を与えます。例えば、Marioとか Marionという名前はMariaから由来します。ともあれ、今も最も命名される女性の名前がマリア、Mariaです。ついでに男性といえばヨハネ、Johnといえるでしょう。

Mariaの由来であるMariamとかMaraという言葉です。その意味は苦悩とか苦い水(bitter water)、つまり荒野の旅の果てにたどり着いた死海の苦い水、「Marah」ということだそうです。辛いこととは困難、悲しみ、試練といったことです。マリアもまたその後、幾多の試練に直面します。処女にして懐妊するという出来事、周りの人の目、そしてイエスを生むという重圧に耐えていきます。

イエスがベツレヘム(Bethlehem)で生まれたのはジュリアス・シーザー(Julius Caesar) の養子であった初代ローマ皇帝のアウグストゥス(Augustus)の治世でした。ユダヤの国はローマ帝国の属州であり、エルサレム(Jerusalem) の周辺はローマの総督であったポンティウス・ピラト(Pontius Pilatus)によって統治されていました。ガリラヤ (Galilee)地方は傀儡の王が治めていました。ローマ帝国の支配に対する苛立ちが広まり、民は圧政から解放されることを待ち望んでいたのです。ガリラヤはマリアが天使ガブリエル(Gabriel)から受胎告知を受けたところといわれます。

ルカによる福音書1章46節から50節は「マリヤの賛歌」ーマニフィカート」と呼ばれる有名な聖句で、「マニフィカート」はラテン語でMagnificatと記されます。マリヤの賛歌の冒頭にでてくる“My soul magnifies the Lord.“にある「magnifies」、讃える、崇める、誉むという言葉からきています。マリヤの賛歌は「マリアのカンティクム」 (Canticle of Mary) ともいわれます。Canticleとは賛美歌とか聖歌という意味です。

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聖書の中の女性の生き方 その四 「マルタ」

2fec502f6b548aac5cbbe1fb2404174e img_mouseover3 Martha_and_Mary_by_He_Qi_China新約聖書のルカによる福音書に登場する女性にマルタ (Martha) がいます。イエスと弟子たちが、ベタニア (Bethany)という村にマルタとマリアという姉妹の家を訪ねます。この姉妹にはラザロ(Lazarus)という兄がいます。重い皮膚病を患っていました。ベタニアはエルサレム(Jerusalem)の東2キロ余り、オリーブ山(Mt. Olive) の南東斜面に位置しています。

Marthaとはラテン語では「婦人」とか「女主」といった意味です。マルタとマリアの性格は違います。マリアはいわゆる内向きなのに対してマルタは積極的な性格の持ち主です。

あるときイエスがベタニアを訪れます。マルタとマリアはイエスの来訪を喜びます。マルタは、イエスと弟子達のために甲斐甲斐しく世話をします。ですが、妹のマリアはイエスの足許に座り、イエスの話しに熱心に聞き入っいました。姉のマルタは心穏やかではありません。マリアが手伝ってくれないからです。

マルタはだんだんと苛立ってきます。そして、ついにイエスにその不満をぶつけてしまうのです。

「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(ルカ10:40)

マルタは、イエスはマリアの怠惰を諫めてくれると期待したようです。ところが、イエスはマリアではなく、マルタに向かって次のように言われます。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

兄のラザロが亡くなったとき、マルタはイエスに言います。
「主よ、あなたがここにおいででしたら、兄は亡くならなかったでしょう。」(ヨハネ11:20-21)

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聖書の中の女性の生き方 その三 「マグダラのマリア」

top10_conspiracy_jesus images MM Full Relief hi res新約聖書(New Testament) の中には、話題となる女性もいます。その一人がマリア(Maria)です。ガリラヤ湖(Sea of Galilee)沿いの町マグダラの出身であるために「マグダラのマリア」(Mary of Magdala) と呼ばれたといわれます。

マグダラのマリアについて四つの福音書が記述することは、七つの悪霊をイエス (Jesus) に追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたとあります。そして、復活したイエスに最初に立ち会ったのがマリアです。「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから触れないように」 と言われたのです。マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であるとされます。

しかしながら、マグダラのマリアには別な解釈もあります。ヨハネによる福音書(Gospel of John) 第8章3節以下に次のような記述があります。マグダラのマリアらしき女性ではないかという説です。

「イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派(Pharisees)の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。律法では石打ちの死刑に値する。イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言った。これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。また、イエスも女の罪を許した。」

ルカによる福音書(Gospel of Luke) 第7章37節にもマグダラのマリアらしき女性が登場します。

「この町に一人の罪深い女がいた。イエスが律法を重視するファリサイ派 の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」

この女性がどのような罪を犯したのかはわかりません。ですが性的不品行と説明されてきたようです。しかし、彼女は罪から悔悛したことが使徒ヨハネやルカの記述から伺えます。マグダラのマリアはカトリック教会、東方正教会 (Eastern Orthodox Church)、聖公会 (Anglican Church)、ルーテル教会などでは悔い改めた女性として聖なる扱いをされています。

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聖書の中の女性の生き方 その二 「サラ」

Foster_Bible_Pictures_0032-1 tumblr_inline_nvkf8xY6EP1ryni46_400 080624_sarasoju_torinin2004_edited創世記(Book of Genesis)に登場する一人の女性がサラ(Sarah)です。元の名はサライ (Sarai)です。ヘヴル語(Hebrew) で Sarahとは位の高い女性を指し、「プリンセス」とか「高貴な女性」と呼ばれていました。ユダヤ人の間ではSarahは「我等の母サラ」と呼ばれています。

彼女がアブラハム(Abraham)と結婚したのは、まだカルデア地方(Chaldea)のウル(Ur)に住んでいた頃です。カルデアとはメソポタミア (Mesopotamia)南東部に広がる沼沢地域の歴史的な呼称のことです。アブラハムの父であるテラ(Terah)の一族の移住に伴い、故国を離れてカナン(Cannan)の地へと向かいそこで定住していきます。しかし、カナンに大飢饉が起こり、サラとアブラハムはエジプト(Egypt) へ移住します。

創世記 23章1-20節には、サラは90歳で約束の子イサク(Isaac) を生んだとあります。神は、それに10年を加えて、サラは100歳まで生きたと言うのです。加えられた10年は、幼子イサクが立派な少年に育っていく期間で、母親の愛を必要とする大切な10年でありました。

やがて、妻サラが息を引き取ったとき、アブラハムはサラのために二つのことをしたといいます。一つは、サラのために悲しみ泣いたこと、もう一つはマクペラ(Machpelah)の洞窟に墓を買い、そこにサラを丁重に葬ったことです。「我等の母サラ」に対する別れの仕草です。

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聖書の中の女性の生き方 その一 「ルツ」

title-Henry-Koster-The-Story-of-Ruth-Elana-Eden-DVD-PDVD_001 1876Rooke_Thomas_Matthews_The_Story_Of_Ruth2 images話題を変えて、しばらく大昔の聖書時代に生きた女性をとりあげていきます。誠に女性には苦悩や苦労の多い時代です。女性の地位が危うかった時代でもあります。

旧約聖書にある『ルツ記』(Book of Ruth) は全4章という短い物語です。ルツ(Ruth) はモアブ(Moab)人女性です。モアブは、古代イスラエル(Israel) の東に隣接した地域で今のヨルダン(Jordan)といわれます。

飢饉があって、ベツレヘム (Bethlehem) からモアブ人の地に両親、および弟とともに移住していました。やがてマアフロン (Mahlon) と結婚し、義母のナオミ(Naomi) と暮らします。ですが子供ができぬうちにマアフロンは亡くなります。ナオミの夫と息子も他界します。息子の嫁はオルパ (Orpah) といいました。ナオミはベツレヘムに戻ることを決心します。

ナオミはルツとオルパに対して「自分の故郷に帰って再婚し、幸せをつかんで欲しい」といいます。オルパは別れて故郷へ向かいます。だが、ルツは「あなたを見捨ててあなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所へ行き、お泊まりになる所に止まります。あなたの民はわたし民、あなたの神はわたしの神、あなたが死ぬところはわたしも死ぬところ、そこに埋葬してください」(ルツ記1章8節~17節) といってナオミから離れようとしませんでした。

やがてルツはボアズ (Boaz) と結ばれます。ボアズはナオミの夫の兄弟でした。 旧約聖書の時代では、家族同士が結婚する風習がありました。これを「レビラト婚」 (Levirate marriage) と呼ばれていました。死んだ夫の代わりに、その夫の兄弟が結婚する習慣で、兄弟が寡婦の権利や義務を受け継ぐしきたりです。戦の多い社会では、当然のことながら寡婦が発生しやすかったのです。ルツもその一人でした。

ルツはやがてオベト (Obed) を産みます。オベトの子はエッサイ (Jesse) です。エッサイはイスラエル史上最大の繁栄をもたらし、その子孫は、後世理想の王とたたえられたダビデ (David) へとつながっていきます。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十五 会話にみる人間の生き様

1a07eca re02 d0093936_20573365面白い本に出会うのは誠に眼福の思いがします。「居眠り磐音 江戸双紙」もその一冊です。一冊といっても50巻に及ぶ大作の時代小説です。なんといってもこの小説の魅力は、登場人物の対話にあります。励まし、癒し、笑い、喜び、労り、切なさ、同情、風刺、省察、呆れ、叱責、苦悩、怒り、憎悪、、、父と子の絆、夫婦の愛情、師匠と師弟の信頼、ありとあらゆる感情や挙措が描かれます。そこにしみじみとした余韻が残るのです。是非、お読みいただきたい一作です。

時は江戸も幕末に近い頃。田沼意次が権勢を振るっていた時代です。関前藩の下士、坂崎磐音は藩内の権力争いに巻き込まれ、上意によってかけがえのない友を失い、その一人を殺めることになります。許嫁であった奈緖の兄がその友でした。もはや藩にとどまることができず、江戸に出て長屋に住み鰻割きで生計をたてます。

やがて両替商の今津屋吉右衛門やその大番頭の由蔵から、用心棒として厚い信頼を得ます。佐々木玲圓道場の尚武館で修行し、その人格と剣術の技によって跡継ぎとなります。「居眠り剣法」として名を轟かすようになります。そして今小町と呼ばれた美貌のおこんと結ばれます。

意次らの陰謀により次の将軍となるはずの徳川家基が毒殺されます。家基の護衛の任にあたっていた玲圓はその責任をとって自裁し、玲圓を輔弼していた磐音も深い自責の念に駆られます。道場の尚武館は取り潰されます。

磐音とおこんは江戸を逃れ意次らの刺客に追われながらも、高野山の懐の中で忍びの一派である雑賀衆に助けられなんとか生き延びます。その間に息子の空也が生まれます。塗炭の苦しみを経て江戸に戻り、尚武館を再興するのです。

ざっとですがストーリーを要約してみました。磐音の波瀾万丈ともいえる生き様が描かれているのですが、彼の周りの人物との対話がこの小説の白眉ともいえる部分なのです。皆貧乏でその日その日暮らしをしています。ですがそこに暖かい人情による助け合いがあります。毎日が不安だらけなのですが、懸命に生きようとする知恵と気概があります。

幕藩体制の綱紀が緩み、士農工商というたがは外れてきて、幕府の政治を風刺したり揶揄する余裕が庶民にも生まれます。読売という瓦版、タブロイド紙によって情報が庶民に伝わり、政治にも影響を及ぼすことになります。為政者はメディアを敵に回すことができなくなります。国内だけでなく、密かに海外との交易も盛んになり、情報が大量に出回ります。新しい時代の夜明けが近づきます。

剣の道に生きる磐音もこうした時代の変わり目を感じていきます。ですが、頑なに伝統の剣術を通して道を究めようと、息子の空也や弟子達にその奥義の深さを教えていこうとするのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十四 利次郎と辰平

bushi-04 b0287744_220377 tumblr_nuzqz7vygb1t12pz6o1_500尚武館道場には坂崎磐音の二人の筆頭弟子がいます。磐音が手塩にかけた重富利次郎と松平辰平です。長らく尚武館に住み込み、多くの門下生を指導し、紀伊藩の剣術指南でもある磐音を補佐しています。

磐音は二人が所帯を持ち、暮らしが立つように仕官するのを気にかけています。稽古の後、磐音がなにかを言い出したい思いの二人に問います。

磐音 「どうした、なにか言いたいことがあるのではないか。」
利次郎 「数日前のことです。おこん様より辰平とそれがしに五両ずつ紀伊藩の手伝い料を頂戴いたしました。」
磐音 「ほう、それはよかった。そなたたちの暮らしが立つほどの手当が出せればよいのだが、、」

磐音はおこのんのやりくりの苦労を思った。

利次郎 「辰平もそれがしも思いがけないことで、初めはお断りしました。ですが、おこん様がどうしても亭主どのの気持ちを受け取ってくだされと申され、二人して有り難く頂戴しました。」
磐音 「亭主の気持ちな。相手はこちらの気持ちまで読みおるからのう。」
利次郎 「若先生はご存じないことでしたか、、、」
磐音 「ふっふっふふ、亭主はのう、女房どのの掌で踊らされているくらいが丁度良い。円満ということかのう。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十三 お咲

19map01 pcbe-62674 672福岡藩の「下士」、猪俣平八郎がいます。「下士」とは、江戸時代の武士階級で正規の身分を持った者とはいえ、武士の下層に属し、一応は武士ながら畑仕事に従事するほど、生活が困窮していました。「郷士」とも呼ばれていました。

平八郎の幼なじみにお咲がいます。やがて二人は駆け落ちしようと誓い合います。磐音をそれを手助けしようとします。

お咲 「坂崎様、私のわがままでご迷惑をおかけします。」
磐音 「お咲どの、恋を貫くとはおよそそのようなものであろう。苦労は二人になったときから始まるもじゃ。」
お咲 「猪俣さまと連れ添うのは無謀と申されますか。」
磐音 「そうじゃない。好きな相手と添う以上、苦労は致し方ないものだと言うだけじゃ。」

磐音は、自分と昔の許嫁、奈緖とのもの悲しい過去をお咲にきかせます。そして最後に言います。

磐音 「お咲どの、自ら選んだ道じゃ、苦労もあろうが、共白髪まで添い遂げられよ。祈っており申す。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十二 竹村武左衛門の娘、早苗

1280px-Des_briques_d'acier_au_katana_-_2016-04-19 Japanese_blacksmith d825ee6d9c1e684d38eb8e63c066e20bもと伊勢は津藩の家臣が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と長屋で暮らしています。酒豪と粗野な言動で家族を困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。坂崎磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

娘の早苗は磐音の尚武館道場で住み込み女中として働いています。息子の修太郎は竹村家の嫡男となるはずなのですが、自堕落な性格で遊び仲間に引き込まれ家族を心配させています。母の勢津は息子を仕官させたいとして、尚武館道場に通わせるのですが修太郎の稽古は休みがち、自他とも剣術(ヤットウ)に向いていないことがわかります。

磐音はあるとき、修太郎を連れて鰻屋に連れて行き職人の働きぶりを見せながら食事をします。その足で、御家人にして名人研ぎ師である鵜飼面助のところにも立ち寄るのです。磐音もまた大事な刀を面助に託しています。

やがて修太郎はあちこちの刀鍛冶などを訪ね歩き、面助に師事したい考えるようになります。そして両親に自分も将来研ぎ師になりたいと相談します。しかし、両親と早苗は半信半疑なのですがしぶしぶ修太郎の申し出を受け入れます。

武左衛門と勢津が息子の刀鍛冶への修行を認めたことを知った磐音は、修太郎を連れて面助の研ぎ場を訪ねます。そして弟子入りを頼むのです。磐音の熱意にほだされたのか、面助は断るわけにいきません。磐音は早苗が弟子入り話で心配する尚武館に戻ってきます。そこにおこんの父、金兵衛もいます。

早苗 「若先生、真にありがとうございました。後は修太郎の忍耐と頑張りだけです。」
磐音 「面助様の研ぎを極めるのは並大抵のことではござらぬ。修太郎どのは時に姉の早苗どのに泣き言を言うてくるやもしれぬ。そのときはきつい言葉で追い返すのではのうて、なにか一つ、成長の証を見つけてな、褒めてやりなされ。」
磐音 「自らが望んだ道、われらも気長に見守っていこうではないか。」
金兵衛 「早苗さん、喜べ。姉があれこれ案じた甲斐があったというものだ。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十一 小田平助

jss0 cimg9827 a697佐々木玲圓道場尚武館に小田平助がいます。強い西国訛りで磐音の弟子です。もと西国の大名に仕えた下士だったようです。ゆえあって辞し、諸国を武者修行し、槍折れ術の達人となります。剣にも秀でています。玲圓や磐音に外連味のない真っ直ぐな気質を見込まれ、弟子となります。

尚武館の奥でおこんらを手伝っているのが、武左衛門の娘の早苗です。あるとき早苗は自分も武術の稽古をしてみたいと申し出ます。そこで磐音に稽古をつけてもらうことになります。それを見ていた平助がいうのです。

平助 「大所帯の尚武館、若先生ともなると左団扇かと思うたがくさ、武者修行の者より何倍も働かされるよばい。」
磐音 「小田どの、それがしも深川六間堀の裏長屋に住まいした折りのほうが、自由な時間があったような気がします。」
平助 「若いうちのたい、苦労は買(こ)うちでんせちゅう ばってんくさ、大先生もあれこれ働きなさるたい。若先生も死ぬまで働かんとちがうやろか。」
磐音 「大いにそうかもしれませんね。」
平助 「若先生のよかといえばたい、苦労は苦労と思ちゃらんことたいね。」

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その十 竹村武左衛門

ottosei4 cast03 mqdefault「居眠り磐音 江戸双紙」には、個性的な人物が登場します。江戸下町の舞台に人生の縮図が展開されます。威張りくさる武士から賭け事にはしる坊主、吉原の頂点にある花魁大夫から飯盛り屋の女中、武士の首根っこを押さえる商人から金をせしめようとする浪人などです。たがが外れてきた江戸幕府にあって、皆懸命に生き延びようとしています。

もと伊勢は津藩の家臣といわれるのですが、素性は不明。本所の南割下水にある半欠け長屋に住む貧乏浪人が竹村武左衛門です。妻の勢津と四人の子供と暮らしています。南割下水は今の両国あたりから錦糸公園、そして北十間川を経て隅田川に流れていたようです。

稼いだカネは酒に消え、家族や周りを困らせています。だが不思議と憎めないのです。竹を割った性格でズケズケとものをいいます。お金や出世には全く無頓着。磐音や品川柳次郎とは用心棒仲間です。

そんな武左衛門に対して、品川柳次郎の母、幾代の態度は誠に辛辣です。昔、習ったことがあるという薙刀を振るような勢いで武左衛門の粗野な言動を叱責します。そんな幾代が柳次郎に言います。

幾代 「そなたにあの貧乏神どのさえついておられなければ、もう少し早く出世の道が開けたでしょうに。」

柳次郎 「母上、竹村の旦那がおったればこそ、坂崎さんとも知り合い、今津屋、佐々木先生、速水様方のご親切を受けることと相成ったのでえす。貧乏神と思えばそうかもしれません。ですが、母上、竹村の旦那はわれわれにとってどれほど生きる力を授けてくれたことか。」

柳次郎の仲間思いが、厳しい母親へ精一杯の抵抗に現れています。武左衛門の娘、早苗は磐音の紹介で尚武館に住み込み女中として働くことになります。父親の奔放な性格にハラハラする娘です。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙  その九 品川柳次郎と母親の幾代

20120330_712041 img_20060414T114114610 img01磐音の用心棒仲間に品川柳次郎がいます。彼は貧乏御家人の次男坊です。江戸時代の御家人の多くは、戦場においては徒士と呼ばれる武士、平時においては勘定所とか普請の勤務、番士もしくは町奉行所の与力や同心としての職務や警備を務めていました。

大都会江戸に住む御家人は、江戸の物価高に悩まされ常に逼迫していたようです。そのため公然と内職をして生計(たっき)を支えることが一般的でありました。本所は北割下水で幕府から拝領していた古い屋敷に住む柳次郎の家も例外ではありません。団扇づくりで家計を助けています。母親の幾代は武家の矜持を失わず品川家を細腕でしっかりと支えています。

ある日、打ちたての蕎麦を土産に、磐音が北割下水の品川宅を訪れます。日がな内職の団扇作りに追われて辟易としていた柳次郎は磐音が用心棒の仕事をもってきたかと期待します。

磐音  「無沙汰の挨拶に寄りました」
柳次郎 「なにかいい仕事はありませんか?」
幾代  「柳次郎!、母と一緒に仕事ができる以上の幸せがありますか」

がっかりする柳次郎に幾代はこのように言いきかせるのです。「母と一緒に仕事ができる、、、」 なんと凜とした仕草でしょうか。

御家人の身分は御家人株と呼ばれるように、家格によって与えられた役ごとに相場がありました。幾代は品川家を存続させようとします。やがて磐音や彼の師匠である佐々木玲圓の剣友、速水左近らの努力で品川家の惣領に柳次郎が決まります。近くに学問所勤番組頭である椎葉家の長女、お有がいます。柳次郎とは幼なじみの仲でした。磐音は、気さくで率直な性格、そして大の母親想いの柳次郎に剣術を教えながら、やがてこの二人の仲をとりもつのです。

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女性の生き方 居眠り磐音 江戸双紙 その八 由蔵の嘆き

iwane_kirie o0480064012364289734 7a545c24時代小説「居眠り磐音 江戸双紙」の登場人物の会話に、励ましや諭し、赦しや癒しとなる言葉が見られます。それを取り上げながら、人情の機微や綾などを考えています。坂崎磐音は当代、随一の剣術家ですが、「過激さの持つ剣は瞬間的で一時的なもの、人間は心身ともに癒しの要素を持つものを本質的には受け入れる」のだといいます。そして、剣術の鍛錬に求められるのは安らぎと平穏であることを弟子達に教えます。

両替商行司今津屋の大番頭、由蔵はいつも穏やかなのですが、ときに磐音に呆れることがあります。自分が紹介した湯屋での仕事で磐音に損をさせてしまうのです。探索のために磐音は自分の持ち金二両を使います。そして僅かの報酬を貰います。今津屋支配人、林蔵も対して「坂崎さんを他人に紹介するものでない、あれではなんのための紹介だったか、、」と呟くのです。

由蔵 「一両四百文をもらって得々とするのが、どこの世界にいるというのです。商人はそれでは一日で干上がります。」
磐音 「さあ、、さほどのことをしていませんから、、」
由蔵 「呆れた、これには呆れた、」

林蔵 「いかにも坂崎さんらしいではありませんか」
由蔵 「なにを言っているんですか、笑い事ではありませんよ!」

磐音に、由蔵はあとで湯屋へ出掛け、磐音の働きとして五両を貰ってくるのです。由蔵は磐音の他人のために汗をかく損な性分に呆れながらも、情に厚く頼まれると断れない気質にほだされ、おこんと同じようにその人柄と人望に信頼をおいていきます。

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